熊代さん(シロクマ)さんの本を読んだ。
成熟困難時代をどう生きるか
興味深かった。
20代までは自我を確立して、それ以降は大人になる。大人とは何か。エリクソン氏によれば、それは「世話をする」人であるということだ。
そして、上の著者は、「世代や立場が異なる人と、その違いを踏まえて対応できる人」としている。
他には、自己評価を重視する人は若者で、後進を育てようとする人が大人だという。自分の評価をおいておいて、他者を成長させようとするのは、一見コスパが悪いようだけれども、大人はそれを目的的にできるのだという。
そういう意味で、僕はまだまだ未熟、若者なんだろうなぁと思う。
あと、著者はサブカルチャーにも造詣が深いところでも共感をもっているのだけれども、アニメでもゲームでもコスプレでも、ずっと最先端で趣味をおいかけていくのは、大人になると困難になってしまうということだ。
それは、肉体的な衰えであったり、その他になさねばならない責任による時間の制約であったりする。若者は、最先端のコンテンツに触れて、友人とも遊んだり、恋人をつくったり、仕事にも打ち込んだりと、熱気にあふれている。しかし、大人は、「本当に自分に必要なもの」にのみ注力し、そのすべてを扱うことはできなくなる。
10代向けのライトノベルの主人公は、学生服を着た10代が多いだろう。そのほうが共感性がある。
そういった作品を、20代、30代、40代が同じように読んでいくには、それなりの気構えが必要になる。
まぁ、その、生きる意味を考える的な方向性はとりあえずおいておいて、メモしておきたいのは、そうした「おっさん・おばさん」向けのライトなノベルってのは難しいのだろうか、ということだ。
例えば、いぬやしき、は、定年間近のおっさん、が主人公だが、僕は、それだけではおっさん向けの作品とはいえないと思う。いや確かに、おっさんの、みじめな姿や心情描写はされているのだが、いぬやしきはやっぱりバトルなのである。若者とおっさんの戦いであったとしても、それは、「超常的な力」をもった者同士の、どっちが強いかヒーロスティックな構造が軸なのだ。それはもちろん、若者的、に面白いのだけれども、僕がここで考えたい、おっさん向け、というのはちょっと違う。
なんかの週刊誌、モーニングか、アフタヌーンか忘れたけれど、それこそ60代のおじいちゃん、おばあちゃんの恋愛もの、定年を迎えた後の第二の人生的な作品を少し読んだことがあった。
それは確かに、主人公は歳を取っているが、結局、恋愛的な内容を扱うとすれば、それは、若者への憧れを捨てきれていないのではないか。
正解するカドの主人公たちは、まぁ若者といえる年代だけれども、おっさん・おばさんといってもいいだろう。序盤の、交渉を軸とした内容も「大人」って感じがした。あんな感じがいいと思う。なんか、面白いし、新しいと思う。が、後半はやっぱりバトルになった。少し残念であった。
バトルが悪いわけじゃない。ただ、「だれが一番強いか!」というテーマだけだと、僕はもう楽しめないような気がする。
難しい問題をはらんでいる。
なぜならば、「大人」ってのは、たいていかっこ悪いのである。ホリエモン氏や、経営者や、アーティストたちは、自由で、かっこいい大人かもしれない。しかしそれらは一握りであり、また、アーティストたちはどちらかといえば、上の本の著者も書いていたが、「若者」のコンテンツを創り出すことに力をいれなければいけなかったりする。
大人ってのは、自分自身という殻を破って、周囲の人間のために時間や能力を使う、世話をする人たちなのである。
そういう人たちは、すでに「個」をもっていないのではないか。いや、それは、アイデンティティが拡散しているということではない。むしろ、確固たる、自分とはこういうものだ、という認識を、そして実感をもっているのが大人である。
しかし、それがゆえに、特徴的な「個」、いわゆる「主人公」にするには要素が足りなすぎるのである。
物語における主人公は、二つの立場がある。
一つは、特殊な力や思考をもっていて、その人自身の魅力でひきつけるタイプ。
もう一つは、平々凡々ではあるが、周囲の特異な事件やできごとにまきこまれていくタイプ。
大人を主人公にするには、後者のパターンしかありえなくなるのではないか。それでも、物語としては構成できなくもなさそうだ。しかし、後者の平々凡々ナ主人公にみえても、多くの作品では、意外に賢かったり、強かったり、だんだん成長したりして、全然平凡じゃなかったりもするが。
時間切れ。
とにかく、今回メモしたかったのは、「大人」とはなんぞや、という思考と、僕はどんな物語をかきたいのだろうか、ということであった。
面白い物語をかきたいのだ、しかし、面白いって、なんだろうか。チート無双系も、はまる条件があればきっと楽しめると思うけれども、自分で書きたいとはきっと思ってない気がする。と、いうよりも、メモしたかったのは、そうだ、思い出した、そもそも、「創作をしたい」とか、「生きる意味を考えなきゃ」ってのは、まぁ、もうそれだけで、「大人」な方々からみれば、「若々しいねぇ。いいぞいいぞ、悩め試せ若人よ」的に思われるんだろうなぁと思ったことだった。
(かっこ書きである。まー、若者でも大人でも、それは、自分自身がどう実感するかというのが重要である。そして、「それでいいんだ!」と強く思えるのだったら、たとえ、10年後に、黒歴史だと頭を抱えたとしても、それは貴重な体験であり、思考であったのではないか、と思うわけである。なので、前にも書いた気がするが、僕が自分より若い人たちに何か「絶対に」という修飾付きで教えられるとしたら、日記でもブログでも、自分自身の思考を表現した文章を残しておいたほうがよい、ということだ。しかし、俺、それこそ数年前の記事を読んでも、「若々しいわぁ!」とか思わんな。そういう意味では、人生損していると思う、うん。しかし、今回掲載の本を読んで思った、わかったのは、要するに、「自我」にこだわっているうちは若者である、ということだ。しかしこれは、わかったところですぐさま役に立つものではない。なぜならば、すぱっと頭を切り替えて、アイデンティティを確立し誰かのお世話をしようなどとは瞬時に思うことは不可能だからだ。しかし、目指すべき方向性である可能性の一つとしては、記憶に止めておいて、決して誤りでも損でもなかろうと思う)
)
成熟困難時代をどう生きるか
興味深かった。
20代までは自我を確立して、それ以降は大人になる。大人とは何か。エリクソン氏によれば、それは「世話をする」人であるということだ。
そして、上の著者は、「世代や立場が異なる人と、その違いを踏まえて対応できる人」としている。
他には、自己評価を重視する人は若者で、後進を育てようとする人が大人だという。自分の評価をおいておいて、他者を成長させようとするのは、一見コスパが悪いようだけれども、大人はそれを目的的にできるのだという。
そういう意味で、僕はまだまだ未熟、若者なんだろうなぁと思う。
あと、著者はサブカルチャーにも造詣が深いところでも共感をもっているのだけれども、アニメでもゲームでもコスプレでも、ずっと最先端で趣味をおいかけていくのは、大人になると困難になってしまうということだ。
それは、肉体的な衰えであったり、その他になさねばならない責任による時間の制約であったりする。若者は、最先端のコンテンツに触れて、友人とも遊んだり、恋人をつくったり、仕事にも打ち込んだりと、熱気にあふれている。しかし、大人は、「本当に自分に必要なもの」にのみ注力し、そのすべてを扱うことはできなくなる。
10代向けのライトノベルの主人公は、学生服を着た10代が多いだろう。そのほうが共感性がある。
そういった作品を、20代、30代、40代が同じように読んでいくには、それなりの気構えが必要になる。
まぁ、その、生きる意味を考える的な方向性はとりあえずおいておいて、メモしておきたいのは、そうした「おっさん・おばさん」向けのライトなノベルってのは難しいのだろうか、ということだ。
例えば、いぬやしき、は、定年間近のおっさん、が主人公だが、僕は、それだけではおっさん向けの作品とはいえないと思う。いや確かに、おっさんの、みじめな姿や心情描写はされているのだが、いぬやしきはやっぱりバトルなのである。若者とおっさんの戦いであったとしても、それは、「超常的な力」をもった者同士の、どっちが強いかヒーロスティックな構造が軸なのだ。それはもちろん、若者的、に面白いのだけれども、僕がここで考えたい、おっさん向け、というのはちょっと違う。
なんかの週刊誌、モーニングか、アフタヌーンか忘れたけれど、それこそ60代のおじいちゃん、おばあちゃんの恋愛もの、定年を迎えた後の第二の人生的な作品を少し読んだことがあった。
それは確かに、主人公は歳を取っているが、結局、恋愛的な内容を扱うとすれば、それは、若者への憧れを捨てきれていないのではないか。
正解するカドの主人公たちは、まぁ若者といえる年代だけれども、おっさん・おばさんといってもいいだろう。序盤の、交渉を軸とした内容も「大人」って感じがした。あんな感じがいいと思う。なんか、面白いし、新しいと思う。が、後半はやっぱりバトルになった。少し残念であった。
バトルが悪いわけじゃない。ただ、「だれが一番強いか!」というテーマだけだと、僕はもう楽しめないような気がする。
難しい問題をはらんでいる。
なぜならば、「大人」ってのは、たいていかっこ悪いのである。ホリエモン氏や、経営者や、アーティストたちは、自由で、かっこいい大人かもしれない。しかしそれらは一握りであり、また、アーティストたちはどちらかといえば、上の本の著者も書いていたが、「若者」のコンテンツを創り出すことに力をいれなければいけなかったりする。
大人ってのは、自分自身という殻を破って、周囲の人間のために時間や能力を使う、世話をする人たちなのである。
そういう人たちは、すでに「個」をもっていないのではないか。いや、それは、アイデンティティが拡散しているということではない。むしろ、確固たる、自分とはこういうものだ、という認識を、そして実感をもっているのが大人である。
しかし、それがゆえに、特徴的な「個」、いわゆる「主人公」にするには要素が足りなすぎるのである。
物語における主人公は、二つの立場がある。
一つは、特殊な力や思考をもっていて、その人自身の魅力でひきつけるタイプ。
もう一つは、平々凡々ではあるが、周囲の特異な事件やできごとにまきこまれていくタイプ。
大人を主人公にするには、後者のパターンしかありえなくなるのではないか。それでも、物語としては構成できなくもなさそうだ。しかし、後者の平々凡々ナ主人公にみえても、多くの作品では、意外に賢かったり、強かったり、だんだん成長したりして、全然平凡じゃなかったりもするが。
時間切れ。
とにかく、今回メモしたかったのは、「大人」とはなんぞや、という思考と、僕はどんな物語をかきたいのだろうか、ということであった。
面白い物語をかきたいのだ、しかし、面白いって、なんだろうか。チート無双系も、はまる条件があればきっと楽しめると思うけれども、自分で書きたいとはきっと思ってない気がする。と、いうよりも、メモしたかったのは、そうだ、思い出した、そもそも、「創作をしたい」とか、「生きる意味を考えなきゃ」ってのは、まぁ、もうそれだけで、「大人」な方々からみれば、「若々しいねぇ。いいぞいいぞ、悩め試せ若人よ」的に思われるんだろうなぁと思ったことだった。
(かっこ書きである。まー、若者でも大人でも、それは、自分自身がどう実感するかというのが重要である。そして、「それでいいんだ!」と強く思えるのだったら、たとえ、10年後に、黒歴史だと頭を抱えたとしても、それは貴重な体験であり、思考であったのではないか、と思うわけである。なので、前にも書いた気がするが、僕が自分より若い人たちに何か「絶対に」という修飾付きで教えられるとしたら、日記でもブログでも、自分自身の思考を表現した文章を残しておいたほうがよい、ということだ。しかし、俺、それこそ数年前の記事を読んでも、「若々しいわぁ!」とか思わんな。そういう意味では、人生損していると思う、うん。しかし、今回掲載の本を読んで思った、わかったのは、要するに、「自我」にこだわっているうちは若者である、ということだ。しかしこれは、わかったところですぐさま役に立つものではない。なぜならば、すぱっと頭を切り替えて、アイデンティティを確立し誰かのお世話をしようなどとは瞬時に思うことは不可能だからだ。しかし、目指すべき方向性である可能性の一つとしては、記憶に止めておいて、決して誤りでも損でもなかろうと思う)
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コメント
自分は子供だったことがない
この点は非常に共感するところとなります。まぁ、他者からみたら傲岸不遜なわけですが。
大人が社会に役に立つ人間、というのも同じ考えです。
その中で、今回本の中で扱われていたのは、若者という存在でした。
社会の役に立つのが大人だ、といわれると、理解はできても納得感がないものでした。そんなつまらないものにならなければいけないのは絶望であると。
そんな中、大人ってのも、意外に楽で、楽しいものだよ、という切り口でかかれていたのは、珍しく面白かったと思ったわけでした。
もちろん、自分はやはり若者でしかない(子供という存在を天真爛漫思考が微少と考えたときに)と思ったわけですが、大人ってのは、若者マインドとそもそも土台が変わっているため、若者からみたらつまらなく、不公平感があって、苦しいものにみえるわけですが、その内実はそうでもないのだと。
そんな可能性の示唆としてはよいなぁと思ったわけでした。
と、同時に、社会に役に立つ、世話をする、後進を育てる、というような人はあんまりみたことないなぁというのが本音ではあります。
ただ、そういう人は存在している、ということは、これは10代、20代では信じられてませんでしたが(知ってはいた、ただ、納得できていなかった。この違いが重要に思っていて、最近のマイトレンド)、いまは信じられています。
ただ、その方向が望ましいのか、そして自分は到達し得るのか、この辺りはまだまだ考え続ける必要があるように思います。
この点は非常に共感するところとなります。まぁ、他者からみたら傲岸不遜なわけですが。
大人が社会に役に立つ人間、というのも同じ考えです。
その中で、今回本の中で扱われていたのは、若者という存在でした。
社会の役に立つのが大人だ、といわれると、理解はできても納得感がないものでした。そんなつまらないものにならなければいけないのは絶望であると。
そんな中、大人ってのも、意外に楽で、楽しいものだよ、という切り口でかかれていたのは、珍しく面白かったと思ったわけでした。
もちろん、自分はやはり若者でしかない(子供という存在を天真爛漫思考が微少と考えたときに)と思ったわけですが、大人ってのは、若者マインドとそもそも土台が変わっているため、若者からみたらつまらなく、不公平感があって、苦しいものにみえるわけですが、その内実はそうでもないのだと。
そんな可能性の示唆としてはよいなぁと思ったわけでした。
と、同時に、社会に役に立つ、世話をする、後進を育てる、というような人はあんまりみたことないなぁというのが本音ではあります。
ただ、そういう人は存在している、ということは、これは10代、20代では信じられてませんでしたが(知ってはいた、ただ、納得できていなかった。この違いが重要に思っていて、最近のマイトレンド)、いまは信じられています。
ただ、その方向が望ましいのか、そして自分は到達し得るのか、この辺りはまだまだ考え続ける必要があるように思います。
posted by 遠藤at 2018/08/13 08:09 [ コメントを修正する ]
ある言葉や概念についてどう捉えるか、というのは人によるところも大きいのだと思います。
定義、として意味を定めることもありますが、その受け取り方とて人によっては違ったりするかもしれません。
では何を信じたらいいのか、というのはとりあえず棚上げして、子供・大人という言葉に関しては「周りからの評価、認識の一つ」でしかないんじゃないかなと思いました。
「子供なんだから」「子供っぽい」「大人っぽく」「大人になれ」
言われたり言ったりすることはあっても、確かに自分が小さい頃に思い描いていた「大人」ってやつに今現在なれているとは思いませんし、これからなれるとも思えませんね。
うん、何かもっと色々あれこれ書きたい気もするんですが何やかんやあって寝ずにこの時間になっているのでとりとめないですが今回はこの辺で……。
定義、として意味を定めることもありますが、その受け取り方とて人によっては違ったりするかもしれません。
では何を信じたらいいのか、というのはとりあえず棚上げして、子供・大人という言葉に関しては「周りからの評価、認識の一つ」でしかないんじゃないかなと思いました。
「子供なんだから」「子供っぽい」「大人っぽく」「大人になれ」
言われたり言ったりすることはあっても、確かに自分が小さい頃に思い描いていた「大人」ってやつに今現在なれているとは思いませんし、これからなれるとも思えませんね。
うん、何かもっと色々あれこれ書きたい気もするんですが何やかんやあって寝ずにこの時間になっているのでとりとめないですが今回はこの辺で……。
posted by 白銀at 2018/08/14 06:15 [ コメントを修正する ]
白銀さんありがとうございます。
いいですね、なんだか、一つの本についてあれこれ意見をまじわすというのは大学のゼミのようで懐かしい気がします……と、懐古的になるのはもう子供ではないのであって、かといって自分が大人かというと違和感で、というときに、間に若者という心理的状態をおいて考えると少しすっきりするよ、というのがこの本の感想でした。
言葉の意味付けというのはイミフさんや白銀さんのおっしゃるとおりと思っていて、今回は、他者からの評価的な位置付けの言葉としてではなくて、心理的な、内面としての言葉として若者という存在を捉えられたのがよかったなぁと思ったわけでした。
子供→若者→世話する大人
ないしは、
子供→若者→若者マインドの大人
と人によって変遷するのかなと。
こう比較すると前者の方がよいようにみえますが、後者も別に悪くはないし、たくさんいるよね、と書かれてます。
ただ、周囲の環境や自身の体力知力的に、自分に投資するよりもっと若者に投資した方が成長可能性としては間違いなく大きいだろうと。
そのことを喜んで、楽しんで行動できる人を大人、と、今回の本では定義されていた、ということだと理解しました。
ちなみに、現在の著者は40代で、ようやく上のようなことが見えてきた、ということで、30代のころは、やっぱり大人ってつまんなそうだな、と感じていたそうです。
変わらないと思っても、自分自身も変化はしている、そういった点で、僕のさらなる感想としては、やっぱりブログでもローカルな日記でも、それが黒歴史になるかもしれなくても、なんらか言葉を残しておくってのが大事なんだろうなと、そうおもいました。
白銀さん、体調悪いところありがとうございます。また具合がよくなって何か思い出しましたら是非コメントくださいね!
いいですね、なんだか、一つの本についてあれこれ意見をまじわすというのは大学のゼミのようで懐かしい気がします……と、懐古的になるのはもう子供ではないのであって、かといって自分が大人かというと違和感で、というときに、間に若者という心理的状態をおいて考えると少しすっきりするよ、というのがこの本の感想でした。
言葉の意味付けというのはイミフさんや白銀さんのおっしゃるとおりと思っていて、今回は、他者からの評価的な位置付けの言葉としてではなくて、心理的な、内面としての言葉として若者という存在を捉えられたのがよかったなぁと思ったわけでした。
子供→若者→世話する大人
ないしは、
子供→若者→若者マインドの大人
と人によって変遷するのかなと。
こう比較すると前者の方がよいようにみえますが、後者も別に悪くはないし、たくさんいるよね、と書かれてます。
ただ、周囲の環境や自身の体力知力的に、自分に投資するよりもっと若者に投資した方が成長可能性としては間違いなく大きいだろうと。
そのことを喜んで、楽しんで行動できる人を大人、と、今回の本では定義されていた、ということだと理解しました。
ちなみに、現在の著者は40代で、ようやく上のようなことが見えてきた、ということで、30代のころは、やっぱり大人ってつまんなそうだな、と感じていたそうです。
変わらないと思っても、自分自身も変化はしている、そういった点で、僕のさらなる感想としては、やっぱりブログでもローカルな日記でも、それが黒歴史になるかもしれなくても、なんらか言葉を残しておくってのが大事なんだろうなと、そうおもいました。
白銀さん、体調悪いところありがとうございます。また具合がよくなって何か思い出しましたら是非コメントくださいね!
posted by 遠藤at 2018/08/14 08:15 [ コメントを修正する ]
ちなみにこれは自分の意見の一部を切り取っているので、ほかの側面もあるということを否定するものでもなければ、これがすべてって思っているものでもないです。今こんなことを考えましたっていう程度に受け止めてください。
大人になる=社会の役に立つようになるという意味を込めて使われることが多いと感じています。
言葉っていうのは社会を成り立たせつために、必要に応じて意味づけされていたり、使われていたりするわけです。
子供に対して大人が、立派に「大人」になれというのもそうだし、学校教育の場で使われる「大人」もそうかなって思っています。
つまり、人を社会にとって役立つようにするために、大人という概念・言葉が使われているということです。
年齢を重ねて「大人になるってどういうこと?」って考えるとき「私」は「私は子供だったことも大人だったこともないから、大人になることはできないし、なる必要もない」と大人になるということを考えます。
つまり、私が物心ついたことろから、私は子供ではなかったということです。そして、大人にもなれないのです。
まぁ、とりあえず、大人について考えるときは、社会的なつながり、役割を避けては通れないのだろうなぁと思ったわけです。