季節が……あってない……(涙)。
以下連載。
【12月28日】
今日は仕事納めであった。目まぐるしい一年だった。できるだけ、何も考えないように、仕事に打ち込んでいた。何かしているときは、変なことを考えなくてすむからよい。
「おかえりなさいませ、ジュン様」
玄関のドアを開けると、ハルンがとたとたと出迎えてくれる。何も言わずカバンを差し出すと、受け取って、所定の位置に置いてくれる。
「ただいま」
リビングに入る。コートを脱ぎ、スーツを脱ぎ、手渡すと、順番にハンガーにかけてくれる。部屋着のスウェットはリビングの目のつくところに置いてある。
パソコン用の椅子に座り、ため息をつく。あっという間の一年だった。色々あった気がするが、取りあえず、今は何も浮かばない。
「何か、お飲み物を用意しましょうか?」
クローゼットの整理を終えたハルンが、僕の座る横に立って声をかけてきた。
「ああ、そうしてくれ」
「では、ウイスキーの……ロックでよろしいでしょうか?」
「ああ」
ウイスキー、と言ってからの若干の間は、恐らく、これまでの僕の傾向や、今の時間帯、僕の表情や体調の様子を確認し、現在家の中にあるより適切な飲み物から、より適切な飲み方を導き出したのだろう。
正解率が、恐ろしく高い。
あまりにも言い当てられるため、逆に、言われてから変えてみようかとも思ったが、そうしたデータも蓄積されてしまうことを考えると、素直によいと思ったものは、よいと言っておくべきだろう。ロボット相手にいじわるするというのもバカバカしいことだ。
【続く】
以下連載。
【12月28日】
今日は仕事納めであった。目まぐるしい一年だった。できるだけ、何も考えないように、仕事に打ち込んでいた。何かしているときは、変なことを考えなくてすむからよい。
「おかえりなさいませ、ジュン様」
玄関のドアを開けると、ハルンがとたとたと出迎えてくれる。何も言わずカバンを差し出すと、受け取って、所定の位置に置いてくれる。
「ただいま」
リビングに入る。コートを脱ぎ、スーツを脱ぎ、手渡すと、順番にハンガーにかけてくれる。部屋着のスウェットはリビングの目のつくところに置いてある。
パソコン用の椅子に座り、ため息をつく。あっという間の一年だった。色々あった気がするが、取りあえず、今は何も浮かばない。
「何か、お飲み物を用意しましょうか?」
クローゼットの整理を終えたハルンが、僕の座る横に立って声をかけてきた。
「ああ、そうしてくれ」
「では、ウイスキーの……ロックでよろしいでしょうか?」
「ああ」
ウイスキー、と言ってからの若干の間は、恐らく、これまでの僕の傾向や、今の時間帯、僕の表情や体調の様子を確認し、現在家の中にあるより適切な飲み物から、より適切な飲み方を導き出したのだろう。
正解率が、恐ろしく高い。
あまりにも言い当てられるため、逆に、言われてから変えてみようかとも思ったが、そうしたデータも蓄積されてしまうことを考えると、素直によいと思ったものは、よいと言っておくべきだろう。ロボット相手にいじわるするというのもバカバカしいことだ。
【続く】
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今日の一言「のせられてみるのも悪くない」「公開とか公言するってのは諸刃の剣」
例えば、奴隷制における仕事に楽しみを見出せというのは残酷な刑罰のようなものだ。古代ギリシアではない現代においても、薄給長時間労働パワハラセクハラに苦しむ人は少なくなかろう(少ないの?)。
でも、ただ生きるために働くというのは、その生存がその人にとって根本命題でなければ、人生の大半をそれに費やすというのは、何とも苦しいものだろう。「仕事を苦にして自殺」というのが現実発生するということであれば、「生きる」ということそれ自体が、生存欲求の最後の砦とは成りえないことは疑いえないだろう。
それゆえに、「仕事は楽しくなければならない」と、やや誇張して書いたのである。
それともう一つ、仕事という形態を、「労働者」という観点で考える必要もないと思っている。
例えば、アーリーリタイアを目指す人のブログなんか読んでいると、「早く会社辞めたい!」と思って、「いろいろ努力」しているのである。それは、投資の勉強だったり、ブログでアフィリエイト貼ってみたり、固定費がかからないよう田舎へ引っ越してみたり。
僕は、それらもまた、「仕事」と思っている。
ドイツ語で「職業」は、ベルーフ(Beruf)であるが、これは、「天職」という意味も含まれる……って、学校で習ったことはなかろうか。働くってのは、神から与えられた使命なのだと。……っていうのがプロテスタントたちが強く思って、頑張って働くうちに資本主義の基盤がつくられたって話。
一生懸命、自分の使命と思ってやるのが、仕事なのだと。生活のため、お金のためと思ってやる活動は、本来の仕事ではないのではないか、と。
僕は、理想的には、仕事とプライベートとの境界をなくしてしまってもいいのではないかと思っている。これはすぐさま、社畜乙とか、際限なき労働になってしまうとか批判は多々あるだろう。――あくまで、理想的な話。ホワイトカラーエグゼンプション? とかも、正直怪しい臭いがぷんぷんする。
少し考えてみれば、「好きなこと」なんて、楽な方に偏って、きつくて、汚くて、危険な仕事なんて、誰も「楽しんで」やるはずがなかろう。でも例えば、そういった人が嫌がる仕事が、機械が、ロボットがやってくれるようになったら、本来人がやりたかった仕事ができるようになるのではなかろうか。
今がそんな理想的な時代なんかじゃあないことは分かっているから、こんな主張はトイレの落書きレベルである。ただ、たとえ公言はできなくても、本来的には、もしくは極個人的な思いとして、「仕事は楽しくあるべきだ」ということを心にとどめていてもいいのではないかと思うわけである。
卑近ないつもの例を出せば、「美人とブス、どっちがいい?」という問いが明確である。美人は心が冷たいとか、そんな比較はおかしいのだ。美人で性格がよいほうが良いに決まっている。だが、大多数のブスは(えっと、誇張して書いているんだからね? わかるよね?)、一握りの美人に対して、法界悋気(嫉妬)をもってして、美人は悪魔だと指をさし虐げようとするのである。
例が悪かったな。まぁ、なんつーか、強いものに敗れて、支配されたら「弱者」なんだけど、「いや! 俺たちは弱者なんかじゃない。善人なのだ! 善い魂をもった者が虐げられるのが世界の――いや神の試練なのだ!」と、嫉妬心と復讐心を高めて自己を慰めるのである。
弱きものが美しい? 魂の平等?
――くそくらえだ。敗北主義者の世迷い事など聞くに値せん!
強くあれ!
楽しくあれ!
快楽へ身をゆだねよ!
世界はかくも素晴らしいものにも関わらず、キリスト教の奴隷道徳(ルサンチマン)により、世界の真実は捻じ曲げられてしまったのだ!!
でも、僕が最近、「成長や何か目標の達成のために努力し、今を捨て去るなど間違っている」と書いたり言ったりしているのは、上のような考え方がもとになっている部分もある。
このことを書くと、すぐさま書いておかなければいけないのは、退廃的だったり、堕落したりすることを推奨しているのではないということだ。
目標を立て、ストイックに頑張ることを否定するわけではない。むしろ、それは素晴らしいし、大いに推奨すべきものだ。
否定したかったり、駄目なのは、「今が苦しくても、きっと頑張ればいつか報われる」的な奴である。「今」が苦しい時点で、もうそりゃダメなのである。
この話を書くとき、すぐさま書いておかなければならないのは、選択の余地なく這い上がらなければならない時や、状況下に置かれている人もいるだろうということだ。災害や人災に襲われたとき、「今が苦しいなんて思っちゃダメなんだ!」とか、そんなの馬鹿げている。非常事態は別だ。ただ無心に、目の前の脅威を排除することに全力になる必要がある場合だってあるだろう。
この話になるとき、「日本は幸福な国だ」的な話。あれは、ある意味で間違いなかろう。「非常事態が少ない」といった点では、そうだろう。道端を歩いていてモンスターに襲われたり、飢餓で今日の食べ物がないなんてことは稀である。
ただ、「他者との比較は無意味」と繰り返し述べているように、いつまでも「食糧不足」で困っている人たちと比べて、「日本に生まれただけで幸せだから〇〇すべきだ」とか言うのは、アホの所業であるということだ。今まさに苦しんでいて、自殺しようとしている若者に対して、「もっと苦しんでる人なんて、いっぱいいるんだよ。幸せなことだってあるんだし、まだ若いんだから死ぬなんてもったいないよ!」なんて、何ら解決になるまい。もちろん、そのまま死なせてやるのが正しいとか言ってるわけじゃない。だが、「他の苦しんでいる人」の存在が、今まさに苦しんでいる当人にとって、なんの福音になろうか。むしろ絶望への手助けにしか思えない。
軽薄なポジティブを吐く連中は信用しないことだ。
そんなに長いことかくつもりではないのに、書き始めると長くなってしまう。
小見出しで書いたけど、言いたいことや書きたいことは、シンプルといえばシンプルだが、その読んだときや、条件、読んだ人の状況、相手などを想像すると、「ただし」「例外」とかがどんどん必要になっていく。
世界も実はシンプルなのである。
人は何故生きるのか? ――命あるから生きるのだ。
お前の望みはなんだ? ――世界平和と幸福だ。
以上だ!
シンプルだッ!
美しいもの汚いもの。幸福と不幸。良いものと悪いもの。
すべての相対概念において、それらは「プラス」の方向のものが全て良いものなのだ。
善なる存在を否定する者など「いない」。
しかし、だ。
上の、かっこつきの「いない」とは、「一般的に」善とか正義とかされているものに対して、同様の価値観を抱けない人や社会や国はあるということだ。
しかしそれらは、すべて「正義」である。
(いやいや、自己の利益を追求する政治資金を横領するやつとか、人を殺して金品奪う強盗も正義といえるのか? とかいう批判もあるだろう。しかし、そんな非常事態のことなど僕は考えなどしない。そんなの、同じ「人」カテゴリに入れて考えても仕方がなかろう。――いや、ただし、国が貧しいときに犯罪は増えるように、どんなときも「善なる人間」を想定して考えることにも無理はあるだろう。しかし、「ダメなもんはダメ!」と理屈抜きで規定することも必要なときは必要だ。――という観点を巧みに利用して、「気持ち悪い二次元作品は有害だ」とか表現の自由を規制しようとする奴らもいるから難しい。――とこのように、但し書きや例外はどんどん膨れていく。法律の文章がやけに読みにくいのは、このせいだ。確かに、古い法律はそもそも読みづらかったりするが、比較的新しい法律や、改正が繰り返されているやつとかは、割かし初見でも理解できたりするものである。しかし、いろんな人や状況があるせいで、「この場合はこう」「あの場合はあのように」みたいにどんどん膨れていくのである。だからだ、「気の合う友人」ってのは大事だったりする。何故かというと、言葉や、ボディランゲージとか非言語要素を用いようとも、決して100%理解しあうなんて不可能だからだ。気の合うってのは、ある根源または価値観部分の全部または一部が共有できていることを示す。これが一致していると、一見趣味嗜好が違うように思えても、意外とうまくやってけるものだ。逆にこれが一致していないと……って注釈なげーよ!)
えー。長い注釈が入りましたが、つまり、世界はシンプルなのですが、いろんな「正義」があって、ぶつかり合うので、「このケースはこう」「ああしたらこうする」みたいな条件が積み重なっていって、複雑さが増していくわけですな。
哲学が混迷しちゃった(流行らなくなった)のは、本当は、だれしもみんな興味があるテーマばっかりだったはずなのに、その回答があまりにも複雑になっちゃったからなんだと思う。
で、俺のブログが流行らないのも、やたら長いからだろうな!! まぁ、この点直す気はあんまりない! ていうか、治らねーよ! 不治の病だよ! 助けてくれよ!
(次の記事は明日の17時投稿としよう。そういや、連載作品もまだだなぁ。そっちは明日の12時投稿にしよう)
例外とか但し書きとかばかりの世の中じゃ
先日、「仕事も楽しむべきだ」的なことを書いた。もちろん、「誰しもそうではあるまい」という但し書きも書いたけれども、でも、それに対しては異議がある人が多いのではないか。例えば、奴隷制における仕事に楽しみを見出せというのは残酷な刑罰のようなものだ。古代ギリシアではない現代においても、薄給長時間労働パワハラセクハラに苦しむ人は少なくなかろう(少ないの?)。
でも、ただ生きるために働くというのは、その生存がその人にとって根本命題でなければ、人生の大半をそれに費やすというのは、何とも苦しいものだろう。「仕事を苦にして自殺」というのが現実発生するということであれば、「生きる」ということそれ自体が、生存欲求の最後の砦とは成りえないことは疑いえないだろう。
それゆえに、「仕事は楽しくなければならない」と、やや誇張して書いたのである。
それともう一つ、仕事という形態を、「労働者」という観点で考える必要もないと思っている。
例えば、アーリーリタイアを目指す人のブログなんか読んでいると、「早く会社辞めたい!」と思って、「いろいろ努力」しているのである。それは、投資の勉強だったり、ブログでアフィリエイト貼ってみたり、固定費がかからないよう田舎へ引っ越してみたり。
僕は、それらもまた、「仕事」と思っている。
ドイツ語で「職業」は、ベルーフ(Beruf)であるが、これは、「天職」という意味も含まれる……って、学校で習ったことはなかろうか。働くってのは、神から与えられた使命なのだと。……っていうのがプロテスタントたちが強く思って、頑張って働くうちに資本主義の基盤がつくられたって話。
一生懸命、自分の使命と思ってやるのが、仕事なのだと。生活のため、お金のためと思ってやる活動は、本来の仕事ではないのではないか、と。
僕は、理想的には、仕事とプライベートとの境界をなくしてしまってもいいのではないかと思っている。これはすぐさま、社畜乙とか、際限なき労働になってしまうとか批判は多々あるだろう。――あくまで、理想的な話。ホワイトカラーエグゼンプション? とかも、正直怪しい臭いがぷんぷんする。
少し考えてみれば、「好きなこと」なんて、楽な方に偏って、きつくて、汚くて、危険な仕事なんて、誰も「楽しんで」やるはずがなかろう。でも例えば、そういった人が嫌がる仕事が、機械が、ロボットがやってくれるようになったら、本来人がやりたかった仕事ができるようになるのではなかろうか。
今がそんな理想的な時代なんかじゃあないことは分かっているから、こんな主張はトイレの落書きレベルである。ただ、たとえ公言はできなくても、本来的には、もしくは極個人的な思いとして、「仕事は楽しくあるべきだ」ということを心にとどめていてもいいのではないかと思うわけである。
アンチクリスト
奴隷の話が出たから、少し書けば、「キリスト教は奴隷道徳だ」といったのはニーチェさんだったか。卑近ないつもの例を出せば、「美人とブス、どっちがいい?」という問いが明確である。美人は心が冷たいとか、そんな比較はおかしいのだ。美人で性格がよいほうが良いに決まっている。だが、大多数のブスは(えっと、誇張して書いているんだからね? わかるよね?)、一握りの美人に対して、法界悋気(嫉妬)をもってして、美人は悪魔だと指をさし虐げようとするのである。
例が悪かったな。まぁ、なんつーか、強いものに敗れて、支配されたら「弱者」なんだけど、「いや! 俺たちは弱者なんかじゃない。善人なのだ! 善い魂をもった者が虐げられるのが世界の――いや神の試練なのだ!」と、嫉妬心と復讐心を高めて自己を慰めるのである。
弱きものが美しい? 魂の平等?
――くそくらえだ。敗北主義者の世迷い事など聞くに値せん!
強くあれ!
楽しくあれ!
快楽へ身をゆだねよ!
世界はかくも素晴らしいものにも関わらず、キリスト教の奴隷道徳(ルサンチマン)により、世界の真実は捻じ曲げられてしまったのだ!!
努力の否定
……別にキリスト教に恨みがあるわけでもないし、先日聖書の雑誌を配布に来た信者の方を無碍にもしないし、どっちかというと俺、弱者の方だし(笑)。でも、僕が最近、「成長や何か目標の達成のために努力し、今を捨て去るなど間違っている」と書いたり言ったりしているのは、上のような考え方がもとになっている部分もある。
このことを書くと、すぐさま書いておかなければいけないのは、退廃的だったり、堕落したりすることを推奨しているのではないということだ。
目標を立て、ストイックに頑張ることを否定するわけではない。むしろ、それは素晴らしいし、大いに推奨すべきものだ。
否定したかったり、駄目なのは、「今が苦しくても、きっと頑張ればいつか報われる」的な奴である。「今」が苦しい時点で、もうそりゃダメなのである。
この話を書くとき、すぐさま書いておかなければならないのは、選択の余地なく這い上がらなければならない時や、状況下に置かれている人もいるだろうということだ。災害や人災に襲われたとき、「今が苦しいなんて思っちゃダメなんだ!」とか、そんなの馬鹿げている。非常事態は別だ。ただ無心に、目の前の脅威を排除することに全力になる必要がある場合だってあるだろう。
この話になるとき、「日本は幸福な国だ」的な話。あれは、ある意味で間違いなかろう。「非常事態が少ない」といった点では、そうだろう。道端を歩いていてモンスターに襲われたり、飢餓で今日の食べ物がないなんてことは稀である。
ただ、「他者との比較は無意味」と繰り返し述べているように、いつまでも「食糧不足」で困っている人たちと比べて、「日本に生まれただけで幸せだから〇〇すべきだ」とか言うのは、アホの所業であるということだ。今まさに苦しんでいて、自殺しようとしている若者に対して、「もっと苦しんでる人なんて、いっぱいいるんだよ。幸せなことだってあるんだし、まだ若いんだから死ぬなんてもったいないよ!」なんて、何ら解決になるまい。もちろん、そのまま死なせてやるのが正しいとか言ってるわけじゃない。だが、「他の苦しんでいる人」の存在が、今まさに苦しんでいる当人にとって、なんの福音になろうか。むしろ絶望への手助けにしか思えない。
軽薄なポジティブを吐く連中は信用しないことだ。
おめーはいつも長いんじゃ
ううむ。そんなに長いことかくつもりではないのに、書き始めると長くなってしまう。
小見出しで書いたけど、言いたいことや書きたいことは、シンプルといえばシンプルだが、その読んだときや、条件、読んだ人の状況、相手などを想像すると、「ただし」「例外」とかがどんどん必要になっていく。
世界も実はシンプルなのである。
人は何故生きるのか? ――命あるから生きるのだ。
お前の望みはなんだ? ――世界平和と幸福だ。
以上だ!
シンプルだッ!
美しいもの汚いもの。幸福と不幸。良いものと悪いもの。
すべての相対概念において、それらは「プラス」の方向のものが全て良いものなのだ。
善なる存在を否定する者など「いない」。
しかし、だ。
上の、かっこつきの「いない」とは、「一般的に」善とか正義とかされているものに対して、同様の価値観を抱けない人や社会や国はあるということだ。
しかしそれらは、すべて「正義」である。
(いやいや、自己の利益を追求する政治資金を横領するやつとか、人を殺して金品奪う強盗も正義といえるのか? とかいう批判もあるだろう。しかし、そんな非常事態のことなど僕は考えなどしない。そんなの、同じ「人」カテゴリに入れて考えても仕方がなかろう。――いや、ただし、国が貧しいときに犯罪は増えるように、どんなときも「善なる人間」を想定して考えることにも無理はあるだろう。しかし、「ダメなもんはダメ!」と理屈抜きで規定することも必要なときは必要だ。――という観点を巧みに利用して、「気持ち悪い二次元作品は有害だ」とか表現の自由を規制しようとする奴らもいるから難しい。――とこのように、但し書きや例外はどんどん膨れていく。法律の文章がやけに読みにくいのは、このせいだ。確かに、古い法律はそもそも読みづらかったりするが、比較的新しい法律や、改正が繰り返されているやつとかは、割かし初見でも理解できたりするものである。しかし、いろんな人や状況があるせいで、「この場合はこう」「あの場合はあのように」みたいにどんどん膨れていくのである。だからだ、「気の合う友人」ってのは大事だったりする。何故かというと、言葉や、ボディランゲージとか非言語要素を用いようとも、決して100%理解しあうなんて不可能だからだ。気の合うってのは、ある根源または価値観部分の全部または一部が共有できていることを示す。これが一致していると、一見趣味嗜好が違うように思えても、意外とうまくやってけるものだ。逆にこれが一致していないと……って注釈なげーよ!)
えー。長い注釈が入りましたが、つまり、世界はシンプルなのですが、いろんな「正義」があって、ぶつかり合うので、「このケースはこう」「ああしたらこうする」みたいな条件が積み重なっていって、複雑さが増していくわけですな。
哲学が混迷しちゃった(流行らなくなった)のは、本当は、だれしもみんな興味があるテーマばっかりだったはずなのに、その回答があまりにも複雑になっちゃったからなんだと思う。
で、俺のブログが流行らないのも、やたら長いからだろうな!! まぁ、この点直す気はあんまりない! ていうか、治らねーよ! 不治の病だよ! 助けてくれよ!
本題の創作について
そもそも書こうとしたことに、ここから入るのだけど、ちょっと、またブラウザ(スレイプニール)が重くなって、まともに書けなくなってきたので、いったんここで切って再起動する。(次の記事は明日の17時投稿としよう。そういや、連載作品もまだだなぁ。そっちは明日の12時投稿にしよう)
今日の一言「他者に求めるのは強制だ」「自分に求めるのは自己実現だ」
しかし、平日は、……正直きつい。
何がきついって、まったくもって帰宅時間がコントロールできないことである。
日々のルーチン(「これは毎日やるぜ!」と決めたこと)を失敗してしまうのは、往々にして、普段と違うことが起こった時である。
僕の経験から、
・風邪とか体調を崩したとき
・泊りの旅行とか、日常と異なることが起こった時
・理不尽な事態とか、精神状態が異常値になったとき
が挙げられる。
そういった事態が発生すると、いくら最初に「これはやるぞ!」と強く思い描いていても、どうしてもできなかったりする。
で。できなかった後に、「あー……昨日はダメだったなぁ……」となって、自己嫌悪に陥ったり、「ま、明日からがんばりゃいっか!」とか思って、結局、ずるずる、やらなくなっていく、というのが多い。
そんなダメダメな経験の積み重ねの結果考え出したのが、「免除規定」(最初は「例外規定」と書いていたようだが)であった。基本、流されやすい人間ということか……。
しかし、筋トレとか音読とか、それ系の無心でできる奴はともかく、クリエイティブな、創作といった内容を毎日続けるというのは、本当に至難の業だろう。
1時間紙面に向かって、1文字も書けないということも、冗談ではなくあったりする。そもそも、気分が乗らないこともざらである。
一日500字とすれば、200日もすれば10万字以上だ。10万字が単行本一冊ぐらいの量といわれるから、一日500字でも十分すごいだろう。
これは、何度も書いているが、何か「創造」できる人を僕は尊敬する。
ま、これは、エンターテイメントに限らず、仕事でも、遊びでもなんでもいいけれども、何か「創る」というのが、すごいことだと思っている。
――そして僕も、やっぱり「創る」のが好きだ。そして、自分でも、創りたい。
あー、これ、何となく思ってきたけど、やっぱりそうなんだろうなぁ。
先日、過去記事とか整理していて、「今後、ほんと、どうしようかなぁ」と考えたとき、そもそも、音楽つくったり、小説かいたり、ブログ書いたりって、ほんと、自分の人生になんら影響しない……というか、よくないことなんじゃないかって思ったりもした。
やっぱり人は、他者にとって役に立つ人間じゃなきゃダメなんじゃないかって。
自己満足や自己完結に陥ることはダメなんじゃないかって。
確かに、この時代、「公開する」ということができるインターネットという電子が飛び交う魔法の世界においては、創作に励むというのが、必ずしも閉じた世界になるわけではないだろう。
けれども、やはり、「仕事」と直結しない行為は、「無駄」なのではないか、と思ったのだ。
大人は、人にとっては、趣味はやはり「余った時間に行うこと」であり、仕事に生きがいを感じなければならないのではないか、と思ったりもした(就職活動中とか、社会人になってからまもなくとかの過去記事を読んだりしていて)。
まぁ、仕事を本当に楽しめる人たちだから逆に、経営者とかトップに立つ人間になるんだろうなぁと思ったりもしたが、ただ、自分がいくら平社員だからといって、あながち否定もできんと思ったわけだ。
やっぱ、楽しくなきゃ生きてる意味なくね?
「人生とは、楽しむものだ」
これは、僕が、中学生(高校一年生の倫理でエピクロスを学んだときだったか)のときに考えた、悩んできたことに対しての答えだった。
小学校とかから、ずいぶん、嫌な思いもしてきて、「何でこんな生きるって大変なんだろうなぁ」と思ってきて、「うん、やっぱり、楽しく生きなきゃおかしいよ!」と思い立ったわけである(確か)。
で、そんときは、すげー発見したなぁと自己陶酔していたが、結局、その「格言」が正しかろうと、現実は甘くなかった(かっこわらい)。
でも、やっぱり、原点はそこなんじゃなかろうか?
みんな、だれしも、楽しく生きるのが大事なんじゃなかろうか?
だから、ブラック企業とか、頑張ってやりがいを満たせとか、一方で、「クリエイティブな人材をほっします」とか企業が就活生とかにいっちゃうのは、みんな、根本的に大事なことを見落としてるんじゃなかろうか?
「やりがい」を求めて、仕事を必死になること、それが悪いことかというと、僕は全然そうは思わない。
仕事が好きで楽しい、とかいうと、すぐ「社畜乙」とか言われるのは、それはおかしい社会と思う。
一方で、「がんばって成果を出しましょう!」と発破をかけて、お金を稼ごうってのは、大事なことを見落としていると思う。
本当は、「頑張ること」「成果を出すこと」「認められること」というのは、それは単に「結果」に過ぎないのではないか?
それよりも根本として大事なことは、それら全般が、本来的に「楽しいこと」だということではないか?
そりゃ楽しいことしてても疲れるときは疲れるけど、強制され、拘束されているのと、同じ時間だとしても、身体・精神ダメージは全然違うだろう。
とはいえ、だれしも仕事を好きにならなきゃいけないってのも違うと思う。
仕事はお金を稼ぐ手段で、人生は趣味や家族に捧げるってのも、大いにありだろう。
そういったのをひっくるめて、「多様性」を認めるってことじゃあなかろうか。
で、その前提として、せっかくだから、「仕事」も楽しむことができたらもっといいと思う。
ちなみに、ルーチンを超えると、それは習慣になる。
意識しなくても自然にやってしまうこと、それが習慣だ。
習慣も、大いに、目標達成には活用すべきである。例えば、外から帰って手を洗うのは習慣だろう。それに、風邪予防にうがいも加えてみる。って小学生か。
いやしかし、そういう、ついつい「馬鹿にしたくなる」ようなことが、習慣の活用としては有効である。むしろ、普段意識できていないような習慣の方がよい。
家に帰ってきて、もしくは自分の部屋に戻ってから、必ず行うことはないだろうか? または、普段、初めに目線がいく場所はないだろうか?
その、当たり前の、習慣の中に、すこーしだけ、種をしかけるのである。習慣プラスα作戦!
なんの話だ。
そう、ちょっと、高級なYEBISUビールを飲んで、昂っているせいも影響しているかもしれないが、僕も、創作がんばろうと思った。
今年中に、音楽と小説と、一つ完成させたいな。
――って、今年って、もう半年もないんかい! はやいなぁ、ほんと……。
もうちょっと、具体的な計画や目標は、落ち着いた日に考えるとして、今日のところは、「自分の好きなこと」の確認を少しできた、ということで終わるとしよう。
(創作しようッ!! と思った矢先、「風よ龍に届いているか」を読み始める。え、なにこれ面白い)
ビール飲んでる場合じゃねぇ
ある方が最近、毎日(毎日!)自作品の進捗をグラフにして公開するという荒行(ストイック・ディシプリン)を始めたので、正直、忙しいとか愚痴いってる場合じゃねぇと思い始めている。しかし、平日は、……正直きつい。
何がきついって、まったくもって帰宅時間がコントロールできないことである。
日々のルーチン(「これは毎日やるぜ!」と決めたこと)を失敗してしまうのは、往々にして、普段と違うことが起こった時である。
僕の経験から、
・風邪とか体調を崩したとき
・泊りの旅行とか、日常と異なることが起こった時
・理不尽な事態とか、精神状態が異常値になったとき
が挙げられる。
そういった事態が発生すると、いくら最初に「これはやるぞ!」と強く思い描いていても、どうしてもできなかったりする。
で。できなかった後に、「あー……昨日はダメだったなぁ……」となって、自己嫌悪に陥ったり、「ま、明日からがんばりゃいっか!」とか思って、結局、ずるずる、やらなくなっていく、というのが多い。
そんなダメダメな経験の積み重ねの結果考え出したのが、「免除規定」(最初は「例外規定」と書いていたようだが)であった。基本、流されやすい人間ということか……。
ルーチンを超えて習慣へ
ブログ右横の、カウントアップを見てみる。音読は結構さぼってしまった日があったりするが、筋トレはほんと、免除規定以外は毎日続けられている。270日。これは結構長いほうだ。へー、そうだなぁ、結構がんばったなぁ。しかし、筋トレとか音読とか、それ系の無心でできる奴はともかく、クリエイティブな、創作といった内容を毎日続けるというのは、本当に至難の業だろう。
1時間紙面に向かって、1文字も書けないということも、冗談ではなくあったりする。そもそも、気分が乗らないこともざらである。
一日500字とすれば、200日もすれば10万字以上だ。10万字が単行本一冊ぐらいの量といわれるから、一日500字でも十分すごいだろう。
これは、何度も書いているが、何か「創造」できる人を僕は尊敬する。
ま、これは、エンターテイメントに限らず、仕事でも、遊びでもなんでもいいけれども、何か「創る」というのが、すごいことだと思っている。
――そして僕も、やっぱり「創る」のが好きだ。そして、自分でも、創りたい。
あー、これ、何となく思ってきたけど、やっぱりそうなんだろうなぁ。
先日、過去記事とか整理していて、「今後、ほんと、どうしようかなぁ」と考えたとき、そもそも、音楽つくったり、小説かいたり、ブログ書いたりって、ほんと、自分の人生になんら影響しない……というか、よくないことなんじゃないかって思ったりもした。
やっぱり人は、他者にとって役に立つ人間じゃなきゃダメなんじゃないかって。
自己満足や自己完結に陥ることはダメなんじゃないかって。
確かに、この時代、「公開する」ということができるインターネットという電子が飛び交う魔法の世界においては、創作に励むというのが、必ずしも閉じた世界になるわけではないだろう。
けれども、やはり、「仕事」と直結しない行為は、「無駄」なのではないか、と思ったのだ。
大人は、人にとっては、趣味はやはり「余った時間に行うこと」であり、仕事に生きがいを感じなければならないのではないか、と思ったりもした(就職活動中とか、社会人になってからまもなくとかの過去記事を読んだりしていて)。
好きなことをしている人が強い
あるニュース記事的なので、ある会社の社長さんとか経営者の就活生向けのインタビューがあって、「結局、楽しんで仕事できない人は伸びないよ」「やらされてる感しかない奴はいらないよね」とかあった。まぁ、仕事を本当に楽しめる人たちだから逆に、経営者とかトップに立つ人間になるんだろうなぁと思ったりもしたが、ただ、自分がいくら平社員だからといって、あながち否定もできんと思ったわけだ。
やっぱ、楽しくなきゃ生きてる意味なくね?
「人生とは、楽しむものだ」
これは、僕が、中学生(高校一年生の倫理でエピクロスを学んだときだったか)のときに考えた、悩んできたことに対しての答えだった。
小学校とかから、ずいぶん、嫌な思いもしてきて、「何でこんな生きるって大変なんだろうなぁ」と思ってきて、「うん、やっぱり、楽しく生きなきゃおかしいよ!」と思い立ったわけである(確か)。
で、そんときは、すげー発見したなぁと自己陶酔していたが、結局、その「格言」が正しかろうと、現実は甘くなかった(かっこわらい)。
でも、やっぱり、原点はそこなんじゃなかろうか?
みんな、だれしも、楽しく生きるのが大事なんじゃなかろうか?
だから、ブラック企業とか、頑張ってやりがいを満たせとか、一方で、「クリエイティブな人材をほっします」とか企業が就活生とかにいっちゃうのは、みんな、根本的に大事なことを見落としてるんじゃなかろうか?
え、これ仕事論になるの?
大事なのは、「楽しむこと」だと。「やりがい」を求めて、仕事を必死になること、それが悪いことかというと、僕は全然そうは思わない。
仕事が好きで楽しい、とかいうと、すぐ「社畜乙」とか言われるのは、それはおかしい社会と思う。
一方で、「がんばって成果を出しましょう!」と発破をかけて、お金を稼ごうってのは、大事なことを見落としていると思う。
本当は、「頑張ること」「成果を出すこと」「認められること」というのは、それは単に「結果」に過ぎないのではないか?
それよりも根本として大事なことは、それら全般が、本来的に「楽しいこと」だということではないか?
そりゃ楽しいことしてても疲れるときは疲れるけど、強制され、拘束されているのと、同じ時間だとしても、身体・精神ダメージは全然違うだろう。
とはいえ、だれしも仕事を好きにならなきゃいけないってのも違うと思う。
仕事はお金を稼ぐ手段で、人生は趣味や家族に捧げるってのも、大いにありだろう。
そういったのをひっくるめて、「多様性」を認めるってことじゃあなかろうか。
で、その前提として、せっかくだから、「仕事」も楽しむことができたらもっといいと思う。
着地点どこやねん
あー、その、なんというか、創作をルーチンで続けるって、ほんとすごいなって、思ったんだ。ちなみに、ルーチンを超えると、それは習慣になる。
意識しなくても自然にやってしまうこと、それが習慣だ。
習慣も、大いに、目標達成には活用すべきである。例えば、外から帰って手を洗うのは習慣だろう。それに、風邪予防にうがいも加えてみる。って小学生か。
いやしかし、そういう、ついつい「馬鹿にしたくなる」ようなことが、習慣の活用としては有効である。むしろ、普段意識できていないような習慣の方がよい。
家に帰ってきて、もしくは自分の部屋に戻ってから、必ず行うことはないだろうか? または、普段、初めに目線がいく場所はないだろうか?
その、当たり前の、習慣の中に、すこーしだけ、種をしかけるのである。習慣プラスα作戦!
なんの話だ。
そう、ちょっと、高級なYEBISUビールを飲んで、昂っているせいも影響しているかもしれないが、僕も、創作がんばろうと思った。
今年中に、音楽と小説と、一つ完成させたいな。
――って、今年って、もう半年もないんかい! はやいなぁ、ほんと……。
もうちょっと、具体的な計画や目標は、落ち着いた日に考えるとして、今日のところは、「自分の好きなこと」の確認を少しできた、ということで終わるとしよう。
(創作しようッ!! と思った矢先、「風よ龍に届いているか」を読み始める。え、なにこれ面白い)
今日の一言「ものすごい生産性がなかった気がする」「整理という仕事は往々にして大変」
しかし、まだまだ、60記事以上が残っているし、2011年以降も残っている。
そもそも、この忍者ブログの検索機能というか、一括編集機能が非常に使いづらかったので、バックアップファイル(MTファイル)を出力して、それを取り込んで編集しようと試みたが、このMTファイルの形式が、非常に使いづらい。CSV形式とかなら良いが、全然保存形式が異なる。なんだこれ、なんでこんなファイルが一般的になっているんだろう……、そうかこれがデファクトスタンダード(よいか悪いか別として、一般に広まったからそれが使われるようになったもの。ウィンドウズとか)ってやつか。
それで、こんな使いづらいなら、MTファイルを操作するアプリケーションぐらい、ゴロゴロあるだろうと思ったら、ところがどっこい、そんな便利なソフトも全然見つからない。
なるほど、昨今、ワードプレスとかはやってるし、わざわざ、こんなテキストファイルを直接編集しようなんて考えるやつなどいないのだろう。
ということで、エクセルとマクロでMTファイルをテキストファイルとして取り込んで、日付とか、本文部分を分離させて、編集しやすいようにするアプリを自作した。
これを作るのに、1~2時間ぐらいかかった。テキストファイルを読み込むってのも、いろんなやり方があるみたいで、どれが良いかとか考えるとこれまた複雑だった。
うーん、最近使っていて思ったけれども、エクセルのマクロって、かなり多機能だよな。そもそも、フォルダやファイル操作が自由にできる。ってことで、エクセルのスプレッドシートを使うのを主にしない、デスクトップに余計なファイルを退避フォルダに移動させるアプリも作った。
とある、これまたよく読んでいるブログさんでも、エクセルのマクロって聞くと、複雑なプログラム言語ができる人は馬鹿にしたりするけど、実はすごいんだぜ、とおっしゃっていて、なるほど、確かにすごいなぁと思った。
あ、話それた。
そう、昔の記事の整理だ。
しかし、自分自身、その感覚に対して違和感を抱いていた。
その理由が、過去記事読んだりしていて、なんとなく分かってきた。
いろいろ、引用したい記事は出てきたんだが、今回はとりあえず一つだけ引っ張ってこよう。
いや、まぁ、いいたいことも分かる。というか、それを聞いた俺自身も、「あー、やっぱりそうだよねー」と思ったりしていた。この後、
>と、今書いて改めて分かりましたが、本当に、そういうことに興味をもてない。むしろ、何故そんな「普通の人」は、誰々が誰と付き合ったとか、結婚したとか、どこに旅行に行ったとか、そういうことに興味をもてるのか、分かりません。
とか、そんなことまで書いたりしている。
でも、違うんだよな。
>それよりも、「お前はもっと人に興味をもつべきだ」という点において少々書きたいと思います。わたしはちゃんと人に興味をもっているのだよ、と、そう言いたいわけです。でも、わたしが興味のあるのは、特定の人ではなく、広い意味での「人」です。認知症や精神病の本など、非常に面白いと思います。
自分でも当時書いているが、そういうことなのだ。
人自体に興味がないというわけではない。ただ、「誰それが今何をしている」とか、そんなに興味がないのだ。
つーか、そういうのって、田舎の近所のおばさま方が、「ねぇ、田中さん(仮名)、知ってる? 高橋さん(仮名)のお子さん、〇〇会社に就職したんですって」的な奴に思ってしまう。なんか、そういうの、いやじゃない? ――いや、俺だけか。
いや、別に、久々に会った友人と、「お、久しぶり! 最近どうよ! 何してるん?」とかいう会話が無駄だとか嫌いだとか言うんじゃない。それはありだと思うし、興味もある。けど、そんなん、別に常日頃変わっていくだろうし、そんな歴史の授業みたいに記憶するのが必要か? と思う。
みんな、今を生きてればいいじゃん。過去の話だけだと、結局面白くなくない?(いや、思い出話に花を咲かせるのも、いいことだ。ペルソナ4の夏休みに主人公が、おばあさんの櫛を川の魚から取り戻して、思い出も取り戻してあげる話とかよかったじゃないか)
まー確かに、だ。その友人は、間違っちゃあいない。確かに、当時、まぁ今もだけど、あんまし、他人に注力できるほど余裕なんてなかった。
でもさ、「どんだけ自由に生きてるんだよ」「自分にしか興味ないんだろ」って、それはどうなんだ?(笑)
少なくても、そんなに楽しい思いばっかりしてきたとは到底思えないんだが。
まぁ、今となって、そんなこと言われたの、すっかり忘れていたけど、こうやって過去の記事を読み返すと、「ああ、そんなことあったかもしれんな!」と感情がよみがえったりもする。
けれども、その記事を読んで、何らかの感情が蘇ってくるような記事が、よい記事だと僕は思う。
それがたとえ、嫌な思い出でも、さ。
まだまだ、整理がしきっていないけど、今年中に全部整理してしまいたいな。
こうやって、新しいメモを書くのもいいが、過去も有用に使っていきたいところ。
いやぁ。しかし、いろいろ、やってきたなぁ。
オフ会の幹事とかもしたことがあるらしい。すっかり忘れていた。それは、感情は蘇ってこなかった。単純な「記憶」だけ。っていうのは、日記としては有用だろうが、実際どうなんだろ?
実感が伴わない過去の体験・経験って、役に立つのかな?
つまり、それを成し遂げたとしても、その成し遂げたのが「自分」と一致させられないということだ。
赤の他人の業績のようなもの。
無意識に影響は与えていても、意識下で使うことができない記憶・感情であれば、残念ながらあまり有用じゃない気がする。
無駄な悩みとか、時間を無駄にしたり。もっと頑張れたのかもしれない。
でも、まぁ、「自分」っていう身体・環境制約の中では、よくやったと思うよ、ほんと。上から目線だな。だが構わない、唯一、上から目線になっても怒られないのが、過去の自分相手だ。
しっかし、文章量がほんと多いな。中身ないやつとか、意味が完全に壊れている奴とか消していったりもしたけど、まだまだ残ってる。
過去記事のどっかでも見かけたが、ほんと、ただ書くことは「いくらでも」できる、のかもしれない。確かに、いっつも、「そろそろやめとくか」とか思ってやめてる感じだもんな。これは今も昔もそうだったんだろう。
いや、それが何の役に立つってんだ、ということも感じたり考えた。
それで、意識的に、何年か、その思考をとめて、書くこともやめたりもしたりした。
けれど、それは結局、何の解決にもならなかった――というのは、今このように書いている事実があるからな。
とはいえ、先日も書いたけれども、「ループ」というのに、どう対処するかってのはある。
しかし、どうなんだ?
実際、ループしてんのか?
確かに螺旋みたいに、ぐるぐるしている気はする。しかし、その階下、上下はしているような気がする。
いやしかし、それは、周囲の、環境の変化がそう思わせているだけなのかもしれない。
思考のループ。
これには対応する必要があるだろう。
そうだ、そういえば、そのための、今年の目標、「整理」ってのもあるわけだ。
でも……、どうなんだろ。
分からない。
例えば、今回のこの記事は、今までの、どれかと全く同じことを書いているのだろうか?
この感覚は、今まで感じたことがある何かと同じなんだろうか?
直感的に、何の根拠もないが、僕は、「違う」と、今思っている。
その点が重要である。
なんか、本当に、ある意味、人生の目標達成したような気分でもあるんだよな。と書くと傲慢なんだけど。
確か、2008年ぐらいも、最初のうちはそんな風なこと書いていた気がする。
けど、だんだんおかしくなっていって、2010年ぐらいまでかけて相当気がめいっていくんだよな、確か、そんな年表だった気がする。
そうすると、過去の自分から敷衍すれば、今、「あー満足満足。幸せじゃなぁ」と思っていても、あと数か月か数年かわからないけれども、どんどんおかしくなっていくのではあるまいか、そんな気がした、今。
それは本義ではないなぁ。
それは望まない。もしそんなんなるんだったら、早めに物語の帳をおろしてしまいたいものだ。
「ねぇ。あなた、なんか、やりたいこととか、ないんですか?」
うーむ。
ある方のブログで、人生で、重荷を下ろすことはできない、と書かれていた(ほんとは、全文引用したいぐらい良い記事だと思ったんだけど、ブロ主さんが嫌かなぁと思ってやめた)。
問いが良いんだ。
「重荷を下ろしたら幸せになれるのか」と。
上に書いた僕の友人の言葉、「人に興味を持つべきだ」というのは、もう少し別の表現をすれば、「他者に対し役に立つ人間であるべきだ」ということでもある。効率的に、役に立つ人間になる。そして自分を高めていく。
確かに、学校でもバイトでも、会社でも、一般的に良いことだとされることだろう。
その感覚や、思想や、考え方、それに対して、まっこうから「違う」ということは難しいと思う。これを、なんかの本で、「香山リカ」と「たじまようこ(?)」との対談の決定的な決裂、について書かれていて、なるほどな、と思ったこともあった。
つまり、「まったり」という生き方について、一切認めることができない人も多いってことだ。
確かに、自分を高めることで、周囲の人からも「承認」され「所属」欲求も満たされ、人生はよりよくなっていくことだろう。
俺自身、大した回数でもないが、二の腕を太くしたいと思って筋トレを、270日ぐらいずっと続けている。ストイックであることを否定する気など全然ない。
ないんだが、――これも、過去記事を整理していて見つけた言葉だが、
「禁欲することは大事だ。けれども、それは主体的でなければならない。他人に強制される禁欲は、「拘束」である」と。
なんかそんなようなこと書いてた。
だから――つながってるかわからないが、上の友人の、「自分にしか興味ないんでしょ」というのも、あながち、間違っていないとも思うのだ。確かに俺は、主体的に、「他者」を排除しようとしている節がある。
他者を認めないとか、自己完結するとか、独善だとか、孤独がいいとか、そういう意味ではない。なんというか、ありふれた表現になってしまうが、「自分の人生は、自分で決める」――決めたい、ってことだ。
そういう意味では、「他人なんてどうでもいい」と思っているのかもしれない。ただ、こんなん、たんなる表現問題だ。「他人なんてどうでもいい」なんて、そんなはずあるまい。「社会」の中で生きてるんだぜ? アマゾンで注文した商品を届けてくれるのも人なんだぜ?(って話が違うか)
とにかく、過去記事の整理は、物理的時間もかかるし、精神的にもダメージが大きいけれども、まぁ、頑張ろう。頑張るって好きな言葉じゃないけど、ここは頑張ろう。誰の役にも立たない、誰が考えても、見ても無駄なことだと思うけれども、ただ、僕にとっては意味があることだと思う。「お前がそう思うんだったらそうだろうな(笑)」とか言われてもめげない!
でもさー。
役に立たなくてもいい、ただ、生きていてくれるだけで、幸せだよ。
なんて、言ってくれる人、いるんかな。
親、ぐらいだよな。で、その親も、実際「そう思うべきだ」というのが強制されているってことで、必ずしもそういうわけじゃないとかいう言説もあったり、まったく、この社会はいつからこんなに生きづらさであふれてしまったのだろう。
でもあれだな。この前書いた、ある精神科医さんの記事で、「大人はなるもんじゃない、やるもんだ」ってのは、まさにそういうことなんだろうなぁとも思う。
でも……これは、どうなんだ、まだ、結論を出すまでに至れない。
この考えを正とすれば、とりあえず、相手はともかく、「子供をつくって育てる」というのが、人生にとって最重要である、ということになる。
――結婚している人は偉いのか
まぁ、僕の知人とか見ていると、子供がいるってのは、いいことだなぁとも思ったりもする。
うらやましいなぁと思っていないか、というと、それもあるかもしれない。
そもそも、なんか俺はやりたいこととかあるのか。
別にないなら、子育てぐらいしてもいいんじゃねえか。……って書くと、苦労している諸先輩方に石を投げられるわけだが。そんなテキトーな思いでできるほど子育ては甘くない! って。
でも、そういった言説も俺は疑問である。
そんな、立派な親ばっかりか? 車の中に子供おきざりにしてパチンコいってる親だっているし、まともに愛情もそそがないで仕事とか異性関係に興じる人だって少なくなかろう(少ないの?)。
初めから立派な親なんていないし、そもそも、親が少しぐらい立派じゃなくても、立派な子供が育つような社会であるべきなんじゃねーの、と俺は思うが、まぁ、そんな、結局、独身で子供も育てたことないような俺の意見や感想なんて、誰も耳をかすまい。そう、「経験」ってのは、大いに、「マウントポジション」をとれる強い武器なのだ。
……って、やっぱりまとまんねーじゃねーか! というか、まとめる気ないだろ、俺……。
(あー、もう、休日に、なんでこう、自ら陰鬱になるようなことしてんすかね~。ま、悩んでる俺、かっこいいとか思っちゃってんのかね。きんも~☆)
2008年~2010年あたりを整理
非公開として下書きにしていたり、いろんなところに散らばっていた文章をまとめたり、消したり、整理を実施した。しかし、まだまだ、60記事以上が残っているし、2011年以降も残っている。
そもそも、この忍者ブログの検索機能というか、一括編集機能が非常に使いづらかったので、バックアップファイル(MTファイル)を出力して、それを取り込んで編集しようと試みたが、このMTファイルの形式が、非常に使いづらい。CSV形式とかなら良いが、全然保存形式が異なる。なんだこれ、なんでこんなファイルが一般的になっているんだろう……、そうかこれがデファクトスタンダード(よいか悪いか別として、一般に広まったからそれが使われるようになったもの。ウィンドウズとか)ってやつか。
それで、こんな使いづらいなら、MTファイルを操作するアプリケーションぐらい、ゴロゴロあるだろうと思ったら、ところがどっこい、そんな便利なソフトも全然見つからない。
なるほど、昨今、ワードプレスとかはやってるし、わざわざ、こんなテキストファイルを直接編集しようなんて考えるやつなどいないのだろう。
ということで、エクセルとマクロでMTファイルをテキストファイルとして取り込んで、日付とか、本文部分を分離させて、編集しやすいようにするアプリを自作した。
これを作るのに、1~2時間ぐらいかかった。テキストファイルを読み込むってのも、いろんなやり方があるみたいで、どれが良いかとか考えるとこれまた複雑だった。
うーん、最近使っていて思ったけれども、エクセルのマクロって、かなり多機能だよな。そもそも、フォルダやファイル操作が自由にできる。ってことで、エクセルのスプレッドシートを使うのを主にしない、デスクトップに余計なファイルを退避フォルダに移動させるアプリも作った。
とある、これまたよく読んでいるブログさんでも、エクセルのマクロって聞くと、複雑なプログラム言語ができる人は馬鹿にしたりするけど、実はすごいんだぜ、とおっしゃっていて、なるほど、確かにすごいなぁと思った。
あ、話それた。
そう、昔の記事の整理だ。
心をえぐられるようなのもちらほら
最近、なんか、「幸せな気がするけど、なんか変な感じだな~」とか思ったり書いたりしている。しかし、自分自身、その感覚に対して違和感を抱いていた。
その理由が、過去記事読んだりしていて、なんとなく分かってきた。
いろいろ、引用したい記事は出てきたんだが、今回はとりあえず一つだけ引っ張ってこよう。
先ほど友人から、「お前はもっと人に興味をもつべきだ」とアドバイスされました。「どんだけ自由に生きてるんだ」「自分についてしか興味がないんだろう」とも。 友人がいう次元においては、わたしは「全くその通りだなぁ」と思いました。ここでいう「友人がいう次元」とは、特定の他者、例えば身近な人に対しての情報を、もっと知ろうとするべきだ、ということでしょう。確かにわたしは、誰々が今どんな職業に就いているのか、誰々がどんなものを好きなのか、なんてことを殆ど知りません。というよりも、ご指摘の通り、あまり興味をもてないのです。 ――2009年8月2日ひどい友人だ!(笑)
いや、まぁ、いいたいことも分かる。というか、それを聞いた俺自身も、「あー、やっぱりそうだよねー」と思ったりしていた。この後、
>と、今書いて改めて分かりましたが、本当に、そういうことに興味をもてない。むしろ、何故そんな「普通の人」は、誰々が誰と付き合ったとか、結婚したとか、どこに旅行に行ったとか、そういうことに興味をもてるのか、分かりません。
とか、そんなことまで書いたりしている。
でも、違うんだよな。
>それよりも、「お前はもっと人に興味をもつべきだ」という点において少々書きたいと思います。わたしはちゃんと人に興味をもっているのだよ、と、そう言いたいわけです。でも、わたしが興味のあるのは、特定の人ではなく、広い意味での「人」です。認知症や精神病の本など、非常に面白いと思います。
自分でも当時書いているが、そういうことなのだ。
人自体に興味がないというわけではない。ただ、「誰それが今何をしている」とか、そんなに興味がないのだ。
つーか、そういうのって、田舎の近所のおばさま方が、「ねぇ、田中さん(仮名)、知ってる? 高橋さん(仮名)のお子さん、〇〇会社に就職したんですって」的な奴に思ってしまう。なんか、そういうの、いやじゃない? ――いや、俺だけか。
いや、別に、久々に会った友人と、「お、久しぶり! 最近どうよ! 何してるん?」とかいう会話が無駄だとか嫌いだとか言うんじゃない。それはありだと思うし、興味もある。けど、そんなん、別に常日頃変わっていくだろうし、そんな歴史の授業みたいに記憶するのが必要か? と思う。
みんな、今を生きてればいいじゃん。過去の話だけだと、結局面白くなくない?(いや、思い出話に花を咲かせるのも、いいことだ。ペルソナ4の夏休みに主人公が、おばあさんの櫛を川の魚から取り戻して、思い出も取り戻してあげる話とかよかったじゃないか)
まー確かに、だ。その友人は、間違っちゃあいない。確かに、当時、まぁ今もだけど、あんまし、他人に注力できるほど余裕なんてなかった。
でもさ、「どんだけ自由に生きてるんだよ」「自分にしか興味ないんだろ」って、それはどうなんだ?(笑)
少なくても、そんなに楽しい思いばっかりしてきたとは到底思えないんだが。
まぁ、今となって、そんなこと言われたの、すっかり忘れていたけど、こうやって過去の記事を読み返すと、「ああ、そんなことあったかもしれんな!」と感情がよみがえったりもする。
感情を蘇らせるのが良い記事
ネガティブとか、ポジティブとか、そんなん僕はどうでもいいと思っている。その時々で判断も変わるだろうから。けれども、その記事を読んで、何らかの感情が蘇ってくるような記事が、よい記事だと僕は思う。
それがたとえ、嫌な思い出でも、さ。
まだまだ、整理がしきっていないけど、今年中に全部整理してしまいたいな。
こうやって、新しいメモを書くのもいいが、過去も有用に使っていきたいところ。
いやぁ。しかし、いろいろ、やってきたなぁ。
オフ会の幹事とかもしたことがあるらしい。すっかり忘れていた。それは、感情は蘇ってこなかった。単純な「記憶」だけ。っていうのは、日記としては有用だろうが、実際どうなんだろ?
実感が伴わない過去の体験・経験って、役に立つのかな?
つまり、それを成し遂げたとしても、その成し遂げたのが「自分」と一致させられないということだ。
赤の他人の業績のようなもの。
無意識に影響は与えていても、意識下で使うことができない記憶・感情であれば、残念ながらあまり有用じゃない気がする。
ループの罠
なんつーか、過去の自分に対して、とりあえず、こう、「お疲れ様」っていってあげよっと。他人事みたいだがな。無駄な悩みとか、時間を無駄にしたり。もっと頑張れたのかもしれない。
でも、まぁ、「自分」っていう身体・環境制約の中では、よくやったと思うよ、ほんと。上から目線だな。だが構わない、唯一、上から目線になっても怒られないのが、過去の自分相手だ。
しっかし、文章量がほんと多いな。中身ないやつとか、意味が完全に壊れている奴とか消していったりもしたけど、まだまだ残ってる。
過去記事のどっかでも見かけたが、ほんと、ただ書くことは「いくらでも」できる、のかもしれない。確かに、いっつも、「そろそろやめとくか」とか思ってやめてる感じだもんな。これは今も昔もそうだったんだろう。
いや、それが何の役に立つってんだ、ということも感じたり考えた。
それで、意識的に、何年か、その思考をとめて、書くこともやめたりもしたりした。
けれど、それは結局、何の解決にもならなかった――というのは、今このように書いている事実があるからな。
とはいえ、先日も書いたけれども、「ループ」というのに、どう対処するかってのはある。
しかし、どうなんだ?
実際、ループしてんのか?
確かに螺旋みたいに、ぐるぐるしている気はする。しかし、その階下、上下はしているような気がする。
いやしかし、それは、周囲の、環境の変化がそう思わせているだけなのかもしれない。
思考のループ。
これには対応する必要があるだろう。
そうだ、そういえば、そのための、今年の目標、「整理」ってのもあるわけだ。
でも……、どうなんだろ。
分からない。
例えば、今回のこの記事は、今までの、どれかと全く同じことを書いているのだろうか?
この感覚は、今まで感じたことがある何かと同じなんだろうか?
直感的に、何の根拠もないが、僕は、「違う」と、今思っている。
これからの自分
さぁ、これからどうすっかなぁ。その点が重要である。
なんか、本当に、ある意味、人生の目標達成したような気分でもあるんだよな。と書くと傲慢なんだけど。
確か、2008年ぐらいも、最初のうちはそんな風なこと書いていた気がする。
けど、だんだんおかしくなっていって、2010年ぐらいまでかけて相当気がめいっていくんだよな、確か、そんな年表だった気がする。
そうすると、過去の自分から敷衍すれば、今、「あー満足満足。幸せじゃなぁ」と思っていても、あと数か月か数年かわからないけれども、どんどんおかしくなっていくのではあるまいか、そんな気がした、今。
それは本義ではないなぁ。
それは望まない。もしそんなんなるんだったら、早めに物語の帳をおろしてしまいたいものだ。
「ねぇ。あなた、なんか、やりたいこととか、ないんですか?」
うーむ。
ある方のブログで、人生で、重荷を下ろすことはできない、と書かれていた(ほんとは、全文引用したいぐらい良い記事だと思ったんだけど、ブロ主さんが嫌かなぁと思ってやめた)。
問いが良いんだ。
「重荷を下ろしたら幸せになれるのか」と。
上に書いた僕の友人の言葉、「人に興味を持つべきだ」というのは、もう少し別の表現をすれば、「他者に対し役に立つ人間であるべきだ」ということでもある。効率的に、役に立つ人間になる。そして自分を高めていく。
確かに、学校でもバイトでも、会社でも、一般的に良いことだとされることだろう。
その感覚や、思想や、考え方、それに対して、まっこうから「違う」ということは難しいと思う。これを、なんかの本で、「香山リカ」と「たじまようこ(?)」との対談の決定的な決裂、について書かれていて、なるほどな、と思ったこともあった。
つまり、「まったり」という生き方について、一切認めることができない人も多いってことだ。
確かに、自分を高めることで、周囲の人からも「承認」され「所属」欲求も満たされ、人生はよりよくなっていくことだろう。
俺自身、大した回数でもないが、二の腕を太くしたいと思って筋トレを、270日ぐらいずっと続けている。ストイックであることを否定する気など全然ない。
ないんだが、――これも、過去記事を整理していて見つけた言葉だが、
「禁欲することは大事だ。けれども、それは主体的でなければならない。他人に強制される禁欲は、「拘束」である」と。
なんかそんなようなこと書いてた。
だから――つながってるかわからないが、上の友人の、「自分にしか興味ないんでしょ」というのも、あながち、間違っていないとも思うのだ。確かに俺は、主体的に、「他者」を排除しようとしている節がある。
他者を認めないとか、自己完結するとか、独善だとか、孤独がいいとか、そういう意味ではない。なんというか、ありふれた表現になってしまうが、「自分の人生は、自分で決める」――決めたい、ってことだ。
そういう意味では、「他人なんてどうでもいい」と思っているのかもしれない。ただ、こんなん、たんなる表現問題だ。「他人なんてどうでもいい」なんて、そんなはずあるまい。「社会」の中で生きてるんだぜ? アマゾンで注文した商品を届けてくれるのも人なんだぜ?(って話が違うか)
まとめ
まとまらないだろうが、これまた終わりが見えないから終わらせよう。とにかく、過去記事の整理は、物理的時間もかかるし、精神的にもダメージが大きいけれども、まぁ、頑張ろう。頑張るって好きな言葉じゃないけど、ここは頑張ろう。誰の役にも立たない、誰が考えても、見ても無駄なことだと思うけれども、ただ、僕にとっては意味があることだと思う。「お前がそう思うんだったらそうだろうな(笑)」とか言われてもめげない!
でもさー。
役に立たなくてもいい、ただ、生きていてくれるだけで、幸せだよ。
なんて、言ってくれる人、いるんかな。
親、ぐらいだよな。で、その親も、実際「そう思うべきだ」というのが強制されているってことで、必ずしもそういうわけじゃないとかいう言説もあったり、まったく、この社会はいつからこんなに生きづらさであふれてしまったのだろう。
でもあれだな。この前書いた、ある精神科医さんの記事で、「大人はなるもんじゃない、やるもんだ」ってのは、まさにそういうことなんだろうなぁとも思う。
でも……これは、どうなんだ、まだ、結論を出すまでに至れない。
この考えを正とすれば、とりあえず、相手はともかく、「子供をつくって育てる」というのが、人生にとって最重要である、ということになる。
――結婚している人は偉いのか
まぁ、僕の知人とか見ていると、子供がいるってのは、いいことだなぁとも思ったりもする。
うらやましいなぁと思っていないか、というと、それもあるかもしれない。
そもそも、なんか俺はやりたいこととかあるのか。
別にないなら、子育てぐらいしてもいいんじゃねえか。……って書くと、苦労している諸先輩方に石を投げられるわけだが。そんなテキトーな思いでできるほど子育ては甘くない! って。
でも、そういった言説も俺は疑問である。
そんな、立派な親ばっかりか? 車の中に子供おきざりにしてパチンコいってる親だっているし、まともに愛情もそそがないで仕事とか異性関係に興じる人だって少なくなかろう(少ないの?)。
初めから立派な親なんていないし、そもそも、親が少しぐらい立派じゃなくても、立派な子供が育つような社会であるべきなんじゃねーの、と俺は思うが、まぁ、そんな、結局、独身で子供も育てたことないような俺の意見や感想なんて、誰も耳をかすまい。そう、「経験」ってのは、大いに、「マウントポジション」をとれる強い武器なのだ。
……って、やっぱりまとまんねーじゃねーか! というか、まとめる気ないだろ、俺……。
(あー、もう、休日に、なんでこう、自ら陰鬱になるようなことしてんすかね~。ま、悩んでる俺、かっこいいとか思っちゃってんのかね。きんも~☆)
今日の一言「実際に計算してみないと実感がわかない」「面倒だけどね」
ので、「利子率」とか言ったほうが正確だという。
「利回り」という言葉もある。「利子率」が約束(確定)された金利のことを言うのに対し、「利回り」とは、投資をしてみて結果として得られた金利のことを言うという。
――株式投資入門:第二章
で、単利計算とか、複利計算とか、まぁ計算式がたくさん出てくる。計算式がたくさんでてくると、「うわっ」と拒否反応が発生する場合もあるが、ただ、「計算式」ってのは、言語を簡略化しただけだとも思っている。
つまり、「記憶力」があれば、計算式もさほど難しくないのだ。例えば、単利計算の式として、2年間運用した場合を例として、
r ={ C + ( F - P )/ 2 } /100
といったのが出てくる。「うわっ」と思うのは正常な反応だ。
どんな頭の良い人でも、「C」とか、「F」とか「P」とかの定義が分かっていないと、この式が何を示しているか、さっぱり分からないのである。
本の中では、C:「クーポンレート」とか、F:「額面」とか、P:「市場価格」とか表現されているけれども、僕が理解できるレベルで表現してみる。
単利rは、「売った金額から元本を引いた額」(F-P)を年数で割ったものと、金利C(額)を足したものを%表示にして求めることができる、と。
言葉にしても分かりづらいな。ま、とにかく、こういうのは、あまり深く考えても仕方がない。ニュートン力学のF=maとかアインシュタインのE=mc(2)とか、何でそうなるのか考えても仕方がない。何せ自然がそうなっているのだから。
覚えたけど、この文字媒体で書くのは困難だ。そもそも、累乗を1行で表現するのって、どうしたらいいんだ?
言葉で表現してみよう。
複利rは、金利(額)を(1+r)で割った値と、金利(額)を(1+r)の2乗(年数)で割った値と、売った額(額面)を(1+r)の2乗(年数)で割った値の合計が、元本と等しくなる値のことである。
言葉にすると更にわっかんねーな!
というわけで、数式の方が分かりやすい、ってことも往々にしてあるのである。
まぁ、単利と複利の違い、なんて、検索すれば、「年々の運用の際に、利子が付いたあとの額にも利子率を乗じるのか」ということだと分かる。
とりあえず、その程度覚えておけば、「まぁ、そういうもんなんだな。複利って、年数が少なければ単利とあんまし変わらないけど、長い年数になるとすごい差になるんだな」程度のことは感じられるかもしれない。
でも、正直なんも面白くない知識である。
記憶可能性の知識になっても、運用ができなければ役に立たない。
そこでまず、自分の資産運用を思い出してみよう。
以前ブログにも書いたと思うが、積み立てタイプの保険も、昨年ぐらいから始めている。
で、その保険は、最低利率が3%と保証されているタイプである。
まぁ、保険って何? というのも整理して書いてもいいかもしれないが、取りあえず、100万円預けていたら、翌年には最低103万円にはなるって商品のことだとしよう。
そうしたとき、株式投資をやろうとしたときに、まぁ、最低限、3%よりは、割のいい利回りの方がいいなぁ、と思うだろう。何故なら3%の運用でよいなら、全額保険にしてしまってもいいわけだ。その方が、口座振替でお金が引き落とされるのを見送るだけで、特に何も考えなくてもいいし、楽だろう。
としたとき、じゃあ、3%って、どんぐらい頑張れば得られるんだろう、ということを、さっきの複利計算を使って考えていこう。
(こういった導入ならちょっと面白くはなるまいか? しかし、あくまで、さっき学んだことを整理しようとしているだけなので、曖昧だったり、そもそも間違っている可能性というものはご容赦願いたい)
で、先日、購入した株式のステータスは以下である。(細かい数字は省略)
・購入金額:319,000円
・配当(予測):6000円/年
んじゃこれを、2年間運用した場合に、株価上がって、売却金額が357,000円になったとしよう。では、
複利rは、金利(額)を(1+r)で割った値と、金利(額)を(1+r)の2乗(年数)で割った値と、売った額(額面)を(1+r)の2乗(年数)で割った値の合計が、元本と等しくなる値なので、319000=6000/(1+r) + 6000/{(1+r)}2乗 + 357000/{(1+r)}2乗……
とか面倒なことはしなくても、複利計算は、エクセルの関数の「IRR」を使うと求めることができる。
まぁ使い方は省略して、上のケースで計算してみると、
6.73%
となった。
おお、いい感じの利回りである。
しかし、2年で株価が40円プラスになるのは難しいかもしれない。
では、5年運用ではどうだろうか。
同じように計算式を当てはめてみると、
3.74%
となった。
試しに、10年運用の場合は、
2.77%
となった。
つまり、売却時の金額が「357000円」で固定であるならば、長期運用になるほど、いくら配当が毎年ついていたとしても、利回りは悪くなっていくのだ。
ゆえに、僕の師匠が仰っていた、「配当よりも持続的にその企業が成長するのかどうかをみるのが大切だ」というのは、なるほどこういった数字からも感じることができるのだ。
ということを思ったかもしれない。
でも、僕は逆にふと思った。
そういえば、この前調べた、銀行の金利って、普通預金で、0.001%だったじゃん、と。定期預金でも、0.01%であった。
昔、僕の親は、よく定期預金を使っていた、ような記憶がある。けれども、実際僕が働いてお金を稼ぐようになってから、特に定期預金に預けようとは一切思わなかった。だって、どっちに預けても大してお利息でないじゃん。ましてや、働き始めたころなんて、大した額ももっていない。
そう考えると、3%って、まぁまぁすごいものである。
では逆に、株価がいくらぐらいまで下がってしまったら、「あーくそ! こんなんだったら、普通に銀行に預けとくんだった!」と後悔するんだろう? と思った。
エクセルで、いろいろ金額いじってやってみたら、10年運用で、株価が「265,000」になってしまったら、複利が0%であった。
ただ、株価が「270,000円」まで下がったとしても(つまり、購入金額から50円ぐらいさがったら)、複利は0.17%であった。
0.17%である。
ということは、これでも、定期預金よりも断然利率がよいのである。
とはいえ、これも、銀行金利が低く、景気の状態が安定しているという現時点では、に過ぎない。
政治、経済、倫理、と、それらをひっくるめて「社会」という。
僕らが、社会で生きる以上は、その社会の仕組み(システム)について無関係ではいられない。
しかし、難しく考えずとも、ただ「生きる」ということであれば、その仕組みに順応することができれば、そこそこ生きることはできる。
仕組みから外れた人や物や集団や組織を、弾圧し排斥することで、仕組みを維持することはできる。
その中で、いろんな「正義」がぶつかりあって、諍いがおこって、時に殺し合いになったりする。
正しいってなんだ?
幸せってなんだ?
――僕は、一般普遍的なことを考えることを放棄する。
学問とは、一般普遍の真理を明らかにするものだ。それらは、エリートやプロフェッショナル(学者)に任せることにする。
僕は、俺としての、正しいことを探っている。それをたまたま、「生きる意味」という表現にしているに過ぎない。それを、哲学的に表現すれば「実存」となる。
道徳的にかけば、「正しく生きるためには」みたいなブログタイトルになるだろう。しかしその表現は些か、不愉快である。
実存を考えるなら、政治的なことも、もっと書いたほうがよいのでは、とアドバイスを頂いたこともある。確かに、それはそうだ、と思ったりもした。
ただ、政治の結果について言及することは大事だが、政治そのものへの言及は、やはり僕の考えるべき部分と外れるだろうと思う。
政治は確かに、変えることができるものだ。しかし、それを言えば、法律もまたしかり。僕は、政治も法律も、一個人としては、同じように、自然災害的に降りかかるものだと捉えている。確かに、選挙として一票の意思表示は可能であるが、じゃあ非常に個々具体的な日常に影響する事象……例えば、ゴミや騒音や環境問題に、その一票がどう影響するか、というと、実質影響は無い場合が多い。
だからといって、選挙が無意味であるということではない。ただ、あまりにも、「議案」が多すぎるのだ。大きな枠組みでしか政治も、法律も、対応ができないのである。憲法改正に賛成の人が、じゃあ、戦争肯定派なのかというとそうではないだろう。憲法改正に反対の人が、じゃあ、諸外国に侵略されたときに両手を挙げて降伏するかというと、そうではないだろう。やはり、身近な恋人や家族を守ろうと戦うのではなかろうか。例えが小学生レベルで恥ずかしいが、とにかく、政治も法律も……加えて経済も、個人(人が直感できるレベル)において、感じ取れたり判断できるレベルを、はるかに超えているのが、現代社会であるといえよう。
科学もまたしかり。飛行機が空を飛ぶのはもちろんだが、日常運転する車が走る仕組みだって、完全に理解できている人などいないだろう。いやそりゃあ、タイヤが地面に設置して回転することで移動するというのはそうだろうが、じゃあエンジンを作れる人がどれだけいるのか。自動車会社だって、その個々人でエンジンが作れるはずもなかろうし、そもそも会社一つであっても、下請けで部品をつくってくれる会社の総合で成り立っているのだろうし、いろいろ複雑に絡み合っているのだろう。
だから、「合理的」というのがずっと求められてきたのが、17世紀以後の科学革命によるパラダイムシフトだとして、果たして、今後も「人」に、「合理的」が求められ続けるものなのだろうか? と僕は思う。
効率化、というのもそう。
以前僕が書いた、「美人」と「ブス」どっちがいいの? という二分法的に考えれば、そりゃあ効率的な方がよかろう。性格の悪い美人と、性格がよいブスなら、そりゃあ考えることも必要だが、単純に比較が「美人」なら、美人の方が良い。
しかし、その「効率」だとか、「美人」だとかの、その「価値尺度」は、それこそ、「一般普遍」などありえないだろうと、同時に僕は思う。
ここから導ける答えとしては、「各々の価値尺度(価値観)を磨いていく必要がある」ということである。
記事の主旨から、いつものごとくだいぶ外れていっているから、そろそろ終わるけれども、どうも、こう「価値観」を突き詰めていくと、僕は「空」「無」という表現に近づいていく気がする。
これは、気分が高揚しているときは、「ばりばり全開、楽しんでいこうぜぇ!」って気分になるし、少し陰鬱の状態のときは、「生きていることそれ自体に意味はない」って気分になる。
ポジティブな気分でも、ネガティブな気分でも、どっちにしろ、その「空」って感覚が、普遍的に近しい気がするのである。
抑鬱か、というとそうでもなくて、「意味がないと考えることも意味がない」ともなっていき、無限に遡っていく思考状態である。
(俺は、この意識の沈潜に負けないスピードで、表現(アウトプット)をしないといけないと思う。その表現の方法は、文章か、音楽か、それとも絵か。しっくりくるのは、文章、というか、このブログのようにゼロ秒思考メモ的な奴である。しかしこれにも限界というか、苦手としている面がある。思考のループだ。ので、過去記事を読み返すというのは必須。その中で「面白い」と思ったものの、要素をインプットする。――俺は、答えを求めていない、ただ考えることのみを求めているのだろう、と指摘された。本能的に、「違う」と思ったが、しかし、それを明確に否定できる根拠が今はない。根拠はなくても、「感覚的に」思ったのなら、その方向で考えていく必要があるだろう。とにかく、今年ももう半年を切っている。どこまで整理できるのか、明確に目標を決めていかないと、またしても忙しさにつぶされてしまうだろう)
金利計算
金利、というと、「率」なのか、「額」なのか、両方含んだ言葉だそうだ。ので、「利子率」とか言ったほうが正確だという。
「利回り」という言葉もある。「利子率」が約束(確定)された金利のことを言うのに対し、「利回り」とは、投資をしてみて結果として得られた金利のことを言うという。
――株式投資入門:第二章
で、単利計算とか、複利計算とか、まぁ計算式がたくさん出てくる。計算式がたくさんでてくると、「うわっ」と拒否反応が発生する場合もあるが、ただ、「計算式」ってのは、言語を簡略化しただけだとも思っている。
つまり、「記憶力」があれば、計算式もさほど難しくないのだ。例えば、単利計算の式として、2年間運用した場合を例として、
r ={ C + ( F - P )/ 2 } /100
といったのが出てくる。「うわっ」と思うのは正常な反応だ。
どんな頭の良い人でも、「C」とか、「F」とか「P」とかの定義が分かっていないと、この式が何を示しているか、さっぱり分からないのである。
本の中では、C:「クーポンレート」とか、F:「額面」とか、P:「市場価格」とか表現されているけれども、僕が理解できるレベルで表現してみる。
単利rは、「売った金額から元本を引いた額」(F-P)を年数で割ったものと、金利C(額)を足したものを%表示にして求めることができる、と。
言葉にしても分かりづらいな。ま、とにかく、こういうのは、あまり深く考えても仕方がない。ニュートン力学のF=maとかアインシュタインのE=mc(2)とか、何でそうなるのか考えても仕方がない。何せ自然がそうなっているのだから。
複利計算
複利の計算式も、とりあえず覚えた。覚えたけど、この文字媒体で書くのは困難だ。そもそも、累乗を1行で表現するのって、どうしたらいいんだ?
言葉で表現してみよう。
複利rは、金利(額)を(1+r)で割った値と、金利(額)を(1+r)の2乗(年数)で割った値と、売った額(額面)を(1+r)の2乗(年数)で割った値の合計が、元本と等しくなる値のことである。
言葉にすると更にわっかんねーな!
というわけで、数式の方が分かりやすい、ってことも往々にしてあるのである。
まぁ、単利と複利の違い、なんて、検索すれば、「年々の運用の際に、利子が付いたあとの額にも利子率を乗じるのか」ということだと分かる。
とりあえず、その程度覚えておけば、「まぁ、そういうもんなんだな。複利って、年数が少なければ単利とあんまし変わらないけど、長い年数になるとすごい差になるんだな」程度のことは感じられるかもしれない。
でも、正直なんも面白くない知識である。
実際に計算してみよう
このままで授業が終わると、クソつまんねえってなる。記憶可能性の知識になっても、運用ができなければ役に立たない。
そこでまず、自分の資産運用を思い出してみよう。
以前ブログにも書いたと思うが、積み立てタイプの保険も、昨年ぐらいから始めている。
で、その保険は、最低利率が3%と保証されているタイプである。
まぁ、保険って何? というのも整理して書いてもいいかもしれないが、取りあえず、100万円預けていたら、翌年には最低103万円にはなるって商品のことだとしよう。
そうしたとき、株式投資をやろうとしたときに、まぁ、最低限、3%よりは、割のいい利回りの方がいいなぁ、と思うだろう。何故なら3%の運用でよいなら、全額保険にしてしまってもいいわけだ。その方が、口座振替でお金が引き落とされるのを見送るだけで、特に何も考えなくてもいいし、楽だろう。
としたとき、じゃあ、3%って、どんぐらい頑張れば得られるんだろう、ということを、さっきの複利計算を使って考えていこう。
(こういった導入ならちょっと面白くはなるまいか? しかし、あくまで、さっき学んだことを整理しようとしているだけなので、曖昧だったり、そもそも間違っている可能性というものはご容赦願いたい)
で、先日、購入した株式のステータスは以下である。(細かい数字は省略)
・購入金額:319,000円
・配当(予測):6000円/年
んじゃこれを、2年間運用した場合に、株価上がって、売却金額が357,000円になったとしよう。では、
複利rは、金利(額)を(1+r)で割った値と、金利(額)を(1+r)の2乗(年数)で割った値と、売った額(額面)を(1+r)の2乗(年数)で割った値の合計が、元本と等しくなる値なので、319000=6000/(1+r) + 6000/{(1+r)}2乗 + 357000/{(1+r)}2乗……
とか面倒なことはしなくても、複利計算は、エクセルの関数の「IRR」を使うと求めることができる。
まぁ使い方は省略して、上のケースで計算してみると、
6.73%
となった。
おお、いい感じの利回りである。
しかし、2年で株価が40円プラスになるのは難しいかもしれない。
では、5年運用ではどうだろうか。
同じように計算式を当てはめてみると、
3.74%
となった。
試しに、10年運用の場合は、
2.77%
となった。
つまり、売却時の金額が「357000円」で固定であるならば、長期運用になるほど、いくら配当が毎年ついていたとしても、利回りは悪くなっていくのだ。
ゆえに、僕の師匠が仰っていた、「配当よりも持続的にその企業が成長するのかどうかをみるのが大切だ」というのは、なるほどこういった数字からも感じることができるのだ。
預金との比較
なるほどねー、3%の運用するってのも、まぁまぁ大変なものなんだなぁ。ということを思ったかもしれない。
でも、僕は逆にふと思った。
そういえば、この前調べた、銀行の金利って、普通預金で、0.001%だったじゃん、と。定期預金でも、0.01%であった。
昔、僕の親は、よく定期預金を使っていた、ような記憶がある。けれども、実際僕が働いてお金を稼ぐようになってから、特に定期預金に預けようとは一切思わなかった。だって、どっちに預けても大してお利息でないじゃん。ましてや、働き始めたころなんて、大した額ももっていない。
そう考えると、3%って、まぁまぁすごいものである。
では逆に、株価がいくらぐらいまで下がってしまったら、「あーくそ! こんなんだったら、普通に銀行に預けとくんだった!」と後悔するんだろう? と思った。
エクセルで、いろいろ金額いじってやってみたら、10年運用で、株価が「265,000」になってしまったら、複利が0%であった。
ただ、株価が「270,000円」まで下がったとしても(つまり、購入金額から50円ぐらいさがったら)、複利は0.17%であった。
0.17%である。
ということは、これでも、定期預金よりも断然利率がよいのである。
まとめ
こう考えてみると、銀行預金がいかに資産運用として適していないか、株式投資が意外に悪くないかが分かるだろう。とはいえ、これも、銀行金利が低く、景気の状態が安定しているという現時点では、に過ぎない。
政治、経済、倫理、と、それらをひっくるめて「社会」という。
僕らが、社会で生きる以上は、その社会の仕組み(システム)について無関係ではいられない。
しかし、難しく考えずとも、ただ「生きる」ということであれば、その仕組みに順応することができれば、そこそこ生きることはできる。
仕組みから外れた人や物や集団や組織を、弾圧し排斥することで、仕組みを維持することはできる。
その中で、いろんな「正義」がぶつかりあって、諍いがおこって、時に殺し合いになったりする。
正しいってなんだ?
幸せってなんだ?
――僕は、一般普遍的なことを考えることを放棄する。
学問とは、一般普遍の真理を明らかにするものだ。それらは、エリートやプロフェッショナル(学者)に任せることにする。
僕は、俺としての、正しいことを探っている。それをたまたま、「生きる意味」という表現にしているに過ぎない。それを、哲学的に表現すれば「実存」となる。
道徳的にかけば、「正しく生きるためには」みたいなブログタイトルになるだろう。しかしその表現は些か、不愉快である。
実存を考えるなら、政治的なことも、もっと書いたほうがよいのでは、とアドバイスを頂いたこともある。確かに、それはそうだ、と思ったりもした。
ただ、政治の結果について言及することは大事だが、政治そのものへの言及は、やはり僕の考えるべき部分と外れるだろうと思う。
政治は確かに、変えることができるものだ。しかし、それを言えば、法律もまたしかり。僕は、政治も法律も、一個人としては、同じように、自然災害的に降りかかるものだと捉えている。確かに、選挙として一票の意思表示は可能であるが、じゃあ非常に個々具体的な日常に影響する事象……例えば、ゴミや騒音や環境問題に、その一票がどう影響するか、というと、実質影響は無い場合が多い。
だからといって、選挙が無意味であるということではない。ただ、あまりにも、「議案」が多すぎるのだ。大きな枠組みでしか政治も、法律も、対応ができないのである。憲法改正に賛成の人が、じゃあ、戦争肯定派なのかというとそうではないだろう。憲法改正に反対の人が、じゃあ、諸外国に侵略されたときに両手を挙げて降伏するかというと、そうではないだろう。やはり、身近な恋人や家族を守ろうと戦うのではなかろうか。例えが小学生レベルで恥ずかしいが、とにかく、政治も法律も……加えて経済も、個人(人が直感できるレベル)において、感じ取れたり判断できるレベルを、はるかに超えているのが、現代社会であるといえよう。
科学もまたしかり。飛行機が空を飛ぶのはもちろんだが、日常運転する車が走る仕組みだって、完全に理解できている人などいないだろう。いやそりゃあ、タイヤが地面に設置して回転することで移動するというのはそうだろうが、じゃあエンジンを作れる人がどれだけいるのか。自動車会社だって、その個々人でエンジンが作れるはずもなかろうし、そもそも会社一つであっても、下請けで部品をつくってくれる会社の総合で成り立っているのだろうし、いろいろ複雑に絡み合っているのだろう。
だから、「合理的」というのがずっと求められてきたのが、17世紀以後の科学革命によるパラダイムシフトだとして、果たして、今後も「人」に、「合理的」が求められ続けるものなのだろうか? と僕は思う。
効率化、というのもそう。
以前僕が書いた、「美人」と「ブス」どっちがいいの? という二分法的に考えれば、そりゃあ効率的な方がよかろう。性格の悪い美人と、性格がよいブスなら、そりゃあ考えることも必要だが、単純に比較が「美人」なら、美人の方が良い。
しかし、その「効率」だとか、「美人」だとかの、その「価値尺度」は、それこそ、「一般普遍」などありえないだろうと、同時に僕は思う。
ここから導ける答えとしては、「各々の価値尺度(価値観)を磨いていく必要がある」ということである。
記事の主旨から、いつものごとくだいぶ外れていっているから、そろそろ終わるけれども、どうも、こう「価値観」を突き詰めていくと、僕は「空」「無」という表現に近づいていく気がする。
これは、気分が高揚しているときは、「ばりばり全開、楽しんでいこうぜぇ!」って気分になるし、少し陰鬱の状態のときは、「生きていることそれ自体に意味はない」って気分になる。
ポジティブな気分でも、ネガティブな気分でも、どっちにしろ、その「空」って感覚が、普遍的に近しい気がするのである。
抑鬱か、というとそうでもなくて、「意味がないと考えることも意味がない」ともなっていき、無限に遡っていく思考状態である。
(俺は、この意識の沈潜に負けないスピードで、表現(アウトプット)をしないといけないと思う。その表現の方法は、文章か、音楽か、それとも絵か。しっくりくるのは、文章、というか、このブログのようにゼロ秒思考メモ的な奴である。しかしこれにも限界というか、苦手としている面がある。思考のループだ。ので、過去記事を読み返すというのは必須。その中で「面白い」と思ったものの、要素をインプットする。――俺は、答えを求めていない、ただ考えることのみを求めているのだろう、と指摘された。本能的に、「違う」と思ったが、しかし、それを明確に否定できる根拠が今はない。根拠はなくても、「感覚的に」思ったのなら、その方向で考えていく必要があるだろう。とにかく、今年ももう半年を切っている。どこまで整理できるのか、明確に目標を決めていかないと、またしても忙しさにつぶされてしまうだろう)