今日の一言「のせられてみるのも悪くない」「公開とか公言するってのは諸刃の剣」
例えば、奴隷制における仕事に楽しみを見出せというのは残酷な刑罰のようなものだ。古代ギリシアではない現代においても、薄給長時間労働パワハラセクハラに苦しむ人は少なくなかろう(少ないの?)。
でも、ただ生きるために働くというのは、その生存がその人にとって根本命題でなければ、人生の大半をそれに費やすというのは、何とも苦しいものだろう。「仕事を苦にして自殺」というのが現実発生するということであれば、「生きる」ということそれ自体が、生存欲求の最後の砦とは成りえないことは疑いえないだろう。
それゆえに、「仕事は楽しくなければならない」と、やや誇張して書いたのである。
それともう一つ、仕事という形態を、「労働者」という観点で考える必要もないと思っている。
例えば、アーリーリタイアを目指す人のブログなんか読んでいると、「早く会社辞めたい!」と思って、「いろいろ努力」しているのである。それは、投資の勉強だったり、ブログでアフィリエイト貼ってみたり、固定費がかからないよう田舎へ引っ越してみたり。
僕は、それらもまた、「仕事」と思っている。
ドイツ語で「職業」は、ベルーフ(Beruf)であるが、これは、「天職」という意味も含まれる……って、学校で習ったことはなかろうか。働くってのは、神から与えられた使命なのだと。……っていうのがプロテスタントたちが強く思って、頑張って働くうちに資本主義の基盤がつくられたって話。
一生懸命、自分の使命と思ってやるのが、仕事なのだと。生活のため、お金のためと思ってやる活動は、本来の仕事ではないのではないか、と。
僕は、理想的には、仕事とプライベートとの境界をなくしてしまってもいいのではないかと思っている。これはすぐさま、社畜乙とか、際限なき労働になってしまうとか批判は多々あるだろう。――あくまで、理想的な話。ホワイトカラーエグゼンプション? とかも、正直怪しい臭いがぷんぷんする。
少し考えてみれば、「好きなこと」なんて、楽な方に偏って、きつくて、汚くて、危険な仕事なんて、誰も「楽しんで」やるはずがなかろう。でも例えば、そういった人が嫌がる仕事が、機械が、ロボットがやってくれるようになったら、本来人がやりたかった仕事ができるようになるのではなかろうか。
今がそんな理想的な時代なんかじゃあないことは分かっているから、こんな主張はトイレの落書きレベルである。ただ、たとえ公言はできなくても、本来的には、もしくは極個人的な思いとして、「仕事は楽しくあるべきだ」ということを心にとどめていてもいいのではないかと思うわけである。
卑近ないつもの例を出せば、「美人とブス、どっちがいい?」という問いが明確である。美人は心が冷たいとか、そんな比較はおかしいのだ。美人で性格がよいほうが良いに決まっている。だが、大多数のブスは(えっと、誇張して書いているんだからね? わかるよね?)、一握りの美人に対して、法界悋気(嫉妬)をもってして、美人は悪魔だと指をさし虐げようとするのである。
例が悪かったな。まぁ、なんつーか、強いものに敗れて、支配されたら「弱者」なんだけど、「いや! 俺たちは弱者なんかじゃない。善人なのだ! 善い魂をもった者が虐げられるのが世界の――いや神の試練なのだ!」と、嫉妬心と復讐心を高めて自己を慰めるのである。
弱きものが美しい? 魂の平等?
――くそくらえだ。敗北主義者の世迷い事など聞くに値せん!
強くあれ!
楽しくあれ!
快楽へ身をゆだねよ!
世界はかくも素晴らしいものにも関わらず、キリスト教の奴隷道徳(ルサンチマン)により、世界の真実は捻じ曲げられてしまったのだ!!
でも、僕が最近、「成長や何か目標の達成のために努力し、今を捨て去るなど間違っている」と書いたり言ったりしているのは、上のような考え方がもとになっている部分もある。
このことを書くと、すぐさま書いておかなければいけないのは、退廃的だったり、堕落したりすることを推奨しているのではないということだ。
目標を立て、ストイックに頑張ることを否定するわけではない。むしろ、それは素晴らしいし、大いに推奨すべきものだ。
否定したかったり、駄目なのは、「今が苦しくても、きっと頑張ればいつか報われる」的な奴である。「今」が苦しい時点で、もうそりゃダメなのである。
この話を書くとき、すぐさま書いておかなければならないのは、選択の余地なく這い上がらなければならない時や、状況下に置かれている人もいるだろうということだ。災害や人災に襲われたとき、「今が苦しいなんて思っちゃダメなんだ!」とか、そんなの馬鹿げている。非常事態は別だ。ただ無心に、目の前の脅威を排除することに全力になる必要がある場合だってあるだろう。
この話になるとき、「日本は幸福な国だ」的な話。あれは、ある意味で間違いなかろう。「非常事態が少ない」といった点では、そうだろう。道端を歩いていてモンスターに襲われたり、飢餓で今日の食べ物がないなんてことは稀である。
ただ、「他者との比較は無意味」と繰り返し述べているように、いつまでも「食糧不足」で困っている人たちと比べて、「日本に生まれただけで幸せだから〇〇すべきだ」とか言うのは、アホの所業であるということだ。今まさに苦しんでいて、自殺しようとしている若者に対して、「もっと苦しんでる人なんて、いっぱいいるんだよ。幸せなことだってあるんだし、まだ若いんだから死ぬなんてもったいないよ!」なんて、何ら解決になるまい。もちろん、そのまま死なせてやるのが正しいとか言ってるわけじゃない。だが、「他の苦しんでいる人」の存在が、今まさに苦しんでいる当人にとって、なんの福音になろうか。むしろ絶望への手助けにしか思えない。
軽薄なポジティブを吐く連中は信用しないことだ。
そんなに長いことかくつもりではないのに、書き始めると長くなってしまう。
小見出しで書いたけど、言いたいことや書きたいことは、シンプルといえばシンプルだが、その読んだときや、条件、読んだ人の状況、相手などを想像すると、「ただし」「例外」とかがどんどん必要になっていく。
世界も実はシンプルなのである。
人は何故生きるのか? ――命あるから生きるのだ。
お前の望みはなんだ? ――世界平和と幸福だ。
以上だ!
シンプルだッ!
美しいもの汚いもの。幸福と不幸。良いものと悪いもの。
すべての相対概念において、それらは「プラス」の方向のものが全て良いものなのだ。
善なる存在を否定する者など「いない」。
しかし、だ。
上の、かっこつきの「いない」とは、「一般的に」善とか正義とかされているものに対して、同様の価値観を抱けない人や社会や国はあるということだ。
しかしそれらは、すべて「正義」である。
(いやいや、自己の利益を追求する政治資金を横領するやつとか、人を殺して金品奪う強盗も正義といえるのか? とかいう批判もあるだろう。しかし、そんな非常事態のことなど僕は考えなどしない。そんなの、同じ「人」カテゴリに入れて考えても仕方がなかろう。――いや、ただし、国が貧しいときに犯罪は増えるように、どんなときも「善なる人間」を想定して考えることにも無理はあるだろう。しかし、「ダメなもんはダメ!」と理屈抜きで規定することも必要なときは必要だ。――という観点を巧みに利用して、「気持ち悪い二次元作品は有害だ」とか表現の自由を規制しようとする奴らもいるから難しい。――とこのように、但し書きや例外はどんどん膨れていく。法律の文章がやけに読みにくいのは、このせいだ。確かに、古い法律はそもそも読みづらかったりするが、比較的新しい法律や、改正が繰り返されているやつとかは、割かし初見でも理解できたりするものである。しかし、いろんな人や状況があるせいで、「この場合はこう」「あの場合はあのように」みたいにどんどん膨れていくのである。だからだ、「気の合う友人」ってのは大事だったりする。何故かというと、言葉や、ボディランゲージとか非言語要素を用いようとも、決して100%理解しあうなんて不可能だからだ。気の合うってのは、ある根源または価値観部分の全部または一部が共有できていることを示す。これが一致していると、一見趣味嗜好が違うように思えても、意外とうまくやってけるものだ。逆にこれが一致していないと……って注釈なげーよ!)
えー。長い注釈が入りましたが、つまり、世界はシンプルなのですが、いろんな「正義」があって、ぶつかり合うので、「このケースはこう」「ああしたらこうする」みたいな条件が積み重なっていって、複雑さが増していくわけですな。
哲学が混迷しちゃった(流行らなくなった)のは、本当は、だれしもみんな興味があるテーマばっかりだったはずなのに、その回答があまりにも複雑になっちゃったからなんだと思う。
で、俺のブログが流行らないのも、やたら長いからだろうな!! まぁ、この点直す気はあんまりない! ていうか、治らねーよ! 不治の病だよ! 助けてくれよ!
(次の記事は明日の17時投稿としよう。そういや、連載作品もまだだなぁ。そっちは明日の12時投稿にしよう)
例外とか但し書きとかばかりの世の中じゃ
先日、「仕事も楽しむべきだ」的なことを書いた。もちろん、「誰しもそうではあるまい」という但し書きも書いたけれども、でも、それに対しては異議がある人が多いのではないか。例えば、奴隷制における仕事に楽しみを見出せというのは残酷な刑罰のようなものだ。古代ギリシアではない現代においても、薄給長時間労働パワハラセクハラに苦しむ人は少なくなかろう(少ないの?)。
でも、ただ生きるために働くというのは、その生存がその人にとって根本命題でなければ、人生の大半をそれに費やすというのは、何とも苦しいものだろう。「仕事を苦にして自殺」というのが現実発生するということであれば、「生きる」ということそれ自体が、生存欲求の最後の砦とは成りえないことは疑いえないだろう。
それゆえに、「仕事は楽しくなければならない」と、やや誇張して書いたのである。
それともう一つ、仕事という形態を、「労働者」という観点で考える必要もないと思っている。
例えば、アーリーリタイアを目指す人のブログなんか読んでいると、「早く会社辞めたい!」と思って、「いろいろ努力」しているのである。それは、投資の勉強だったり、ブログでアフィリエイト貼ってみたり、固定費がかからないよう田舎へ引っ越してみたり。
僕は、それらもまた、「仕事」と思っている。
ドイツ語で「職業」は、ベルーフ(Beruf)であるが、これは、「天職」という意味も含まれる……って、学校で習ったことはなかろうか。働くってのは、神から与えられた使命なのだと。……っていうのがプロテスタントたちが強く思って、頑張って働くうちに資本主義の基盤がつくられたって話。
一生懸命、自分の使命と思ってやるのが、仕事なのだと。生活のため、お金のためと思ってやる活動は、本来の仕事ではないのではないか、と。
僕は、理想的には、仕事とプライベートとの境界をなくしてしまってもいいのではないかと思っている。これはすぐさま、社畜乙とか、際限なき労働になってしまうとか批判は多々あるだろう。――あくまで、理想的な話。ホワイトカラーエグゼンプション? とかも、正直怪しい臭いがぷんぷんする。
少し考えてみれば、「好きなこと」なんて、楽な方に偏って、きつくて、汚くて、危険な仕事なんて、誰も「楽しんで」やるはずがなかろう。でも例えば、そういった人が嫌がる仕事が、機械が、ロボットがやってくれるようになったら、本来人がやりたかった仕事ができるようになるのではなかろうか。
今がそんな理想的な時代なんかじゃあないことは分かっているから、こんな主張はトイレの落書きレベルである。ただ、たとえ公言はできなくても、本来的には、もしくは極個人的な思いとして、「仕事は楽しくあるべきだ」ということを心にとどめていてもいいのではないかと思うわけである。
アンチクリスト
奴隷の話が出たから、少し書けば、「キリスト教は奴隷道徳だ」といったのはニーチェさんだったか。卑近ないつもの例を出せば、「美人とブス、どっちがいい?」という問いが明確である。美人は心が冷たいとか、そんな比較はおかしいのだ。美人で性格がよいほうが良いに決まっている。だが、大多数のブスは(えっと、誇張して書いているんだからね? わかるよね?)、一握りの美人に対して、法界悋気(嫉妬)をもってして、美人は悪魔だと指をさし虐げようとするのである。
例が悪かったな。まぁ、なんつーか、強いものに敗れて、支配されたら「弱者」なんだけど、「いや! 俺たちは弱者なんかじゃない。善人なのだ! 善い魂をもった者が虐げられるのが世界の――いや神の試練なのだ!」と、嫉妬心と復讐心を高めて自己を慰めるのである。
弱きものが美しい? 魂の平等?
――くそくらえだ。敗北主義者の世迷い事など聞くに値せん!
強くあれ!
楽しくあれ!
快楽へ身をゆだねよ!
世界はかくも素晴らしいものにも関わらず、キリスト教の奴隷道徳(ルサンチマン)により、世界の真実は捻じ曲げられてしまったのだ!!
努力の否定
……別にキリスト教に恨みがあるわけでもないし、先日聖書の雑誌を配布に来た信者の方を無碍にもしないし、どっちかというと俺、弱者の方だし(笑)。でも、僕が最近、「成長や何か目標の達成のために努力し、今を捨て去るなど間違っている」と書いたり言ったりしているのは、上のような考え方がもとになっている部分もある。
このことを書くと、すぐさま書いておかなければいけないのは、退廃的だったり、堕落したりすることを推奨しているのではないということだ。
目標を立て、ストイックに頑張ることを否定するわけではない。むしろ、それは素晴らしいし、大いに推奨すべきものだ。
否定したかったり、駄目なのは、「今が苦しくても、きっと頑張ればいつか報われる」的な奴である。「今」が苦しい時点で、もうそりゃダメなのである。
この話を書くとき、すぐさま書いておかなければならないのは、選択の余地なく這い上がらなければならない時や、状況下に置かれている人もいるだろうということだ。災害や人災に襲われたとき、「今が苦しいなんて思っちゃダメなんだ!」とか、そんなの馬鹿げている。非常事態は別だ。ただ無心に、目の前の脅威を排除することに全力になる必要がある場合だってあるだろう。
この話になるとき、「日本は幸福な国だ」的な話。あれは、ある意味で間違いなかろう。「非常事態が少ない」といった点では、そうだろう。道端を歩いていてモンスターに襲われたり、飢餓で今日の食べ物がないなんてことは稀である。
ただ、「他者との比較は無意味」と繰り返し述べているように、いつまでも「食糧不足」で困っている人たちと比べて、「日本に生まれただけで幸せだから〇〇すべきだ」とか言うのは、アホの所業であるということだ。今まさに苦しんでいて、自殺しようとしている若者に対して、「もっと苦しんでる人なんて、いっぱいいるんだよ。幸せなことだってあるんだし、まだ若いんだから死ぬなんてもったいないよ!」なんて、何ら解決になるまい。もちろん、そのまま死なせてやるのが正しいとか言ってるわけじゃない。だが、「他の苦しんでいる人」の存在が、今まさに苦しんでいる当人にとって、なんの福音になろうか。むしろ絶望への手助けにしか思えない。
軽薄なポジティブを吐く連中は信用しないことだ。
おめーはいつも長いんじゃ
ううむ。そんなに長いことかくつもりではないのに、書き始めると長くなってしまう。
小見出しで書いたけど、言いたいことや書きたいことは、シンプルといえばシンプルだが、その読んだときや、条件、読んだ人の状況、相手などを想像すると、「ただし」「例外」とかがどんどん必要になっていく。
世界も実はシンプルなのである。
人は何故生きるのか? ――命あるから生きるのだ。
お前の望みはなんだ? ――世界平和と幸福だ。
以上だ!
シンプルだッ!
美しいもの汚いもの。幸福と不幸。良いものと悪いもの。
すべての相対概念において、それらは「プラス」の方向のものが全て良いものなのだ。
善なる存在を否定する者など「いない」。
しかし、だ。
上の、かっこつきの「いない」とは、「一般的に」善とか正義とかされているものに対して、同様の価値観を抱けない人や社会や国はあるということだ。
しかしそれらは、すべて「正義」である。
(いやいや、自己の利益を追求する政治資金を横領するやつとか、人を殺して金品奪う強盗も正義といえるのか? とかいう批判もあるだろう。しかし、そんな非常事態のことなど僕は考えなどしない。そんなの、同じ「人」カテゴリに入れて考えても仕方がなかろう。――いや、ただし、国が貧しいときに犯罪は増えるように、どんなときも「善なる人間」を想定して考えることにも無理はあるだろう。しかし、「ダメなもんはダメ!」と理屈抜きで規定することも必要なときは必要だ。――という観点を巧みに利用して、「気持ち悪い二次元作品は有害だ」とか表現の自由を規制しようとする奴らもいるから難しい。――とこのように、但し書きや例外はどんどん膨れていく。法律の文章がやけに読みにくいのは、このせいだ。確かに、古い法律はそもそも読みづらかったりするが、比較的新しい法律や、改正が繰り返されているやつとかは、割かし初見でも理解できたりするものである。しかし、いろんな人や状況があるせいで、「この場合はこう」「あの場合はあのように」みたいにどんどん膨れていくのである。だからだ、「気の合う友人」ってのは大事だったりする。何故かというと、言葉や、ボディランゲージとか非言語要素を用いようとも、決して100%理解しあうなんて不可能だからだ。気の合うってのは、ある根源または価値観部分の全部または一部が共有できていることを示す。これが一致していると、一見趣味嗜好が違うように思えても、意外とうまくやってけるものだ。逆にこれが一致していないと……って注釈なげーよ!)
えー。長い注釈が入りましたが、つまり、世界はシンプルなのですが、いろんな「正義」があって、ぶつかり合うので、「このケースはこう」「ああしたらこうする」みたいな条件が積み重なっていって、複雑さが増していくわけですな。
哲学が混迷しちゃった(流行らなくなった)のは、本当は、だれしもみんな興味があるテーマばっかりだったはずなのに、その回答があまりにも複雑になっちゃったからなんだと思う。
で、俺のブログが流行らないのも、やたら長いからだろうな!! まぁ、この点直す気はあんまりない! ていうか、治らねーよ! 不治の病だよ! 助けてくれよ!
本題の創作について
そもそも書こうとしたことに、ここから入るのだけど、ちょっと、またブラウザ(スレイプニール)が重くなって、まともに書けなくなってきたので、いったんここで切って再起動する。(次の記事は明日の17時投稿としよう。そういや、連載作品もまだだなぁ。そっちは明日の12時投稿にしよう)
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