今日の一言「価値あるものを生み出したい」「結局金だよみたいな言説に異を唱えたい」
「この物語は恐らく、需要はない。ただ、この物語を紡げるのは、人類史上私だけだろう。だから書かねばならないのだ」
と言った。
ある人は、
「私の人生の意味は、誰かに、私の生きた証を残すことです。会話であれ、作品であれ、世界に自分の記憶を残すことです」
と言った。
賢者の言に思う。
私はこれまで、何か「できること」、「人より優れていること」がなければ、生きている意味などないのだと、そう思ってきた。いや、思わされていた、のか。そういう環境に置かれていた。ただ、むしろ、自分の中では、否定し続けていたのかもしれない。それが、離人症的、解離的、分裂的な気持ちを生じさせていた原因と考えるのは、自然なことに思われる。
サイコパスの劇場版を見終わった。話しとしての進展などは感じられなかったが、一つの作品として面白かった。シビュラシステムの目指す世界と、ツネモリさんの考える正義との相反性がよりわかりやすくなった気がする。
恐らく、そうした作品でも現れているが、「何かを成すこと」「功利主義的な面」についての言説は、これからも多く触れざるをえないものだろう。「そういう環境」と上に書いたが、どこもかしこもそういうもんなのかもしれない。
いやむしろ、この点……つまり、「責任」や「業績」といった観点においては、何かを成就することというのは、決して否定されるものではないという点、それが、(価値とか、意味とかについての)問題を複雑で、分かりづらく、実感から遠いものにしているようだ。
この記事は、朝によるもので、物理時間が限られているため、以下、フランクルさんの説明のメモを抜き出して終わりとしよう。
それは、仕事、ということで、生み出されるものである。脳神経細胞の3つの本能のうち、知りたいという好奇心と、仲間になりたいという貢献心によって、「仕事」とか「会社」とか「組織」が生まれた。僕たちはみんな、仕事が面倒で、億劫で、休みが欲しいと年から年中言っているけれども、本当は、仕事というのは、本来、自ずからの欲求を満たしてくれる行為であったのだ。
ところが、専門分化した社会において、仕事そのものの価値(ここでは、社会とか組織への価値ではなく、自分自身・個人への価値のこと)というものは薄れてしまった。
どんなに働いても、誰かのためになっている、という貢献心が満たされるとは限らなくなった。しかしそれでも、しばらくのうちは、「家族」とか、親しい関係者に対して、会社という戦場で戦い、敵を倒し(=お金を稼ぎ)、家族を養っていくことで、貢献心が満たされていた時代もあった。
しかし、それも価値が希薄化していく。家庭の中での父親像は崩壊し、女性の社会進出は進み、核家族化が進み、家族という紐帯の意味が薄れていった。
(注意:上の社会論・時代論はテキトウである)
それでもなお、やはり広義の「仕事」というのは、意味を与えてくれるものである。
本記事と関係ないし、時系列もバラバラだが、最近、2012年のアニメーション作品、「ももへの手紙」をみた。まぁ、まぁ、面白かった。しかし、感動するほどではなかった。山寺さんや西田さんが妖怪役で出演していた。作画もよかったし、声優さんたちの演技もよかったと思う。
そうだなぁ、けれども惜しい、と思った点は、やはりストーリーについてだろうか。そのポイントになる妖怪が、物語の主軸に絡んできていないことだろうか。結局、描きたいだろうテーマと、「妖怪」であるべき理由が見いだせなかった。妖怪たちと「お父さん」との関係性も希薄だった。いや普通一般的な理由は色々あって、描写もされているのだ、けれども、何か「惜しい」と思ってしまった。あと、作画も綺麗だけれども、これだけでいうと、「君の名は。」の映像がやっぱり綺麗だった。でもきっと、テレビでやってたら、ダラダラと見ちゃうだろう。そんな感じ。
それでも、意味は失われないのだと、ヴィクトールさんは仰る。
しかし、この態度価値の説明は、薄かったので、上手く理解できなかった。というか、あまり説明がなされていなかった。この態度価値、非常に重要な概念と思うけれども、よく分からない、残念だ。
追記、しかし、その「態度価値」の説明について、むしろこの本全体で述べられているように思われる。
えー、でも、それってどうなの? と思う部分も増えてきている。ただ、ここで立ち止まるのではなく、当初の目標どおり、最後まで、2月中に読み進めることとしたい。
といったところで、自己エクスキューズだが、時間切れだ!! この三つの価値についてはおいおい深めていかねばなるまい。
あーでも、このまま終わるってどうなん? 何か面白いこと、書かなきゃまずいんじゃん?
せっかく読んでくれた人に、上に書いた映画の感想みたいに、「あー、なんか、時間の無駄、とまでは言わないけど、微妙だったな」みたいに思われちゃうんじゃん? それでいいんかい?
ええい、うるさい、だまっとれ。いいんだ、書け。文章を書くというのはなぁ、そんなたいそうな仕事じゃないんだよ。いや昔々は、紙が貴重だった時代や、硯に墨をすって竹に書いていた時代やもろもろは、偉くて優秀な人たちしか書いちゃダメだったろうよ。
今は電子で文字を書ける時代だぜ。「書く」ということに対してのコストが、非常に低くなっているのだ。しかも、WEB、インターネットというもので、特別な人でなくても、公に情報を発信できる世の中なのだ。
いやだからといって、ごみやチラウラみたいな文章を量産してよいということではないが、――【強制終了】
(就職とか面接とか、作文とかレポートとか、「自分の考え」をまとめる作業って、結局読み手に向けたものじゃん。(読解力を試す)そういう意味では簡単だよな。そうじゃなくて、実感を伴った文章を書くってのは、これは結構重い作業だと思う)
価値について
ある人は、「この物語は恐らく、需要はない。ただ、この物語を紡げるのは、人類史上私だけだろう。だから書かねばならないのだ」
と言った。
ある人は、
「私の人生の意味は、誰かに、私の生きた証を残すことです。会話であれ、作品であれ、世界に自分の記憶を残すことです」
と言った。
賢者の言に思う。
私はこれまで、何か「できること」、「人より優れていること」がなければ、生きている意味などないのだと、そう思ってきた。いや、思わされていた、のか。そういう環境に置かれていた。ただ、むしろ、自分の中では、否定し続けていたのかもしれない。それが、離人症的、解離的、分裂的な気持ちを生じさせていた原因と考えるのは、自然なことに思われる。
サイコパスの劇場版を見終わった。話しとしての進展などは感じられなかったが、一つの作品として面白かった。シビュラシステムの目指す世界と、ツネモリさんの考える正義との相反性がよりわかりやすくなった気がする。
恐らく、そうした作品でも現れているが、「何かを成すこと」「功利主義的な面」についての言説は、これからも多く触れざるをえないものだろう。「そういう環境」と上に書いたが、どこもかしこもそういうもんなのかもしれない。
いやむしろ、この点……つまり、「責任」や「業績」といった観点においては、何かを成就することというのは、決して否定されるものではないという点、それが、(価値とか、意味とかについての)問題を複雑で、分かりづらく、実感から遠いものにしているようだ。
この記事は、朝によるもので、物理時間が限られているため、以下、フランクルさんの説明のメモを抜き出して終わりとしよう。
創造価値
何かを、生み出すというのは尊いことだと思う。それは、仕事、ということで、生み出されるものである。脳神経細胞の3つの本能のうち、知りたいという好奇心と、仲間になりたいという貢献心によって、「仕事」とか「会社」とか「組織」が生まれた。僕たちはみんな、仕事が面倒で、億劫で、休みが欲しいと年から年中言っているけれども、本当は、仕事というのは、本来、自ずからの欲求を満たしてくれる行為であったのだ。
ところが、専門分化した社会において、仕事そのものの価値(ここでは、社会とか組織への価値ではなく、自分自身・個人への価値のこと)というものは薄れてしまった。
どんなに働いても、誰かのためになっている、という貢献心が満たされるとは限らなくなった。しかしそれでも、しばらくのうちは、「家族」とか、親しい関係者に対して、会社という戦場で戦い、敵を倒し(=お金を稼ぎ)、家族を養っていくことで、貢献心が満たされていた時代もあった。
しかし、それも価値が希薄化していく。家庭の中での父親像は崩壊し、女性の社会進出は進み、核家族化が進み、家族という紐帯の意味が薄れていった。
(注意:上の社会論・時代論はテキトウである)
それでもなお、やはり広義の「仕事」というのは、意味を与えてくれるものである。
体験価値
しかし、創造価値を充たせない場合もある。その場合は、自然の美しさに、芸術に感動する心に、心が本当に深く神韻縹緲に打ちひしがれるような体験をすること、それが価値となる場合がある。本記事と関係ないし、時系列もバラバラだが、最近、2012年のアニメーション作品、「ももへの手紙」をみた。まぁ、まぁ、面白かった。しかし、感動するほどではなかった。山寺さんや西田さんが妖怪役で出演していた。作画もよかったし、声優さんたちの演技もよかったと思う。
そうだなぁ、けれども惜しい、と思った点は、やはりストーリーについてだろうか。そのポイントになる妖怪が、物語の主軸に絡んできていないことだろうか。結局、描きたいだろうテーマと、「妖怪」であるべき理由が見いだせなかった。妖怪たちと「お父さん」との関係性も希薄だった。いや普通一般的な理由は色々あって、描写もされているのだ、けれども、何か「惜しい」と思ってしまった。あと、作画も綺麗だけれども、これだけでいうと、「君の名は。」の映像がやっぱり綺麗だった。でもきっと、テレビでやってたら、ダラダラと見ちゃうだろう。そんな感じ。
態度価値
さてしかし、創造価値も、体験価値も得られないような状況、人もいるだろう。例えば、末期がんの患者など。それでも、意味は失われないのだと、ヴィクトールさんは仰る。
しかし、この態度価値の説明は、薄かったので、上手く理解できなかった。というか、あまり説明がなされていなかった。この態度価値、非常に重要な概念と思うけれども、よく分からない、残念だ。
追記、しかし、その「態度価値」の説明について、むしろこの本全体で述べられているように思われる。
えー、でも、それってどうなの? と思う部分も増えてきている。ただ、ここで立ち止まるのではなく、当初の目標どおり、最後まで、2月中に読み進めることとしたい。
といったところで、自己エクスキューズだが、時間切れだ!! この三つの価値についてはおいおい深めていかねばなるまい。
あーでも、このまま終わるってどうなん? 何か面白いこと、書かなきゃまずいんじゃん?
せっかく読んでくれた人に、上に書いた映画の感想みたいに、「あー、なんか、時間の無駄、とまでは言わないけど、微妙だったな」みたいに思われちゃうんじゃん? それでいいんかい?
ええい、うるさい、だまっとれ。いいんだ、書け。文章を書くというのはなぁ、そんなたいそうな仕事じゃないんだよ。いや昔々は、紙が貴重だった時代や、硯に墨をすって竹に書いていた時代やもろもろは、偉くて優秀な人たちしか書いちゃダメだったろうよ。
今は電子で文字を書ける時代だぜ。「書く」ということに対してのコストが、非常に低くなっているのだ。しかも、WEB、インターネットというもので、特別な人でなくても、公に情報を発信できる世の中なのだ。
いやだからといって、ごみやチラウラみたいな文章を量産してよいということではないが、――【強制終了】
(就職とか面接とか、作文とかレポートとか、「自分の考え」をまとめる作業って、結局読み手に向けたものじゃん。(読解力を試す)そういう意味では簡単だよな。そうじゃなくて、実感を伴った文章を書くってのは、これは結構重い作業だと思う)
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コメント
価値って何だろうね。定義の仕方だけなんだろうか。
遠藤君は「本を読む人」だなぁって思う。「抽象論が好き」で、「結論を求めない」っていう感じ。
もっと本読んで抽象的な考えをこねくりまわして、結論が出ない議論の世界で楽しもうぜbb
なんかそっちのほうが楽しい気がしてきた。
遠藤君は「本を読む人」だなぁって思う。「抽象論が好き」で、「結論を求めない」っていう感じ。
もっと本読んで抽象的な考えをこねくりまわして、結論が出ない議論の世界で楽しもうぜbb
なんかそっちのほうが楽しい気がしてきた。
posted by QUWEat 2017/02/08 06:33 [ コメントを修正する ]
>バールさん
知的なキャラが強かったりすると、「えっそんな強かったの?!」とギャップ萌え(燃え)するのは何故なのか。
傭兵さんとのガチンコバトルは燃えました! ギノザさんは執行官になってから無茶苦茶鍛えたんですかね!
あ、でも、1期<劇場版<2期という時系列とすると確かに不思議ですね…
知的なキャラが強かったりすると、「えっそんな強かったの?!」とギャップ萌え(燃え)するのは何故なのか。
傭兵さんとのガチンコバトルは燃えました! ギノザさんは執行官になってから無茶苦茶鍛えたんですかね!
あ、でも、1期<劇場版<2期という時系列とすると確かに不思議ですね…
posted by 遠藤at 2017/02/11 08:20 [ コメントを修正する ]
>価値って何だろうね。定義の仕方だけなんだろうか。
QUWEさん、コメントありがとうございます!
先日のいつぞやの記事で書きましたが、「価値≒自己」なのでは、と考えております。価値、というか、価値観、ですかね。
価値とは、「意味あると認める対象(モノ・コト)」だと思います。辞書的には……「よいこと」「ものごとの役に立つ性質・程度」ということのようです。
ああ、そもそも、僕は「自己」という言葉を、信念と、価値観と、感情の総合(総体)という意味で使っています。
いやいや、そもそも「価値って何だよ?」という問いに対しては、それは「主観である」と思います。いや、先日の現象学に関しての似非記事を踏まえて書くと、主観も客観も重要ではない、ということになるので、単に「ひとそれぞれ」であるということと思います。
ええと、何でしょう、つまり、「価値」という用語について、特段定義をする必要性は無いと思います。というのは、「価値」とは、「いれもの」「容器」だと思うのです。(信念という語もまた同様。ただ、感情というのは、「状態」を指す語だと思うので、ちょっと性質が違うと思ってます)
すみません、考えながら書いているというか、書きながら考えているので、今、上に書いたことをまとめますと、
価値
という語を定義するとすれば、「自分がよいと思ったり、役に立つと思うことの判断基準」の総体、であると言えます。(お前の中ではな! という批判は頂きます(かっこわらい))
>遠藤君は「本を読む人」だなぁって思う。「抽象論が好き」で、「結論を求めない」っていう感じ。 もっと本読んで抽象的な考えをこねくりまわして、結論が出ない議論の世界で楽しもうぜbbなんかそっちのほうが楽しい気がしてきた。
ありがとうございます。批判的な意味な気もしましたが、素直な感情表現ですと、とても嬉しかったです。
まぁナニブン、理解力に乏しいので、それほど多くの本は読めていないのですが……。
抽象論が好き、というのは、確かにそうかもしれません。恐らく、ボトムアップというよりも、トップダウンの思考の方が好きなのでしょう。そういう意味で実験を繰り返してデータを蓄積していくという理系向きではないのかもしれません。プログラミングは結構好きですが、ただ、他人の書いたソースを読むのはあまり好きじゃないので、仕事としての適性はやっぱり無い気がします(笑)。
抽象、という言葉を使ってしまうと、なんだかモヤモヤして、ケムにまかれるという印象が強くなってしまいますが、僕はその語は、「結論」とか「テーマ」のことだと思うんですよね。
なので、「結論を求めない」というのは、ちょっと違うかなぁと思いました。いやいや、多分、ジョハリの窓的に、僕が自分で見えていないというか、認めたくない部分なのかもしれませんので、コメント非常にありがたいものでした。
ただ思ったのは、「抽象論が好き」というのと、「結論を求めない」というのは、同居できるとは限らないというわけでした。
なんでしょう、「結論」は求めたいんですよね。欲している。欲求、情動。ただ、「●●をして〇〇になった」「だから◎◎である」というのが、「結論」という感覚に、中々ならない、というのが問題な気がしています。
というのは、「所詮それは、・・の条件において成立した結果に過ぎない。それをもって必ずしも◎◎であるということが言えるわけではない」という感覚が生じるからかもしれません。
いやお前、それって単に、数学的思考能力が足りてないだけだろ、というのは全くその通りな気がしますが、何というか、その、分野が違うというか……思考とか、感情とか、思想とか、意味とか、価値とか信念とか、そういった分野において、本当のところは結論が欲しいのですが、どうにも実感が沸かない、ということなんだと、そんな気がしています。
(そんな気がしています、というのも、実際はそう感じていたのでしょうが、QUWEさんのコメントがなければ、多分このようにして外在することは無かったことでしょう。改めてコメント感謝いたします)
QUWEさん、コメントありがとうございます!
先日のいつぞやの記事で書きましたが、「価値≒自己」なのでは、と考えております。価値、というか、価値観、ですかね。
価値とは、「意味あると認める対象(モノ・コト)」だと思います。辞書的には……「よいこと」「ものごとの役に立つ性質・程度」ということのようです。
ああ、そもそも、僕は「自己」という言葉を、信念と、価値観と、感情の総合(総体)という意味で使っています。
いやいや、そもそも「価値って何だよ?」という問いに対しては、それは「主観である」と思います。いや、先日の現象学に関しての似非記事を踏まえて書くと、主観も客観も重要ではない、ということになるので、単に「ひとそれぞれ」であるということと思います。
ええと、何でしょう、つまり、「価値」という用語について、特段定義をする必要性は無いと思います。というのは、「価値」とは、「いれもの」「容器」だと思うのです。(信念という語もまた同様。ただ、感情というのは、「状態」を指す語だと思うので、ちょっと性質が違うと思ってます)
すみません、考えながら書いているというか、書きながら考えているので、今、上に書いたことをまとめますと、
価値
という語を定義するとすれば、「自分がよいと思ったり、役に立つと思うことの判断基準」の総体、であると言えます。(お前の中ではな! という批判は頂きます(かっこわらい))
>遠藤君は「本を読む人」だなぁって思う。「抽象論が好き」で、「結論を求めない」っていう感じ。 もっと本読んで抽象的な考えをこねくりまわして、結論が出ない議論の世界で楽しもうぜbbなんかそっちのほうが楽しい気がしてきた。
ありがとうございます。批判的な意味な気もしましたが、素直な感情表現ですと、とても嬉しかったです。
まぁナニブン、理解力に乏しいので、それほど多くの本は読めていないのですが……。
抽象論が好き、というのは、確かにそうかもしれません。恐らく、ボトムアップというよりも、トップダウンの思考の方が好きなのでしょう。そういう意味で実験を繰り返してデータを蓄積していくという理系向きではないのかもしれません。プログラミングは結構好きですが、ただ、他人の書いたソースを読むのはあまり好きじゃないので、仕事としての適性はやっぱり無い気がします(笑)。
抽象、という言葉を使ってしまうと、なんだかモヤモヤして、ケムにまかれるという印象が強くなってしまいますが、僕はその語は、「結論」とか「テーマ」のことだと思うんですよね。
なので、「結論を求めない」というのは、ちょっと違うかなぁと思いました。いやいや、多分、ジョハリの窓的に、僕が自分で見えていないというか、認めたくない部分なのかもしれませんので、コメント非常にありがたいものでした。
ただ思ったのは、「抽象論が好き」というのと、「結論を求めない」というのは、同居できるとは限らないというわけでした。
なんでしょう、「結論」は求めたいんですよね。欲している。欲求、情動。ただ、「●●をして〇〇になった」「だから◎◎である」というのが、「結論」という感覚に、中々ならない、というのが問題な気がしています。
というのは、「所詮それは、・・の条件において成立した結果に過ぎない。それをもって必ずしも◎◎であるということが言えるわけではない」という感覚が生じるからかもしれません。
いやお前、それって単に、数学的思考能力が足りてないだけだろ、というのは全くその通りな気がしますが、何というか、その、分野が違うというか……思考とか、感情とか、思想とか、意味とか、価値とか信念とか、そういった分野において、本当のところは結論が欲しいのですが、どうにも実感が沸かない、ということなんだと、そんな気がしています。
(そんな気がしています、というのも、実際はそう感じていたのでしょうが、QUWEさんのコメントがなければ、多分このようにして外在することは無かったことでしょう。改めてコメント感謝いたします)
posted by 遠藤at 2017/02/11 19:16 [ コメントを修正する ]
たしかに、「結論」という言葉で表すとおかしなはなしですね。多分私の「結論を出す」という言葉が持っている意味がちがうんだろうなぁとおもった。
あぁ、でも、なるほど、確かに結論は出してるんですね。よくわかりました。なんていうか、お互いの齟齬を埋められた気がきがしました。
ちなみに「結論をだす」ことはいいことだという意味では使ってないのよね。人には得意な事があるから、得意な事すきなことをやっていられれば素晴らしいと思う。だから、抽象的な世界を歩める人はそれだけで強みだと思うよ。
あぁ、でも、なるほど、確かに結論は出してるんですね。よくわかりました。なんていうか、お互いの齟齬を埋められた気がきがしました。
ちなみに「結論をだす」ことはいいことだという意味では使ってないのよね。人には得意な事があるから、得意な事すきなことをやっていられれば素晴らしいと思う。だから、抽象的な世界を歩める人はそれだけで強みだと思うよ。
posted by QUWEat 2017/02/12 22:02 [ コメントを修正する ]
QUWEさん再訪ありがとうございます!
ああ、よかった、嬉しいです……というのは、上の僕のコメントなのですが、ちょっと投稿すべきか悩んでたのですね。何というか、せっかくコメント頂いたのに、それに対して「いや、ちげーし!」みたいな印象で取られてしまわれないか、と、ドキドキしていたわけです。
というわけで、
>あぁ、でも、なるほど、確かに結論は出してるんですね。よくわかりました。なんていうか、お互いの齟齬を埋められた気がきがしました。
こういったご返信いただきホッとして嬉しかった、ということでありました。
>ちなみに「結論をだす」ことはいいことだという意味では使ってないのよね。人には得意な事があるから、得意な事すきなことをやっていられれば素晴らしいと思う。だから、抽象的な世界を歩める人はそれだけで強みだと思うよ。
これについても、非常に重要な気付きになりました。「結論を出す」ということを、僕の中で、かなり「絶対的に正しいこと」だと思っていた感覚があるのだと思いました。「成果主義」的な言葉が出てくるときは、何となくの倦厭が生まれますが、「結論を出す」という言葉の時は、何だか違和感がありつつ無条件に受け入れてしまっているような、そんな感覚だった気がします。ここら辺、仕事の時と頭を切り替えないとなぁ……。
そして、
>たしかに、「結論」という言葉で表すとおかしなはなしですね。多分私の「結論を出す」という言葉が持っている意味がちがうんだろうなぁとおもった。
QUWEさんの仰る「結論を出す」ということについての見解とその意味について、もう少しお聞きしたいと思いました! とにもかくにもありがとうございました。
ああ、よかった、嬉しいです……というのは、上の僕のコメントなのですが、ちょっと投稿すべきか悩んでたのですね。何というか、せっかくコメント頂いたのに、それに対して「いや、ちげーし!」みたいな印象で取られてしまわれないか、と、ドキドキしていたわけです。
というわけで、
>あぁ、でも、なるほど、確かに結論は出してるんですね。よくわかりました。なんていうか、お互いの齟齬を埋められた気がきがしました。
こういったご返信いただきホッとして嬉しかった、ということでありました。
>ちなみに「結論をだす」ことはいいことだという意味では使ってないのよね。人には得意な事があるから、得意な事すきなことをやっていられれば素晴らしいと思う。だから、抽象的な世界を歩める人はそれだけで強みだと思うよ。
これについても、非常に重要な気付きになりました。「結論を出す」ということを、僕の中で、かなり「絶対的に正しいこと」だと思っていた感覚があるのだと思いました。「成果主義」的な言葉が出てくるときは、何となくの倦厭が生まれますが、「結論を出す」という言葉の時は、何だか違和感がありつつ無条件に受け入れてしまっているような、そんな感覚だった気がします。ここら辺、仕事の時と頭を切り替えないとなぁ……。
そして、
>たしかに、「結論」という言葉で表すとおかしなはなしですね。多分私の「結論を出す」という言葉が持っている意味がちがうんだろうなぁとおもった。
QUWEさんの仰る「結論を出す」ということについての見解とその意味について、もう少しお聞きしたいと思いました! とにもかくにもありがとうございました。
posted by 遠藤at 2017/02/12 22:34 [ コメントを修正する ]
結論をだして、それに対してどうするか、どうするべきなのか、について言及するところまでを「結論を出す」と認識していました。
りんごは素晴らしい食べ物だ
(結論)
↓
私はりんごをたくさん栽培できる方法を探すよ
(私がこれまで認識していた結論)
りんごは素晴らしい食べ物だ
(結論)
↓
私はりんごをたくさん栽培できる方法を探すよ
(私がこれまで認識していた結論)
posted by QUWEat 2017/02/13 17:22 [ コメントを修正する ]
>ちなみに「結論をだす」ことはいいことだという意味では使ってないのよね。人には得意な事があるから、得意な事すきなことをやっていられれば素晴らしいと思う。
君は〇〇が得意なフレンズなんだね! すっごーい!
というのが脳内再生されました。やばい、ケモノフレンズに浸食されている。まぁ、ニコ動で1話しか見てないんですが。気を抜くと課金して続きを見てしまいそうで怖いです(笑)。
>結論を出す
なるほど。何らかの実践に繋がる結論と、単に事実事象を述べる・確定させるだけになる結論とがありそうです。
一次結論と二次結論とでも名付けられるでしょうか。
リンゴの例は非常に分かりやすいです。おかげで、二つ思ったことがあります。
一つは、「思考を止める結論」なるものがあるだろうということ。これは、「〇〇は▼▼という結論だから、もう考えなくてもよい」と思えるということです。ここまで広げると、最初の仮説(リンゴは素晴らしい食べ物か?)に解決を与えることで、何らかの具体的行動(リンゴを沢山栽培できる方法を探そう)というのが無くとも、最初の仮説を考えなくて済むという点で「結果的な行動」になっているという意味で、結論といえるのだろうと思います。
(⇒つまり、二次結論に至らなくても、一次結論がそのまま実践・実用に繋がる場合もあるということが上で書きたかったことです)
二つは、結論の「強度」の問題が浮かびました。
リンゴは素晴らしい食べ物だ、と結論を出したとして、その結論に対して疑問が生じることは、恐らく僕の中でも生じているのではないのだと、そう思います。
ただ、その結論が成り立つ条件について、次々疑念が生まれる可能性があるのだと思います。例えば、リンゴは確かに「大勢の人」にとって素晴らしい食べ物だ。しかし、リンゴが嫌いな人もいるという、ならば必ずしも素晴らしい食べ物ではないのではないか。また、日本人はリンゴを真っ赤に熟れたものを想像するが、西洋人は青りんごを想像するという。リンゴというイメージが異なるということは、リンゴという種の限定も必要なのではないか。
……なんて、別にリンゴについて疑問は無いのですが(笑)、多分(僕の中で)問題になるのが、ある「結論」が、結局のところ諸条件のうちに成り立っているものに過ぎないという、ある意味科学的態度によって、自分の中で「わかった」とか「なるほど!」とか中々思えず、結果として、二次結論(行動が伴ったもの)にまで発展しにくいのじゃないかなぁと、そんな風に思ったわけでした。
君は〇〇が得意なフレンズなんだね! すっごーい!
というのが脳内再生されました。やばい、ケモノフレンズに浸食されている。まぁ、ニコ動で1話しか見てないんですが。気を抜くと課金して続きを見てしまいそうで怖いです(笑)。
>結論を出す
なるほど。何らかの実践に繋がる結論と、単に事実事象を述べる・確定させるだけになる結論とがありそうです。
一次結論と二次結論とでも名付けられるでしょうか。
リンゴの例は非常に分かりやすいです。おかげで、二つ思ったことがあります。
一つは、「思考を止める結論」なるものがあるだろうということ。これは、「〇〇は▼▼という結論だから、もう考えなくてもよい」と思えるということです。ここまで広げると、最初の仮説(リンゴは素晴らしい食べ物か?)に解決を与えることで、何らかの具体的行動(リンゴを沢山栽培できる方法を探そう)というのが無くとも、最初の仮説を考えなくて済むという点で「結果的な行動」になっているという意味で、結論といえるのだろうと思います。
(⇒つまり、二次結論に至らなくても、一次結論がそのまま実践・実用に繋がる場合もあるということが上で書きたかったことです)
二つは、結論の「強度」の問題が浮かびました。
リンゴは素晴らしい食べ物だ、と結論を出したとして、その結論に対して疑問が生じることは、恐らく僕の中でも生じているのではないのだと、そう思います。
ただ、その結論が成り立つ条件について、次々疑念が生まれる可能性があるのだと思います。例えば、リンゴは確かに「大勢の人」にとって素晴らしい食べ物だ。しかし、リンゴが嫌いな人もいるという、ならば必ずしも素晴らしい食べ物ではないのではないか。また、日本人はリンゴを真っ赤に熟れたものを想像するが、西洋人は青りんごを想像するという。リンゴというイメージが異なるということは、リンゴという種の限定も必要なのではないか。
……なんて、別にリンゴについて疑問は無いのですが(笑)、多分(僕の中で)問題になるのが、ある「結論」が、結局のところ諸条件のうちに成り立っているものに過ぎないという、ある意味科学的態度によって、自分の中で「わかった」とか「なるほど!」とか中々思えず、結果として、二次結論(行動が伴ったもの)にまで発展しにくいのじゃないかなぁと、そんな風に思ったわけでした。
posted by 遠藤at 2017/02/26 08:24 [ コメントを修正する ]
二期の居るだけ感は何だったのか。