今日の一言「今の知識を恥ずかしげもなく公開」「中学生で分かるレベルを目指す」
最近始めた株についてだ。
6月の中旬ぐらいから始めて、先週までで、3万円ぐらいプラスになっている。しかし、目的も、投資理論もまったく脆弱なものであって、特に意味がある金額ではない。
そのため、ある程度は、自分の投資に根拠をもてるようになりたいと思う。マイナスになろうが、プラスになろうが、その根拠を自分の中で理解できるようになるということを目標にするわけだ。
そのために、まずは、株というものについて、自分の理解していることを、特に何も参照せずに整理していきたい。
さてしかし、新しいこと(概念)を覚えるということは、非常に難しい。
そんなことは当たり前だと言われるが、しかし、何故難しいのだろう?
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上の、無意味な数字の羅列は、新しいことであるが、覚えること自体はさほど難しくないだろう。
「鬱」という漢字も、覚えようとすれば、さほど時間を書けなくても覚えられるだろう。
しかし、「概念」となると別だ。
概念自体も、分解していけば、それぞれ、単一の知識に還元されるものであるが、単なる個々の集合知識ではないことに留意する必要がある。
社会とは、確かに人の集まりであるが、個々人の思惑とは違った結果を生み出すことがあることは、多くの人が頷くことであろう。卑近な例にすれば、一人一人は良い子なのに、集団になると悪さをするとか。
では、新しい概念を、どうしたら「覚えた!」「分かった!」ということになるのだろうか。
それは、トップダウンと、ボトムアップの両方の学習が必要になる。
例えば、「株とは、企業が、資本を集めるために用いる手段である」というのは抽象的な知識である。
しかし、抽象的な知識というのは、一見万能に役立つように思いきや、何の役に立たない場合もある。「人とは、霊長類で、サピエンス種である」と言ったところで、それが何だ? と。
重要なのは具体性だ。
証券会社に口座を開いて、普通銀行からお金を振り込んで、ある企業の株を注文すれば、それが「株」の知識である。インターネットが普及していなかった頃は、株券として、紙媒体で届いていたのだろうか。その場合、株券が、株のことである。
人の脳神経細胞の本能とは、「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」というものであるが、この観点からいくと、「覚えた」「分かった」ということは、僕らにとって「快」であるはずなのだ。
しかし、学校の勉強とかが、面倒だ、面白くないと思うのは、往々にして、「暗記」的なものになりがちだからである。暗記ができるのは、若いうちの方が有利なので、それが必ずしも悪いことだとは思わないが、脳神経細胞的には面白くなかろう。
もう一つ学校教育の弊害をあげれば、抽象的知識の優位性を重視しがちだということだ。これも、昨今の情報社会においては仕方がない部分も多い。何せ、一昔前では優位だった知識が、時代遅れどころか、間違っていたことが発覚することもあるからだ。だとしたら、できるだけ、誤ることが少ない、抽象概念のインプットに努めたほうが、応用ができるだろう。
そろそろ話を株の方にもっていこうか。
そうそう、新しい概念を覚える際に気を付ける必要があるのは、「些末なこと」とそうでないことの違いがよく分からないこともある。何せ新しい概念なのだから、何が重要で、何が枝葉末節なのかも、判断がつかないのだ。そういう意味で、先人・先生から学ぶというのは大事である。しかし、知っている人から学ぶというのは、あくまで、学習のきっかけや、方向性についての師事を受けるということであり、実際は、自ずからのインプットが必要になる。
また話はそれるけれども、よく情報商材とか、インターネットで見かける、「これを読めばあなたも億万長者!」「すぐに分かる女性にモテる7つの秘訣!」とか、もっといえば、自己啓発本とかメンタリズムの書籍なんかを読んで、すぐさま効果がでるはずはない。最近はやりの、映像商品とか音声商品とかも同じ。もっともっといえば、塾のカリスマ講師の授業を受けたところでそれも同じ。
読んだり聞いただけで効果がでるはずなどない。
学習ってのは、結局のところ、自分自身の鍛錬が必要になるのである。他者の言葉を聞いて、実感して、やる気があがって、行動できるようになるという効果はあるだろう。カリスマ講師とか言われるのは、生徒らをやる気にさせるのが上手いってのもあるのだ。
話がそれた。
株、についてである。
僕が中高生だったころ、なんかの漫画とかドラマとかみて、大人はみんな、新聞読んで、「今日は景気がいいですね~」「株価があがりましたな!」とか言って会話しているもんだと思っていた。よく分からないけれども、楽しくなさそうだな、と思っていた。
で、まぁ、その株というと、「株価」といった方が、一般に関心が高そうなネタである。
しかし、物やサービスと違って、株のお値段といわれても、何のことだろう? そもそも、どこで購入するのだろう?
「株券の値段のことだよ」と言われたところで、よく分からなさは変わらない。
まず、株を買うことができるのは、「証券会社」である。だが、証券会社とはそもそも何ぞや。
それを理解するためには、株式市場、証券市場について理解する必要がある。
さて株式市場とは何か、ということだが、株式を売買するための「市場」のことである。
市場(しじょう)ときくと、市場(いちば)のようなものをイメージするかもしれない。
あながち間違いではなかろう。広い意味では、市場とは、物やサービスの取引が行われる場のことである。「場」というと、これまた、「スペース」「場所」といったイメージが浮かぶけれども、そういった具体的な空間があるわけではない。では何があるのか、と疑問に思うだろう。それは、「ルール」である。
ルール、規則、決まりともいう。
この企業の株式は1株当たり300円で、この企業は1000円で、1万株発行されているとか、そんなことが決まっている。そうしたルールを取り仕切るのが、株式市場というわけだ。
それらのやってることは全部同じだ。違いは、サービスや、提供してくれるツール、手数料などである。今回の記事レベルでは、気にすることはない。
じゃあ証券会社は何をやってるのか。株式市場という「場」で、投資家からの注文をさばいているのである。
実は、株式市場を通さなくても、株は買えるのである。もっといえば、株式市場で購入できるのは、「上場」している株だけだ。
どこで買うのか? 企業に直接出向いて、「買います!」って言えばいいのである。ちょっと大雑把過ぎる例だけれども、株式会社といっても、親戚が、身内だけで資本を集めている会社だったら、直接株を買い取るのもありなのだ。
ただ、そういった手続きは非常に面倒である。
そういった煩雑さを代わりにやってくれるのが証券会社であるというわけだ。
そういう意味で、株式投資を始めるのは、まったく難しくない。
1.証券会社に口座を開く
2.普通預金口座から、証券会社の口座にお金を振り込む
3.証券会社のツール(ネット・サイト)から、企業の株式を購入する
これだけである。
じゃあ株を売った後の現金はどうやって手に入れるのだ、というと、これはまだ僕はやったことがないが、証券会社の口座から、自分の普通預金口座に「出金」の依頼をするだけである。
・株とは何か
・株価とは何か
・株式市場(証券取引所)とは何か
・証券会社とは何か
と、整理してきた。
まぁ、一般知識だろう。「大人」なら、投資をしてようがしてまいが、誰でも知ってるだろう。
問題は、多くの人が気になるのは、「株ってもうかるの?」ということである。
株式投資をする目的が何かといえば、利益を得ることである。これ以外の抽象化は不可能であろう。損しようとして投資する人はいないだろうから。
そこで、株のもうけかたということについて、「株式投資入門」という、私の株の師匠がすすめてくださった本の、第3章を参照しながら整理してみよう。


英語の辞書を引いても、「基本の」「基盤の」としか出てこない。なんぞ……ファンダメンタル。
しかし、株式投資とか経済とかの分野では、よく聞く言葉なので、これは覚えたほうがよさそうである。
上記本の中で記載されていることを強引にまとめると、「配当で得る利益」のことである。きっと、もっと深い意味があるのだろう。でなきゃ、こんなわざわざ横文字をみんな使いたがるはずがない。
配当とは、株を保有していると、ある一定の期間で企業から支払われるお金である。利子みたいなものだと思っている。これもきっと違うのだろう。でなきゃ、「配当」とか言葉をあえて使わないだろう。利子でいい。
ちなみに、僕が所有しているある企業の株は、年2回の配当があって、1株あたり2円と4円であった。1000株所有しているので、年間6,000円振り込まれることになる。
ちなみに、僕が使っている銀行の普通預金の利子(金利)は、0.001%である。仮に、30万円預けていたとして、……3円、である。
ファッ!?
安!!
ハッ、思ったより安くて驚いた。なるほど、そんなもんか。0.001倍じゃなくて、0.001%なのね。
まぁ以前書いたけれども、お金を預かってもらって、それで利子までくれるんだから、ありがたいとか思っている人もいそうだな、と。実際は、お金を預かってもらっているのではなく、お金を貸しているのだから、お利息ぐらい頂いても不思議ではないというわけだ。ただでお金貸してくれるなんて、友人だって中々いないだろう。
とにかく、そう考えると、株式投資の、配当というのも、悪くはなさそうだ、と思う。
しかし、株式投資では、ファンダメンタル・リターン以外にも、もう一つ重要な「もうけかた」がある。
まず、この本で学んだこととして、ハッと気づいたことだが、証券会社で株式を注文しても、それが、企業に直接お金が振り込まれるわけではない、ということである。
つまり、企業は、株式市場に上場する際に、すでに発行する株式の数を決めているのである。
その際の株価って、どうやって、だれが決めているんだろうというのが、新たな疑問が浮かんだが、話がそれるので、仮に、企業が自分で決めているのだとしよう。
例えば、ある企業は、「1万株を、300円で上場します!」と宣言する。
そうすると、上場したての企業はみんな関心があるので、投資家たちはみんな、「買います! 買います!」と手を挙げる。
そうすると、株価は、ぐんぐん上がる。中学校で習ったろう、需要と供給の関係だ。みんな欲しいと思っても、その供給数が少なければ、価格が上がるのだ。
ただ、あんまり無法地帯に価格が上がり下がりすると皆、企業も投資家も混乱するので、ストップ高とかストップ安といって、一日あたりに変動する量も決めたりしている。そういう役目を果たしているのが証券市場である。
ということは、企業が、「新しく株券発行します!」というまで、証券市場に出回っているのは、すでにほかの投資家たちが購入した株券なのである。
ここらへんで、疑問は、「株価」って、誰が決めてるんだろう? 人? 企業? 証券市場? ルール? というのがポンポン浮かんでくるが、まぁこれもわきに置いておこう。
とにかく今回押さえておくべきは、株価は、需要と供給の関係で決まるということだ。
ので、企業の価値が高いと思われたら、株価は上がっていく。逆に、危ないなと思われたら、下がっていく。ここでさらに気がかりなのは、「やばいなこの企業、売りたい!」と思っても、「買いたい人がいないんで、売れません」って言われることはあるのだろうか? それとも、証券会社などが、ある程度留保している株券があるから、そこで融通したりするのだろうか? でもまぁ、1万株が300円で売られて、株価が極端な話、1円になったら、300万円が1万円になったということだ。しかし、企業自体には、最初に発行した際に、300万円が振り込まれているはずなので、企業が潰れないのであれば、1万円ぐらい、ちょっとリスクを冒してでも支払って、仮にその企業が復活して株価が仮に100円にでもなれば、1万円が100万円になるってことだ。
そう考えれば、まぁ、「売りたい!」と思ったときに、「買いたい!」という人もある程度いるような気もしないでもない。この辺りは、まだ売ったことないからよく分からない。
で、なんだっけ? 評価リターンだ。
雑談で書いたことがそのまま説明にもなりそうだが、その、株価の上下によって、買ったり売ったタイミングによって発生する損益が、評価リターンということだ。
僕が保有している株は、1株300円ぐらいの頃に購入した。それが仮に301円になったとしよう。1000株保有しているので、1000円の利益になる。逆に、299円になったら、1000円の損失になる。
これぐらいの評価リターンであれば、まぁ、配当をもらえたら十分プラスになる(手数料や税金の計算はこれから覚えよう)。
しかし、仮に290円になってしまったとしよう。そしたら、1万円の損失になる。配当が6000円でたとしても、マイナス4000円だ。
2年目まで持ち越したとしよう。そうしたら、配当金は6000円さらにもらえるから、プラス2000円になる。しかし、株価が290円のまま保持されるとも限らない。
この意味で、僕の師匠は、「配当とか優待とか目当てってのは薦められないね~」と仰っているのだろう。
まずは、株ってそもそも何ぞや、というのを、知識ゼロから整理してみた。
多分、間違ってることとか、あいまいなこととか、足りないこととかたくさんある気がする。ご指摘等大いに歓迎である。
中学生でも分かる超超基礎というつもりで書いているので、ここで大きな勘違いしていると、今後の知識体系づくりに支障をきたしそうだ。――ただ、ある程度積み上げていって、壁にぶつかって、「あーもうやりなおしだ!」とバラバラにしてもう一度組みなおしていくというのも面白いといえば面白いのだけれど、まぁ時間は有限だ。
PERとか、ROEとか、整理しなきゃいけないことが盛りだくさんである。
純利益、経常利益の違いとかね。
円高に強い企業、弱い企業とか。ポートフォリオとか。
景気循環の、在庫整理の数年の波とか、10年規模の設備投資の波とか、建設需要の20年規模の波とか、技術革新の50年の波とか。しかし、なんで学校では、キチン、ジュグラー、クズネッツ、コンドラチェフとか、そんなことテストに出すのかね。そんな名前覚えても殆ど役に立たん。建設需要は20年単位であるとか、実は人口要因も関係するとか、そういった知識の方が少しは役に立ちそうだ。が、しかし、そういうのも、じゃあ、結局いまってどこにあたるの? それって企業とか国々によって違うんじゃない? 建設需要とかいっても、みんな同じタイミングに建てるわけでもないよね? そもそも、コンドラチェフの技術革新の波って、ほんとにあるの? windows95が一つの革新だとしたら、2040年ぐらいになんか来るの? それまじ? とか、きりがない。
知識ってのは、面白いといえば面白いが、結局、それをどう「納得」して、どう「行動」するかってのにかかっている。
であるからにして、自分で納得して行動した結果であれば、それは当然「リスク」というのも知っているのだろうから、結果失敗だろうが成功だろうが、それ自体はさほど気にならないはずなのだ。
批判や不満の多い人ってのは、納得も行動もできない人に多い(ように思う)。
かといって、愚痴が多い人は別に嫌いじゃあない。なんか、「ネガティブな人とは付き合わないようにしましょう! マイナスオーラで、自分までネガティブになっちゃいます!」とか、そんな啓発系ニュースをよく目にするけど、正直アホちゃうか、と思っている(じゃあ見なきゃいいんだが)。
「自分なんて、ダメですよ……」
という人がいたら、僕は、「へー、すごいじゃん! 君はいったい、だれと比較して、自分がダメだっていってるの? 世の中って、いっぱいいっぱいすごい人いるじゃん。君の会社にもすごい人いるでしょ。そんなすごい人たちと比べて、君は自分がダメだって思ってるってこと? すごいなぁ……そんな向上心があるんだね。でもさ、そんなすごい人たちと比べなくてもいいんじゃない? 大事なのは、昨日の自分には勝ってやるって、そんな気持ちなんじゃあないかな」
とか言うかもしれない。
何やっても駄目だ、とか言うけれども、本当にそうなの? と問いたい。全世界、70億人の中で、一番ダメってこと? それはそれですごいんじゃない? と思う。上見ても、下見てもきりがない。できることはせいぜい、自分の与えられた環境の中で、精一杯できる限りのことをするのみである。
だから、……ではないが、とにかく、「感性」ってのが大事だと思う、今日この頃である。
(こういった考え方自体がポジティブだって? 僕は全然そう思っていない。これはどっちかというとネガティブな思考である。諦念である。しかし、最近ポジティブオーラに満ち溢れているせいか、「自分、暗い人間ッス」とかいっても、冗談で言ってるとしか思われない。まぁ、こうやって文字おこししても、やっぱりポジティブに映るのだろうか? それは、未来の自分さんに判断してもらおうか。だが、数年前の自分の記事を読んでみると、やっぱりしっくりくるのは、「反転したポジティブ」という表現だったりする。まぁどうでもいいか。ポジもネガも、結局相対概念に過ぎないのだから、読む人聞く人触れる人によって、その受け取り方(感覚:ヴェーダナー)が異なるのだ。だから、繰り返しになるが、その感性、感覚が大事だなぁと、そんな風に思う)
新しい概念とは何か
やる気が少し戻ったところで、学習を開始する。しかしまずは、自分の知識体系の整理が必要である。最近始めた株についてだ。
6月の中旬ぐらいから始めて、先週までで、3万円ぐらいプラスになっている。しかし、目的も、投資理論もまったく脆弱なものであって、特に意味がある金額ではない。
そのため、ある程度は、自分の投資に根拠をもてるようになりたいと思う。マイナスになろうが、プラスになろうが、その根拠を自分の中で理解できるようになるということを目標にするわけだ。
そのために、まずは、株というものについて、自分の理解していることを、特に何も参照せずに整理していきたい。
さてしかし、新しいこと(概念)を覚えるということは、非常に難しい。
そんなことは当たり前だと言われるが、しかし、何故難しいのだろう?
59873947
上の、無意味な数字の羅列は、新しいことであるが、覚えること自体はさほど難しくないだろう。
「鬱」という漢字も、覚えようとすれば、さほど時間を書けなくても覚えられるだろう。
しかし、「概念」となると別だ。
概念自体も、分解していけば、それぞれ、単一の知識に還元されるものであるが、単なる個々の集合知識ではないことに留意する必要がある。
社会とは、確かに人の集まりであるが、個々人の思惑とは違った結果を生み出すことがあることは、多くの人が頷くことであろう。卑近な例にすれば、一人一人は良い子なのに、集団になると悪さをするとか。
では、新しい概念を、どうしたら「覚えた!」「分かった!」ということになるのだろうか。
それは、トップダウンと、ボトムアップの両方の学習が必要になる。
トップダウンとは
トップダウンとは、抽象的な知識である。例えば、「株とは、企業が、資本を集めるために用いる手段である」というのは抽象的な知識である。
しかし、抽象的な知識というのは、一見万能に役立つように思いきや、何の役に立たない場合もある。「人とは、霊長類で、サピエンス種である」と言ったところで、それが何だ? と。
重要なのは具体性だ。
ボトムアップとは
ボトムアップとは、具体的な知識である。証券会社に口座を開いて、普通銀行からお金を振り込んで、ある企業の株を注文すれば、それが「株」の知識である。インターネットが普及していなかった頃は、株券として、紙媒体で届いていたのだろうか。その場合、株券が、株のことである。
どこまでいけば覚えたことになるのか
このように、ボトムアップの知識(具体的)を蓄えて、トップダウンの知識(抽象的)に結び付けていくことが、「覚えた」「分かった」ということになる。人の脳神経細胞の本能とは、「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」というものであるが、この観点からいくと、「覚えた」「分かった」ということは、僕らにとって「快」であるはずなのだ。
しかし、学校の勉強とかが、面倒だ、面白くないと思うのは、往々にして、「暗記」的なものになりがちだからである。暗記ができるのは、若いうちの方が有利なので、それが必ずしも悪いことだとは思わないが、脳神経細胞的には面白くなかろう。
もう一つ学校教育の弊害をあげれば、抽象的知識の優位性を重視しがちだということだ。これも、昨今の情報社会においては仕方がない部分も多い。何せ、一昔前では優位だった知識が、時代遅れどころか、間違っていたことが発覚することもあるからだ。だとしたら、できるだけ、誤ることが少ない、抽象概念のインプットに努めたほうが、応用ができるだろう。
そろそろ話を株の方にもっていこうか。
株式とは
株、株式、と言い方が異なるが、そもそも、その違いを分かっていない。辞書で調べてみたが、あまり違いは無いようだ。そうそう、新しい概念を覚える際に気を付ける必要があるのは、「些末なこと」とそうでないことの違いがよく分からないこともある。何せ新しい概念なのだから、何が重要で、何が枝葉末節なのかも、判断がつかないのだ。そういう意味で、先人・先生から学ぶというのは大事である。しかし、知っている人から学ぶというのは、あくまで、学習のきっかけや、方向性についての師事を受けるということであり、実際は、自ずからのインプットが必要になる。
また話はそれるけれども、よく情報商材とか、インターネットで見かける、「これを読めばあなたも億万長者!」「すぐに分かる女性にモテる7つの秘訣!」とか、もっといえば、自己啓発本とかメンタリズムの書籍なんかを読んで、すぐさま効果がでるはずはない。最近はやりの、映像商品とか音声商品とかも同じ。もっともっといえば、塾のカリスマ講師の授業を受けたところでそれも同じ。
読んだり聞いただけで効果がでるはずなどない。
学習ってのは、結局のところ、自分自身の鍛錬が必要になるのである。他者の言葉を聞いて、実感して、やる気があがって、行動できるようになるという効果はあるだろう。カリスマ講師とか言われるのは、生徒らをやる気にさせるのが上手いってのもあるのだ。
話がそれた。
株、についてである。
僕が中高生だったころ、なんかの漫画とかドラマとかみて、大人はみんな、新聞読んで、「今日は景気がいいですね~」「株価があがりましたな!」とか言って会話しているもんだと思っていた。よく分からないけれども、楽しくなさそうだな、と思っていた。
で、まぁ、その株というと、「株価」といった方が、一般に関心が高そうなネタである。
株価とは
株価とは、株の価値のことである。つまり、株の値段のことである。しかし、物やサービスと違って、株のお値段といわれても、何のことだろう? そもそも、どこで購入するのだろう?
「株券の値段のことだよ」と言われたところで、よく分からなさは変わらない。
まず、株を買うことができるのは、「証券会社」である。だが、証券会社とはそもそも何ぞや。
それを理解するためには、株式市場、証券市場について理解する必要がある。
株式市場とは
そしてちなみに、僕は、株式市場と証券市場の違いについてもよく分かっていない。しかしここは、些末なことであろうとして調べることもスルーする。この記事の中では、「株式市場」=「証券市場」(証券取引所)ということである。さて株式市場とは何か、ということだが、株式を売買するための「市場」のことである。
市場(しじょう)ときくと、市場(いちば)のようなものをイメージするかもしれない。
あながち間違いではなかろう。広い意味では、市場とは、物やサービスの取引が行われる場のことである。「場」というと、これまた、「スペース」「場所」といったイメージが浮かぶけれども、そういった具体的な空間があるわけではない。では何があるのか、と疑問に思うだろう。それは、「ルール」である。
ルール、規則、決まりともいう。
この企業の株式は1株当たり300円で、この企業は1000円で、1万株発行されているとか、そんなことが決まっている。そうしたルールを取り仕切るのが、株式市場というわけだ。
証券会社とは
では、証券会社とは何か。マネックス証券やら松井証券やらGMOクリック証券やら、みずほ証券やら沢山ある。それらのやってることは全部同じだ。違いは、サービスや、提供してくれるツール、手数料などである。今回の記事レベルでは、気にすることはない。
じゃあ証券会社は何をやってるのか。株式市場という「場」で、投資家からの注文をさばいているのである。
実は、株式市場を通さなくても、株は買えるのである。もっといえば、株式市場で購入できるのは、「上場」している株だけだ。
どこで買うのか? 企業に直接出向いて、「買います!」って言えばいいのである。ちょっと大雑把過ぎる例だけれども、株式会社といっても、親戚が、身内だけで資本を集めている会社だったら、直接株を買い取るのもありなのだ。
ただ、そういった手続きは非常に面倒である。
そういった煩雑さを代わりにやってくれるのが証券会社であるというわけだ。
そういう意味で、株式投資を始めるのは、まったく難しくない。
1.証券会社に口座を開く
2.普通預金口座から、証券会社の口座にお金を振り込む
3.証券会社のツール(ネット・サイト)から、企業の株式を購入する
これだけである。
じゃあ株を売った後の現金はどうやって手に入れるのだ、というと、これはまだ僕はやったことがないが、証券会社の口座から、自分の普通預金口座に「出金」の依頼をするだけである。
どの企業の株を買うか
以上、・株とは何か
・株価とは何か
・株式市場(証券取引所)とは何か
・証券会社とは何か
と、整理してきた。
まぁ、一般知識だろう。「大人」なら、投資をしてようがしてまいが、誰でも知ってるだろう。
問題は、多くの人が気になるのは、「株ってもうかるの?」ということである。
株式投資をする目的が何かといえば、利益を得ることである。これ以外の抽象化は不可能であろう。損しようとして投資する人はいないだろうから。
そこで、株のもうけかたということについて、「株式投資入門」という、私の株の師匠がすすめてくださった本の、第3章を参照しながら整理してみよう。
ファンダメンタル・リターン
ファンダメンタルと、横文字がでてきた。これは難敵である。英語の辞書を引いても、「基本の」「基盤の」としか出てこない。なんぞ……ファンダメンタル。
しかし、株式投資とか経済とかの分野では、よく聞く言葉なので、これは覚えたほうがよさそうである。
上記本の中で記載されていることを強引にまとめると、「配当で得る利益」のことである。きっと、もっと深い意味があるのだろう。でなきゃ、こんなわざわざ横文字をみんな使いたがるはずがない。
配当とは、株を保有していると、ある一定の期間で企業から支払われるお金である。利子みたいなものだと思っている。これもきっと違うのだろう。でなきゃ、「配当」とか言葉をあえて使わないだろう。利子でいい。
ちなみに、僕が所有しているある企業の株は、年2回の配当があって、1株あたり2円と4円であった。1000株所有しているので、年間6,000円振り込まれることになる。
ちなみに、僕が使っている銀行の普通預金の利子(金利)は、0.001%である。仮に、30万円預けていたとして、……3円、である。
ファッ!?
安!!
ハッ、思ったより安くて驚いた。なるほど、そんなもんか。0.001倍じゃなくて、0.001%なのね。
まぁ以前書いたけれども、お金を預かってもらって、それで利子までくれるんだから、ありがたいとか思っている人もいそうだな、と。実際は、お金を預かってもらっているのではなく、お金を貸しているのだから、お利息ぐらい頂いても不思議ではないというわけだ。ただでお金貸してくれるなんて、友人だって中々いないだろう。
とにかく、そう考えると、株式投資の、配当というのも、悪くはなさそうだ、と思う。
しかし、株式投資では、ファンダメンタル・リターン以外にも、もう一つ重要な「もうけかた」がある。
評価リターン
今度は日本語だ。しかし、逆にわかりづらい。何が評価だ? ん?まず、この本で学んだこととして、ハッと気づいたことだが、証券会社で株式を注文しても、それが、企業に直接お金が振り込まれるわけではない、ということである。
つまり、企業は、株式市場に上場する際に、すでに発行する株式の数を決めているのである。
その際の株価って、どうやって、だれが決めているんだろうというのが、新たな疑問が浮かんだが、話がそれるので、仮に、企業が自分で決めているのだとしよう。
例えば、ある企業は、「1万株を、300円で上場します!」と宣言する。
そうすると、上場したての企業はみんな関心があるので、投資家たちはみんな、「買います! 買います!」と手を挙げる。
そうすると、株価は、ぐんぐん上がる。中学校で習ったろう、需要と供給の関係だ。みんな欲しいと思っても、その供給数が少なければ、価格が上がるのだ。
ただ、あんまり無法地帯に価格が上がり下がりすると皆、企業も投資家も混乱するので、ストップ高とかストップ安といって、一日あたりに変動する量も決めたりしている。そういう役目を果たしているのが証券市場である。
ということは、企業が、「新しく株券発行します!」というまで、証券市場に出回っているのは、すでにほかの投資家たちが購入した株券なのである。
ここらへんで、疑問は、「株価」って、誰が決めてるんだろう? 人? 企業? 証券市場? ルール? というのがポンポン浮かんでくるが、まぁこれもわきに置いておこう。
とにかく今回押さえておくべきは、株価は、需要と供給の関係で決まるということだ。
ので、企業の価値が高いと思われたら、株価は上がっていく。逆に、危ないなと思われたら、下がっていく。ここでさらに気がかりなのは、「やばいなこの企業、売りたい!」と思っても、「買いたい人がいないんで、売れません」って言われることはあるのだろうか? それとも、証券会社などが、ある程度留保している株券があるから、そこで融通したりするのだろうか? でもまぁ、1万株が300円で売られて、株価が極端な話、1円になったら、300万円が1万円になったということだ。しかし、企業自体には、最初に発行した際に、300万円が振り込まれているはずなので、企業が潰れないのであれば、1万円ぐらい、ちょっとリスクを冒してでも支払って、仮にその企業が復活して株価が仮に100円にでもなれば、1万円が100万円になるってことだ。
そう考えれば、まぁ、「売りたい!」と思ったときに、「買いたい!」という人もある程度いるような気もしないでもない。この辺りは、まだ売ったことないからよく分からない。
で、なんだっけ? 評価リターンだ。
雑談で書いたことがそのまま説明にもなりそうだが、その、株価の上下によって、買ったり売ったタイミングによって発生する損益が、評価リターンということだ。
僕が保有している株は、1株300円ぐらいの頃に購入した。それが仮に301円になったとしよう。1000株保有しているので、1000円の利益になる。逆に、299円になったら、1000円の損失になる。
これぐらいの評価リターンであれば、まぁ、配当をもらえたら十分プラスになる(手数料や税金の計算はこれから覚えよう)。
しかし、仮に290円になってしまったとしよう。そしたら、1万円の損失になる。配当が6000円でたとしても、マイナス4000円だ。
2年目まで持ち越したとしよう。そうしたら、配当金は6000円さらにもらえるから、プラス2000円になる。しかし、株価が290円のまま保持されるとも限らない。
この意味で、僕の師匠は、「配当とか優待とか目当てってのは薦められないね~」と仰っているのだろう。
まとめ
今日のところはここまで。まずは、株ってそもそも何ぞや、というのを、知識ゼロから整理してみた。
多分、間違ってることとか、あいまいなこととか、足りないこととかたくさんある気がする。ご指摘等大いに歓迎である。
中学生でも分かる超超基礎というつもりで書いているので、ここで大きな勘違いしていると、今後の知識体系づくりに支障をきたしそうだ。――ただ、ある程度積み上げていって、壁にぶつかって、「あーもうやりなおしだ!」とバラバラにしてもう一度組みなおしていくというのも面白いといえば面白いのだけれど、まぁ時間は有限だ。
PERとか、ROEとか、整理しなきゃいけないことが盛りだくさんである。
純利益、経常利益の違いとかね。
円高に強い企業、弱い企業とか。ポートフォリオとか。
景気循環の、在庫整理の数年の波とか、10年規模の設備投資の波とか、建設需要の20年規模の波とか、技術革新の50年の波とか。しかし、なんで学校では、キチン、ジュグラー、クズネッツ、コンドラチェフとか、そんなことテストに出すのかね。そんな名前覚えても殆ど役に立たん。建設需要は20年単位であるとか、実は人口要因も関係するとか、そういった知識の方が少しは役に立ちそうだ。が、しかし、そういうのも、じゃあ、結局いまってどこにあたるの? それって企業とか国々によって違うんじゃない? 建設需要とかいっても、みんな同じタイミングに建てるわけでもないよね? そもそも、コンドラチェフの技術革新の波って、ほんとにあるの? windows95が一つの革新だとしたら、2040年ぐらいになんか来るの? それまじ? とか、きりがない。
知識ってのは、面白いといえば面白いが、結局、それをどう「納得」して、どう「行動」するかってのにかかっている。
であるからにして、自分で納得して行動した結果であれば、それは当然「リスク」というのも知っているのだろうから、結果失敗だろうが成功だろうが、それ自体はさほど気にならないはずなのだ。
批判や不満の多い人ってのは、納得も行動もできない人に多い(ように思う)。
かといって、愚痴が多い人は別に嫌いじゃあない。なんか、「ネガティブな人とは付き合わないようにしましょう! マイナスオーラで、自分までネガティブになっちゃいます!」とか、そんな啓発系ニュースをよく目にするけど、正直アホちゃうか、と思っている(じゃあ見なきゃいいんだが)。
「自分なんて、ダメですよ……」
という人がいたら、僕は、「へー、すごいじゃん! 君はいったい、だれと比較して、自分がダメだっていってるの? 世の中って、いっぱいいっぱいすごい人いるじゃん。君の会社にもすごい人いるでしょ。そんなすごい人たちと比べて、君は自分がダメだって思ってるってこと? すごいなぁ……そんな向上心があるんだね。でもさ、そんなすごい人たちと比べなくてもいいんじゃない? 大事なのは、昨日の自分には勝ってやるって、そんな気持ちなんじゃあないかな」
とか言うかもしれない。
何やっても駄目だ、とか言うけれども、本当にそうなの? と問いたい。全世界、70億人の中で、一番ダメってこと? それはそれですごいんじゃない? と思う。上見ても、下見てもきりがない。できることはせいぜい、自分の与えられた環境の中で、精一杯できる限りのことをするのみである。
だから、……ではないが、とにかく、「感性」ってのが大事だと思う、今日この頃である。
(こういった考え方自体がポジティブだって? 僕は全然そう思っていない。これはどっちかというとネガティブな思考である。諦念である。しかし、最近ポジティブオーラに満ち溢れているせいか、「自分、暗い人間ッス」とかいっても、冗談で言ってるとしか思われない。まぁ、こうやって文字おこししても、やっぱりポジティブに映るのだろうか? それは、未来の自分さんに判断してもらおうか。だが、数年前の自分の記事を読んでみると、やっぱりしっくりくるのは、「反転したポジティブ」という表現だったりする。まぁどうでもいいか。ポジもネガも、結局相対概念に過ぎないのだから、読む人聞く人触れる人によって、その受け取り方(感覚:ヴェーダナー)が異なるのだ。だから、繰り返しになるが、その感性、感覚が大事だなぁと、そんな風に思う)
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【12月27日続き】
浴室前で服を脱いでいると、ふと気付いた。
「そういえば、お前の名前、何か決まってるの?」
「はい、何でしょうか?」
よく聞き取れなかったのか、リビングで待機モードとなっていた少女ロボットが脱衣所に歩いてきた。
思わず、前を隠す。
「い、いいよ、わざわざ来なくても。ただ、お前の名前、決めてなかったなって。呼ぶとき、面倒だからさ」
「名前……決めて頂けるのですか?」
ぎゅっと握った両のこぶしを胸の前にもっていき、僕を見上げる。
何だかひどく焦ってしまい、僕は必死で頭をひねる。
「あーうん。そうだな……。型番がHRNだから……『ハルン』でいいか?」
僕の言葉に、少女の小さな顔の大きな瞳が、パッと大きくなる。
僕の言葉に、少女の小さな顔の大きな瞳が、パッと大きくなる。
「ハルン……承知しました! ありがとうございます! ジュン様、これからも宜しくお願いします!」
両手をお腹の位置で軽く組んで、ハルンは深々とお辞儀をした。
何だか、感動的な場面だった気もするが、残念ながら、僕の全裸で台無しだった。
<続く>
今日の一言「金曜夜から体調が悪く」「精神に負けただけ」
僕は別に、休日に何の予定もなく、ダラダラとテレビを見て過ごすことが悪いことだとも、無駄だとも思っていない。
無駄という概念は、理想とすべき生活軸があるから発生するものである。
分かりやすく書こう。無駄の反対は何だ? 役に立つことだ。では、その役に立つとは何に対して? 自分? 友達? 恋人? 家族? 会社? 社会? 世界?
「あー失敗した……無駄に過ごしてしまった」
という気持ちになるのは、何らかの、目指すべき何かがあるからなのだ。ただ、それが意識されるかどうかは、別問題である。何となく、無駄。この感覚が大半であろう。何せ、無駄なことをしている際には、ろくに思考も働かないのである。
御託はいらないか。
とにかく、休日前のゴールデンタイムからほぼ1日、何もできなかった。
その、「何もできない」というのは、ぐっすり眠るということすらできなかったのだ。
そう考えると、おいしい食事を家に持ち帰って、ゆっくり食べるというスタイルが一番良い。しかし、宅配系(ピザにとどまらず、和食洋食、寿司など今や様々)は、味はそこそこだが、コストパフォーマンスが良いとは残念ながらいえない。
じゃあ自分で作ろう、というのも、作るというよりも、後片付けが面倒だったりする。
疲れて家に帰るというのは、まぁ、日常茶飯事であるが、休日前となると、気が抜けているのだろう。ほぼ床で寝ていた。エアコンもかけっぱ、電気もつけっぱ。当然、睡眠の質は悪くなる。
深夜、明け方など、何度も目が覚める。しかし、頭の病みがひどくて、起き上がることはできない。膀胱に負担がかかって、お手洗いには何とか行くが、またきれいに布団もしかずに寝てしまう。
そして、何とか気合を入れて起きる。風呂に入る。そして、やっぱり具合が悪くて、寝る。
そんなことを繰り返しながら、もう外は暗くなってしまった。
本当は、日用品など、買い物に行かなければならない。食事もまともにできていない。
かろうじて、洗濯だけはできた。
まず、掃除、片付け。
本が、書類が、暴れ始めている。
良質な部屋空間がつくれていない。
頭を整理したい。身体を整理したい。
費用面を整理したい。
クレジットカードを、2枚ぐらい解約したい。しかし、生活費の自動引き落としになっていたり、ポイントがたまっていたりと、少しばかり対処が必要である。
それでも、スマートホンの解約、格安SIMへの切り替えよりかは楽だろうが、気分がのらない。節約効果も、年間2000円いくかどうかである。ポイント利用を考えると、もとが取れなくもない状態。ただし、ポイントというのは、その対象のお店でしか使えないため、買い物の幅の限定がなされる。それでもよかったのだが、もっとよいお店を見つけてしまったので、必ずポイント対象の店を利用しなければならないというのは、デメリットが大きくなっているというわけである。
とかなんとか、そんなこと書いている暇があったら、解約に向けて行動すればよいのだが、どうにもこうにも、やる気が起きない。ダメ人間である。
無駄って何なのか。
先日、分かりやすい文章技術の本を読んだと書いた。その中で、修飾語の使い方については、悩むことも多かったため、参考になったことがある。
・長い修飾語を先にする。
・語順を整える。
一点目の、長い就職後というのは、ちょっとまだ、意識して使えるほど理解はできていない。
語順というのは、いつ、どこで、だれが、だれに、何を、どうした、という順番が、日本人には一番わかりやすいのだということである。修飾語を使うときも、そういった順番にするのがよいということだ。
5W1Hというのがあるが、これは、
・Why
・When
・Where
・Who
・What
・How
である。
ただ、「なぜ」というのは、レポートとか、上司への報告のときが主であって、会話だとか、流れで文章を書く際には、いちいち、なぜを書かない場合が多いだろう。
そうしたときは、
・When(いつ)
・Where(どこで)
・Who(だれが)
・Whom(だれに)
・What(なにを)
・How(どのように)
という順番を意識して文章を書くとよいということだ。
ちなみに、Whomは、英語圏のひとも、あまり使わなくなってきているということをどっかの記事でみたような気がする。
とまぁ、5W1Hとか気を付けて書きましょうとかは、当たり前に誰でも知っていると思うけれども、その順番も意識する必要がある、という点については、大事なんだろうなぁとは思っていたけれど、どういった順番が好ましいのかは初めて知った。
(まぁ、必ずしもその順番でなければいけないということでもない。そもそも、文章技術の一つとして、強調したい事柄を後ろにもっていく、または前にもっていく、というのもあるわけで)
まぁともかく、たくさん書くことが重要だ。たくさん書く中で、一つか二つか、少しずつ、そのわかりやすいとされている技術を吸収して、使えるようになっていけばいいのだ。
よい文章が書けないからといって、完璧な文章を書かなければならないといって、何もかけなければ、いっこうに成長などしないだろう。
そうそう、そういった意味で、ある精神科医のブログにおいて、「大人になるためには」といった記事を読んだ。
大人とは、その場に適した行動をとれる人間である。
面白くもなんともない定義である。まぁ、ひとそれぞれ、思い思いの大人に対するイメージというものがあるだろう。その個々具体的な大人イメージで、読んでもらっても大きな主旨逸脱にはならないと思う。
その、僕が見かけた精神科医さんの記事において、「大人ってのは、なるものではなく、引き受けるものである」というのが印象に残った。
成人式を過ぎたら大人になる?
お酒を飲めるようになったら大人?
お金を稼いだら大人?
会社に入ったら大人?
選挙に行ったら大人?
結婚したら大人?
子供ができたら大人?
まーいろいろ、きっかけはあるだろう。そのどれも大人になる要素かもしれない。ただし、その人が、「大人をやろう!」という気持ちにならなければ、結局、大人になどなれないのだ、ということだ。
大人っぽくふるまうようにしていれば、そのうち大人に近づいていくということである。大人、自然化論である。
さて、では、僕は大人なのだろうか?
大人的な思考や、大人的なふるまいはできる、と思っている。
ただそれは、何も今最近できるようになったというよりかは、高校……というのは大げさかもしれないが、少なくても大学ぐらいにはできるようになっていた。
その、大人という定義が、「自分を律する」ということであれば、の話だが。
しかし、先日書いた通り、僕は何も、主張をしたいというわけではない。自動筆記だ。思うがままに書いている。メモだ。
――ということを、いつまでも繰り返しているのは、どうにも子供っぽいだろう。ので、こっから先の話の流れを書いておこう。
無駄とは何か。
大人とは何か。
それらに対しての僕の現時点の考えをメモすることで、今後の行動や、動機付けへの一助となす。
ということで、無駄って何? ってところに、もう一度戻ってみよう。何もないところから考えることもできないので、他の人のブログなどを見て思ったことから始めよう。
ブログには、二種類あると思う。
他者さんのブログとか見ていると、「主張」するブログと、「メモ」するブログがある。
例えば、「30代OLの婚活日記」とかは、後者の「メモ」するブログである。それらは、まさに黎明期のブログを彷彿させる。日記やSNSとの境界が非常にあいまいで、日々の思いやできごとを、つらつらと書いていく形式。テーマはあったり、なかったりする。
テーマがないものが、より、mixiとかfacebookとかインスタグラムとか、そっちに近いだろう。コミュニケーションツールとしての役割が強い。
テーマがあるものは、上にあげた、婚活日記とか、アーリーリタイアを目指すブログとか。ちなみに、僕は、おぼろげながら一応テーマはあるのでこっち側。
主張するブログとは、テーマがより明確になったもの。政治的主張だったり、宗教的主張だったり、思想的主張だったり。または、商品の宣伝だったり、ヒーリング技術の伝達だったり、ダイエット法だったり。硬いブログ、といってもよいかもしれない。それらは、伝えたいものがはっきりしている。いわゆる、「役に立つ情報」の提供を目的にしている。(そして、その目的は、思想的フォロワーだったり、金銭であることが多い……ように思われる)
やわらかい < かたい
◇テーマなしブログ < テーマありブログ
(SNS)
え……ものすごい話それた。無駄の話だよね。いやその、無駄って、何に対しての無駄なの? ってのを、考えとく必要があるんじゃないか? ってことを書きたかっただけなんだけど。
しかしだ、これって、さも論理的っぽいが、詭弁の一種でもある。
「良い会社とは何か?」
ということを友人から問われたとして、「残業が少ない会社だと思う」と答えて、
「残業が少ないからといって、良い会社とは限らない」
と言われたら、話が進まない。
そこで、「じゃあ、残業が少ない会社を探そう」ということになれば発展的だが、「良い会社」ということの定義について話し合ったとしても、そんなもの、答えなどでるわけはない。「無駄」な議論ということになる。
同じように、「どうしてそう思うの?」とかいうのも、どうでもいい切り替えしである。とりあえず議論ってのは、「前提」を立てたうえで、論理的に話・事実を構築していくことが重要なのであり、途中までくみ上げてから、「そもそも、その前提ってさぁ」とか言い出すのは、詭弁でしかない。詭弁って何か? 無駄ってことだ。
つまり、「生きる意味って何?」というのも、そもそもの「前提」を問うたものであるのだ。
つまり、言ってしまえば、答えなどでないのである。
いや、それは微妙にニュアンスが違う。
共通、普遍的な答えはありえない、ということである。
ここで、雑念というか、無駄な疑問として、「そもそも、生きる意味なんて考えられるだけ幸せなんだよ」というものがある。これは、無駄な問いである。
とにかく、今、「生きる意味」を問うているのだ。その前提を覆すようなことを言うのは、詭弁である。
しかし、よくある言説としては、「そもそも、生きる意味なんて考えるだけ無駄なんですよ!」というものである。なんと嘆かわしい、と僕は頭を抱える。
2011年の記事
過去の記事なのだが、
これが素晴らしいことであり、価値あることなのだと、誰も疑わない。僕も疑わない。
人間の価値は、生産することである。モノ・コト・ヒトを生み、成長させることである。
当たり前だ。そして、その中に、楽しかったり、苦しかったり、いやだったり、うれしかったりといった、感情がある。しかしその感情もまた、単に、生産のためにあるのだ。
人は生き、生み、育て、死ぬ。そのPDCAサイクル。終わらない輪廻。繰り返される事象。
ああ、人間とは、世界とは、なんと美しいものなのか。素晴らしいものなのか! 神や仏や、先祖や両親に限りない感謝を! そしてこの喜びと愉悦を、後代に伝えていこうではないか! 人類は、世界は、自然は、地球は、本当に素晴らしきものなのだと!!
いやー素晴らしき世界ですよ、ほんと。いじめはなくならないし、騙して金取ろうとする人もいるし、自殺する人もいるし、ブラック企業だってあるし、迷惑かけてばっかのやつもいるし、自分勝手でむかつくやつもいるし、犯罪や人殺しもなくならないし、民族紛争だってあるし、ミサイルで恐喝するところもあるし、いろいろあるけどね!(かっこハートとか、ホシとか、オンプとか)
まぁ世の中、それなりにうまくいってんじゃない? 70億人もヒトいるし。(日本は2050年には1億切るらしいけどね)
厭世的になる必要などない。一人ひとり、できることをやって、よりよい社会や世界に貢献していけばいいのだ。
ということで、70%ぐらいの時間は、そういった思考と行動にあてている。
だが、30%ぐらいは、どうにもその70%が胡散臭いので、こうやってブログを書いている。
もう、こういう性格なのだと諦めたのが、1~2年前に、ブログを復活したころである。
いやはや、2011年ぐらいに、いやもっと前から、「生きる意味」なんて考えても無駄だなんてこと、分かっていたのである。
わかっていたのだけれども、どうにも、やっぱり「ココ」に戻ってきてしまうのである。
何をやっても、何を考えても、やっぱり、「疑問」が生じるのである。
「考えるのが好きなんだね」
と言われた。
「答えを出す気がないんですね」
と言われた。
実は、だいぶショッキングなコメントであった(かっこわらい)。
いや、感謝でしかないのだが、よい表現が浮かばないので、テキトウな言葉で書けば、傷ついた(かっこわらい)。
よくは覚えていないが、確か、言い訳めいた返信をしたような気がする。きっとそれって、図星つかれたからだ。
けど。けれども、やっぱり反論したい。
考えること自体好きとか、答えを出したくないとか、そんなことはきっと、ないんだろうと。
だって、「答え」って、「幸せに生きる」ことじゃん? 「楽しい」ことじゃん?
それに対して、どうして、「生きる意味」とか、面倒で、うさんくさくて、ネガティブで、つまらないようなこと考え続けなきゃいけないわけ? そんなことに大切な時間を使わなきゃいけないわけ?
もっとお金かせいだり、人脈ひろげたり、仕事で役に立つようなことしたほうがよくない?
当たり前だよね。
僕もそう思うよ。
そしてその頃は、できるだけ、「イッパンノヒトタチ」になれるように頑張ったような気がする。つまり、考えないようにしよう、と。
でも、一度このあたりに気づいてしまった人は、多分もう、逃れられないんだと思う。以前は、「呪い」なんてまがまがしい言葉で表現したこともあった。
その疑問と、仕事か、趣味か、うまい具合に紐づけられた人は、きっと社会的にも成功しているんだと思う。そういう人がつくる作品って、きっと面白いと思う。
ふと、思い出せば、たくさんの「悪かった」思い出がよみがえる。
惰眠していて、いくつも見た夢のせいもあるかもしれないが、まぁ、ほかの人と比べたら大したことがないんだろうけれども、いろいろあったなぁ、と思う。
よくまぁ、ここまで生きてきたもんだ。すごいすごい(棒読み)。
まぁ、なんやかんや言って、あと50年ぐらいでこの世界ともおさらばだろう。
きっと、あっという間だろう――何も考えていなければ。
そう、あっという間だ。頭が痛いとかいって、寝ぼけてる場合じゃなかった。サイトの改修とか、仕事の勉強とか、株の勉強とか、読書とか、物語創ったり、作曲したり、そもそも、食料買いに行かないと食べるものがねぇ!(笑)
これぐらいやっていると、ようやくやる気が回復してくるのである。
ある意味、非常に、効率の悪い性格というか、行動特性である。
やる気出すのに高速タイピングする必要があるというのは如何なものか。しかし、よく思い起こすと、高校のときも、なんだかすげー気分がのらないときは、紙のノートに、やっぱりこんなよくわからない、無駄なことを書き連ねていた気がする。
そう考えると、15年ぐらい前から、こんなことを続けている、というわけか。そりゃあなかなか変えられないだろう。人はなかなか変わらないのである。
モチベーションは回復した。
ようやく、こっから、考えることができそうなのだが、とにかく長くなったのでここまでにしよう。
(えーっと、中身のない記事になったな、いつものことながら! 一つ、情報を抽出するとすれば、「生きる意味なんて考えても無駄」というのは、「正論」でありながら、僕の心には響かないであろうということである。ある精神科医さんの、ロゴセラピーとか、実は、「意味を問い続けても、行動と結びつかなければそれ自体に価値はない」というようなものに思えるのだけれど、頭ごなしに「生きる意味なんて考えても無駄」と言われるよりかは、伝わってくるものがある。その理由は、十分に、そのことを考えるべき必要性を分かったうえで、そこから逃れる(無限遡及的な思考のループからの脱却)方法を提示しようとしているからなのだと、思うのだけれども、まだまだ勉強が足りない部分)
無駄に過ごした!
無駄とは何か。僕は別に、休日に何の予定もなく、ダラダラとテレビを見て過ごすことが悪いことだとも、無駄だとも思っていない。
無駄という概念は、理想とすべき生活軸があるから発生するものである。
分かりやすく書こう。無駄の反対は何だ? 役に立つことだ。では、その役に立つとは何に対して? 自分? 友達? 恋人? 家族? 会社? 社会? 世界?
「あー失敗した……無駄に過ごしてしまった」
という気持ちになるのは、何らかの、目指すべき何かがあるからなのだ。ただ、それが意識されるかどうかは、別問題である。何となく、無駄。この感覚が大半であろう。何せ、無駄なことをしている際には、ろくに思考も働かないのである。
御託はいらないか。
とにかく、休日前のゴールデンタイムからほぼ1日、何もできなかった。
その、「何もできない」というのは、ぐっすり眠るということすらできなかったのだ。
外食も難しい
まず諸悪の根源は、金曜日の夜、気分の良い食事タイムを取れなかったことだ。何故か? いつもたびたび訪れる外食屋さんが、込み合っているせいか何なのかわからないが、喧噪で落ち着かなかったことが一つ。食事のクオリティはよいのだが、「環境」というのが重要であることが、改めて分かった。コストパフォーマンス(費用対効果)がよくても、狭い座席でがやがやうるさかったりすると、気分が落ち着かない。そう考えると、おいしい食事を家に持ち帰って、ゆっくり食べるというスタイルが一番良い。しかし、宅配系(ピザにとどまらず、和食洋食、寿司など今や様々)は、味はそこそこだが、コストパフォーマンスが良いとは残念ながらいえない。
じゃあ自分で作ろう、というのも、作るというよりも、後片付けが面倒だったりする。
良質な睡眠
そして、寝落ちしてしまったことが反省すべき点の二つ目。疲れて家に帰るというのは、まぁ、日常茶飯事であるが、休日前となると、気が抜けているのだろう。ほぼ床で寝ていた。エアコンもかけっぱ、電気もつけっぱ。当然、睡眠の質は悪くなる。
深夜、明け方など、何度も目が覚める。しかし、頭の病みがひどくて、起き上がることはできない。膀胱に負担がかかって、お手洗いには何とか行くが、またきれいに布団もしかずに寝てしまう。
そして、何とか気合を入れて起きる。風呂に入る。そして、やっぱり具合が悪くて、寝る。
そんなことを繰り返しながら、もう外は暗くなってしまった。
本当は、日用品など、買い物に行かなければならない。食事もまともにできていない。
かろうじて、洗濯だけはできた。
クレジットカードの整理
やることは、結構あるのだ。まず、掃除、片付け。
本が、書類が、暴れ始めている。
良質な部屋空間がつくれていない。
頭を整理したい。身体を整理したい。
費用面を整理したい。
クレジットカードを、2枚ぐらい解約したい。しかし、生活費の自動引き落としになっていたり、ポイントがたまっていたりと、少しばかり対処が必要である。
それでも、スマートホンの解約、格安SIMへの切り替えよりかは楽だろうが、気分がのらない。節約効果も、年間2000円いくかどうかである。ポイント利用を考えると、もとが取れなくもない状態。ただし、ポイントというのは、その対象のお店でしか使えないため、買い物の幅の限定がなされる。それでもよかったのだが、もっとよいお店を見つけてしまったので、必ずポイント対象の店を利用しなければならないというのは、デメリットが大きくなっているというわけである。
とかなんとか、そんなこと書いている暇があったら、解約に向けて行動すればよいのだが、どうにもこうにも、やる気が起きない。ダメ人間である。
分かりやすい文章の語順
無駄、の話に戻る。無駄って何なのか。
先日、分かりやすい文章技術の本を読んだと書いた。その中で、修飾語の使い方については、悩むことも多かったため、参考になったことがある。
・長い修飾語を先にする。
・語順を整える。
一点目の、長い就職後というのは、ちょっとまだ、意識して使えるほど理解はできていない。
語順というのは、いつ、どこで、だれが、だれに、何を、どうした、という順番が、日本人には一番わかりやすいのだということである。修飾語を使うときも、そういった順番にするのがよいということだ。
5W1Hというのがあるが、これは、
・Why
・When
・Where
・Who
・What
・How
である。
ただ、「なぜ」というのは、レポートとか、上司への報告のときが主であって、会話だとか、流れで文章を書く際には、いちいち、なぜを書かない場合が多いだろう。
そうしたときは、
・When(いつ)
・Where(どこで)
・Who(だれが)
・Whom(だれに)
・What(なにを)
・How(どのように)
という順番を意識して文章を書くとよいということだ。
ちなみに、Whomは、英語圏のひとも、あまり使わなくなってきているということをどっかの記事でみたような気がする。
とまぁ、5W1Hとか気を付けて書きましょうとかは、当たり前に誰でも知っていると思うけれども、その順番も意識する必要がある、という点については、大事なんだろうなぁとは思っていたけれど、どういった順番が好ましいのかは初めて知った。
(まぁ、必ずしもその順番でなければいけないということでもない。そもそも、文章技術の一つとして、強調したい事柄を後ろにもっていく、または前にもっていく、というのもあるわけで)
まぁともかく、たくさん書くことが重要だ。たくさん書く中で、一つか二つか、少しずつ、そのわかりやすいとされている技術を吸収して、使えるようになっていけばいいのだ。
よい文章が書けないからといって、完璧な文章を書かなければならないといって、何もかけなければ、いっこうに成長などしないだろう。
そうそう、そういった意味で、ある精神科医のブログにおいて、「大人になるためには」といった記事を読んだ。
大人になることを引き受けることが重要
大人って、なんやねん。ということは本記事の目的ではないけれども、簡単に定義しておこう。大人とは、その場に適した行動をとれる人間である。
面白くもなんともない定義である。まぁ、ひとそれぞれ、思い思いの大人に対するイメージというものがあるだろう。その個々具体的な大人イメージで、読んでもらっても大きな主旨逸脱にはならないと思う。
その、僕が見かけた精神科医さんの記事において、「大人ってのは、なるものではなく、引き受けるものである」というのが印象に残った。
成人式を過ぎたら大人になる?
お酒を飲めるようになったら大人?
お金を稼いだら大人?
会社に入ったら大人?
選挙に行ったら大人?
結婚したら大人?
子供ができたら大人?
まーいろいろ、きっかけはあるだろう。そのどれも大人になる要素かもしれない。ただし、その人が、「大人をやろう!」という気持ちにならなければ、結局、大人になどなれないのだ、ということだ。
大人っぽくふるまうようにしていれば、そのうち大人に近づいていくということである。大人、自然化論である。
さて、では、僕は大人なのだろうか?
大人的な思考や、大人的なふるまいはできる、と思っている。
ただそれは、何も今最近できるようになったというよりかは、高校……というのは大げさかもしれないが、少なくても大学ぐらいにはできるようになっていた。
その、大人という定義が、「自分を律する」ということであれば、の話だが。
立派な大人
わかりやすい文章とは、そもそも、前書きとして、どんな文章なのかの概要・サマリーがあった方が良いのだという。しかし、先日書いた通り、僕は何も、主張をしたいというわけではない。自動筆記だ。思うがままに書いている。メモだ。
――ということを、いつまでも繰り返しているのは、どうにも子供っぽいだろう。ので、こっから先の話の流れを書いておこう。
無駄とは何か。
大人とは何か。
それらに対しての僕の現時点の考えをメモすることで、今後の行動や、動機付けへの一助となす。
ということで、無駄って何? ってところに、もう一度戻ってみよう。何もないところから考えることもできないので、他の人のブログなどを見て思ったことから始めよう。
ブログには、二種類あると思う。
他者さんのブログとか見ていると、「主張」するブログと、「メモ」するブログがある。
例えば、「30代OLの婚活日記」とかは、後者の「メモ」するブログである。それらは、まさに黎明期のブログを彷彿させる。日記やSNSとの境界が非常にあいまいで、日々の思いやできごとを、つらつらと書いていく形式。テーマはあったり、なかったりする。
テーマがないものが、より、mixiとかfacebookとかインスタグラムとか、そっちに近いだろう。コミュニケーションツールとしての役割が強い。
テーマがあるものは、上にあげた、婚活日記とか、アーリーリタイアを目指すブログとか。ちなみに、僕は、おぼろげながら一応テーマはあるのでこっち側。
主張するブログとは、テーマがより明確になったもの。政治的主張だったり、宗教的主張だったり、思想的主張だったり。または、商品の宣伝だったり、ヒーリング技術の伝達だったり、ダイエット法だったり。硬いブログ、といってもよいかもしれない。それらは、伝えたいものがはっきりしている。いわゆる、「役に立つ情報」の提供を目的にしている。(そして、その目的は、思想的フォロワーだったり、金銭であることが多い……ように思われる)
やわらかい < かたい
◇テーマなしブログ < テーマありブログ
(SNS)
え……ものすごい話それた。無駄の話だよね。いやその、無駄って、何に対しての無駄なの? ってのを、考えとく必要があるんじゃないか? ってことを書きたかっただけなんだけど。
しかしだ、これって、さも論理的っぽいが、詭弁の一種でもある。
「良い会社とは何か?」
ということを友人から問われたとして、「残業が少ない会社だと思う」と答えて、
「残業が少ないからといって、良い会社とは限らない」
と言われたら、話が進まない。
そこで、「じゃあ、残業が少ない会社を探そう」ということになれば発展的だが、「良い会社」ということの定義について話し合ったとしても、そんなもの、答えなどでるわけはない。「無駄」な議論ということになる。
同じように、「どうしてそう思うの?」とかいうのも、どうでもいい切り替えしである。とりあえず議論ってのは、「前提」を立てたうえで、論理的に話・事実を構築していくことが重要なのであり、途中までくみ上げてから、「そもそも、その前提ってさぁ」とか言い出すのは、詭弁でしかない。詭弁って何か? 無駄ってことだ。
話が長いし面白くないって?
まぁ、まちたまえ。重要なことである。つまり、「生きる意味って何?」というのも、そもそもの「前提」を問うたものであるのだ。
つまり、言ってしまえば、答えなどでないのである。
いや、それは微妙にニュアンスが違う。
共通、普遍的な答えはありえない、ということである。
ここで、雑念というか、無駄な疑問として、「そもそも、生きる意味なんて考えられるだけ幸せなんだよ」というものがある。これは、無駄な問いである。
とにかく、今、「生きる意味」を問うているのだ。その前提を覆すようなことを言うのは、詭弁である。
しかし、よくある言説としては、「そもそも、生きる意味なんて考えるだけ無駄なんですよ!」というものである。なんと嘆かわしい、と僕は頭を抱える。
2011年の記事
過去の記事なのだが、
何か行動をして、何らかのモノやコトを成して、人と関わり、生きる。実際、生きる意味だとかいう問いは無意味である、間違いないのだがしかしながら、こうした問いをもってしまう人間とそうでない人間がいるという違い、その違いが非常に重要なのである。~中略~こうした文章に価値を見いだせない人は多いのは当たり前だし、生きる意味だとかくそったれな思考が生じるのと同じぐらいに無意味である。だが思うに、それこそ中学生のときから、安らぎは文字の中にあったようである。あえて、という副詞は卑屈だが、理解を求めているのではない。
~中略~僕の表現することが、一言、凡人の悩みと一喝することが社会的に有意なのだけれども、そこからこぼれ落ちるものが「ある」という認識が、2010年からの気付きであり、プラスマイナス上下は分からないが、「成長」と思う。
これが素晴らしいことであり、価値あることなのだと、誰も疑わない。僕も疑わない。
人間の価値は、生産することである。モノ・コト・ヒトを生み、成長させることである。
当たり前だ。そして、その中に、楽しかったり、苦しかったり、いやだったり、うれしかったりといった、感情がある。しかしその感情もまた、単に、生産のためにあるのだ。
人は生き、生み、育て、死ぬ。そのPDCAサイクル。終わらない輪廻。繰り返される事象。
ああ、人間とは、世界とは、なんと美しいものなのか。素晴らしいものなのか! 神や仏や、先祖や両親に限りない感謝を! そしてこの喜びと愉悦を、後代に伝えていこうではないか! 人類は、世界は、自然は、地球は、本当に素晴らしきものなのだと!!
70%の行動と30%の思考
上に書いたことは、胡散臭いと思われるかもしれないが、本心の一つでもある。いやー素晴らしき世界ですよ、ほんと。いじめはなくならないし、騙して金取ろうとする人もいるし、自殺する人もいるし、ブラック企業だってあるし、迷惑かけてばっかのやつもいるし、自分勝手でむかつくやつもいるし、犯罪や人殺しもなくならないし、民族紛争だってあるし、ミサイルで恐喝するところもあるし、いろいろあるけどね!(かっこハートとか、ホシとか、オンプとか)
まぁ世の中、それなりにうまくいってんじゃない? 70億人もヒトいるし。(日本は2050年には1億切るらしいけどね)
厭世的になる必要などない。一人ひとり、できることをやって、よりよい社会や世界に貢献していけばいいのだ。
ということで、70%ぐらいの時間は、そういった思考と行動にあてている。
だが、30%ぐらいは、どうにもその70%が胡散臭いので、こうやってブログを書いている。
もう、こういう性格なのだと諦めたのが、1~2年前に、ブログを復活したころである。
いやはや、2011年ぐらいに、いやもっと前から、「生きる意味」なんて考えても無駄だなんてこと、分かっていたのである。
わかっていたのだけれども、どうにも、やっぱり「ココ」に戻ってきてしまうのである。
何をやっても、何を考えても、やっぱり、「疑問」が生じるのである。
「考えるのが好きなんだね」
と言われた。
「答えを出す気がないんですね」
と言われた。
実は、だいぶショッキングなコメントであった(かっこわらい)。
いや、感謝でしかないのだが、よい表現が浮かばないので、テキトウな言葉で書けば、傷ついた(かっこわらい)。
よくは覚えていないが、確か、言い訳めいた返信をしたような気がする。きっとそれって、図星つかれたからだ。
けど。けれども、やっぱり反論したい。
考えること自体好きとか、答えを出したくないとか、そんなことはきっと、ないんだろうと。
だって、「答え」って、「幸せに生きる」ことじゃん? 「楽しい」ことじゃん?
それに対して、どうして、「生きる意味」とか、面倒で、うさんくさくて、ネガティブで、つまらないようなこと考え続けなきゃいけないわけ? そんなことに大切な時間を使わなきゃいけないわけ?
もっとお金かせいだり、人脈ひろげたり、仕事で役に立つようなことしたほうがよくない?
当たり前だよね。
僕もそう思うよ。
でもやっぱり無理っぽかった
そして、そんな風に思ったのは、何も今にはじまったことではなく、2011年とか、そのあたりの記事を読んでれば、似たような感覚だったことはわかる。そしてその頃は、できるだけ、「イッパンノヒトタチ」になれるように頑張ったような気がする。つまり、考えないようにしよう、と。
でも、一度このあたりに気づいてしまった人は、多分もう、逃れられないんだと思う。以前は、「呪い」なんてまがまがしい言葉で表現したこともあった。
その疑問と、仕事か、趣味か、うまい具合に紐づけられた人は、きっと社会的にも成功しているんだと思う。そういう人がつくる作品って、きっと面白いと思う。
ふと、思い出せば、たくさんの「悪かった」思い出がよみがえる。
惰眠していて、いくつも見た夢のせいもあるかもしれないが、まぁ、ほかの人と比べたら大したことがないんだろうけれども、いろいろあったなぁ、と思う。
よくまぁ、ここまで生きてきたもんだ。すごいすごい(棒読み)。
まぁ、なんやかんや言って、あと50年ぐらいでこの世界ともおさらばだろう。
きっと、あっという間だろう――何も考えていなければ。
そう、あっという間だ。頭が痛いとかいって、寝ぼけてる場合じゃなかった。サイトの改修とか、仕事の勉強とか、株の勉強とか、読書とか、物語創ったり、作曲したり、そもそも、食料買いに行かないと食べるものがねぇ!(笑)
モチベーションが回復中
と、まぁ、ここまで40分ぐらいで、7000字ぐらいか。引用も、考えてる時間もあるからなんともいえないが、1分100文字~150文字ぐらいはタイプしている気がする。これぐらいやっていると、ようやくやる気が回復してくるのである。
ある意味、非常に、効率の悪い性格というか、行動特性である。
やる気出すのに高速タイピングする必要があるというのは如何なものか。しかし、よく思い起こすと、高校のときも、なんだかすげー気分がのらないときは、紙のノートに、やっぱりこんなよくわからない、無駄なことを書き連ねていた気がする。
そう考えると、15年ぐらい前から、こんなことを続けている、というわけか。そりゃあなかなか変えられないだろう。人はなかなか変わらないのである。
モチベーションは回復した。
ようやく、こっから、考えることができそうなのだが、とにかく長くなったのでここまでにしよう。
(えーっと、中身のない記事になったな、いつものことながら! 一つ、情報を抽出するとすれば、「生きる意味なんて考えても無駄」というのは、「正論」でありながら、僕の心には響かないであろうということである。ある精神科医さんの、ロゴセラピーとか、実は、「意味を問い続けても、行動と結びつかなければそれ自体に価値はない」というようなものに思えるのだけれど、頭ごなしに「生きる意味なんて考えても無駄」と言われるよりかは、伝わってくるものがある。その理由は、十分に、そのことを考えるべき必要性を分かったうえで、そこから逃れる(無限遡及的な思考のループからの脱却)方法を提示しようとしているからなのだと、思うのだけれども、まだまだ勉強が足りない部分)
今日の一言「わかりやすい文章を書く技術」「そんなん、短かったらええやん」
「僕は長い記事が書けるのではなく、短い記事が書けないのではないか?」
ということで、テーマは、ブログについて思うことと、他者に期待すること、として、短い記事を書く練習をしてみよう。
初めに、僕が、すごいなと思うブログさんの特徴を挙げてみよう。それは、ある程度長い記事が書けることというのと、長らく続けられていることである。
この文脈上で、僕のブログはどうなのか、ということを先に考えてみる。
まず、僕は、ある程度長い記事を書ける。
長ければ良いというものではない。ただし、ある程度、意味の連続性が認められる状態で、文章を連ねていくというのは、やろうと思ってもなかなかできないことである。
まったくブログを書いたことがない人や、日記など書いたことない人が、「さぁ今日からたくさん書くぞ!」と思ったところで、長くは続かないだろう。
なので、内容はともかく、ある程度の文章量があるブログさんをすごいと思う。
では、次の、続けられている、ということを考えてみる。
確かに、始めたばかりのころは、「さぁ書こう!」という気概もあいまって、非常に良質な記事を量産できることだろう。
しかしながら、「すげーっ!」って記事が多くても、多くの人は、1~2年……いやはや、もっと短いスパンで辞めてしまうことが多い。
まぁ、これは当たり前と言ったら当たり前である。理由は二つ。
そんな中で、変わらず、文章を書き続けるってことは、よほどの動機がないと難しいことだろう。
変われないというのは、身体的特徴……例えばダイエットの成果だとかそんなところから、思想信条、価値観といったものまで。様々な人や環境からの影響で、ターニングポイント(ある契機で方向転換すること)になることはあっても、パラダイムシフト(既存の価値観自体が変化すること)することは少ないのだ。
なので、1年や2年ではなく、もう何年も前から続けられているようなブログさんは、それだけで価値があると思っている。
そういう意味だと、僕は、10代半ばから書き始めて、もう10年以上は続けているということになる。
「おめー、そんな長くやっていて、この程度の文章しか書けないのかよ(かっこわら)」
と、思われることも仕方がなかろう……。確かに、クオリティは低いだろう。
しかしだ、冒頭の目的の通り、敢えて肯定すれば、ある程度の文章量を担保しつつ長らく書き続けられているというのは、それは一つの肯定ポイントだ。
有益な情報もありながら、概略は殆ど知っている……と書くと傲岸不遜になってしまうが、辞書的な使い方が適しているとは思った。
いやそれよりも、つまり、「わかりやすい文章」というのは、相手に理解してもらえる文章ということであり、じゃあそれって結局のところ、「わかりやすいテーマ」であることが最重要である。
いや確かに、文章技術の体系としては、よくまとまっている本だと思った。
確かに確かに、その内容をしっかり身に着けて、使えるようになるのは、遊びでも仕事でもいろんな面で大切なんだろうと思った。
でも僕は、「そこじゃない感」があった。それをそもそも、上手に説明できないのだが、なんというか、求めている技術は、――今がそうであるだけかもしれないが、それではないのだと。
いやさ、わかりやすい単語選びをして、わかりやすい表現にして、わかりやすい構成にして、わかりやすいテーマにしていくというのは、そりゃあ、相手に理解してもらうって意味で、非常に重要だと思う。そもそも、いっくら簡単な英文法と英単語で表現したところで、英語をちっとも分からない人には伝えられないのと同じで、専門用語がガリガリちりばめられた文章なんて、ちょっと見ただけでKOされてしまいそうである。
しかし、僕が表現したいこと、明らかにしていきたいことというのは、そもそも「伝えたいこと」というのが明確になっていないのである。
わかりやすい表現にすると、「生きる意味」とかいうことにもなるっちゃあなるが、先般、コメントいただいた通り、「人生の意義を知りたいのか」「一生で成し遂げたいことを知りたいのか」といった、そもそもの定義がしっかりしていないと、意味がないのではないか、ということもある。
僕はそのコメントに対して、「うーん、そうですねぇ、それら全体ですかねぇ」と答えた気がする。
つまり、曖昧で、つかみどころがないものなのである。
「そんな、よくわからないことに関しての文章になんか、付き合いきれんわ!」
と思われる方が大半であろう。まぁ仕方がない。
そういう思いが強いので、先日の記事でも、「基本、読者想定は未来の自分ッス」とか書いたのである(書いた、というよりも、自動筆記(思うがままに書いている)ので、頭に浮かんだ、といった表現のほうが正しそうだが)。
とはいえ、別に、四六時中そんなことを考えているわけでもない。
仕事もあれば、遊びもある。生活はバランスが大事だ。さらには、その仕事の中にも集中と散漫があったり、遊びの中に真剣があったりもする。結局、仕事とか遊びとか、それらは人間の感覚(便宜上の分類・区分)であって、24時間という普遍的な時間単位は、明確に区分できるものではないのだ。
で、なんだ、その。短い記事にしようと思って、結局だらだら続いているわけである。
やっぱり、僕は短い記事をかけないのだろう……、というか、全然面白みを感じないのだ。書いていてもそうだし、後から読んでも。
とにもかくにも、だ。長い記事が書けるということと、長く続けられているということを、敢えて肯定的に書いてみた。自画自賛と言われてしまうだろう。
しかし、こう、あんまり、「わかりやすい文章を書こう!」ということに気を取られすぎても仕方がないと思う。そりゃあ、あれだ、何か「答え」があって、それを適切に伝えるべき場合であれば、当然、わかりやすく、丁寧に文章を書くべきだ。
僕のブログは、違うのだ。答えがないのである。伝えたいことはきっとある。しかし、その伝えたいことが、自分自身もよく分かっていないのである。
そして、厚顔無恥であるが、それでよいのである。
このブログは、いまだ、進歩の途中、なのである。変化を繰り返しているのである。
だから、読み手に、誤解を生じさせてもよいのである。いやむしろ、その誤解から生じた言葉が、僕自身に、新たなる変化を生じさせる可能性だってあるのだ。
まとめよう。
わかりやすい文章を書く技術とは、「伝えたいこと」が明確な場合に役に立つ技術である。
「伝えたいこと」が明確ではない、考えることそのもの、またはそのプロセスを表現する場合は、その技術は時に、反転して「わかりにくさ」を生じさせる可能性がある。
その「わかりにくさ」とは、わかりやすい文章にするための技術によって取り払われた文章の機微、冗長性といった、余分なものそれ自体が、実のところ、考えるべき、伝えたいことの一片である可能性である。
上の下線部を、わかりやすい文章技術によって、改変してみて、この記事を終わらせる。
(元)余分なものそれ自体が、実のところ、考えるべき、伝えたいことの一片である可能性である。
(修正)本当に考えるべきことや伝えたいことは、余分であると捨ててしまった文章自体に、実は含まれている可能性がある。
(本当は、スマホの調子やPCの調子や、最近遭ったよくない事のメモをしたかったが……。いやはや、人生とはままならぬものである、とか、大げさか)
短い記事を書こう
僕はふと気づいた。「僕は長い記事が書けるのではなく、短い記事が書けないのではないか?」
ということで、テーマは、ブログについて思うことと、他者に期待すること、として、短い記事を書く練習をしてみよう。
初めに、僕が、すごいなと思うブログさんの特徴を挙げてみよう。それは、ある程度長い記事が書けることというのと、長らく続けられていることである。
この文脈上で、僕のブログはどうなのか、ということを先に考えてみる。
まず、僕は、ある程度長い記事を書ける。
肯定ポイント1:長い記事が書けること
長い記事が書ける、といっても、週に二、三回、5000字程度のものであるが、結構量が多い方だと思う(何と比べて、といえば、ブログなんて書いたこともないような人たちも含めて、である)。長ければ良いというものではない。ただし、ある程度、意味の連続性が認められる状態で、文章を連ねていくというのは、やろうと思ってもなかなかできないことである。
まったくブログを書いたことがない人や、日記など書いたことない人が、「さぁ今日からたくさん書くぞ!」と思ったところで、長くは続かないだろう。
なので、内容はともかく、ある程度の文章量があるブログさんをすごいと思う。
では、次の、続けられている、ということを考えてみる。
肯定ポイント2:続けられること
2点目は、長らく、続けられているということである。確かに、始めたばかりのころは、「さぁ書こう!」という気概もあいまって、非常に良質な記事を量産できることだろう。
しかしながら、「すげーっ!」って記事が多くても、多くの人は、1~2年……いやはや、もっと短いスパンで辞めてしまうことが多い。
まぁ、これは当たり前と言ったら当たり前である。理由は二つ。
一つは、生活の変化。
10年も20年も、同じような生活を続ける人ってのはまれである。特に、激動の10代、20代なんて、付き合う人も変われば環境も変わり、住むところも変われば、好きな食べ物や鑑賞対象だって変わるかもしれない。そんな中で、変わらず、文章を書き続けるってことは、よほどの動機がないと難しいことだろう。
二つ目は、その人自身の変化のなさ。
一つ目の理由は、変化があることを挙げたが、二つ目は、逆に変化をしないことが理由となる。すなわち、人は、実のところ、そんなに大きくは変われないのである。変われないというのは、身体的特徴……例えばダイエットの成果だとかそんなところから、思想信条、価値観といったものまで。様々な人や環境からの影響で、ターニングポイント(ある契機で方向転換すること)になることはあっても、パラダイムシフト(既存の価値観自体が変化すること)することは少ないのだ。
なので、1年や2年ではなく、もう何年も前から続けられているようなブログさんは、それだけで価値があると思っている。
そういう意味だと、僕は、10代半ばから書き始めて、もう10年以上は続けているということになる。
「おめー、そんな長くやっていて、この程度の文章しか書けないのかよ(かっこわら)」
と、思われることも仕方がなかろう……。確かに、クオリティは低いだろう。
しかしだ、冒頭の目的の通り、敢えて肯定すれば、ある程度の文章量を担保しつつ長らく書き続けられているというのは、それは一つの肯定ポイントだ。
まとめ
なので、皆さんも、あまり内容のことは気にせずに、できるだけ長い文章を、そして、できるだけ長い間続けられることを目指して、日々努力していってください! 以上!裏のまとめ
というような、今回の記事になった理由の一つは、「わかりやすい文章を書く技術」といった系統の本を流し読みしたからである。有益な情報もありながら、概略は殆ど知っている……と書くと傲岸不遜になってしまうが、辞書的な使い方が適しているとは思った。
いやそれよりも、つまり、「わかりやすい文章」というのは、相手に理解してもらえる文章ということであり、じゃあそれって結局のところ、「わかりやすいテーマ」であることが最重要である。
いや確かに、文章技術の体系としては、よくまとまっている本だと思った。
確かに確かに、その内容をしっかり身に着けて、使えるようになるのは、遊びでも仕事でもいろんな面で大切なんだろうと思った。
でも僕は、「そこじゃない感」があった。それをそもそも、上手に説明できないのだが、なんというか、求めている技術は、――今がそうであるだけかもしれないが、それではないのだと。
いやさ、わかりやすい単語選びをして、わかりやすい表現にして、わかりやすい構成にして、わかりやすいテーマにしていくというのは、そりゃあ、相手に理解してもらうって意味で、非常に重要だと思う。そもそも、いっくら簡単な英文法と英単語で表現したところで、英語をちっとも分からない人には伝えられないのと同じで、専門用語がガリガリちりばめられた文章なんて、ちょっと見ただけでKOされてしまいそうである。
しかし、僕が表現したいこと、明らかにしていきたいことというのは、そもそも「伝えたいこと」というのが明確になっていないのである。
わかりやすい表現にすると、「生きる意味」とかいうことにもなるっちゃあなるが、先般、コメントいただいた通り、「人生の意義を知りたいのか」「一生で成し遂げたいことを知りたいのか」といった、そもそもの定義がしっかりしていないと、意味がないのではないか、ということもある。
僕はそのコメントに対して、「うーん、そうですねぇ、それら全体ですかねぇ」と答えた気がする。
つまり、曖昧で、つかみどころがないものなのである。
「そんな、よくわからないことに関しての文章になんか、付き合いきれんわ!」
と思われる方が大半であろう。まぁ仕方がない。
そういう思いが強いので、先日の記事でも、「基本、読者想定は未来の自分ッス」とか書いたのである(書いた、というよりも、自動筆記(思うがままに書いている)ので、頭に浮かんだ、といった表現のほうが正しそうだが)。
とはいえ、別に、四六時中そんなことを考えているわけでもない。
仕事もあれば、遊びもある。生活はバランスが大事だ。さらには、その仕事の中にも集中と散漫があったり、遊びの中に真剣があったりもする。結局、仕事とか遊びとか、それらは人間の感覚(便宜上の分類・区分)であって、24時間という普遍的な時間単位は、明確に区分できるものではないのだ。
で、なんだ、その。短い記事にしようと思って、結局だらだら続いているわけである。
やっぱり、僕は短い記事をかけないのだろう……、というか、全然面白みを感じないのだ。書いていてもそうだし、後から読んでも。
とにもかくにも、だ。長い記事が書けるということと、長く続けられているということを、敢えて肯定的に書いてみた。自画自賛と言われてしまうだろう。
しかし、こう、あんまり、「わかりやすい文章を書こう!」ということに気を取られすぎても仕方がないと思う。そりゃあ、あれだ、何か「答え」があって、それを適切に伝えるべき場合であれば、当然、わかりやすく、丁寧に文章を書くべきだ。
僕のブログは、違うのだ。答えがないのである。伝えたいことはきっとある。しかし、その伝えたいことが、自分自身もよく分かっていないのである。
そして、厚顔無恥であるが、それでよいのである。
このブログは、いまだ、進歩の途中、なのである。変化を繰り返しているのである。
だから、読み手に、誤解を生じさせてもよいのである。いやむしろ、その誤解から生じた言葉が、僕自身に、新たなる変化を生じさせる可能性だってあるのだ。
まとめよう。
わかりやすい文章を書く技術とは、「伝えたいこと」が明確な場合に役に立つ技術である。
「伝えたいこと」が明確ではない、考えることそのもの、またはそのプロセスを表現する場合は、その技術は時に、反転して「わかりにくさ」を生じさせる可能性がある。
その「わかりにくさ」とは、わかりやすい文章にするための技術によって取り払われた文章の機微、冗長性といった、余分なものそれ自体が、実のところ、考えるべき、伝えたいことの一片である可能性である。
上の下線部を、わかりやすい文章技術によって、改変してみて、この記事を終わらせる。
(元)余分なものそれ自体が、実のところ、考えるべき、伝えたいことの一片である可能性である。
(修正)本当に考えるべきことや伝えたいことは、余分であると捨ててしまった文章自体に、実は含まれている可能性がある。
(本当は、スマホの調子やPCの調子や、最近遭ったよくない事のメモをしたかったが……。いやはや、人生とはままならぬものである、とか、大げさか)
今日の一言「あータイトル考えるの面倒」
うーん。なんだか、「驚き」は最後にもらったけれども、なんだか良い作品を見終わった後の、素敵な余韻というものを感じるには至らなかった。とはいえ、序盤であった、シンドーさんの、「俺たちは神じゃない。何が正解か、ずっと考えていく必要がある」だとか、重要な表現は与えてくれた作品であったことは間違いない。
ので、ストーリーとか、結局〇〇になってしまって人類の進歩なんてどうでもよくなってしまったとか、そういったことは置いておいて、テーマ性の部分についてメモしておこう。
なるほど、世界は、特に先進国は、「完成」してしまった。
その完成というものは、自然を克服し、安全対策を施し、富や教育の再分配を行い、娯楽や生きがいが提供された人間社会である。
当然、例外者は存在する。社会システムから外れてしまった人や、コミュニケーションをうまく行えない者。チャレンジに失敗し負債を抱えたものなど、挙げればきりはなかろう。
それでも、ある程度は、平等で幸福な社会が構築された。
一億総中流という幻想が崩れてしまった、などと知識人はいうだろうが、それでも、世界の多くの国々や、500万年前だか1万年前だかの人類の歴史と比べれば、比類なき安全性や、幸福性等で満たされているだろう。
社会システムには、いたるところでほころびがある。それでも、悪法もまた法であり、たえまない人類の努力によって構築されてきた社会である。全世界の幸福と平和を与えられるような「正解」というのはなかなか見つからない。一つの場面で有効であった方策が、ある方面では失敗だったり、ある人や分野や集団に負担を強いるようなものだったりする。
ナショナリズム(国や州や県や地域や特定の集団などの利益を強固に追求すること。「仲間」と線引きされなかった「外側」に対しての考慮は優先されない(時に攻撃の対象となる))的な政治の動きが昨今はやりだしたのも、その一つの反動であると思う。
というような、一歩引いた目で見ることができる人は、いわゆるインテリ、知識人やコメンテーターといった人たちにおいては可能であるが、それが、大きな思想的潮流にはなりえない。例えば、日本の過去の戦争について、全国民が熱狂的に戦争を支持したかどうかはともかく、戦争に反対する人たちもまたいたのである。しかし結果は誰もが小学校で習っているとおりである。
いやそれどころか、歴史を少しでも学んだことがある人なら、いかに人が愚かであるということが、身に染みてわかるはずだ。いやいや同時に、その人の営みというのが、なんと素晴らしいものかと感動に打ちひしがれる人もいるだろう。それは感覚の問題であるので、本記事の趣旨と離れる。
まとめると、
・現代社会は完成している。
・しかし、ほころびは多く生じている。
・変えようとする意思は存在する。
・しかし、うまくいっていない。
という主張である。
異論、大いに結構。ますます世界はよくなっているという認識をもっている人はそれはそれでいい。ただし、「完璧なる人類幸福」というものを想像したときに、いかに世界の矛盾や不条理が大きいことか。そして、その大きな潮流に、我々の力の及ぶところが小さなことか。
こんなことを思っている私であるが、先日、「世界が悪いものだと思うなら、それを自分で変えたらいいじゃないですか」とお言葉をいただいた。笑ってしまうほど正論で、頭が下がる。何ら反論はない。
そして、本作、正解するカドでテーマの表現として得たこととしては、上に書いた「進歩とは途上であると認識することだ」ということである。そう。理不尽だ、不愉快だ、もう大きな変化は望めないとか、そんなこと言ってる暇があったら、自分が、自分で、大きなことを成せばいいのだ。人類は進歩し続ける。そして、己もまた、その生を終わらせるそのときまで、進歩し続けるべきなのだ!!
……。ということについて、共感はするのだが、実感にもっていってくれるには遠かった。その点が残念だ。テーマとしてはよかった。よかった――というか、僕好みであった。しかし、表現としては、惜しかった、といった感想である。
(なにせ、僕が本当に伝えたいこと、表現したいことは、その「正論」の恐ろしさであるのだ。批評は誰でもできる。悪かった点を挙げるのなんて簡単だ。大事なのは、その問題をどう解決するのか、ということである。僕は最近、その点しか興味がないといってもよいかもしれない)
まったく同一のものに別の価値を与える力
1(イチ)しかないものに1(イチ)以上の情報を与える力
それが人類の生んだ未曽有の力
それが、ザシュニナと真堂から生じている
くしくも、最近学んでいる、ある精神科医の「唯一性と一回性」という表現と、同義に思えた点が興味深かった。
人類の特異点とは何か?
つまり、人類が、人類としての価値を帯びるのは、どのような能力か、ということである。
それは、完全な情報のコピー(複製)ではなしえない、その瞬間、独自に生じる個体そのものに、有機的な意味をもたせるということなのだ。
と、なるとだ、やっぱり、量子テレポーテイションとか、クローンとか、遠隔操作義体だとか、電脳の外部記憶とか、頭部移植手術とか、それらは本当に、唯一の個人の連続性が保たれるものなのかということとか、非常に気になり始めるものだ。
あーその、文章を書く技術として、しばらく寝かせる、ってのがある。
書いてすぐは、冷静な判断ができていないから、良い文章が書けないと。その「よい」というのは、相手に伝わる文章ということ。
ぶっちゃけ……なんか、もっと雅な言葉づかいで表現したいが、ぶっちゃけって、何か他に言い換えられるだろか? 率直に言うと、とか? なんかちょっと違う。忌憚なく言えば、とか? それもなんか違う。
広辞苑をひく。「包み隠さず話すということ」。え、まじか、俗語じゃなくて、ちゃんと言葉としてあるんだ。じゃあ、まぁ、いいか。
ええと、ぶっちゃけると、別に、万人普遍に伝えたいとか、全然思っていない。
誰か似たような感性の人とか、一部の表現だけでも、何か思うところを与えられたらそれで充分だと思っているし、実のところ、一番の読者想定は、未来の自分である。
ある方は、非常に有益な記事をたくさん書かれるのだけれども、一定期間たつと消してしまわれる。なぜ消すのですかと問うたら、情報は整理するべきものであり、何より、自分自身で見返すということを行わないからである、と仰られた(確か)。
僕はガンガン見返す。そして、内容の無さや稚拙さに「うぁぁぁあ」といって悶えるのである(マゾか!)。
意味、あんのかな。
ただ、たまーに、非常に面白い記事はあったりするのだ。そして、これが難しいところだが、その「おもしれえ!」って気持ちになる記事が、その時々で異なるのである。それゆえに、きれいに全部ばっさり整理するということがなかなかできない。うん、これ、整理できない人の典型的なパターンな気がする。
いつか見るかもしれない、いつか使うかもしれない、……と、なかなか捨てられない、と。
それで、まぁ、なんだ、その。
もう少し短い記事を書けるようになろうか、ということと、正解としては、やっぱり、個人として、僕として、俺として、私として、考えていかなきゃならんだろうということである。
一人ひとりしっかり考えろよ!
というテーマであったということだ。この作品は。だから、アマゾンのレビューコーナーとか活発なレビューが飛び交っているようだが、そういう意味で、本作は大成功だったといえよう!
(しっかし、前半のあのドキドキ感や期待感からすると、やっぱり、後半も、もうちょっと感動させてくれる作品になったんじゃあないかなぁと、惜しい気持ちが今も残る)
正解するカド見終わる
見た。うーん。なんだか、「驚き」は最後にもらったけれども、なんだか良い作品を見終わった後の、素敵な余韻というものを感じるには至らなかった。とはいえ、序盤であった、シンドーさんの、「俺たちは神じゃない。何が正解か、ずっと考えていく必要がある」だとか、重要な表現は与えてくれた作品であったことは間違いない。
ので、ストーリーとか、結局〇〇になってしまって人類の進歩なんてどうでもよくなってしまったとか、そういったことは置いておいて、テーマ性の部分についてメモしておこう。
進歩とは何か?
本作品で、テーマとして、伝えたかったこととして(考えられること)は、「進歩すること=自らを途中と思うこと」という点であった。なるほど、世界は、特に先進国は、「完成」してしまった。
その完成というものは、自然を克服し、安全対策を施し、富や教育の再分配を行い、娯楽や生きがいが提供された人間社会である。
当然、例外者は存在する。社会システムから外れてしまった人や、コミュニケーションをうまく行えない者。チャレンジに失敗し負債を抱えたものなど、挙げればきりはなかろう。
それでも、ある程度は、平等で幸福な社会が構築された。
一億総中流という幻想が崩れてしまった、などと知識人はいうだろうが、それでも、世界の多くの国々や、500万年前だか1万年前だかの人類の歴史と比べれば、比類なき安全性や、幸福性等で満たされているだろう。
社会システムには、いたるところでほころびがある。それでも、悪法もまた法であり、たえまない人類の努力によって構築されてきた社会である。全世界の幸福と平和を与えられるような「正解」というのはなかなか見つからない。一つの場面で有効であった方策が、ある方面では失敗だったり、ある人や分野や集団に負担を強いるようなものだったりする。
ナショナリズム(国や州や県や地域や特定の集団などの利益を強固に追求すること。「仲間」と線引きされなかった「外側」に対しての考慮は優先されない(時に攻撃の対象となる))的な政治の動きが昨今はやりだしたのも、その一つの反動であると思う。
というような、一歩引いた目で見ることができる人は、いわゆるインテリ、知識人やコメンテーターといった人たちにおいては可能であるが、それが、大きな思想的潮流にはなりえない。例えば、日本の過去の戦争について、全国民が熱狂的に戦争を支持したかどうかはともかく、戦争に反対する人たちもまたいたのである。しかし結果は誰もが小学校で習っているとおりである。
いやそれどころか、歴史を少しでも学んだことがある人なら、いかに人が愚かであるということが、身に染みてわかるはずだ。いやいや同時に、その人の営みというのが、なんと素晴らしいものかと感動に打ちひしがれる人もいるだろう。それは感覚の問題であるので、本記事の趣旨と離れる。
完成した社会
上の節が少し長くなってしまった。まとめると、
・現代社会は完成している。
・しかし、ほころびは多く生じている。
・変えようとする意思は存在する。
・しかし、うまくいっていない。
という主張である。
異論、大いに結構。ますます世界はよくなっているという認識をもっている人はそれはそれでいい。ただし、「完璧なる人類幸福」というものを想像したときに、いかに世界の矛盾や不条理が大きいことか。そして、その大きな潮流に、我々の力の及ぶところが小さなことか。
こんなことを思っている私であるが、先日、「世界が悪いものだと思うなら、それを自分で変えたらいいじゃないですか」とお言葉をいただいた。笑ってしまうほど正論で、頭が下がる。何ら反論はない。
そして、本作、正解するカドでテーマの表現として得たこととしては、上に書いた「進歩とは途上であると認識することだ」ということである。そう。理不尽だ、不愉快だ、もう大きな変化は望めないとか、そんなこと言ってる暇があったら、自分が、自分で、大きなことを成せばいいのだ。人類は進歩し続ける。そして、己もまた、その生を終わらせるそのときまで、進歩し続けるべきなのだ!!
……。ということについて、共感はするのだが、実感にもっていってくれるには遠かった。その点が残念だ。テーマとしてはよかった。よかった――というか、僕好みであった。しかし、表現としては、惜しかった、といった感想である。
(なにせ、僕が本当に伝えたいこと、表現したいことは、その「正論」の恐ろしさであるのだ。批評は誰でもできる。悪かった点を挙げるのなんて簡単だ。大事なのは、その問題をどう解決するのか、ということである。僕は最近、その点しか興味がないといってもよいかもしれない)
ザシュニナさんが気づいたこと
もう一つ、この正解するカドから、テーマを抽出してみよう。それは、ザシュニナさんのお言葉に表れている。まったく同一のものに別の価値を与える力
1(イチ)しかないものに1(イチ)以上の情報を与える力
それが人類の生んだ未曽有の力
それが、ザシュニナと真堂から生じている
くしくも、最近学んでいる、ある精神科医の「唯一性と一回性」という表現と、同義に思えた点が興味深かった。
人類の特異点とは何か?
つまり、人類が、人類としての価値を帯びるのは、どのような能力か、ということである。
それは、完全な情報のコピー(複製)ではなしえない、その瞬間、独自に生じる個体そのものに、有機的な意味をもたせるということなのだ。
と、なるとだ、やっぱり、量子テレポーテイションとか、クローンとか、遠隔操作義体だとか、電脳の外部記憶とか、頭部移植手術とか、それらは本当に、唯一の個人の連続性が保たれるものなのかということとか、非常に気になり始めるものだ。
それで結局正解とは?
と、まぁ、ネタバレとか全然関係なく思ったことを書きなぐった。構成とか全然考えていない。推敲も特になし、うん、適当である。あーその、文章を書く技術として、しばらく寝かせる、ってのがある。
書いてすぐは、冷静な判断ができていないから、良い文章が書けないと。その「よい」というのは、相手に伝わる文章ということ。
ぶっちゃけ……なんか、もっと雅な言葉づかいで表現したいが、ぶっちゃけって、何か他に言い換えられるだろか? 率直に言うと、とか? なんかちょっと違う。忌憚なく言えば、とか? それもなんか違う。
広辞苑をひく。「包み隠さず話すということ」。え、まじか、俗語じゃなくて、ちゃんと言葉としてあるんだ。じゃあ、まぁ、いいか。
ええと、ぶっちゃけると、別に、万人普遍に伝えたいとか、全然思っていない。
誰か似たような感性の人とか、一部の表現だけでも、何か思うところを与えられたらそれで充分だと思っているし、実のところ、一番の読者想定は、未来の自分である。
ある方は、非常に有益な記事をたくさん書かれるのだけれども、一定期間たつと消してしまわれる。なぜ消すのですかと問うたら、情報は整理するべきものであり、何より、自分自身で見返すということを行わないからである、と仰られた(確か)。
僕はガンガン見返す。そして、内容の無さや稚拙さに「うぁぁぁあ」といって悶えるのである(マゾか!)。
意味、あんのかな。
ただ、たまーに、非常に面白い記事はあったりするのだ。そして、これが難しいところだが、その「おもしれえ!」って気持ちになる記事が、その時々で異なるのである。それゆえに、きれいに全部ばっさり整理するということがなかなかできない。うん、これ、整理できない人の典型的なパターンな気がする。
いつか見るかもしれない、いつか使うかもしれない、……と、なかなか捨てられない、と。
それで、まぁ、なんだ、その。
もう少し短い記事を書けるようになろうか、ということと、正解としては、やっぱり、個人として、僕として、俺として、私として、考えていかなきゃならんだろうということである。
一人ひとりしっかり考えろよ!
というテーマであったということだ。この作品は。だから、アマゾンのレビューコーナーとか活発なレビューが飛び交っているようだが、そういう意味で、本作は大成功だったといえよう!
(しっかし、前半のあのドキドキ感や期待感からすると、やっぱり、後半も、もうちょっと感動させてくれる作品になったんじゃあないかなぁと、惜しい気持ちが今も残る)
