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頭の整理をするために書くことも必要では
2016/11/27 17:00 | Comments(0) | 整理用

新しいカテゴリ

 何とか、金曜日、土曜日あたりの問題というか事象というかイベントというかは、解決した。
「解決した」という表現を使うと、どうにも違和感がはしるのは、これから先の仕事や生活において、何らかの影響を及ぼす可能性は、未だ厖大にあるからである。そして今、「仕事や生活」という言葉を用いた時点で、「仕事も生活の一部じゃないの?」という疑問が生じる。いやはや、本当に、この頭は面倒にできている。いいから、今、直近1時間で行うべきことの整理でもして欲しいものだ。

身体の不調

 身体の状態を記載することは、「大丈夫ですか?」と誰かに心配してもらうためのものではない。いや、もちろん、その要素も少しはあるのだろう。ただ、言葉で「大丈夫ですか?」と言われたところで、それが何になるというのか。精神的なものであれば、そのアドバイスというものが何らかの解決の糸口になる可能性はあるだろうが、身体的な不調を、SNSであれ、ネットに書き込んだところで、誰かから心配の言葉をもらって、じゃあその心配してくれた人がおかゆでも作ってきてくれるというのだろうか? そんな関係は美しいかもしれないが、決して長続きしないだろう、いやもちろん、それが家族であれば別だが。そういった意味で、家族というのは、通常の対人関係とは別に捉えるべきだと思っている。同時に、家族との付き合い方においても、「他者」であることの意識は必要だと考えている。というのは、「親しき中にも礼儀あり」という意味においてだ。
 ちょっと待て、どんどん、余計なことが増えていく。そうじゃないだろ、この小見出しで書くべきことを思い返せ。
 ええと、その、身体が、具合悪いんです……。

 うん、分かった、で、それが何で書かなければいけないのだ?

 それは、後から読んだときに、どういった状態で書いたものか、ということが、非常に読解において有用だからです。

 その通りだ、それだけ書けばよかった。家族論なんて、それはぜひ、別のカテゴリを立てて書いてください。今は違うでしょ。
 はいはい。分かってますよ。

整理というカテゴリ

 本当は、この整理用のカテゴリは、ブログの書き方、方針の整理、という意味だったが、今は、頭の整理、ということで使っている。

 やるべきことが、やりたいことが多くなりすぎて、頭がフリーズ状態である。

 いや、それよりも、実際、最近、フル活動状態であり、あまり、落ち着いて書くことができていない。

 やっぱり、この、書くということをしていないと、非常に落ち着かなくなるのである。
 それは、経験したことの、反芻ができていないこと、復習ができていないことによる。

 目まぐるしく過ぎ去っていく時間、生活において、どうして僕たちは、様々なことを忘れ、ないがしろにし、わきにおいて、生きていくのだろう。

 僕はどこか、完璧に知りたいという願いをもっている。

 これは、僕が「呪い」と表現したことの一つでもあるが、これは対人関係でもマイナスに発生する。
 多くの人との交流は、その相手の理解が、表面的にならざるをえないことを意味する。
 僕は、くっついて離れてをくりかえすような、そんな希薄な関係に重きを考えられないし、一方で、固定的な関係、抜け出すことができない関係(例えば学校や会社などの組織)というのにも、違和感を甚だ覚えるものである。

 逆に、だからこそ、他者の分析、というと上から目線だしキモチワルイ表現になってしまうが、これは多くの人が無意識にやっていることであって、「あいつはああいう奴だからなぁ」とか、「あの子のキャラあれだからね」とか、言っていることの抽象表現である。

集団の同調性

 いわゆる、そうだな、イベント的なもの、パーティー的なものに参加して、わいわいがやがや「楽しんで」きた。
 いや実際、思った以上に「楽しかった」のである。このカッコつきの楽しさというのは、決して、僕の実感と乖離するものではなく、事実、「本気で盛り上がり」「笑い」「面白い世界があるなぁ」と思ったのである。

 そして、そこで感じる、他者との「溝」。

 いやもちろん、だ。50人~100人ぐらいの集団において、僕のような、こういった思考ブログを書いている人がいないなんてことを言っているのではない。

 しかし、そうした、「集団」における「テンション」「雰囲気」「方向性」「とるべき態度」というのは、驚くほど固定化しているものである。

 僕が、以前書いた10年ぐらい前の記事において、秀逸な分析だと自画自賛するのが、ある飲み会において、それが終わった後、「ああ、今日は、皆をいじれた(みんなと会話できた程度の意)」と言っていたことに感銘を受けた、という記事である。
 僕は、その人に出会うまでは(残念ながら、その人が誰だったか、全く覚えていない。ただ、その人の取った行為は僕に非常に重要な知見を与えてくれて、それは今でも残っている。ここに、僕が敢えて、具体的なイベントというものを明確に書かない理由でもある。つまり、個人とか、実際何をやったかとかそういったものは、初めて読む人にとって、共感を得るものにはなりえないし、それは自分自身に対しても同じで、数年後読んだとき、「ああ、そんなこともあったね」とは思うかもしれないが、そこに重要な情報はもはや一切読み取れなくなるのである)

 ええと、つまり、なんだ、飲み会とかそういったものにおいて、僕が感じる他者との距離感というものを、あまり意識する必要はないのだ。それは、他者も同時に感じているだろうもので、だからこそ、集団の同調性「テンション」をひたすら追い求めるしかないのだ。

面白い人とは何か?

 集団において場を盛り上げる人というのは、いわゆるリア充と呼ばれる。
 それは、「ピエロ」なのかもしれないが、多くは、周りも楽しいし、自分も楽しい状態である。

 集団で行うスポーツというのも、そういうものかもしれない。
 もっというと、「仕事」というものも、集団スポーツの一種かもしれない。

 ああ、僕が思ったことのメモ、重要なメモは、結局、みんな、「楽しそう」であるということだ。

 恐らく、そのパーティー、イベントに参加していた彼、彼女たちは、こういった思考ブログなんてものを書かない。

 書く必要がないのだ。
 日々の生活において、たくさんの人たちに囲まれて、会話して、一緒に何かやって、家に帰っても、スマホアプリのラインとか、SNS特にフェイスブックのような実名の奴でつながりをもっていれば、「この先訪れるであろう破局」に対しての意識が向くことは無い。

 それは、そのことを実感し、敢えてそうした「忙しい生活」に身を興じている場合もあれば、完全、全く気付いていない場合もあるだろう。


 僕が、何故こんなことを書いているのか。

 これは、ある種、驚きのメモ、インプットとアウトプットの両面であるのだ。


 人に、多くの人にとって、「思考」というものは、あくまでも「ポジティブ」に、「前向きに何か成果を出す」ための、手段でしかないという、その切実な実感を、感じざるをえなかった体験、それに対してのメモだ。

過去との比較

 その、集団における他者、から感じる「乖離」ズレというものについて、僕は今まで一度も気づいていなかったか。そんなことはなくて、むしろ、それの繰り返しがずっと続いてきた。若いころは若いころ程、その傾向が強くあって、重いものであった。

 今、いわゆる「大人」といわれる状態になり、自由に使えるお金もある状態になったことで、「時間としての自由」を得ることができた。

 その中で、じゃあ果たしてその集団に属するということはどういうことか、というイベントへの参加であったわけだが、やっぱり、これは中々、大変なものなのだなぁと、思ったわけである。

 繰り返し強調しておくべきは、それが、「楽しくなかった」ということでは一切無い。
 若いころのそのイベントとか、例えば部活動とかそういったものにおいては、ぶっちゃけ楽しくなんてなかった。つらかった。面倒だった。いやだった。でも、続けなければならなかった。
 偉い人や、老年な人たちが好きな言葉を使えば、「修羅場」をずっと経験していたわけだ。(僕自身は修羅場なんて別に思えない。もっと大変な人はいっぱいいる。で、その老年の人たちの経験は、確かに、もっと大変な、命の危険があるものだったりもするし、胸倉掴まれてドヤされたとか、まぁそんなの嫌だなぁと思うぐらいのものが沢山ある。だが、それがどうした?)

 ……ふむ、過去の経験や、体験を持ち出して、僕が悲劇の主人公を気取りたいわけでもない。

 むしろ、こういった表現は、一切合切、誰にも、共感など与えないものであるばかりか、不愉快な思いを生じさせるマイナス要素だ。
 そう、人は皆、「ポジティブなもの」にしか興味を抱かないのだ。まぁそしてそれは、生存方策として間違っていない。仕事においても、社内で上手くやっている先輩をみつけて、その人についてやっていった方が得をするにきまっている。どこの誰が、窓際族の人と仲良くしようと思うのか。思うまい。俺もそうするだろう。
 で、その、窓際族に近いような、いわゆる「愚痴」というのが、その「過去を持ち出すこと」なのであって、この小見出しにおける表現は、危険極まりのないものである。


 そんな、核兵器みたいなものを、歳がいなく10分もかけて書いてしまい、挙句の果てに公開してしまうというのは、これと同じようなことを、今までも書き続けているにも関わらず、未だに訪問してくれる方々がいる、という、その方々に支えられているものである。


 これが、リアルの関係とネットの関係と、どっちが重いものかね、という問題提起自体がクソ役にも立たないズレた視点でアホだ、と僕が書く理由となる。

ここまでが前置き

 あー、上に書いたこととか、別に大したことではない。
 じゃあ消せよ、ということになるが、多分、いや、これがあるからこそ、次に書いていくことに意味が生じる。(厳密には、別になくても意味は変わらないが、後から読んだときに、その文脈が無いとよく分からなくなるだろう。先ほど書いた通り、今時点の体調状態が理解に非常に密接に関係する)


 まず、だ。
 運営しているサイトにおいてバグ、障害が発生した。
 体の具合が悪いときに、マジかよ、と思った。最近、この「マジかよ」という感覚を、他の雅な言葉で置き換えられないか、と調べたことがある。しかし、見つからなかった。「本気ですか?!」なんか違う。でも、「マジか」って何なんだろう、よく分からない。

 実感言語ってある。
「あえかなる」という言葉が好きで、結構文章などでは使ってしまうんだけど、それって、何? となると、まぁ、はかなげで美しいさま、と辞書的な意味であるけれど、はかなげって何? とか、分析をしていくと、そこに感情が消えてしまうのである。

 このテーマは、きっと、言語学とか、国語の研究などで突き詰められている気がする。今度そういった本も探してみよう。ああ、そういう意味で、「レトリック感覚」という文庫は結構面白かった気がする。残念ながら内容は全く思い出せない。後でまた読んで見るか……ああ、そうそう、こうやって、どんどんやろう、ということが膨れ上がって、現在、収拾がつかないのだ。

・サイト障害の復旧
・買い物(日常雑貨、食料)
・パートナーの洗車
・昼食(そうだ、朝から何も食べてなかった、どうしよう)
・帰省の準備
・小説書きたい
・サピエンス全史の読み進め
・ルーチン
・洗濯、掃除
・仕事の準備
・クレジットカードの住所変更
・最近の経験の分析とブログを書くこと

 そのどれもが、やらなきゃいけないこと、やったほうがいいこと、やろうと思うこと、なのだけれど、別に今すぐやらなくてもいいことだったり、やらなくてもよい可能性もあることだったり、でもいずれはやらなくちゃいけなくて降りかかってくることだったり……。

 パニック。


 あー、面倒やなぁ。
 となり、ぼーっと、何もせずに、「ピコ太郎」という方の経歴とか動画をみていた。(おい!)

 ネタとして、どうだろう、曲のノリとかも悪くないし、面白いんじゃあないかなぁと思うけれども、果たして、何故こんな全世界的なブームになったのか、そもそもピコ太郎さんとは何者か、と気になってしまったのだ。今テレビが無いので、それこそ、そういったイベントにおいて、話しについていくのが大変である。
 そういう意味で、ピコ太郎さんの動画を見ていた時間も、無駄ではなかったと思う。思うのだけれども、いや、お前、それよりすることあるだろうが! というわけである。

 いやぁ、しかし、昨日は体調悪い中、2時間~3時間ぐらい障害対応で色々作業していたし、許して欲しいところだ(誰に? 利用者さんもだが自分にも)。

ネットで時間を費やすことと日常生活を送ること

 そして、更に、書いておくべきは、
 確かに、動画見て時間をつぶすのは、「時間がない!」と叫ぶことの理由だが、いやそもそも、普通に人生を送る、日常生活を過ごす、こういった中において、僕は、「時間が過ぎていく」ことの無常さを思うのだ。

 意味。

 僕らの行動に、意味がないものなんてない。
 惰眠をむさぼり、昼まで寝てしまった。いいじゃないか。頭はぼけっとしてしまったかもしれないが、睡眠欲を満たすことができたのだ。無為に時間を過ごすのだった悪くないだろう。

 だが、ますます加速していく情報社会において、そして、ますます短くなっていく僕らの人生(余命)において、「この時間の使い方は正しかったのか?」という疑念は、日に日に僕は大きくなっている気がしてならない。

 幸いにして、このブログを書いている時間は、有意義性が、自分の中でも認められている。
 書いている内容は、くだらないことかもしれないが、その「くだらなさ」が逆に、意味をもっていることに、意味を認められる状態となっているのだ。

 そしてそもそも、今日雨なんだよね。よし、出かけるのやめよう。

 この決断をするのに3時間ぐらいかかったぞ! おい! アホか!

このまま少し計画を立てよう

 あー、ええと、こっから、更に、最後まで読んでくださっている方がいつも何人いるのか不明だけれども、更にさらに、どうでもよい感が強まっていくので、もう読み飛ばして「読了」ボタン押して頂いて全然かまわないッス。(いや逆に、読了ボタンを押すことを強要している! 無言の圧力、ステルスマーケット、あの映画とか、一瞬だけ商品の映像をみせて観客に刷り込みをさせるとか、あれはなんというのだったっけかかな……思い出せないが、そういったあくどい感じがプンプンするぜ!)


 もう、だからね、そもそも、平日、来週も、恐らく、帰宅が遅くなりそうで、恐らく、この、こうやってダラダラ、でもないけれども、インプットとかアウトプットできる時間は、非常に貴重なのだから、今後の、予定を少し考えておこう。

1.12/3(土)、12/4(日)

2.12/10、12/11

3.12/17、12/18

4.12/24、12/25

5.12/31、1/1


 そう。もう、土日ベースで行くと、5回しかタイミングがない。
 そして、5は、特にもう年が明けてしまうため、ノーカンだ。すると、4回しかない。
 でもって、2は、確定の用事がはいっている。

 すると、3回しか、自由時間がない。

 えー。早いなぁ。2016年もグッバイですか。皆さんは今年一年振り返ってみてどうでした?
 私は、非常に、激動の年だったと思います。2008年2009年、2013年あたりと、2016年が結構大きな変化でしたねぇ。
 一言で、何か学んだことはあるかと言われたら、まぁ、人って結構なんとかなるものだ、ということかもしれませんね。
 なんとか、というのが、「ただ生きる」ということであれば、非常に住みやすい、生きやすい世の中になったと思います。7万年前のサピエンス登場あたりから比べて。というか、認知革命についての概念は覚えたけれども、そもそも、何でそれが7万年前だって、分かったんだっけ? 本に書いてあったけれども忘れてしまったのか、そこは不問なのかちょっと思い出せんな……、もう一度読み返してみるか……とかやっていたら、いつまでたっても紀元前から抜け出せん。

 その、人類の歴史だって、いったい何のために知ろうとしているのか、ってことを、常に思ってしまうわけで、その「無気力の魔物」と、いつも戦っていなければならないのは、とてもつらいことであり、死んでしまった方が楽なんじゃないか、という堕落した思考にも発展しがちであるのは、困ったものです。
 これは、「死にたい」という、リストカッターや自殺念慮ではなく、「論理的に」「現実的に」死ぬことが正しいのでは、と思う感覚なのです。
 何だか、このフィルターが入ると、リア充たちの楽しそうな喧騒が、それほど嫌な気持ちにはならないのです。(そもそも、リア充って何ぞや。趣味もあるし、恋人もいたし、結婚もしたし、友人たちもいる。その状態であっても、僕のこのフィルターはなくならなかった。これは何故だ?)
 今、こうして書いていることは、かなり、僕がやりたいことに近いものなので、それほど「違和感」というものがありません。何だか、日常生活的なことを書いていると、「生きる意味を徹底して考える」というタイトルからかけ離れていく気がしますが、それは違います。
 むしろ、日常生活が有るが故に、その「生きる意味」というのに重みが増して、重要性が高まっていくのです。

 これは、ある種、批判になってしまいそうですが、ニートの人たちにおいても、生きる意味は同じく重要でしょうが、「ニート」という状態であったときに、本当の意味で、「生きる意味」を考えることはできません。
 というのは、解決すべき目標や目的というものが、眼前として生じているからです。(ここでいうニートは、働いていないという意味ではなく、自立するためのお金を稼いでいないという意味に近いものです)

 前にも書きましたが、恋人がいない、という人、例えば、「彼女ができない。その一点だけで人生崩壊」という表現をされていた方がいましたが、それは、生存規定を脅かす、生きる意味がなくなる、絶望を与えるという意味で、重要な事態であることに疑いはありませんが、しかしながら、「恋人をつくる」という眼前と生じる課題が残されたままなのです。

いつか終わる夢

 本当に始まる絶望は、まさに、「現実世界で全て満たされたとき」から始まるといっていいでしょう。

 友人ができない人は、友達ができたら、とてもとても、嬉しいことでしょう。幸せなことでしょう。
 しかし、そこで人生は終わりではない。ゲームオーバーになっても、人生は続くのです。(唯一、身体的な死が訪れるまでは)

 友達ができたら、じゃあ、次は何でしょう? 何を求めるのでしょうか?
 分かりやすいのが、お金です。お金があると、たくさん、いろんなことができます。好きなことができます。女も買えるし、時間も買えます。
 じゃあ、お金が手に入りました。次はなんでしょう? 何を求めますか?

 繰り返し、投資を行って、資本を蓄えていくことが重要だ、とする方もいらっしゃいます。
 事実、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神、において、マックスウェーバーさんが、まさに富を蓄えることが、神からの祝福の証であるという「信仰」によって、ますます資本が形成されていったことが、資本主義の成立であると述べられております。

 
 本当は、今、日本も世界も、資本主義社会なので、その波に乗れたらいいのです。
 いわゆる、リア充の方々も、そういった、「お金」とか「異性」とかに興味をもたれております。
 しかし、僕は、どうも、「?」となるようなのです。これが、「乖離」という表現の正体だと、最近改めて思いました。

 この感覚は、おこがましいながら、シッダールタさんが、29歳(仏陀が出家した年齢)、または35歳(悟りを啓く歳)ぐらいまで考えられていた、感じられていたことと同じだとおもっています。
 ので、まぁ、別に僕だけが特殊だとも思いませんし、現代に始まったことでもないとも思いますが、しかし、それでもですね、これは結構、大変な問題でございます。

 ぐだぐだ言ってないで、只管打座だぜ?☆ というのも分かりますが、しかし、僧侶としての生き方が本当に正しい(ここでの正しいというのは、自分にとっての選択として)というのも自信がありません。在家信者の在り方について、原始仏教がどういった立場をとっていたのか、勉強不足で分かりませんが、頭を剃って、托鉢(ご飯をわけてもらう)人ばかりになったとき、果たして、人類社会は成り立つとは思えません。畑を耕す人がいるから、食糧が生産されるわけですので、人から分け与えてもらうだけで、社会は成立しません。
 僕はいわゆるオフィスワーカーなので、食糧は作ってませんが、資本主義における役割分業においては、遠い意味で、食糧生産であるといっていいと思っています(詐欺とか、人を貶める職業でなければ。いや、そういうのは職業とは言わないか)。

 だからこそ、悩むわけですね。

 そういった意味で、その、悩みを表現するということで、このブログは、ある程度、僕自身は認めているのです。逆に、今は、これ以外に有効な手立てがありません。日常生活での「頑張り」は、どうにも、精神をすり減らしていくように感じてしまいます。

 最近、記事にコメント頂いたり、作品をつくったりしていて、その作品にコメント頂いたりしたとき、とても嬉しかったのを覚えています。
 ああいう感覚を、もっと増やしていけたらなと思います。

 しかし、残念ながら、それらと、仕事とは、現在あまり結びついているようには思えません。

 やはり、仕事と趣味というのは、切り離されたものなのでしょうか?

 仕事の時間は、自分を押し殺して、苦しみに耐え続けて、家に帰ったら楽しくはっちゃける、という生き方が正しいのでしょうか?

 僕はそれも何だか違和感があります。

理想を抱くこと

 生きる、ということは、総体なのです。時間を、仕事とプライベートと、そう簡単に分けてしまっていいものでしょうか?
 人付き合いにおいても、「あわない人はいるし、嫌いな人もいるけど、仕事では付き合わなあかん」と、ある大物タレントさんが言っていたようですが、そんなんでいいんでしょうか? 嫌いな人も、あわないひともいる、ということを言い続けて、世界は一つになれるのでしょうか? 戦争はなくなるのでしょうか? 平和になるのでしょうか? 犯罪はなくなるのでしょうか?
 分かりませんが、何だか違和感です。ユートピア、幻想主義者のようですが、別に本気ではありません。ただ、理想としては、ずっと抱いておくべきではないでしょうか? fateのシロウくんの、その熱い思いに心をうたれたのは、どこかしら、皆が諦めている理想を、ずっと強く抱き続けていたからじゃないのでしょうか? そして、サーヴァント・アーチャーが言い放った、「理想を抱いて溺死しろ」という台詞が、これまた多くの人に感動を与えたのは、その理想によって身を砕かれるその辛さ、現実世界のままならなさを、多くの人が感じていながらも、しかし、どこか「理想」の希求があったからではないでしょうか。

書くこと

 頭の整理に、書くことは必要だと思います。

 今年ももう終わってしまいます。

 取りあえず、今年の残りの週は、物語を創ることと、サイトの復旧はもちろんですが、改装について尽力しようと思います。
 3回、おそらく、まるまる時間は取れなそうですが、中途半端な時間が生じたら、もう、こうした整理用の記事を書かなくてもいいように、その物語に対して、全力投球しようと思います。

 ええと、しかし、昼食、どうしよう。もう夜になったのだけれど、……。

 いいや、少し、雨も降るようだが、外の風にあたろう。


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