今日の一言「久しぶりの学習カテゴリ」「創作ネタとして……」
ある程度類似の問題を複数解くことで、「正解」を導くことはできるようになっても、「理解」した気持ちになれない。
理解とは、正しく分類できることであるので、問題が解ければ、理解したと言えるかもしれない。しかし、その根拠が自分の中でしっくりくる……この表現も曖昧なわけだが、あやふやな状態では理解したとはいえないだろう。
そんな事柄は多くあるわけだが、その一つの「クロスサイトスクリプティング」というクラッキング手法について解説を試みることで、「理解」に近づくことを目的とする。
クロスサイトスクリプティング(以下「XSS」)とは、クラッキングである、という理解はまず簡単にできる。
問題は、その中身だ。いろんなネットワークを通じた攻撃手法(DoSとかセッションハイジャックとかSQLインジェクション)というものがある中で、XSS特有の「手がかり」は何かを理解する必要がある。
WEBサイトの理解をまず確かめよう。このブログもWEBサイトである。昔はホームページという言葉の方がよく用いられていたと思う。「ホーム」でもなくなってきたから、WEBという表現が主流になったのだとか聞いたことがあったような。
で、脆弱性のあるWEBサイト、ということだが、基本、単にブラウザ(WEBサイト閲覧に使われるアプリ)に表示するだけのサイトは、基本問題にならない。
もっと分解して表現すると、端末(クライアント)とサーバという概念がある。
要はパソコンが端末。サーバはネットワークの先にあるすごい機械だ(かっこわらい)。
で、表示だけするサイトとは、クライアントからサーバに「見せて」って要求して、サーバから「はいどうぞ」ってやりとりがあって、それだけである。
で、その「見せて」ってのは、URL(アドレス)で示される。もっといえば、URLは、IPアドレス+ファイルの場所を示す情報である。その文字列を数値(IPアドレス)に変換してくれるのが「DNSサーバ」である。――わきみちにそれた。
要は、「見せて」→「どうぞ」だけのやりとりのサイトは、脆弱性もない(と言い切ってしまうのは危険なんだろうが)。
問題になるのは、端末とサーバで、双方向なやり取りがあるサイトである。
もちろん、単なる読者、閲覧者にとっては、基本一方向であるが、コメントとか投稿できる。そして筆者も、端末で書いた記事を、ネットワークを通じてサーバに送り込んでいる。
これらの双方向な情報のやりとりのためには、「フォーム」が使われる。要は「入力欄」。
このフォームに、データベースを操作する言語のSQLを入力して、データを破壊したり抽出したりするのが「SQLインジェクション」だ。
これは分かりやすいと思う。
では本題の、XSSとは、どういったものなのか。
あれ、そうすると、僕は、「一方向のサイトは大丈夫」と書いたが、URLに埋め込みができるのなら、どんなサイトも危ないってことになりはしないか。
また、国家試験問題(H25秋応用情報)で、こんな問題↓がある。
あれ、やっぱり、そうすると、僕が書いてきた、「フォーム」(入力欄)=入力フィールドに悪意あるスクリプトを埋め込む、という「理解」が正しい気がしてくる。
https://www.shadan-kun.com/blog/measure/1052/
上の記事を参照するに、やはり、フォームを使ってスクリプトを埋め込む手法が紹介されている。しかし、納得がいかなかったのでさらに調べると、以下サイトで少し分かった気がした。
とほほのWWW入門
http://www.tohoho-web.com/ex/xss.html
――ってか、懐かしい!(笑)
僕がWEBサイトの基礎を学び始めた十数年前によく参照させて頂いていた。
コピーライトが2019年になっていて、まだ運営されていたんだなぁとしみじみ。(個人運営だと思ってたけど、どうなんだろ)
――要するに、両方の手法があるということだ。
URL埋め込み型(反射型)と、掲示板埋め込み型(格納型)があるということだ。
なるほど。ここまで調べてようやく分かってきた(理解してきた)気がする。
ちなみに、問題を解くことに関しては間違えはなかった、という点が、本記事の裏の主旨である。
複数の問題を解くことはできても、なんとなく分からなかったXSSという概念。要は僕の言葉で理解すれば、以下のようになる。
「簡易プログラム(スクリプト)を利用した攻撃手法。正規のWEBサイトにスクリプトを仕掛けることに特徴がある」
前書き
何度勉強しても、「分かった」という気持ちになれない事柄というのがある。ある程度類似の問題を複数解くことで、「正解」を導くことはできるようになっても、「理解」した気持ちになれない。
理解とは、正しく分類できることであるので、問題が解ければ、理解したと言えるかもしれない。しかし、その根拠が自分の中でしっくりくる……この表現も曖昧なわけだが、あやふやな状態では理解したとはいえないだろう。
そんな事柄は多くあるわけだが、その一つの「クロスサイトスクリプティング」というクラッキング手法について解説を試みることで、「理解」に近づくことを目的とする。
クロスサイトスクリプティング
とりあえず、辞書的に引用。クロスサイトスクリプティングとは、ネットワークを通じた攻撃手法の一つで、保安上の弱点(脆弱性)のあるWebサイトを踏み台に、悪意のあるプログラムをそのサイトの訪問者に送り込む手法。また、そのような攻撃に利用される脆弱性のこと(XSS脆弱性)。
IT用語辞典e-words
クロスサイトスクリプティング(以下「XSS」)とは、クラッキングである、という理解はまず簡単にできる。
問題は、その中身だ。いろんなネットワークを通じた攻撃手法(DoSとかセッションハイジャックとかSQLインジェクション)というものがある中で、XSS特有の「手がかり」は何かを理解する必要がある。
WEBサイトの基本
ポイントとなる要素として、「WEBサイトを踏み台に」という点だ。WEBサイトの理解をまず確かめよう。このブログもWEBサイトである。昔はホームページという言葉の方がよく用いられていたと思う。「ホーム」でもなくなってきたから、WEBという表現が主流になったのだとか聞いたことがあったような。
で、脆弱性のあるWEBサイト、ということだが、基本、単にブラウザ(WEBサイト閲覧に使われるアプリ)に表示するだけのサイトは、基本問題にならない。
もっと分解して表現すると、端末(クライアント)とサーバという概念がある。
要はパソコンが端末。サーバはネットワークの先にあるすごい機械だ(かっこわらい)。
で、表示だけするサイトとは、クライアントからサーバに「見せて」って要求して、サーバから「はいどうぞ」ってやりとりがあって、それだけである。
で、その「見せて」ってのは、URL(アドレス)で示される。もっといえば、URLは、IPアドレス+ファイルの場所を示す情報である。その文字列を数値(IPアドレス)に変換してくれるのが「DNSサーバ」である。――わきみちにそれた。
要は、「見せて」→「どうぞ」だけのやりとりのサイトは、脆弱性もない(と言い切ってしまうのは危険なんだろうが)。
問題になるのは、端末とサーバで、双方向なやり取りがあるサイトである。
双方向なサイト
双方向なサイトとは、このブログのようなものである。もちろん、単なる読者、閲覧者にとっては、基本一方向であるが、コメントとか投稿できる。そして筆者も、端末で書いた記事を、ネットワークを通じてサーバに送り込んでいる。
これらの双方向な情報のやりとりのためには、「フォーム」が使われる。要は「入力欄」。
このフォームに、データベースを操作する言語のSQLを入力して、データを破壊したり抽出したりするのが「SQLインジェクション」だ。
これは分かりやすいと思う。
では本題の、XSSとは、どういったものなのか。
XSSの手法
先ほどの辞書の続きを引用。典型的なXSS攻撃では、攻撃者はターゲットとなる脆弱なサイトへのリンクを設置した罠サイトを設け、閲覧者がリンクをクリックするよう仕向ける。その際、リンクのURLのパラメータ部分にスクリプト(JavaScriptコード)やHTMLタグの断片を埋め込み、閲覧者が脆弱なサイトを開くとページ内に自動的にそれらの悪質なスクリプトが埋め込まれ、即座に閲覧者のWebブラウザで実行される。
あれ、そうすると、僕は、「一方向のサイトは大丈夫」と書いたが、URLに埋め込みができるのなら、どんなサイトも危ないってことになりはしないか。
また、国家試験問題(H25秋応用情報)で、こんな問題↓がある。
クロスサイトスクリプティングの手口はどれか。
正解:WEBアプリケーションに用意された入力フィールドに、悪意あるJavaScriptコードを含んだデータを入力する
あれ、やっぱり、そうすると、僕が書いてきた、「フォーム」(入力欄)=入力フィールドに悪意あるスクリプトを埋め込む、という「理解」が正しい気がしてくる。
要するに
クロスサイトスクリプティング(XSS)のセキュリティ対策とは?https://www.shadan-kun.com/blog/measure/1052/
上の記事を参照するに、やはり、フォームを使ってスクリプトを埋め込む手法が紹介されている。しかし、納得がいかなかったのでさらに調べると、以下サイトで少し分かった気がした。
とほほのWWW入門
http://www.tohoho-web.com/ex/xss.html
――ってか、懐かしい!(笑)
僕がWEBサイトの基礎を学び始めた十数年前によく参照させて頂いていた。
コピーライトが2019年になっていて、まだ運営されていたんだなぁとしみじみ。(個人運営だと思ってたけど、どうなんだろ)
――要するに、両方の手法があるということだ。
URL埋め込み型(反射型)と、掲示板埋め込み型(格納型)があるということだ。
なるほど。ここまで調べてようやく分かってきた(理解してきた)気がする。
ちなみに、問題を解くことに関しては間違えはなかった、という点が、本記事の裏の主旨である。
複数の問題を解くことはできても、なんとなく分からなかったXSSという概念。要は僕の言葉で理解すれば、以下のようになる。
「簡易プログラム(スクリプト)を利用した攻撃手法。正規のWEBサイトにスクリプトを仕掛けることに特徴がある」
あとがき
(かっこ書きである。XSSについて、他書籍とかの説明で、「(スクリプトを使って)別のWEBサイトを表示し……」とかって説明しているから分けわからなくなったのである。ひどい。まぁその、人によって(知識とか頭の回転とか語彙力とか)分かりやすさは異なるから、上の僕の説明が分かりやすいかというと一概ではないだろうが、少なくても僕にとっては分かりやすい。先日の人類普遍の6原則(他者を傷つけない、報復できる、善行には返礼、強者は弱者に配慮、約束守る、嘘つかない)も、とりあえず暗記して~自分の言葉で表現して~を繰り返さないと覚えられない。ちなみに、教養とは、「概念知識」の多さだと思ってる。概念ってのは抽象のことだ。その抽象的な表現ができる事柄が多い人を、教養がある人という。モノ・コトの知識がたくさんあっても、教養があるとは言わない。かといって、具体的なことが不要なわけはない。大事だ。だから別に教養が大事だというわけでもない。ただ、創作する上では、たくさんあった方がいいだろう)PR
今日の一言「今しかできないことが分かれば苦労しない」「素直になるってことかな」
今回は違うので、どういった方向や感覚になるかは少し楽しみである。
さて、本題としては、タイトルのとおり、「今しかできないこと」というのに着目しようというわけであるが、まずはこれについて書こうと思った理由に触れる。
3人のコメントだ。
例によって、IM氏、SG氏、KK氏とさせて頂く。まずはポイントとなるコメントを引用。
●IM氏
仮面。
人は、外界で生きていくうえで、外向きの顔をつくらなければならない。
僕は、この辺が、高校生か、大学時代ぐらいか、よく覚えていないが、そのあたりから特に、ものすごく気持ち悪いと思っていた。
気持ち悪いが、仕方がないものだと思った。
だから僕は、「感情のコントロール」的な表現をよく使っていた(自分用の日記の中で)。
今思えば、「適切なふるまい」というものを、いつも強く意識しようとしていたのだと思う。
適切!
噴き出してしまいそうだ。いやしかし、当時はえらく真面目だったのだ。
いやむしろその傾向は、今もないとは言えないだろう。
が、しかし、これこそがペルソナともいえる。
自分が見せたい自分ともいう。ペルソナを被るのは社会的要請かもしれないが、その被るペルソナを選ぶことはできるんじゃないだろうか。
※ いや、「ペルソナ」といったとき、それはゲームシリーズのことも指す。今回はそちらについて書こうという意味ではない、ということ。これは、文脈上明らかだが、一部の人には伝わらない可能性がある。――というつまらない言及は、実は重要でもある。これは明らかな例であるが、「感情」的なものを書いていくと、途端に膨大な解釈が生まれ、その共感はより困難なものになるからだ。
いやぁしかし、懐かしい思いもある。レポートとか書くとき、至極形式的に書こうとすると「止まる」のだ。ほんとにこれ、説得力あるのか? 論理的な文章になっているのか? ここの表現というか文章は必要なのか? とか、いろいろ浮かぶから。
楽しくない文章たちだ。
もう少し、素直になって書いていくべきだ。
さて、しかし、ペルソナと今しか書けないことは、無関係ではないと思う。思う、がまだ、そこに到達するまでの前提が書ききれていいない。
ええと、まず明らかなのは、「みんな外向きの顔をもって生活している」だろう、ということが、三者のコメントから分かるということである。
(KK氏の引用部分だけでは読み取れないが、方向性的にはそう思われる)
いや確かに、僕は前の記事で「自分以外の人はみな自己を確立してしっかり生きているのだ」(キリッ)的なことを書いて、KK氏から、「そんなことないのでは?」とご指摘いただいたわけであるが、言い訳がましいが、そこまで思ってるわけではないのだ。いやむしろ、IM氏の仰る様に、「相手が幸せがどうかなんて絶対にわからないという命題というか、事実もある」のである。
ただ思うのは、他者存在は、「自分ってこういう人間だ」という認識については、ちゃんとあるのではないかということである。
その「自分ってこういう人間だ」というのは、内面的なものであり、他者に映っている自分、とは違う。ああ、このあたりが話を難しくする。次の小見出しで少し整理しよう。
・僕が思う「自分」(a)
・他者から見える僕(b)
そして、違う観点からも2つある。
・思考内面的な「自分」(c)
・身体物理的な「自分」(d)
階層化して表現すれば、
1 内面的な自分
(1) 僕が思う自分
(2) 他者から見える自分
2 身体的な自分
というようになる。
今後、どっちの「自分」の意味で使っているかは、明確にしていかないと話が分かりづらくなるだろう(自分にとっても)。
理由は、時間は不可逆だからだ。以上。
……もう一つ理由を挙げれば、身体的な自分の規定も無視できないからだ。
身体的、といったときに、すぐさま浮かぶのは「顔」であるが、それだけではない。筋骨隆々具合とか、背の高さとかメタボリックシンドロームなのかとか、皴が多いか、男女どちらかなどなど、身体的属性というのも非常にたくさんある。
そして、そうした身体的属性というのも、時間とともに変化する。
だから、今しかできないことをする……むしろ、するしかないともいえる。
しかしそれは詭弁で、本当に、本当に今しかできないか、というのは、きっと違う。
ロッククライミングをするのは、別に今じゃなくても、70歳になってからでもできるかもしれない。(相応の準備が必要だろうが)
そういう意味で、「今しかできないこと」が何か、というのは難しい。
難しいものの、しかし、僕は、「素直になる」ということで、それに近いことは分かると思っている。
本当にそうだ。僕が苦しいというか、目標というか目的が定まらない理由がコレでもある。
とことん素直になるのだ。
思考的な面における解決策としては、とにかく素直に書いていく、ということであり、それがこのブログの目的でもある。
いやこれ、難しいことなんだよ。
最初に書いたペルソナの話のとおり、仮面はなかなか外せない。その中で、素直になれる場所というのは、中々ないのだ。
一つ笑えない笑い話を書けば、僕は彼女とか元妻(妻! って表現が非常に違和感だ。20代での出来事であったが、妻と書くとなんだかもう長年連れ添って――的な印象がある)にその仮面を外すことをしてしまったことが、上手くいかなかった原因なのではないかと思われる。
要は、確かに、文章としてこのブログを読む分には、それほど影響はないが、身近にこういった「変な」人間がいると、非常に具合が悪い、ということなのだろう。
そういう意味で、シロクマ氏は妻子もいて、社会的にも自身のブログもつながっていて、すごい、というか、羨ましい妬ましい(かっこわらい)。
(ただそれは、精神科医という特殊な状況によるものといえる。氏は自分を「凡庸な人間」と仰られているが、まぁ、本人も恐らく本気でそう思っているわけではなかろうし、周りもそんな風にみていないだろう)
僕は今のところ仕事しているから社会的身分(かっこわらい)的なのはあるのだろうが、同じことを、無職のニートが書いていたらどうだろう。途端に気持ち悪さ度が上がるだろう。ニートをでぃすったのはではない、どちらにせよ、こうした文章は一般的に気持ち悪いということだ)
要は、素直になるのは難しい。(けれども、それを目指すべきだ)
前書き
今回の記事は、割とこう、「〇〇について書こう」ということが明確になっている上で書き始める。逆に、いつもの記事は、なんかよう分からん気持ちのままで書き始めるか、ルーチンだから仕方がないかといった形で書き始めている。そのうち筆が進む場合もあれば、憂鬱のまま終わるときもある。今回は違うので、どういった方向や感覚になるかは少し楽しみである。
さて、本題としては、タイトルのとおり、「今しかできないこと」というのに着目しようというわけであるが、まずはこれについて書こうと思った理由に触れる。
3人のコメントだ。
例によって、IM氏、SG氏、KK氏とさせて頂く。まずはポイントとなるコメントを引用。
●IM氏
周りを見渡すと大体の人が欲しいものがわかっているし、どうしたら幸せになれるかわかっているように「感じる」んだよな。
●SG氏
「ここで自分にしか出来ない何かがあるはず! 発展に貢献できる!」みたいな主張をして就活していくことに割と嫌気がさしていました。
●KK氏
「生きる意味」的なことを考えずとも、確固たる自己をもち、生活できている人のほうが大半な気がすると仰っていましたが僕は本当にそうなのかなと疑問に思っています。
●SG氏
「ここで自分にしか出来ない何かがあるはず! 発展に貢献できる!」みたいな主張をして就活していくことに割と嫌気がさしていました。
●KK氏
「生きる意味」的なことを考えずとも、確固たる自己をもち、生活できている人のほうが大半な気がすると仰っていましたが僕は本当にそうなのかなと疑問に思っています。
ついでに、というと失礼だが、もうひとつシロクマ氏の記事も引用させていただく。
●シロクマ氏
実際には人は変わっていくものだし、人が変わっていくにつれて、書けること・表現できることも変わっていくものだ。変わっていくからこそ、今しか書けないことは貴重で、今書かなければ喪われてしまうものだと心得なければならない。
――シロクマの屑籠●シロクマ氏
実際には人は変わっていくものだし、人が変わっていくにつれて、書けること・表現できることも変わっていくものだ。変わっていくからこそ、今しか書けないことは貴重で、今書かなければ喪われてしまうものだと心得なければならない。
ペルソナ
ペルソナはユングという方が述べた心理学の用語である。アトラス社のゲームシリーズではない(※)。仮面。
人は、外界で生きていくうえで、外向きの顔をつくらなければならない。
僕は、この辺が、高校生か、大学時代ぐらいか、よく覚えていないが、そのあたりから特に、ものすごく気持ち悪いと思っていた。
気持ち悪いが、仕方がないものだと思った。
だから僕は、「感情のコントロール」的な表現をよく使っていた(自分用の日記の中で)。
今思えば、「適切なふるまい」というものを、いつも強く意識しようとしていたのだと思う。
適切!
噴き出してしまいそうだ。いやしかし、当時はえらく真面目だったのだ。
いやむしろその傾向は、今もないとは言えないだろう。
が、しかし、これこそがペルソナともいえる。
自分が見せたい自分ともいう。ペルソナを被るのは社会的要請かもしれないが、その被るペルソナを選ぶことはできるんじゃないだろうか。
※ いや、「ペルソナ」といったとき、それはゲームシリーズのことも指す。今回はそちらについて書こうという意味ではない、ということ。これは、文脈上明らかだが、一部の人には伝わらない可能性がある。――というつまらない言及は、実は重要でもある。これは明らかな例であるが、「感情」的なものを書いていくと、途端に膨大な解釈が生まれ、その共感はより困難なものになるからだ。
自分と他者とのずれ
「今しか書けないことを」という話と、「ペルソナ(役割ベースの顔)」と、一体何が関係あるのか、と思ってしまい、筆が止まる。いやぁしかし、懐かしい思いもある。レポートとか書くとき、至極形式的に書こうとすると「止まる」のだ。ほんとにこれ、説得力あるのか? 論理的な文章になっているのか? ここの表現というか文章は必要なのか? とか、いろいろ浮かぶから。
楽しくない文章たちだ。
もう少し、素直になって書いていくべきだ。
さて、しかし、ペルソナと今しか書けないことは、無関係ではないと思う。思う、がまだ、そこに到達するまでの前提が書ききれていいない。
ええと、まず明らかなのは、「みんな外向きの顔をもって生活している」だろう、ということが、三者のコメントから分かるということである。
(KK氏の引用部分だけでは読み取れないが、方向性的にはそう思われる)
いや確かに、僕は前の記事で「自分以外の人はみな自己を確立してしっかり生きているのだ」(キリッ)的なことを書いて、KK氏から、「そんなことないのでは?」とご指摘いただいたわけであるが、言い訳がましいが、そこまで思ってるわけではないのだ。いやむしろ、IM氏の仰る様に、「相手が幸せがどうかなんて絶対にわからないという命題というか、事実もある」のである。
ただ思うのは、他者存在は、「自分ってこういう人間だ」という認識については、ちゃんとあるのではないかということである。
その「自分ってこういう人間だ」というのは、内面的なものであり、他者に映っている自分、とは違う。ああ、このあたりが話を難しくする。次の小見出しで少し整理しよう。
自分という語を用いるときの注意
一人称における「僕」と、「自分」という語を用いるときに示しているものは、違うと思う。「自分」には、二つの意味がある。・僕が思う「自分」(a)
・他者から見える僕(b)
そして、違う観点からも2つある。
・思考内面的な「自分」(c)
・身体物理的な「自分」(d)
階層化して表現すれば、
1 内面的な自分
(1) 僕が思う自分
(2) 他者から見える自分
2 身体的な自分
というようになる。
今後、どっちの「自分」の意味で使っているかは、明確にしていかないと話が分かりづらくなるだろう(自分にとっても)。
今しかできないことをするべきな理由
話が、まとまらないが、先に結論めいたことを書けば、僕らが使える手段としては、「今しかできないことをする」しかないからだ。理由は、時間は不可逆だからだ。以上。
……もう一つ理由を挙げれば、身体的な自分の規定も無視できないからだ。
身体的、といったときに、すぐさま浮かぶのは「顔」であるが、それだけではない。筋骨隆々具合とか、背の高さとかメタボリックシンドロームなのかとか、皴が多いか、男女どちらかなどなど、身体的属性というのも非常にたくさんある。
そして、そうした身体的属性というのも、時間とともに変化する。
だから、今しかできないことをする……むしろ、するしかないともいえる。
しかしそれは詭弁で、本当に、本当に今しかできないか、というのは、きっと違う。
ロッククライミングをするのは、別に今じゃなくても、70歳になってからでもできるかもしれない。(相応の準備が必要だろうが)
そういう意味で、「今しかできないこと」が何か、というのは難しい。
難しいものの、しかし、僕は、「素直になる」ということで、それに近いことは分かると思っている。
素直になるとは
IM氏の言葉で、「まじで自分の欲しいものって何で、どうしたらよい気分になれるかなんて本当にわからん」というのもあった。本当にそうだ。僕が苦しいというか、目標というか目的が定まらない理由がコレでもある。
とことん素直になるのだ。
思考的な面における解決策としては、とにかく素直に書いていく、ということであり、それがこのブログの目的でもある。
いやこれ、難しいことなんだよ。
最初に書いたペルソナの話のとおり、仮面はなかなか外せない。その中で、素直になれる場所というのは、中々ないのだ。
一つ笑えない笑い話を書けば、僕は彼女とか元妻(妻! って表現が非常に違和感だ。20代での出来事であったが、妻と書くとなんだかもう長年連れ添って――的な印象がある)にその仮面を外すことをしてしまったことが、上手くいかなかった原因なのではないかと思われる。
要は、確かに、文章としてこのブログを読む分には、それほど影響はないが、身近にこういった「変な」人間がいると、非常に具合が悪い、ということなのだろう。
そういう意味で、シロクマ氏は妻子もいて、社会的にも自身のブログもつながっていて、すごい、というか、羨ましい妬ましい(かっこわらい)。
(ただそれは、精神科医という特殊な状況によるものといえる。氏は自分を「凡庸な人間」と仰られているが、まぁ、本人も恐らく本気でそう思っているわけではなかろうし、周りもそんな風にみていないだろう)
僕は今のところ仕事しているから社会的身分(かっこわらい)的なのはあるのだろうが、同じことを、無職のニートが書いていたらどうだろう。途端に気持ち悪さ度が上がるだろう。ニートをでぃすったのはではない、どちらにせよ、こうした文章は一般的に気持ち悪いということだ)
要は、素直になるのは難しい。(けれども、それを目指すべきだ)
あとがき
(かっこ書きである。うーむ。まとまらなかったな。俺って文章力ないんだな……と落ち込むというよりも、そもそも「表現したいこと」というのが曖昧なのだから仕方がないともいえる。むしろ、明確に言語表現できる程度の悩みなら、さっさと行動にうつして解決をはかったほうがよいのである。よく分からないことを頑張って表現しようとすること自体に意義がある。ああ、だから、そう、誰かと愚痴を言い合って解決する可能性もなきにしもあらずだが、僕はその方法に価値は見出していない。だって消えるじゃん。いや、録音という現代文明テクノロジーを使ってもいいが、逆に無駄が多い。口頭というのは、伝える速度は速いだろうが、しかし、再利用性が低い。文書も、このブログの量になってくるとわけわからん、だが、それでも、口頭よかましだ。――いや、音読した分という意味では、口頭も悪くない。ただ、音読はあくまで音読なのであって、口頭でこれらの文章内容が導かれるための時間的な意味においてであって……ってまぁ、このあたりのことは、これぐらい書いておけば自分には意味が通じるからいいか。そう、素直になるための方法の一つに、「未来の自分にも伝わるか」という視点で書いてみるとよいと思う。2つ効果がある。一つは、分かりやすくなっているかのセルフチェックが入ることと、未来の自分という想定があることによって、今の自分を相対的に視ることができるというメリットだ。――話が変わるが、「コメント」感謝である。「ああ、そう、そうなんですよ!」「ああもう、ほんとよくわかります!」って感じな部分が多いが、しかし、それを返信にするのも如何かと思ったりする。小学生並みの感想。気が利いてウィットに富んだ返信をしたいものだ。難しいのは、「よく分かります」といったときに、「じゃあその分かったことを言ってみろや!」ってなったとき、口頭なら、可能な限りオウム返しすることが、「分かった」ことの証明になるだろうが、文書の場合、じゃあ、相手のコメントをコピペしたら分かったことになるのか、ならない。じゃあ、相手のコメントを要約したらよいのか、違う。要約するよりも、そのままコピーしたほうが、「分かった」度は高いだろう当たり前だ。そうしたとき、コメントの返信って、何をすべきなのか、――とかそういうことを思ったりするのが、僕の思考の無駄部分なのだろうが、しかし、割とそういうのは楽しかったりする)
今日の一言「書こうか」
https://mikuriyan.hateblo.jp/entry/ted-on-morality
https://mikuriyan.hateblo.jp/entry/ted-on-morality-2
http://unfixation.gjpw.net/mean/停滞ができないということ
僕は頭が良くないので、記憶力もよくないので、繰り返し復習し、覚えようという意欲をもつことで、ようやく、覚えることができる。
さぁ、実際、何も参照せずに、(セオドア・カジンスキーの言った人類普遍の六原則を)以下に書き出してみよう。
・他者を傷つけてはならない
・未然に傷つけられることを防ぐため又は既に傷つけられた報復のため他者を傷つけることは許される
・他者の善行には返礼しなければならない
・強者は弱者に配慮しなければならない
・嘘をついてはならない
・自分のした約束は守らなければならない
――自分の言葉での書き出しのため、完全一致はしないだろう。だが、だいたい合っているのではなかろうか。
僕は、新しい概念については、こうやって、「とりあえず記憶して」「繰り返しインプット・アウトプットし」「自分の言葉でアウトプットする」ことで、徐々に浸透させることができる。
頭の良い人は、一瞬でできて、それを忘れないでいられるのだろう。すごい。羨ましい。
繰り返しになるが、このブログは、凡人による、凡人のための考えるブログである。ヱリイト氏たちを相手にしているわけではないのだ。
まずもって、「これほんと普遍なのか」と思う。
性善説、性悪説ってある。ぶっちゃけ、どっちが正しいとか証明は難しいから、とりあえず法治が望ましいよね、という「正義」(ルール)になっているのだと思う。
ただ、性善・性悪とか、そもそも「善悪」というのは、「相対概念」であって、いかようにも解釈可能に思える一方で、六原則は、解釈の限界性についても述べている点が面白いなと思う。
いくら、2番目の報復の原理的なのを拡大解釈しても、苛々してもうどうしようもなかったから、無抵抗の子供を虐げた、とかいうのは、どんな人類社会においても、「OK!」というのは無理がある気がする。
そう考えると、あながち、六原則は、当たっているのではないかと思った。最初は、爆弾テロリストが考えた思想ということで、少々身構えたが、前掲リンクの紹介を読んでいると、そんなに突飛な思想ではない気がしてきた。
そうしたとき、やけに例外的な事象に遭遇するな、と思う。
と、思いながら、しかし、確かに、そうした原則に従って、みな生きている気もする。
それに懐疑的な思いを抱くのは、どこか、人間としての性質を失ってしまっている気もしてくる。そういう意味で、僕は凡人ではないのだろう。
(凡人未満のダメ人間なのか、凡人というカテゴリにすら含まれない外れ者なのかもわからんが)
――とまぁ、その、自分と世界との距離感に違和感がある人、周囲となじめず孤立する人……そうした人が、「自分」の世界における位置付けに疑問をもち、それが「生きる意味」という問いになっていくものだとしたとき、そういう人が、世界を変えようと思うと、何か大きな事件を起こすのだろうと、ふと思った。
世界の革命家たちも、動機として、そういったものをもっていた人もいたかもしれない。
しかし、今、現代社会としては、「革命」を起こすだけの大義はないのである。
意味を失った高層ビルが立ち並んだとしても、だからといって、それを爆弾で破壊するだけの大義はないのである。そこには、あまりにも自分勝手な動機しか存在しない。
しかし、だからといって、その動機自体が、悪いものとは思えない。
実質、確かに、現代社会には、精神科医フランクル氏がいった、実存的空虚感が漂っているように思われるのである。
世界がどうであろうが、それが問題なのではない。生きる意味の次元は、過去記事でも取り急ぎ大きく3つあると述べたわけだが、大事なのは、「自分」においてのものである。
その自分を中心に置いた上での思考のことを、「実存」というのであって、それが虚ろである、という意味で、フランクルさんの言っている「実存的空虚感」という言葉が、僕的にはぴったりだなぁと思うわけであって、実際問題、フランクル氏の著書を読んだことはあるけれども、難しい本だし、しっかり理解できたかは分からない。
分からないけれども、しかし、「取り急ぎ生きていくには困らないが、何かこう湧き上がるようなエネルギーがないよな」といった感覚については、割と緊急性があって、割と重要なんだろうと思うわけである。
別にそんな熱量いらなくね?
満足して生きる必要なんてないんじゃないの。
どうせ皆いずれ死ぬんだから精いっぱいやったら。
とかっていうアドバイスは、的を射ているのであろうが、しかし、根本がズレているのである。正解なんだけど、不正解なのだ。
ただ快楽を貪るだけ貪るために、苦労して頑張って生きる。マッチポンプ……というのが何だか僕はイメージできないが、要は、自分で問題を作って、自分で問題を解決して、の繰り返しのようである。
いやいや、偉大なるニーチェ氏は、永劫回帰、とかいっていたっけ?
特に意味はないけれど繰り返されるメリーゴーランド。
それだけで十分価値があるぜ! ……という掛け声が、僕は冷めて虚しく聞こえる。
誰かのために、輸血とか、骨髄バンクとかすれば救われるのか。
アニメのエンジェルビーツでそんな似たようなシーンがあったけれど、うーん、そんなもんなのか。
きっとこの感覚も、なかなか誰にも伝わらないだろうが、よく芸能人とか、女子高生的なのがインスタグラムに「渋谷のカフェで〇〇!」的な奴である(いみふ!)。
――だから、別に、その、哲学的なことを書こうとか思ってるわけではないのである。
人類普遍な、何か、誰かを救おうとか、そういうわけでもないのだ。
最大限頑張って、考えて、「楽しく」あろうとして、これなのである。
もっといえば!
もっといえばだな。「楽しいこと」しているのである。
俺は、面白い作品に触れていることを除いて、仕事していることなんかより、よっぽど――今回の記事の筆の進みは遅いけれども、それでも――この記事書いているほうが楽しい。
価値あることしたなぁ……よかったなぁと、そう思うぐらいである。
ついでに、もう一つ、フランクル氏関連で思い出しとけ。人生の3つの意味。
『人間とは何か』のP.111からふれられている「三つの価値カテゴリー」。
創造価値、体験価値、そして態度価値。
病気になって、体の自由が奪われてもなお、最後の態度価値は奪われない。人は生きるに値するのだと、強いメッセージ。
前書き
人類普遍の六原則について教えてもらったのは、8月11日のことだったのか。https://mikuriyan.hateblo.jp/entry/ted-on-morality
https://mikuriyan.hateblo.jp/entry/ted-on-morality-2
http://unfixation.gjpw.net/mean/停滞ができないということ
僕は頭が良くないので、記憶力もよくないので、繰り返し復習し、覚えようという意欲をもつことで、ようやく、覚えることができる。
さぁ、実際、何も参照せずに、(セオドア・カジンスキーの言った人類普遍の六原則を)以下に書き出してみよう。
・他者を傷つけてはならない
・未然に傷つけられることを防ぐため又は既に傷つけられた報復のため他者を傷つけることは許される
・他者の善行には返礼しなければならない
・強者は弱者に配慮しなければならない
・嘘をついてはならない
・自分のした約束は守らなければならない
――自分の言葉での書き出しのため、完全一致はしないだろう。だが、だいたい合っているのではなかろうか。
僕は、新しい概念については、こうやって、「とりあえず記憶して」「繰り返しインプット・アウトプットし」「自分の言葉でアウトプットする」ことで、徐々に浸透させることができる。
頭の良い人は、一瞬でできて、それを忘れないでいられるのだろう。すごい。羨ましい。
繰り返しになるが、このブログは、凡人による、凡人のための考えるブログである。ヱリイト氏たちを相手にしているわけではないのだ。
法律や道徳とは違う
さて、今回の記事は、上の六原則が、ようやく中期記憶的になってきたので、少しそれについて思ったことを書こうと思う。まずもって、「これほんと普遍なのか」と思う。
性善説、性悪説ってある。ぶっちゃけ、どっちが正しいとか証明は難しいから、とりあえず法治が望ましいよね、という「正義」(ルール)になっているのだと思う。
ただ、性善・性悪とか、そもそも「善悪」というのは、「相対概念」であって、いかようにも解釈可能に思える一方で、六原則は、解釈の限界性についても述べている点が面白いなと思う。
いくら、2番目の報復の原理的なのを拡大解釈しても、苛々してもうどうしようもなかったから、無抵抗の子供を虐げた、とかいうのは、どんな人類社会においても、「OK!」というのは無理がある気がする。
そう考えると、あながち、六原則は、当たっているのではないかと思った。最初は、爆弾テロリストが考えた思想ということで、少々身構えたが、前掲リンクの紹介を読んでいると、そんなに突飛な思想ではない気がしてきた。
それにしても捻じ曲がった世界よ
では仮に、人類は、上のような六原則的な性質をもっているとする。そうしたとき、やけに例外的な事象に遭遇するな、と思う。
と、思いながら、しかし、確かに、そうした原則に従って、みな生きている気もする。
それに懐疑的な思いを抱くのは、どこか、人間としての性質を失ってしまっている気もしてくる。そういう意味で、僕は凡人ではないのだろう。
(凡人未満のダメ人間なのか、凡人というカテゴリにすら含まれない外れ者なのかもわからんが)
――とまぁ、その、自分と世界との距離感に違和感がある人、周囲となじめず孤立する人……そうした人が、「自分」の世界における位置付けに疑問をもち、それが「生きる意味」という問いになっていくものだとしたとき、そういう人が、世界を変えようと思うと、何か大きな事件を起こすのだろうと、ふと思った。
世界の革命家たちも、動機として、そういったものをもっていた人もいたかもしれない。
しかし、今、現代社会としては、「革命」を起こすだけの大義はないのである。
意味を失った高層ビルが立ち並んだとしても、だからといって、それを爆弾で破壊するだけの大義はないのである。そこには、あまりにも自分勝手な動機しか存在しない。
しかし、だからといって、その動機自体が、悪いものとは思えない。
実質、確かに、現代社会には、精神科医フランクル氏がいった、実存的空虚感が漂っているように思われるのである。
別に漂っていなくても構わない
実存的空虚感とか、精神科医のうんたらとか、別にどうでもいい。世界がどうであろうが、それが問題なのではない。生きる意味の次元は、過去記事でも取り急ぎ大きく3つあると述べたわけだが、大事なのは、「自分」においてのものである。
その自分を中心に置いた上での思考のことを、「実存」というのであって、それが虚ろである、という意味で、フランクルさんの言っている「実存的空虚感」という言葉が、僕的にはぴったりだなぁと思うわけであって、実際問題、フランクル氏の著書を読んだことはあるけれども、難しい本だし、しっかり理解できたかは分からない。
分からないけれども、しかし、「取り急ぎ生きていくには困らないが、何かこう湧き上がるようなエネルギーがないよな」といった感覚については、割と緊急性があって、割と重要なんだろうと思うわけである。
別にそんな熱量いらなくね?
満足して生きる必要なんてないんじゃないの。
どうせ皆いずれ死ぬんだから精いっぱいやったら。
とかっていうアドバイスは、的を射ているのであろうが、しかし、根本がズレているのである。正解なんだけど、不正解なのだ。
早く死んでしまった方がいい
極論だ、論理矛盾だ、意味不明だ、と言われるだろうが、僕は、上のような方針は、イコール、「早く死んだ方がましだ」ということと同義であると捉えている。いや違うんだろうが、しかし、そう思えてしまってならないのだ。ただ快楽を貪るだけ貪るために、苦労して頑張って生きる。マッチポンプ……というのが何だか僕はイメージできないが、要は、自分で問題を作って、自分で問題を解決して、の繰り返しのようである。
いやいや、偉大なるニーチェ氏は、永劫回帰、とかいっていたっけ?
特に意味はないけれど繰り返されるメリーゴーランド。
それだけで十分価値があるぜ! ……という掛け声が、僕は冷めて虚しく聞こえる。
誰かのために、輸血とか、骨髄バンクとかすれば救われるのか。
アニメのエンジェルビーツでそんな似たようなシーンがあったけれど、うーん、そんなもんなのか。
暗黒に奔ろうとしているので思い出せ
あのー、この記事は、あれだ、ふつーの人の、日常的なヤツだ。きっとこの感覚も、なかなか誰にも伝わらないだろうが、よく芸能人とか、女子高生的なのがインスタグラムに「渋谷のカフェで〇〇!」的な奴である(いみふ!)。
――だから、別に、その、哲学的なことを書こうとか思ってるわけではないのである。
人類普遍な、何か、誰かを救おうとか、そういうわけでもないのだ。
最大限頑張って、考えて、「楽しく」あろうとして、これなのである。
もっといえば!
もっといえばだな。「楽しいこと」しているのである。
俺は、面白い作品に触れていることを除いて、仕事していることなんかより、よっぽど――今回の記事の筆の進みは遅いけれども、それでも――この記事書いているほうが楽しい。
価値あることしたなぁ……よかったなぁと、そう思うぐらいである。
ついでに、もう一つ、フランクル氏関連で思い出しとけ。人生の3つの意味。
『人間とは何か』のP.111からふれられている「三つの価値カテゴリー」。
創造価値、体験価値、そして態度価値。
病気になって、体の自由が奪われてもなお、最後の態度価値は奪われない。人は生きるに値するのだと、強いメッセージ。
あとがき
(かっこ書きである。3つの価値カテゴリー。3つめ、「態度価値」だったのか。忘れていたなぁ。偉ぶるつもりなど一切ないし、謙遜でもなく、ほんとに、上の本全部読んだんだけど、理解できていない部分である。いや、概念的には何となく分かる。だが、「よく分からない」。ぜひ、決して安くない本だが、図書館とかで見かけて読む機会があったら、P.111からの部分だけでもいいから読んで、何かこの凡人に教えてほしい。創造価値、体験価値は、読めばわかると思う。態度価値ってのが、ああ、人間にはあるんだろうなぁ、ってのも、なんとなく感じられるだろうと思う。だが……しかし、それは、本当に、もう極限に陥らなければ分からないものなのだろうか。もしそうだとしたら、僕がこうして書いてきたすべてのことは結局、その「極限なる状態」によって結論付けられるだけのものであって、無意味だったのか。そう考えることの恐ろしさもある。そういう意味で、僕は、以前これもコメントで指摘されたのだが、「答え」を見つけたくないとすら思っているのかもしれない。でも、そんな状態が、いつまで続くのか。40歳、50歳になっても、まだ、「意味」を探し続けているのか。――と書くと、諸先輩方のディスになりそうだが、そういう意味でもない。40歳、50歳というのは比喩であって、要は、死ぬ間際まで考え続ける、求め続ける、そして、「不満足」な状態が続くのだろうか、ということである。であるならば、早めに死んだ方がましではないだろうか、と思う。その、「不満足」な状態が、それはそれで「楽しい」ならいいだろう。だが、そんなことあるんだろうか。俺は思うに、ますます、歳をとるにつれて、「選択肢」が減っていき、「無意味性」が強固になっていく気がする。この焦り、この不安は、なかなか表現できないと思う。――態度価値だが、ふと思うに、要は、先日の胃カメラで「この苦しさが続くなら死んだ方がまし……」という状態でいてなお、誰か他者のことを思いやって、誰かを助けようとするような態度――そうした態度をとれることが、「価値」なのだろうと思う。そういう意味で、僕は、フランクル氏の言いたいことを、何となく理解していると思う。だが、「理解」が、救いや満足になるわけではないのだ。真面目に考えれば考えるほど、他者のアドバイスを聞こうとすればするほど、このあたりの思考をすれば苦しみが増す。だが、マゾヒストでは決してないが、この苦しみは、「わりといい」と思う。少なくても、仕事をしているよりは有意義だ――というのは言い過ぎか。だが、「誰のためになっているかさっぱり分からない仕事」よりかは、少なくても、自分のためにはなっているから、言い切って構わないと、僕は思う)
今日の一言「15分制限」「コメント頂いたことを考える」
だが、仕事なんてもんを気にしている場合ではなく、小説の感想を書くこと、生きる意味を徹底して考えることの方が重要なのは言うまでもないのだ。しかし、眠い、だるい。
そうやって生きていくことが重要なのは間違いないだろう。しかし、それだけに生きられるかどうかは、別の話。人は、食べるためだけに生きているのではない、と言われる所以。
「お前は、たくさんのものを手放せないでいる。執着していることで苦しんでいるのだ」
といったコメントを頂いた(と解釈する)。
その鋭い指摘の中の「もの」には、人、モノ、コト、すべて含まれるだろう。
その中には、きっと、「過去」もあるだろう。
過去――つまり、自分の来歴。そして、これ(来歴)への解釈、というのが、生きる意味というのの、また違った表現であると思う。
といったときに、その来歴(いわゆる、自分がどんな経験をし、感じ、どんな風に育ってきたか)を脇に置いて、「新しい自分」を見つけて満足していく、というのが、――言葉にするのは簡単ながら、とても難しいのは見えてくる。
自分というのが、自我同一性、アイデンティティ、自己、と表現していったときに、要するに「記憶」であるともいえる。
自分という認識が、自分をつくっているのだといえる。トートロジー。我思う故に我あり。
前の小見出し内での表現を用いれば、「来歴」。
その来歴が「よくないもの」だったとき、それを「忘れる」ことができれば、まぁまぁ、「新しい自分」として、「そこそこの幸せ」を感じながら生きていくことはできるかもしれない。
空虚な表現だ。こういうのを机上の空論という。
僕は無理だと思う。無理だと諦めることは良くないが、「矛盾」があると思う。
自分があるから、楽しんだり、苦しんだりするのだ。
その自分=「来歴」であるとしたら、過去の自分の経験やその解釈について忘れたとき、なかったことにしたとき、手放したとき、そこに、自分はあるのか。いやないだろう。
ただ、生きる意味を考えるにあたって、「感覚を起点にすべきだ」といった(と解釈した)コメントにおいて、大事なことだなと思った、「自分」ということについて今回の記事にしておいた。
知ったかぶりをしてキルケゴール氏を引用すれば、「自己とは総合だ、関係だ」ということになるだろうが、僕の考えで行けば、「自己とは記憶だ、来歴だ」となる。
メモ:記憶に関しては、「記銘・保持・再生」という仕組みで捉えられて、リボーの法則というのがあって、「新しいことから忘れていく」「知的なことより感覚的、または体得的なことの方が忘れにくい」といったものがある。
と、なれば(自己が記憶であり、来歴であったとするならば)。
生きる意味というのは、不断に変わっていくものであるのだろうと、そう思った、というメモまでで、この記事は時間切れになる。
前書き
眠い、が、仕事で気になるやつ、やっつけておかねばいけないやつなどが気になって昨日も25時ぐらいの就寝だったが6時前ぐらいに目が覚める。だが、仕事なんてもんを気にしている場合ではなく、小説の感想を書くこと、生きる意味を徹底して考えることの方が重要なのは言うまでもないのだ。しかし、眠い、だるい。
理想に生きるか現実に死ぬか
得たものもある。良いこともある。そこそこ幸せ。そうやって生きていくことが重要なのは間違いないだろう。しかし、それだけに生きられるかどうかは、別の話。人は、食べるためだけに生きているのではない、と言われる所以。
「お前は、たくさんのものを手放せないでいる。執着していることで苦しんでいるのだ」
といったコメントを頂いた(と解釈する)。
その鋭い指摘の中の「もの」には、人、モノ、コト、すべて含まれるだろう。
その中には、きっと、「過去」もあるだろう。
過去――つまり、自分の来歴。そして、これ(来歴)への解釈、というのが、生きる意味というのの、また違った表現であると思う。
といったときに、その来歴(いわゆる、自分がどんな経験をし、感じ、どんな風に育ってきたか)を脇に置いて、「新しい自分」を見つけて満足していく、というのが、――言葉にするのは簡単ながら、とても難しいのは見えてくる。
新しい自分
その難しさとは何か。自分というのが、自我同一性、アイデンティティ、自己、と表現していったときに、要するに「記憶」であるともいえる。
自分という認識が、自分をつくっているのだといえる。トートロジー。我思う故に我あり。
前の小見出し内での表現を用いれば、「来歴」。
その来歴が「よくないもの」だったとき、それを「忘れる」ことができれば、まぁまぁ、「新しい自分」として、「そこそこの幸せ」を感じながら生きていくことはできるかもしれない。
空虚な表現だ。こういうのを机上の空論という。
僕は無理だと思う。無理だと諦めることは良くないが、「矛盾」があると思う。
自分があるから、楽しんだり、苦しんだりするのだ。
その自分=「来歴」であるとしたら、過去の自分の経験やその解釈について忘れたとき、なかったことにしたとき、手放したとき、そこに、自分はあるのか。いやないだろう。
生きる意味は変化し続ける
だからどうした、だからどうする、というのは、この記事では、15分程度では、到底書ききれない。ただ、生きる意味を考えるにあたって、「感覚を起点にすべきだ」といった(と解釈した)コメントにおいて、大事なことだなと思った、「自分」ということについて今回の記事にしておいた。
知ったかぶりをしてキルケゴール氏を引用すれば、「自己とは総合だ、関係だ」ということになるだろうが、僕の考えで行けば、「自己とは記憶だ、来歴だ」となる。
メモ:記憶に関しては、「記銘・保持・再生」という仕組みで捉えられて、リボーの法則というのがあって、「新しいことから忘れていく」「知的なことより感覚的、または体得的なことの方が忘れにくい」といったものがある。
と、なれば(自己が記憶であり、来歴であったとするならば)。
生きる意味というのは、不断に変わっていくものであるのだろうと、そう思った、というメモまでで、この記事は時間切れになる。
あとがき
(かっこ書きである。理想に死ぬか、現実に生きるか、ということを考えたいが、時間が足りない。俺は思うに、「理想」が、そもそもボロボロになっている気がする。ってか。将来の夢、って、言葉、昔、聞いたことあるだろう。大人諸君は、聞かないだろう。子供に関係する人は、問うかもしれない。将来? 大人と言われる歳になっても、全然イメージできないのに、子供は分かるというのだろうか。不思議な仕組みである。将来=仕事、というのであれば、正直、何の夢も俺はなかった(いやもちろん、暫定的に定めて進学していったわけだが)。「働く」ということに、特に何の感慨も見いだせなかった。労働は国民の義務なのであって、それと、将来の「夢」とは、まったく違うのではなかろうか。お医者さんになって人の命を救いたい、弁護士になって弱者を守りたい、プロ野球選手になって夢を与えたい……。なんだろうな。要するに、生きる意味を考えると、僕が表現するときに、「人生って、何が楽しいのだろうな?」という問いな気もする。そういう感覚的なサムシング。そうしたとき、「いや、(生きる意味を)考える必要は特にないのではないか」という問いは、感覚的な本質に届かない解決方法にならざるをえないのである。いや、だから、人生を、「人生」と大きな枠組みでとらえる必要なんてなくて、狩猟採集生活のように、「蓄え」という概念は特になくて、日々日常の中で充足していくというのが、本来人間としてあるべき姿なのかもしれない。暦をつかって、予測して、農業やってる場合じゃないのである。もっと即物的に、毎日毎日、一日、一時間、一分単位に、ただ生きていくことが大事なのだ。――んなわけあるか。んなわけ、あるかどうか、分からないかもしれない。ただ、それはそれで難しいだろう。いやだって、「記憶」はあるのだ)
今日の一言「目が覚めた」
わりと愚痴みたいな記事を多く書いてしまったが故、心配してくださった方もいる。
申し訳ない。まぁきっと大丈夫。何が。いやきっと何かが。これで残業代も出なかったら間違いなく要検討になるが、その辺は今のところ大丈夫だろう。まぁそういう問題でもないのだが。
頭の中でループしたから、眠いけれども、時間が15分程度しか取れなかろうが、書くことにした。
とか前提を書いていたら、もう残り10分ぐらいだ。どこまで書けるのか。
それは、きっと、酸っぱい葡萄の防衛機制ではなく、思ったことがないから、そうなんだと思う。
出世……って何か。立身出世とか言われるが、「権力を得たい」という欲求だろうか。他者に命令して、思うが儘に操る的な。
実態はともかく、法社会なのであれば、それは不可能である。
灰色な薄暗い欲求を満たすことなど、ふつうはできない。
そも。そもそも、僕は、他人を支配したいという欲求は特にない。「構わないで欲しい」と思うことはよくあれども。
「よく切れるナイフでよい」と、フルメタのマデューカス中佐は言った。
が、それに近いとはいえ、使われる道具であることは、良し、とは思えない。
道具。
そうだろうと思う。
意味は、自ら、引き受けていくものであろう。
そうしたとき、否が応なく、周囲から要求される意味について問わざる得ない。
しかし、だ。
宇宙規模において、一個人の価値は「ない」。
地球規模において、同じく「ない」。
人類規模において、「ない」。
社会規模において、……このあたりから、影響を与えられる人はいるかもしれない。だが稀だ。稀だし、更に、著名人や、政治家諸氏、お金持ち氏などなど、影響をもつ人たちをいろいろ列挙できるかもしれないが、それでも、「多少」レベルだ。稀で、多少だ。(多少って意味なんだっけ? とりあえず「ちょっと」という意味で使ってみた)
じゃあ、家族規模においてはどうか。そりゃあ、意味が「ある」ってことになる。
旦那さんや奥さん、お父さんやお母さんってのは、それだけで、その役割は代替不可能である。
そして、失われた時の甚大さは、関係者(ここでは「家族構成員」)にとっては、筆舌尽くせぬ。
……という問いは、あまり重要ではない。「価値」とは、自分から世界への方向と、世界から自分への方向とがある。としたときの、「世界」が、前述の「宇宙」だったら、両方とも「ない」。
家族からの意味、価値だったらあるかもしれない。
しかし、昨今、家族をつくるというのは、「自由」になった。
恋愛も自由、結婚も自由。
となったとき……時間切れ。
前書き
夢、をみていた。家族の夢。エレクトーンの音で目が覚める。僕は昼寝でもしていたのか。母の奏でる演奏だった。幼いころ教えてもらった曲だった。目が覚めた僕は、「昔教えてくれたね、覚えているよ」と母に伝える。母は、少し照れながら、「もう忘れて全然弾けないよ」と言いながら、日常の家事へと戻っていった。目覚める
そして本当に目覚める。しかし、布団から出るだけのやる気がない。面倒だ。今日も仕事か。わりと愚痴みたいな記事を多く書いてしまったが故、心配してくださった方もいる。
申し訳ない。まぁきっと大丈夫。何が。いやきっと何かが。これで残業代も出なかったら間違いなく要検討になるが、その辺は今のところ大丈夫だろう。まぁそういう問題でもないのだが。
頭の中でループしたから、眠いけれども、時間が15分程度しか取れなかろうが、書くことにした。
とか前提を書いていたら、もう残り10分ぐらいだ。どこまで書けるのか。
身の振り方
別に出世したいとかはないのである。それは、きっと、酸っぱい葡萄の防衛機制ではなく、思ったことがないから、そうなんだと思う。
出世……って何か。立身出世とか言われるが、「権力を得たい」という欲求だろうか。他者に命令して、思うが儘に操る的な。
実態はともかく、法社会なのであれば、それは不可能である。
灰色な薄暗い欲求を満たすことなど、ふつうはできない。
そも。そもそも、僕は、他人を支配したいという欲求は特にない。「構わないで欲しい」と思うことはよくあれども。
「よく切れるナイフでよい」と、フルメタのマデューカス中佐は言った。
が、それに近いとはいえ、使われる道具であることは、良し、とは思えない。
道具。
人は自分の人生を生きているか
生きる意味を考えること、それが必要かどうか、意味があるかどうか、それは分からない。某SRGN氏は、「意味は後天的に付与されるものである」と仰っておられた。そうだろうと思う。
意味は、自ら、引き受けていくものであろう。
そうしたとき、否が応なく、周囲から要求される意味について問わざる得ない。
しかし、だ。
宇宙規模において、一個人の価値は「ない」。
地球規模において、同じく「ない」。
人類規模において、「ない」。
社会規模において、……このあたりから、影響を与えられる人はいるかもしれない。だが稀だ。稀だし、更に、著名人や、政治家諸氏、お金持ち氏などなど、影響をもつ人たちをいろいろ列挙できるかもしれないが、それでも、「多少」レベルだ。稀で、多少だ。(多少って意味なんだっけ? とりあえず「ちょっと」という意味で使ってみた)
じゃあ、家族規模においてはどうか。そりゃあ、意味が「ある」ってことになる。
旦那さんや奥さん、お父さんやお母さんってのは、それだけで、その役割は代替不可能である。
そして、失われた時の甚大さは、関係者(ここでは「家族構成員」)にとっては、筆舌尽くせぬ。
しかし
自分一人の人生に、価値はあるのだろうか。……という問いは、あまり重要ではない。「価値」とは、自分から世界への方向と、世界から自分への方向とがある。としたときの、「世界」が、前述の「宇宙」だったら、両方とも「ない」。
家族からの意味、価値だったらあるかもしれない。
しかし、昨今、家族をつくるというのは、「自由」になった。
恋愛も自由、結婚も自由。
となったとき……時間切れ。