短くてもよいから、一ヶ月に、1つの記事ぐらいは書きたい。
しかし、ほんと、一人の、空間的に一人の時間がないと、blogは中々書けないなと思う。
筆がのってくると、いくらでも書ける……もちろん、それは中身のない内容がほとんどなのだけれども、エンジンがかかるまでにそもそも数分から十分ほどかかる。
その間に、話しかけられたり、何か他の作業が必要になるとまた最初からエンジンの起動からとなる。
そのため、数時間は、一人が確定する時間が欲しい。けれども、別に毎日はなくてもよいと思う、難しい。
ただ、一般的に、一人の時間を、みんな欲しいと思っているのではなかろうか。家族がいても、恋人がいても、誰しも。
しかし、年がら年中、誰かと一緒にいないと不安だったり、一人になっても、SNSなどで誰かと繋がっていたいと思うひともいる。
そういう意味では、blogと言うのも、誰かと繋がる手段であって、SNSと同じかもしれない。
でも、僕は、自分と向き合う時間と思っている。
最近、言葉遣いがよくないというか、人に気を使わなすぎて良くないと思ったりする。
ただ、この感覚は、今までが異常で、普通の人たちは、それほど他者と向き合うときに気を使っていないのかもしれない、分からない。
ただ、僕は、むかーしと比べると、ほんとに人付き合いが適当になったと思う。適切、なのかは分からない。
でも、人を怖いとは思わなくなった。
もちろん、怖いひともいれば、ムカつくひとも大勢いるのが事実だ。
ゆえに、この気のつかわなさは、気を付けるべきと思っている。
思っているけれども、こうやってblogでも書いていないと、ほんとにあっという間に時間が過ぎるのである。
もう、八月が終わるのであるが、へーっという、何かこう、タイムワープしたかの感覚だ。
記憶として、八月に何があったかは思い出せる面もあるけれども、そこに感情はない。
記憶として残っているだけ。
そんな風に考えたり感じたら、死ぬってことすら大したことないようにも思う。
自虐でも、不幸自慢でも、本当にそうは思っていないけれども、自殺しようと思ったり、毎日苦しくて嫌で一人夜泣いていたことが、記憶として残っている。
感情は今はないので、たいした問題じゃない。
ただ、そんな感情の奔流があった足しても、今こうしてのほほんとしているのである。
これは、他意はないけれども、そういった苦しかった経験も、今だからすれば、悪くない、のではないかと。
これは、今だからすれば。
今だから言える、他人事である。自分のことだけど、他人事である。
知らない人のことと同義だ。
苦しい経験だって、いい思い出になるさ、なんてこと、絶対の言われたくなどなかったのである。
あの頃は、どんな言葉も、慰めも、何の意味もなかったのである。
とすれば。時間が解決するというだけの話。
そして、それは、結果として解決しただけ。
何の主体的な意思はなく。
天からのお恵みのようなものだ。
そうだとすれば、主体性や、意思や、生きようとする心や、強くなろうとする努力や、頑張りや、壁を乗り越えることや、鍛練や、その他のたくさんの行動は、いったいなんのためにあるのか、と問わざるをえない。
僕らは、運命に惑わされ、流されるだけの、そんな惨めで、偶発的で、気まぐれな存在なのか?
といった、上に書いたような心性が、お恥ずかしながら僕にはあると思う。
簡単に書き直せば、苦しかった過去があるけど、今はまぁまぁ幸せ、ということだ。ただ、その流れに、自分自身というものを介在させられていない、またはその没入度が低いということだろう。
ただ、運命論的なのや、神はすべてを知っている的な思考や思想ってのは、それに近い。
違いは、その超越的なものへの信仰心により、翻って救われることであるが、まぁそれはよい。
とにかく、そういった、生きることのモチベーションをさげるような心性が僕にはあって、しかし、僕自身それは忌避して、捨て去りたいとも思っているのである。
誰しも、自分の人生は、自分が主人公じゃん?
もちろん、世界の、主人公ではない。そういった世界観は幼児期に捨て去られる。
しかし、僕らは、自分の意思で、努力で、主体的に選択をして生きるのがよいことだとされる。
なんか、矛盾していて、頭が良くない自分は理解できなかった。
世界の主人公は自分ではないのに、それでも、主体的に自分の人生は生きなければいけないのだ。
なぜだ?
この世界から求められる、自分、僕のロールプレイはなんなんだ?
話が少し変わるが、シュタインズゲートゼロのゲーム、全エンディングクリアしたって書いたっけ。
書いたような気もする。とにかく面白かった。
で、何で面白いのかって思ったときに、さっきかいた運命論的なのが大きいと思った。
シュタインズゲートは、運命と戦う物語なのである。
アトラクタフィールドにより収束する世界線を超えて、新しい世界線に辿り着くための物語なのである。
ゼロのエンディングの主人公オカリンは、エンディングの種類によっては、ボロ雑巾になる。心がおれる。身体も壊される。
取り巻く仲間たちも、無念と苦痛のまま倒れたりする。
それでも、そのすべての世界線の主人公(たち)は、欠かせない、必要な存在なのだ。
トゥルーエンディングにとっては失敗だったり、無駄だったことでさえ、それは無くてはならないもの、必要な経験だったのだ。
なかったことにはしてはいけない。
今ここで無念に朽ち果てようとも、大切な、必要なことなんだと、そう思わせてくれる。
これがシュタインズゲートのすごいところ、特徴だと、僕は勝手に思ってる。
そんな思い入れがあるゆえ、他の人にみてもらって、「あんまり面白くないね。てか主人公ってバカなの」みたいな感想をきいて、割かしマジでイラっとしたのも今はよき思い出である(笑)
いやぁ、人の感性というか、好みっていろいろだよなぁ。
まぁその人がそもそもアニメーションをあまり見ない人だったりすれば、また違うんだろうな。
うーむ、是非シュタインズゲートは実写化とかしてくれないかな、と今ふと思ったりする。
なんの話だっけ。
文脈はよく分からなくなったが、小説を、通勤時間にとか、細切れに書くようにしている。
といっても、表現レベルで書くには、スマホはあまりに非力なデバイスなので、プロットや、キーワード的な、言葉の羅列を思い付くまま打ち込む程度である。
でも、自分の中では、それだけでも脳内映像再生できたりするし、まずは、ストーリーを組み立てる必要がある。
書きたいシーンは浮かぶのだけれども、どう決着するか、どう流れるか、ストーリーがうかばない。
これを何故か考えると、僕は何を描きたいのか、具体的なテーマが分かっていないのが原因に思った。
前回、割かし長めにつづった作品は、とりあえず、完結させることが目的だった。それは達成できた。
今回は、本当に面白い、とりあえず自分にとっては最高に面白い、と思えるものを書きたいのである。
それが目的だ。
僕自身、面白い! って感じられる作品を書きたいのだ。
もっといえば、僕の感性レベルと、創作レベルを近づかせたいのである。
とある、毎日小説を書くという鬼ルーチンを化してる人は、感性レベルと創作レベルが一致していると思う。
もちろんそれは、苦難なくアウトプットできるという意味ではなく、技術的に、物理的に、自分が面白いと思えるものを描く能力がある、という意味だ。……伝わりづらいな。
伝わりづらい表現をしていると思うけれども、僕自身は、いま上に書いた表現で、あとで読んでも何を言いたかったのか理解可能である。
この、理解可能性を持てるアウトプットができる、という意味で、感性レベルと創作レベルが一致している、と書いた。
まぁしかし、その方は、感性レベルも、異次元空間に大量に所蔵する物語によって高次元に高められているがゆえに、自身のアウトプットにも中々納得できないのである。
そのストイックさ、葛藤は想像を絶するものであると僕は思う。
長くなった。気がする、が、所詮スマホでの記載なら、思ったより長くはないだろう。
要すれば、シュタインズゲートゼロ面白かった、アニメも続きを見たいということと、やっぱり面白い小説を書きたいなぁ、ということだ。
あ、あと、ブログも、月1ぐらいは最低限書きたい。いやもっと書きたいのだけれども、中々かけないなあ、ということか。
しかし、
1つ言えるのは、
何をするにも、時間は有限であるということだ。
いまの生活についても、家賃、インフラなどの費用的な面も含めて、いろいろ考えねば……いや、考えるというより、決めていかなければならないだろう。が、なかなか難しいなぁ。
(かっこ書きである。が、この記事そのものがかっこ書きみたいなものなので特に無し)
しかし、ほんと、一人の、空間的に一人の時間がないと、blogは中々書けないなと思う。
筆がのってくると、いくらでも書ける……もちろん、それは中身のない内容がほとんどなのだけれども、エンジンがかかるまでにそもそも数分から十分ほどかかる。
その間に、話しかけられたり、何か他の作業が必要になるとまた最初からエンジンの起動からとなる。
そのため、数時間は、一人が確定する時間が欲しい。けれども、別に毎日はなくてもよいと思う、難しい。
ただ、一般的に、一人の時間を、みんな欲しいと思っているのではなかろうか。家族がいても、恋人がいても、誰しも。
しかし、年がら年中、誰かと一緒にいないと不安だったり、一人になっても、SNSなどで誰かと繋がっていたいと思うひともいる。
そういう意味では、blogと言うのも、誰かと繋がる手段であって、SNSと同じかもしれない。
でも、僕は、自分と向き合う時間と思っている。
最近、言葉遣いがよくないというか、人に気を使わなすぎて良くないと思ったりする。
ただ、この感覚は、今までが異常で、普通の人たちは、それほど他者と向き合うときに気を使っていないのかもしれない、分からない。
ただ、僕は、むかーしと比べると、ほんとに人付き合いが適当になったと思う。適切、なのかは分からない。
でも、人を怖いとは思わなくなった。
もちろん、怖いひともいれば、ムカつくひとも大勢いるのが事実だ。
ゆえに、この気のつかわなさは、気を付けるべきと思っている。
思っているけれども、こうやってblogでも書いていないと、ほんとにあっという間に時間が過ぎるのである。
もう、八月が終わるのであるが、へーっという、何かこう、タイムワープしたかの感覚だ。
記憶として、八月に何があったかは思い出せる面もあるけれども、そこに感情はない。
記憶として残っているだけ。
そんな風に考えたり感じたら、死ぬってことすら大したことないようにも思う。
自虐でも、不幸自慢でも、本当にそうは思っていないけれども、自殺しようと思ったり、毎日苦しくて嫌で一人夜泣いていたことが、記憶として残っている。
感情は今はないので、たいした問題じゃない。
ただ、そんな感情の奔流があった足しても、今こうしてのほほんとしているのである。
これは、他意はないけれども、そういった苦しかった経験も、今だからすれば、悪くない、のではないかと。
これは、今だからすれば。
今だから言える、他人事である。自分のことだけど、他人事である。
知らない人のことと同義だ。
苦しい経験だって、いい思い出になるさ、なんてこと、絶対の言われたくなどなかったのである。
あの頃は、どんな言葉も、慰めも、何の意味もなかったのである。
とすれば。時間が解決するというだけの話。
そして、それは、結果として解決しただけ。
何の主体的な意思はなく。
天からのお恵みのようなものだ。
そうだとすれば、主体性や、意思や、生きようとする心や、強くなろうとする努力や、頑張りや、壁を乗り越えることや、鍛練や、その他のたくさんの行動は、いったいなんのためにあるのか、と問わざるをえない。
僕らは、運命に惑わされ、流されるだけの、そんな惨めで、偶発的で、気まぐれな存在なのか?
といった、上に書いたような心性が、お恥ずかしながら僕にはあると思う。
簡単に書き直せば、苦しかった過去があるけど、今はまぁまぁ幸せ、ということだ。ただ、その流れに、自分自身というものを介在させられていない、またはその没入度が低いということだろう。
ただ、運命論的なのや、神はすべてを知っている的な思考や思想ってのは、それに近い。
違いは、その超越的なものへの信仰心により、翻って救われることであるが、まぁそれはよい。
とにかく、そういった、生きることのモチベーションをさげるような心性が僕にはあって、しかし、僕自身それは忌避して、捨て去りたいとも思っているのである。
誰しも、自分の人生は、自分が主人公じゃん?
もちろん、世界の、主人公ではない。そういった世界観は幼児期に捨て去られる。
しかし、僕らは、自分の意思で、努力で、主体的に選択をして生きるのがよいことだとされる。
なんか、矛盾していて、頭が良くない自分は理解できなかった。
世界の主人公は自分ではないのに、それでも、主体的に自分の人生は生きなければいけないのだ。
なぜだ?
この世界から求められる、自分、僕のロールプレイはなんなんだ?
話が少し変わるが、シュタインズゲートゼロのゲーム、全エンディングクリアしたって書いたっけ。
書いたような気もする。とにかく面白かった。
で、何で面白いのかって思ったときに、さっきかいた運命論的なのが大きいと思った。
シュタインズゲートは、運命と戦う物語なのである。
アトラクタフィールドにより収束する世界線を超えて、新しい世界線に辿り着くための物語なのである。
ゼロのエンディングの主人公オカリンは、エンディングの種類によっては、ボロ雑巾になる。心がおれる。身体も壊される。
取り巻く仲間たちも、無念と苦痛のまま倒れたりする。
それでも、そのすべての世界線の主人公(たち)は、欠かせない、必要な存在なのだ。
トゥルーエンディングにとっては失敗だったり、無駄だったことでさえ、それは無くてはならないもの、必要な経験だったのだ。
なかったことにはしてはいけない。
今ここで無念に朽ち果てようとも、大切な、必要なことなんだと、そう思わせてくれる。
これがシュタインズゲートのすごいところ、特徴だと、僕は勝手に思ってる。
そんな思い入れがあるゆえ、他の人にみてもらって、「あんまり面白くないね。てか主人公ってバカなの」みたいな感想をきいて、割かしマジでイラっとしたのも今はよき思い出である(笑)
いやぁ、人の感性というか、好みっていろいろだよなぁ。
まぁその人がそもそもアニメーションをあまり見ない人だったりすれば、また違うんだろうな。
うーむ、是非シュタインズゲートは実写化とかしてくれないかな、と今ふと思ったりする。
なんの話だっけ。
文脈はよく分からなくなったが、小説を、通勤時間にとか、細切れに書くようにしている。
といっても、表現レベルで書くには、スマホはあまりに非力なデバイスなので、プロットや、キーワード的な、言葉の羅列を思い付くまま打ち込む程度である。
でも、自分の中では、それだけでも脳内映像再生できたりするし、まずは、ストーリーを組み立てる必要がある。
書きたいシーンは浮かぶのだけれども、どう決着するか、どう流れるか、ストーリーがうかばない。
これを何故か考えると、僕は何を描きたいのか、具体的なテーマが分かっていないのが原因に思った。
前回、割かし長めにつづった作品は、とりあえず、完結させることが目的だった。それは達成できた。
今回は、本当に面白い、とりあえず自分にとっては最高に面白い、と思えるものを書きたいのである。
それが目的だ。
僕自身、面白い! って感じられる作品を書きたいのだ。
もっといえば、僕の感性レベルと、創作レベルを近づかせたいのである。
とある、毎日小説を書くという鬼ルーチンを化してる人は、感性レベルと創作レベルが一致していると思う。
もちろんそれは、苦難なくアウトプットできるという意味ではなく、技術的に、物理的に、自分が面白いと思えるものを描く能力がある、という意味だ。……伝わりづらいな。
伝わりづらい表現をしていると思うけれども、僕自身は、いま上に書いた表現で、あとで読んでも何を言いたかったのか理解可能である。
この、理解可能性を持てるアウトプットができる、という意味で、感性レベルと創作レベルが一致している、と書いた。
まぁしかし、その方は、感性レベルも、異次元空間に大量に所蔵する物語によって高次元に高められているがゆえに、自身のアウトプットにも中々納得できないのである。
そのストイックさ、葛藤は想像を絶するものであると僕は思う。
長くなった。気がする、が、所詮スマホでの記載なら、思ったより長くはないだろう。
要すれば、シュタインズゲートゼロ面白かった、アニメも続きを見たいということと、やっぱり面白い小説を書きたいなぁ、ということだ。
あ、あと、ブログも、月1ぐらいは最低限書きたい。いやもっと書きたいのだけれども、中々かけないなあ、ということか。
しかし、
1つ言えるのは、
何をするにも、時間は有限であるということだ。
いまの生活についても、家賃、インフラなどの費用的な面も含めて、いろいろ考えねば……いや、考えるというより、決めていかなければならないだろう。が、なかなか難しいなぁ。
(かっこ書きである。が、この記事そのものがかっこ書きみたいなものなので特に無し)
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コメント
ブログも小説も、遠ざかっていると書きたいって気持ちがわいてくるんだなぁとふと思いました。
いざ向き合うと、うがーっ!! っとなるんですが…
いつごろ…
期限ってやつですね!
これは非常に難しく、重要なやつだと思ってます。
適当に決めても、自分の潜在意識にインプットさせないと形骸化しますし、かといって決めないのもそれはそれでリスク…
うーん、どうしようかと思っていたらコメント返信がどんどん遅くなってしまったので、取り急ぎ返信までっ!
しかしほんとに考えないとなぁ……
いざ向き合うと、うがーっ!! っとなるんですが…
いつごろ…
期限ってやつですね!
これは非常に難しく、重要なやつだと思ってます。
適当に決めても、自分の潜在意識にインプットさせないと形骸化しますし、かといって決めないのもそれはそれでリスク…
うーん、どうしようかと思っていたらコメント返信がどんどん遅くなってしまったので、取り急ぎ返信までっ!
しかしほんとに考えないとなぁ……
posted by 遠藤at 2018/09/04 12:41 [ コメントを修正する ]
>期限ってやつですね!
大丈夫、当方も決めてません!!!!!!!
でもまぁ、今年中にはなんとかなるやろ多分、的な、そういうふわっとした予測はしていますので、まぁなんかそうゆうの知りたいかなとか思ったのでした。
大丈夫、当方も決めてません!!!!!!!
でもまぁ、今年中にはなんとかなるやろ多分、的な、そういうふわっとした予測はしていますので、まぁなんかそうゆうの知りたいかなとか思ったのでした。
posted by バールat 2018/09/04 20:48 [ コメントを修正する ]
>期限ってやつですね!
大丈夫、当方も決めてません!!!!!!!
でもまぁ、今年中にはなんとかなるやろ多分、的な、そういうふわっとした予測はしていますので、まぁなんかそうゆうの知りたいかなとか思ったのでした。
大丈夫、当方も決めてません!!!!!!!
でもまぁ、今年中にはなんとかなるやろ多分、的な、そういうふわっとした予測はしていますので、まぁなんかそうゆうの知りたいかなとか思ったのでした。
posted by バールat 2018/09/04 22:59 [ コメントを修正する ]
いつごろ読めそうですかね?