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短い記事を書く練習
2017/07/05 23:39 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「わかりやすい文章を書く技術」「そんなん、短かったらええやん」

短い記事を書こう

 僕はふと気づいた。
「僕は長い記事が書けるのではなく、短い記事が書けないのではないか?」
 ということで、テーマは、ブログについて思うことと、他者に期待すること、として、短い記事を書く練習をしてみよう。

 初めに、僕が、すごいなと思うブログさんの特徴を挙げてみよう。それは、ある程度長い記事が書けることというのと、長らく続けられていることである。
 この文脈上で、僕のブログはどうなのか、ということを先に考えてみる。
 まず、僕は、ある程度長い記事を書ける。

肯定ポイント1:長い記事が書けること

 長い記事が書ける、といっても、週に二、三回、5000字程度のものであるが、結構量が多い方だと思う(何と比べて、といえば、ブログなんて書いたこともないような人たちも含めて、である)。

 長ければ良いというものではない。ただし、ある程度、意味の連続性が認められる状態で、文章を連ねていくというのは、やろうと思ってもなかなかできないことである。
 まったくブログを書いたことがない人や、日記など書いたことない人が、「さぁ今日からたくさん書くぞ!」と思ったところで、長くは続かないだろう。

 なので、内容はともかく、ある程度の文章量があるブログさんをすごいと思う。

 では、次の、続けられている、ということを考えてみる。

肯定ポイント2:続けられること

 2点目は、長らく、続けられているということである。
 確かに、始めたばかりのころは、「さぁ書こう!」という気概もあいまって、非常に良質な記事を量産できることだろう。

 しかしながら、「すげーっ!」って記事が多くても、多くの人は、1~2年……いやはや、もっと短いスパンで辞めてしまうことが多い。

 まぁ、これは当たり前と言ったら当たり前である。理由は二つ。

一つは、生活の変化。

 10年も20年も、同じような生活を続ける人ってのはまれである。特に、激動の10代、20代なんて、付き合う人も変われば環境も変わり、住むところも変われば、好きな食べ物や鑑賞対象だって変わるかもしれない。
 そんな中で、変わらず、文章を書き続けるってことは、よほどの動機がないと難しいことだろう。

二つ目は、その人自身の変化のなさ

 一つ目の理由は、変化があることを挙げたが、二つ目は、逆に変化をしないことが理由となる。すなわち、人は、実のところ、そんなに大きくは変われないのである。
 変われないというのは、身体的特徴……例えばダイエットの成果だとかそんなところから、思想信条、価値観といったものまで。様々な人や環境からの影響で、ターニングポイント(ある契機で方向転換すること)になることはあっても、パラダイムシフト(既存の価値観自体が変化すること)することは少ないのだ。

 なので、1年や2年ではなく、もう何年も前から続けられているようなブログさんは、それだけで価値があると思っている。


 そういう意味だと、僕は、10代半ばから書き始めて、もう10年以上は続けているということになる。
「おめー、そんな長くやっていて、この程度の文章しか書けないのかよ(かっこわら)」
 と、思われることも仕方がなかろう……。確かに、クオリティは低いだろう。
 しかしだ、冒頭の目的の通り、敢えて肯定すれば、ある程度の文章量を担保しつつ長らく書き続けられているというのは、それは一つの肯定ポイントだ。

 

まとめ

 なので、皆さんも、あまり内容のことは気にせずに、できるだけ長い文章を、そして、できるだけ長い間続けられることを目指して、日々努力していってください! 以上!

裏のまとめ

 というような、今回の記事になった理由の一つは、「わかりやすい文章を書く技術」といった系統の本を流し読みしたからである。
 有益な情報もありながら、概略は殆ど知っている……と書くと傲岸不遜になってしまうが、辞書的な使い方が適しているとは思った。

 いやそれよりも、つまり、「わかりやすい文章」というのは、相手に理解してもらえる文章ということであり、じゃあそれって結局のところ、「わかりやすいテーマ」であることが最重要である。

 いや確かに、文章技術の体系としては、よくまとまっている本だと思った。
 確かに確かに、その内容をしっかり身に着けて、使えるようになるのは、遊びでも仕事でもいろんな面で大切なんだろうと思った。

 でも僕は、「そこじゃない感」があった。それをそもそも、上手に説明できないのだが、なんというか、求めている技術は、――今がそうであるだけかもしれないが、それではないのだと。

 いやさ、わかりやすい単語選びをして、わかりやすい表現にして、わかりやすい構成にして、わかりやすいテーマにしていくというのは、そりゃあ、相手に理解してもらうって意味で、非常に重要だと思う。そもそも、いっくら簡単な英文法と英単語で表現したところで、英語をちっとも分からない人には伝えられないのと同じで、専門用語がガリガリちりばめられた文章なんて、ちょっと見ただけでKOされてしまいそうである。


 しかし、僕が表現したいこと、明らかにしていきたいことというのは、そもそも「伝えたいこと」というのが明確になっていないのである。

 わかりやすい表現にすると、「生きる意味」とかいうことにもなるっちゃあなるが、先般、コメントいただいた通り、「人生の意義を知りたいのか」「一生で成し遂げたいことを知りたいのか」といった、そもそもの定義がしっかりしていないと、意味がないのではないか、ということもある。

 僕はそのコメントに対して、「うーん、そうですねぇ、それら全体ですかねぇ」と答えた気がする。
 つまり、曖昧で、つかみどころがないものなのである。


「そんな、よくわからないことに関しての文章になんか、付き合いきれんわ!」

 と思われる方が大半であろう。まぁ仕方がない。
 そういう思いが強いので、先日の記事でも、「基本、読者想定は未来の自分ッス」とか書いたのである(書いた、というよりも、自動筆記(思うがままに書いている)ので、頭に浮かんだ、といった表現のほうが正しそうだが)。

 とはいえ、別に、四六時中そんなことを考えているわけでもない。
 仕事もあれば、遊びもある。生活はバランスが大事だ。さらには、その仕事の中にも集中と散漫があったり、遊びの中に真剣があったりもする。結局、仕事とか遊びとか、それらは人間の感覚(便宜上の分類・区分)であって、24時間という普遍的な時間単位は、明確に区分できるものではないのだ。



 で、なんだ、その。短い記事にしようと思って、結局だらだら続いているわけである。
 やっぱり、僕は短い記事をかけないのだろう……、というか、全然面白みを感じないのだ。書いていてもそうだし、後から読んでも。

 とにもかくにも、だ。長い記事が書けるということと、長く続けられているということを、敢えて肯定的に書いてみた。自画自賛と言われてしまうだろう。
 しかし、こう、あんまり、「わかりやすい文章を書こう!」ということに気を取られすぎても仕方がないと思う。そりゃあ、あれだ、何か「答え」があって、それを適切に伝えるべき場合であれば、当然、わかりやすく、丁寧に文章を書くべきだ。
 僕のブログは、違うのだ。答えがないのである。伝えたいことはきっとある。しかし、その伝えたいことが、自分自身もよく分かっていないのである。


 そして、厚顔無恥であるが、それでよいのである。

 このブログは、いまだ、進歩の途中、なのである。変化を繰り返しているのである。

 だから、読み手に、誤解を生じさせてもよいのである。いやむしろ、その誤解から生じた言葉が、僕自身に、新たなる変化を生じさせる可能性だってあるのだ。



 まとめよう。
 わかりやすい文章を書く技術とは、「伝えたいこと」が明確な場合に役に立つ技術である。
「伝えたいこと」が明確ではない、考えることそのもの、またはそのプロセスを表現する場合は、その技術は時に、反転して「わかりにくさ」を生じさせる可能性がある。
 その「わかりにくさ」とは、わかりやすい文章にするための技術によって取り払われた文章の機微、冗長性といった、余分なものそれ自体が、実のところ、考えるべき、伝えたいことの一片である可能性である。

 上の下線部を、わかりやすい文章技術によって、改変してみて、この記事を終わらせる。

(元)余分なものそれ自体が、実のところ、考えるべき、伝えたいことの一片である可能性である。

(修正)本当に考えるべきことや伝えたいことは、余分であると捨ててしまった文章自体に、実は含まれている可能性がある。


(本当は、スマホの調子やPCの調子や、最近遭ったよくない事のメモをしたかったが……。いやはや、人生とはままならぬものである、とか、大げさか)

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正解するカド見終わる
2017/07/02 21:39 | Comments(2) | 思考及び書くこと
今日の一言「あータイトル考えるの面倒」

正解するカド見終わる

 見た。
 うーん。なんだか、「驚き」は最後にもらったけれども、なんだか良い作品を見終わった後の、素敵な余韻というものを感じるには至らなかった。とはいえ、序盤であった、シンドーさんの、「俺たちは神じゃない。何が正解か、ずっと考えていく必要がある」だとか、重要な表現は与えてくれた作品であったことは間違いない。

 ので、ストーリーとか、結局〇〇になってしまって人類の進歩なんてどうでもよくなってしまったとか、そういったことは置いておいて、テーマ性の部分についてメモしておこう。

進歩とは何か?

 本作品で、テーマとして、伝えたかったこととして(考えられること)は、「進歩すること=自らを途中と思うこと」という点であった。

 なるほど、世界は、特に先進国は、「完成」してしまった。
 その完成というものは、自然を克服し、安全対策を施し、富や教育の再分配を行い、娯楽や生きがいが提供された人間社会である。
 
 当然、例外者は存在する。社会システムから外れてしまった人や、コミュニケーションをうまく行えない者。チャレンジに失敗し負債を抱えたものなど、挙げればきりはなかろう。

 それでも、ある程度は、平等で幸福な社会が構築された。
 一億総中流という幻想が崩れてしまった、などと知識人はいうだろうが、それでも、世界の多くの国々や、500万年前だか1万年前だかの人類の歴史と比べれば、比類なき安全性や、幸福性等で満たされているだろう。

 社会システムには、いたるところでほころびがある。それでも、悪法もまた法であり、たえまない人類の努力によって構築されてきた社会である。全世界の幸福と平和を与えられるような「正解」というのはなかなか見つからない。一つの場面で有効であった方策が、ある方面では失敗だったり、ある人や分野や集団に負担を強いるようなものだったりする。

 ナショナリズム(国や州や県や地域や特定の集団などの利益を強固に追求すること。「仲間」と線引きされなかった「外側」に対しての考慮は優先されない(時に攻撃の対象となる))的な政治の動きが昨今はやりだしたのも、その一つの反動であると思う。

 というような、一歩引いた目で見ることができる人は、いわゆるインテリ、知識人やコメンテーターといった人たちにおいては可能であるが、それが、大きな思想的潮流にはなりえない。例えば、日本の過去の戦争について、全国民が熱狂的に戦争を支持したかどうかはともかく、戦争に反対する人たちもまたいたのである。しかし結果は誰もが小学校で習っているとおりである。
 いやそれどころか、歴史を少しでも学んだことがある人なら、いかに人が愚かであるということが、身に染みてわかるはずだ。いやいや同時に、その人の営みというのが、なんと素晴らしいものかと感動に打ちひしがれる人もいるだろう。それは感覚の問題であるので、本記事の趣旨と離れる。

完成した社会

 上の節が少し長くなってしまった。

 まとめると、
・現代社会は完成している。
・しかし、ほころびは多く生じている。
・変えようとする意思は存在する。
・しかし、うまくいっていない。

 という主張である。
 異論、大いに結構。ますます世界はよくなっているという認識をもっている人はそれはそれでいい。ただし、「完璧なる人類幸福」というものを想像したときに、いかに世界の矛盾や不条理が大きいことか。そして、その大きな潮流に、我々の力の及ぶところが小さなことか。

 こんなことを思っている私であるが、先日、「世界が悪いものだと思うなら、それを自分で変えたらいいじゃないですか」とお言葉をいただいた。笑ってしまうほど正論で、頭が下がる。何ら反論はない。

 そして、本作、正解するカドでテーマの表現として得たこととしては、上に書いた「進歩とは途上であると認識することだ」ということである。そう。理不尽だ、不愉快だ、もう大きな変化は望めないとか、そんなこと言ってる暇があったら、自分が、自分で、大きなことを成せばいいのだ。人類は進歩し続ける。そして、己もまた、その生を終わらせるそのときまで、進歩し続けるべきなのだ!!


 ……。ということについて、共感はするのだが、実感にもっていってくれるには遠かった。その点が残念だ。テーマとしてはよかった。よかった――というか、僕好みであった。しかし、表現としては、惜しかった、といった感想である。

(なにせ、僕が本当に伝えたいこと、表現したいことは、その「正論」の恐ろしさであるのだ。批評は誰でもできる。悪かった点を挙げるのなんて簡単だ。大事なのは、その問題をどう解決するのか、ということである。僕は最近、その点しか興味がないといってもよいかもしれない)



ザシュニナさんが気づいたこと

 もう一つ、この正解するカドから、テーマを抽出してみよう。それは、ザシュニナさんのお言葉に表れている。

 まったく同一のものに別の価値を与える力
 1(イチ)しかないものに1(イチ)以上の情報を与える力
 それが人類の生んだ未曽有の力
 それが、ザシュニナと真堂から生じている


 くしくも、最近学んでいる、ある精神科医の「唯一性と一回性」という表現と、同義に思えた点が興味深かった。

 人類の特異点とは何か?

 つまり、人類が、人類としての価値を帯びるのは、どのような能力か、ということである。

 それは、完全な情報のコピー(複製)ではなしえない、その瞬間、独自に生じる個体そのものに、有機的な意味をもたせるということなのだ。

 と、なるとだ、やっぱり、量子テレポーテイションとか、クローンとか、遠隔操作義体だとか、電脳の外部記憶とか、頭部移植手術とか、それらは本当に、唯一の個人の連続性が保たれるものなのかということとか、非常に気になり始めるものだ。

それで結局正解とは?

 と、まぁ、ネタバレとか全然関係なく思ったことを書きなぐった。構成とか全然考えていない。推敲も特になし、うん、適当である。

 あーその、文章を書く技術として、しばらく寝かせる、ってのがある。
 書いてすぐは、冷静な判断ができていないから、良い文章が書けないと。その「よい」というのは、相手に伝わる文章ということ。

 ぶっちゃけ……なんか、もっと雅な言葉づかいで表現したいが、ぶっちゃけって、何か他に言い換えられるだろか? 率直に言うと、とか? なんかちょっと違う。忌憚なく言えば、とか? それもなんか違う。
 広辞苑をひく。「包み隠さず話すということ」。え、まじか、俗語じゃなくて、ちゃんと言葉としてあるんだ。じゃあ、まぁ、いいか。

 ええと、ぶっちゃけると、別に、万人普遍に伝えたいとか、全然思っていない。
 誰か似たような感性の人とか、一部の表現だけでも、何か思うところを与えられたらそれで充分だと思っているし、実のところ、一番の読者想定は、未来の自分である。

 ある方は、非常に有益な記事をたくさん書かれるのだけれども、一定期間たつと消してしまわれる。なぜ消すのですかと問うたら、情報は整理するべきものであり、何より、自分自身で見返すということを行わないからである、と仰られた(確か)。

 僕はガンガン見返す。そして、内容の無さや稚拙さに「うぁぁぁあ」といって悶えるのである(マゾか!)。
 意味、あんのかな。
 ただ、たまーに、非常に面白い記事はあったりするのだ。そして、これが難しいところだが、その「おもしれえ!」って気持ちになる記事が、その時々で異なるのである。それゆえに、きれいに全部ばっさり整理するということがなかなかできない。うん、これ、整理できない人の典型的なパターンな気がする。
 いつか見るかもしれない、いつか使うかもしれない、……と、なかなか捨てられない、と。


 それで、まぁ、なんだ、その。

 もう少し短い記事を書けるようになろうか、ということと、正解としては、やっぱり、個人として、僕として、俺として、私として、考えていかなきゃならんだろうということである。

 一人ひとりしっかり考えろよ!

 というテーマであったということだ。この作品は。だから、アマゾンのレビューコーナーとか活発なレビューが飛び交っているようだが、そういう意味で、本作は大成功だったといえよう!

(しっかし、前半のあのドキドキ感や期待感からすると、やっぱり、後半も、もうちょっと感動させてくれる作品になったんじゃあないかなぁと、惜しい気持ちが今も残る)

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汎用型支援ロボット(013)
2017/06/30 12:00 | Comments(0) | 連載
その日の気分によって、書きたいこと、表現したいこと、学びたいことが違ったりする。ある方のブログを読んでいて、「一流と三流の違いは、安定感だ」と書かれていて、あぶばべッ!
 と思った。しかしだ、一つ強く思うのは、頭の中だけで考えていても、それが上手い具合に熟成することなど殆ど無い! ということだ。アウトプットは非常に大事だ。そのアウトプットの方向性や成果物について、適切に方向修正してあげることは重要だけれども、ウダウダしている時間があったら、とにかく頭の中の滓でも澱でもいいから絞りだして形にするのだ。



<以下連載>【12月27日続き】



 こいつを使っていて思ったのは、モノを開ける、という作業が、意外に難しいということであった。ドアもそうだが、戸棚やジッパーなど、開けることができるモノというのは、僕らは特に意識せずとも見て分かる。けれども、ロボットにとっては、何が開けることができるのか、というのは、具体的に指示してやる必要がある。確かに、くぼみがあって、若干の隙間があるもの……なんて、開けることができるものというのは、定義が難しい。
 家庭用アンドロイドは、力加減を、通常の人間程度に抑えられているが、開けられないものに必要以上の負荷をかけると壊してしまうだろうし、自損する可能性もある。 
 ……所詮はこの程度か。
 結局、一から十まで教えてやらないと、何もできないんだ。この程度で人工知能だとか、学習機能が備わっているとか笑ってしまう、そう思った。
 しかし、一度教えたことは、確実にこなすことができたし、それだけではなく、何度か繰り返し教えていると、多少の例外……例えば、タオルの位置や、シャンプーやリンスの置き場所がその日ごとに多少変わっていたとしても、ちゃんと識別して作業ができるようになっていった。
 何回かして、こいつ一人で掃除が完了したときに「合格だ」というと、「合格ですか? ありがとうございます!」と、嬉しそうに頭を下げられた。
<続く>

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汎用型支援ロボット(012)
2017/06/28 12:00 | Comments(0) | 連載
筋トレとか、音読とか、ある程度形式ばった作業は、ルーチン(習慣づけ)するのは容易である。
 しかし、創造的な……というほどではないかもしれないが、何か「考える」必要がある作業を日課にするというのは、これは結構難儀である。単に勉強も、暗記じゃなくて、投資理論とか、しっかり理解しながら学んでいく必要があるのって、やる気マックスファイアーじゃないと効率がよくなかったりするよね……とか単なる言い訳乙。


<↓以下連載↓>



【12月27日】

「ジュン様、浴室の清掃が完了いたしました。ご確認頂けますでしょうか?」

 インターネットで動画サイトを見ていると、ふいに話しかけられた。今では、わざわざ確認しなくても、問題があることは殆どない。僕は、パソコンのディスプレイから目を離さず答える。

「あー。よくできてるよ。合格。……もう21時過ぎか、そろそろ風呂に入るから、湯船にお湯をはっといて」
「ありがとうございます。承知しました」

 初めのうちは、音声認識のエラー、「申し訳ございません、上手く聞き取れませんでした。もう一度仰って頂けますか?」が結構あって苛々させられた。ただ、「初めのうちは、上手く会話ができないこともあると思いますが、一週間ぐらいは、根気よく色々教えてあげてくださいね」と多路須さんに言われていたので我慢していた。
 すると本当に、2、3日もすると、ほとんど自然な感じで発音しても、日常生活程度の内容であれば、正確に反応するようになっていった。
  
 浴室の清掃についても、初めは、使用する道具を覚えさせ、その道具をしまう場所を覚えさせ、清掃の仕方をやってみせ、それぞれの動作を言語化してインプットするという非常に面倒な作業が必要だった。
 表面的な部分に洗剤を吹き付け、少し湿らせたスポンジで拭いていくということは、案外早く覚えさせることができたが、排水溝の清掃は難儀であった。この位置にあるのが、排水溝の蓋であって、これを開けて、更に排水溝受けを取り上げて、ゴミを取り除き、新しいネットに取り換えて、初めにやった手順ではめ込んで……と、順番に教えてやる必要があったのだ。


<続く>

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批判も大事だけど創造を考えてほしい
2017/06/27 20:26 | Comments(2) | 創作について
今日の一言「正解するカドについてがっかりした、という人たちの気持ちも分かる」「まだ未完だけどねー」

今日は短い記事になると思う

 正解するカドを、現在アマゾンプライムで配信されている話まで視聴す。
 いやー、スカイ? ツカイ? さんかわいいなぁ。――と、そうではなくて、なるほど、序盤の展開と後半とで作品の雰囲気が変わってきたのは間違いないだろう。

 前半の、僕に感じさせた壮大なテーマ(勝手に抱いていただけかもしれないが)は徐々に薄れていって、ラブコメの要素も盛り込まれ始めたから驚きである。

 とはいえ、僕は別に、ツカイさんが実は「〇〇でした」というところまでは、全然気にもならなかった。
 いいじゃないか、異方存在の力を否定する根拠として、人の自然な進化を望むというのはいいじゃないか、美しい、ありだ。
 さらに、ツカイさんのおやっさんも、よいこといってる。
「人はなー、簡単に壊れちまうんだ。だから与えられた命(人生)を精一杯やんなきゃなんねーんだよ。はは、おめえはまだ(幼いから)わかんねーか」

 必死に生きて、そして死ぬ。そして少しずつ進化(生物学的なものではなく、社会発展的な意味で)してきた人類の尊さ、美しさ。いいじゃないか。



 手放しでその、ツカイさん側の考えを肯定するわけではない。
 ただ、ザシュニナさん(シンドーさん)側との対立軸としては、十分な根拠のように僕は思えた。
 その二者間の思いがどう交錯するか、調整されるのか。そして、ワム(無限のエネルギー)やサンサ(異次元の自分をコントロールし、結果的に眠らなくても済むようになる)を手にした人類はどう発展していくのか。
 ワクワクするストーリーじゃあなかろうか。

サンサが登場したあたりから

 正直な思いとしては、サンサが提供されたあたりから、ちょっとハテナマークが浮かび始めた。もう少し、「ワム」ネタで引っ張ってもいいんじゃないかと思ったのだ。
 それが、眠らなくても済むようになるサンサが提供されることで、能力のインフレーションみたいな状態になった。現に、サンサによってもたらされる影響が十分に描かれないまま、次の「ナノミスハイン」(時間も重力も全部コントロールできる)が提供されることで、人はもはや神に近しい力を手にしたのだった。

 それによって人はどうなる? 社会はどうなる? 人の思考や思想は変わるのか? 経済はどうなる? 政治は、国境は?


 そういった疑問に触れる前に、ザシュニナさんの真の目的(?)が明らかになってしまい、ツカイさん側との武力衝突(?)になってしまう。

 これは確かに、多くの視聴者の期待を裏切ったことであろう。かわいいツカイさんとシンドーさんがラブラブになっていく様に嫉妬したわけではあるまい。きっと違うだろう。シンドーさんはかっこいいから仕方がない、うん……(血涙)。

 と、それはともかく。
 だからといって、「がっかりだ」「つまらない」「過度の期待だった」「不正解なカドだった」とか、そういってしまうのは如何なものか。
 

批判するのはよいが

 僕もどっちかというと、なんか違ってきたな、と思ったほうではあるが、でも、ふつーに面白いと思う。
 序盤のあの、圧倒的な期待感というか、ストーリーやエピソードは、簡単にはうみだせないと思う。
 それに映像の素晴らしさ。毎年アニメをチェック、なんてやってこなかったからよく分からないが、最近の作品はみんなあんなレベルなのか。最近、「老人Z」(1990年ぐらいの作品)を見返したせいか、感覚がおかしくなっているのかもしれないが。


 まぁいいんだ。正直な感想ってのは大事である。つまらないと感じたものを、無理に面白いと思う必要はない。

 だけれど、単に面白い、つまらないと、それだけで終わってしまったら、僕はそっちのほうがつまらない。

 面白かったら、その面白かった理由や原因を考えて、再現性(次に見ようと思う作品の傾向の選別、といったレベルでもいい)を高めるのもよいだろう。(まぁしかし、面白い作品は、それだけで価値があるので、無理にその理由を求めようとするのは野暮であったりする。)


 もっと大事なのは、つまらなかったら、その理由や原因を考えることだ。
 そうじゃなきゃ、せっかく見たのに、もったいないじゃないか。知り合いやブログで愚痴や批判を書くのに使ってもいいが、「つまんねー」「だよねー」で終わっては、まったくつまらない。

 そこをぜひ頭を切り替えて、じゃあ自分だったらどんな物語を創造できるか、という風にしたら如何だろうか。


 これは決して、つまらない作品の肯定をしたいのではない。
 それは違う。つまらないものはつまらない。このことを否定したいのではない。

 しかし、「つまらない」という思いがあったとき、それは貴重な体験でもあるのだ。「つまらない」というのは、そこに、何かの「期待」があったのだ。

 これは、何もアニメの作品に限ることではない。人と話す時だってそうだ。
「あいつの話、おもしろくねーんだよな」
 というのもあるだろう。それは何故か? 同じ話を繰り返しするからなのか? 過去の武勇伝ばっかりだからなのか? お説教臭いからなのか? 愚痴ばっかだからなのか?
 たいていは上のそれらが原因であるが、だが、もっと突き詰めてその理由を探ってみるのもよいだろう。そうすると、こっち側(きき手)として、会話を面白くもっていくような方法(頷き、コーチング)ができるかもしれない。

 言うまでもないが、この、他者との会話についても、つまらない話を面白いと思えとか、そういうことではない。つまんねーもんはつまんねーんだ。ヨイショしたりする必要などはない。
 ただ、それを、単に「つまんねーんだよハゲ!」とか言うんじゃあ、それこそ面白くないだろう、ということである。つまらないなら、その理由をやんわりとでも、はっきりとでもいいが、ちゃんと伝えてあげたほうが、WIN-WINにならないだろうか。そうなるためには、お互い、「聞く耳」をもっていなければならない。そして、それをつなぐのが、シンドーさんとか、交渉する人の役目なのだ。そういう意味で、正解するカドのテーマというか、登場人物の役割というか立ち位置というかは面白いと今でも思う。そういう人たちをメインキャラクターとしてスポットしたのは、それだけでこの作品に価値があるといえないだろうか。
(他にそういう作品があるとか、そういう問題ではない。この作品として創み出されたこと自体の価値を言っている)

昔の作品を読んで

 先日。
 話は変わるが、高校とか、それぐらいの、自分の作品が見つかった。
 ある友人と、メッセンジャーとかのアプリケーションを用いて、お互いの作品を読んでもらったりしていた。
 その作品が、なんというか、つまらないのである。(逆に、友人の作品は、設定としてちょっと面白そうに思った)
 文章作法自体もよく分かっていなかった時代である。キャラクターも、邪気眼を発揮しそうな感じだ。まぁ、今の方が、同じストーリーにしたとしても、もっと面白く書けるだろう。そういう意味では、少しばかりかは成長を感じられてよかった。
(話が少し脱線するが、某サイトで、新たに経験(習熟度)を選択できるオプションが追加されたが、ある方が「中級者」と選んでいたのである。驚いた。いや、貴方は明らかに上級者でしょう? と思った)

 しかし、なんだ、その、過去の自分についてだが、アイディア的には、よく頑張っているなぁと思ったのである。
 いろいろと、鬱屈した思いをもっていそうである。ネタというか、プロットについても、いくつも見つかった(といっても、10に満たないが)

 その、書きたいという情熱は、彼にはあった。そして、その情熱、思いに、今の僕は、果たして、勝っているといえるだろうか。



 過去の自分の作品に、友人は的確に、しかし全否定することはなく指摘をしてくれていた。
 今の僕も、過去の自分の作品を、こてんぱんにすることはできるだろう。しかし、それが果たして、よいことだろうか。俺は全然そうは思わない。
(先に書いておこう。正解するカドはプロの作品であり、一人がつくっているわけでもない。アマチュアの作品に対する批評等と同じ次元で語ることの誤謬は理解しているつもりである)

 惜しむらくは、残念だと思うのは、過去の自分の作品が、ちゃんと完結していないことである。
 陳腐だっていい。面白くなくたっていい。ネガティブだっていい。それでも、ちゃんと、最後まで形にして欲しかった。ダメだしするとしたら、その点である(その点は、一緒に作品を書いていた友人にも当てはまる。せっかく面白そうな話だったのに、残念だ)。


 正解するカドは、プロの作品だから、きっと完結はするだろう。それがひとまず、すごいことだと、まずは認めようではなかろうか。その次に、では、どうしたら、どんな作品だったら、最高に面白いのか。パラダイムシフトを引き起こすような重大なものになりえるのかと、考えてみようではなかろうか。

 そんな大層な作品など、どこにあるのだろう。アラビアの夜の種族に出てくる、「災禍の書」だろうか。

 そうしたら、僕らは、まだまだ、思考をやめてはならないと、そう思わなかろうか。

 確かに、世の中には素晴らしい作品であふれている。

 だからといって、単なる消費者になってそれでよいのだろうか。

 物語を、自分で創るということを諦めてしまってよいのだろうか。

 僕はつくる(作る・創る)人を尊敬する。そして、僕は創る人になりたい。

 そして、ここでいう創るというのは、もちろん、「作品」だけではなく、自分自身、人生ってやつも含むのである。



(……ってなんだこれ。すっげー中二病的な記事だな。恥ずかしい。しかし、こんなんレベルじゃあないほど恥ずかしい文章がぎょうさん見つかった!(かっこわら) いわゆる黒歴史である。でもちょっと待ってほしい。黒歴史をなかったことにするのって、ちょっと勿体ないのではなかろうか。そして、本当に、今の自分だったら、黒歴史よりも良いもの(作品であったり、思考であったり、感情であったり)ができるのか。根っこでどこか、変わってないものもあるのではなかろうか。もしくは。それどころか、そこでしっかりと具現化できなかったことで、何か失ったまま、見つけられなかったまま今の今まできてしまったことがあるのではなかろうか。
 今年の目標はなんだっけ?
 整理をすることだ。部屋もそうだし、費用面もそうだし、思考もそうだ。感情だってそうだ。過去に執着することも、囚われることもよいことではない。けれども、忘れてよいことばかりではないはずだ、と思う)



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