今日の一言「わかりやすい文章を書く技術」「そんなん、短かったらええやん」
「僕は長い記事が書けるのではなく、短い記事が書けないのではないか?」
ということで、テーマは、ブログについて思うことと、他者に期待すること、として、短い記事を書く練習をしてみよう。
初めに、僕が、すごいなと思うブログさんの特徴を挙げてみよう。それは、ある程度長い記事が書けることというのと、長らく続けられていることである。
この文脈上で、僕のブログはどうなのか、ということを先に考えてみる。
まず、僕は、ある程度長い記事を書ける。
長ければ良いというものではない。ただし、ある程度、意味の連続性が認められる状態で、文章を連ねていくというのは、やろうと思ってもなかなかできないことである。
まったくブログを書いたことがない人や、日記など書いたことない人が、「さぁ今日からたくさん書くぞ!」と思ったところで、長くは続かないだろう。
なので、内容はともかく、ある程度の文章量があるブログさんをすごいと思う。
では、次の、続けられている、ということを考えてみる。
確かに、始めたばかりのころは、「さぁ書こう!」という気概もあいまって、非常に良質な記事を量産できることだろう。
しかしながら、「すげーっ!」って記事が多くても、多くの人は、1~2年……いやはや、もっと短いスパンで辞めてしまうことが多い。
まぁ、これは当たり前と言ったら当たり前である。理由は二つ。
そんな中で、変わらず、文章を書き続けるってことは、よほどの動機がないと難しいことだろう。
変われないというのは、身体的特徴……例えばダイエットの成果だとかそんなところから、思想信条、価値観といったものまで。様々な人や環境からの影響で、ターニングポイント(ある契機で方向転換すること)になることはあっても、パラダイムシフト(既存の価値観自体が変化すること)することは少ないのだ。
なので、1年や2年ではなく、もう何年も前から続けられているようなブログさんは、それだけで価値があると思っている。
そういう意味だと、僕は、10代半ばから書き始めて、もう10年以上は続けているということになる。
「おめー、そんな長くやっていて、この程度の文章しか書けないのかよ(かっこわら)」
と、思われることも仕方がなかろう……。確かに、クオリティは低いだろう。
しかしだ、冒頭の目的の通り、敢えて肯定すれば、ある程度の文章量を担保しつつ長らく書き続けられているというのは、それは一つの肯定ポイントだ。
有益な情報もありながら、概略は殆ど知っている……と書くと傲岸不遜になってしまうが、辞書的な使い方が適しているとは思った。
いやそれよりも、つまり、「わかりやすい文章」というのは、相手に理解してもらえる文章ということであり、じゃあそれって結局のところ、「わかりやすいテーマ」であることが最重要である。
いや確かに、文章技術の体系としては、よくまとまっている本だと思った。
確かに確かに、その内容をしっかり身に着けて、使えるようになるのは、遊びでも仕事でもいろんな面で大切なんだろうと思った。
でも僕は、「そこじゃない感」があった。それをそもそも、上手に説明できないのだが、なんというか、求めている技術は、――今がそうであるだけかもしれないが、それではないのだと。
いやさ、わかりやすい単語選びをして、わかりやすい表現にして、わかりやすい構成にして、わかりやすいテーマにしていくというのは、そりゃあ、相手に理解してもらうって意味で、非常に重要だと思う。そもそも、いっくら簡単な英文法と英単語で表現したところで、英語をちっとも分からない人には伝えられないのと同じで、専門用語がガリガリちりばめられた文章なんて、ちょっと見ただけでKOされてしまいそうである。
しかし、僕が表現したいこと、明らかにしていきたいことというのは、そもそも「伝えたいこと」というのが明確になっていないのである。
わかりやすい表現にすると、「生きる意味」とかいうことにもなるっちゃあなるが、先般、コメントいただいた通り、「人生の意義を知りたいのか」「一生で成し遂げたいことを知りたいのか」といった、そもそもの定義がしっかりしていないと、意味がないのではないか、ということもある。
僕はそのコメントに対して、「うーん、そうですねぇ、それら全体ですかねぇ」と答えた気がする。
つまり、曖昧で、つかみどころがないものなのである。
「そんな、よくわからないことに関しての文章になんか、付き合いきれんわ!」
と思われる方が大半であろう。まぁ仕方がない。
そういう思いが強いので、先日の記事でも、「基本、読者想定は未来の自分ッス」とか書いたのである(書いた、というよりも、自動筆記(思うがままに書いている)ので、頭に浮かんだ、といった表現のほうが正しそうだが)。
とはいえ、別に、四六時中そんなことを考えているわけでもない。
仕事もあれば、遊びもある。生活はバランスが大事だ。さらには、その仕事の中にも集中と散漫があったり、遊びの中に真剣があったりもする。結局、仕事とか遊びとか、それらは人間の感覚(便宜上の分類・区分)であって、24時間という普遍的な時間単位は、明確に区分できるものではないのだ。
で、なんだ、その。短い記事にしようと思って、結局だらだら続いているわけである。
やっぱり、僕は短い記事をかけないのだろう……、というか、全然面白みを感じないのだ。書いていてもそうだし、後から読んでも。
とにもかくにも、だ。長い記事が書けるということと、長く続けられているということを、敢えて肯定的に書いてみた。自画自賛と言われてしまうだろう。
しかし、こう、あんまり、「わかりやすい文章を書こう!」ということに気を取られすぎても仕方がないと思う。そりゃあ、あれだ、何か「答え」があって、それを適切に伝えるべき場合であれば、当然、わかりやすく、丁寧に文章を書くべきだ。
僕のブログは、違うのだ。答えがないのである。伝えたいことはきっとある。しかし、その伝えたいことが、自分自身もよく分かっていないのである。
そして、厚顔無恥であるが、それでよいのである。
このブログは、いまだ、進歩の途中、なのである。変化を繰り返しているのである。
だから、読み手に、誤解を生じさせてもよいのである。いやむしろ、その誤解から生じた言葉が、僕自身に、新たなる変化を生じさせる可能性だってあるのだ。
まとめよう。
わかりやすい文章を書く技術とは、「伝えたいこと」が明確な場合に役に立つ技術である。
「伝えたいこと」が明確ではない、考えることそのもの、またはそのプロセスを表現する場合は、その技術は時に、反転して「わかりにくさ」を生じさせる可能性がある。
その「わかりにくさ」とは、わかりやすい文章にするための技術によって取り払われた文章の機微、冗長性といった、余分なものそれ自体が、実のところ、考えるべき、伝えたいことの一片である可能性である。
上の下線部を、わかりやすい文章技術によって、改変してみて、この記事を終わらせる。
(元)余分なものそれ自体が、実のところ、考えるべき、伝えたいことの一片である可能性である。
(修正)本当に考えるべきことや伝えたいことは、余分であると捨ててしまった文章自体に、実は含まれている可能性がある。
(本当は、スマホの調子やPCの調子や、最近遭ったよくない事のメモをしたかったが……。いやはや、人生とはままならぬものである、とか、大げさか)
短い記事を書こう
僕はふと気づいた。「僕は長い記事が書けるのではなく、短い記事が書けないのではないか?」
ということで、テーマは、ブログについて思うことと、他者に期待すること、として、短い記事を書く練習をしてみよう。
初めに、僕が、すごいなと思うブログさんの特徴を挙げてみよう。それは、ある程度長い記事が書けることというのと、長らく続けられていることである。
この文脈上で、僕のブログはどうなのか、ということを先に考えてみる。
まず、僕は、ある程度長い記事を書ける。
肯定ポイント1:長い記事が書けること
長い記事が書ける、といっても、週に二、三回、5000字程度のものであるが、結構量が多い方だと思う(何と比べて、といえば、ブログなんて書いたこともないような人たちも含めて、である)。長ければ良いというものではない。ただし、ある程度、意味の連続性が認められる状態で、文章を連ねていくというのは、やろうと思ってもなかなかできないことである。
まったくブログを書いたことがない人や、日記など書いたことない人が、「さぁ今日からたくさん書くぞ!」と思ったところで、長くは続かないだろう。
なので、内容はともかく、ある程度の文章量があるブログさんをすごいと思う。
では、次の、続けられている、ということを考えてみる。
肯定ポイント2:続けられること
2点目は、長らく、続けられているということである。確かに、始めたばかりのころは、「さぁ書こう!」という気概もあいまって、非常に良質な記事を量産できることだろう。
しかしながら、「すげーっ!」って記事が多くても、多くの人は、1~2年……いやはや、もっと短いスパンで辞めてしまうことが多い。
まぁ、これは当たり前と言ったら当たり前である。理由は二つ。
一つは、生活の変化。
10年も20年も、同じような生活を続ける人ってのはまれである。特に、激動の10代、20代なんて、付き合う人も変われば環境も変わり、住むところも変われば、好きな食べ物や鑑賞対象だって変わるかもしれない。そんな中で、変わらず、文章を書き続けるってことは、よほどの動機がないと難しいことだろう。
二つ目は、その人自身の変化のなさ。
一つ目の理由は、変化があることを挙げたが、二つ目は、逆に変化をしないことが理由となる。すなわち、人は、実のところ、そんなに大きくは変われないのである。変われないというのは、身体的特徴……例えばダイエットの成果だとかそんなところから、思想信条、価値観といったものまで。様々な人や環境からの影響で、ターニングポイント(ある契機で方向転換すること)になることはあっても、パラダイムシフト(既存の価値観自体が変化すること)することは少ないのだ。
なので、1年や2年ではなく、もう何年も前から続けられているようなブログさんは、それだけで価値があると思っている。
そういう意味だと、僕は、10代半ばから書き始めて、もう10年以上は続けているということになる。
「おめー、そんな長くやっていて、この程度の文章しか書けないのかよ(かっこわら)」
と、思われることも仕方がなかろう……。確かに、クオリティは低いだろう。
しかしだ、冒頭の目的の通り、敢えて肯定すれば、ある程度の文章量を担保しつつ長らく書き続けられているというのは、それは一つの肯定ポイントだ。
まとめ
なので、皆さんも、あまり内容のことは気にせずに、できるだけ長い文章を、そして、できるだけ長い間続けられることを目指して、日々努力していってください! 以上!裏のまとめ
というような、今回の記事になった理由の一つは、「わかりやすい文章を書く技術」といった系統の本を流し読みしたからである。有益な情報もありながら、概略は殆ど知っている……と書くと傲岸不遜になってしまうが、辞書的な使い方が適しているとは思った。
いやそれよりも、つまり、「わかりやすい文章」というのは、相手に理解してもらえる文章ということであり、じゃあそれって結局のところ、「わかりやすいテーマ」であることが最重要である。
いや確かに、文章技術の体系としては、よくまとまっている本だと思った。
確かに確かに、その内容をしっかり身に着けて、使えるようになるのは、遊びでも仕事でもいろんな面で大切なんだろうと思った。
でも僕は、「そこじゃない感」があった。それをそもそも、上手に説明できないのだが、なんというか、求めている技術は、――今がそうであるだけかもしれないが、それではないのだと。
いやさ、わかりやすい単語選びをして、わかりやすい表現にして、わかりやすい構成にして、わかりやすいテーマにしていくというのは、そりゃあ、相手に理解してもらうって意味で、非常に重要だと思う。そもそも、いっくら簡単な英文法と英単語で表現したところで、英語をちっとも分からない人には伝えられないのと同じで、専門用語がガリガリちりばめられた文章なんて、ちょっと見ただけでKOされてしまいそうである。
しかし、僕が表現したいこと、明らかにしていきたいことというのは、そもそも「伝えたいこと」というのが明確になっていないのである。
わかりやすい表現にすると、「生きる意味」とかいうことにもなるっちゃあなるが、先般、コメントいただいた通り、「人生の意義を知りたいのか」「一生で成し遂げたいことを知りたいのか」といった、そもそもの定義がしっかりしていないと、意味がないのではないか、ということもある。
僕はそのコメントに対して、「うーん、そうですねぇ、それら全体ですかねぇ」と答えた気がする。
つまり、曖昧で、つかみどころがないものなのである。
「そんな、よくわからないことに関しての文章になんか、付き合いきれんわ!」
と思われる方が大半であろう。まぁ仕方がない。
そういう思いが強いので、先日の記事でも、「基本、読者想定は未来の自分ッス」とか書いたのである(書いた、というよりも、自動筆記(思うがままに書いている)ので、頭に浮かんだ、といった表現のほうが正しそうだが)。
とはいえ、別に、四六時中そんなことを考えているわけでもない。
仕事もあれば、遊びもある。生活はバランスが大事だ。さらには、その仕事の中にも集中と散漫があったり、遊びの中に真剣があったりもする。結局、仕事とか遊びとか、それらは人間の感覚(便宜上の分類・区分)であって、24時間という普遍的な時間単位は、明確に区分できるものではないのだ。
で、なんだ、その。短い記事にしようと思って、結局だらだら続いているわけである。
やっぱり、僕は短い記事をかけないのだろう……、というか、全然面白みを感じないのだ。書いていてもそうだし、後から読んでも。
とにもかくにも、だ。長い記事が書けるということと、長く続けられているということを、敢えて肯定的に書いてみた。自画自賛と言われてしまうだろう。
しかし、こう、あんまり、「わかりやすい文章を書こう!」ということに気を取られすぎても仕方がないと思う。そりゃあ、あれだ、何か「答え」があって、それを適切に伝えるべき場合であれば、当然、わかりやすく、丁寧に文章を書くべきだ。
僕のブログは、違うのだ。答えがないのである。伝えたいことはきっとある。しかし、その伝えたいことが、自分自身もよく分かっていないのである。
そして、厚顔無恥であるが、それでよいのである。
このブログは、いまだ、進歩の途中、なのである。変化を繰り返しているのである。
だから、読み手に、誤解を生じさせてもよいのである。いやむしろ、その誤解から生じた言葉が、僕自身に、新たなる変化を生じさせる可能性だってあるのだ。
まとめよう。
わかりやすい文章を書く技術とは、「伝えたいこと」が明確な場合に役に立つ技術である。
「伝えたいこと」が明確ではない、考えることそのもの、またはそのプロセスを表現する場合は、その技術は時に、反転して「わかりにくさ」を生じさせる可能性がある。
その「わかりにくさ」とは、わかりやすい文章にするための技術によって取り払われた文章の機微、冗長性といった、余分なものそれ自体が、実のところ、考えるべき、伝えたいことの一片である可能性である。
上の下線部を、わかりやすい文章技術によって、改変してみて、この記事を終わらせる。
(元)余分なものそれ自体が、実のところ、考えるべき、伝えたいことの一片である可能性である。
(修正)本当に考えるべきことや伝えたいことは、余分であると捨ててしまった文章自体に、実は含まれている可能性がある。
(本当は、スマホの調子やPCの調子や、最近遭ったよくない事のメモをしたかったが……。いやはや、人生とはままならぬものである、とか、大げさか)
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