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批判も大事だけど創造を考えてほしい
2017/06/27 20:26 | Comments(2) | 創作について
今日の一言「正解するカドについてがっかりした、という人たちの気持ちも分かる」「まだ未完だけどねー」

今日は短い記事になると思う

 正解するカドを、現在アマゾンプライムで配信されている話まで視聴す。
 いやー、スカイ? ツカイ? さんかわいいなぁ。――と、そうではなくて、なるほど、序盤の展開と後半とで作品の雰囲気が変わってきたのは間違いないだろう。

 前半の、僕に感じさせた壮大なテーマ(勝手に抱いていただけかもしれないが)は徐々に薄れていって、ラブコメの要素も盛り込まれ始めたから驚きである。

 とはいえ、僕は別に、ツカイさんが実は「〇〇でした」というところまでは、全然気にもならなかった。
 いいじゃないか、異方存在の力を否定する根拠として、人の自然な進化を望むというのはいいじゃないか、美しい、ありだ。
 さらに、ツカイさんのおやっさんも、よいこといってる。
「人はなー、簡単に壊れちまうんだ。だから与えられた命(人生)を精一杯やんなきゃなんねーんだよ。はは、おめえはまだ(幼いから)わかんねーか」

 必死に生きて、そして死ぬ。そして少しずつ進化(生物学的なものではなく、社会発展的な意味で)してきた人類の尊さ、美しさ。いいじゃないか。



 手放しでその、ツカイさん側の考えを肯定するわけではない。
 ただ、ザシュニナさん(シンドーさん)側との対立軸としては、十分な根拠のように僕は思えた。
 その二者間の思いがどう交錯するか、調整されるのか。そして、ワム(無限のエネルギー)やサンサ(異次元の自分をコントロールし、結果的に眠らなくても済むようになる)を手にした人類はどう発展していくのか。
 ワクワクするストーリーじゃあなかろうか。

サンサが登場したあたりから

 正直な思いとしては、サンサが提供されたあたりから、ちょっとハテナマークが浮かび始めた。もう少し、「ワム」ネタで引っ張ってもいいんじゃないかと思ったのだ。
 それが、眠らなくても済むようになるサンサが提供されることで、能力のインフレーションみたいな状態になった。現に、サンサによってもたらされる影響が十分に描かれないまま、次の「ナノミスハイン」(時間も重力も全部コントロールできる)が提供されることで、人はもはや神に近しい力を手にしたのだった。

 それによって人はどうなる? 社会はどうなる? 人の思考や思想は変わるのか? 経済はどうなる? 政治は、国境は?


 そういった疑問に触れる前に、ザシュニナさんの真の目的(?)が明らかになってしまい、ツカイさん側との武力衝突(?)になってしまう。

 これは確かに、多くの視聴者の期待を裏切ったことであろう。かわいいツカイさんとシンドーさんがラブラブになっていく様に嫉妬したわけではあるまい。きっと違うだろう。シンドーさんはかっこいいから仕方がない、うん……(血涙)。

 と、それはともかく。
 だからといって、「がっかりだ」「つまらない」「過度の期待だった」「不正解なカドだった」とか、そういってしまうのは如何なものか。
 

批判するのはよいが

 僕もどっちかというと、なんか違ってきたな、と思ったほうではあるが、でも、ふつーに面白いと思う。
 序盤のあの、圧倒的な期待感というか、ストーリーやエピソードは、簡単にはうみだせないと思う。
 それに映像の素晴らしさ。毎年アニメをチェック、なんてやってこなかったからよく分からないが、最近の作品はみんなあんなレベルなのか。最近、「老人Z」(1990年ぐらいの作品)を見返したせいか、感覚がおかしくなっているのかもしれないが。


 まぁいいんだ。正直な感想ってのは大事である。つまらないと感じたものを、無理に面白いと思う必要はない。

 だけれど、単に面白い、つまらないと、それだけで終わってしまったら、僕はそっちのほうがつまらない。

 面白かったら、その面白かった理由や原因を考えて、再現性(次に見ようと思う作品の傾向の選別、といったレベルでもいい)を高めるのもよいだろう。(まぁしかし、面白い作品は、それだけで価値があるので、無理にその理由を求めようとするのは野暮であったりする。)


 もっと大事なのは、つまらなかったら、その理由や原因を考えることだ。
 そうじゃなきゃ、せっかく見たのに、もったいないじゃないか。知り合いやブログで愚痴や批判を書くのに使ってもいいが、「つまんねー」「だよねー」で終わっては、まったくつまらない。

 そこをぜひ頭を切り替えて、じゃあ自分だったらどんな物語を創造できるか、という風にしたら如何だろうか。


 これは決して、つまらない作品の肯定をしたいのではない。
 それは違う。つまらないものはつまらない。このことを否定したいのではない。

 しかし、「つまらない」という思いがあったとき、それは貴重な体験でもあるのだ。「つまらない」というのは、そこに、何かの「期待」があったのだ。

 これは、何もアニメの作品に限ることではない。人と話す時だってそうだ。
「あいつの話、おもしろくねーんだよな」
 というのもあるだろう。それは何故か? 同じ話を繰り返しするからなのか? 過去の武勇伝ばっかりだからなのか? お説教臭いからなのか? 愚痴ばっかだからなのか?
 たいていは上のそれらが原因であるが、だが、もっと突き詰めてその理由を探ってみるのもよいだろう。そうすると、こっち側(きき手)として、会話を面白くもっていくような方法(頷き、コーチング)ができるかもしれない。

 言うまでもないが、この、他者との会話についても、つまらない話を面白いと思えとか、そういうことではない。つまんねーもんはつまんねーんだ。ヨイショしたりする必要などはない。
 ただ、それを、単に「つまんねーんだよハゲ!」とか言うんじゃあ、それこそ面白くないだろう、ということである。つまらないなら、その理由をやんわりとでも、はっきりとでもいいが、ちゃんと伝えてあげたほうが、WIN-WINにならないだろうか。そうなるためには、お互い、「聞く耳」をもっていなければならない。そして、それをつなぐのが、シンドーさんとか、交渉する人の役目なのだ。そういう意味で、正解するカドのテーマというか、登場人物の役割というか立ち位置というかは面白いと今でも思う。そういう人たちをメインキャラクターとしてスポットしたのは、それだけでこの作品に価値があるといえないだろうか。
(他にそういう作品があるとか、そういう問題ではない。この作品として創み出されたこと自体の価値を言っている)

昔の作品を読んで

 先日。
 話は変わるが、高校とか、それぐらいの、自分の作品が見つかった。
 ある友人と、メッセンジャーとかのアプリケーションを用いて、お互いの作品を読んでもらったりしていた。
 その作品が、なんというか、つまらないのである。(逆に、友人の作品は、設定としてちょっと面白そうに思った)
 文章作法自体もよく分かっていなかった時代である。キャラクターも、邪気眼を発揮しそうな感じだ。まぁ、今の方が、同じストーリーにしたとしても、もっと面白く書けるだろう。そういう意味では、少しばかりかは成長を感じられてよかった。
(話が少し脱線するが、某サイトで、新たに経験(習熟度)を選択できるオプションが追加されたが、ある方が「中級者」と選んでいたのである。驚いた。いや、貴方は明らかに上級者でしょう? と思った)

 しかし、なんだ、その、過去の自分についてだが、アイディア的には、よく頑張っているなぁと思ったのである。
 いろいろと、鬱屈した思いをもっていそうである。ネタというか、プロットについても、いくつも見つかった(といっても、10に満たないが)

 その、書きたいという情熱は、彼にはあった。そして、その情熱、思いに、今の僕は、果たして、勝っているといえるだろうか。



 過去の自分の作品に、友人は的確に、しかし全否定することはなく指摘をしてくれていた。
 今の僕も、過去の自分の作品を、こてんぱんにすることはできるだろう。しかし、それが果たして、よいことだろうか。俺は全然そうは思わない。
(先に書いておこう。正解するカドはプロの作品であり、一人がつくっているわけでもない。アマチュアの作品に対する批評等と同じ次元で語ることの誤謬は理解しているつもりである)

 惜しむらくは、残念だと思うのは、過去の自分の作品が、ちゃんと完結していないことである。
 陳腐だっていい。面白くなくたっていい。ネガティブだっていい。それでも、ちゃんと、最後まで形にして欲しかった。ダメだしするとしたら、その点である(その点は、一緒に作品を書いていた友人にも当てはまる。せっかく面白そうな話だったのに、残念だ)。


 正解するカドは、プロの作品だから、きっと完結はするだろう。それがひとまず、すごいことだと、まずは認めようではなかろうか。その次に、では、どうしたら、どんな作品だったら、最高に面白いのか。パラダイムシフトを引き起こすような重大なものになりえるのかと、考えてみようではなかろうか。

 そんな大層な作品など、どこにあるのだろう。アラビアの夜の種族に出てくる、「災禍の書」だろうか。

 そうしたら、僕らは、まだまだ、思考をやめてはならないと、そう思わなかろうか。

 確かに、世の中には素晴らしい作品であふれている。

 だからといって、単なる消費者になってそれでよいのだろうか。

 物語を、自分で創るということを諦めてしまってよいのだろうか。

 僕はつくる(作る・創る)人を尊敬する。そして、僕は創る人になりたい。

 そして、ここでいう創るというのは、もちろん、「作品」だけではなく、自分自身、人生ってやつも含むのである。



(……ってなんだこれ。すっげー中二病的な記事だな。恥ずかしい。しかし、こんなんレベルじゃあないほど恥ずかしい文章がぎょうさん見つかった!(かっこわら) いわゆる黒歴史である。でもちょっと待ってほしい。黒歴史をなかったことにするのって、ちょっと勿体ないのではなかろうか。そして、本当に、今の自分だったら、黒歴史よりも良いもの(作品であったり、思考であったり、感情であったり)ができるのか。根っこでどこか、変わってないものもあるのではなかろうか。もしくは。それどころか、そこでしっかりと具現化できなかったことで、何か失ったまま、見つけられなかったまま今の今まできてしまったことがあるのではなかろうか。
 今年の目標はなんだっけ?
 整理をすることだ。部屋もそうだし、費用面もそうだし、思考もそうだ。感情だってそうだ。過去に執着することも、囚われることもよいことではない。けれども、忘れてよいことばかりではないはずだ、と思う)



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コメント

 確かに、ワムを得た人類がその後どうなってゆくのか、というのが興味の支柱のひとつではありましたね。
 テロリストの手にも簡単に無限エネルギーが渡ってしまうということを考えると、「いやぁ人類にはまだちょっと早いんじゃないスかねザシュニナさん」とやきもきしていただけに、いささか意外な成り行きではありました。
 しかし今後どうなるのか。恐らく真道さんのネゴが炸裂してザシュニナさんは異方に帰るんだろうとは思うのですが、予測がつかないのはワムとサンサとナノミスハインの処遇ですね。沙羅花さんの主張ならば、これらも当然破棄せねばならないのですが、こんないいものを知ってそれを失うことに人類は耐えられるのか。無理だろうなぁ。どうオチをつけるのだろう。

>中級者

「上級者」:完結済み作品多数。

(´・ω・`).;:…

(´・ω...:.;::..

(´・;::: .:.;: サラサラ..
posted by バールat 2017/06/28 21:33 [ コメントを修正する ]
 バールさん!

 そうですねぇ。狩猟採集→農業→科学技術と発展してきた人類は、もう電気なしの原始時代には戻れないわけで、これからどうなるのでしょうね。
 ちょっと考えましたが思いつきませんでした。まぁザシュニナさんは異方に帰るんだろうなぁ……。


>中級者or上級者
「多数……それには認識の齟齬がある」(ザシュニナさん風に)
 いやぁ、十分でしょう。例えば停留所の看板で殴り合う話とか、恐らく未完であるというご主張かもしれませんが、第一部~第四部のそれぞれが完結している作品ともいえると思います。(単行本なら一巻にあたるような)

 いやーしかし、R15or18の違いについて書いた時もそうでしたが、そこら辺の区別って難しいっすなぁ。結局、そこらへんは個々人の裁量というか、感覚になってしまう部分が大きい。
 でも、あんまりかい離が大きくなると、「タグ」としての意味が薄れてしまう。

 ニコニコ動画とかは、視聴者の方でタグをつけられるという点が上手く検索エンジンとしての効果を発揮しているように思えます。
 ビッグデータの活用とか新聞ニュースでうたわれていますが、人が一つずつ情報を判断してタグ付け(要素を分ける)していくというのは、情報利用としては原理的に不可能になってきているのかもしれません。

 だんだん話が変わっていきますが、「分かった!」「分かる」というのは、モノ・コトを「区別できる」ということなのだと思います。あいまいな出来事などは、よく分からないと発言しますが、それは、上手く分けられない=分類ができないということなのでしょう。

 そうしたとき、例えば作品の要素を一つで表すというのは難しいでしょうし、作者としての能力・技量というものを一つの表現で納めることも難しいように思います。

 だから何だ、という話ですが、まぁそんなこと思いました。
posted by 遠藤at 2017/06/29 23:04 [ コメントを修正する ]

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