新しい曲、アルバムを探すときに困ったから、メモ。
いらない曲は思い切ってデリートしていってもいいかもしれない。
何となく、その日の気分とか、その時期とかで、良いと思うかどうかが分かれたりするから、中々消せないんだけど、下に書いたアーティストは、10年~5年前ぐらいから聞いていて、今聞いても、6割以上の確率でいいな、と思うから、今後も取っておいていいと思う。逆にここに上がらなかったのは、今後、整理の対象かな。
スティービーワンダーとか、好き、なんだけど、なんか、聴くタイミングあんまりないんだよな。思い切って消していいのかもしれない。
最近、どこかで見つけた、
「bring me the horizon」というアーティストは、アルバム借りて聴いてみたいと思った。
エヴァネッセンスという女性ロックアーティストが、ナイトウィッシュの雰囲気に近くて、いいなと思った。スピード感が違うんだけどね。
ナイトウィッシュと、ディープフォレストは、他に追随するジャンルの作品を知らない。
と、思ったら、deep forest は、今年2016年7月15日に、新しいアルバムを出しているじゃないか。
ディープ・フォレスト 『Evo Devo』
早速、購入。
と思ったら、ナイトウィッシュも、2015年に新作のアルバム出してたのか。
エンドレス・フォームズ・モスト・ビューティフル
早速購入。
しかも、アマゾンの、MP3マーケットで、速攻で購入できた。クレジットカードって、怖いね、家にいて、すぐ買えてしまう。まぁ、全然お金を使う暇もないから、これぐらいいいだろう。
いらない曲は思い切ってデリートしていってもいいかもしれない。
何となく、その日の気分とか、その時期とかで、良いと思うかどうかが分かれたりするから、中々消せないんだけど、下に書いたアーティストは、10年~5年前ぐらいから聞いていて、今聞いても、6割以上の確率でいいな、と思うから、今後も取っておいていいと思う。逆にここに上がらなかったのは、今後、整理の対象かな。
スティービーワンダーとか、好き、なんだけど、なんか、聴くタイミングあんまりないんだよな。思い切って消していいのかもしれない。
最近、どこかで見つけた、
「bring me the horizon」というアーティストは、アルバム借りて聴いてみたいと思った。
エヴァネッセンスという女性ロックアーティストが、ナイトウィッシュの雰囲気に近くて、いいなと思った。スピード感が違うんだけどね。
ナイトウィッシュと、ディープフォレストは、他に追随するジャンルの作品を知らない。
と、思ったら、deep forest は、今年2016年7月15日に、新しいアルバムを出しているじゃないか。
ディープ・フォレスト 『Evo Devo』
早速、購入。
と思ったら、ナイトウィッシュも、2015年に新作のアルバム出してたのか。
エンドレス・フォームズ・モスト・ビューティフル
早速購入。
しかも、アマゾンの、MP3マーケットで、速攻で購入できた。クレジットカードって、怖いね、家にいて、すぐ買えてしまう。まぁ、全然お金を使う暇もないから、これぐらいいいだろう。
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新しく記事を書いていく作業、そして、一つずつ行動をし、積み重ねていく作業。
それに入る前に、いま必要なのは、過去のたくさんの記事の、すなわちそれは、自分の思考の整理だと思う。
思考ブログ、この仮のタイトルも、しっかりと定めて、続けていきたいと思う。
ポジティブ思考のもの、目標の大切さを説くもの、日常の嫌なもしくは楽しかった感覚と結び付けたもの。
抽象論と、具体論の場合がある。分けていけばきりがないようにも思える。
目的としては、何か問題が発生したときに、参考にできるような「体系」を作り出すこと。
基本的に、自分が、新しく言葉を紡ぐ必要がある事柄は、既にそれほど多くないと、傲慢にも思えるのである。
ただ、それがよく整理されておらず、自分の頭の中にもインプットされていないがために、結局、同じことを繰り返し書くことになるのだ。
何故なら、先日読んだ、社会悪を「復讐」という形で解決するというエンターテイメント、これは、洋画でも「パニッシャー」という映画で表現されている。必要悪とか、悪を裁く悪とか、ダークヒーローとか、表現は数多あるのだ。
それぞれが、違う前提、バックボーンをもっていたりするので、どれもが重要であるといえる。
低俗な例えをすれば、アダルトビデオの多種多様性……それはまた別か。
ただし、エンターテイメントとして、感情処理としては役に立ったとしても、これから、構築をするにあたっては、体系だった処方箋が必要となる。
これは泥臭いやり方だが、仕方がない。
そのうえで、キーワードをあげていく。それをグルーピングする方法。KJ法に似たものかもしれない。
「生きる意味」「肯定感」「潜在意識」「ポジティブ」「ネガティブ」「対人関係」「コミュニケーション」「苦悩」「苛々」「ロジック」「整理」「感情処理」「空(仏教)」「宗教」「科学」「記憶」「アイデンティティ」「ストレス」「小説」「エンターテイメント」「創作」「凡人」「仕事」「価値観」「ルーチン」「学習」「計画」「目標」「目的」「死」「理想自己」「幸せ」「自己実現」「真実」「永続性」「アウトプット」「インプット」
これぐらいで、だいぶ仕訳ができそうだ。問題は、忍者ブログは、カテゴリ変更が、仕様変更(2014年ごろ?)のため、一括でできなくなったようだということ。
外部出力してテキストで直すことも考えたが、そもそもインポート時に500KBしか取り込めないという制約もあり、なんとも使いづらい……。
いい方法がないものか。
ちょっと調べたけれども、やはり、一括変更はできなそうだ。となると、結構大変だな……。
まぁ、自分へのインプットも含めて、作業していくことにするか。
それに入る前に、いま必要なのは、過去のたくさんの記事の、すなわちそれは、自分の思考の整理だと思う。
思考ブログ、この仮のタイトルも、しっかりと定めて、続けていきたいと思う。
カテゴリの構築
思索、のカテゴリにおいても、それは分類できるものだと思う。ポジティブ思考のもの、目標の大切さを説くもの、日常の嫌なもしくは楽しかった感覚と結び付けたもの。
抽象論と、具体論の場合がある。分けていけばきりがないようにも思える。
目的としては、何か問題が発生したときに、参考にできるような「体系」を作り出すこと。
基本的に、自分が、新しく言葉を紡ぐ必要がある事柄は、既にそれほど多くないと、傲慢にも思えるのである。
ただ、それがよく整理されておらず、自分の頭の中にもインプットされていないがために、結局、同じことを繰り返し書くことになるのだ。
表現としての必要性
確かに、多種多様な表現が、そのまま重要であることはいうまでもない。何故なら、先日読んだ、社会悪を「復讐」という形で解決するというエンターテイメント、これは、洋画でも「パニッシャー」という映画で表現されている。必要悪とか、悪を裁く悪とか、ダークヒーローとか、表現は数多あるのだ。
それぞれが、違う前提、バックボーンをもっていたりするので、どれもが重要であるといえる。
低俗な例えをすれば、アダルトビデオの多種多様性……それはまた別か。
ただし、エンターテイメントとして、感情処理としては役に立ったとしても、これから、構築をするにあたっては、体系だった処方箋が必要となる。
カテゴリ分けの方法
まず、思いつくカテゴリをあげていく、と同時に、過去の記事を読んでいく。これは泥臭いやり方だが、仕方がない。
そのうえで、キーワードをあげていく。それをグルーピングする方法。KJ法に似たものかもしれない。
「生きる意味」「肯定感」「潜在意識」「ポジティブ」「ネガティブ」「対人関係」「コミュニケーション」「苦悩」「苛々」「ロジック」「整理」「感情処理」「空(仏教)」「宗教」「科学」「記憶」「アイデンティティ」「ストレス」「小説」「エンターテイメント」「創作」「凡人」「仕事」「価値観」「ルーチン」「学習」「計画」「目標」「目的」「死」「理想自己」「幸せ」「自己実現」「真実」「永続性」「アウトプット」「インプット」
これぐらいで、だいぶ仕訳ができそうだ。問題は、忍者ブログは、カテゴリ変更が、仕様変更(2014年ごろ?)のため、一括でできなくなったようだということ。
外部出力してテキストで直すことも考えたが、そもそもインポート時に500KBしか取り込めないという制約もあり、なんとも使いづらい……。
いい方法がないものか。
ちょっと調べたけれども、やはり、一括変更はできなそうだ。となると、結構大変だな……。
まぁ、自分へのインプットも含めて、作業していくことにするか。
まず、何から書いていけばよいのか。と書くと、まるで徒然草の書き出しのようだ。
まずは、自分のことを書くべきなのか。
それとも、このブログの意味と目標、目的といったものを書けばいいのか。
(c) .foto project
ブログとして、公開するべきなのか、非公開とするべきなのか。
何事も、はじめが肝心、とはいえ、あまり厳密な定義にこだわっていて、先に進めないのもナンセンスである。
こういったときは、まず、事実を明らかにするべきなのと、心の底からあふれる言葉を、なんら飾らないで、書き出してみるべきである。
まずは、自分のことを書くべきなのか。
それとも、このブログの意味と目標、目的といったものを書けばいいのか。
(c) .foto project
ブログとして、公開するべきなのか、非公開とするべきなのか。
何事も、はじめが肝心、とはいえ、あまり厳密な定義にこだわっていて、先に進めないのもナンセンスである。
こういったときは、まず、事実を明らかにするべきなのと、心の底からあふれる言葉を、なんら飾らないで、書き出してみるべきである。
部屋の整理を実施
部屋が混沌としているため、整理を実施、10%ぐらいは片付いた。もっとがばがばと、捨てていきたいけれども、必要な物が多い。探していた仕事の資料などがでてきて、ファイリングしたり、と。
時間がいくらあってもたりないんだよな、こういう作業。
十年ほど前に、思い切って、すべて捨てたことがある。すべてといっても、生活雑貨まで捨てたというわけではないが、思い出の品とか、教科書とか、懐古系のものをすべて処分した。
なので、幼いころにもらった賞状とか、メダル、写真といった類は、何もない。
捨てた結果困ったのか?
幼いころの思い出の品をすべて捨て去った、それによって、何か困ったのかというと、正直、何も困っていない、ということになる。それで良かったのか、という問いに対し、何と答えるかは、感情的にその都度変わる気がする。
記憶とは面白いもので、やはり、「モノ」を手に取ると、浮かび上がってくることがある。
きっと、そのモノがなければ、永遠に思い出すことがないのではないか、と思う。
では、その思い出が、生きていくために必要か、その点をドライに問うならば、きっと必要ない、ということになって、問題ないということだ。
人は記憶によって成っている
アイデンティティというものを考えたとき、それは、ある場面における行動で示される場合もあるけれど、結局それというのは、経験とか感情とかそういったことをひっくるめて、「記憶」といって理解しても差し支えない。例えば、記憶喪失の人が発生したとして、その人を「○○さん!」と呼び悲しむ行為において、それは、その周りの人の「記憶」によって記憶喪失の人は「生かされている」のである。
その記憶喪失の当人としては、もはや、「○○さん」としてのアイデンティティは失われている。それは、人格としての死といえる。
思い出を捨てるという事は人格を捨てることになる
すなわち、過去の記憶を思い出すきっかけを捨てるという事は、自分自身の人格を捨てていくという、ある種の自傷行為ともいえる。だから、恒常的にモノが捨てられない人が発生する(片づけスペシャリストさんたちに何と言われるかは分からない、私が今思いついただけのこと)。
仕事の資料はまた別の話し
ただ、仕事に使う資料を捨てるというのは、また別の話しではないかということになる。いやいや、そもそも「仕事の資料」を捨てていいというわけはない。ここでの資料とは、いわゆる、自分で作ったり集めた、「マニュアル」というとちょっと大げさだけれども、まとめみたいなものだ。それが今の、今後の業務に対して役に立つかどうかという点、その点が重要な捨てるポイントなわけだ。
仕事論になりそう、追記に書きます。