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創作進捗グラフツールなるもの
2019/09/23 20:12 | Comments(3) | 創作について
今日の一言「推測や抽象的思考力が人間たる証」

前書き

 はは、自分の思考力のなさに呆れるものである。

>グラフが使えなくなったことでもあるし、しばらく、というか9月30日まで、アギュギテムノルマはお休みにする。俺はヘヴンスマイルどもを殺(ト)ることに専念する

 簡単に書けば、ファッキンなガレリアハイパフォーマンスゲーミングPCにはデフォルトでオフィスが入っていないために、自分が作成しとある方へ(というよりも公開しているが)提供した創作進捗グラフツールなるものも使えなくなったのであった。

 当たり前過ぎる!!

仕様検討

 反省した僕は少し仕様検討に入るのであった。

1.PHP(WEBサイト)で実装できないか
→できる。レーダーチャート的なグラフのライブラリは既に使ったことあるし、棒グラフの方が簡単そう

2.でも入力データとかどうするの?
→難題。割とマジでやるなら新規データベースが必要そう。
→いや、クッキー(ブラウザ側に保存する方法)ではどうか。
 →いいかも。取り敢えず一週間分で試作してみるか。

3.文字数の差分はどうやって求めるの?
→前述クッキーで、差分文字数と、前日文字数(トータル)を管理して、当日分の文字数を入力することで求める仕組みはどうか。
 →いいかも。ただ、とりあえず作ってみないと課題のイメージわかない。

4.グラフの保存はどうするの?
→こればっかしはブラウザに表示させて、右クリックで保存してもらうしかないな。

あとがき

(かっこ書きである。おまえ、そんなことしている暇あったらシロガネ感想――まぁ待ちたまえ、上のようなのは割と楽しいのである。日曜大工的な奴だ。DIYだ。こういうのは好きなんだ。そして割と本気でやれば1日ぐらいでできそうな見込みがある。同じ「考える」のでも、ブログ書くのと、感想書くのと、こういう作業的な「考える」とは違うのである。だから、しばし、そうさな……8時間ぐらい使うことをお許し願いたい)

追記

(約7時間後……)
 そして、とりあえずベータ版できた!

(以下アクセスコード)
https://www.fya.jp/~sousakupower/mojigraph.php


1 アクセスする
「作品名」
「昨日までの文字数」
「今日までの文字数」を入力。
ここで入力する文字数は、総トータルの文字数。





2 登録ボタンを押す
登録しましたメッセージが出たら多分成功。
「グラフ表示」ボタンを押す。



3 グラフが表示される
一日分だけだと不格好だけど、ちょっとまって。文字数登録ボタンを押してみる。



4 文字数登録の下の方のデータ修正をする
修正する日付と、文字数を入力。
ここでの文字数は、グラフに表示させたい文字数(差分)。
入力したら「修正」ボタンを押す。


5 グラフが追加される



 以上、こんな感じ。
 え、過去のデータ!!!??

 ……。
 ……。
 ……。

 エクセル買いましょう!!!(遠い目)


(かっこ書きである。ともかく、仕様検討含む目標8時間を達成できて満足。今日分は大丈夫だけれども、しばらく使ってみて大丈夫か確認要だな。問題なさそうだったら、ホムペにも創作支援ってことでリンク掲載紹介しようかなとも思う。いやあしかし、集中したな。コーヒー飲むのとトイレ以外は余計な事せずキーを叩いてたな。――なんか、疲労はあるけれども、仕事よりは間違いなく楽しいな……ああ、明日からまた仕事か……)

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コミュ力の前に他者に興味があるか
2019/09/23 13:54 | Comments(0) | 対人関係
今日の一言「落ち着かないので複数の記事をまとめよう」「風が強い日」

前書き

 この記事では、いつも大事にしている「僕の考え」というのは、あまり踏み込めない気がする。とりあえず、ばたばたした日常の中で、スマホでながら見して「おっ」とか「むっ」とか思った記事を抜粋しておくことにとどめよう。そう決めると、あまり「書く」ことに積極的な気持ちになれない――というか、なんもする気が起きないときにも、何かができる、そんな気がする。

人の皮

 シロクマさんの記事。
人間の皮が剥げそうだ

 一言感想。「分かる」。特に、
「げだもののようにひきこもりたい」
 という点が面白く「よーわかるなー」っと思った。
 そう、「ひきこもりたい」という気持ち。


 もう一つ、「人と会うと疲れる」というルポライター氏の記事。
生きづらくても生きていく。

 要は、先日いただいたコメントにもあったが、「人はそれしかできない」という点も関係しそうだ。
 しかし、そうは言っても、他者も同じように感じているかどうか、という点は、あまり考慮する必要もない。要するに疲れるものは疲れるのだ。

何故疲れるのか

 これは、上の記事で触れられているように、「楽しい」「楽しくない」は関係ない。

 よく言われるところの、「素直にさらけ出していけばいいじゃない」というのも、全く当たらない。そういう次元の話ではないのである。

 むしろ、重要な点は、「自分をさらけ出せば」「今すぐに帰りたい」となることである(かっこ笑い)。
 家族や、彼女と、家でゆっくり過ごすのは悪くない、よいことである。しかしそれはむしろ、「一人」の延長である。

 家族等と、その他他人とを一緒にできるわけはなかろう。
 先の無責任なアドバイス氏における、「自分をさらけ出せばいいじゃない」は、他者を他者と思わなくてもいい、という支離滅裂さがある。

 他者は他者だから、相応の刺激があるのであり、重要なのだ。家族の安定性や、居心地の良さとは別である。


治療されるべきか

 一方で、人は生きていくのに、多くの人の繋がりが必要だ。このブログを書くための電気も、発電所ではある程度オートメーションされているのかもしれないし、特に電線を伝ってくる電気に人の意思があるわけではないが、それでも、維持運用してくれている人のおかげだ。

 ――ということと、「人と会うと疲れる」とか、「仕事めんどくせぇ」とか、「あと何年生きるんだろう」とかいう「空虚感」というのは、別問題である。

 今を生きることに必死にならなければいけない、紛争地帯とか飢餓とか、パワハラ上司とか幼児虐待とか、ひっでぇ事象と比べて、「ああ、自分はましなんだなぁ」とかって思考停止は、もうやめようじゃないか、ということを、僕は、カクヨムでの投稿の、1話目で書きたかったのである。たぶん。


 それはそうと、人等との繋がりは断ち切れない。
 そうしたときに、こうした気質性質は、治療されるべきか。皆がパーティーピーポーになるべきかのか。

 シロクマ先生でさえも、「あああひきこもりてええ」ってなるのだから、別に治療されるべきではないのではないか。――しかし、ある程度社会的地位がある人たちは、自由が許される。ホリエモン氏らが、「好きなように生きてそれを仕事にできなきゃクソ以下だぜ」と好き勝手言っても、誰しもそう振舞えるほどのステータスも財力も環境もない。「うぜぇ、そういって言い訳してばっかいるからクズのままなんだ」って言われるだろうが、たぶん、平行線になる部分である。

好きなこととは何か

 と、いうよりも、問題にすべきなのは、その「好きなこと」である。
 こっちの方がよほど問題であることを最近思う。

 いや、自分の記事を丁寧に読み返せば、数年前からちゃんとそのあたりに気づいてはいるように思う。思うが、明確に、何度も、「問題だ!」と主張していなかったから、今回は主張したい。

 どういう状態が望ましいのか。好きなのか、幸せなのか。

幸せについて

 で、この、幸せ、については、僕の古い記事を一度参照しておくべきだろう。

幸福について

 これは、2010年の記事であるが、まぁ未だに、僕が「ああ、そうだな」と思って違いはない。

 僕の言葉で、「相対概念」といってるものがあるが、要するに、長い短いとかのことだが、幸福もまた、相対概念である。
 なんか、そう、最近の記事でも、自分自身でもそういった傾向で書いてきた気がするが、なんというか、別に「幸福」を僕は求めているわけではない――というのはまた違うのだけれども、「幸福」という概念自体に執着しようというのではないのだ。

 ああ、そうそう、最近では、「満足」という言葉を使っていたか。
 満足、もまた、相対概念である。求めても、得られるものではないのである。


 それが、僕の中には、アカシックレコードばりに底流にあるわけだが、そう、最初の「人といて疲れる」的な意味における「人」(他者)に、そこまでの価値観の共有を求めるのは不可能だし、失礼だろう。
 そして、僕自身も別に理解してもらおうと思ってるわけではないから、理解してもらうための努力をするつもりもない、する必要もないと思う。

 ――というか、こういった問題は、誰かと会話をしていく中で見いだされるものでもなく、解決するものでもない。これらには、書物は有効だと思う。――しかしながら、書物でさえも、所詮は「他人」である。「ああ、この表現は使えるかな」ぐらいの役にしかたたない。


 それほど難しい問題を、このブログでは取り扱っているのだ――と書くと気どり過ぎなわけだが、そういった面倒くさい問題に立ち向かう必要がある人を、僕は無条件で応援する。

他者に興味はあるか

 もう一つ。この記事に関して、どこで読んだか思い出せないのであるが、――確かBooks APPさんだったような気がするが、見つけられない。
 あ、たぶんコレ(しんざき氏の記事)だ。


 そうそう。他者に興味ないんだよな、俺。

 いや、ある。ある人はいる。たくさんいるぞ! ――いるけれども、現実には少ない。ってか、「仕事」というコミュニティにおいて、他者に興味はない。

 うーん……なんかちょっと違うような。興味はなくはなくはない……というか。
 孤立したら仕事も進みにくいしな。

 っでもなー、そういった気を遣うことができる人が出世するとか、管理職に向いている、という傾向があるんだとしたら、俺は全然向いてないと思う。

 ――いや、そんなこともない、というか、「人に役に立つことはしたい」と思うわけだが、……うーむ、このあたりを上手く表現できないな。このあたりをうまく表現しないと転職はできないな(笑)。

あとがき

(かっこ書きである。でも、だな。今回の記事は、いくつかの記事を切り張りしたリンク集みたいなもんであるが、全部関連しているともいえる。人間社会で生きていくにおいて、幸福的であるには、他者に興味をもつべきである、という前提に縛られていると思う。先日、「君は、様々なものに縛られすぎのように見えるよ」というコメントを頂いたわけであるが、その自縛の一つが「他者性」であるのではなかろうか。いやぁしかし、それは俺も、切って破いて捨てたいよ(かっこわらい)。捨てたいけれども、捨てたら、それって「死ぬ」のと同義にならないか、ということで慎重に検討しているのである。いやいつも極端に思われることを書いてしまうが、例えば次に、「ようし、俺は好き勝手自分の生きたいように生きるぞ!」というのを「正解」としたとしても、今回の記事で触れた、「好きなことって何よ」という問題にぶちあたるのである。要は、袋小路のように陥っている。ええい面倒くせえやつめ、じゃあもう考えること自体やめちまえ、という意見もごもっともである。しかし、これは、休日に何もしたくないとずっと布団の中でうずくまっていても、睡眠薬を服用してずっと寝続けたとしても、思考が不要になるということにはならないのである)

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分からない人のクロスサイトスクリプティング文系的理解
2019/09/19 18:15 | Comments(2) | 学習勉強インプット
今日の一言「久しぶりの学習カテゴリ」「創作ネタとして……」

前書き

 何度勉強しても、「分かった」という気持ちになれない事柄というのがある。
 ある程度類似の問題を複数解くことで、「正解」を導くことはできるようになっても、「理解」した気持ちになれない。

 理解とは、正しく分類できることであるので、問題が解ければ、理解したと言えるかもしれない。しかし、その根拠が自分の中でしっくりくる……この表現も曖昧なわけだが、あやふやな状態では理解したとはいえないだろう。

 そんな事柄は多くあるわけだが、その一つの「クロスサイトスクリプティング」というクラッキング手法について解説を試みることで、「理解」に近づくことを目的とする。

クロスサイトスクリプティング

 とりあえず、辞書的に引用。

クロスサイトスクリプティングとは、ネットワークを通じた攻撃手法の一つで、保安上の弱点(脆弱性)のあるWebサイトを踏み台に、悪意のあるプログラムをそのサイトの訪問者に送り込む手法。また、そのような攻撃に利用される脆弱性のこと(XSS脆弱性)。
IT用語辞典e-words

 クロスサイトスクリプティング(以下「XSS」)とは、クラッキングである、という理解はまず簡単にできる。
 問題は、その中身だ。いろんなネットワークを通じた攻撃手法(DoSとかセッションハイジャックとかSQLインジェクション)というものがある中で、XSS特有の「手がかり」は何かを理解する必要がある。

WEBサイトの基本

 ポイントとなる要素として、「WEBサイトを踏み台に」という点だ。
 WEBサイトの理解をまず確かめよう。このブログもWEBサイトである。昔はホームページという言葉の方がよく用いられていたと思う。「ホーム」でもなくなってきたから、WEBという表現が主流になったのだとか聞いたことがあったような。

 で、脆弱性のあるWEBサイト、ということだが、基本、単にブラウザ(WEBサイト閲覧に使われるアプリ)に表示するだけのサイトは、基本問題にならない。

 もっと分解して表現すると、端末(クライアント)とサーバという概念がある。
 要はパソコンが端末。サーバはネットワークの先にあるすごい機械だ(かっこわらい)。

 で、表示だけするサイトとは、クライアントからサーバに「見せて」って要求して、サーバから「はいどうぞ」ってやりとりがあって、それだけである。
 で、その「見せて」ってのは、URL(アドレス)で示される。もっといえば、URLは、IPアドレス+ファイルの場所を示す情報である。その文字列を数値(IPアドレス)に変換してくれるのが「DNSサーバ」である。――わきみちにそれた。

 要は、「見せて」→「どうぞ」だけのやりとりのサイトは、脆弱性もない(と言い切ってしまうのは危険なんだろうが)。


 問題になるのは、端末とサーバで、双方向なやり取りがあるサイトである。

双方向なサイト

 双方向なサイトとは、このブログのようなものである。
 もちろん、単なる読者、閲覧者にとっては、基本一方向であるが、コメントとか投稿できる。そして筆者も、端末で書いた記事を、ネットワークを通じてサーバに送り込んでいる。

 これらの双方向な情報のやりとりのためには、「フォーム」が使われる。要は「入力欄」。

 このフォームに、データベースを操作する言語のSQLを入力して、データを破壊したり抽出したりするのが「SQLインジェクション」だ。
 これは分かりやすいと思う。

 では本題の、XSSとは、どういったものなのか。

XSSの手法

 先ほどの辞書の続きを引用。

典型的なXSS攻撃では、攻撃者はターゲットとなる脆弱なサイトへのリンクを設置した罠サイトを設け、閲覧者がリンクをクリックするよう仕向ける。その際、リンクのURLのパラメータ部分にスクリプト(JavaScriptコード)やHTMLタグの断片を埋め込み、閲覧者が脆弱なサイトを開くとページ内に自動的にそれらの悪質なスクリプトが埋め込まれ、即座に閲覧者のWebブラウザで実行される。

 あれ、そうすると、僕は、「一方向のサイトは大丈夫」と書いたが、URLに埋め込みができるのなら、どんなサイトも危ないってことになりはしないか。

 また、国家試験問題(H25秋応用情報)で、こんな問題↓がある。
クロスサイトスクリプティングの手口はどれか。

正解:WEBアプリケーションに用意された入力フィールドに、悪意あるJavaScriptコードを含んだデータを入力する


 あれ、やっぱり、そうすると、僕が書いてきた、「フォーム」(入力欄)=入力フィールドに悪意あるスクリプトを埋め込む、という「理解」が正しい気がしてくる。

要するに

クロスサイトスクリプティング(XSS)のセキュリティ対策とは?
https://www.shadan-kun.com/blog/measure/1052/


 上の記事を参照するに、やはり、フォームを使ってスクリプトを埋め込む手法が紹介されている。しかし、納得がいかなかったのでさらに調べると、以下サイトで少し分かった気がした。

とほほのWWW入門
http://www.tohoho-web.com/ex/xss.html

 ――ってか、懐かしい!(笑)
 僕がWEBサイトの基礎を学び始めた十数年前によく参照させて頂いていた。
 コピーライトが2019年になっていて、まだ運営されていたんだなぁとしみじみ。(個人運営だと思ってたけど、どうなんだろ)


 ――要するに、両方の手法があるということだ。
 URL埋め込み型(反射型)と、掲示板埋め込み型(格納型)があるということだ。


 なるほど。ここまで調べてようやく分かってきた(理解してきた)気がする。

 ちなみに、問題を解くことに関しては間違えはなかった、という点が、本記事の裏の主旨である。
 複数の問題を解くことはできても、なんとなく分からなかったXSSという概念。要は僕の言葉で理解すれば、以下のようになる。

「簡易プログラム(スクリプト)を利用した攻撃手法。正規のWEBサイトにスクリプトを仕掛けることに特徴がある」

あとがき

(かっこ書きである。XSSについて、他書籍とかの説明で、「(スクリプトを使って)別のWEBサイトを表示し……」とかって説明しているから分けわからなくなったのである。ひどい。まぁその、人によって(知識とか頭の回転とか語彙力とか)分かりやすさは異なるから、上の僕の説明が分かりやすいかというと一概ではないだろうが、少なくても僕にとっては分かりやすい。先日の人類普遍の6原則(他者を傷つけない、報復できる、善行には返礼、強者は弱者に配慮、約束守る、嘘つかない)も、とりあえず暗記して~自分の言葉で表現して~を繰り返さないと覚えられない。ちなみに、教養とは、「概念知識」の多さだと思ってる。概念ってのは抽象のことだ。その抽象的な表現ができる事柄が多い人を、教養がある人という。モノ・コトの知識がたくさんあっても、教養があるとは言わない。かといって、具体的なことが不要なわけはない。大事だ。だから別に教養が大事だというわけでもない。ただ、創作する上では、たくさんあった方がいいだろう)

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今しかできないことをするべき
2019/09/16 10:25 | Comments(6) | 生きる意味
今日の一言「今しかできないことが分かれば苦労しない」「素直になるってことかな」

前書き

 今回の記事は、割とこう、「〇〇について書こう」ということが明確になっている上で書き始める。逆に、いつもの記事は、なんかよう分からん気持ちのままで書き始めるか、ルーチンだから仕方がないかといった形で書き始めている。そのうち筆が進む場合もあれば、憂鬱のまま終わるときもある。
 今回は違うので、どういった方向や感覚になるかは少し楽しみである。

 さて、本題としては、タイトルのとおり、「今しかできないこと」というのに着目しようというわけであるが、まずはこれについて書こうと思った理由に触れる。

 3人のコメントだ。
 例によって、IM氏、SG氏、KK氏とさせて頂く。まずはポイントとなるコメントを引用。

●IM氏
周りを見渡すと大体の人が欲しいものがわかっているし、どうしたら幸せになれるかわかっているように「感じる」んだよな。

●SG氏
「ここで自分にしか出来ない何かがあるはず! 発展に貢献できる!」みたいな主張をして就活していくことに割と嫌気がさしていました。

KK氏
「生きる意味」的なことを考えずとも、確固たる自己をもち、生活できている人のほうが大半な気がすると仰っていましたが僕は本当にそうなのかなと疑問に思っています。
 ついでに、というと失礼だが、もうひとつシロクマ氏の記事も引用させていただく。

●シロクマ氏
実際には人は変わっていくものだし、人が変わっていくにつれて、書けること・表現できることも変わっていくものだ。変わっていくからこそ、今しか書けないことは貴重で、今書かなければ喪われてしまうものだと心得なければならない。
――シロクマの屑籠

ペルソナ

 ペルソナはユングという方が述べた心理学の用語である。アトラス社のゲームシリーズではない(※)。
 仮面。
 人は、外界で生きていくうえで、外向きの顔をつくらなければならない。

 僕は、この辺が、高校生か、大学時代ぐらいか、よく覚えていないが、そのあたりから特に、ものすごく気持ち悪いと思っていた。
 気持ち悪いが、仕方がないものだと思った。
 だから僕は、「感情のコントロール」的な表現をよく使っていた(自分用の日記の中で)。

 今思えば、「適切なふるまい」というものを、いつも強く意識しようとしていたのだと思う。

 適切!
 噴き出してしまいそうだ。いやしかし、当時はえらく真面目だったのだ。
 いやむしろその傾向は、今もないとは言えないだろう。

 が、しかし、これこそがペルソナともいえる。
 自分が見せたい自分ともいう。ペルソナを被るのは社会的要請かもしれないが、その被るペルソナを選ぶことはできるんじゃないだろうか。


※ いや、「ペルソナ」といったとき、それはゲームシリーズのことも指す。今回はそちらについて書こうという意味ではない、ということ。これは、文脈上明らかだが、一部の人には伝わらない可能性がある。――というつまらない言及は、実は重要でもある。これは明らかな例であるが、「感情」的なものを書いていくと、途端に膨大な解釈が生まれ、その共感はより困難なものになるからだ。


自分と他者とのずれ

 「今しか書けないことを」という話と、「ペルソナ(役割ベースの顔)」と、一体何が関係あるのか、と思ってしまい、筆が止まる。
 いやぁしかし、懐かしい思いもある。レポートとか書くとき、至極形式的に書こうとすると「止まる」のだ。ほんとにこれ、説得力あるのか? 論理的な文章になっているのか? ここの表現というか文章は必要なのか? とか、いろいろ浮かぶから。

 楽しくない文章たちだ。

 もう少し、素直になって書いていくべきだ。

 さて、しかし、ペルソナと今しか書けないことは、無関係ではないと思う。思う、がまだ、そこに到達するまでの前提が書ききれていいない。

 ええと、まず明らかなのは、「みんな外向きの顔をもって生活している」だろう、ということが、三者のコメントから分かるということである。
(KK氏の引用部分だけでは読み取れないが、方向性的にはそう思われる)

 いや確かに、僕は前の記事で「自分以外の人はみな自己を確立してしっかり生きているのだ」(キリッ)的なことを書いて、KK氏から、「そんなことないのでは?」とご指摘いただいたわけであるが、言い訳がましいが、そこまで思ってるわけではないのだ。いやむしろ、IM氏の仰る様に、「相手が幸せがどうかなんて絶対にわからないという命題というか、事実もある」のである。

 ただ思うのは、他者存在は、「自分ってこういう人間だ」という認識については、ちゃんとあるのではないかということである。
 その「自分ってこういう人間だ」というのは、内面的なものであり、他者に映っている自分、とは違う。ああ、このあたりが話を難しくする。次の小見出しで少し整理しよう。

自分という語を用いるときの注意

 一人称における「僕」と、「自分」という語を用いるときに示しているものは、違うと思う。「自分」には、二つの意味がある。
・僕が思う「自分」(a)
・他者から見える僕(b)

 そして、違う観点からも2つある。

・思考内面的な「自分」(c)
・身体物理的な「自分」(d)

 階層化して表現すれば、
1 内面的な自分
 (1) 僕が思う自分
 (2) 他者から見える自分
2 身体的な自分

 というようになる。

 今後、どっちの「自分」の意味で使っているかは、明確にしていかないと話が分かりづらくなるだろう(自分にとっても)。

今しかできないことをするべきな理由

 話が、まとまらないが、先に結論めいたことを書けば、僕らが使える手段としては、「今しかできないことをする」しかないからだ。
 理由は、時間は不可逆だからだ。以上。

 ……もう一つ理由を挙げれば、身体的な自分の規定も無視できないからだ。

 身体的、といったときに、すぐさま浮かぶのは「顔」であるが、それだけではない。筋骨隆々具合とか、背の高さとかメタボリックシンドロームなのかとか、皴が多いか、男女どちらかなどなど、身体的属性というのも非常にたくさんある。

 そして、そうした身体的属性というのも、時間とともに変化する。
 だから、今しかできないことをする……むしろ、するしかないともいえる。

 しかしそれは詭弁で、本当に、本当に今しかできないか、というのは、きっと違う。
 ロッククライミングをするのは、別に今じゃなくても、70歳になってからでもできるかもしれない。(相応の準備が必要だろうが)

 そういう意味で、「今しかできないこと」が何か、というのは難しい。
 難しいものの、しかし、僕は、「素直になる」ということで、それに近いことは分かると思っている。

素直になるとは

 IM氏の言葉で、「まじで自分の欲しいものって何で、どうしたらよい気分になれるかなんて本当にわからん」というのもあった。
 本当にそうだ。僕が苦しいというか、目標というか目的が定まらない理由がコレでもある。

 とことん素直になるのだ。
 思考的な面における解決策としては、とにかく素直に書いていく、ということであり、それがこのブログの目的でもある。

 いやこれ、難しいことなんだよ。
 最初に書いたペルソナの話のとおり、仮面はなかなか外せない。その中で、素直になれる場所というのは、中々ないのだ。
 一つ笑えない笑い話を書けば、僕は彼女とか元妻(妻! って表現が非常に違和感だ。20代での出来事であったが、妻と書くとなんだかもう長年連れ添って――的な印象がある)にその仮面を外すことをしてしまったことが、上手くいかなかった原因なのではないかと思われる。

 要は、確かに、文章としてこのブログを読む分には、それほど影響はないが、身近にこういった「変な」人間がいると、非常に具合が悪い、ということなのだろう。



 そういう意味で、シロクマ氏は妻子もいて、社会的にも自身のブログもつながっていて、すごい、というか、羨ましい妬ましい(かっこわらい)。
(ただそれは、精神科医という特殊な状況によるものといえる。氏は自分を「凡庸な人間」と仰られているが、まぁ、本人も恐らく本気でそう思っているわけではなかろうし、周りもそんな風にみていないだろう)
 僕は今のところ仕事しているから社会的身分(かっこわらい)的なのはあるのだろうが、同じことを、無職のニートが書いていたらどうだろう。途端に気持ち悪さ度が上がるだろう。ニートをでぃすったのはではない、どちらにせよ、こうした文章は一般的に気持ち悪いということだ)

 要は、素直になるのは難しい。(けれども、それを目指すべきだ)

あとがき

(かっこ書きである。うーむ。まとまらなかったな。俺って文章力ないんだな……と落ち込むというよりも、そもそも「表現したいこと」というのが曖昧なのだから仕方がないともいえる。むしろ、明確に言語表現できる程度の悩みなら、さっさと行動にうつして解決をはかったほうがよいのである。よく分からないことを頑張って表現しようとすること自体に意義がある。ああ、だから、そう、誰かと愚痴を言い合って解決する可能性もなきにしもあらずだが、僕はその方法に価値は見出していない。だって消えるじゃん。いや、録音という現代文明テクノロジーを使ってもいいが、逆に無駄が多い。口頭というのは、伝える速度は速いだろうが、しかし、再利用性が低い。文書も、このブログの量になってくるとわけわからん、だが、それでも、口頭よかましだ。――いや、音読した分という意味では、口頭も悪くない。ただ、音読はあくまで音読なのであって、口頭でこれらの文章内容が導かれるための時間的な意味においてであって……ってまぁ、このあたりのことは、これぐらい書いておけば自分には意味が通じるからいいか。そう、素直になるための方法の一つに、「未来の自分にも伝わるか」という視点で書いてみるとよいと思う。2つ効果がある。一つは、分かりやすくなっているかのセルフチェックが入ることと、未来の自分という想定があることによって、今の自分を相対的に視ることができるというメリットだ。――話が変わるが、「コメント」感謝である。「ああ、そう、そうなんですよ!」「ああもう、ほんとよくわかります!」って感じな部分が多いが、しかし、それを返信にするのも如何かと思ったりする。小学生並みの感想。気が利いてウィットに富んだ返信をしたいものだ。難しいのは、「よく分かります」といったときに、「じゃあその分かったことを言ってみろや!」ってなったとき、口頭なら、可能な限りオウム返しすることが、「分かった」ことの証明になるだろうが、文書の場合、じゃあ、相手のコメントをコピペしたら分かったことになるのか、ならない。じゃあ、相手のコメントを要約したらよいのか、違う。要約するよりも、そのままコピーしたほうが、「分かった」度は高いだろう当たり前だ。そうしたとき、コメントの返信って、何をすべきなのか、――とかそういうことを思ったりするのが、僕の思考の無駄部分なのだろうが、しかし、割とそういうのは楽しかったりする)

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人類普遍の六原則
2019/09/09 20:24 | Comments(6) | 思考及び書くこと
今日の一言「書こうか」

前書き

 人類普遍の六原則について教えてもらったのは、8月11日のことだったのか。

https://mikuriyan.hateblo.jp/entry/ted-on-morality
https://mikuriyan.hateblo.jp/entry/ted-on-morality-2
http://unfixation.gjpw.net/mean/停滞ができないということ


 僕は頭が良くないので、記憶力もよくないので、繰り返し復習し、覚えようという意欲をもつことで、ようやく、覚えることができる。

 さぁ、実際、何も参照せずに、(セオドア・カジンスキーの言った人類普遍の六原則を)以下に書き出してみよう。

・他者を傷つけてはならない
・未然に傷つけられることを防ぐため又は既に傷つけられた報復のため他者を傷つけることは許される
・他者の善行には返礼しなければならない
・強者は弱者に配慮しなければならない
・嘘をついてはならない
・自分のした約束は守らなければならない


 ――自分の言葉での書き出しのため、完全一致はしないだろう。だが、だいたい合っているのではなかろうか。
 僕は、新しい概念については、こうやって、「とりあえず記憶して」「繰り返しインプット・アウトプットし」「自分の言葉でアウトプットする」ことで、徐々に浸透させることができる。

 頭の良い人は、一瞬でできて、それを忘れないでいられるのだろう。すごい。羨ましい。
 繰り返しになるが、このブログは、凡人による、凡人のための考えるブログである。ヱリイト氏たちを相手にしているわけではないのだ。

法律や道徳とは違う

 さて、今回の記事は、上の六原則が、ようやく中期記憶的になってきたので、少しそれについて思ったことを書こうと思う。
 まずもって、「これほんと普遍なのか」と思う。
 性善説、性悪説ってある。ぶっちゃけ、どっちが正しいとか証明は難しいから、とりあえず法治が望ましいよね、という「正義」(ルール)になっているのだと思う。

 ただ、性善・性悪とか、そもそも「善悪」というのは、「相対概念」であって、いかようにも解釈可能に思える一方で、六原則は、解釈の限界性についても述べている点が面白いなと思う。

 いくら、2番目の報復の原理的なのを拡大解釈しても、苛々してもうどうしようもなかったから、無抵抗の子供を虐げた、とかいうのは、どんな人類社会においても、「OK!」というのは無理がある気がする。


 そう考えると、あながち、六原則は、当たっているのではないかと思った。最初は、爆弾テロリストが考えた思想ということで、少々身構えたが、前掲リンクの紹介を読んでいると、そんなに突飛な思想ではない気がしてきた。

それにしても捻じ曲がった世界よ

 では仮に、人類は、上のような六原則的な性質をもっているとする。
 そうしたとき、やけに例外的な事象に遭遇するな、と思う。

 と、思いながら、しかし、確かに、そうした原則に従って、みな生きている気もする。
 それに懐疑的な思いを抱くのは、どこか、人間としての性質を失ってしまっている気もしてくる。そういう意味で、僕は凡人ではないのだろう。
(凡人未満のダメ人間なのか、凡人というカテゴリにすら含まれない外れ者なのかもわからんが)



 ――とまぁ、その、自分と世界との距離感に違和感がある人、周囲となじめず孤立する人……そうした人が、「自分」の世界における位置付けに疑問をもち、それが「生きる意味」という問いになっていくものだとしたとき、そういう人が、世界を変えようと思うと、何か大きな事件を起こすのだろうと、ふと思った。

 世界の革命家たちも、動機として、そういったものをもっていた人もいたかもしれない。

 しかし、今、現代社会としては、「革命」を起こすだけの大義はないのである。

 意味を失った高層ビルが立ち並んだとしても、だからといって、それを爆弾で破壊するだけの大義はないのである。そこには、あまりにも自分勝手な動機しか存在しない。

 しかし、だからといって、その動機自体が、悪いものとは思えない。
 実質、確かに、現代社会には、精神科医フランクル氏がいった、実存的空虚感が漂っているように思われるのである。

別に漂っていなくても構わない

 実存的空虚感とか、精神科医のうんたらとか、別にどうでもいい。
 世界がどうであろうが、それが問題なのではない。生きる意味の次元は、過去記事でも取り急ぎ大きく3つあると述べたわけだが、大事なのは、「自分」においてのものである。

 その自分を中心に置いた上での思考のことを、「実存」というのであって、それが虚ろである、という意味で、フランクルさんの言っている「実存的空虚感」という言葉が、僕的にはぴったりだなぁと思うわけであって、実際問題、フランクル氏の著書を読んだことはあるけれども、難しい本だし、しっかり理解できたかは分からない。

 分からないけれども、しかし、「取り急ぎ生きていくには困らないが、何かこう湧き上がるようなエネルギーがないよな」といった感覚については、割と緊急性があって、割と重要なんだろうと思うわけである。


 別にそんな熱量いらなくね?
 満足して生きる必要なんてないんじゃないの。
 どうせ皆いずれ死ぬんだから精いっぱいやったら。


 とかっていうアドバイスは、的を射ているのであろうが、しかし、根本がズレているのである。正解なんだけど、不正解なのだ。

早く死んでしまった方がいい

 極論だ、論理矛盾だ、意味不明だ、と言われるだろうが、僕は、上のような方針は、イコール、「早く死んだ方がましだ」ということと同義であると捉えている。いや違うんだろうが、しかし、そう思えてしまってならないのだ。

 ただ快楽を貪るだけ貪るために、苦労して頑張って生きる。マッチポンプ……というのが何だか僕はイメージできないが、要は、自分で問題を作って、自分で問題を解決して、の繰り返しのようである。

 いやいや、偉大なるニーチェ氏は、永劫回帰、とかいっていたっけ?
 特に意味はないけれど繰り返されるメリーゴーランド。


 それだけで十分価値があるぜ! ……という掛け声が、僕は冷めて虚しく聞こえる。


 誰かのために、輸血とか、骨髄バンクとかすれば救われるのか。
 アニメのエンジェルビーツでそんな似たようなシーンがあったけれど、うーん、そんなもんなのか。

暗黒に奔ろうとしているので思い出せ

 あのー、この記事は、あれだ、ふつーの人の、日常的なヤツだ。
 きっとこの感覚も、なかなか誰にも伝わらないだろうが、よく芸能人とか、女子高生的なのがインスタグラムに「渋谷のカフェで〇〇!」的な奴である(いみふ!)。

 ――だから、別に、その、哲学的なことを書こうとか思ってるわけではないのである。
 人類普遍な、何か、誰かを救おうとか、そういうわけでもないのだ。

 最大限頑張って、考えて、「楽しく」あろうとして、これなのである。
 もっといえば!

 もっといえばだな。「楽しいこと」しているのである。

 俺は、面白い作品に触れていることを除いて、仕事していることなんかより、よっぽど――今回の記事の筆の進みは遅いけれども、それでも――この記事書いているほうが楽しい。


 価値あることしたなぁ……よかったなぁと、そう思うぐらいである。

 ついでに、もう一つ、フランクル氏関連で思い出しとけ。人生の3つの意味。

『人間とは何か』のP.111からふれられている「三つの価値カテゴリー」。
 創造価値、体験価値、そして態度価値。

 病気になって、体の自由が奪われてもなお、最後の態度価値は奪われない。人は生きるに値するのだと、強いメッセージ。

あとがき

(かっこ書きである。3つの価値カテゴリー。3つめ、「態度価値」だったのか。忘れていたなぁ。偉ぶるつもりなど一切ないし、謙遜でもなく、ほんとに、上の本全部読んだんだけど、理解できていない部分である。いや、概念的には何となく分かる。だが、「よく分からない」。ぜひ、決して安くない本だが、図書館とかで見かけて読む機会があったら、P.111からの部分だけでもいいから読んで、何かこの凡人に教えてほしい。創造価値、体験価値は、読めばわかると思う。態度価値ってのが、ああ、人間にはあるんだろうなぁ、ってのも、なんとなく感じられるだろうと思う。だが……しかし、それは、本当に、もう極限に陥らなければ分からないものなのだろうか。もしそうだとしたら、僕がこうして書いてきたすべてのことは結局、その「極限なる状態」によって結論付けられるだけのものであって、無意味だったのか。そう考えることの恐ろしさもある。そういう意味で、僕は、以前これもコメントで指摘されたのだが、「答え」を見つけたくないとすら思っているのかもしれない。でも、そんな状態が、いつまで続くのか。40歳、50歳になっても、まだ、「意味」を探し続けているのか。――と書くと、諸先輩方のディスになりそうだが、そういう意味でもない。40歳、50歳というのは比喩であって、要は、死ぬ間際まで考え続ける、求め続ける、そして、「不満足」な状態が続くのだろうか、ということである。であるならば、早めに死んだ方がましではないだろうか、と思う。その、「不満足」な状態が、それはそれで「楽しい」ならいいだろう。だが、そんなことあるんだろうか。俺は思うに、ますます、歳をとるにつれて、「選択肢」が減っていき、「無意味性」が強固になっていく気がする。この焦り、この不安は、なかなか表現できないと思う。――態度価値だが、ふと思うに、要は、先日の胃カメラで「この苦しさが続くなら死んだ方がまし……」という状態でいてなお、誰か他者のことを思いやって、誰かを助けようとするような態度――そうした態度をとれることが、「価値」なのだろうと思う。そういう意味で、僕は、フランクル氏の言いたいことを、何となく理解していると思う。だが、「理解」が、救いや満足になるわけではないのだ。真面目に考えれば考えるほど、他者のアドバイスを聞こうとすればするほど、このあたりの思考をすれば苦しみが増す。だが、マゾヒストでは決してないが、この苦しみは、「わりといい」と思う。少なくても、仕事をしているよりは有意義だ――というのは言い過ぎか。だが、「誰のためになっているかさっぱり分からない仕事」よりかは、少なくても、自分のためにはなっているから、言い切って構わないと、僕は思う)

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