今日の一言「忙しい」
あ、気づいたら、つみたてNISA口座の開設が終わっていた。いつでも始められる状態だ。結局準備が殆どできていない。
先週末から、クレーム対応が多数まわってきて辟易した。
それが仕事だと言われたらそういうものであるが、文句いうならテメーがやってみろ、と思う。
そう――これはいつも書いていることだが、そもそも、「クレーム」、いわゆる外部からの苦情だからどうこう問題なのではなくて、俺がイライラする根源は、どいつもこいつも、責任感がないというか、人任せというか、事なかれ主義というか、熱意がないのである。
いや熱意。出世とか、趣味を充実しようとか、いろんな熱意はあるんだろうが、なんつーか、「世の中をよくしよう」という熱意が感じられない。すげー俺、意識高い系のことを書いているが、特に俺自身はそういう気持ちはないんだが、要は、世界平和というか、WIN-WINというか、誰もが納得できる着地点というか、そういうもんである。
なんかこう、よく分からないんだよな。
どうにも、すかっとしない、梅雨空のようである。
とかいいつつ、もう7月である。
いやぁしかし、なんでこう、忙しい環境ばかりにいるのだろうか。
社員全員定時で帰るような部署だってあるはずだろうに。
落ち着かない毎日だ。
思うにこれは、メンタルを変えるべきかもしれない。
「忙しい」と思うから忙しいのだろう。
――いやまて、「問題社員」としてでいいなら、別に今のままでも楽々過ごすことはできるだろう。
そういう問題じゃないはずだ。
だが、プライドも何もかなぐりすてて、「おれ、なにもできましぇーん」ってやってたら、楽ちんかもしれない。
今仕事を辞めても、10年ぐらいは生き残れそうだと以前書いた気がする(※)が、そんなぐらいの適当さでやってってもいいんじゃなかろうか。
※今思えば、どういう計算だったのか。とりあえず、家賃は半分ぐらいの地方に住むとすればできなくなかろうが、現状の生活水準を維持しつつの10年はきついと思う。
書いてない気がする。とにかく、仕事としては、順調であるのだ。「いきいきしてやってるね!」とかも言われたりする。
「ありがとうございます!」
と笑顔で言う。
内心は、こっちのブログで書いてることが近い。
そういう裏表がある面が、たぶん、フツーじゃない人、なのだろうし、まぁ離婚するぐらい気持ち悪い人なんだろうと思う。
まぁ、わからんでもない。
笑顔を向けてくれていた人が、内心、「あいつウゼー」とか思っていたなんて分かったら、落ち込む。
が、しかし、そういったケースはよくあるのではなかろうか。
先日の、大学時代の友人の話も、それと似た感じである。
んで、俺自身が、そういう裏表がある奴だから、そもそも、褒められてもまともに信じられていないのだ。
が、それはイコール、「じゃあもっと頑張ってね」「もっとできるよね」ということにも感じられるのだ。
つらい。
かといって、評価が下げられて、「あいつ、結局その程度か」「所詮まぐれか」って思われるのも嫌だ。つらい。
我がままだな(かっこ笑い)。
褒められても嫌、貶されても嫌。
じゃあどうされたらいいんだ。
ほっといてくれ。――これである。
だから、他人とかかわるのが面倒くせええって書くのである。
ろくに眠れもしない。もうすぐ4時だ。だが、さすがに、4時になったら、少し寝るか。横になると寝れそうな気がする。
メモすれば、23時半に布団に入ったものの、1時半になっても眠れず、しかたねええと起きる。
そういう状況である。
そうかもしれない。
だが、残念なことに、世の中、人と関わらない仕事はない。
今の仕事より、もっと楽な仕事はあるかもしれないが、もっと苦しい仕事もあるかもしれない。
ドル・コスト平均法って、さも、安全に利益を得られますよ、的に説明されるが、プラスもマイナスも平均されるってだけである。何か投資先が、長期的に上向いていく、という前提に立った時に非常に優れているというだけだ。これから先、どんどん経済が縮小していくという見立てにたてば、塵程度の利息すらない預金しといた方がましかもしれない。
だから、楽しい仕事を探すというよりも、今ある環境を楽しくする方が現実的である。
――だから、まえの職場では、ある程度地ならしできていたのに、また新しいプロジェクトに回されてしまった。そこでも、着実に成果を積み重ねている――できることも、知識も、人脈も増えた――いいことだらけだ。
だから、なんだ?
前書き
いや、その、一言目が「忙しい」ってどうなのよ。あ、気づいたら、つみたてNISA口座の開設が終わっていた。いつでも始められる状態だ。結局準備が殆どできていない。
先週末から、クレーム対応が多数まわってきて辟易した。
それが仕事だと言われたらそういうものであるが、文句いうならテメーがやってみろ、と思う。
そう――これはいつも書いていることだが、そもそも、「クレーム」、いわゆる外部からの苦情だからどうこう問題なのではなくて、俺がイライラする根源は、どいつもこいつも、責任感がないというか、人任せというか、事なかれ主義というか、熱意がないのである。
いや熱意。出世とか、趣味を充実しようとか、いろんな熱意はあるんだろうが、なんつーか、「世の中をよくしよう」という熱意が感じられない。すげー俺、意識高い系のことを書いているが、特に俺自身はそういう気持ちはないんだが、要は、世界平和というか、WIN-WINというか、誰もが納得できる着地点というか、そういうもんである。
なんかこう、よく分からないんだよな。
忙しさ
結局、土日の多くは、仕事が気がかりで落ち着かなかった。どうにも、すかっとしない、梅雨空のようである。
とかいいつつ、もう7月である。
いやぁしかし、なんでこう、忙しい環境ばかりにいるのだろうか。
社員全員定時で帰るような部署だってあるはずだろうに。
落ち着かない毎日だ。
思うにこれは、メンタルを変えるべきかもしれない。
「忙しい」と思うから忙しいのだろう。
――いやまて、「問題社員」としてでいいなら、別に今のままでも楽々過ごすことはできるだろう。
そういう問題じゃないはずだ。
だが、プライドも何もかなぐりすてて、「おれ、なにもできましぇーん」ってやってたら、楽ちんかもしれない。
今仕事を辞めても、10年ぐらいは生き残れそうだと以前書いた気がする(※)が、そんなぐらいの適当さでやってってもいいんじゃなかろうか。
※今思えば、どういう計算だったのか。とりあえず、家賃は半分ぐらいの地方に住むとすればできなくなかろうが、現状の生活水準を維持しつつの10年はきついと思う。
評価のされなさ
先日、社外に向けたプレゼンが非常に好評だったことを、方々から褒められた、ということは書いただろうか?書いてない気がする。とにかく、仕事としては、順調であるのだ。「いきいきしてやってるね!」とかも言われたりする。
「ありがとうございます!」
と笑顔で言う。
内心は、こっちのブログで書いてることが近い。
そういう裏表がある面が、たぶん、フツーじゃない人、なのだろうし、まぁ離婚するぐらい気持ち悪い人なんだろうと思う。
まぁ、わからんでもない。
笑顔を向けてくれていた人が、内心、「あいつウゼー」とか思っていたなんて分かったら、落ち込む。
が、しかし、そういったケースはよくあるのではなかろうか。
先日の、大学時代の友人の話も、それと似た感じである。
んで、俺自身が、そういう裏表がある奴だから、そもそも、褒められてもまともに信じられていないのだ。
褒めるイコールもっと頑張れ
いや、まぁ、褒めてくれた人は、ほんとに、「すごいね」と思ってくれたんだろう、と、感じられることは感じられる。が、それはイコール、「じゃあもっと頑張ってね」「もっとできるよね」ということにも感じられるのだ。
つらい。
かといって、評価が下げられて、「あいつ、結局その程度か」「所詮まぐれか」って思われるのも嫌だ。つらい。
我がままだな(かっこ笑い)。
褒められても嫌、貶されても嫌。
じゃあどうされたらいいんだ。
ほっといてくれ。――これである。
だから、他人とかかわるのが面倒くせええって書くのである。
ストレスが溜まっている
ストレスフルである。ろくに眠れもしない。もうすぐ4時だ。だが、さすがに、4時になったら、少し寝るか。横になると寝れそうな気がする。
メモすれば、23時半に布団に入ったものの、1時半になっても眠れず、しかたねええと起きる。
そういう状況である。
楽しい仕事を探すべきだ
仕事があっていない、という指摘を、〇〇カウンセラーたちは教えてくれるかもしれない。そうかもしれない。
だが、残念なことに、世の中、人と関わらない仕事はない。
今の仕事より、もっと楽な仕事はあるかもしれないが、もっと苦しい仕事もあるかもしれない。
ドル・コスト平均法って、さも、安全に利益を得られますよ、的に説明されるが、プラスもマイナスも平均されるってだけである。何か投資先が、長期的に上向いていく、という前提に立った時に非常に優れているというだけだ。これから先、どんどん経済が縮小していくという見立てにたてば、塵程度の利息すらない預金しといた方がましかもしれない。
だから、楽しい仕事を探すというよりも、今ある環境を楽しくする方が現実的である。
――だから、まえの職場では、ある程度地ならしできていたのに、また新しいプロジェクトに回されてしまった。そこでも、着実に成果を積み重ねている――できることも、知識も、人脈も増えた――いいことだらけだ。
だから、なんだ?
後書き
(かっこ書きである。後書き、という小見出しつけてからかっこ書きを書き始めることにしようかな。HTML的にはその方が正しい気がする。いやまぁそんなことはどうでもいいんだ残り10分。「だから、なんだ?」これである。これに尽きる。周りの同僚が優秀だったりするので、勉強にもなるし、仕事がはかどる。それでも、そもそも仕事量が多くて残業が多い。そして、同僚は学習意欲も、成長心もある。すごいな、どうしたらそのモチベーションが得られるのか。いやでも、地方で割と上位の高校だったりしたので、周囲もそんな感じだった気がする。そういえば、みんな意識高かった気がする。俺はそのころから、「なんで生きてんだろ」ぐらいに思ってた気がする。ダメな奴だな!!(かっこ笑い) いやでも、大学にいけば、就職すれば、結婚すればなんか変わるだろ、ってその場その場で頑張ってやってきたが、結局意味がない……とまではいかないが、「変わらなかった」ことは分かった。つまり、今、俺が、過去の歴史から学ぶべきは、やはり、今こうして頑張って成果を出して、褒められようが、給料が上がろうが、きっと俺は「で?」って思うだけである。土日は割と憂鬱であったが(いいことももちろんあったが)、それはそうと、このブログに書くということは、忘れてはならない。うん、間違いなく、俺は、断言できる。ブログ(いやまぁ、別にブログにこだわる必要はないが)を書くことが、人生の優先度が一番高い)PR
今日の一言「javascript」
しかし、昨年の同月の記事に、もっとサクッとアクセスしたいと思った。
好都合に、忍者ブログには、プラグインに「カレンダー」がある。
このカレンダーを制御している命令文(ソースコード)で、「年」マイナス「1」をすれば簡単にできるんじゃないか?
と思って、全然できなかった。
要は、忍者ブログでカスタマイズできるのは、固定化された「変数」だけなのだ。固定なのか変数なのか、何を言っているのか分からないと思うが、要するに「計算」ができないのだ。
例えば、今日が属する「年」といった情報は取得できるが、そこから「マイナス1」とかはできないのだ。
じゃあせめて、去年の「年」を表す変数がないかと思って調べた。
忍者ブログ:独自タグ一覧
お、これで行けそうじゃん! と思ったら、ダメだった。(理由は不明だが、結局、今日が属する年しか取得できなかった)
サイトURL/Date/YYYYMM/1/
の形式になっていることが分かった。
そこから閃く。
「じゃあ、javascriptで「今年」を取得して、そこから「1」引いて去年の値を取得する。それを元にして、ふつーにHTMLタグ<A>で書けばいいんじゃないか」
結果、以下の通り。
上のコードを、プラグインのフリーエリア(今回はプロフィール欄)に挿入したら、思い通りに動作した。
来月も、ちゃんと「201807」と、「201906」が表示されていれば、検証完了だ。
ちなみに、自ブログのURLを直打ちしているが、それは、それこそ忍者ブログの独自タグ「<!--$g_url-->」で取得できることが分かったので、そこら辺の微修正はして実装済み。
javascriptで、
var myURL = '<!--$g_url-->'
と変数へ一旦格納してからdocument.writeで書き出ししている。
思ったのだが、javascriptの書き出しの構文が難しい、というか煩雑。
さらにちなみに、文字列をつなげるの、「&」でもいいんじゃないか。そこらへんはPHPやVBAと同じか。だったら、タグインデックスさんも、&で表現してほしかったな。+だと読みづらいし、数式で計算されて意図せず動いたりした。
だめだった、やっぱり「+」なんだな。ちょっと扱いづらいな。
まぁともかく、「1年前」が表現できれば、あとは応用で、何年前でも、3か月前でも、ほぼコピペで作れるようになる。何事も、「0」を「1」にするまでが結構大変だったりする。
前書き
忍者ブログのプラグインを用いて、昨年の今頃の記事を出したいと思ったけど、できなかったから、javascriptで自作した件。経緯
月別のアーカイブから、過去の記事をたどることはできる。しかし、昨年の同月の記事に、もっとサクッとアクセスしたいと思った。
好都合に、忍者ブログには、プラグインに「カレンダー」がある。
このカレンダーを制御している命令文(ソースコード)で、「年」マイナス「1」をすれば簡単にできるんじゃないか?
と思って、全然できなかった。
要は、忍者ブログでカスタマイズできるのは、固定化された「変数」だけなのだ。固定なのか変数なのか、何を言っているのか分からないと思うが、要するに「計算」ができないのだ。
例えば、今日が属する「年」といった情報は取得できるが、そこから「マイナス1」とかはできないのだ。
じゃあせめて、去年の「年」を表す変数がないかと思って調べた。
忍者ブログ:独自タグ一覧
$plugin_calendar_prev_year
お、これで行けそうじゃん! と思ったら、ダメだった。(理由は不明だが、結局、今日が属する年しか取得できなかった)
対応
忍者ブログにおいて、月別のリンクは、サイトURL/Date/YYYYMM/1/
の形式になっていることが分かった。
そこから閃く。
「じゃあ、javascriptで「今年」を取得して、そこから「1」引いて去年の値を取得する。それを元にして、ふつーにHTMLタグ<A>で書けばいいんじゃないか」
結果、以下の通り。
――参考TAGインデックス様<script type="text/javascript"><!--var now = new Date();var year = now.getYear(); // 年var month = now.getMonth() + 1; // 月var lastmonth = month-1;//先月if(year < 2000) { year += 1900; }// 数値が1桁の場合、頭に0を付けて2桁で表示する指定if(month < 10) { month = "0" + month; }if(lastmonth < 10) { lastmonth = "0" + lastmonth; }// 表示開始//昨年の今頃document.write('<a href=\"http://unfixation.gjpw.net/Date/' + (year -1) + '' + month + '/1/\">昨年の今頃</a>')//先月の今頃document.write('<a href=\"http://unfixation.gjpw.net/Date/' + year + '' + lastmonth + '/1/\">先月の今頃</a>')// 表示終了// --></script>
上のコードを、プラグインのフリーエリア(今回はプロフィール欄)に挿入したら、思い通りに動作した。
来月も、ちゃんと「201807」と、「201906」が表示されていれば、検証完了だ。
ちなみに、自ブログのURLを直打ちしているが、それは、それこそ忍者ブログの独自タグ「<!--$g_url-->」で取得できることが分かったので、そこら辺の微修正はして実装済み。
javascriptで、
var myURL = '<!--$g_url-->'
と変数へ一旦格納してからdocument.writeで書き出ししている。
思ったのだが、javascriptの書き出しの構文が難しい、というか煩雑。
さらにちなみに、文字列をつなげるの、「&」でもいいんじゃないか。そこらへんはPHPやVBAと同じか。だったら、タグインデックスさんも、&で表現してほしかったな。+だと読みづらいし、数式で計算されて意図せず動いたりした。
だめだった、やっぱり「+」なんだな。ちょっと扱いづらいな。
まぁともかく、「1年前」が表現できれば、あとは応用で、何年前でも、3か月前でも、ほぼコピペで作れるようになる。何事も、「0」を「1」にするまでが結構大変だったりする。
後書き
(かっこ書きである。後書きといいつつ、かっこ書きである。このかっこ書き、いつから始めたんだっけ。――てなことを、少しは気軽に調べやすくなった気がする。ただ、特定の月にしか飛べないしページ送りなどもできない。やっぱり、ワードプレスとか、独自構築してたほうが自由度は高いんだよな。ただ、じゃあそこまで必要か、というと、別にまぁいっか……的な。でも、ふと思いついて実装できる手軽さ、アイディアを実現できる幅ってのは広いほうが楽しいと思う。――早速、新たに実装したリンク機能をもとに調べた。なるほど、3年前(の6月)では見当たらない。2年前には存在しているようだ。ほほぅ。そして、5年前は記事がほとんどない。この時期は、……あーそうか……(独り合点))
今日の一言「体調が悪い」「眠れない」
「完全に満ち足りてネガティブな感情が一切生じない状態」ということが想定し得ない以上、漸近的に「良くしていく」ことに努めなければいけない。
ポイントは、漸近的、であることだ。徐々に。緩やかに。
そうした意味で、「頑張る」ことは、否定されなければいけない。
同時に、非常時と、平常時を分けて考えなければいけない。
敵の軍靴が迫る中で、悠長にコーヒーを飲んでいる時間はない。
世界を、文章で叙述できるとするのは、非常に傲慢な考えだ。
(点線は、事象の量を長さで示す)
自然(森羅万象)(を以下の点線で示したとき100%としたとき)
-------------------------------
社会(慣習、思考、感情、また非言語コミュニケーション)
---------------------
文章(科学・文学)
-------------
といった関係になるだろう。
文字が示せているのは、自然の、ほんの一部に過ぎない。
その、「ほんの一部」の部分が、テクノロジーの進展によって、広がっては来ているだろう。だが、100%にはならない。
そもそも、体調の悪さで眠れずに、いつも、この本を手に取ると、わけが分からなくて、段々眠くなっていくから、ちょうどいいかと思ったのだったが(かっこ笑い)。
上のことを思ったのは、メモしておけば、
第二章 刑苦
Ⅰ~Ⅱ(ローマ数字1~2)
までの十数ページを読んでのことだった。
しかし、それだけでは、きっと想起されなかったことだろう。
直近の、コメント頂いた内容や、体調の悪さや、その他経験によるものも、無視できるものではないだろう。
漠然とした不安、というものがある。
これについて、対処法的には、紙に不安を書き出せ、となるだろう。
これは非常に難しい。
紙に書きだせるような不安になった段階で、その不安は、形式を与えられているのだ。
書き出しただけで不安が解消するものではない。ただし、形式化されることによって、不安の輪郭があらわになり、不安と向き合えるようになるのである。
漠然とした不安。
これが恐怖であるのは、その漠然さ故である。
無理やり書き出した不安が、偶然にもその輪郭に適するものであればよいが、的外れなものであれば、不安の解消どころか苦痛は増すことになる。不安が、ますます得体のしれないものに思えるからだ。
蛇足。そういえば、キルケゴール氏は、『不安の概念』という著作も出していた。これは、不安は、キリスト教の原罪と結びついている――といった流れであり、あまりピンとこなかった。
虚無、に囚われてしまっているのは、読書が足りないからだ――インプットがたりないからだ、と思った。
虚無、と書くと大げさだが、要はモチベーションの低さである。
何に対してのモチベーションか。言うまでもなく生活についてだ。「生」と書くと、これまた大げさになるだろう。
そもそも、こうして悠長に思考ができたり、体調の悪さを言い訳できるのも、バタイユ氏が看破したように、ありとあらゆる人間の芸術は死からの逃避なのだ、と。
(もしかしてハイデガー氏だったか、忘れた)
人は死へと向かうのだから、ダス・マン(ただの人)ではなく、ダーザインたれ、というのはハイデガー氏である。
しかし、しんざき氏もおっしゃるように、人間の決意なんてのは、たいていあてにならない。
大事なのは、環境だ、空間(動線)だ。
きやつらは、「分かりやすい」ように作られている。
分かりやすい文章など、大したことはないのである。
法律が難しいのは何故か。「厳密に」書こうとするからである。本来、ルール、規則なのだから、分かりやすいはずなのだ。月の残業時間を45時間とする。それだけでいいはずなのだが、条文にすると以下のようになる。
---抄-----------------------------
五 労働時間の延長及び休日の労働を適正なものとするために必要な事項として厚生労働省令で定める事項
前項第四号の労働時間を延長して労働させることができる時間は、当該事業場の業務量、時間外労働の動向その他の事情を考慮して通常予見される時間外労働の範囲内において、限度時間を超えない時間に限る。
前項の限度時間は、一箇月について四十五時間及び一年について三百六十時間とする。
第一項の協定においては、第二項各号に掲げるもののほか、当該事業場における通常予見することのできない業務量の大幅な増加等に伴い臨時的に第三項の限度時間を超えて労働させる必要がある場合に おいて、一箇月について労働時間を延長して労働させ、及び休日において労働させることができる時間並びに一年について労働時間を延長して労働させることができる時間を定めることができる。
この場合において、第一項の協定に、併せて第二項第二号の対象期間において労働時間を延長して労働させる時間が一箇月について四十五時間を超えることができる月数(一年について六箇月以内に限る。)を定めなければならない。
--------------------------------
そもそも、労働基準法の改正のため、労働基準法の立て付けについてよく理解しておかないと、よく分からない。
あと、様々な業種によって、特別な事項を定めているから長くなる。
何の話だっけ。そうそう、ネットの記事と読書の違いだ。
ネットは、高レスポンスが求められる。
独自性があり、様式を守って、分かりやすいものが評価される。
長々と要旨が捉えられない文章なりサイトなりは評価されない。
「要するに」
が大事だ。
仕事も割とそうだ。
結論、どうなのか、が上司への報告で大事だとされる。
自然って、そもそも描写できるのか、ってことである。
できますまい。
そして自己も、自分自身も、「要するに」などと換言できるものではありますまい。
単行本1冊が、10万字ときくので、30冊分ぐらいである。
まぁまぁ書いてきたものだ。
それだけ書いてきても、まだまだ書ききれないのは、それだけ高度な生活をしてきたというわけでは全くなくて、そもそも、表現できることなど、ほんの僅かなのだということだ。
ちなみに、少し関係ないが、世界(自然)の認識を、やはり僕は「言語」で行っている気がする。
高速に、言語化を試みている気がする。
つまり、「考えて」行動している気がする。
これは、「俺思慮深くてすげーだろ」という意味では全くなくて、むしろ、感覚的に動けたほうが断然幸せで有能である。
どんだけ高速で思考しても、感覚よりも遅い。
こういう場合はこうする、ということを、体で覚えたほうが楽なのだ。
それが、できない。
こうしたらこうなる、こうなったらああなるから、こうしてああしよう、ということを思うのである。
――だから、ひとづきあいがつかれる、というのはあるかもしれない。
つまり、考えることが好きなのではなくて、そうなってしまうがゆえに、疲れるのである。
考えたくない。何も考えずに生きていきたい。――しかしそれは、生きているといえるのか。
(かっこ書きである。眠くなってきた。もう7時を過ぎている。ここで寝ると、また夕方に目が覚めるパターンで、夜眠れなくなって、月曜日も変な時間から起きて……と悪循環が目に見えているので、寝ないぞ。今日は寝ない。お昼寝は13時から14時までの一時間にするっ! あーそれにしても具合悪いな。だが、のどの痛みはひいてきて、鼻水がメインになってきている。いつものパターンだ。喉→咳→鼻水→治る、と。もしくは、咳と痰がしばらく続くパターンもあるな。とにかく、言えることは、体調はプライオリティ高い。間違いなく。次点で、書くことだろう。次点で、読むことだろう。しっかし、満員電車で、読書はおろかスマホ開くのすら大変だし、そもそも、睡眠が十分でないと、頭痛にとにかく耐えるしかないという悪循環。会社近くに引っ越すというのは手だが、しかし、初期費用、手間、運用費用を考えても、やる気が全く起きないな。しかし冷静に、他に何か手はないものか……)
前書き
焦燥や不安といったネガティブな感情も、生きていくのに必要なものである。「完全に満ち足りてネガティブな感情が一切生じない状態」ということが想定し得ない以上、漸近的に「良くしていく」ことに努めなければいけない。
ポイントは、漸近的、であることだ。徐々に。緩やかに。
そうした意味で、「頑張る」ことは、否定されなければいけない。
同時に、非常時と、平常時を分けて考えなければいけない。
敵の軍靴が迫る中で、悠長にコーヒーを飲んでいる時間はない。
世界を、文章で叙述できるとするのは、非常に傲慢な考えだ。
(点線は、事象の量を長さで示す)
自然(森羅万象)(を以下の点線で示したとき100%としたとき)
-------------------------------
社会(慣習、思考、感情、また非言語コミュニケーション)
---------------------
文章(科学・文学)
-------------
といった関係になるだろう。
文字が示せているのは、自然の、ほんの一部に過ぎない。
その、「ほんの一部」の部分が、テクノロジーの進展によって、広がっては来ているだろう。だが、100%にはならない。
内的体験
てなことを、本ブログでも度々登場する、ジョルジュ・バタイユの『内的体験』を読んでいたら思った。そもそも、体調の悪さで眠れずに、いつも、この本を手に取ると、わけが分からなくて、段々眠くなっていくから、ちょうどいいかと思ったのだったが(かっこ笑い)。
上のことを思ったのは、メモしておけば、
第二章 刑苦
Ⅰ~Ⅱ(ローマ数字1~2)
までの十数ページを読んでのことだった。
しかし、それだけでは、きっと想起されなかったことだろう。
直近の、コメント頂いた内容や、体調の悪さや、その他経験によるものも、無視できるものではないだろう。
漠然とした不安、というものがある。
これについて、対処法的には、紙に不安を書き出せ、となるだろう。
これは非常に難しい。
紙に書きだせるような不安になった段階で、その不安は、形式を与えられているのだ。
書き出しただけで不安が解消するものではない。ただし、形式化されることによって、不安の輪郭があらわになり、不安と向き合えるようになるのである。
漠然とした不安。
これが恐怖であるのは、その漠然さ故である。
無理やり書き出した不安が、偶然にもその輪郭に適するものであればよいが、的外れなものであれば、不安の解消どころか苦痛は増すことになる。不安が、ますます得体のしれないものに思えるからだ。
蛇足。そういえば、キルケゴール氏は、『不安の概念』という著作も出していた。これは、不安は、キリスト教の原罪と結びついている――といった流れであり、あまりピンとこなかった。
読書の必要性
そうだった、この記事は、読書の必要性について書くものだった。虚無、に囚われてしまっているのは、読書が足りないからだ――インプットがたりないからだ、と思った。
虚無、と書くと大げさだが、要はモチベーションの低さである。
何に対してのモチベーションか。言うまでもなく生活についてだ。「生」と書くと、これまた大げさになるだろう。
そもそも、こうして悠長に思考ができたり、体調の悪さを言い訳できるのも、バタイユ氏が看破したように、ありとあらゆる人間の芸術は死からの逃避なのだ、と。
(もしかしてハイデガー氏だったか、忘れた)
人は死へと向かうのだから、ダス・マン(ただの人)ではなく、ダーザインたれ、というのはハイデガー氏である。
しかし、しんざき氏もおっしゃるように、人間の決意なんてのは、たいていあてにならない。
大事なのは、環境だ、空間(動線)だ。
インターネットとの違い
ニュース記事を読んでいるだけでは、到底思考力はつかない。きやつらは、「分かりやすい」ように作られている。
分かりやすい文章など、大したことはないのである。
法律が難しいのは何故か。「厳密に」書こうとするからである。本来、ルール、規則なのだから、分かりやすいはずなのだ。月の残業時間を45時間とする。それだけでいいはずなのだが、条文にすると以下のようになる。
---抄-----------------------------
五 労働時間の延長及び休日の労働を適正なものとするために必要な事項として厚生労働省令で定める事項
前項第四号の労働時間を延長して労働させることができる時間は、当該事業場の業務量、時間外労働の動向その他の事情を考慮して通常予見される時間外労働の範囲内において、限度時間を超えない時間に限る。
前項の限度時間は、一箇月について四十五時間及び一年について三百六十時間とする。
第一項の協定においては、第二項各号に掲げるもののほか、当該事業場における通常予見することのできない業務量の大幅な増加等に伴い臨時的に第三項の限度時間を超えて労働させる必要がある場合に おいて、一箇月について労働時間を延長して労働させ、及び休日において労働させることができる時間並びに一年について労働時間を延長して労働させることができる時間を定めることができる。
この場合において、第一項の協定に、併せて第二項第二号の対象期間において労働時間を延長して労働させる時間が一箇月について四十五時間を超えることができる月数(一年について六箇月以内に限る。)を定めなければならない。
--------------------------------
そもそも、労働基準法の改正のため、労働基準法の立て付けについてよく理解しておかないと、よく分からない。
あと、様々な業種によって、特別な事項を定めているから長くなる。
何の話だっけ。そうそう、ネットの記事と読書の違いだ。
ネットは、高レスポンスが求められる。
独自性があり、様式を守って、分かりやすいものが評価される。
長々と要旨が捉えられない文章なりサイトなりは評価されない。
「要するに」
が大事だ。
仕事も割とそうだ。
結論、どうなのか、が上司への報告で大事だとされる。
自然って、そもそも描写できるのか、ってことである。
できますまい。
そして自己も、自分自身も、「要するに」などと換言できるものではありますまい。
そして眠りへ
1MBが、50万字だという。当該ブログのバックアップをとったら、6MBだった。記事数は1000。メタ文字などあるだろうけれども、単純計算で、300万字である。1記事3000字ぐらいと考えれば、ああ、それぐらいかな、とも思う。単行本1冊が、10万字ときくので、30冊分ぐらいである。
まぁまぁ書いてきたものだ。
それだけ書いてきても、まだまだ書ききれないのは、それだけ高度な生活をしてきたというわけでは全くなくて、そもそも、表現できることなど、ほんの僅かなのだということだ。
ちなみに、少し関係ないが、世界(自然)の認識を、やはり僕は「言語」で行っている気がする。
高速に、言語化を試みている気がする。
つまり、「考えて」行動している気がする。
これは、「俺思慮深くてすげーだろ」という意味では全くなくて、むしろ、感覚的に動けたほうが断然幸せで有能である。
どんだけ高速で思考しても、感覚よりも遅い。
こういう場合はこうする、ということを、体で覚えたほうが楽なのだ。
それが、できない。
こうしたらこうなる、こうなったらああなるから、こうしてああしよう、ということを思うのである。
――だから、ひとづきあいがつかれる、というのはあるかもしれない。
つまり、考えることが好きなのではなくて、そうなってしまうがゆえに、疲れるのである。
考えたくない。何も考えずに生きていきたい。――しかしそれは、生きているといえるのか。
(かっこ書きである。眠くなってきた。もう7時を過ぎている。ここで寝ると、また夕方に目が覚めるパターンで、夜眠れなくなって、月曜日も変な時間から起きて……と悪循環が目に見えているので、寝ないぞ。今日は寝ない。お昼寝は13時から14時までの一時間にするっ! あーそれにしても具合悪いな。だが、のどの痛みはひいてきて、鼻水がメインになってきている。いつものパターンだ。喉→咳→鼻水→治る、と。もしくは、咳と痰がしばらく続くパターンもあるな。とにかく、言えることは、体調はプライオリティ高い。間違いなく。次点で、書くことだろう。次点で、読むことだろう。しっかし、満員電車で、読書はおろかスマホ開くのすら大変だし、そもそも、睡眠が十分でないと、頭痛にとにかく耐えるしかないという悪循環。会社近くに引っ越すというのは手だが、しかし、初期費用、手間、運用費用を考えても、やる気が全く起きないな。しかし冷静に、他に何か手はないものか……)
今日の一言「つみたてNISA口座が開かない」「体調が悪い」
つみたてNISAを検討していると前回書いた。
口座申し込みのボタンをNET上で押して、翌日ぐらいには書類が届いていたが、いざ書類を書いて投函してから3日営業日ぐらい立つが、まだ開設準備中のままだ。
その間、どの商品を購入するか検討するべきということなのか。
eMAXIS Slim全世界株式
と
ニッセイ・インデックスバランスファンド(4資産均等型)
の組み合わせにしようか。知らなかったが、複数の商品を組み合わせることもできるようだ(証券会社によって本数が異なる)。
(2)
体調が悪い。
これが一番の問題だ。免疫力の低下を感じる。
仕事からもう少し早く帰れるといいんだが。
しかし、思ったのは、通勤中のストレスがこれまで以上に大きい。経路が変わって、所要時間は若干減ったぐらいである。しかし、乗り換えが増えたのと、電車の混雑具合がきつい。
駅構内を歩いているときも、大量の人が埋め尽くして流れていく様を見るだけでも具合が悪くなるってもんである。
そういった、仕事と、それの周辺に属することが、じわじわとストレスになっている気がする。
某友人のブログの一文を引用させて頂いた(何があったかは皆目つかない)。
とても興味があるテーマである。
『進撃の巨人』
という作品が、それについて言及していると思っている(勝手に)。
進撃の巨人は面白いが、やはり、「つまらない」と感じる人も多いようである(NETのレビューなど)。
すかっと巨人化して悪い奴を一掃。
という作品だったら、僕は早々に購入を止めていたと思う。
全然すかっとしないところが気に入っている。
壁の中の巨人を、血なまぐさい犠牲と努力ですべて倒しつくすことができた。しかし、それは新たな悲劇の始まりでしかなかった、というのが単行本での最新刊(25~28巻)あたりか。
これに対して、僕は、以下のように思う。
ルールと価値観(共通の価値)は別物だということだ。
――内部リンク
これが僕の悪い癖な気もする。
人の話に飽きてしまうというのは、逆に書けば、違うことに興味をもってしまう、ということでもある。
まぁいい、全然まとまらないが、とにかく、エレンとアルミンの決別である。
どういうことかというと、アルミンは、「話し合うべきだ」と主張する。しかし、もう時間がないと判断したエレンは戦う意志と行動を示す。
まぁまぁ、人はみな違うんだから、いろんな意見をもっていいじゃないか。
というのは正しい。
一方で、「その意見は間違っている」ということも正しい。
その矛盾が成り立つのは、ルールという次元と、価値観という次元が混在するからである。(混在とかいたが、別々に切り分けられる、という感じもする)
ルールは、守らなければいけない。
しかし、ルールは変えることも可能である。
価値観は、人それぞれの来歴によって醸成される。
価値観は、不変ではないが、すぐさま変わるようなものでもない。
価値観に善悪はない。
善悪が生じるのは、ルールとの「ズレ」が発生した時である。
「人の本能は闘争であり、争いでのみ本当の自己を解き放てる」
という価値観を抱くことは間違っていない。
しかし、ルールに基づかない闘争は犯罪だ。それは悪だ。
ボクシングや野球は、人間の闘争心を鎮火、浄化? 昇華? してくれるものかもしれない。だから、人の本能は闘争であり、適度な争いや競争がなければ堕落する、というのは、納得できる部分もなかろうか。
だからといって、ところかまわず力をふるってはダメだし、権力を笠にして弱いものを虐げてもダメだろう。
だが、それが「ダメ」なのは、そういうルールを、人間たちが「共通価値観」によって作り出したからだ。
しかし、そのルールの可変を担保するのは何か。
僕らが一般的に抱き得るだろうという「共通価値観」によってだ。
それを、システムとして組み込んでいるのが、選挙であるのは言うまでもない。
だから、選挙の投票率が下がれば、そのシステム自体の信頼性が揺らぐので、多くの政治家は投票を呼び掛けるのである。自身に票を入れてくれ、というだけではない。まぁ、投票年齢を下げるのは、若者のほうが御しやすいと考えているからなのかもしれないが、それは分からない。
しかし、まぁ、週間更新っていいな。体調が悪いとか、忙しいとか、様々な理由をつけて「やらないこと」はできるけれども、その言い訳をすべて断じるのがルーチン、週間、習慣である。
(かっこ書きである。とりあえず、体調を治さないとなぁ。体の治りが遅くなっているような。30代である。そして、きっとすぐに、40代になるだろう。その前に終わるかもしれないが。若いうちに、何をやっておけばよかったのか。不思議と、後悔はない。そりゃあ、小さな後悔はたくさんあるが――あの場面で、ああ言っておいたほうが印象がよかったはずだ、とか、あの人の感情をもっと良くさせられたのに、とか――じゃあ、大きな、何かしておいたほうがよかったことがあるかというと、特にないと思う。って、上の「たとえば」で書いたことを読んで思ったが、やっぱり、「他者に興味がない」といいつつ、過剰に人の反応等を気にしているのだな。そういう、過剰な気遣いをしなくなれば、人付き合いも嫌じゃなくなるのか。違う、と思う。「過剰」と僕が思うことは、ふつーの人は、ふつーにできるようなものなのだ。僕は、「意識」しないとできないのだ。そこがハンデで、ひでーなぁっていつも思う。僕のふつーをしているだけじゃあ、ふつーの人のふつーにはならないんだなってのが、いつも苛々させられる。頑張って、ようやくゼロになるってのは、気力がなくなる。とかって愚痴だ、愚痴を、どこかには言えないと、つらいのだ。ふつーの人は、友人と居酒屋で愚痴を言い合うのかもしれない。しかし、その手は僕は使えない。それすらも気を遣う可能性が高いからだ。……でも、本当にそうだろうか。そこまで気を遣う必要などあるのだろうか。……いや、いやいや、そうじゃない。別に人と会うこととか話すことはそこまで嫌なわけではない。ただ、「誰かと一緒に何かする」ということがないと、飽きるのである。何か一緒になって遊んだり、――だから、ゲームしたりとかは、めっちゃ楽しい。一人で遊ぶのもいいが、みんなでスマブラするのもいいよね。そこが問題だ。そこに別に「会話」(いやもちろん、ゲームしてても会話はあるが、ちょっと違う)は必要ないのだ。みんなと何か一緒に作るのも悪くない。だが、その「作る」工程自体は、やはり一人の作業なのではなかろうか。ってな、中学生レベルの思考でも、ちゃんと書いて、理解しておかねばなるまい。遠回りのように見えて、そもそも近道などない。本来的に、「無駄なこと」などない。無駄と判断するのは自分の意思である。他者にとっては無駄でも、自分が得た経験という意味では、無駄なことなどないのだ。例えば、最愛の人に気に入られようと努力しても結局みのらなかったとしても、その努力は無駄ではないのだ。からくりサーカスは、そんな些細なズレから、大きなズレに繋がってしまう人の業というのを、少年誌なはずなのに描いているのがすごいよなぁ。アニメは取り敢えずみている。いい場面など多い。しかし、やはり、漫画版のディテールは捨てがたいよなぁ)
前書き
(1)つみたてNISAを検討していると前回書いた。
口座申し込みのボタンをNET上で押して、翌日ぐらいには書類が届いていたが、いざ書類を書いて投函してから3日営業日ぐらい立つが、まだ開設準備中のままだ。
その間、どの商品を購入するか検討するべきということなのか。
eMAXIS Slim全世界株式
と
ニッセイ・インデックスバランスファンド(4資産均等型)
の組み合わせにしようか。知らなかったが、複数の商品を組み合わせることもできるようだ(証券会社によって本数が異なる)。
(2)
体調が悪い。
これが一番の問題だ。免疫力の低下を感じる。
仕事からもう少し早く帰れるといいんだが。
しかし、思ったのは、通勤中のストレスがこれまで以上に大きい。経路が変わって、所要時間は若干減ったぐらいである。しかし、乗り換えが増えたのと、電車の混雑具合がきつい。
駅構内を歩いているときも、大量の人が埋め尽くして流れていく様を見るだけでも具合が悪くなるってもんである。
そういった、仕事と、それの周辺に属することが、じわじわとストレスになっている気がする。
多様性
――「皆それぞれ意見があるよね」は確かに正しいのだが、そんな中で「その意見は認められない!」という人がいたとして、その人に「いやいや、間違った意見など存在しないでしょう」とかなんとか言うことが正しいのか――
某友人のブログの一文を引用させて頂いた(何があったかは皆目つかない)。
とても興味があるテーマである。
『進撃の巨人』
という作品が、それについて言及していると思っている(勝手に)。
進撃の巨人は面白いが、やはり、「つまらない」と感じる人も多いようである(NETのレビューなど)。
すかっと巨人化して悪い奴を一掃。
という作品だったら、僕は早々に購入を止めていたと思う。
全然すかっとしないところが気に入っている。
壁の中の巨人を、血なまぐさい犠牲と努力ですべて倒しつくすことができた。しかし、それは新たな悲劇の始まりでしかなかった、というのが単行本での最新刊(25~28巻)あたりか。
これに対して、僕は、以下のように思う。
ルールと価値観(共通の価値)は別物だということだ。
――内部リンク
言いたいことが違う
と、ここまで書いて、引用元での論点と、僕が書こうと思ったことが全然違っていることに気づいた。これが僕の悪い癖な気もする。
人の話に飽きてしまうというのは、逆に書けば、違うことに興味をもってしまう、ということでもある。
まぁいい、全然まとまらないが、とにかく、エレンとアルミンの決別である。
どういうことかというと、アルミンは、「話し合うべきだ」と主張する。しかし、もう時間がないと判断したエレンは戦う意志と行動を示す。
まぁまぁ、人はみな違うんだから、いろんな意見をもっていいじゃないか。
というのは正しい。
一方で、「その意見は間違っている」ということも正しい。
その矛盾が成り立つのは、ルールという次元と、価値観という次元が混在するからである。(混在とかいたが、別々に切り分けられる、という感じもする)
ルールと価値観
ルールは、脅かしてはいけない。ルールは、守らなければいけない。
しかし、ルールは変えることも可能である。
価値観は、人それぞれの来歴によって醸成される。
価値観は、不変ではないが、すぐさま変わるようなものでもない。
価値観に善悪はない。
善悪が生じるのは、ルールとの「ズレ」が発生した時である。
「人の本能は闘争であり、争いでのみ本当の自己を解き放てる」
という価値観を抱くことは間違っていない。
しかし、ルールに基づかない闘争は犯罪だ。それは悪だ。
ボクシングや野球は、人間の闘争心を鎮火、浄化? 昇華? してくれるものかもしれない。だから、人の本能は闘争であり、適度な争いや競争がなければ堕落する、というのは、納得できる部分もなかろうか。
だからといって、ところかまわず力をふるってはダメだし、権力を笠にして弱いものを虐げてもダメだろう。
だが、それが「ダメ」なのは、そういうルールを、人間たちが「共通価値観」によって作り出したからだ。
共通価値観
ルールは可変だ。しかし、そのルールの可変を担保するのは何か。
僕らが一般的に抱き得るだろうという「共通価値観」によってだ。
それを、システムとして組み込んでいるのが、選挙であるのは言うまでもない。
だから、選挙の投票率が下がれば、そのシステム自体の信頼性が揺らぐので、多くの政治家は投票を呼び掛けるのである。自身に票を入れてくれ、というだけではない。まぁ、投票年齢を下げるのは、若者のほうが御しやすいと考えているからなのかもしれないが、それは分からない。
感情も無視できない要素だが
――ほら、ぜんぜん関係ない話しになってしまった。しかし、まぁ、週間更新っていいな。体調が悪いとか、忙しいとか、様々な理由をつけて「やらないこと」はできるけれども、その言い訳をすべて断じるのがルーチン、週間、習慣である。
(かっこ書きである。とりあえず、体調を治さないとなぁ。体の治りが遅くなっているような。30代である。そして、きっとすぐに、40代になるだろう。その前に終わるかもしれないが。若いうちに、何をやっておけばよかったのか。不思議と、後悔はない。そりゃあ、小さな後悔はたくさんあるが――あの場面で、ああ言っておいたほうが印象がよかったはずだ、とか、あの人の感情をもっと良くさせられたのに、とか――じゃあ、大きな、何かしておいたほうがよかったことがあるかというと、特にないと思う。って、上の「たとえば」で書いたことを読んで思ったが、やっぱり、「他者に興味がない」といいつつ、過剰に人の反応等を気にしているのだな。そういう、過剰な気遣いをしなくなれば、人付き合いも嫌じゃなくなるのか。違う、と思う。「過剰」と僕が思うことは、ふつーの人は、ふつーにできるようなものなのだ。僕は、「意識」しないとできないのだ。そこがハンデで、ひでーなぁっていつも思う。僕のふつーをしているだけじゃあ、ふつーの人のふつーにはならないんだなってのが、いつも苛々させられる。頑張って、ようやくゼロになるってのは、気力がなくなる。とかって愚痴だ、愚痴を、どこかには言えないと、つらいのだ。ふつーの人は、友人と居酒屋で愚痴を言い合うのかもしれない。しかし、その手は僕は使えない。それすらも気を遣う可能性が高いからだ。……でも、本当にそうだろうか。そこまで気を遣う必要などあるのだろうか。……いや、いやいや、そうじゃない。別に人と会うこととか話すことはそこまで嫌なわけではない。ただ、「誰かと一緒に何かする」ということがないと、飽きるのである。何か一緒になって遊んだり、――だから、ゲームしたりとかは、めっちゃ楽しい。一人で遊ぶのもいいが、みんなでスマブラするのもいいよね。そこが問題だ。そこに別に「会話」(いやもちろん、ゲームしてても会話はあるが、ちょっと違う)は必要ないのだ。みんなと何か一緒に作るのも悪くない。だが、その「作る」工程自体は、やはり一人の作業なのではなかろうか。ってな、中学生レベルの思考でも、ちゃんと書いて、理解しておかねばなるまい。遠回りのように見えて、そもそも近道などない。本来的に、「無駄なこと」などない。無駄と判断するのは自分の意思である。他者にとっては無駄でも、自分が得た経験という意味では、無駄なことなどないのだ。例えば、最愛の人に気に入られようと努力しても結局みのらなかったとしても、その努力は無駄ではないのだ。からくりサーカスは、そんな些細なズレから、大きなズレに繋がってしまう人の業というのを、少年誌なはずなのに描いているのがすごいよなぁ。アニメは取り敢えずみている。いい場面など多い。しかし、やはり、漫画版のディテールは捨てがたいよなぁ)
今日の一言「非常に意義深いコメントを頂けて嬉しい」「そのまさに『満足』について書く」
凡人として生きることの放棄
周囲に合わせて生きることに拘らないようにしようという宣言である(たぶん)。
能力的な足りなさや衰えがありながら、いかに精神的埋没を回避するのか、といった舵取りである。
ぶっちゃけ、そっちのほうが大変だと思う。
能力的に低い人は、周りに合わせて生きていった方がまし(楽)である。
それで、ある程度幸せに生きられる人だって多いはずだ。
だが僕は、30年とそこそこで、やっぱりそれは合っていないのだ、と認めることにしよう。
で、次に、「じゃあどうするか」といった部分になってくるが、その前に、どのように僕が「変」なのかということを、もう少し分かっておく必要がある。それに対して非常に有意義だと思われるのが、最初に引用したコメントである。
民主主義社会では、絶対王政は存在しないのだ。
違憲立法審査権って、中学生ぐらいで習ったろう。
みんなが恐れる「法律」ってのを司っている裁判所という怖い機関も、弾劾裁判(裁判官を辞めさせる)ことができるのだ。
つまり、人類は歴史の中で、(人間はろくでもないから)権力を持ちすぎると悪いことになる、ことを学んだのである。
かといって、絶対王政>衆愚政治である、とどこかの偉い人も言ったそうな。
まぁ、ここは考え方になるだろうが、僕も納得する部分もある。
ただ、もっと厳密には、
絶対王政(良い感じ)>衆愚政治>絶対王政(悪い感じ)
って感じ、だと思う。
ダメな奴に権力渡ったら、衆愚政治でなだらかに破滅していくよりも、もっとひどいことになるだろう。
話がそれている、戻そう。
それは、どんなに権力を手にしても、どんなにお金を手にしても。
――いやしかし、お金があると、実はかなり自由になる。
何故ならば、働かなくても済むからだ。
しかし、投資の勉強をし、投資先を検討し、リスクに精神をすり減らす……というのは、働くといって過言ではなかろう。働き方の違いだ。
最近、ツイッターなどでバズっていた(使い方あってるのか? バズるってなんだ。バズワード? 何故そんな言葉が必要なのか)が、「写真家(漫画家、等々)は写真とってお金がもらえて楽しそうでsね」って「じゃあお前がやってみろ」という。
投資家も働かなくて楽しそうですね、という感想をもつ人がいるかもしれないが、僕の感じ方は違っている。それだって十分に働いている。
働く、というのは、要はお金を得る手段である。
何百年か前は、働くといえば、農業をする、という意味だった(ということを思い浮かべる人が多い)かもしれない。
一方、昨今は、第一地産業(農業林業漁業)は、ほとんどないんじゃなかろうか。調べた。
1950年ぐらいは、50%だったが、2000年ぐらいは、5%らしい。
ええええ、こんなに少ないんか。意外。やっぱり、データをみるって大事だね。
いやともかく、机に座って仕事することを、「お前らなぁ、そんなのは仕事じゃないんだ。足を使え、足を!」的に思う人もいるかもしれない。そういう風にして、「今の人たちは楽だなぁ」って思うのか。
そんなことを思う人は少ないかもしれない。だが、投資家に対して、「楽だなぁ」って思うのと、構造的には同じだ。
要するに僕が言いたいのは、生きるのに楽な方法などないのだ。
だが、大事なことだ。生きるのに楽な方法はない、ということだ。
これはつらい。
楽に生きることが人類の究極的な目標じゃないのか。いや、実現とか抜きにして。
「苦しいこと」
が、本来的に必要だというなら、まじでキリスト教的世界観に、みな脳がやられている。
(やられている、と書くと不謹慎かもしれないが、別に悪い意味で書いているつもりはあまりない。あまりない、のだが、こういう感覚が、あまり他者に理解されずに、イライラすることが多い。ちょっと表現的に過激にしてるだけじゃないか、ねぇ……)
キリスト教的世界観とは、要は、アダムがリンゴ食っちゃった、ということである。
それによって、男は――なんだっけ、わすれた、女は産みの苦しみが与えられたのだ。――男はあれか、食料を得ることに苦しむようになったんだっけか。調べればすぐ分かるだろうがこれも本筋ではないから置いておく。
つまり、人間とは、苦しむ生き物なのだ、ということ。
それを、認めていいのか。
――認めざるを得ない……。
これが、現時点率直な感想である。
前書き
まずは引用する。今回は、停滞と、満足、ということをキーに書いていきたい。「完全無欠に超幸せ」というのが本質的に存在するのであれば、人間や生命体は恐らく存在する意味を失うと思います。というのも、生物は恐らく、「自己保存、種の保存のためにより良い状態(環境、感情、状況など総合的に)を求める」という性質が備わっていて、感動したり、良かったり、満足したりというプラスやポジティブな感情は瞬間的、刹那的で、後から思い返すことはできてもその時の快感を同じように得ることはできないようになっていると思うからです。つまるところ、新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こうとするように出来ている。「誰もが満足する完璧な作品があれば新作は生まれなくなる」というのと発想的には同じです。人の場合であれば、完璧な頂点に至ってしまえばそれ以上生きるという理由がなくなってしまう。
――前々回コメントより
一般人として考えることの放棄
もう一つ、前提を引用する。これは自記事である。凡人として生きることの放棄
周囲に合わせて生きることに拘らないようにしようという宣言である(たぶん)。
能力的な足りなさや衰えがありながら、いかに精神的埋没を回避するのか、といった舵取りである。
ぶっちゃけ、そっちのほうが大変だと思う。
能力的に低い人は、周りに合わせて生きていった方がまし(楽)である。
それで、ある程度幸せに生きられる人だって多いはずだ。
だが僕は、30年とそこそこで、やっぱりそれは合っていないのだ、と認めることにしよう。
で、次に、「じゃあどうするか」といった部分になってくるが、その前に、どのように僕が「変」なのかということを、もう少し分かっておく必要がある。それに対して非常に有意義だと思われるのが、最初に引用したコメントである。
完璧な満足ない
前回のつみたてNISA的記事の中で、その前に、「じゃあ社長になったからって、他者を気にしなくてよくなるのか。否。社長は、株主照会にびくびくする」と書いた。民主主義社会では、絶対王政は存在しないのだ。
違憲立法審査権って、中学生ぐらいで習ったろう。
みんなが恐れる「法律」ってのを司っている裁判所という怖い機関も、弾劾裁判(裁判官を辞めさせる)ことができるのだ。
つまり、人類は歴史の中で、(人間はろくでもないから)権力を持ちすぎると悪いことになる、ことを学んだのである。
かといって、絶対王政>衆愚政治である、とどこかの偉い人も言ったそうな。
まぁ、ここは考え方になるだろうが、僕も納得する部分もある。
ただ、もっと厳密には、
絶対王政(良い感じ)>衆愚政治>絶対王政(悪い感じ)
って感じ、だと思う。
ダメな奴に権力渡ったら、衆愚政治でなだらかに破滅していくよりも、もっとひどいことになるだろう。
話がそれている、戻そう。
完璧な満足について
であるからにして、話がそれたが、要は、現代社会において、誰からの評価も恐れずに生きていくことは、原理的(政治的)に不可能なのである。それは、どんなに権力を手にしても、どんなにお金を手にしても。
――いやしかし、お金があると、実はかなり自由になる。
何故ならば、働かなくても済むからだ。
しかし、投資の勉強をし、投資先を検討し、リスクに精神をすり減らす……というのは、働くといって過言ではなかろう。働き方の違いだ。
最近、ツイッターなどでバズっていた(使い方あってるのか? バズるってなんだ。バズワード? 何故そんな言葉が必要なのか)が、「写真家(漫画家、等々)は写真とってお金がもらえて楽しそうでsね」って「じゃあお前がやってみろ」という。
投資家も働かなくて楽しそうですね、という感想をもつ人がいるかもしれないが、僕の感じ方は違っている。それだって十分に働いている。
働く、というのは、要はお金を得る手段である。
何百年か前は、働くといえば、農業をする、という意味だった(ということを思い浮かべる人が多い)かもしれない。
一方、昨今は、第一地産業(農業林業漁業)は、ほとんどないんじゃなかろうか。調べた。
1950年ぐらいは、50%だったが、2000年ぐらいは、5%らしい。
ええええ、こんなに少ないんか。意外。やっぱり、データをみるって大事だね。
いやともかく、机に座って仕事することを、「お前らなぁ、そんなのは仕事じゃないんだ。足を使え、足を!」的に思う人もいるかもしれない。そういう風にして、「今の人たちは楽だなぁ」って思うのか。
そんなことを思う人は少ないかもしれない。だが、投資家に対して、「楽だなぁ」って思うのと、構造的には同じだ。
要するに僕が言いたいのは、生きるのに楽な方法などないのだ。
完璧な満足についての話じゃないのか!
本題に入れない。満足の話、に入りたいのだが。だが、大事なことだ。生きるのに楽な方法はない、ということだ。
これはつらい。
楽に生きることが人類の究極的な目標じゃないのか。いや、実現とか抜きにして。
「苦しいこと」
が、本来的に必要だというなら、まじでキリスト教的世界観に、みな脳がやられている。
(やられている、と書くと不謹慎かもしれないが、別に悪い意味で書いているつもりはあまりない。あまりない、のだが、こういう感覚が、あまり他者に理解されずに、イライラすることが多い。ちょっと表現的に過激にしてるだけじゃないか、ねぇ……)
キリスト教的世界観とは、要は、アダムがリンゴ食っちゃった、ということである。
それによって、男は――なんだっけ、わすれた、女は産みの苦しみが与えられたのだ。――男はあれか、食料を得ることに苦しむようになったんだっけか。調べればすぐ分かるだろうがこれも本筋ではないから置いておく。
つまり、人間とは、苦しむ生き物なのだ、ということ。
それを、認めていいのか。
完璧な満足は存在しない
そこで、頂いたコメントの部分に入っていくのである。――認めざるを得ない……。
これが、現時点率直な感想である。
>つまるところ、新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こうとするように出来ている。
>「誰もが満足する完璧な作品があれば新作は生まれなくなる」というのと発想的には同じです。
なるほど……。
いやぁ全くその通りだなぁ、と思った次第。
しかし、人類も叡知で溢れている。ここで実は、袋小路ではないのだ。もう一つの生き方があるのだ。
それが解脱の道である。
ゴウタマ・シッダールタさんは、王子様で、めちゃくちゃ快楽しまくった結果(大げさに書いているだけだ)、やっぱり苦悩だな、ってことで、悟りを得るために出奔したのだ。
僕は正直、キリスト教の必要性はあまり思わないが(毎回書くが、宗教のことを書いているのではない。キリスト教を排斥する意図もない)、原始仏教の教えを正しく後世に伝えていくという役割は、あって然るべきだと思う。
繰り返し書くが、僕は宗教のことを書いているのではない。考え方であり、生き方の話である。
仏教とは、生き方であり、哲学であると思っているのだ。
そういう生き方もあるんだよ、ということは、決して忘れるべきではなかろう。
――だが、僕はまだ、世俗的な生き方においても、何か救済を模索したいと思っている。
何故ならば、食料やシステムがなければ、人は生き永らえないのである。仏教にも、典座という仕事があって、畑を耕したり、修行僧への食事を作ったりしたりするが、しかし、そこの割合が増えていけば、結局階級社会になりそうである。
それに、人間皆我欲にまみれているので、人類全体が仏教徒になるというのは、あまりにも現実的ではないと思うからだ。
(――そうしかし。「あまりにも現実的ではない」というのが、逆に物語、作品のアイディアとしては面白かったりする。現実的ではないが、それを愚直に求めようとする存在が、いい感じの悪役になってくれたり)
なので、世俗的な中にも、救済が求められなければいけない。
人間は完ぺきな満足ができない → 永遠に次なる刺激を求め彷徨う存在 → 不幸である
ということだ。
最後の結論が、おそらく、その他多くの人たちと、僕の感覚とのズレ、なのだと思う。
上の構造であっても、「別にそれが人間じゃん」と思う人たちのほうが多いのだろう、たぶん。
俺は、虚しさを感じる。
なんで?
と言われても、そりゃあ分からない。それが分かったら苦労しない。
とはいえ、
>人の場合であれば、完璧な頂点に至ってしまえばそれ以上生きるという理由がなくなってしまう。
というのも、よーっく分かるのである。
その通りだと思うのである。
その上で、しかし、
>新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こうとするように出来ている。
というのは、どこかしら、呪いのように感じられてしまうのだ。アダムめえええ! 余計なことをしてくれおって(原罪)!(不謹慎だ)
グノーシス主義ってのがあってだね、これも概要は知っていたが、とある友人に勧められた本を読んで面白かったのだけれども、要は世界は「不完全」なのである。
不完全だから、いろいろ問題が多くても仕方がないねっ(てへぺろ)。
ということだ。
だから、救済が必要だと思うのだ。
人類、すごいよ。
文句ばっかり言う人を、僕はほんと蔑んでいるが、歴史なり、物理学なり、ちゃんと勉強すれば(ちゃんと理解は、凡人だからできないんだけどね!てへぺろ)、なかなか、人類はすごいなぁって思う。
そのすごい成果は、「現状に満足せず、新しいことに好奇心をもって立ち向かっていった」からである。
だから、「完璧な満足」を求めるのは、人類にとって、間違い、なのだ。
人という生き物としては、やはり、
>新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こう
ということになるのだろう。
ここで一つ気づいたが、僕自身も、そうした人間の営み自体に、嫌悪感があるわけではないのだ。
そういえば、「成長」と「貢献」は大事なのだと、いつぞやかに書いたはずだ。
つまり、「失敗」したら死ぬ(ないしはボロボロになる)可能性を、僕は恐れているのではないか。
他者の評価、というのを恐れるのは、そして、評価されても、それが一時的なものとしか思えないし、逆にもっと高度なことを要求されるのではないかという薄ら寒さすら覚えるというのは、そういうことなのではないか。
つまり、ぼくは、通常は、60%ぐらいの力を発揮しつつ、余剰分の10%ぐらいを、投資(ここでいう投資はお金のことではなく、能力や知識・技術的な面において)にまわして、合計70%ぐらいで生きていけたらいいのではないか、ということかもしれない。
だから、僕は、「がんばる」という言葉が嫌いなのだ。
がんばるということは大事だと思いつつ。
その余剰分の10%が頑張るということなのだ。
110%を発揮するということではないのだ。
110%発揮してたら、いずれ壊れる。
%ではなくて。
がんばっていることで、総量が、最初が500HPだったのが、600HPになるということはあると思う。だが、500HPしかないのに、110%の、550HPを使ったら、「死ぬ」のだ。
120%がんばろう!
とか論理矛盾だ。馬鹿か。100%以上できるはずなかろう。
電車の乗車率200%とかってのは、あれは数字マジックだ。
ぎゅうぎゅう押し込めれば乗れるのだから、現実の100%は超えていないのだ。単に、座席とつり革の数に対しての比率だ。「当社比」的な怪しい数字なのだ。
そこらへんを、まず、みんな勘違いをなくしたほうがいい。
100%は100%なのだ。
(かっこ書きである。結論的なことはともかく、大事なことを書いた、気がする。まだ気持ちが熱いうちに、更に整理して、カクヨムのまとめにでも投稿しようかな。「人生一生勉強だよ」とか言われて、うわぁそんな人生くそみたいだ、死のう、と思ったわけではないが、それって楽しいの、とは思う。ただ、「勉強」という言葉自体も、少し感覚を変えれば、一生勉強、というのも悪くないと思う。ただ、勉強=苦しい、という感覚があるとして、それが一生続くとしたら、「人生一生苦しんだよ」という意味になるだろう。それは嫌だろう(笑)。でも一方で、今回の記事の問題は、「人生は一生苦しい(こともあればたまに楽しいこともある)」ということを、認めるしかないのか、ということだ。思ったのだが、「再チャレンジ性」が重要なんじゃなかろうか。要は、失敗しても、次またやってみよう、と思えるか。――話はものすごく飛躍するが、じゃあ、失敗し続ける人、はどうなるのか。学習性無気力になる、という心理学的なことは置いておいて、失敗し続ける人は、おそらく許容されないだろう。無価値だ、邪魔だ、となるだろう。そうならない仕組みがありえるのか。おそらく、失敗し続ける環境を変えるしかないだろう。失敗し続ける人も、違う環境なら、自分の能力を生かせるかもしれない。だが、僕はそういう答えはクソつまんねえ、と思ってしまう。それは解決になっていない(対処ではある)。そうなると、ベーシックインカム、という発想が出てくるかもしれない。生活保護とは少し違う。共産主義ともちょっと違う。例えば前回の記事で、夫婦だと23万円、だっけ? が必要だとしたら、23万円は、全世帯に配布するのである。要は、誰一人働かなくても、「ふつーの生活」――これは、食べるためにギリギリな生活、という意味ではなく、本当に充分ふつーの生活ができる水準で生きられるようにするのである。そうすると、自分の能力を生かせる場所で、楽しく働けて、失敗しても、失敗し続けても、まぁなんとかなるから、落ち込んじゃったら、しばらく休んで、また頑張ればいい……みたいな。――とか書いておいて、残念ながら、正直、僕は人間があまり信用ならんので、うまくいかない気がしてならない。でも発想としては悪くないと思う)
なるほど……。
いやぁ全くその通りだなぁ、と思った次第。
しかし、人類も叡知で溢れている。ここで実は、袋小路ではないのだ。もう一つの生き方があるのだ。
それが解脱の道である。
ゴウタマ・シッダールタさんは、王子様で、めちゃくちゃ快楽しまくった結果(大げさに書いているだけだ)、やっぱり苦悩だな、ってことで、悟りを得るために出奔したのだ。
僕は正直、キリスト教の必要性はあまり思わないが(毎回書くが、宗教のことを書いているのではない。キリスト教を排斥する意図もない)、原始仏教の教えを正しく後世に伝えていくという役割は、あって然るべきだと思う。
繰り返し書くが、僕は宗教のことを書いているのではない。考え方であり、生き方の話である。
仏教とは、生き方であり、哲学であると思っているのだ。
そういう生き方もあるんだよ、ということは、決して忘れるべきではなかろう。
――だが、僕はまだ、世俗的な生き方においても、何か救済を模索したいと思っている。
何故ならば、食料やシステムがなければ、人は生き永らえないのである。仏教にも、典座という仕事があって、畑を耕したり、修行僧への食事を作ったりしたりするが、しかし、そこの割合が増えていけば、結局階級社会になりそうである。
それに、人間皆我欲にまみれているので、人類全体が仏教徒になるというのは、あまりにも現実的ではないと思うからだ。
(――そうしかし。「あまりにも現実的ではない」というのが、逆に物語、作品のアイディアとしては面白かったりする。現実的ではないが、それを愚直に求めようとする存在が、いい感じの悪役になってくれたり)
なので、世俗的な中にも、救済が求められなければいけない。
救済とは何か
ここで、救済といっているのは、次の構造にもとづく。人間は完ぺきな満足ができない → 永遠に次なる刺激を求め彷徨う存在 → 不幸である
ということだ。
最後の結論が、おそらく、その他多くの人たちと、僕の感覚とのズレ、なのだと思う。
上の構造であっても、「別にそれが人間じゃん」と思う人たちのほうが多いのだろう、たぶん。
俺は、虚しさを感じる。
なんで?
と言われても、そりゃあ分からない。それが分かったら苦労しない。
とはいえ、
>人の場合であれば、完璧な頂点に至ってしまえばそれ以上生きるという理由がなくなってしまう。
というのも、よーっく分かるのである。
その通りだと思うのである。
その上で、しかし、
>新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こうとするように出来ている。
というのは、どこかしら、呪いのように感じられてしまうのだ。アダムめえええ! 余計なことをしてくれおって(原罪)!(不謹慎だ)
グノーシス主義ってのがあってだね、これも概要は知っていたが、とある友人に勧められた本を読んで面白かったのだけれども、要は世界は「不完全」なのである。
不完全だから、いろいろ問題が多くても仕方がないねっ(てへぺろ)。
ということだ。
だから、救済が必要だと思うのだ。
俺にとっての救済でいい
が。その救済なるものを、全人類的に当てはめようとすると、失敗するように、できるだけ高度なシステムが作り上げられている――要は資本主義だったり、民主主義だったり。人類、すごいよ。
文句ばっかり言う人を、僕はほんと蔑んでいるが、歴史なり、物理学なり、ちゃんと勉強すれば(ちゃんと理解は、凡人だからできないんだけどね!てへぺろ)、なかなか、人類はすごいなぁって思う。
そのすごい成果は、「現状に満足せず、新しいことに好奇心をもって立ち向かっていった」からである。
だから、「完璧な満足」を求めるのは、人類にとって、間違い、なのだ。
人という生き物としては、やはり、
>新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こう
ということになるのだろう。
ここで一つ気づいたが、僕自身も、そうした人間の営み自体に、嫌悪感があるわけではないのだ。
そういえば、「成長」と「貢献」は大事なのだと、いつぞやかに書いたはずだ。
成長や貢献をしない役立たずは死んだ方がいいか
問題は、「安心」という概念なのではなかろうか。つまり、「失敗」したら死ぬ(ないしはボロボロになる)可能性を、僕は恐れているのではないか。
他者の評価、というのを恐れるのは、そして、評価されても、それが一時的なものとしか思えないし、逆にもっと高度なことを要求されるのではないかという薄ら寒さすら覚えるというのは、そういうことなのではないか。
つまり、ぼくは、通常は、60%ぐらいの力を発揮しつつ、余剰分の10%ぐらいを、投資(ここでいう投資はお金のことではなく、能力や知識・技術的な面において)にまわして、合計70%ぐらいで生きていけたらいいのではないか、ということかもしれない。
だから、僕は、「がんばる」という言葉が嫌いなのだ。
がんばるということは大事だと思いつつ。
その余剰分の10%が頑張るということなのだ。
110%を発揮するということではないのだ。
110%発揮してたら、いずれ壊れる。
%ではなくて。
がんばっていることで、総量が、最初が500HPだったのが、600HPになるということはあると思う。だが、500HPしかないのに、110%の、550HPを使ったら、「死ぬ」のだ。
120%がんばろう!
とか論理矛盾だ。馬鹿か。100%以上できるはずなかろう。
電車の乗車率200%とかってのは、あれは数字マジックだ。
ぎゅうぎゅう押し込めれば乗れるのだから、現実の100%は超えていないのだ。単に、座席とつり革の数に対しての比率だ。「当社比」的な怪しい数字なのだ。
そこらへんを、まず、みんな勘違いをなくしたほうがいい。
100%は100%なのだ。
(かっこ書きである。結論的なことはともかく、大事なことを書いた、気がする。まだ気持ちが熱いうちに、更に整理して、カクヨムのまとめにでも投稿しようかな。「人生一生勉強だよ」とか言われて、うわぁそんな人生くそみたいだ、死のう、と思ったわけではないが、それって楽しいの、とは思う。ただ、「勉強」という言葉自体も、少し感覚を変えれば、一生勉強、というのも悪くないと思う。ただ、勉強=苦しい、という感覚があるとして、それが一生続くとしたら、「人生一生苦しんだよ」という意味になるだろう。それは嫌だろう(笑)。でも一方で、今回の記事の問題は、「人生は一生苦しい(こともあればたまに楽しいこともある)」ということを、認めるしかないのか、ということだ。思ったのだが、「再チャレンジ性」が重要なんじゃなかろうか。要は、失敗しても、次またやってみよう、と思えるか。――話はものすごく飛躍するが、じゃあ、失敗し続ける人、はどうなるのか。学習性無気力になる、という心理学的なことは置いておいて、失敗し続ける人は、おそらく許容されないだろう。無価値だ、邪魔だ、となるだろう。そうならない仕組みがありえるのか。おそらく、失敗し続ける環境を変えるしかないだろう。失敗し続ける人も、違う環境なら、自分の能力を生かせるかもしれない。だが、僕はそういう答えはクソつまんねえ、と思ってしまう。それは解決になっていない(対処ではある)。そうなると、ベーシックインカム、という発想が出てくるかもしれない。生活保護とは少し違う。共産主義ともちょっと違う。例えば前回の記事で、夫婦だと23万円、だっけ? が必要だとしたら、23万円は、全世帯に配布するのである。要は、誰一人働かなくても、「ふつーの生活」――これは、食べるためにギリギリな生活、という意味ではなく、本当に充分ふつーの生活ができる水準で生きられるようにするのである。そうすると、自分の能力を生かせる場所で、楽しく働けて、失敗しても、失敗し続けても、まぁなんとかなるから、落ち込んじゃったら、しばらく休んで、また頑張ればいい……みたいな。――とか書いておいて、残念ながら、正直、僕は人間があまり信用ならんので、うまくいかない気がしてならない。でも発想としては悪くないと思う)