今日の一言「ルーチンは欠かしちゃダメだ」
習慣付けすることが何より大事だ。
と僕は思うのだが、どうにも、会社とか友人関係とかその他もろもろ、他者と関わる必要がある場合は、中々思うように進まない。
ええと、できるだけ、近況をメモしておこうと思う。例えば小学校の絵日記で、天気のことを書いたりするが、それって、意味がないのでは、と思われるかもしれないが、事実僕もそう思っていたと思うが、今思うに、天気も関係あると思う。そのとき、どういった状況だったのかというのは、自分の書くモチベーションや、書くないようにも影響すると思うのである。
まぁ、絵日記で、まとめてかこうとして、前の天気がわからなくなって、あー面倒だなとか思ったことはよくあった。今にして思えば、その天気が間違っていようが、学校の先生はそれで成績を下げるはずはない、というか、確認などしないのだろうが、僕は真面目に考えすぎてしまっていたのだ。
だから、学校の勉強はよくできても、仕事はできない、とかいう評価がなされる人がいるのだ。
無限にある仕事のなかで、ポイントをおさえないと、評価の問題だけじゃなく、そもそも終わらない。
最低限、メール等郵送物の誤発送を防ぐとか、そういう取り組みは必要だが、「そこ重要じゃないんだけどな」ということに拘ってはならないのだ。利益にならないから。
利益!
例えば先週、僕は、クレームの処理をまた行った。(ああ、それも、報告書などに書いておかなければ、自分自身でも忘れてしまうだろう)
そのなかで、はじめは非常にお怒りであって、根拠を明確に示せとか言われていた。
根拠を示した。
しかし、その根拠がおかしい、と怒りはおさまらなかった。
(そう、そもそも、他の部署や組織にその人は確認して、なお納得されなかった方だったのだ)
僕は、機転をきかせて、「YOUのおっしゃることはよく分かるYO。でもさ、逆にこういうケースがあったら、その人たちも困る、というか納得いかなくなるよね。そしたら、そういうルールになってるってのも、仕方がないんじゃあないかなぁ」といった。(もちろん全部敬語だ!)
結果、なるほどね、分かったよ、いろいろ調べてくれたり、ありがとうね。
といってもらえた。解決した!
いうてみれば、当たり前の仕事を、当たり前にやっただけだ。問い合わせ対応、的なたくさんある業務のうちのひとつに過ぎないからな。
達成感がないかといわれたら、あることはある。
が、「で?」という感覚が、断然僕のなかでは強い。
こういった僕の能力(何かを達成する意欲と実行できる力)が育まれても、僕は別に嬉しくはないのだ。
それについて、周りの人は、「すごいね」とか言ってくれたりする。
別に、求めてないのだ、そのあたりは。
お金ボーナスとか書いたが、仮にそういった評価をしてもらっても、別に、嬉しくないのだ。
僕は、先日ライ、ブログへコメントいただいた内容に非常に感銘受け、嬉しかった。よく読んでくださってるな、と思った。
先日、夜回り先生という方が、いろいろ相談を行っていたが、結局相談してくる人たちが、自分の本を全然読んでない、もしくは読んでも全然理解していないことに辟易され、ついには相談をやめてしまったという記事を読んだ。
ホリエモン氏も、企画をもってくる人たちは多いが、なっとらん、といっていたという記事を読んだ。
ええと、先々週は、23時帰宅が多かったと書いたが、先週は、24時帰宅が多かった。
いやええと、1日、いや二日は、同僚たちと食事に行ってから帰ったりしたから、仕事でふるふる、というわけではないが、要は、家に帰ってからが勝負なのである。何が(かっこ笑い)。
うーむ。なんというか、仕事と、友達たちと遊ぶことと、同僚たちと食事等行くことについて、さほど違いはないんだ。と書くと、仕事なめてんじゃねええということを言われるだろうが、そういう問題ではない。要するに、他者対応において、ストレス発散傾向が向けられないということだ。というか、創作と全然関係ないしな。
そう。創作性がないのだ。
先日、いや、違う、去年とか、会社関係の人と話す機会があったが、だいぶ面白かった。その人も、すげー考えてるんだな、って思った。いやその、誰しも、いろいろ考えてるよ。そうじゃなくて、なんというのかなぁ、その、生き方そのものについて、という表現にとりあえずとどめておく。とにかく、その時間は、他者との時間だったが、面白かったのだ。
(補記すれば、その人も、だいぶ変わり者的な風な評判があるようなことであった)
現実に関しての、例えば仕事とかでもいいが、どうでもいいのである! と書くと言い過ぎだが。
仕事も、遊びも、人生の要素に過ぎない。その要素に過ぎないことを、他者と話し合ってどうするのだ。行動するのは、結局は自分なのだ。であれば、自分で考える時間があったほうがましだ。いやいや、もちろん、相談は必要だし、コミュニケーションも必要だよ。わかってるが、なんというのあかなぁ、ここら辺が上手く伝える手段がなく、要は、人付き合いめんどくさい、という単純な行動指針に繋がるわけであるが。
前書き
書きづらい! とか、言い訳している場合ではない。習慣付けすることが何より大事だ。
と僕は思うのだが、どうにも、会社とか友人関係とかその他もろもろ、他者と関わる必要がある場合は、中々思うように進まない。
ええと、できるだけ、近況をメモしておこうと思う。例えば小学校の絵日記で、天気のことを書いたりするが、それって、意味がないのでは、と思われるかもしれないが、事実僕もそう思っていたと思うが、今思うに、天気も関係あると思う。そのとき、どういった状況だったのかというのは、自分の書くモチベーションや、書くないようにも影響すると思うのである。
まぁ、絵日記で、まとめてかこうとして、前の天気がわからなくなって、あー面倒だなとか思ったことはよくあった。今にして思えば、その天気が間違っていようが、学校の先生はそれで成績を下げるはずはない、というか、確認などしないのだろうが、僕は真面目に考えすぎてしまっていたのだ。
要領のよさ
話それるけど、その絵日記の天気とか、さほど重要じゃない……成績的には重要じゃないということは多くある。仕事だってそう。だから、学校の勉強はよくできても、仕事はできない、とかいう評価がなされる人がいるのだ。
無限にある仕事のなかで、ポイントをおさえないと、評価の問題だけじゃなく、そもそも終わらない。
最低限、メール等郵送物の誤発送を防ぐとか、そういう取り組みは必要だが、「そこ重要じゃないんだけどな」ということに拘ってはならないのだ。利益にならないから。
利益!
例えば先週、僕は、クレームの処理をまた行った。(ああ、それも、報告書などに書いておかなければ、自分自身でも忘れてしまうだろう)
そのなかで、はじめは非常にお怒りであって、根拠を明確に示せとか言われていた。
根拠を示した。
しかし、その根拠がおかしい、と怒りはおさまらなかった。
(そう、そもそも、他の部署や組織にその人は確認して、なお納得されなかった方だったのだ)
僕は、機転をきかせて、「YOUのおっしゃることはよく分かるYO。でもさ、逆にこういうケースがあったら、その人たちも困る、というか納得いかなくなるよね。そしたら、そういうルールになってるってのも、仕方がないんじゃあないかなぁ」といった。(もちろん全部敬語だ!)
結果、なるほどね、分かったよ、いろいろ調べてくれたり、ありがとうね。
といってもらえた。解決した!
それとこれと評価と
が、まぁそれが、今回はうまくいったが、次がうまくいくかわからないし、そして、その対応に要した時間を、誰かが評価してくれたり、お金ボーナスあったりとか、別にそんなん、ない。いうてみれば、当たり前の仕事を、当たり前にやっただけだ。問い合わせ対応、的なたくさんある業務のうちのひとつに過ぎないからな。
達成感がないかといわれたら、あることはある。
が、「で?」という感覚が、断然僕のなかでは強い。
こういった僕の能力(何かを達成する意欲と実行できる力)が育まれても、僕は別に嬉しくはないのだ。
それについて、周りの人は、「すごいね」とか言ってくれたりする。
別に、求めてないのだ、そのあたりは。
お金ボーナスとか書いたが、仮にそういった評価をしてもらっても、別に、嬉しくないのだ。
僕は、先日ライ、ブログへコメントいただいた内容に非常に感銘受け、嬉しかった。よく読んでくださってるな、と思った。
先日、夜回り先生という方が、いろいろ相談を行っていたが、結局相談してくる人たちが、自分の本を全然読んでない、もしくは読んでも全然理解していないことに辟易され、ついには相談をやめてしまったという記事を読んだ。
ホリエモン氏も、企画をもってくる人たちは多いが、なっとらん、といっていたという記事を読んだ。
近況
おっと、近況を書くつもりが、脱線してしまった。ええと、先々週は、23時帰宅が多かったと書いたが、先週は、24時帰宅が多かった。
いやええと、1日、いや二日は、同僚たちと食事に行ってから帰ったりしたから、仕事でふるふる、というわけではないが、要は、家に帰ってからが勝負なのである。何が(かっこ笑い)。
うーむ。なんというか、仕事と、友達たちと遊ぶことと、同僚たちと食事等行くことについて、さほど違いはないんだ。と書くと、仕事なめてんじゃねええということを言われるだろうが、そういう問題ではない。要するに、他者対応において、ストレス発散傾向が向けられないということだ。というか、創作と全然関係ないしな。
そう。創作性がないのだ。
先日、いや、違う、去年とか、会社関係の人と話す機会があったが、だいぶ面白かった。その人も、すげー考えてるんだな、って思った。いやその、誰しも、いろいろ考えてるよ。そうじゃなくて、なんというのかなぁ、その、生き方そのものについて、という表現にとりあえずとどめておく。とにかく、その時間は、他者との時間だったが、面白かったのだ。
(補記すれば、その人も、だいぶ変わり者的な風な評判があるようなことであった)
現実に関しての、例えば仕事とかでもいいが、どうでもいいのである! と書くと言い過ぎだが。
仕事も、遊びも、人生の要素に過ぎない。その要素に過ぎないことを、他者と話し合ってどうするのだ。行動するのは、結局は自分なのだ。であれば、自分で考える時間があったほうがましだ。いやいや、もちろん、相談は必要だし、コミュニケーションも必要だよ。わかってるが、なんというのあかなぁ、ここら辺が上手く伝える手段がなく、要は、人付き合いめんどくさい、という単純な行動指針に繋がるわけであるが。
あとがき
(かっこ書きである。来週も、先週同様となることが目に見えている。そして、再来週もそうなるかも。とりあえず、今年はそんな感じなのかもしれない。いやひとついっておけば、今の職場、まだ半年経ってないからな。そりゃあ、歳は30代であるが、全く異なる職場において、1年間を見通して行動しろというのは、まぁまぁ無理があると思う。第一、上にも書いてきたが、どこら辺をゴールとして考えられているのか、いまいち見えない。だから、もちろん、人生においても、そうだが、仕事においても、ゴール、目標をしっかり、明確に、何度も、繰り返し、提示し続けることが大事なのだ。よう分からない状態でも、そのなかで目標を見つけていく、課題をみつけていく、というのでもいいのだ。それだって大事なゴールだ。日々の業務を正確に、効率よくこなす、ということでもいいのだ。なんだっていい。そうしたゴールが分からないと、まぁもう、雪だるま方式に業務は増えていく。まぁ、そういったことを含めて、各自で考え、成長することが、裏のゴールなのかもしれない。であれば、しゃにむにやるしかなかろう。ただし、組織は、簡単に手のひらを返すから、残業代とか、有給とか、その辺、しっかり請求すべきだ。善意で、休日に仕事を持ち帰ったり、絶対やらん。20代の時、よくわからずにそういったこともしていたが、何にもならなかった。いや、なにかにはなったろう。勉強にはなったろう。だが、やる気をすさまじく下げる事態はその後たびたび発生したのである。あああ、やる気がおきねえなぁ。……っといったことを、多くのサラリーマン氏たちは、同僚や友人や家族と、飲み屋で語り明かすのだろう。俺は、それが無駄……とまでは言わないが、たまにはいいと思うが、正直、そんなこと他の人と話しても、自分の中では一切解決しない。むしろ、こうやって文字起こしシタホウガがぜんイミがある。と思う。一時の感情を処理したいわけじゃないのだ。問題の解決をはかりたいのである。考えることが目的ではないのだ。考えなくても人生満足して生きられたらいいのである。ただ、多分、俺のような奴は、考えることの放棄は恐らくできないのだろう。……というか、「自分で考えろ」って、よく言われるところじゃん。だから、一般的にも、考えることは奨励されているはずなのである。しかし、一般的に言われているのは、「俺の思うように考えろ」だったり「俺もよくわからないが、成果が出るように考えろ」である。まぁ無視して構わない。僕のいっている考えることと、一般的に言われている考えることは、全く違うと思っている。そこら辺が分かってない、もしくは分かってても意図している人たちの相手は、できるだけしたくないものだ)PR
今日の一言「ゲーム依存は生活に破滅をもたらす」「しかし現実生活に価値はあるのか」
毎回書くが、忙しい自慢でもなければ、「俺がいないと仕事が回らなくて」的なのでもなければ、頑張ってるアピールでもない。
第一、もっと拘束時間が長いブラックな方々は大勢いると聞く。ほんとかどうかわからないが――というのは、実際、帰宅の電車は、最近(別にお盆の時期ではない)、遅い時間ほど空いている。
んで、まぁ、その、やってて楽しい仕事であればいいのだろうが、やれ人間関係的なやつだったり、クレームだったり、「何の意味があるのそれ。表現的な問題でしょ。どっちでもいいし」的なものもあったりと、面倒くさいことこの上ない。
勉強にはなると思う。知識も増える。考え方も参考になる。
が、「楽しい」かどうかと問われたら、別に楽しくはない。
なんかプログラムとか書いてたほうがよほど楽しい。
――プログラム、しかし、じゃあ、SEなりPGなりに転職したら? という正論があるかもしれないが、プロジェクトとして行うそういった業務に興味はない――いや、やってみたら楽しいかもしれないが、基本、むかーっしの人が作ったものをちょびちょち直していくような。
楽しいのは、企画、要件定義から実装、テスト、リリース、利用者への研修など含めて、全部含めてやれると楽しいのである。おっきなプロジェクトのごく一部分の担当とか、きっとつまらないだろう。
そんな、朦朧とした状態で、「【特集】1日20時間、2年間外出せず…『ゲーム依存症』患者の現実」https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190817-00010003-kantele-soci
との記事を読んだ。
まず、僕が考える「前提」は以下だ。
・ゲームは楽しい
・ゲームにより暴力的になるというのは正しくない
・一方ゲーム依存は現実生活を脅かすため治療が必要だ
1日20時間は多いと思うが、休日であれば、8時間ぐらいは余裕だ、という人は多いだろう。
ただ、「毎日」というのはすごいと思う。
でもたぶん、全然俺もできちゃうんじゃないかという気もする――いや、睡眠時間は6~8時間は欲しいから、20時間はやっぱりすごいな(笑)。
まぁそんな表面的なことを考えながら読んでいたのだが、コメント欄とかでの、「ゲームより現実のほうが大切だ」という意見が――「やはりあったか」という気持ちではあったが――気になった。
いや分かる。
――分かる、といってしまうと傲慢になるが、しかし、思いは分かる。
上の「ゲーム依存」は治療されるべき、ということだが、やはり問題は、「ゲーム」が埋めてくれていた時間を、他に、何の「価値ある時間」にするのか、ということだ。
大切な現実とは何か。
ゲームをやるってこと自体も、現実の一部を成していないか。――というのは、もちろん詭弁だろう。だが、詭弁で片付けちゃいけない気がする。
要は、ゲーム依存の治療の先にあるのは、ゲーム以外のことをする「時間」ということだからだ。
本当は、創作活動をするのが、僕にとって、大切なことであるはずなのだ。というのは、「現実ってそれほど大事なものなのか」という、某氏の感覚を少し思うところだからである。
これは、若い時に、例えば甲子園を目指して野球部で仲間と必死に汗を流したり、とか、そういう経験が大事なんだろうと思う。
くっそつまんなかった。
いや、友人はできたし、そこでの友人たちのおかげで、クラスで孤立とかもなく、平穏無事に過ごせたといってよいだろう。
が、その、クラブ活動なり、部活動的なのは、嫌々行っていた。
(とかっていえば、親は悲しむかもしれないから、このブログは基本リアルの人には見せるつもりは一切ない)
別に、体を鍛えるのは悪いことじゃないと思うし、そのおかげで、筋トレとかするのも比較的簡単にルーチン化できたのかもしれない。
ま、そういう、「役に立った」的な意味であれば、いくらでも挙げることはできるだろう。
ただ、「現実の価値」的な意味においては、――これを、「生きる意味」と置き換えて表現しても構わない――一切役に立たなかったと書いておいてよいだろう。
先日、とある友人氏(IMF氏)からコメントを頂いた。
(1)理由:必要だから。
(2)結果:満足(充足)して(前向きに)生きたい
(3)目的:(2)と同じ。
就職面接においては、理由が足りないと思う。
理由は、本記事の前の小見出しに書いた、「大切な現実が分からないから」になると思う。
――ちょっとばかし、これまた別の友人氏(以下SRGN氏)がコメント欄にて書いてくださっている一つの理由・生き方について、僕が思うところを書きたい。
抜粋して、次の小見出しにて、それへのコメントを書く。
かっこいい。
僕の目指すところである。
いや、そもそも、「生きる意味」的なことを考えずとも、確固たる自己をもち、生活できている人のほうが大半な気がする。
ただ、そこの部分を触れないで、そのプロセスがないまま、現実にどっしり身を構えられた人たち――それを僕は広い意味で「リア充」と呼ぶ――は、どんだけ、現実的な能力が高くても、僕は、「参考にならない」と思うだろう。
だから、SRGN氏のような方と出会えたことは、僕にとって間違いなくプラスで幸せである。
上の僕のSRGN氏に対するコメントは、単に称賛したかったから歯の浮くセリフを書いたというわけでは全くなく、事実思うことである。が、その一方で、僕は、それほど大事な人の記述であっても、完全には咀嚼できない部分がある、という意味で書いている。
何がかというと、「自分の存在を世界に刻み付けること」これについて、僕は真剣になれていない、ということである。――すぐさま書けば! ダッシュで書いておけば、SRGN氏が見出している答えを否定するものでは全くない。急いで書くまでもなく分かってくれる方々しか本ブログを見ている人はいないんだろうが、大事なことなのでダッシュで書いた。
要は、ぼく個人は、今のところは本気になれない答えである、ということである。
結局、まわりまわって、その答えになるかもしれない。
コロンブス卵問題のようだが、要は、現実の重要度を深く感じられない状況において、その現実に対して自己の存在を刻み付けるということは、不安定な砂の土台にひょろひょろの棒を指すみたいな。
いやだから、現実に対しての自己の肯定感が高まれば、おのずとその現実に対しての興味関心も増大する可能性はあるものの、その現実が「どうでもいい」と思ってしまう中で、その行為は中々本気になれないということである。
「どうでもいい」というのはもちろん言いすぎだが。
例えば、アインシュタイン氏レベルになれば、世界に刻み付けられた、と思うと思う。誰でも、何百年たとうが、きっと忘れられないだろう。
しかし、ニュートン氏レベルになると、「写真」ってなかった時代だから、たぶんこんな感じの人なんだろうという肖像画はあるけれども、人物は分からなくなってくる。伝記は残されるかもしれないが、そこから分かることと、その人自身のこととは大きく乖離があるだろう。
ソクラテス氏のことも、誰でも知っているだろう。無知の知。知らないって知ることが大事なんだよ、的な、思考までも、数千年たっても、知ってもらえているかもしれない。
が。
時間という疑いようのない事実の上では、「人物」としての痕跡は、殆ど失われてしまうのである。
ましてや!
これを書き始めると、単に努力の放棄に他ならないが、残念ながら僕は凡人である。
アインシュタイン氏レベルなことが、いかなる分野であろうが、例えこのクッソ長いブログを書き続けるといったことですら、他の多くの人たちと比べて抜きん出られる自信はない。
そんな程度な人間が、「世界に自分を刻み付ける」なんてことが、できるとは思えないのである。
どういうことか。
ええとその、SRGN氏の考え・答えは、きっと正しいし、それはすごいことだが、凡人ではきついッス、的なことだ。
子供作る的なことの例でもいいんだけど、子供作るじゃん? 子孫繁栄したとするじゃん?
ひいひいひいひいじいちゃん的なのを、誰か、覚えてるだろうか、ってことである。
要は、時間制限があるなかで、誰しも、満足した人生を送らなければならないのだ。一分一秒無駄なく。
IMF氏からの問いの答えを言い換えれば、「満足した人生を送る必要があるため」となる。
「別に満足しなくてもいいんじゃない?」って言われたことがある気がする。うーん、確かにそうなんだけど、でも、つまらなくないか、って思う。
毎日23時に帰ってきて、何やってんだろって思う。
いや、ストレスはあるかもしれないが、別に、究極にギスギスしてるとか、超ど級パワハラにあってるとかではないから、睡眠時間やゲームしたり遊べる時間が足りなくて嫌だなぁぐらいといえばそうだ。
だが、こういった生活が定年(65歳? 70歳?)まで続いて、それがなんだってんだろう、って思う。
「いや、お金ももらえているし、生活に困らないし、いいじゃんか。もっと生活困窮して、意味なんて考える余裕なんてない人たちだってたくさんいるんだぞ!」
とお叱りを受けるかもしれない。
そうさな。
そうだが、そういう問題ではないんだ。分かってもらえるだろうか、いや、俺が上手く表現ができないだけなんだが……。
前書き
先週は、毎日、23時帰宅であった。毎回書くが、忙しい自慢でもなければ、「俺がいないと仕事が回らなくて」的なのでもなければ、頑張ってるアピールでもない。
第一、もっと拘束時間が長いブラックな方々は大勢いると聞く。ほんとかどうかわからないが――というのは、実際、帰宅の電車は、最近(別にお盆の時期ではない)、遅い時間ほど空いている。
んで、まぁ、その、やってて楽しい仕事であればいいのだろうが、やれ人間関係的なやつだったり、クレームだったり、「何の意味があるのそれ。表現的な問題でしょ。どっちでもいいし」的なものもあったりと、面倒くさいことこの上ない。
勉強にはなると思う。知識も増える。考え方も参考になる。
が、「楽しい」かどうかと問われたら、別に楽しくはない。
なんかプログラムとか書いてたほうがよほど楽しい。
――プログラム、しかし、じゃあ、SEなりPGなりに転職したら? という正論があるかもしれないが、プロジェクトとして行うそういった業務に興味はない――いや、やってみたら楽しいかもしれないが、基本、むかーっしの人が作ったものをちょびちょち直していくような。
楽しいのは、企画、要件定義から実装、テスト、リリース、利用者への研修など含めて、全部含めてやれると楽しいのである。おっきなプロジェクトのごく一部分の担当とか、きっとつまらないだろう。
ゲーム依存に関する記事を読んで
あー、そんなこんなで、休日はほぼ寝て過ごしてしまった。やる気が起きないのだ様々なことに対して。せっかく、最近、「面白い」コメントなど多く頂いているにも関わらず、思考が、時間を、十分に向けられない。悔しい。そんな、朦朧とした状態で、「【特集】1日20時間、2年間外出せず…『ゲーム依存症』患者の現実」https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190817-00010003-kantele-soci
との記事を読んだ。
まず、僕が考える「前提」は以下だ。
・ゲームは楽しい
・ゲームにより暴力的になるというのは正しくない
・一方ゲーム依存は現実生活を脅かすため治療が必要だ
1日20時間は多いと思うが、休日であれば、8時間ぐらいは余裕だ、という人は多いだろう。
ただ、「毎日」というのはすごいと思う。
でもたぶん、全然俺もできちゃうんじゃないかという気もする――いや、睡眠時間は6~8時間は欲しいから、20時間はやっぱりすごいな(笑)。
まぁそんな表面的なことを考えながら読んでいたのだが、コメント欄とかでの、「ゲームより現実のほうが大切だ」という意見が――「やはりあったか」という気持ちではあったが――気になった。
大切な現実とは
某じゃんけんで頭が破裂する作品を執筆中の尊敬する僕の友人氏は、「僻みとか思われるの嫌なんでな、あんまし言わないんだが、現実羨ましいとか思ったことないんだよな。物語の方が格段面白いやろ」(勝手な理解)と仰られていた。いや分かる。
――分かる、といってしまうと傲慢になるが、しかし、思いは分かる。
上の「ゲーム依存」は治療されるべき、ということだが、やはり問題は、「ゲーム」が埋めてくれていた時間を、他に、何の「価値ある時間」にするのか、ということだ。
大切な現実とは何か。
ゲームをやるってこと自体も、現実の一部を成していないか。――というのは、もちろん詭弁だろう。だが、詭弁で片付けちゃいけない気がする。
要は、ゲーム依存の治療の先にあるのは、ゲーム以外のことをする「時間」ということだからだ。
本当は創作活動が優先だがブログで済ませている
僕にとっては、上の小見出しの通りだ。反省している。本当は、創作活動をするのが、僕にとって、大切なことであるはずなのだ。というのは、「現実ってそれほど大事なものなのか」という、某氏の感覚を少し思うところだからである。
これは、若い時に、例えば甲子園を目指して野球部で仲間と必死に汗を流したり、とか、そういう経験が大事なんだろうと思う。
くっそつまんなかった。
いや、友人はできたし、そこでの友人たちのおかげで、クラスで孤立とかもなく、平穏無事に過ごせたといってよいだろう。
が、その、クラブ活動なり、部活動的なのは、嫌々行っていた。
(とかっていえば、親は悲しむかもしれないから、このブログは基本リアルの人には見せるつもりは一切ない)
別に、体を鍛えるのは悪いことじゃないと思うし、そのおかげで、筋トレとかするのも比較的簡単にルーチン化できたのかもしれない。
ま、そういう、「役に立った」的な意味であれば、いくらでも挙げることはできるだろう。
ただ、「現実の価値」的な意味においては、――これを、「生きる意味」と置き換えて表現しても構わない――一切役に立たなかったと書いておいてよいだろう。
大切な現実なんてない
上のような経験がよくなかったのかもしれない。先日、とある友人氏(IMF氏)からコメントを頂いた。
なぜみなさまは生きる意味について考えているのでしょうか。 (1)考える理由 (2)考えて結果どうしたいのか (3)何が目的なのか これは個別の問題なので、人によって異なると思うのですが、ぜひお聞かせいただけないでしょうか?即答レベルで、特に考えずに回答をすれば、以下のようになる。
――番号追記
(1)理由:必要だから。
(2)結果:満足(充足)して(前向きに)生きたい
(3)目的:(2)と同じ。
就職面接においては、理由が足りないと思う。
理由は、本記事の前の小見出しに書いた、「大切な現実が分からないから」になると思う。
――ちょっとばかし、これまた別の友人氏(以下SRGN氏)がコメント欄にて書いてくださっている一つの理由・生き方について、僕が思うところを書きたい。
抜粋して、次の小見出しにて、それへのコメントを書く。
「自分の存在を世界に刻み付けること」 かっこつけた言い方をすれば、この一言になります。以前にも書いた気がしますけれど。 自分という存在を、自分が今ここに存在することを、存在していることを、存在したということを知って欲しい、認めて欲しい、肯定して欲しい。 子孫も残せるものなら残したいとは思う、けれど相手は誰でも良いというわけではなく、自分の理解者あるいは自分を認めてくれる存在であって欲しいし、私がそう思える相手がいないのならば、子孫を残せなくても良い。そういう相手が欲しい、と思う気持ちがあることも自分で否定したりしない。 私という存在をまず自分自身が認めるために、やりたいと思ったことには積極的に、欲しいと思うものには手を伸ばし、したくないことや嫌なものは可能な限り避けようとする。今形成されている社会で生きていく上で支障が出ない範囲で、私自身のその時の思いや気持ちに正直に生きる。 つまるところ、私という存在がこの世界に生きているということを、私自身が肯定し、認めるために、私は生きている。
自分の存在を世界に刻み付けること
SRGN氏は、悩み、答えを比較的早い段階で見出し、それをベースに現実の生き方を構築できた方だと思う。かっこいい。
僕の目指すところである。
いや、そもそも、「生きる意味」的なことを考えずとも、確固たる自己をもち、生活できている人のほうが大半な気がする。
ただ、そこの部分を触れないで、そのプロセスがないまま、現実にどっしり身を構えられた人たち――それを僕は広い意味で「リア充」と呼ぶ――は、どんだけ、現実的な能力が高くても、僕は、「参考にならない」と思うだろう。
だから、SRGN氏のような方と出会えたことは、僕にとって間違いなくプラスで幸せである。
上の僕のSRGN氏に対するコメントは、単に称賛したかったから歯の浮くセリフを書いたというわけでは全くなく、事実思うことである。が、その一方で、僕は、それほど大事な人の記述であっても、完全には咀嚼できない部分がある、という意味で書いている。
何がかというと、「自分の存在を世界に刻み付けること」これについて、僕は真剣になれていない、ということである。――すぐさま書けば! ダッシュで書いておけば、SRGN氏が見出している答えを否定するものでは全くない。急いで書くまでもなく分かってくれる方々しか本ブログを見ている人はいないんだろうが、大事なことなのでダッシュで書いた。
要は、ぼく個人は、今のところは本気になれない答えである、ということである。
結局、まわりまわって、その答えになるかもしれない。
世界(現実)と自己
なぜか、ということをつらつら書いていくと、中々話しが終わりそうもないし、僕の熱量も下がりそうなので、簡単に書こうと試みれば、そもそも、上に書いてきたように、「大切な現実なんてない」からだ。コロンブス卵問題のようだが、要は、現実の重要度を深く感じられない状況において、その現実に対して自己の存在を刻み付けるということは、不安定な砂の土台にひょろひょろの棒を指すみたいな。
いやだから、現実に対しての自己の肯定感が高まれば、おのずとその現実に対しての興味関心も増大する可能性はあるものの、その現実が「どうでもいい」と思ってしまう中で、その行為は中々本気になれないということである。
「どうでもいい」というのはもちろん言いすぎだが。
例えば、アインシュタイン氏レベルになれば、世界に刻み付けられた、と思うと思う。誰でも、何百年たとうが、きっと忘れられないだろう。
しかし、ニュートン氏レベルになると、「写真」ってなかった時代だから、たぶんこんな感じの人なんだろうという肖像画はあるけれども、人物は分からなくなってくる。伝記は残されるかもしれないが、そこから分かることと、その人自身のこととは大きく乖離があるだろう。
ソクラテス氏のことも、誰でも知っているだろう。無知の知。知らないって知ることが大事なんだよ、的な、思考までも、数千年たっても、知ってもらえているかもしれない。
が。
時間という疑いようのない事実の上では、「人物」としての痕跡は、殆ど失われてしまうのである。
ましてや!
これを書き始めると、単に努力の放棄に他ならないが、残念ながら僕は凡人である。
アインシュタイン氏レベルなことが、いかなる分野であろうが、例えこのクッソ長いブログを書き続けるといったことですら、他の多くの人たちと比べて抜きん出られる自信はない。
そんな程度な人間が、「世界に自分を刻み付ける」なんてことが、できるとは思えないのである。
だから迷ってますという結論
そろそろ1時間経つので、かっこ書きに入っていこうかと思うが、要は、そういうことだ。どういうことか。
ええとその、SRGN氏の考え・答えは、きっと正しいし、それはすごいことだが、凡人ではきついッス、的なことだ。
子供作る的なことの例でもいいんだけど、子供作るじゃん? 子孫繁栄したとするじゃん?
ひいひいひいひいじいちゃん的なのを、誰か、覚えてるだろうか、ってことである。
要は、時間制限があるなかで、誰しも、満足した人生を送らなければならないのだ。一分一秒無駄なく。
IMF氏からの問いの答えを言い換えれば、「満足した人生を送る必要があるため」となる。
「別に満足しなくてもいいんじゃない?」って言われたことがある気がする。うーん、確かにそうなんだけど、でも、つまらなくないか、って思う。
毎日23時に帰ってきて、何やってんだろって思う。
いや、ストレスはあるかもしれないが、別に、究極にギスギスしてるとか、超ど級パワハラにあってるとかではないから、睡眠時間やゲームしたり遊べる時間が足りなくて嫌だなぁぐらいといえばそうだ。
だが、こういった生活が定年(65歳? 70歳?)まで続いて、それがなんだってんだろう、って思う。
「いや、お金ももらえているし、生活に困らないし、いいじゃんか。もっと生活困窮して、意味なんて考える余裕なんてない人たちだってたくさんいるんだぞ!」
とお叱りを受けるかもしれない。
そうさな。
そうだが、そういう問題ではないんだ。分かってもらえるだろうか、いや、俺が上手く表現ができないだけなんだが……。
あとがき
(かっこ書きである。ゲーム依存の話関係なくなったな! いや違うぞ! 関係あるぞ! ゲーム依存と生きる意味、めっちゃ関係あるぞ! 要は、現実がくっそ価値あって、くっそ楽しかったら、ゲームなんてすぐ飽きるやろ? いや、じゃんけん頭破裂の某氏は「滓が。その程度の思考の俗輩が、創作を語るな」と仰られるだろう。天才め! いや、ふつー大半は、現実に楽しいことがあったらそっち中心になるだろう。物語は、現実を彩る単なるわき役に過ぎなくなるだろう。――だが、俺の場合は、能力は凡人クラスなのだが、その「現実」の扱いがどうしてもよく分からないのである。物語がないのだ。いやなんつーか、面白くないのだ。いや、面白さはあるが、それが、「点」なのである。繋がりがない。上手く表現できない。なんだろう。なんか頑張りたいんだが、頑張るに値することが見いだせない。いやそれは違うぞ。ブログ書くことや、創作(随筆含め)は大事だと俺は思っている。それと、「現実」が全然関連してないのがよくないのか。するってーと、やっぱり、今の仕事を辞めて、創作の道で食ってく的なことになるのが必要なのかもしれないが、いやまて、前提をちゃんと見ろ。「能力は凡人クラス」なのである。第一、今いる部署的なのが忙しいのであって、他の部署は定時で帰ってるところたくさんあるからな! だから、いよいよ追い詰められれば、人事とかけあって異動させてもらう方法が漸近的であろう。というか、別に仕事も頑張りたくないわけでもないのだ。頑張ってもいい、だが「だから何なの?」という思いが消えない。評価されてえらくなろうが、給料が上がろうが、そこがモチベーションじゃないんだよな。上司たちに問いたい。「偉くなって何がしたいの?」と。いや、面接でも聞かれるだろう当たり前の質問だ。それを逆に聞きたい。本音ベースのやつをだ! 大方、お金が増える的な問題だろう。あとは、現場業務より指示してたほうが楽だろうとか。くっそつまんねぇ奴らだ。楽しいから上司やれや。面白いから上司をしろ。上司の仕事がしたいからやれ。話がそれたか! 全然書ききれない。いい表現も浮かばない。整理もできない。あああああ、だが、だがしかし、これこそ、これこそこのブログだ。戻ってきた、戦士たちが戻ってきた!!(おっことぬし様風に) これは、最近新しくコメントしてくださったKKA氏のおかげだろう。ありがとうございます。いろいろ書きたいこともあるが、取り急ぎ感謝の意まで)
今日の一言「重要なコメントを頂いた」
そういった状況において、とある方(以下「K氏」)から、非常に重要なコメントを頂いていたのに気づいたのは先ほどだ。
――僕の思考は回りだした。「面白い」と思った。いやこの「面白い」という表現が適切かは分からない。ただ、他に思いつくと、「楽しい」とかになってしまう。そういった、浮ついた意味じゃあない。真剣だ。マジだ。マジで面白い。
そして思い出す。俺はこういった刺激(と、書くと適切か分からないが(略))を求めていて、そこにこそ、俺の「物語」があるんだろうということだ。
前書きがよう分からんくなったかもしれないが、要は今回の記事としては、頂いたコメントのポイント(ポイントというのは、「俺的に役立つ点の抽出」という意味であり、コメントの主旨と異なる可能性があるのにも当然留意すべきだ)を整理しておこうということだ。
(久々にカテゴリが「生きる意味」になった)
3について。
これも、非常に大事なことだ。これについて僕は、とある脳科学者の本から引用し、「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」が人間の本質であると理解している。脳細胞はそういった性質があるのだそうだ。それによって、二次的に、「自己保存」と「統一・一貫性」の性質が人の思考には生まれやすくなるということだ。
そして同時に、「僕」というものの特性についての分析も大事と思う。
それは、2についても関係するが、要は来歴。どういった経験をして、そのときどういったことを考え、どういった行動をしてきたのか。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ、だったっけ? 経験も大事だと思うけど(かっこわらい)。別に、世界の歴史だけの問題じゃない。自分の歴史だって大事だってことを、もっと意識したほうがいい。
――と、上の2、3については、僕が勝手に書いたことなので、K氏がどのように考えてきたのかということは、非常に興味がある。
同時に、1については、あまりイメージがついていないので、さらに興味がある。
あまりイメージがついていないものの、「信仰」という点は重要であると僕も思っている。
キルケゴール氏は、神への信仰によって、実存問題の解決を成し遂げたわけだが、凡人たる僕はそれはちょっと難しそうである(というより、上に書いた変な例のとおり、神託をもらっても、抵抗したくなる気がする)。が、一方で、信仰はあらゆるところで根付いている。電車や飛行機のような乗り物だってそうだ。お金もそうだ。コンピュータもそうだ。
あんまり書くと単にハードルを上げてしまったり、考えに偏向性を与えてしまいそうだからよくないと思うけれども、いつもどおり、このブログは、自分の思考整理を第一目的としているので、ご容赦いただきたい。
前書き
ルーチン更新である。いやぁ、ほんと、最近、仕事が忙しくて苛々する。何というか、「答え」がない仕事の合間に、ほんとに通常業務的な締め切りも近づいてきて、さらに他の方々からの相談事項的な奴も紛れ込んできて、変な苦情も入ってきたりと、「予定」どおりに全然いかないところもイライラを助長する。そういった状況において、とある方(以下「K氏」)から、非常に重要なコメントを頂いていたのに気づいたのは先ほどだ。
――僕の思考は回りだした。「面白い」と思った。いやこの「面白い」という表現が適切かは分からない。ただ、他に思いつくと、「楽しい」とかになってしまう。そういった、浮ついた意味じゃあない。真剣だ。マジだ。マジで面白い。
そして思い出す。俺はこういった刺激(と、書くと適切か分からないが(略))を求めていて、そこにこそ、俺の「物語」があるんだろうということだ。
前書きがよう分からんくなったかもしれないが、要は今回の記事としては、頂いたコメントのポイント(ポイントというのは、「俺的に役立つ点の抽出」という意味であり、コメントの主旨と異なる可能性があるのにも当然留意すべきだ)を整理しておこうということだ。
(久々にカテゴリが「生きる意味」になった)
生きる意味の考える単位
生きる意味の考える単位は、以下4つに分類される。とのことである。
1.宇宙と私
2.人類と私
3.社会と私
4.個人と私
(2と3の違いは生物として歴史を紡いできた、そしてこれからも紡いでいくであろう人類であり、3は現在に生きる社会であるということです。ここを分けているのは自分が観測できるか否かという部分なのではないかと思っています)
僕が以前分類したのは、(これも確か、別の方(某I又はQ氏)のコメントをもとにしたものであったと記憶しているが、宇宙、人類、個人、であった。
なるほど、K氏の分類の方が分かりやすい。さらに、疑問に思う、2と3の違いについても、質問するまでもなく既に注釈されている点に、知的さと配慮の高さが伺える。
意味とは関係性のことであり、原因と結果を引き起こす根拠にもなるものだと思う。
そうであれば、K氏のおっしゃる通り、意味を問うというのは、「対象」(者・物)の、双方向からのベクトル(矢印)について考えなければいけないであろう。
僕は、そのあたり、思考が足りていなかったと反省した。つまり、僕は、「私→何か」への問いかけが殆どであった気がする。
何かからの問いかけについて考えている時間は少なかったように思う。
この辺りは、実は気づくきっかけは、あったろうなぁと、今思っている。というのは、V.E.フランクル氏の長い本、「人間とは何か」を読んだ時だ。
その中で、フランクル氏は、「生きる意味はある。それは人生から投げかけられている。使命がある」といったことを書かれていた(うろ覚え。後で調べよう)。
その時僕は、何となく言っている意味は分かったつもりだったが、「納得」はしていなかった。それについて、K氏の、「双方向性」といったところの説明でしっくりきた。
要は思うに、K氏の方が、たぶん、「次の段階」に進んでいる気がする。僕はまだ、「私から何かへの問い」といった方向で考えている気がする。
――しかし、この点には、まだ少し、結論を出すのは保留にしておきたい。
ここで書き残したいのは、意味には、「私から何か」と、「何かから私へ」という方向性が二つあるということを、忘れないようにしたいということだ。
何かから私へ、が、それが目指す方向性なのかはもう少し考えてみたいと思う。
例えば、いつものくだらない例を考えてみれば、本当の神様が神託をくだしたとしよう。
「お前は、いつになっても生きる意味が分からないようだから、私(神)が、教えてやろう」
と仰った。
そうして、本当の意味を知った僕、なわけだが、果たして、それですべて解決、なのか。
どこかしら、何かから与えられた意味というものに、(表現はよくないが)全体主義的な要素を感じてしまい、抵抗してしまう気がする。それだったら、むしろ生きる意味がないほうがよいとまで思ってしまうかもしれない。本末転倒。
つまり、「絶対的な何か」からの受動的な試みなのでは全くなくて、その「何か」からの意味について、主体的に再構築する仕組みなのだろうということだ。
結果的には、どちらも「受け入れる」点で同じになるが、僕はそのあたりは、全く違うと思っている。
確か以前書いたはずの表現でいえば、「裏の裏は表だが、表とは違う」ということだと思う。
なるほど、K氏の分類の方が分かりやすい。さらに、疑問に思う、2と3の違いについても、質問するまでもなく既に注釈されている点に、知的さと配慮の高さが伺える。
意味の問い方
大事な点なので、そのまま引用。(表記は一部編集)
「生きる意味とは?」と問うことは、個人(私)と何かの関係性についての意味であるということです。そして意味というのは 、「私にとって何かの意味がある」と「何かにとって私の意味がある」という、
「私→何か」と 「何か→私」の二方向の観点があるということです。そして僕は、「生きる意味とは?」と問うことは 、「何か→私」の意味の観点を扱う問いなのだと思います。要は私の意味とは、「私と何か」の関係性の中で何かから私が存在する意味を感じとることができることなのだと思います。
意味とは関係性のことであり、原因と結果を引き起こす根拠にもなるものだと思う。
そうであれば、K氏のおっしゃる通り、意味を問うというのは、「対象」(者・物)の、双方向からのベクトル(矢印)について考えなければいけないであろう。
僕は、そのあたり、思考が足りていなかったと反省した。つまり、僕は、「私→何か」への問いかけが殆どであった気がする。
何かからの問いかけについて考えている時間は少なかったように思う。
この辺りは、実は気づくきっかけは、あったろうなぁと、今思っている。というのは、V.E.フランクル氏の長い本、「人間とは何か」を読んだ時だ。
その中で、フランクル氏は、「生きる意味はある。それは人生から投げかけられている。使命がある」といったことを書かれていた(うろ覚え。後で調べよう)。
その時僕は、何となく言っている意味は分かったつもりだったが、「納得」はしていなかった。それについて、K氏の、「双方向性」といったところの説明でしっくりきた。
要は思うに、K氏の方が、たぶん、「次の段階」に進んでいる気がする。僕はまだ、「私から何かへの問い」といった方向で考えている気がする。
――しかし、この点には、まだ少し、結論を出すのは保留にしておきたい。
ここで書き残したいのは、意味には、「私から何か」と、「何かから私へ」という方向性が二つあるということを、忘れないようにしたいということだ。
何かから私へ、が、それが目指す方向性なのかはもう少し考えてみたいと思う。
例えば、いつものくだらない例を考えてみれば、本当の神様が神託をくだしたとしよう。
「お前は、いつになっても生きる意味が分からないようだから、私(神)が、教えてやろう」
と仰った。
そうして、本当の意味を知った僕、なわけだが、果たして、それですべて解決、なのか。
どこかしら、何かから与えられた意味というものに、(表現はよくないが)全体主義的な要素を感じてしまい、抵抗してしまう気がする。それだったら、むしろ生きる意味がないほうがよいとまで思ってしまうかもしれない。本末転倒。
上の小見出しの補足
だが、K氏のいうところの、「何かから私が存在する意味を感じとることができることなのだ」という点は、既にそのあたりの問題点も看破しているように思う。つまり、「絶対的な何か」からの受動的な試みなのでは全くなくて、その「何か」からの意味について、主体的に再構築する仕組みなのだろうということだ。
結果的には、どちらも「受け入れる」点で同じになるが、僕はそのあたりは、全く違うと思っている。
確か以前書いたはずの表現でいえば、「裏の裏は表だが、表とは違う」ということだと思う。
生きる意味を考える上で外せないポイント
K氏は、以下3点を挙げられている。1.信仰と虚構
2.環境の影響
3.人間の本質的な特性
2について。
これは、僕も、ものすごく重要なことだと思っている。そして、これは非常に難しいことでもある。これについては、「社会学」の考え方を僕は取り入れて「理解」しようと試みている。といっても、別に専門的なことではなくて、「ちょっと距離を置いて関係性をみる」ということだ。これは、現代日本の社会制度を知るのも大事だし、歴史を知るのも大事だし、自分の家庭環境を知るのも大事だし、とにかく、周辺的な知見を得るということだ。
むしろ、僕は大学生ぐらいのときは、これらのことによって、自分の「生きづらさ」が解消されると思っていたぐらいだ。まったく役に立たなかった。というのは、大げさだ。当然、こういうことが書けるのだから、役には立った。しかし、知見をいくら得たとしても、それは主体的な、主観的な問題解決とは一致しないのである。そのあたりの経緯によって、僕はよく、「比較思考は嫌いだ」と書いたりしている。だから、キルケゴールさんとかの、実存主義的な、「世界がどうだろうか知ったことか。俺が苦しい、俺の問題が重要なんだ」というスタンスに感銘を覚えたものである。
これは、僕も、ものすごく重要なことだと思っている。そして、これは非常に難しいことでもある。これについては、「社会学」の考え方を僕は取り入れて「理解」しようと試みている。といっても、別に専門的なことではなくて、「ちょっと距離を置いて関係性をみる」ということだ。これは、現代日本の社会制度を知るのも大事だし、歴史を知るのも大事だし、自分の家庭環境を知るのも大事だし、とにかく、周辺的な知見を得るということだ。
むしろ、僕は大学生ぐらいのときは、これらのことによって、自分の「生きづらさ」が解消されると思っていたぐらいだ。まったく役に立たなかった。というのは、大げさだ。当然、こういうことが書けるのだから、役には立った。しかし、知見をいくら得たとしても、それは主体的な、主観的な問題解決とは一致しないのである。そのあたりの経緯によって、僕はよく、「比較思考は嫌いだ」と書いたりしている。だから、キルケゴールさんとかの、実存主義的な、「世界がどうだろうか知ったことか。俺が苦しい、俺の問題が重要なんだ」というスタンスに感銘を覚えたものである。
3について。
これも、非常に大事なことだ。これについて僕は、とある脳科学者の本から引用し、「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」が人間の本質であると理解している。脳細胞はそういった性質があるのだそうだ。それによって、二次的に、「自己保存」と「統一・一貫性」の性質が人の思考には生まれやすくなるということだ。
そして同時に、「僕」というものの特性についての分析も大事と思う。
それは、2についても関係するが、要は来歴。どういった経験をして、そのときどういったことを考え、どういった行動をしてきたのか。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ、だったっけ? 経験も大事だと思うけど(かっこわらい)。別に、世界の歴史だけの問題じゃない。自分の歴史だって大事だってことを、もっと意識したほうがいい。
――と、上の2、3については、僕が勝手に書いたことなので、K氏がどのように考えてきたのかということは、非常に興味がある。
同時に、1については、あまりイメージがついていないので、さらに興味がある。
あまりイメージがついていないものの、「信仰」という点は重要であると僕も思っている。
キルケゴール氏は、神への信仰によって、実存問題の解決を成し遂げたわけだが、凡人たる僕はそれはちょっと難しそうである(というより、上に書いた変な例のとおり、神託をもらっても、抵抗したくなる気がする)。が、一方で、信仰はあらゆるところで根付いている。電車や飛行機のような乗り物だってそうだ。お金もそうだ。コンピュータもそうだ。
あんまり書くと単にハードルを上げてしまったり、考えに偏向性を与えてしまいそうだからよくないと思うけれども、いつもどおり、このブログは、自分の思考整理を第一目的としているので、ご容赦いただきたい。
あとがき
(かっこ書きである。が、本文で大方書ききると、カッコ書きは別になくてもいい気がする。とにかく、良いコメントをもらったと思う。最近、カクヨムはおろか、ブログモチベーションも下がり気味だったけれども、ルーチン更新と、やる気はなくても、何とか気持ちを維持する方向にしていたのは良かったなぁ。大げさじゃあないけれども、僕は非常に充足感を覚えているのだ。仕事で、「そんなことまでできるんだ、すごいね」とか「ありがとう、助かったよ」と言ってもらえるよりも、比較にならないぐらい満足し、嬉しいのである。この感覚を忘れないようにしたい)
今日の一言「20時ぐらいに寝ると24時ぐらいに目が覚める」
一人でゆっくり思索、というのが大事だ。
カフェとか、新幹線の中とかでも、まぁいいのだが、その環境によっては、落ち着けなかったりする。そうすると、全然書けない。
頑張って書いても、大した情報が出てこない。
先日、とはいえ、まぁなんかメモぐらいしておくか、考えよう、ということでやってみて、たしか、1時間弱ぐらいで、上ぐらいの内容だ。
よく分からないし、面白くないな。
なんかこう、このブログ書いているのって、もっと面白かった気がするのだ。
それはこう、自虐的な、ぬるま湯につかっているような感覚なような気もするけれども、あの大学入試のために寒い冬に石油ストーブのゴーっという音と、朝の4時とか5時とかに起きて勉強しようと、その前に紙のノートに色々書いていたような、あの頃のサムシングが、このブログにおいてあるような気がしたのだ。
それでいて、当時の完全なる孤独と違い、一人じゃない、でも、一人でいられるという不思議な楽しさがあったはずなのだ。
いくらどこかに、タブレット片手に繰り出していっても、それは、十分ではないのだ。
今は、変な時間だが、とりあえず、眠気もそれほどないし、体の調子もそれほど悪くないので、「書く」条件がそろっている。貴重な時間だ。ありがとう。この時間を与えてくれたすべてにありがとう。
と、まぁ、そんな環境的分析はともかく、今回は、上の抜粋……1時間の成果について、もう少し意味あるものに考えてみよう。
仕事は重要である。
賃金がもらえるからだ。
何故賃金が必要か。生活するためだ。
働かなくても賃金がもらえるベーシックインカムの制度はまだ実現していない。
と、いうのは欺瞞だ。いや、ベーシックインカムの部分じゃなくて。
仕事は、生活するために必要だったはずなのだ。
要は狩猟採集は仕事である。
賃金というのは、中間者である。生活するために賃金が必要というのは、近代の話だ。
日本昔話の村人たちは、年貢を納めるために働いてるのではない。(勝手な決めつけ)
彼らは、ただ、日々の生活のために働いているのだ。(山に行ったり畑を耕したり)
……なんてなことを、今なら思ったりするのだが、カフェ的な状況であれば、思えないし、仮に思っても「書こう」という気にならないから不思議なものである。
いやしかし、上の話は全く関係ない。
要するに、仕事をしなくてもいい時間がないと、――大事なことなので正確にかけば、「仕事を考えなくてもいい時間」がなければ、思考できない、ということである。
そして、今は、仕事を考えなくてもいい時間、だと、上の抜粋記事では書きたかったのである(たぶん)。
ふーん。で?
とか言っちゃいけない。かわいそうだろ?(かっこ笑い)
いやしかし、「で?」としか思えないんだよな、今となっては。
いや、言ってることは分かるのだが、いまさら? とかって思う。
そんなの、分かりきってたんじゃないのと。何のために何百の記事を書いてきたのと。
でもまぁ、軽く、「前提」として書く分にはいいと思う。何がダメかって、これを書くのにも、非常に時間を労していたことだ。
サラッと書いちゃえよ、と思う。今ならサラッと書けちゃうだろう。
では、何が悩ませたのか。
「考え続けてしまう」「遠慮しがち」「人に理解されがたい」
これらを、「認めたくない」「認めてもいいのか?」という葛藤故だろうか。
ここで、「理解される必要があるのか?」という疑問も当然立てられる。が、それは考慮する必要はない。理解されたほうがいい。理解されなくてもいいかもしれないが、されるならされたほうが良いに決まっているのである。
いやいや、理解されたがゆえに、変に利用されてしまうのでは、とか、そういう言葉遊びをしても仕方がない。そういう、言葉尻を捉える人も少なくなくて、もうほんと、できるだけ他者とコミュニケーションを減らしたいという裏の思いが最近強い。まぁそれも脱線なんだが、要は、ここでいう「理解」とは、他者を尊重するという当たり前の原則に基づいているのだ。その前提においていえば、理解された方がいいのだ。そのほうが生きやすいはずなのだ。
脱線だ、そんな自己分析いるのか? と思う。
だがまてよ、と。
こういった当たり前の前提をして考えていけば、「考え続けてしまって遠慮しがちで理解されがたい」ことを、僕は悩んでいたのではないかと。
「変えたい」という意思の表れなのではないか、と。
そうも捉えられないか。
で、なんだけど、次の承け(うけ)の、つながりが全然みえてこない。
家族?
どうしてここで家族が出てくる?
――よくよく考えると、多分当時は一切思ってなかったろうが、「自己」→「家族」という単位の変遷はまぁ分からなくもない。
そもそも、「自己」という単位だけで考えてもどん詰まりするというのはよくある話で、人間は、相互関係、互いに干渉しあいながら成長(悪い意味でも良い意味でも)するのだ。
ただしかし、大学入試ごろの完全なる孤独、と違い、この場も、不思議な相互作用の場なんではないかと思ったりもしたりする。まぁこれも脱線だ。
「家族」はまぁ、分かった。が、「恋こともなかろうな。そうなると。それは、一体、誰の責任なのか。」とは一体何なのか(かっこ笑い)。
今度は「責任」とな。
責任。
責任?
えーっと、その、家族を作ることの責任、ってことか。
なるほど、社会的な要請、長男だったら結婚し、男児をつくれ、ってやつ、か。
そういうんが、昨今なくなってきてるよね、ということを言いたかったのか。
昨今がどうか分らんが、取り敢えず、個人的に何かそういう外圧は、今のところ一切ない。これがいいことなのか、悪いことなのかも分からないが、別にない。
親は、孫の顔が早く見たい、と思ってるかどうかわからんけどね。
ただ、それはとかく、実際、数百キロ離れたところで暮らして、正月ぐらいしか顔を見せないような親不孝者である。仮に孫ができても、その程度しか会わせられないんだろうと思う。それでも、いいのかな? 写真送ってあげて、成長をみせてあげたりすると、喜んでくれるのかな。
とか、ね。
そういうことを書きたかったのかな。分からん。
親には感謝しないといけないと思う。東京の大学に通うようになり、――覚えている、2年目ぐらいからは、学生寮的なのを出てアパート暮らしを始めたが、仕送りを月11万円してくれた。(昨今は高額と見なされる額だそうだが、当時としては平均的なものだそうな)
年間、132万円である。それを3年間。1年目は分からないが、同じだとすれば、4年で、528万円。
帰省の切符代も出してくれてた気がする。それ以外に、大学の授業料。242万円ぐらいだそうな。
足すと、770万円。実際は、もっともっとかかる要素があるだろう。
高額である。
今となっては、「全額返せ!!」と言われたら、返せなくはないが、まぁその、厳しいわな。
子供にお金がかかるというのは、本当なのだなと実感。
責任とは、結果に対して、自分が原因である、ということだ。
「育ててもらった責任」
ということになるのだろうか。
ん? よくわからないな。「今自分が存在していること」の責任?
日本の国民の3大義務を言えるだろうか。
納税の義務。労働の義務。子供に教育を受けさせる義務。
そう、だから、中学校までは義務なのだが、高校生以上は義務じゃない。「好きでやってること」である(悪意を持って書けば、の話)。
親が好きでやったことなんだから、子供に果たすべき責任なんかねぇ! と(悪意もって書けば、ね)。
そんなこと子供に言われたら、親は悲しむというか、怒る人もいるだろう。
ま、でも、ドロドロ、失敗している親子関係ってのもあるし、実際あるだろうね。「生んでくれなんて頼んでない!」なんてのも。
まぁ、生まれてこなければ、確かに、色々考えることもなかったし、苦しみも恐怖もなかったんじゃないかというのもある。ただ、生まれてきてしまったのであればしゃあないことであるし、繰り返し書いておくが、感謝こそあれ、親を怨む気持ちはない。
お父さん、お母さん、ありがとう。
しかし、どこまで、育ててくれたことになるのかな。親と暮らしていたのは高校生までだが、先ほどの通り、お金の問題でいけば、大学まで、となる。社会人になってからも、じゃあ、影響がゼロなのかといえばそうではなかろう。
……と、まぁ、このように、部屋で一人でいれば、色々思うところも出てくる。
だがまぁ、間違いなく、カフェ的環境では、上のような内容は一切出てこなかったろう。せいぜい、上の引用文ぐらいのレベルなのだ。
例によって、1時間ぐらい書いた。1時間ぐらいで、これぐらいは書けるのだ。
全然量が違うな。
ま、その、結論としては、結論なんか特にないのだが、この記事のまとめとしては、家族に対して特に責任はない、ということでよかろうか。
よくわからないか。家族を作る、必要性、はわからんが、取り急ぎ、責任はない、ということだろう。
眠気と疲れがドッときたので唐突に終わる。
前書き
最近、ルーチン更新が崩壊しているが、まぁその、一応免除規定(一人でゆっくり思索できる時間が少ない)に当たると思う。一人でゆっくり思索、というのが大事だ。
カフェとか、新幹線の中とかでも、まぁいいのだが、その環境によっては、落ち着けなかったりする。そうすると、全然書けない。
頑張って書いても、大した情報が出てこない。
1時間かかってこの程度
●抜粋
仕事を離れて少し思ったが、今後の、方針的なんを考えられなくもないな。俺は、どこまでいっても、考えることをやめられないし、気にしたり、遠慮したりをしてしまう。似た人はいるかもしれないが、理解してもらえる可能性は低い。そこを考えた上で、生きやすい方法を考えていかなければいけないだろう。しかし、本当に、家族を作る、ということについて、何の責任もないのだな。まあ、30代ということになれば、恋こともなかろうな。そうなると。それは、一体、誰の責任なのか。しろくま先生はどう考えるのか。時間を濃密に使っていく他あるまいが、その時間が、様々、面倒な調整ごとであることが多いわけであるが。
先日、とはいえ、まぁなんかメモぐらいしておくか、考えよう、ということでやってみて、たしか、1時間弱ぐらいで、上ぐらいの内容だ。
よく分からないし、面白くないな。
なんかこう、このブログ書いているのって、もっと面白かった気がするのだ。
それはこう、自虐的な、ぬるま湯につかっているような感覚なような気もするけれども、あの大学入試のために寒い冬に石油ストーブのゴーっという音と、朝の4時とか5時とかに起きて勉強しようと、その前に紙のノートに色々書いていたような、あの頃のサムシングが、このブログにおいてあるような気がしたのだ。
それでいて、当時の完全なる孤独と違い、一人じゃない、でも、一人でいられるという不思議な楽しさがあったはずなのだ。
家か部屋大事
ゆえに導かれるのは、やはり、「おうち」でいる時間なのである。いくらどこかに、タブレット片手に繰り出していっても、それは、十分ではないのだ。
今は、変な時間だが、とりあえず、眠気もそれほどないし、体の調子もそれほど悪くないので、「書く」条件がそろっている。貴重な時間だ。ありがとう。この時間を与えてくれたすべてにありがとう。
と、まぁ、そんな環境的分析はともかく、今回は、上の抜粋……1時間の成果について、もう少し意味あるものに考えてみよう。
今後の方針について
>仕事を離れて少し思ったが、今後の、方針的なんを考えられなくもないな仕事は重要である。
賃金がもらえるからだ。
何故賃金が必要か。生活するためだ。
働かなくても賃金がもらえるベーシックインカムの制度はまだ実現していない。
と、いうのは欺瞞だ。いや、ベーシックインカムの部分じゃなくて。
仕事は、生活するために必要だったはずなのだ。
要は狩猟採集は仕事である。
賃金というのは、中間者である。生活するために賃金が必要というのは、近代の話だ。
日本昔話の村人たちは、年貢を納めるために働いてるのではない。(勝手な決めつけ)
彼らは、ただ、日々の生活のために働いているのだ。(山に行ったり畑を耕したり)
……なんてなことを、今なら思ったりするのだが、カフェ的な状況であれば、思えないし、仮に思っても「書こう」という気にならないから不思議なものである。
いやしかし、上の話は全く関係ない。
要するに、仕事をしなくてもいい時間がないと、――大事なことなので正確にかけば、「仕事を考えなくてもいい時間」がなければ、思考できない、ということである。
そして、今は、仕事を考えなくてもいい時間、だと、上の抜粋記事では書きたかったのである(たぶん)。
自己分析
>俺は、どこまでいっても、考えることをやめられないし、気にしたり、遠慮したりをしてしまう。似た人はいるかもしれないが、理解してもらえる可能性は低い。そこを考えた上で、生きやすい方法を考えていかなければいけないだろう。ふーん。で?
とか言っちゃいけない。かわいそうだろ?(かっこ笑い)
いやしかし、「で?」としか思えないんだよな、今となっては。
いや、言ってることは分かるのだが、いまさら? とかって思う。
そんなの、分かりきってたんじゃないのと。何のために何百の記事を書いてきたのと。
でもまぁ、軽く、「前提」として書く分にはいいと思う。何がダメかって、これを書くのにも、非常に時間を労していたことだ。
サラッと書いちゃえよ、と思う。今ならサラッと書けちゃうだろう。
では、何が悩ませたのか。
「考え続けてしまう」「遠慮しがち」「人に理解されがたい」
これらを、「認めたくない」「認めてもいいのか?」という葛藤故だろうか。
ここで、「理解される必要があるのか?」という疑問も当然立てられる。が、それは考慮する必要はない。理解されたほうがいい。理解されなくてもいいかもしれないが、されるならされたほうが良いに決まっているのである。
いやいや、理解されたがゆえに、変に利用されてしまうのでは、とか、そういう言葉遊びをしても仕方がない。そういう、言葉尻を捉える人も少なくなくて、もうほんと、できるだけ他者とコミュニケーションを減らしたいという裏の思いが最近強い。まぁそれも脱線なんだが、要は、ここでいう「理解」とは、他者を尊重するという当たり前の原則に基づいているのだ。その前提においていえば、理解された方がいいのだ。そのほうが生きやすいはずなのだ。
脱線だ、そんな自己分析いるのか? と思う。
だがまてよ、と。
こういった当たり前の前提をして考えていけば、「考え続けてしまって遠慮しがちで理解されがたい」ことを、僕は悩んでいたのではないかと。
「変えたい」という意思の表れなのではないか、と。
そうも捉えられないか。
起承転結の承
>しかし、本当に、家族を作る、ということについて、何の責任もないのだな。まあ、30代ということになれば、恋こともなかろうな。そうなると。それは、一体、誰の責任なのか。しろくま先生はどう考えるのか。時間を濃密に使っていく他あるまいが、その時間が、様々、面倒な調整ごとであることが多いわけであるが。で、なんだけど、次の承け(うけ)の、つながりが全然みえてこない。
家族?
どうしてここで家族が出てくる?
――よくよく考えると、多分当時は一切思ってなかったろうが、「自己」→「家族」という単位の変遷はまぁ分からなくもない。
そもそも、「自己」という単位だけで考えてもどん詰まりするというのはよくある話で、人間は、相互関係、互いに干渉しあいながら成長(悪い意味でも良い意味でも)するのだ。
ただしかし、大学入試ごろの完全なる孤独、と違い、この場も、不思議な相互作用の場なんではないかと思ったりもしたりする。まぁこれも脱線だ。
「家族」はまぁ、分かった。が、「恋こともなかろうな。そうなると。それは、一体、誰の責任なのか。」とは一体何なのか(かっこ笑い)。
今度は「責任」とな。
責任。
責任?
えーっと、その、家族を作ることの責任、ってことか。
なるほど、社会的な要請、長男だったら結婚し、男児をつくれ、ってやつ、か。
そういうんが、昨今なくなってきてるよね、ということを言いたかったのか。
昨今がどうか分らんが、取り敢えず、個人的に何かそういう外圧は、今のところ一切ない。これがいいことなのか、悪いことなのかも分からないが、別にない。
親は、孫の顔が早く見たい、と思ってるかどうかわからんけどね。
ただ、それはとかく、実際、数百キロ離れたところで暮らして、正月ぐらいしか顔を見せないような親不孝者である。仮に孫ができても、その程度しか会わせられないんだろうと思う。それでも、いいのかな? 写真送ってあげて、成長をみせてあげたりすると、喜んでくれるのかな。
とか、ね。
そういうことを書きたかったのかな。分からん。
親には感謝しないといけないと思う。東京の大学に通うようになり、――覚えている、2年目ぐらいからは、学生寮的なのを出てアパート暮らしを始めたが、仕送りを月11万円してくれた。(昨今は高額と見なされる額だそうだが、当時としては平均的なものだそうな)
年間、132万円である。それを3年間。1年目は分からないが、同じだとすれば、4年で、528万円。
帰省の切符代も出してくれてた気がする。それ以外に、大学の授業料。242万円ぐらいだそうな。
足すと、770万円。実際は、もっともっとかかる要素があるだろう。
高額である。
今となっては、「全額返せ!!」と言われたら、返せなくはないが、まぁその、厳しいわな。
子供にお金がかかるというのは、本当なのだなと実感。
責任とは
だから、子供としての責任を果たせ、ということになるのか。責任とは、結果に対して、自分が原因である、ということだ。
「育ててもらった責任」
ということになるのだろうか。
ん? よくわからないな。「今自分が存在していること」の責任?
日本の国民の3大義務を言えるだろうか。
納税の義務。労働の義務。子供に教育を受けさせる義務。
そう、だから、中学校までは義務なのだが、高校生以上は義務じゃない。「好きでやってること」である(悪意を持って書けば、の話)。
親が好きでやったことなんだから、子供に果たすべき責任なんかねぇ! と(悪意もって書けば、ね)。
そんなこと子供に言われたら、親は悲しむというか、怒る人もいるだろう。
ま、でも、ドロドロ、失敗している親子関係ってのもあるし、実際あるだろうね。「生んでくれなんて頼んでない!」なんてのも。
まぁ、生まれてこなければ、確かに、色々考えることもなかったし、苦しみも恐怖もなかったんじゃないかというのもある。ただ、生まれてきてしまったのであればしゃあないことであるし、繰り返し書いておくが、感謝こそあれ、親を怨む気持ちはない。
お父さん、お母さん、ありがとう。
直接言ってやれや
いやまぁ、後悔しない程度には伝えているつもり。だが、確かに面と向かって、「育ててくれてありがとうね」とは言ってないか。しかし、どこまで、育ててくれたことになるのかな。親と暮らしていたのは高校生までだが、先ほどの通り、お金の問題でいけば、大学まで、となる。社会人になってからも、じゃあ、影響がゼロなのかといえばそうではなかろう。
……と、まぁ、このように、部屋で一人でいれば、色々思うところも出てくる。
だがまぁ、間違いなく、カフェ的環境では、上のような内容は一切出てこなかったろう。せいぜい、上の引用文ぐらいのレベルなのだ。
例によって、1時間ぐらい書いた。1時間ぐらいで、これぐらいは書けるのだ。
全然量が違うな。
ま、その、結論としては、結論なんか特にないのだが、この記事のまとめとしては、家族に対して特に責任はない、ということでよかろうか。
よくわからないか。家族を作る、必要性、はわからんが、取り急ぎ、責任はない、ということだろう。
眠気と疲れがドッときたので唐突に終わる。
あとがき
(かっこ書きである。比べられるものでもなく、完全に失言なのだが、完全に個人的感覚として書かせて頂くと、京アニの放火は、秋葉通り魔とは比較にならないくらい酷いと思う。犠牲の多さとかではなく、「もう世の中自体が憎い」ということで無差別殺人をするのと、「特定の誰かへの恨み」で無関係な人まで巻き込むのとでは、俺の中ではなんか違う。何がどう違うのか、よく自分でも分からないが、単に「京アニ」が被害者だからなのか分からないが、何か違う。――というか、加害者も、創作者の端くれであったのなら、実効的手段によって何かするというのは、ほんと狂ってやがる。失言だが、秋葉の加害者への同情心は、当時の自分のイライラ状況も相まって、あった。が、今回の事件に関しては、一切ない。行為は許されないが、気持ちは少しは分かる気がする……的なのが一切ない。全く理解不能である。当たり前だが、自分で思うとかじゃなくて、考えてみるにしたとき、「特定の誰かが憎くて殺した」→分かる。「漠然とすべてが嫌になって誰でもいいから殺した」→分かる。「特定の誰かが憎くて、関係ない人を殺した」→わからない。いや、犯人にとっては、「関係ある奴ら」だったのかもしれないが、うーむ、分からない。あれかな、NHKに就職したくて、何度も採用試験受けたけれども落とされて、それでNHKの会社に放火した、みたいな感じかな。そう考えると分からないでもないか。いやでも、分からないのは、「好きなんだか嫌いなんだか分からない」ということだ。好きが転じて憎しみに変わる、というのも、人間なんだろうか。変な生き物だな、人間って。いや、何でこの話になったかというと、本文の家族のあたりで、こんな同情のかけらもない事件を自分の子供が起こしたら、もうそりゃつらいなと思う。親もクソ野郎どもだった、というオチがあれば、少しは溜飲が下がるかもしれないが、至極ふつーの親だったら、居た堪れなく思う。まぁなので、俺の親も、俺は変な奴で孫もみせてやれていないが、それに比べたらマシだと思って頂きたい……なんてのは、俺が嫌いな比較思考であるが、まぁ仕方あるまい)
今日の一言「感想遅くてすみません」
ややや、すみません!
なんかレスポンスが遅すぎてショックを与えてしまい、一つ小話が生まれてしまうほどになってしまった事態に反省……。
しかし……時間が取れない!!!!
すべては言い訳ながら、直近はarkもやれてないんだからぁぁ! と言い分ける。
いやそう、だから、読むタイミングも検討していたのである。
恐らく、後半からの勢いによって、これまでの自分の傾向から、一気読みしてしまうであろうことは分かっていたから、感想を書くという時間も含めて取れる時間を確保してから、読むべきだと、頭では分かっていた。
しかし、いくら待っても、自分の気持ち的に十分なタイミングはやってこず、arkで遊んでしまった日々を後悔する意味もあり、少しずつ読んでいったところ、やはり、悲運な運命を背負ってしまったレイスロードとの決戦、もう少し具体的に書けば、フィン少年の心が壊されてしまったあたりからはもう止められない強い訴求力をもってして、結局、変な時間に一気読みしてしまったのである。
いつ感想がかきおわるのか。
一つ前提がある。
激辛批評を行う際は、少なくても、2回以上は読み返している。4月末ごろに投稿された作品にたいし、今はもう8月である。
今日までには、フィン少年がある力を使って昏睡してしまったところまで読み返し、批評ポイントや気づいた点などをまとめていたところだった。
しかし、環境的な問題もあって、4時間から6時間ぐらいかかっていると思う。
そこから考えると、まだ、いつ頃まとまるかというのは分からない。としか言えない……。
思うに。
・烈火成分(ギャグ)
・フィン少年
・ストーリー構成
が、改善の余地があるのではないかと思う。
現状でも、話の区切りは考慮する前提として、内容的には十分「面白い」作品に仕上がっていると思う。
マーケティングに成功して書籍化などされている作品と品質的に劣るということはあるまい。タイミングと、広告宣伝と、コネクションがあれば通用する作品レベルと思う。
ただ、その著者の実力を知らないうちに、当該作品が、例えば週刊更新が投稿サイトなどでされていたときに、自分が、リアルのくそめんどくせえ様々をそっちのけて、当該作品を読み続けるかというレベルを求めるとなると、「何か足りない」ということになる。
いやこれが、5年や10年前とかだったら、「すげえ作品に出会った」となるかもしれない。そう、タイミングは非常に重要だ。しかしこれは、運、として片付けるしかないものでもある。
いやいや、しかし、フィン少年の母親のシーンや、信念や目的がぶつかり合い、わかり会うことは困難であるなかで、入念に考えられた布石が発動し、共闘し、大いなる敵に立ち向かっていくシーンや、そもそもフィン少年の心が壊され、そして変化していくシーンなど、ベタ誉めしたいシーンは数多くある。
まぁそれはむしろ、確信めいていて、きっと感動させてくれるだろうと期待していた。
期待通りであった、あったが、そこにいきつくまでは、「ふつーに面白い」レベルであった。そこが惜しいと思うのであり、この感覚を、上手く伝えたい。そのために、もう数回読みたい。
そんな、1から10まで綿密に書かないと分かり合えない仲なのか、とお叱りを受けそうだ。
だから、こんな言い訳の記事を書いているわけであるが、今かけるとしたら、上の、烈火成分と、フィン少年と、ストーリー構成、この3つがもうちょっとよくできるんじゃないか、ということである。
あと、なんか、どこかで書いたのか、自分のメモだったのか分からなくなってしまったが、エルフ世界の描写が、どうしてもファンタジーだからしかたがないとはいえ、イメージがしにくかった。
いや、ファンタジーだから、というのは、別のじゃんけんで頭が破壊される作品においては、全般的にイメージがしやすかったし、3人の英雄の世界は、わりとイメージしやすかった。……いや、厳密に言えば、烈火氏の世界がやや分かりづらかった気もする。モヒカンがはびこる世紀末と、シンゴジラなども知っているという現代的なイメージとが読んでいて頭でやや違和感が生じる場面などもあった気がする。
ややしかし、それはきっと、世紀末イコール北斗の拳的なイメージが強すぎるからなのかとも思う。
思うに、烈火氏が強すぎるがゆえに、戦闘の緊迫感がどうしても薄れる面が難しかったと思われる。
なんかそれが、フィン少年や、死の巫女などの悲劇的要素の重さが上手く伝わってこなかった原因なんではなかろうかとも推測。直接関係ないから、理由になっていないとは思うが、何かが足りない気がしている。
前書き
>完璧な予定では遠藤さんは号泣して長文を書きなぐっているところに俺がドヤ顔で返信するという完璧なプランが立てられていたが、すげー軽く流されてしまった!ややや、すみません!
なんかレスポンスが遅すぎてショックを与えてしまい、一つ小話が生まれてしまうほどになってしまった事態に反省……。
しかし……時間が取れない!!!!
すべては言い訳ながら、直近はarkもやれてないんだからぁぁ! と言い分ける。
シロガネ
即座の感想であれば、面白かった、となる。小学生並み感想だ。いやそう、だから、読むタイミングも検討していたのである。
恐らく、後半からの勢いによって、これまでの自分の傾向から、一気読みしてしまうであろうことは分かっていたから、感想を書くという時間も含めて取れる時間を確保してから、読むべきだと、頭では分かっていた。
しかし、いくら待っても、自分の気持ち的に十分なタイミングはやってこず、arkで遊んでしまった日々を後悔する意味もあり、少しずつ読んでいったところ、やはり、悲運な運命を背負ってしまったレイスロードとの決戦、もう少し具体的に書けば、フィン少年の心が壊されてしまったあたりからはもう止められない強い訴求力をもってして、結局、変な時間に一気読みしてしまったのである。
感想は結局いつ書けるのか
いやいや、言い訳はともかく、ビジネス(?)は結果が大事だ。いつ感想がかきおわるのか。
一つ前提がある。
激辛批評を行う際は、少なくても、2回以上は読み返している。4月末ごろに投稿された作品にたいし、今はもう8月である。
今日までには、フィン少年がある力を使って昏睡してしまったところまで読み返し、批評ポイントや気づいた点などをまとめていたところだった。
しかし、環境的な問題もあって、4時間から6時間ぐらいかかっていると思う。
そこから考えると、まだ、いつ頃まとまるかというのは分からない。としか言えない……。
気づいた点として
こっからは、さらにメモになる。思うに。
・烈火成分(ギャグ)
・フィン少年
・ストーリー構成
が、改善の余地があるのではないかと思う。
現状でも、話の区切りは考慮する前提として、内容的には十分「面白い」作品に仕上がっていると思う。
マーケティングに成功して書籍化などされている作品と品質的に劣るということはあるまい。タイミングと、広告宣伝と、コネクションがあれば通用する作品レベルと思う。
ただ、その著者の実力を知らないうちに、当該作品が、例えば週刊更新が投稿サイトなどでされていたときに、自分が、リアルのくそめんどくせえ様々をそっちのけて、当該作品を読み続けるかというレベルを求めるとなると、「何か足りない」ということになる。
いやこれが、5年や10年前とかだったら、「すげえ作品に出会った」となるかもしれない。そう、タイミングは非常に重要だ。しかしこれは、運、として片付けるしかないものでもある。
いやいや、しかし、フィン少年の母親のシーンや、信念や目的がぶつかり合い、わかり会うことは困難であるなかで、入念に考えられた布石が発動し、共闘し、大いなる敵に立ち向かっていくシーンや、そもそもフィン少年の心が壊され、そして変化していくシーンなど、ベタ誉めしたいシーンは数多くある。
まぁそれはむしろ、確信めいていて、きっと感動させてくれるだろうと期待していた。
期待通りであった、あったが、そこにいきつくまでは、「ふつーに面白い」レベルであった。そこが惜しいと思うのであり、この感覚を、上手く伝えたい。そのために、もう数回読みたい。
時間の有限性
ああ、それはしかし、僕の傲慢である。そんな、1から10まで綿密に書かないと分かり合えない仲なのか、とお叱りを受けそうだ。
だから、こんな言い訳の記事を書いているわけであるが、今かけるとしたら、上の、烈火成分と、フィン少年と、ストーリー構成、この3つがもうちょっとよくできるんじゃないか、ということである。
あと、なんか、どこかで書いたのか、自分のメモだったのか分からなくなってしまったが、エルフ世界の描写が、どうしてもファンタジーだからしかたがないとはいえ、イメージがしにくかった。
いや、ファンタジーだから、というのは、別のじゃんけんで頭が破壊される作品においては、全般的にイメージがしやすかったし、3人の英雄の世界は、わりとイメージしやすかった。……いや、厳密に言えば、烈火氏の世界がやや分かりづらかった気もする。モヒカンがはびこる世紀末と、シンゴジラなども知っているという現代的なイメージとが読んでいて頭でやや違和感が生じる場面などもあった気がする。
ややしかし、それはきっと、世紀末イコール北斗の拳的なイメージが強すぎるからなのかとも思う。
思うに、烈火氏が強すぎるがゆえに、戦闘の緊迫感がどうしても薄れる面が難しかったと思われる。
なんかそれが、フィン少年や、死の巫女などの悲劇的要素の重さが上手く伝わってこなかった原因なんではなかろうかとも推測。直接関係ないから、理由になっていないとは思うが、何かが足りない気がしている。