今日の一言「他者に求めるのは強制だ」「自分に求めるのは自己実現だ」
しかし、平日は、……正直きつい。
何がきついって、まったくもって帰宅時間がコントロールできないことである。
日々のルーチン(「これは毎日やるぜ!」と決めたこと)を失敗してしまうのは、往々にして、普段と違うことが起こった時である。
僕の経験から、
・風邪とか体調を崩したとき
・泊りの旅行とか、日常と異なることが起こった時
・理不尽な事態とか、精神状態が異常値になったとき
が挙げられる。
そういった事態が発生すると、いくら最初に「これはやるぞ!」と強く思い描いていても、どうしてもできなかったりする。
で。できなかった後に、「あー……昨日はダメだったなぁ……」となって、自己嫌悪に陥ったり、「ま、明日からがんばりゃいっか!」とか思って、結局、ずるずる、やらなくなっていく、というのが多い。
そんなダメダメな経験の積み重ねの結果考え出したのが、「免除規定」(最初は「例外規定」と書いていたようだが)であった。基本、流されやすい人間ということか……。
しかし、筋トレとか音読とか、それ系の無心でできる奴はともかく、クリエイティブな、創作といった内容を毎日続けるというのは、本当に至難の業だろう。
1時間紙面に向かって、1文字も書けないということも、冗談ではなくあったりする。そもそも、気分が乗らないこともざらである。
一日500字とすれば、200日もすれば10万字以上だ。10万字が単行本一冊ぐらいの量といわれるから、一日500字でも十分すごいだろう。
これは、何度も書いているが、何か「創造」できる人を僕は尊敬する。
ま、これは、エンターテイメントに限らず、仕事でも、遊びでもなんでもいいけれども、何か「創る」というのが、すごいことだと思っている。
――そして僕も、やっぱり「創る」のが好きだ。そして、自分でも、創りたい。
あー、これ、何となく思ってきたけど、やっぱりそうなんだろうなぁ。
先日、過去記事とか整理していて、「今後、ほんと、どうしようかなぁ」と考えたとき、そもそも、音楽つくったり、小説かいたり、ブログ書いたりって、ほんと、自分の人生になんら影響しない……というか、よくないことなんじゃないかって思ったりもした。
やっぱり人は、他者にとって役に立つ人間じゃなきゃダメなんじゃないかって。
自己満足や自己完結に陥ることはダメなんじゃないかって。
確かに、この時代、「公開する」ということができるインターネットという電子が飛び交う魔法の世界においては、創作に励むというのが、必ずしも閉じた世界になるわけではないだろう。
けれども、やはり、「仕事」と直結しない行為は、「無駄」なのではないか、と思ったのだ。
大人は、人にとっては、趣味はやはり「余った時間に行うこと」であり、仕事に生きがいを感じなければならないのではないか、と思ったりもした(就職活動中とか、社会人になってからまもなくとかの過去記事を読んだりしていて)。
まぁ、仕事を本当に楽しめる人たちだから逆に、経営者とかトップに立つ人間になるんだろうなぁと思ったりもしたが、ただ、自分がいくら平社員だからといって、あながち否定もできんと思ったわけだ。
やっぱ、楽しくなきゃ生きてる意味なくね?
「人生とは、楽しむものだ」
これは、僕が、中学生(高校一年生の倫理でエピクロスを学んだときだったか)のときに考えた、悩んできたことに対しての答えだった。
小学校とかから、ずいぶん、嫌な思いもしてきて、「何でこんな生きるって大変なんだろうなぁ」と思ってきて、「うん、やっぱり、楽しく生きなきゃおかしいよ!」と思い立ったわけである(確か)。
で、そんときは、すげー発見したなぁと自己陶酔していたが、結局、その「格言」が正しかろうと、現実は甘くなかった(かっこわらい)。
でも、やっぱり、原点はそこなんじゃなかろうか?
みんな、だれしも、楽しく生きるのが大事なんじゃなかろうか?
だから、ブラック企業とか、頑張ってやりがいを満たせとか、一方で、「クリエイティブな人材をほっします」とか企業が就活生とかにいっちゃうのは、みんな、根本的に大事なことを見落としてるんじゃなかろうか?
「やりがい」を求めて、仕事を必死になること、それが悪いことかというと、僕は全然そうは思わない。
仕事が好きで楽しい、とかいうと、すぐ「社畜乙」とか言われるのは、それはおかしい社会と思う。
一方で、「がんばって成果を出しましょう!」と発破をかけて、お金を稼ごうってのは、大事なことを見落としていると思う。
本当は、「頑張ること」「成果を出すこと」「認められること」というのは、それは単に「結果」に過ぎないのではないか?
それよりも根本として大事なことは、それら全般が、本来的に「楽しいこと」だということではないか?
そりゃ楽しいことしてても疲れるときは疲れるけど、強制され、拘束されているのと、同じ時間だとしても、身体・精神ダメージは全然違うだろう。
とはいえ、だれしも仕事を好きにならなきゃいけないってのも違うと思う。
仕事はお金を稼ぐ手段で、人生は趣味や家族に捧げるってのも、大いにありだろう。
そういったのをひっくるめて、「多様性」を認めるってことじゃあなかろうか。
で、その前提として、せっかくだから、「仕事」も楽しむことができたらもっといいと思う。
ちなみに、ルーチンを超えると、それは習慣になる。
意識しなくても自然にやってしまうこと、それが習慣だ。
習慣も、大いに、目標達成には活用すべきである。例えば、外から帰って手を洗うのは習慣だろう。それに、風邪予防にうがいも加えてみる。って小学生か。
いやしかし、そういう、ついつい「馬鹿にしたくなる」ようなことが、習慣の活用としては有効である。むしろ、普段意識できていないような習慣の方がよい。
家に帰ってきて、もしくは自分の部屋に戻ってから、必ず行うことはないだろうか? または、普段、初めに目線がいく場所はないだろうか?
その、当たり前の、習慣の中に、すこーしだけ、種をしかけるのである。習慣プラスα作戦!
なんの話だ。
そう、ちょっと、高級なYEBISUビールを飲んで、昂っているせいも影響しているかもしれないが、僕も、創作がんばろうと思った。
今年中に、音楽と小説と、一つ完成させたいな。
――って、今年って、もう半年もないんかい! はやいなぁ、ほんと……。
もうちょっと、具体的な計画や目標は、落ち着いた日に考えるとして、今日のところは、「自分の好きなこと」の確認を少しできた、ということで終わるとしよう。
(創作しようッ!! と思った矢先、「風よ龍に届いているか」を読み始める。え、なにこれ面白い)
ビール飲んでる場合じゃねぇ
ある方が最近、毎日(毎日!)自作品の進捗をグラフにして公開するという荒行(ストイック・ディシプリン)を始めたので、正直、忙しいとか愚痴いってる場合じゃねぇと思い始めている。しかし、平日は、……正直きつい。
何がきついって、まったくもって帰宅時間がコントロールできないことである。
日々のルーチン(「これは毎日やるぜ!」と決めたこと)を失敗してしまうのは、往々にして、普段と違うことが起こった時である。
僕の経験から、
・風邪とか体調を崩したとき
・泊りの旅行とか、日常と異なることが起こった時
・理不尽な事態とか、精神状態が異常値になったとき
が挙げられる。
そういった事態が発生すると、いくら最初に「これはやるぞ!」と強く思い描いていても、どうしてもできなかったりする。
で。できなかった後に、「あー……昨日はダメだったなぁ……」となって、自己嫌悪に陥ったり、「ま、明日からがんばりゃいっか!」とか思って、結局、ずるずる、やらなくなっていく、というのが多い。
そんなダメダメな経験の積み重ねの結果考え出したのが、「免除規定」(最初は「例外規定」と書いていたようだが)であった。基本、流されやすい人間ということか……。
ルーチンを超えて習慣へ
ブログ右横の、カウントアップを見てみる。音読は結構さぼってしまった日があったりするが、筋トレはほんと、免除規定以外は毎日続けられている。270日。これは結構長いほうだ。へー、そうだなぁ、結構がんばったなぁ。しかし、筋トレとか音読とか、それ系の無心でできる奴はともかく、クリエイティブな、創作といった内容を毎日続けるというのは、本当に至難の業だろう。
1時間紙面に向かって、1文字も書けないということも、冗談ではなくあったりする。そもそも、気分が乗らないこともざらである。
一日500字とすれば、200日もすれば10万字以上だ。10万字が単行本一冊ぐらいの量といわれるから、一日500字でも十分すごいだろう。
これは、何度も書いているが、何か「創造」できる人を僕は尊敬する。
ま、これは、エンターテイメントに限らず、仕事でも、遊びでもなんでもいいけれども、何か「創る」というのが、すごいことだと思っている。
――そして僕も、やっぱり「創る」のが好きだ。そして、自分でも、創りたい。
あー、これ、何となく思ってきたけど、やっぱりそうなんだろうなぁ。
先日、過去記事とか整理していて、「今後、ほんと、どうしようかなぁ」と考えたとき、そもそも、音楽つくったり、小説かいたり、ブログ書いたりって、ほんと、自分の人生になんら影響しない……というか、よくないことなんじゃないかって思ったりもした。
やっぱり人は、他者にとって役に立つ人間じゃなきゃダメなんじゃないかって。
自己満足や自己完結に陥ることはダメなんじゃないかって。
確かに、この時代、「公開する」ということができるインターネットという電子が飛び交う魔法の世界においては、創作に励むというのが、必ずしも閉じた世界になるわけではないだろう。
けれども、やはり、「仕事」と直結しない行為は、「無駄」なのではないか、と思ったのだ。
大人は、人にとっては、趣味はやはり「余った時間に行うこと」であり、仕事に生きがいを感じなければならないのではないか、と思ったりもした(就職活動中とか、社会人になってからまもなくとかの過去記事を読んだりしていて)。
好きなことをしている人が強い
あるニュース記事的なので、ある会社の社長さんとか経営者の就活生向けのインタビューがあって、「結局、楽しんで仕事できない人は伸びないよ」「やらされてる感しかない奴はいらないよね」とかあった。まぁ、仕事を本当に楽しめる人たちだから逆に、経営者とかトップに立つ人間になるんだろうなぁと思ったりもしたが、ただ、自分がいくら平社員だからといって、あながち否定もできんと思ったわけだ。
やっぱ、楽しくなきゃ生きてる意味なくね?
「人生とは、楽しむものだ」
これは、僕が、中学生(高校一年生の倫理でエピクロスを学んだときだったか)のときに考えた、悩んできたことに対しての答えだった。
小学校とかから、ずいぶん、嫌な思いもしてきて、「何でこんな生きるって大変なんだろうなぁ」と思ってきて、「うん、やっぱり、楽しく生きなきゃおかしいよ!」と思い立ったわけである(確か)。
で、そんときは、すげー発見したなぁと自己陶酔していたが、結局、その「格言」が正しかろうと、現実は甘くなかった(かっこわらい)。
でも、やっぱり、原点はそこなんじゃなかろうか?
みんな、だれしも、楽しく生きるのが大事なんじゃなかろうか?
だから、ブラック企業とか、頑張ってやりがいを満たせとか、一方で、「クリエイティブな人材をほっします」とか企業が就活生とかにいっちゃうのは、みんな、根本的に大事なことを見落としてるんじゃなかろうか?
え、これ仕事論になるの?
大事なのは、「楽しむこと」だと。「やりがい」を求めて、仕事を必死になること、それが悪いことかというと、僕は全然そうは思わない。
仕事が好きで楽しい、とかいうと、すぐ「社畜乙」とか言われるのは、それはおかしい社会と思う。
一方で、「がんばって成果を出しましょう!」と発破をかけて、お金を稼ごうってのは、大事なことを見落としていると思う。
本当は、「頑張ること」「成果を出すこと」「認められること」というのは、それは単に「結果」に過ぎないのではないか?
それよりも根本として大事なことは、それら全般が、本来的に「楽しいこと」だということではないか?
そりゃ楽しいことしてても疲れるときは疲れるけど、強制され、拘束されているのと、同じ時間だとしても、身体・精神ダメージは全然違うだろう。
とはいえ、だれしも仕事を好きにならなきゃいけないってのも違うと思う。
仕事はお金を稼ぐ手段で、人生は趣味や家族に捧げるってのも、大いにありだろう。
そういったのをひっくるめて、「多様性」を認めるってことじゃあなかろうか。
で、その前提として、せっかくだから、「仕事」も楽しむことができたらもっといいと思う。
着地点どこやねん
あー、その、なんというか、創作をルーチンで続けるって、ほんとすごいなって、思ったんだ。ちなみに、ルーチンを超えると、それは習慣になる。
意識しなくても自然にやってしまうこと、それが習慣だ。
習慣も、大いに、目標達成には活用すべきである。例えば、外から帰って手を洗うのは習慣だろう。それに、風邪予防にうがいも加えてみる。って小学生か。
いやしかし、そういう、ついつい「馬鹿にしたくなる」ようなことが、習慣の活用としては有効である。むしろ、普段意識できていないような習慣の方がよい。
家に帰ってきて、もしくは自分の部屋に戻ってから、必ず行うことはないだろうか? または、普段、初めに目線がいく場所はないだろうか?
その、当たり前の、習慣の中に、すこーしだけ、種をしかけるのである。習慣プラスα作戦!
なんの話だ。
そう、ちょっと、高級なYEBISUビールを飲んで、昂っているせいも影響しているかもしれないが、僕も、創作がんばろうと思った。
今年中に、音楽と小説と、一つ完成させたいな。
――って、今年って、もう半年もないんかい! はやいなぁ、ほんと……。
もうちょっと、具体的な計画や目標は、落ち着いた日に考えるとして、今日のところは、「自分の好きなこと」の確認を少しできた、ということで終わるとしよう。
(創作しようッ!! と思った矢先、「風よ龍に届いているか」を読み始める。え、なにこれ面白い)
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可能なら『隣り合わせの灰と青春』→『不死王』→『風龍』の順で読まれるのが良いかもしれません。両作とも『風龍』と関わりの深い物語ですが、文章の味わいが、
『隣り合わせ』<(越えられない壁)<『不死王』≦『風龍』
な感じですし、『風龍』はあらゆる意味でグランドフィナーレなので。
それはそうと、これはご自身でも進捗をグラフにしてアップする感じの流れなのではないでしょうか(気持ち悪い愉悦顔)。