今日の一言「前の記事との繋がりが難しい」
言葉は活動するための手段に過ぎぬ
会議が長くなるのを好まない。
すべての雑談やお喋りを否定するのではない。
しかし、何らかの行動が生じない会議は無価値に思う。
進捗報告を無碍にするのではない。経営やプロジェクト判断にとって、情報は最重要である。
そのうえで、「何もしない」という判断を否定するのではない。
ただ、何かするでも、しないでも、「意識的に」判断しているかどうかは、僕は問いたいと思う。
不要な情報であれば、そもそも、不要な情報が生じる仕組みに改善を図るべきだ。
感情を満たすだけの言葉は、恋人や友人とすればよい。
すぐさま書いておくべきは、同僚など会社の人たちと友人になれないということではない。人は人である。会社組織に属するからといって、冷酷無比なマシーンと考え、常に利益や効率だけを考えることは非人道的であろう。
無駄やゆとりというものを否定するのではない。アクセルやブレーキの「あそび」は必要だ。緩衝地帯は大事だ。オイル、潤滑油は大事だ。
しかし、それらは、車が動くとか、製品を開発するといった、大きな目的が明確化された上での話だ。
何ら目的がないままに、だらだらと、よく分からないままに、何の意味があるのかと疑問のままに活動することは、苦痛である。苦痛に思わない人もいるようだが、苦痛に思わなければなるまい。
何故ならば人は、創造性をもってこそ、人なのだから。
(かっこ書きである。前の記事では、人生の要素を、「時間」「記憶」「身体」であると書いた。それと、今回の記事はどう関係しているのか。前の記事で書いた通り、かっこ書きと、今日の一言は、別の日に書いている。本文については、同じ日に繋がって書いたわけだから、自分の思考の中では何か関連性があったのだろう。しかし、今になって思うと、分からない。今回の記事は、「だらだら会議するのは無駄だ」→「でもゆとりは大事だ」→「でも大きな目的がないとだめだ」という流れだ。中庸的なことを表現したかったのではなかろうか、と思う。ただ、思考やブログにおいては、世界の事実なんてどうでもいい。自分の事実を書かなければならない。それが間違っていようがどうでもいい。問題は、その自分の事実は、「時間」「身体」「記憶」の制限の中で、どのように導かれ、アウトプットに至ったのか、そのプロセスを描写する必要がある、ということだ。そういった意味で、前回の記事も、今回の記事も、何を問題と考えて、何を解決したいのかよくわからない点で、残念である。短い記事では、他の人のブログなどでも、そういった傾向がある。長ければいいというものではないが、ある程度の文量は必要だろうと思う。とはいえしかし、結論的には、次の記事を待とう、ということになる。次は、2日もしくは3日後だ)
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今日の一言「恥ずかしいという暇もない」「黒歴史をひっぱり出すにも時間が必要だ」
数日かけて、連載形式で行こうと思う。
小見出しとしては、以下の感じ。
・01ライフワーク
・02言葉は活動の手段に過ぎぬ
・03創造性とは何か
・04新聞やニュースは見るべきか
・05多様性は害悪なのか
・06共通価値の普遍化
・07目的の重要性と多様性の不可避
・08対立には排除なのか
・09ルールと共通価値とは違う
・10社会悪をどう考えるべきか
生活・家事。
創作、恋人、友人。
仕事をして、お金を手に入れて、生活をして、個人の活動をする。
単純に、率直に書けば、これで人生が回っている。
人生という言葉は大げさだけれども、誰もが自分の人生を生きている。
人生とは何か。
三つの考える軸がある。
時間である。有限の時間が人生である。
記憶である。アイデンティティ、自我同一性、自分という意識。
身体である。制御可能な、物理環境へのアクセス、アプローチ。
人生という総体において、上の三つの軸が、逃れられない制限事項である。
物語の創作においては、その誰もが逃れられない制約を緩めたり、改変したり、違う視点からアプローチすることが、面白い物語となりえる。
ジョジョの奇妙な冒険は、スタンドという、身体の限界を超えた存在を描く。また、時間を止めるという物理法則の限界も描かれる。面白い。
シュタインズ・ゲートは、タイムマシンやタイムリープマシンによって文字通り時間跳躍をする。そして、「ゼロ」作品では、アマデウスという人間の記憶データを元にした人工知能をつくりだす。人間というエミュレート。面白い。
今の、「面白い」というのは、僕個人的な「面白い」なので、万人普遍ではない。ただ、僕は日常ほのぼの系だけを望んでいるわけではない。
それは、本能的に、人生は3つの制約で成り立っていて、そのどれもが有限であることを思い感じているからである。
(かっこ書きである。基本軸の内容は、一日で書いてしまった。1時間ぐらいか。7000字。何で分けようかと思ったかというと、書く時間があまりとれずに、投稿の間隔が長くなってしまうからである。本当は、7000字ぐらいは、ぽんぽんと投稿していって、前記事を読み返したりしたい。けれども、それが難しいので、細切れで書きつつ、それを時間あるときに読んで、このかっこ書き部分だけを補足しようかという試みである。かっこ書きぐらいなら、スマホからでも投稿できそうだからだ。しかしスマホ、そろそろ買い替えが必要かもしれない。先日、ヤフーの方で、古いスマホやブラウザへのサポートを打ち切って、アプリなどが全部使えなくなるとのことだった。いつからだっけ、2018年10月中旬……ということで、もういまじゃねーか。ああ、だから、乗り換え案内とかニュースとかメールとか使えなくなったのか。うーむ……、パソコンは拘りたいけど、正直スマホは道具的にしか思えないんだよなぁ……)
数日かけて、連載形式で行こうと思う。
小見出しとしては、以下の感じ。
・01ライフワーク
・02言葉は活動の手段に過ぎぬ
・03創造性とは何か
・04新聞やニュースは見るべきか
・05多様性は害悪なのか
・06共通価値の普遍化
・07目的の重要性と多様性の不可避
・08対立には排除なのか
・09ルールと共通価値とは違う
・10社会悪をどう考えるべきか
ライフワーク
仕事。生活・家事。
創作、恋人、友人。
仕事をして、お金を手に入れて、生活をして、個人の活動をする。
単純に、率直に書けば、これで人生が回っている。
人生という言葉は大げさだけれども、誰もが自分の人生を生きている。
人生とは何か。
三つの考える軸がある。
時間である。有限の時間が人生である。
記憶である。アイデンティティ、自我同一性、自分という意識。
身体である。制御可能な、物理環境へのアクセス、アプローチ。
人生という総体において、上の三つの軸が、逃れられない制限事項である。
物語の創作においては、その誰もが逃れられない制約を緩めたり、改変したり、違う視点からアプローチすることが、面白い物語となりえる。
ジョジョの奇妙な冒険は、スタンドという、身体の限界を超えた存在を描く。また、時間を止めるという物理法則の限界も描かれる。面白い。
シュタインズ・ゲートは、タイムマシンやタイムリープマシンによって文字通り時間跳躍をする。そして、「ゼロ」作品では、アマデウスという人間の記憶データを元にした人工知能をつくりだす。人間というエミュレート。面白い。
今の、「面白い」というのは、僕個人的な「面白い」なので、万人普遍ではない。ただ、僕は日常ほのぼの系だけを望んでいるわけではない。
それは、本能的に、人生は3つの制約で成り立っていて、そのどれもが有限であることを思い感じているからである。
(かっこ書きである。基本軸の内容は、一日で書いてしまった。1時間ぐらいか。7000字。何で分けようかと思ったかというと、書く時間があまりとれずに、投稿の間隔が長くなってしまうからである。本当は、7000字ぐらいは、ぽんぽんと投稿していって、前記事を読み返したりしたい。けれども、それが難しいので、細切れで書きつつ、それを時間あるときに読んで、このかっこ書き部分だけを補足しようかという試みである。かっこ書きぐらいなら、スマホからでも投稿できそうだからだ。しかしスマホ、そろそろ買い替えが必要かもしれない。先日、ヤフーの方で、古いスマホやブラウザへのサポートを打ち切って、アプリなどが全部使えなくなるとのことだった。いつからだっけ、2018年10月中旬……ということで、もういまじゃねーか。ああ、だから、乗り換え案内とかニュースとかメールとか使えなくなったのか。うーむ……、パソコンは拘りたいけど、正直スマホは道具的にしか思えないんだよなぁ……)
今日の一言「優柔不断」
生活環境が、また変わろうとしている。
簡単に書けば、今年の最初の方に元に戻るわけだ。
もうちょっと自分を考える時間を作ろう。
何が大切で、何が譲れないか、ちゃんと言葉にできるようになろう。
決められなかった。大事なことを。
別に、自分をよく見せたいとか思わないけれど、誤解されるのは非常に怖い。
他者への信頼感ってのがあんまないのか。
どうして決められなかったのか。
でも、流されたくなかった。感情を信じられなかった。
感情じゃないんだ。
理性的に、論理的に、という表現は気持ち悪いが。
でも、感情は、儚いんだ。
ハードルがあるんだ。
感覚的に生きることは、悪くない、というか、畢竟すれば、極端に言えば、感覚的にしか人は生きれない。
論理やルールというのは、人が心地よく過ごすために編み出した技術なんだから。
人が幸せになれないルールなんて、何の意味があるのか、ない、けれども、ルールがあるという事実だけがルールたらしめる場合があるから複雑なんだが、まぁ、単純に考えるなら、人は感情的に、感覚的に生きたって何ら問題はない。
それを前提において、書けば、その感覚なんてものは、あまりにも儚くて、信頼性がおけないものである。
そういう意味では、お金とか、物的なものは安全だ。しかし、それは単なる道具に過ぎないというアンビバレンス。
好きだという現時点の気持ちがいくら本当で、真実でも、それは、僕は……。
僕の思考の師匠が言っていた。「信じるしかない」のだと。
でも、僕は、師匠ほどの人間じゃない。師匠は、「神になれ」といっていた。僕は……。
こんなポエムみたいな記事、数年後には、僕は、黒歴史だと頭を抱えるのだろうか。
ヤフージオシティーズが閉鎖されるというニュースを見た。
賛否あったけれども、パスワードを忘れてそもそもログインできない人が、むしろ黒歴史だから消えてくれてよかった、とコメントしたりしていた。
僕も、高校生ぐらいの日記、ログは、きっと、赤面する表現があるかもしれない、が。
それでも、「なかったことにしてはいけない」と思うんだけど、違うかな。
過去の、つらかった経験も、かなしかったことも、苦しかったことも、全部、引き受けないと、「人生」の意味はあるんだろうか、と思う。僕は。
シロクマさんもブログで言ってた。懐古主義、と揶揄されるかもしれない。
でも、その黒歴史って、何故生まれたんだろうか。
何故恥ずかしいと、今なら思うような、「熱い」ポエムを、わざわざホームページにつづるような熱量が生じたんだろうか。
その表現は稚拙かもしれない。
でも、そこに表現したかった「思い」ってのは、きっと大事なものなんじゃないかって、そう思うのだ。
書くこと、を大事にしたい。
生活環境の変化は、大きな変化は、そもそも、高校生ぐらいからホームページを運営してきたことからすれば、何度もあった。
そのうちで、こんな「思考」を捨て去ろうとしたことも、2回はある。
1回目は、大学生のとき。それは、社会人になって働き始めて数か月でやめた。
2回目は、結婚したとき。それも、数年してやめた。
人は、忘れる生き物だ。
それは感情も。記憶も。
でも、過日、やっぱり、「決めることができなかった」ことで、感情も記憶も、「引き出せなくなっている」だけで、自分を構成する要素としては、なくなってなどいない、ということを強く感じた。涙と一緒に、やっぱり、そうだって感じた。
なくなってなどいない。
なくなっていない、のではない。むしろ、なかったことにしてはいけないのだ。
繰り返し書くけれども、僕は、高校生ぐらいからインターネットを使っている。
そこで出会った人たちで、実際にあったことがある人も、多くはないけれどもいる。その中で、連絡がつかなくなった人もいれば、今でも交流がある人がいる。
それらの出会った人々と、会社の同僚と、どちらが大事か、なんて、「私と仕事どっちが大事なの!」という愚問と同様だ。――どっちも重要だ。
よくある批判的言動において、ネットの人たちは、いざというときに助けてくれない、という。
くだらん。
現実の人たちがどれほど役に立つのか、という問題が一つと、僕が本当に精神的に参ってしまった数年前のある時、二人の方からEメールを頂いたことを僕は忘れない。
ネットゲーで出会った人と結婚したとか、オフ会で云々とか、そんな事例を持ち出すまでもなく、「人は、人」である。そのツールが何であろうが。
ビールが進むせいで余計なことをさらに書けば、だ、昔の話で、文通的な文字的交流において関係が発展した、とかいうこともあったろう。コミュニケーションの本質と、ツールとの違いをはき違えてはならない。
あー、くだらないが、補足して置けば、別に、対面コミュニケーションの重要性を否定するわけでもないのである。
そういう意味で、前掲のシロクマさんは、奥さんもお子さんもいるとのことだが、ご自身のブログとの関係性はどうなんだろうか。要するに、知られているのだろうか。その辺がよく分からないし、興味がある。
もっといえば、他の私と交流してくださっている方々はどうなんだろうか。様々な立場の方がおられると思う、が、リアルの人たちにも教えているのだろうか、どうなんだろう。
いやまぁそれを知ったところで僕がどうこうするわけではないが、付き合い方というか、距離の取り方というか、なんというか、上手く表現できないけれども、参考にしたいという思いはある。
思う、が、僕はやっぱり、知られたくはないし、積極的に開示する気にもなれない。
何故なら、「思考のプロセス」のメモなのである。
ゆえに、結論ではないのだ。
ああ、なんというか。
その、「ゼロ秒」なのである、本当である。僕は、これだけの長さの文章を、考えて書いているのではないのだ。いやまぁ、当たり前か、考えたらこんな冗長な文章は書けなかろう。
だがそれゆえに、思考スピードも、あとから読んでも分かるし、何故そう考えたかも分かる。そういうことは意識しているつもりである。つまり、思考トレースだ。追跡。追いかけている、復元できるように。なぜ? 人は忘れるからだ。
センター試験前の、冬の、寒い部屋で石油ストーブの燃える音と、結露が生じる窓。机に向かって勉強する自分……いや勉強じゃない、日記だ。文字を書いていた。不安や不満を。
そんな感情や感覚は、決して、きれいな文章では分からないのだ。
文字の乱れや、無駄な表現、改行、改ページ、ああ、そんな無駄を含めて、思考なのだ。
(かっこ書きである。あのさー、このブログに甘えるの、やめようって、先日書いてなかったっけ。ブログ、何だぜ? クローズドなSNSではないんだよ? その辺分かってる? 分かってる。と思う。先日も書いたけど、東京で暮らしていると、ほんと、めっちゃ人多いで。なんでこんなに人がいるんだろうと思う。そして、こんなに大勢の人がいて、みんな孤独なんだ。いや、嘘ごめん。「孤独な人もいる」程度だろう。みんな、多くは友達やら恋人やら親や家族やらで囲まれているんだろう。でもさ、孤独な人も、いるよね、って、思う。で、さらに、「生きる意味」に疑問もったり、目の前に立ちはだかる障害に困ってる人も大勢いると思うんだ。俺も仕事で一個非常に困ってる案件があるよ。それでも、「生きる」って選択を、多くの人はしているわけだ。それは尊い。尊いがゆえに、つらいことでもある。だから、そんな直面した問題や課題に対して、「思考」という方法で検討する術を、僕は表現できたらいいなと思う。まーその、現実、使ってみると全く役に立たないわけだが(かっこわらい)。でもそりゃそうなのだ、これは、非常に限定的な個人主義というか、実存主義なのである。普遍的に適用できる思考など、ありゃせんのだ。だから、故に、価値がある。文字を書く人、創作をする人は、その意志だけで価値があるのだ(明日か、それ以降で、もうちょっとまともな精神状態で冷静に考えて書きたいものだ))
生活環境が、また変わろうとしている。
簡単に書けば、今年の最初の方に元に戻るわけだ。
もうちょっと自分を考える時間を作ろう。
何が大切で、何が譲れないか、ちゃんと言葉にできるようになろう。
決められなかった。大事なことを。
別に、自分をよく見せたいとか思わないけれど、誤解されるのは非常に怖い。
他者への信頼感ってのがあんまないのか。
どうして決められなかったのか。
でも、流されたくなかった。感情を信じられなかった。
感情じゃないんだ。
理性的に、論理的に、という表現は気持ち悪いが。
でも、感情は、儚いんだ。
ハードルがあるんだ。
感覚的に生きることは、悪くない、というか、畢竟すれば、極端に言えば、感覚的にしか人は生きれない。
論理やルールというのは、人が心地よく過ごすために編み出した技術なんだから。
人が幸せになれないルールなんて、何の意味があるのか、ない、けれども、ルールがあるという事実だけがルールたらしめる場合があるから複雑なんだが、まぁ、単純に考えるなら、人は感情的に、感覚的に生きたって何ら問題はない。
それを前提において、書けば、その感覚なんてものは、あまりにも儚くて、信頼性がおけないものである。
そういう意味では、お金とか、物的なものは安全だ。しかし、それは単なる道具に過ぎないというアンビバレンス。
好きだという現時点の気持ちがいくら本当で、真実でも、それは、僕は……。
僕の思考の師匠が言っていた。「信じるしかない」のだと。
でも、僕は、師匠ほどの人間じゃない。師匠は、「神になれ」といっていた。僕は……。
こんなポエムみたいな記事、数年後には、僕は、黒歴史だと頭を抱えるのだろうか。
ヤフージオシティーズが閉鎖されるというニュースを見た。
賛否あったけれども、パスワードを忘れてそもそもログインできない人が、むしろ黒歴史だから消えてくれてよかった、とコメントしたりしていた。
僕も、高校生ぐらいの日記、ログは、きっと、赤面する表現があるかもしれない、が。
それでも、「なかったことにしてはいけない」と思うんだけど、違うかな。
過去の、つらかった経験も、かなしかったことも、苦しかったことも、全部、引き受けないと、「人生」の意味はあるんだろうか、と思う。僕は。
シロクマさんもブログで言ってた。懐古主義、と揶揄されるかもしれない。
でも、その黒歴史って、何故生まれたんだろうか。
何故恥ずかしいと、今なら思うような、「熱い」ポエムを、わざわざホームページにつづるような熱量が生じたんだろうか。
その表現は稚拙かもしれない。
でも、そこに表現したかった「思い」ってのは、きっと大事なものなんじゃないかって、そう思うのだ。
大事にするもの
なんの話だって。読む人を考えない独善さは、まったく許しがたいものだろう、そしてそれは、未来の自分にとっても同様である。書くこと、を大事にしたい。
生活環境の変化は、大きな変化は、そもそも、高校生ぐらいからホームページを運営してきたことからすれば、何度もあった。
そのうちで、こんな「思考」を捨て去ろうとしたことも、2回はある。
1回目は、大学生のとき。それは、社会人になって働き始めて数か月でやめた。
2回目は、結婚したとき。それも、数年してやめた。
人は、忘れる生き物だ。
それは感情も。記憶も。
でも、過日、やっぱり、「決めることができなかった」ことで、感情も記憶も、「引き出せなくなっている」だけで、自分を構成する要素としては、なくなってなどいない、ということを強く感じた。涙と一緒に、やっぱり、そうだって感じた。
なくなってなどいない。
なくなっていない、のではない。むしろ、なかったことにしてはいけないのだ。
匿名性
多分、多くの人に理解されないことだろうけれども、対面的なコミュニケーションだけが重要なんじゃないと、僕は思うのである。繰り返し書くけれども、僕は、高校生ぐらいからインターネットを使っている。
そこで出会った人たちで、実際にあったことがある人も、多くはないけれどもいる。その中で、連絡がつかなくなった人もいれば、今でも交流がある人がいる。
それらの出会った人々と、会社の同僚と、どちらが大事か、なんて、「私と仕事どっちが大事なの!」という愚問と同様だ。――どっちも重要だ。
よくある批判的言動において、ネットの人たちは、いざというときに助けてくれない、という。
くだらん。
現実の人たちがどれほど役に立つのか、という問題が一つと、僕が本当に精神的に参ってしまった数年前のある時、二人の方からEメールを頂いたことを僕は忘れない。
ネットゲーで出会った人と結婚したとか、オフ会で云々とか、そんな事例を持ち出すまでもなく、「人は、人」である。そのツールが何であろうが。
ビールが進むせいで余計なことをさらに書けば、だ、昔の話で、文通的な文字的交流において関係が発展した、とかいうこともあったろう。コミュニケーションの本質と、ツールとの違いをはき違えてはならない。
あー、くだらないが、補足して置けば、別に、対面コミュニケーションの重要性を否定するわけでもないのである。
そういう意味で、前掲のシロクマさんは、奥さんもお子さんもいるとのことだが、ご自身のブログとの関係性はどうなんだろうか。要するに、知られているのだろうか。その辺がよく分からないし、興味がある。
もっといえば、他の私と交流してくださっている方々はどうなんだろうか。様々な立場の方がおられると思う、が、リアルの人たちにも教えているのだろうか、どうなんだろう。
いやまぁそれを知ったところで僕がどうこうするわけではないが、付き合い方というか、距離の取り方というか、なんというか、上手く表現できないけれども、参考にしたいという思いはある。
思う、が、僕はやっぱり、知られたくはないし、積極的に開示する気にもなれない。
何故なら、「思考のプロセス」のメモなのである。
ゆえに、結論ではないのだ。
ああ、なんというか。
その、「ゼロ秒」なのである、本当である。僕は、これだけの長さの文章を、考えて書いているのではないのだ。いやまぁ、当たり前か、考えたらこんな冗長な文章は書けなかろう。
だがそれゆえに、思考スピードも、あとから読んでも分かるし、何故そう考えたかも分かる。そういうことは意識しているつもりである。つまり、思考トレースだ。追跡。追いかけている、復元できるように。なぜ? 人は忘れるからだ。
センター試験前の、冬の、寒い部屋で石油ストーブの燃える音と、結露が生じる窓。机に向かって勉強する自分……いや勉強じゃない、日記だ。文字を書いていた。不安や不満を。
そんな感情や感覚は、決して、きれいな文章では分からないのだ。
文字の乱れや、無駄な表現、改行、改ページ、ああ、そんな無駄を含めて、思考なのだ。
(かっこ書きである。あのさー、このブログに甘えるの、やめようって、先日書いてなかったっけ。ブログ、何だぜ? クローズドなSNSではないんだよ? その辺分かってる? 分かってる。と思う。先日も書いたけど、東京で暮らしていると、ほんと、めっちゃ人多いで。なんでこんなに人がいるんだろうと思う。そして、こんなに大勢の人がいて、みんな孤独なんだ。いや、嘘ごめん。「孤独な人もいる」程度だろう。みんな、多くは友達やら恋人やら親や家族やらで囲まれているんだろう。でもさ、孤独な人も、いるよね、って、思う。で、さらに、「生きる意味」に疑問もったり、目の前に立ちはだかる障害に困ってる人も大勢いると思うんだ。俺も仕事で一個非常に困ってる案件があるよ。それでも、「生きる」って選択を、多くの人はしているわけだ。それは尊い。尊いがゆえに、つらいことでもある。だから、そんな直面した問題や課題に対して、「思考」という方法で検討する術を、僕は表現できたらいいなと思う。まーその、現実、使ってみると全く役に立たないわけだが(かっこわらい)。でもそりゃそうなのだ、これは、非常に限定的な個人主義というか、実存主義なのである。普遍的に適用できる思考など、ありゃせんのだ。だから、故に、価値がある。文字を書く人、創作をする人は、その意志だけで価値があるのだ(明日か、それ以降で、もうちょっとまともな精神状態で冷静に考えて書きたいものだ))
今日の一言「台風」
いろいろと、書きたいことはあったのだけれども、気づいたらあっという間に過ぎる。
もう10月に入るのだ。
今年も、もう3か月で終わる。いつも、例年を考えると、来年の目標を考えないとなぁと焦り始めて、結局年内に決まらずに、翌年の三月ぐらいまでに方向付けする感じである。
そもそも、今年の目標って何だったのか。
2017年の目標は覚えている。「整理」であった。2018年は、創作にもっと力を入れようと思っていたのだけれども、実生活に大きく変化があって(それはもちろん自分の選択であるのだけれど)、まったく想像と異なることになった。
それは、悪い意味では、まったくなかったと思う。これまで経験したことがなかったこと経験できたし、感情的な面でも、安定的でいられたと思う。
もちろん、それは良いことなのだけれども、僕は、これからも、やっぱり、この時間は大切にしたいと思う。
それは、「書く」ということだ。
僕が、どれだけこのブログの場に甘えているのかが分かった。
コメントなどくださる方々には改めて感謝を思った。
誤字も、表現も非常に分かりづらい面が多々ある。
ただ、なんかその、勢いというか、リアルタイム性というか、熱量は読み返してみると、ブログの方は感じた。編集してしまうと、その泥臭さというか臭気というか気持ちの強さとかそのあたりがなくなってしまう気がしたけれども、あっちの方は分かりやすさを追求しようと思う。といっても、元がこんなんだから、脈絡のなさを如何ともしがたい面はある。
とはいえ、なんとか、複数記事の関連ポイントを探したりと、できる限りはしたつもりである。この、「やったつもり」という、言い訳がましい表現が嫌いである。はっきり言おう。時間ないなか、自分の最大限のパフォーマンスを発揮した、と。
こう言い切ることが、僕は昔からできなかった。それが許されなかった環境だった気もする。
「頑張ること」「努力すること」というのは、子どもたちには、無限の可能性(かっこわらい)を開く大切なツールなのだから。
でもそれって、精神衛生上よくないことだと今は思う。
ただ、「自分」って境界線をよく分からない人が、勝手に線引きして、「俺はこんなもんだ」と思うのとは全く違うってのは書いておかなければならない。
そうじゃなくて、「環境」「時間」「意志」など、全要素を含めて、これが今の限界だという感覚になるまで、力を発揮することが大事であるということだ。
サイトURL更新は、一応形上はやった。ただ、これだけでは完成ではない。
リンク周りして、その報告をしたり、検索サーチの更新したりと、やることは多い。
これは、リンク整理と並行して実施したいと思う。リンク切れのサイトさんや、何か交流がなくなってしまった(更新がもうされなそうな)サイトさんとかは、これを機に外さしてもらおうかと思う。
リンク集ってもう時代じゃないのかもしれない。
でも、僕は何か、サイト開設した当時の、お互いのホームページがあって、それぞれのリンクページに紹介など書きあって更新していった、あの時の感覚がなんか忘れられない。
今は、個人の小説サイトとかあんまし流行ってないだろう。昔から投稿サイトはあったけど、今よりもっと個人のサイトも活発だったのだ。
第一、「ホームページ」って言葉がもう使われないのが象徴していると思う。みんなWEBサイトっていうでしょ。
今はもう、ベタ打ちでHTMLなんて打ったりする人は一般人ではいないんだろうなあ。
内容としてはこんな感じで連載しようかと思う。
・感想と批評・レビューの違い
・感想を書くのは難しくない
・作品を全部読んでからでないと書けないのか
・文章作法・誤字脱字の指摘はするべきか
・主観と客観について
・定型文を考える
・感謝の気持ちは忘れない
・良いところを見つけようとする
・良かった点から書くか、悪かった点から書くか
・評価の8つの軸
・絶対評価と相対評価
・作者の受け取り方は千差万別、ならば読者も然り
・5W1Hは普通に使える
・印象に残った場面を絞る
・感想が書かれやすい作品とは
・感想や批評は人のためならず
逆に言えば、僕はこんな感じで感想などを書いているのだという、自己さらしでもある。ので、恥ずかしい面も多い。それに、そんなの当たり前だと思われるようなことが大半にも思う。
ただ、そうはいっても、自分の言葉で体系的に書いておくというのは悪いことではないと思うし、本記事冒頭のとおり、「今の自分の最大限を発揮せよ」「敵は外ではない内にある」ということである(冒頭に書いてないことも書いてしまった)。
だが、「くっそつまんねええ」と思っても、何らか書いておかないと、ゼロ、である。ゼロからは何も生まれない。だから、何かアクションはすべきだ。
……というのが、まぁ、このブログの、ゼロ秒思考、ゼロ秒アウトプット的なうんたらであるが、先日、カクヨム向けにまとめていたら、その文の多さに眩暈がした。よくまぁ、書いているものである。
あんまり多すぎるのも困りものかとも思った。
ただ……こればかりは、少ない文量では、「感情」がぜんっぜん伝わってこない、ってのはある。
言いたいことは「疲れた」って一言だけなんだろうなぁって記事もある。けれども、ツイッターで「今日は疲れた」ってだけ呟いても、面白くないわけである。それが、現象学のエポケーについて触れられたりしていると、「あれ?」と、少しきっかけになるのである。
だが、僕は一つ、また今回も同じことであるけれど、最近同じようなことばかりいっているけれど、「書く」ということ、「書く」ことができる時間ってのが、ほんとに大切で、大事だなぁと思うのである。
ああ、それで、ふと思ったのは、僕は、中学校ぐらいに、「人は楽しむために生きている」と思った。
最近でも、その「楽しむ」という内実に変化はあれ、その方向性はあっているのかな、と思ったりもした。
ただ、それは、「快楽を得るために人は存在する」というのとは、違うのではないかと。
快楽はあくまでも結果であって、何かを為すということが目指されてこそ発生する付加価値的なものではないかと。
そうすると、人は何のために生きているのだろうか。
何か、目的のためではなかろうか。
僕らは、「神」から、「自分」という制約を与えられた。その制約の中で何を為すのか、何を目指すのか。「意志」が不在であっても構わない。それでも、人は、何からの役割を為している。物語の冒頭に無残に殺されるサラリーマンであっても、物語にとって重要な意味があるように……まぁ殺されるのはまっぴらである。ただ、その殺されるってのも、若きウェルテルのように、愛に殺されるというのは、社会現象にまでなることもあるのである。
我々は何者か。我々はどこからきたのか。我々はどこへ行くのか。
いやそんな、「我々」のことはもうどうでもいい。私や貴方や僕や彼や彼女が、どうするのか。何を目指すのか、何を為すのか。
モブキャラにはモブキャラの矜持をもって生きていかねばなるまい。
(かっこ書きである。なんか、後半、変になった。いやいつもか。ある、たまにこのブログに遊びに来てくれる友人が、「あんまリアルの人には知られない方がいいぞ」と言ってくれた。僕もまさにそう思う。やっぱり、僕は、変なんだろう。いや、それとも、物語を嗜む人はみんな変なのだろうか。ここで、「変ってなんぞ」議論はしても仕方がない気がする。人って、自分と異質なものを「変」って認識しがちだし。でも、なんかなぁ、こう、人と接しているときの、ふと生じる「生きづらさ感」ってのが、垣間見えることが昔からある。あー、そう、今思い出したが、最近だと、樹木希林さんがお亡くなりになった。で、その方の「不思議な」とか「変な」とか「偉大な」とか「すごい」エピソードがまぁ語られたり、記事になったりしたのを読んだりするのだけれど、そんなに「変」とか全然思わないのである。……というようなことを書くと、お前何傲慢チキかましてんだ表出ろコラ、と言われる怖い。けれども、ある程度クローズ的なこの偏狭な辺境なブログの、さらにテキトーなかっこ書きの中だ、許して頂きたい。そう、最近どうしてそんな「生きづらさ」的な奴をまた感じたのかなと思ったけれど、多分それだろう(他もありそうだが)。いやもちろん、すごいなぁとは思うのだけれど、そんな、他にはそんな大人があんまりいないのかもしれないということに、少し愕然するのである。僕の大人に対するイメージって、そんなもんだった。けど、そうじゃない人もたくさんいるってのが、まぁその、何十年も生きていると分かってくるのであって、まぁ逆にそのことが、「変」な僕にとっては、変な安心になったことは確かであるが。……何を書きたいのだろう、俺は、あまり、眠くないが、そろそろキリがないし終わるか。まぁその、変とか、普通とか書いたけれども、何の気なしに、先日の自分のブログを読み返していたら、やっぱり似たようなことは書いてあった。「そもそも普通の人はブログを書かない」「さらに創作しようという奴は輪をかけて変態」(過去改変。そこまでは書いていなかった)と、脈絡なくいつも通り終わる)
いろいろと、書きたいことはあったのだけれども、気づいたらあっという間に過ぎる。
もう10月に入るのだ。
今年も、もう3か月で終わる。いつも、例年を考えると、来年の目標を考えないとなぁと焦り始めて、結局年内に決まらずに、翌年の三月ぐらいまでに方向付けする感じである。
そもそも、今年の目標って何だったのか。
2017年の目標は覚えている。「整理」であった。2018年は、創作にもっと力を入れようと思っていたのだけれども、実生活に大きく変化があって(それはもちろん自分の選択であるのだけれど)、まったく想像と異なることになった。
それは、悪い意味では、まったくなかったと思う。これまで経験したことがなかったこと経験できたし、感情的な面でも、安定的でいられたと思う。
もちろん、それは良いことなのだけれども、僕は、これからも、やっぱり、この時間は大切にしたいと思う。
それは、「書く」ということだ。
先日の目標:カクヨム更新
振り返る。一つは、カクヨムに連載中の作品の更新である。といっても、このブログのリテイク? リメイク? リブート? 言葉はよく分からないが、編集作業であるといえる。あまり新たに書き足すことはない。が、逆に、とても大変であった。僕が、どれだけこのブログの場に甘えているのかが分かった。
コメントなどくださる方々には改めて感謝を思った。
誤字も、表現も非常に分かりづらい面が多々ある。
ただ、なんかその、勢いというか、リアルタイム性というか、熱量は読み返してみると、ブログの方は感じた。編集してしまうと、その泥臭さというか臭気というか気持ちの強さとかそのあたりがなくなってしまう気がしたけれども、あっちの方は分かりやすさを追求しようと思う。といっても、元がこんなんだから、脈絡のなさを如何ともしがたい面はある。
とはいえ、なんとか、複数記事の関連ポイントを探したりと、できる限りはしたつもりである。この、「やったつもり」という、言い訳がましい表現が嫌いである。はっきり言おう。時間ないなか、自分の最大限のパフォーマンスを発揮した、と。
こう言い切ることが、僕は昔からできなかった。それが許されなかった環境だった気もする。
「頑張ること」「努力すること」というのは、子どもたちには、無限の可能性(かっこわらい)を開く大切なツールなのだから。
でもそれって、精神衛生上よくないことだと今は思う。
ただ、「自分」って境界線をよく分からない人が、勝手に線引きして、「俺はこんなもんだ」と思うのとは全く違うってのは書いておかなければならない。
そうじゃなくて、「環境」「時間」「意志」など、全要素を含めて、これが今の限界だという感覚になるまで、力を発揮することが大事であるということだ。
先日の目標:サイト更新
サイトの不具合更新は行った。自分でも使ってみて、しばらくたったけれども上手く機能していると思う。これは完了。サイトURL更新は、一応形上はやった。ただ、これだけでは完成ではない。
リンク周りして、その報告をしたり、検索サーチの更新したりと、やることは多い。
これは、リンク整理と並行して実施したいと思う。リンク切れのサイトさんや、何か交流がなくなってしまった(更新がもうされなそうな)サイトさんとかは、これを機に外さしてもらおうかと思う。
リンク集ってもう時代じゃないのかもしれない。
でも、僕は何か、サイト開設した当時の、お互いのホームページがあって、それぞれのリンクページに紹介など書きあって更新していった、あの時の感覚がなんか忘れられない。
今は、個人の小説サイトとかあんまし流行ってないだろう。昔から投稿サイトはあったけど、今よりもっと個人のサイトも活発だったのだ。
第一、「ホームページ」って言葉がもう使われないのが象徴していると思う。みんなWEBサイトっていうでしょ。
今はもう、ベタ打ちでHTMLなんて打ったりする人は一般人ではいないんだろうなあ。
今後の思い
それで、まぁ、ツイッターにでも呟くレベルなのかもしれないが、ここにメモしておこうと思う。・サイトの読んだよボタンが自分自身もカウントされてしまう件
これは、自分で投稿した作品と、ボタンを押した人が同じ人だと特定して、その場合はカウントから除外するという機能で実装しようと思う。どういった情報で特定可能かを調べるところから着手する(調べるって大仰だが、自分で作ったPGやDBでも少し経つと他人である)。・感想別の作品ソート
要するに、感想のついた順に作品を検索できる機能。その際に、感想希望のレベルも選択できるようにしたい。ふつーの作品検索の部分で、感想がゼロ件の作品を検索……とかはあるけれど、ちょっと使いづらいし見た目も分かりづらいため、これを機に改良したい。・感想や批評の書き方についての随筆(エッセイ)
前から頭の中では思っていたのだけれども、これを機にアウトプット。内容としてはこんな感じで連載しようかと思う。
・感想と批評・レビューの違い
・感想を書くのは難しくない
・作品を全部読んでからでないと書けないのか
・文章作法・誤字脱字の指摘はするべきか
・主観と客観について
・定型文を考える
・感謝の気持ちは忘れない
・良いところを見つけようとする
・良かった点から書くか、悪かった点から書くか
・評価の8つの軸
・絶対評価と相対評価
・作者の受け取り方は千差万別、ならば読者も然り
・5W1Hは普通に使える
・印象に残った場面を絞る
・感想が書かれやすい作品とは
・感想や批評は人のためならず
逆に言えば、僕はこんな感じで感想などを書いているのだという、自己さらしでもある。ので、恥ずかしい面も多い。それに、そんなの当たり前だと思われるようなことが大半にも思う。
ただ、そうはいっても、自分の言葉で体系的に書いておくというのは悪いことではないと思うし、本記事冒頭のとおり、「今の自分の最大限を発揮せよ」「敵は外ではない内にある」ということである(冒頭に書いてないことも書いてしまった)。
・自作品の進捗
これが、先月中旬くらいのなかで、一番進捗がよくないだろう。だが、「くっそつまんねええ」と思っても、何らか書いておかないと、ゼロ、である。ゼロからは何も生まれない。だから、何かアクションはすべきだ。
……というのが、まぁ、このブログの、ゼロ秒思考、ゼロ秒アウトプット的なうんたらであるが、先日、カクヨム向けにまとめていたら、その文の多さに眩暈がした。よくまぁ、書いているものである。
あんまり多すぎるのも困りものかとも思った。
ただ……こればかりは、少ない文量では、「感情」がぜんっぜん伝わってこない、ってのはある。
言いたいことは「疲れた」って一言だけなんだろうなぁって記事もある。けれども、ツイッターで「今日は疲れた」ってだけ呟いても、面白くないわけである。それが、現象学のエポケーについて触れられたりしていると、「あれ?」と、少しきっかけになるのである。
人は目的的に生きている
変な時間に書いているので、変なことが頭に浮かぶのは仕方がなかろう。だが、僕は一つ、また今回も同じことであるけれど、最近同じようなことばかりいっているけれど、「書く」ということ、「書く」ことができる時間ってのが、ほんとに大切で、大事だなぁと思うのである。
ああ、それで、ふと思ったのは、僕は、中学校ぐらいに、「人は楽しむために生きている」と思った。
最近でも、その「楽しむ」という内実に変化はあれ、その方向性はあっているのかな、と思ったりもした。
ただ、それは、「快楽を得るために人は存在する」というのとは、違うのではないかと。
快楽はあくまでも結果であって、何かを為すということが目指されてこそ発生する付加価値的なものではないかと。
そうすると、人は何のために生きているのだろうか。
何か、目的のためではなかろうか。
僕らは、「神」から、「自分」という制約を与えられた。その制約の中で何を為すのか、何を目指すのか。「意志」が不在であっても構わない。それでも、人は、何からの役割を為している。物語の冒頭に無残に殺されるサラリーマンであっても、物語にとって重要な意味があるように……まぁ殺されるのはまっぴらである。ただ、その殺されるってのも、若きウェルテルのように、愛に殺されるというのは、社会現象にまでなることもあるのである。
我々は何者か。我々はどこからきたのか。我々はどこへ行くのか。
いやそんな、「我々」のことはもうどうでもいい。私や貴方や僕や彼や彼女が、どうするのか。何を目指すのか、何を為すのか。
モブキャラにはモブキャラの矜持をもって生きていかねばなるまい。
(かっこ書きである。なんか、後半、変になった。いやいつもか。ある、たまにこのブログに遊びに来てくれる友人が、「あんまリアルの人には知られない方がいいぞ」と言ってくれた。僕もまさにそう思う。やっぱり、僕は、変なんだろう。いや、それとも、物語を嗜む人はみんな変なのだろうか。ここで、「変ってなんぞ」議論はしても仕方がない気がする。人って、自分と異質なものを「変」って認識しがちだし。でも、なんかなぁ、こう、人と接しているときの、ふと生じる「生きづらさ感」ってのが、垣間見えることが昔からある。あー、そう、今思い出したが、最近だと、樹木希林さんがお亡くなりになった。で、その方の「不思議な」とか「変な」とか「偉大な」とか「すごい」エピソードがまぁ語られたり、記事になったりしたのを読んだりするのだけれど、そんなに「変」とか全然思わないのである。……というようなことを書くと、お前何傲慢チキかましてんだ表出ろコラ、と言われる怖い。けれども、ある程度クローズ的なこの偏狭な辺境なブログの、さらにテキトーなかっこ書きの中だ、許して頂きたい。そう、最近どうしてそんな「生きづらさ」的な奴をまた感じたのかなと思ったけれど、多分それだろう(他もありそうだが)。いやもちろん、すごいなぁとは思うのだけれど、そんな、他にはそんな大人があんまりいないのかもしれないということに、少し愕然するのである。僕の大人に対するイメージって、そんなもんだった。けど、そうじゃない人もたくさんいるってのが、まぁその、何十年も生きていると分かってくるのであって、まぁ逆にそのことが、「変」な僕にとっては、変な安心になったことは確かであるが。……何を書きたいのだろう、俺は、あまり、眠くないが、そろそろキリがないし終わるか。まぁその、変とか、普通とか書いたけれども、何の気なしに、先日の自分のブログを読み返していたら、やっぱり似たようなことは書いてあった。「そもそも普通の人はブログを書かない」「さらに創作しようという奴は輪をかけて変態」(過去改変。そこまでは書いていなかった)と、脈絡なくいつも通り終わる)
今日の一言「そういや冒頭で『今日の一言』っていうのをやってたな」「結局内容と一致しないんですよね」
自分、ミクシィはむかーしかなり使っていたけれども、同時期に登録したツイッターは、あんまし活用しなかった。
よく分からなかった、というのが正直なところである。だって、あれ、140字なんでしょ。でも、それ以上も打てるとか打てないとか。どっちやねん。――調べた。やっぱり140字らしい。英数字だと280字になるとかならないとか。
あと、なんか、商業的な奴がツイート欄にのってきて、読みづらい、ってのも思った。
あと、なんか、これは……正直書くと微妙なんだろうけれど、「断片的な情報だけで、内容が140字で完結しないツイートが多い」というのが気になる。
あと、なんか、連続投稿的なの。あと、「朝起きた、おはよー」的なの。
著名人とかも呟いたりしてて、面白いメディアだとは思う。のだけれども、情報の選別ってのが上手く、僕は使いこなせなくて、あんまり使えていない。
「心理テストやってみました」
的なつぶやきがタイムラインいっぱいになっていたら、なんか、ねぇ……。
とはいえ、よいきっかけでもあるので、もう少し活用する方法を前向きに考えて行動したいと思ったのであった。
と思ったのが、本記事の冒頭の内容の所以である。
しかし、今の時点、ツイッターを活用できている自分が想像できない。
なんか、「わかる人にはわかる」的なのが嫌なのである。
このブログが、いっつも長くなるのは、初めてこの記事を読んだ人でも、僕の言いたいことが分かるかどうかは別として、「何について」書いているかは分かるように書いているつもりである。そういう意味で、中学生が読んでも分かると思う。
ツイッターは、経緯を、前置きをダラダラ書くことは許されない。許されるとしたら、長文になるし、連続投稿になると思う。連続投稿になると、他のつぶやきなども流れてくるから、きっとカオスになって読みづらいと思う。
それは何となく嫌である。
第一、ブログで、明確に伝えたいこと、なんてのは、正直ないのだ!(開き直り)
むしろ、いつも書いているのはプロセスである。結論が書かれていることなんてマレである。(というのか、あるのだろうか)
コミュニケーションとしては大失敗である。文章の書き方講座的にも大失敗である。
だからこそ、前回記事などで、リアルの人に話してもしょーがねーっとか書いているのである。別にそもそも、相談したいってわけでもないのである。え、そうなのかな? コメントもらえるのは嬉しいよね。それは、ある程度全部書ききってからのものに対してだからだ。対面的コミュニケーションは、会話のキャッチボールである。いったりきたりが重要だ。えんえん、話してられないのだ。だから違うのだ。
なんの話だっけ。
創作用に、運営サイトと直結する何かブログを書いてはどうか、ということである。
そういう意味では、別にサイトのお知らせ機能で、情報を流すことも可能である。
先ほど挙げたツイッターも活用する方法がある。
あと、noteってサイトもあるらしい。面白そうである。(ただ、自分の非力なスマホで表示しようとすると、非常に重い。アメブロも重くて好きではない。スマホ変えろって話かもしれない。ただ、PCで表示しても、やや重い気がする)
作業として面倒ではあるが、創作系の記事をこのブログから移行するとか……なんの意味があるのか。
やはり、考えるにあたって目的は大前提である。
前回記事引用。
ツイッターについて
先日、ある方がプロモートにおいてツイッターを活用する、と仰られていた。自分、ミクシィはむかーしかなり使っていたけれども、同時期に登録したツイッターは、あんまし活用しなかった。
よく分からなかった、というのが正直なところである。だって、あれ、140字なんでしょ。でも、それ以上も打てるとか打てないとか。どっちやねん。――調べた。やっぱり140字らしい。英数字だと280字になるとかならないとか。
あと、なんか、商業的な奴がツイート欄にのってきて、読みづらい、ってのも思った。
あと、なんか、これは……正直書くと微妙なんだろうけれど、「断片的な情報だけで、内容が140字で完結しないツイートが多い」というのが気になる。
あと、なんか、連続投稿的なの。あと、「朝起きた、おはよー」的なの。
著名人とかも呟いたりしてて、面白いメディアだとは思う。のだけれども、情報の選別ってのが上手く、僕は使いこなせなくて、あんまり使えていない。
「心理テストやってみました」
的なつぶやきがタイムラインいっぱいになっていたら、なんか、ねぇ……。
とはいえ、よいきっかけでもあるので、もう少し活用する方法を前向きに考えて行動したいと思ったのであった。
ブログ開設について
逆に、ブログを開設するんじゃなくて、ツイッターでなんかやればいいんじゃない?と思ったのが、本記事の冒頭の内容の所以である。
しかし、今の時点、ツイッターを活用できている自分が想像できない。
なんか、「わかる人にはわかる」的なのが嫌なのである。
このブログが、いっつも長くなるのは、初めてこの記事を読んだ人でも、僕の言いたいことが分かるかどうかは別として、「何について」書いているかは分かるように書いているつもりである。そういう意味で、中学生が読んでも分かると思う。
ツイッターは、経緯を、前置きをダラダラ書くことは許されない。許されるとしたら、長文になるし、連続投稿になると思う。連続投稿になると、他のつぶやきなども流れてくるから、きっとカオスになって読みづらいと思う。
それは何となく嫌である。
第一、ブログで、明確に伝えたいこと、なんてのは、正直ないのだ!(開き直り)
むしろ、いつも書いているのはプロセスである。結論が書かれていることなんてマレである。(というのか、あるのだろうか)
コミュニケーションとしては大失敗である。文章の書き方講座的にも大失敗である。
だからこそ、前回記事などで、リアルの人に話してもしょーがねーっとか書いているのである。別にそもそも、相談したいってわけでもないのである。え、そうなのかな? コメントもらえるのは嬉しいよね。それは、ある程度全部書ききってからのものに対してだからだ。対面的コミュニケーションは、会話のキャッチボールである。いったりきたりが重要だ。えんえん、話してられないのだ。だから違うのだ。
なんの話だっけ。
ブログ開設について2
ああ、そうだ、ブログ開設についてだ。創作用に、運営サイトと直結する何かブログを書いてはどうか、ということである。
そういう意味では、別にサイトのお知らせ機能で、情報を流すことも可能である。
先ほど挙げたツイッターも活用する方法がある。
あと、noteってサイトもあるらしい。面白そうである。(ただ、自分の非力なスマホで表示しようとすると、非常に重い。アメブロも重くて好きではない。スマホ変えろって話かもしれない。ただ、PCで表示しても、やや重い気がする)
作業として面倒ではあるが、創作系の記事をこのブログから移行するとか……なんの意味があるのか。
やはり、考えるにあたって目的は大前提である。
前回記事引用。
目的は、上に書いたように、サイト利用者に管理人の状況、運営状況などをお知らせするものである。それをしたからの効果は何かあるのか?・利用者が、一応運営されていることは知ることができる・僕が、ああ何かそろそろ更新しなきゃと思う
やっぱり、利用者さんへの告知が目的なのである。とすれば、ツイッター案はアリ、となる。
うーん。
問題は、「継続性」である。続けられることでなければ意味がない、というのが持論である。
ツイッターが悪いものではないのだろうけれど、僕があまり使いこなせたことがないので、できるか不安である。そんなかしこまらなくても、テキトーに呟けばいいのかもしれない。しかし、僕の呟きはこのブログのようにきっと長い。ツイッター文化と相いれない気がする。
んじゃー考え方を変えて、ブログ記事を逆に分割してツイッターに流せばいいんじゃね?
というのもある。あるけれど、ちょっと待ってほしい。ブログは、リアルタイム性があるからかけているのである。ゼロ秒思考のアウトプットだ。別に深く考えて書いているわけじゃない(いや考えろよ! という突込みはもっともである)。
だが、ブログの内容を切り取ってツイッターに(140字に)流すとなると、それは「編集」という作業になる。編集はとても大事な作業であるが、大変である。ゆえに、続けられるとはあまり思えない。
戻って思ったのは、カクヨムに投稿中の作品についてである。あれも、他サイトに投稿したからには完結させなければならない。
誰からにも強制されることではないが、しなければならない。内なる道徳律的なアレである。
ということで、読んでみた。
おーん、まぁ、面白いんじゃないか。
一応、人に読ませる体裁にはなっていると思うし、今読んでみても、当時の感覚から乖離していることを書いているようには思えない。
まぁ元は、このブログの記事を推敲・編集したものである。一からの書下ろしってわけではない。
ただそれがゆえに、表現したいポイントってのはまとまっていると思う。
もちろんそれは、結論が出ているというわけではなくて、前置き、導入、内容、結論または方向性、といった流れができているであろうということである。
ここまで体裁が整っていれば、自分の中では及第点である。これで面白いか面白くないか、必要と感じるか無価値と感じるかは、あとはその人次第である、とまで傲慢に言い切っていいと思う。
まぁ、推敲と編集だけ、と書いたが、それはそれで大変ではあったはずなのだが……。
とにかく、年内中にそっちの更新も行いたいと思う。
どうするか。
正直、時間をある程度取れているからいろいろ考えられるのであるが、またこれからも同様にまとまった時間が取れるのかは疑問である。
と、いうか、問題がそもそもそこじゃないんじゃないかと思う。
肝心の作品作りに、全然着手できてないじゃないか。
無駄なプロセスだな、と思う、……が。
これはモチベーションコントロールである。
ご飯食べたり、家事をしたり、眠ったりというのは、しなきゃならない。
しなきゃならないことはしなきゃならない、トートロジー。
今からやろうとしていることは、「絶対にしなくてもいいこと」である。
だから、モチベーション、動機付けが最重要なのだ。
もちろん、僕は、ここで、「そもそも生きること」というのも、長らく、最重要課題には思えなかった。いやむしろ、先日のアンケートのニュースであったように、実は多くの人は、何ら大きな目的や生きがいも持たずに生きているのではなかろうか。
別にそれでいい人はいい。
俺は違う、……のだ。ただ生きることそれだけを賛美することはできないのだ。
いやまてまてまて。この表現は良くない。ルーチンの、日々の生活を平穏に送っている人たちに対してのディスりなのではなかろうか。そんなつもりはない、と、すぐさま書いておかねばなるまい。
単に俺が異常である、ということでいい。若者なだけなのか。血気盛んなのか、モラトリアムなのか、裕福で幸せボケなのか、平和ボケなのか。
しかし、僕は単に、……時間は、有限であると、人生は終わりが来ると、死んだら何もできなくなるのだと、それを感じているだけなのだ。
生きることそのもの、生き残ることそれだけを目的ないし意味であると、思えないし、思いたくないということなのだ。
――えっとー、これ、創作についての方針に関する記事だよね。どうなってるん?
やっぱり、ブログ分ける案はダメだ。
分けられないわ。
僕は創作で特にお金を得ているわけではない。だから、趣味である。釣りとか、ドライブとか、ゴルフとか、服飾とか、旅行とか、様々ある趣味の中の一つである。道楽である、娯楽である。
しかし、ドライブとか、その他の趣味と違って、創作に関しては、……なんというか、より、自分自身に近い趣味である。表現が浮かばなかった。根源的な趣味である? 仰々しいな。
よく分からない。
とにかく、生きる意味に近いものである、ということだ。
だからこの、「生きる意味を徹底して考える」ブログとは、切り離すことはできない。ゆえに、新しいブログ開設は、何回かの記事に分けて書いてきたけれども、結局やめ、とする。
かといって、連結させる案は、なんかいろいろ嫌なので、それも特に行わない。
サイト運営については、普通に、お知らせ欄とか活用しようと思う。あとは、ツイッターのタイムラインを挿入するとかも、そんなに難しくなくできそうだ。が、どうにも、そういうサイトもあまり好きじゃないんだよな(重いから、というのと、記事の連続性と意味性において)。
要約すれば、
・サイトのURL変更をする
・サイトの不具合修正をする
・カクヨム投稿中作品を更新する
というものだ。
あれ、小説作品の更新はどうしたのだ?!
それも継続して行う。それについては、細切れに断片を紡ぐ以外に、今のところは方法はなさそうだ。時間を投入して達成・完成させられそうなのは、上の挙げた内容であるとの結論である。
小説の方は、プロットというか、ストーリーの骨格作りを進めねばなるまい。
あーしかしそういえば、プロットまでできている作品はあったんだった。ちょっと、自分が今手掛けている作品についても、これを期に整理しておくか。
第二部は、堕骸を打倒するための力を得るため、根源の森の調査と、協力を仰ぎにいく。
第三部では、堕骸の生じる原因と、黒幕が明らかになる。
第四部では、総括となる……ようなことを図式化して考えていたが、見せ所、テーマ、目的がいまいち定まっていない。人間ドラマなのか世界観なのか、異能バトルなのか政治駆け引きなのか何なのか。……ある程度、エピソードとか世界観を書き進めながらストーリー構築を地道に進めていくしかなさそうである。一つ含めたい要素としては、シムシティ的なのを入れたいと思っている。
というか、この話、テーマとしては好きで、面白いんだけど、読み返すとちょっとインパクトに欠けている。エピソード的なインパクトというよりも、「質感」が薄いのである。ペラペラなのだ。イメージがすんなり入ってこない。説明的なのである。もっと描写しろよと言いたい。
この、アンドロイド系の小説って「惜しい」って思うことがあって、その「アンドロイド性」が上手く引き出せていないことが多いのである。というのは、「人間と同じ」ように描いてしまうことである。その、アニメとか、……最近みたやつだと、ええと、プラネタリアンだったか。アニメ面白かったんだけど、あれ、そのまま小説にするってか、「セリフ」だけを抽出すると上手くいかないと思っていて、要するに映像だと「アンドロイド的」であるのが一目でわかるからいいのだ。一方、小説になると文字だけなので、その「アンドロイド性」が上手く描写するのが難しいのだ。だからその点を気を付けようと、できること・できないこと、得意なこと苦手なことを描こうとしたのだけれども、それがどうにも説明的過ぎて、あんまりおもしろくないのである。惜しいというかもったいない。
とはいえ、それはまぁ次のステップであって、とにかくストーリーとして完結させないといかんのであるが……。
こうやって整理というかピックアップしてみると、ああ、なんか全部中途半端だなぁっていうのがよく分かる。だから、紙に書いて目標はっておくとかほんと大事。
その、「自分で面白いと思えるか」という尺度が入ると、これ非常に大変である。学校の課題とかなら、もう締め切りがあるからこれでいいやってなるけど、「面白くしたい」って思いがあると、「そもそもあんまり面白くないからやめたい」ってなったりする。――甘えじゃねえか!!
面白いってのは至極大事だが、それを免罪符に使っていいもんじゃないでしょうや!!
と、自分を叱咤しつつこの記事は終わる。
(かっこ書きである。――「我々はどこから来たのか、我々は何なのか、我々はどこへ行くのか」――こうした反省的で抽象的な意識が人々の間に広まるような社会は、人々が現実の死や破滅と毎日のように直面していた社会ではありえないのだろう。――『グノーシス 古代キリスト教の異端思想』P.44 ふと、書棚の本を手に取って、ペラペラとめくっていた。上の言葉は、ゴーギャンの有名な絵画のタイトルだけれども、こうした問いは、古代ローマ、1世紀にも遡ることができるのだという。東京で暮らしていると(東京でなくてもだが)、朝の通勤などで本当にたくさんの人がいることに眩暈を覚えることがある。僕が、涼宮ハルヒの憂鬱を最後まで見ようと思ったのは、主人公ハルヒの、幼少期に野球場に行って「こんなに大勢の人がいるなんて」と思った体験が描かれたシーンであった。そうした経験から、彼女は、世界を、自分の人生を面白いものにしようと奇天烈な行動をしていくのであった。と、いったことを思うほどに、いやほんと、毎日、人の波で渋滞ができるのである。自分の速度で進むことも、立ち止まることも許されずただ流されていく。そして、一日はあっという間に終わる。……だが、文章を書いている間は一瞬ではない。波に乗って書いているとあっという間に時間が過ぎることはあるが、ただ、思考はある。自分で考えている感覚がある。自分で歩いている感覚がある。文章は、思考のとっかかり、結節点のようなものである。さらには付加効果として、読み返したり、過去の記事を読めたり、音読できたりもする。素晴らしい。この記事、他の作業したり、ご飯食べたり、シュタインズゲート1期をもう一度見たりしつつ、5時間ぐらいかかっているが、不思議と時間を無駄にしたなぁとか後悔感がない。内容の無さはともかく、時間使えてよかったなぁとすら思う。やっぱり、これと実生活とのバランスを取ることも重要に思う。期間限定的に書ける時間を確保できるのではなく、もう少し定常的に、恒常的に……だな。しかしながら、空間的に……難しいのである。空間的に。時間的にも。どうしたもんか……、ああ、しかしこれは、先日の記事で「とりま、保留ね」としたことだった。先日、書いておいてよかった。だから、このかっこ書きもこのまま終わることが、できる。――しかしだ、この、書き終わろうとするときにいつも感じる、「この記事面白くなさそうだなぁ……」という感覚はどうにかならないのか)
うーん。
問題は、「継続性」である。続けられることでなければ意味がない、というのが持論である。
ツイッターが悪いものではないのだろうけれど、僕があまり使いこなせたことがないので、できるか不安である。そんなかしこまらなくても、テキトーに呟けばいいのかもしれない。しかし、僕の呟きはこのブログのようにきっと長い。ツイッター文化と相いれない気がする。
んじゃー考え方を変えて、ブログ記事を逆に分割してツイッターに流せばいいんじゃね?
というのもある。あるけれど、ちょっと待ってほしい。ブログは、リアルタイム性があるからかけているのである。ゼロ秒思考のアウトプットだ。別に深く考えて書いているわけじゃない(いや考えろよ! という突込みはもっともである)。
だが、ブログの内容を切り取ってツイッターに(140字に)流すとなると、それは「編集」という作業になる。編集はとても大事な作業であるが、大変である。ゆえに、続けられるとはあまり思えない。
カクヨムに投稿中の作品について
別件で作業が中断し、席を外していた。戻って思ったのは、カクヨムに投稿中の作品についてである。あれも、他サイトに投稿したからには完結させなければならない。
誰からにも強制されることではないが、しなければならない。内なる道徳律的なアレである。
ということで、読んでみた。
おーん、まぁ、面白いんじゃないか。
一応、人に読ませる体裁にはなっていると思うし、今読んでみても、当時の感覚から乖離していることを書いているようには思えない。
まぁ元は、このブログの記事を推敲・編集したものである。一からの書下ろしってわけではない。
ただそれがゆえに、表現したいポイントってのはまとまっていると思う。
もちろんそれは、結論が出ているというわけではなくて、前置き、導入、内容、結論または方向性、といった流れができているであろうということである。
ここまで体裁が整っていれば、自分の中では及第点である。これで面白いか面白くないか、必要と感じるか無価値と感じるかは、あとはその人次第である、とまで傲慢に言い切っていいと思う。
まぁ、推敲と編集だけ、と書いたが、それはそれで大変ではあったはずなのだが……。
とにかく、年内中にそっちの更新も行いたいと思う。
ブログの開設はどうするんだ
閑話休題。どうするか。
正直、時間をある程度取れているからいろいろ考えられるのであるが、またこれからも同様にまとまった時間が取れるのかは疑問である。
と、いうか、問題がそもそもそこじゃないんじゃないかと思う。
肝心の作品作りに、全然着手できてないじゃないか。
無駄なプロセスだな、と思う、……が。
これはモチベーションコントロールである。
ご飯食べたり、家事をしたり、眠ったりというのは、しなきゃならない。
しなきゃならないことはしなきゃならない、トートロジー。
今からやろうとしていることは、「絶対にしなくてもいいこと」である。
だから、モチベーション、動機付けが最重要なのだ。
もちろん、僕は、ここで、「そもそも生きること」というのも、長らく、最重要課題には思えなかった。いやむしろ、先日のアンケートのニュースであったように、実は多くの人は、何ら大きな目的や生きがいも持たずに生きているのではなかろうか。
別にそれでいい人はいい。
俺は違う、……のだ。ただ生きることそれだけを賛美することはできないのだ。
いやまてまてまて。この表現は良くない。ルーチンの、日々の生活を平穏に送っている人たちに対してのディスりなのではなかろうか。そんなつもりはない、と、すぐさま書いておかねばなるまい。
単に俺が異常である、ということでいい。若者なだけなのか。血気盛んなのか、モラトリアムなのか、裕福で幸せボケなのか、平和ボケなのか。
しかし、僕は単に、……時間は、有限であると、人生は終わりが来ると、死んだら何もできなくなるのだと、それを感じているだけなのだ。
生きることそのもの、生き残ることそれだけを目的ないし意味であると、思えないし、思いたくないということなのだ。
――えっとー、これ、創作についての方針に関する記事だよね。どうなってるん?
創作と生きる意味は切り離せない
なんというか、思った。やっぱり、ブログ分ける案はダメだ。
分けられないわ。
僕は創作で特にお金を得ているわけではない。だから、趣味である。釣りとか、ドライブとか、ゴルフとか、服飾とか、旅行とか、様々ある趣味の中の一つである。道楽である、娯楽である。
しかし、ドライブとか、その他の趣味と違って、創作に関しては、……なんというか、より、自分自身に近い趣味である。表現が浮かばなかった。根源的な趣味である? 仰々しいな。
よく分からない。
とにかく、生きる意味に近いものである、ということだ。
だからこの、「生きる意味を徹底して考える」ブログとは、切り離すことはできない。ゆえに、新しいブログ開設は、何回かの記事に分けて書いてきたけれども、結局やめ、とする。
かといって、連結させる案は、なんかいろいろ嫌なので、それも特に行わない。
サイト運営については、普通に、お知らせ欄とか活用しようと思う。あとは、ツイッターのタイムラインを挿入するとかも、そんなに難しくなくできそうだ。が、どうにも、そういうサイトもあまり好きじゃないんだよな(重いから、というのと、記事の連続性と意味性において)。
方針
長々と書いてきた。要約すれば、
・サイトのURL変更をする
・サイトの不具合修正をする
・カクヨム投稿中作品を更新する
というものだ。
あれ、小説作品の更新はどうしたのだ?!
それも継続して行う。それについては、細切れに断片を紡ぐ以外に、今のところは方法はなさそうだ。時間を投入して達成・完成させられそうなのは、上の挙げた内容であるとの結論である。
小説の方は、プロットというか、ストーリーの骨格作りを進めねばなるまい。
あーしかしそういえば、プロットまでできている作品はあったんだった。ちょっと、自分が今手掛けている作品についても、これを期に整理しておくか。
メインで手掛けたい作品
大きくは4部構成で考えている。一部では、繁栄した都市で国の中枢組織の一つに属していた主人公が、突然左遷になって、田舎村に飛ばされる。そこでの文化レベルの低さに衝撃を受けつつも、改革を遂行し村を繁栄させようとするが、村の保守勢力との対立などによって思うようには進まない。その間に、堕骸と呼ばれる幻霊が田舎村にも迫る。第二部は、堕骸を打倒するための力を得るため、根源の森の調査と、協力を仰ぎにいく。
第三部では、堕骸の生じる原因と、黒幕が明らかになる。
第四部では、総括となる……ようなことを図式化して考えていたが、見せ所、テーマ、目的がいまいち定まっていない。人間ドラマなのか世界観なのか、異能バトルなのか政治駆け引きなのか何なのか。……ある程度、エピソードとか世界観を書き進めながらストーリー構築を地道に進めていくしかなさそうである。一つ含めたい要素としては、シムシティ的なのを入れたいと思っている。
少女領主と官吏が国をよくする話
今途中まで連載している奴。確か1話目は、何か降臨して1日、数時間で書いた気がする。1話目は導入としては満足の出来である、が、既存投稿分以後の続きを書いていて、何か面白くなくなってしまった。勢いは大事だが、勢いだけだと行き詰るという悪いパターンの良い例である。これも、投稿したからには完結はさせたい。タイピングで世界を救う話
これは未投稿で書き進めていて、これのプロットはできあがっている。昔、タイピングオブザデッドというゲームがあって、それのオマージュというかインスパイア的なお話。やる気になれば、プロット(道筋)まではできているから、一応年内中とかに完成させられそうな気もする。電脳デバイス的な話
これも未投稿で書き進めている、が、例のごとく途中で面白くなくなった、飽きてしまった。プロットはできているが、プロットが面白いと思えなくなった。挿入エピソードも思いつかない。ので塩漬け状態。アンドロイドを買ってみた話
ブログで連載している話。荒いプロットはできているが、挿入エピソードが思いつかないため中断中。上の電脳デバイスの話はこちらに組み込み統合してもよいかなとも思ったりする。というか、この話、テーマとしては好きで、面白いんだけど、読み返すとちょっとインパクトに欠けている。エピソード的なインパクトというよりも、「質感」が薄いのである。ペラペラなのだ。イメージがすんなり入ってこない。説明的なのである。もっと描写しろよと言いたい。
この、アンドロイド系の小説って「惜しい」って思うことがあって、その「アンドロイド性」が上手く引き出せていないことが多いのである。というのは、「人間と同じ」ように描いてしまうことである。その、アニメとか、……最近みたやつだと、ええと、プラネタリアンだったか。アニメ面白かったんだけど、あれ、そのまま小説にするってか、「セリフ」だけを抽出すると上手くいかないと思っていて、要するに映像だと「アンドロイド的」であるのが一目でわかるからいいのだ。一方、小説になると文字だけなので、その「アンドロイド性」が上手く描写するのが難しいのだ。だからその点を気を付けようと、できること・できないこと、得意なこと苦手なことを描こうとしたのだけれども、それがどうにも説明的過ぎて、あんまりおもしろくないのである。惜しいというかもったいない。
とはいえ、それはまぁ次のステップであって、とにかくストーリーとして完結させないといかんのであるが……。
寿命でイベントを購入できる話
未投稿。プロットは10年前くらいかなぁ。何か月か前にパソコン整理していたら出てきた。主要エピソードもできあがっている状態のプロットであったので、これも頑張れば完結させられそう。ただ、僕の現状の感性がその作品のテーマをあまり求めていなくて、気乗りがしない。方針2
ああ、まぁ、そんなところか。こうやって整理というかピックアップしてみると、ああ、なんか全部中途半端だなぁっていうのがよく分かる。だから、紙に書いて目標はっておくとかほんと大事。
その、「自分で面白いと思えるか」という尺度が入ると、これ非常に大変である。学校の課題とかなら、もう締め切りがあるからこれでいいやってなるけど、「面白くしたい」って思いがあると、「そもそもあんまり面白くないからやめたい」ってなったりする。――甘えじゃねえか!!
面白いってのは至極大事だが、それを免罪符に使っていいもんじゃないでしょうや!!
と、自分を叱咤しつつこの記事は終わる。
(かっこ書きである。――「我々はどこから来たのか、我々は何なのか、我々はどこへ行くのか」――こうした反省的で抽象的な意識が人々の間に広まるような社会は、人々が現実の死や破滅と毎日のように直面していた社会ではありえないのだろう。――『グノーシス 古代キリスト教の異端思想』P.44 ふと、書棚の本を手に取って、ペラペラとめくっていた。上の言葉は、ゴーギャンの有名な絵画のタイトルだけれども、こうした問いは、古代ローマ、1世紀にも遡ることができるのだという。東京で暮らしていると(東京でなくてもだが)、朝の通勤などで本当にたくさんの人がいることに眩暈を覚えることがある。僕が、涼宮ハルヒの憂鬱を最後まで見ようと思ったのは、主人公ハルヒの、幼少期に野球場に行って「こんなに大勢の人がいるなんて」と思った体験が描かれたシーンであった。そうした経験から、彼女は、世界を、自分の人生を面白いものにしようと奇天烈な行動をしていくのであった。と、いったことを思うほどに、いやほんと、毎日、人の波で渋滞ができるのである。自分の速度で進むことも、立ち止まることも許されずただ流されていく。そして、一日はあっという間に終わる。……だが、文章を書いている間は一瞬ではない。波に乗って書いているとあっという間に時間が過ぎることはあるが、ただ、思考はある。自分で考えている感覚がある。自分で歩いている感覚がある。文章は、思考のとっかかり、結節点のようなものである。さらには付加効果として、読み返したり、過去の記事を読めたり、音読できたりもする。素晴らしい。この記事、他の作業したり、ご飯食べたり、シュタインズゲート1期をもう一度見たりしつつ、5時間ぐらいかかっているが、不思議と時間を無駄にしたなぁとか後悔感がない。内容の無さはともかく、時間使えてよかったなぁとすら思う。やっぱり、これと実生活とのバランスを取ることも重要に思う。期間限定的に書ける時間を確保できるのではなく、もう少し定常的に、恒常的に……だな。しかしながら、空間的に……難しいのである。空間的に。時間的にも。どうしたもんか……、ああ、しかしこれは、先日の記事で「とりま、保留ね」としたことだった。先日、書いておいてよかった。だから、このかっこ書きもこのまま終わることが、できる。――しかしだ、この、書き終わろうとするときにいつも感じる、「この記事面白くなさそうだなぁ……」という感覚はどうにかならないのか)
