今日の一言「仕事のことしか書くことがない」「それ以外もあるはず」
まずいな……と思うものの、気持ちばかりが焦って、じっくりパソコンに向き合う時間が取れない。
まず、「一般人」は、そんな時間ない。なくても問題がない。それが普通だ。
しかし、僕は、それはよくないことだと思っている。感じている。実感させられる。
何故かといえば、じゃあいざ、色んな肩書がなくなって、「僕」という一個の人間として、「何が言えるか(書けるか)」となったとき、何かあるのだろうか、ということである。
自由と責任の教育の賜物かもしれない――アイデンティティとかプライバシーとか、そういうのがそれほど重要なのか、というのはある。モダン? ポストモダン? な風潮として、「個」として埋没することが何だか悪いように感じられるというのは、必ずしも人間の本質ではないのかもしれない。
でもまぁ、そういうことを別として、いつもの単なる愚痴のようなものとして書くと――思ったのは、例えば先週を振り返ってみて、何か仕事のことぐらいしか書くことないなと。
もちろん、それを、抽象的に――例えば、管理職と人事的な話をしたとか、出張に行ったとか、同僚と飲食店で愚痴を聞いたりしたとか。そういう「ネタ化」できることは、限られてしまっていて、大量の時間を使っている割に、いざ書けることは僅かな気がする。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm7100518
BoAというアーティストの曲「Duvet」。LainというアニメのOPということだ。
ふとサビの部分をきいて、どっかで聞いたことがあって、なんか、気分的に合致して感動(※)した。
※ 表現が陳腐だ。そんな、「感動」というほどの心の動きではないかもしれない。ただ、何か感じた気がしたのだ。
前書き
ルーチンが危機的状況である。まずいな……と思うものの、気持ちばかりが焦って、じっくりパソコンに向き合う時間が取れない。
まず、「一般人」は、そんな時間ない。なくても問題がない。それが普通だ。
しかし、僕は、それはよくないことだと思っている。感じている。実感させられる。
何故かといえば、じゃあいざ、色んな肩書がなくなって、「僕」という一個の人間として、「何が言えるか(書けるか)」となったとき、何かあるのだろうか、ということである。
自由と責任の教育の賜物かもしれない――アイデンティティとかプライバシーとか、そういうのがそれほど重要なのか、というのはある。モダン? ポストモダン? な風潮として、「個」として埋没することが何だか悪いように感じられるというのは、必ずしも人間の本質ではないのかもしれない。
でもまぁ、そういうことを別として、いつもの単なる愚痴のようなものとして書くと――思ったのは、例えば先週を振り返ってみて、何か仕事のことぐらいしか書くことないなと。
もちろん、それを、抽象的に――例えば、管理職と人事的な話をしたとか、出張に行ったとか、同僚と飲食店で愚痴を聞いたりしたとか。そういう「ネタ化」できることは、限られてしまっていて、大量の時間を使っている割に、いざ書けることは僅かな気がする。
内容
というわけで……(どういうわけか、特にない)、とくにまとまりはないが、ブツ切れで話題を書く。https://www.nicovideo.jp/watch/sm7100518
BoAというアーティストの曲「Duvet」。LainというアニメのOPということだ。
ふとサビの部分をきいて、どっかで聞いたことがあって、なんか、気分的に合致して感動(※)した。
※ 表現が陳腐だ。そんな、「感動」というほどの心の動きではないかもしれない。ただ、何か感じた気がしたのだ。
あとがき
(かっこ書きである。いくつかの内容をあといくつかは書こうと思ったけど、思いつかなかった……。しかし、こんな程度でも、書かないよりは、絶対書いたほうがいい……とか、「絶対」とか言ってると、どんどん苦しくなるってのもあるかもしれないが、――しかし、もう強制的にでもやらないと、結局できない)PR
今日の一言「ルーチンが厳しい状態」
小学生の日記的に書けばそんな感じの休日であった。
「やる気」というエネルギーは、使ってもなくならない、むしろ増えていく、ということを聞いたことがあるような気もするが、「使う」までに至るためのやる気をどうすればいいのかは要検討に思われる。
寝ること>ルーチン>コメント返信
というわけで、この優先順位にさせて頂きたい。ありがたく読ませて頂いていることをここで書かせて頂く。
創作はおろか、アニメ見るということさえ優先順位を下げてしまうぐらいである。
そんな中、偶然、書店に立ち寄り、平積みされていて目についた本が、「DEATH「死」とは何か」という、とある大学教授の書いた本だった。
3000円ぐらいで、ものすごく重かったが、衝動買いした。
面白そうである。久々にワクワクしそうである。方向性が「死」であるが。
ただ、
「私たちは何者なのか」「体が死滅した後も生き続ける非物質的な魂があるか」「人格の同一性の本質」「死は現に悪いものなのだろうか」「不死は良いものなのだろうか」「やがて死ぬという事実にどのような影響を受けてしかるべきなのか」「死を恐れるべきなのか」「自殺の合理性と道徳性」
といったキーワードから、面白そうなのは分かるだろう。700ページ以上ある。
フランクル氏の「人間とは何か」も読みごたえのある本だったが、いまいち「がんばろう!」――という記述があるわけではないが、「気合いだ」というノリの部分があって、読みこなせていない。もう一回読んだら分かるのだろうか。――ただ、創造的価値、体験的価値、実存的価値――だったっけ? その、3つ目の価値というのが今一つ分からずに苦しむ。
しかし、例えば、大きく言えば、「クレーム」の、その内容がいくら新しかろうが、そこに「刺激」はないのである。「ああ、またきたか」的な。
刺激とは、そういうものではない。
本来は、得難く、しかし重要なものなのだ。
飲み会で初対面の人とある程度打ち解けて話せたとする。
それは、コミュ障を謳っていたころの自分(今もそうだが)としては、大事件だったろう。しかし、今は、苦労してそれを得ても、別に何とも思わないのである(ああ、前と同じか、的な)。
本もそうだ。
「じゃあ、お前、今まで読んだ本の内容を分かりやすく語ってみろ」と言われると、口をつぐんでしまうが、しかし、たいていの本を読んでも、「エエッ! そうだったのか!」となるのは少ない。
――分かりにくいな。例えば、電子と原子核の話をしよう。原子といったとき、僕らが中学生? 高校生ぐらいで習ったとき、陽子+中性子を原子核といって、その周囲を電子がまわっている、的なモデルを習ったであろう。
いつぞやか、社会人になってから僕は本を読んでいて、実は、その電子の位置というのは、
「確率の波」であって、正確な位置が決まっているわけではないのだ、ということを知った。衝撃的だった。
また、何となく、「素粒子」的なことを頭の中でイメージしていたのが、「素粒子」というのだと知った時も驚いた。そして、クォークの種類によって、原子の種類が変わるというのも、僕の頭の中の仮説としてはあったが、「え、マジでそんなん自然なんですか?」と衝撃を受けたものだった。原子というのは、もうそれ以上変化しない単位だと思っていたが、ヘリウム原子が水素原子に変わってしまうこともあるということである。
最近、陽子と中性子の構成要素は、アップクォークと、ダウンクォークというのがあって、アップクォーク2つでダウンクォーク1つだと陽子になって、ダウンクォーク2つにアップクォーク1つだと中性子なんだという記述を読んだ。へーっと思ったが、そうすると、陽子の種類ってどうやって決まってるんだろう。
前書き
とにかく、土日は寝ていた。夜更かしして翌日が昼間で乃至は夜まで寝ていて、更に夜更かしの悪循環――を避けるため、21時ごろに寝たにも関わらず、起きたのは10時、そして家事とかなんやらをしてまた眠くなって夕方に目覚めて……。小学生の日記的に書けばそんな感じの休日であった。
「やる気」というエネルギーは、使ってもなくならない、むしろ増えていく、ということを聞いたことがあるような気もするが、「使う」までに至るためのやる気をどうすればいいのかは要検討に思われる。
本を買う
コメントも頂いており返信したいが、まずはルーチンを優先しなければいけない。寝ること>ルーチン>コメント返信
というわけで、この優先順位にさせて頂きたい。ありがたく読ませて頂いていることをここで書かせて頂く。
創作はおろか、アニメ見るということさえ優先順位を下げてしまうぐらいである。
そんな中、偶然、書店に立ち寄り、平積みされていて目についた本が、「DEATH「死」とは何か」という、とある大学教授の書いた本だった。
3000円ぐらいで、ものすごく重かったが、衝動買いした。
面白そうである。久々にワクワクしそうである。方向性が「死」であるが。
死について
キューブラー・ロス氏の、緩和ケア的な、看取り的な死とは一線を画す作品っぽい。まだ立ち読みパラパラぐらいだから、分からないけれども。ただ、
「私たちは何者なのか」「体が死滅した後も生き続ける非物質的な魂があるか」「人格の同一性の本質」「死は現に悪いものなのだろうか」「不死は良いものなのだろうか」「やがて死ぬという事実にどのような影響を受けてしかるべきなのか」「死を恐れるべきなのか」「自殺の合理性と道徳性」
といったキーワードから、面白そうなのは分かるだろう。700ページ以上ある。
フランクル氏の「人間とは何か」も読みごたえのある本だったが、いまいち「がんばろう!」――という記述があるわけではないが、「気合いだ」というノリの部分があって、読みこなせていない。もう一回読んだら分かるのだろうか。――ただ、創造的価値、体験的価値、実存的価値――だったっけ? その、3つ目の価値というのが今一つ分からずに苦しむ。
インプットとアウトプット
某尊敬する小説ライター氏は、「歳とってきたらアニメとか小説とか見ても小学生並み感想しか浮かびませんわ」的なことを仰られている。「刺激」。人は、新しいことがなければ低迷する、沈滞化する、的なことを言う人もいる。新しいことばっかりだと疲れる。しかし、例えば、大きく言えば、「クレーム」の、その内容がいくら新しかろうが、そこに「刺激」はないのである。「ああ、またきたか」的な。
刺激とは、そういうものではない。
本来は、得難く、しかし重要なものなのだ。
飲み会で初対面の人とある程度打ち解けて話せたとする。
それは、コミュ障を謳っていたころの自分(今もそうだが)としては、大事件だったろう。しかし、今は、苦労してそれを得ても、別に何とも思わないのである(ああ、前と同じか、的な)。
本もそうだ。
「じゃあ、お前、今まで読んだ本の内容を分かりやすく語ってみろ」と言われると、口をつぐんでしまうが、しかし、たいていの本を読んでも、「エエッ! そうだったのか!」となるのは少ない。
――分かりにくいな。例えば、電子と原子核の話をしよう。原子といったとき、僕らが中学生? 高校生ぐらいで習ったとき、陽子+中性子を原子核といって、その周囲を電子がまわっている、的なモデルを習ったであろう。
いつぞやか、社会人になってから僕は本を読んでいて、実は、その電子の位置というのは、
「確率の波」であって、正確な位置が決まっているわけではないのだ、ということを知った。衝撃的だった。
また、何となく、「素粒子」的なことを頭の中でイメージしていたのが、「素粒子」というのだと知った時も驚いた。そして、クォークの種類によって、原子の種類が変わるというのも、僕の頭の中の仮説としてはあったが、「え、マジでそんなん自然なんですか?」と衝撃を受けたものだった。原子というのは、もうそれ以上変化しない単位だと思っていたが、ヘリウム原子が水素原子に変わってしまうこともあるということである。
最近、陽子と中性子の構成要素は、アップクォークと、ダウンクォークというのがあって、アップクォーク2つでダウンクォーク1つだと陽子になって、ダウンクォーク2つにアップクォーク1つだと中性子なんだという記述を読んだ。へーっと思ったが、そうすると、陽子の種類ってどうやって決まってるんだろう。
あとがき
(かっこ書きである。新しい刺激を得るというのは、簡単ではない。有名人のサークルに出かければよいというものではない。スポーツサークルに行けばよいというものではない。オンライン英会話を始めればよいというわけではない。ライザップを始めればよいというわけではない。一つ、例として書けば、今年に入って、このブログに新しくコメントをくださった方がいらっしゃったが、それは現実の仕事などよりよほど僕にとって大きな出来事だった。この感覚を表現するすべを、僕は今もたないが、偶然的要素が強いと思う。しかし、これは、うさんくさいといわれるマーフィー氏の引き寄せの法則のようになってしまうが、「何らか得たいと思っていること」については、できるだけ「アンテナ」(という言い方は僕は嫌いなのだが)を張るようにしておいたほうが良い。僕の場合、かなり最近おざなりルーチンになっていしまっているが、このブログが「アンテナ」のようなものだ。他者に向けたものでもあり、僕自身に向けたものでもある。「おいお前(自分)、仕事したり寝たりするのは構わんが、ほんとにしなきゃいけないこと、したいと思ってること忘れんじゃねーぞ」と。そんな感じに、大事なのだ)
今日の一言「リセットが必要だ」
僕の反射的思考においては、「いや何にも集中も執着もできていない」というものであったが、極端に考えれば、自分の考えにも理はありつつ、やはり、僕はたくさん抱え込んでいるのかもしれない。
さて、時間がない。
やらなければいけないことが多い、というよりも、そもそも、物理的にも時間がない。帰宅が24時~25時、26時になる生活が続いている、気がする。ここ1か月ぐらいはそうな気がする。徐々に増えている気がする。2か月前ぐらいは、21時~23時とか言ってたような。
とにかく、平日は時間がない。では休日はどうか。
ちょくちょく、予定が入っている。いやじゃあ具体的にどれぐらいかというと、土日が10回分あったら、半分ぐらいしか固定された予定はない気がする。――むしろ、台風とかその他(自分の体調とか気分)によって、予定を断る場面もあった気がする。
それでも、なお、時間が全然ない、感覚に陥っている。
今日も、予定がない休日だったはずが、10時ぐらいに目が覚めて、――なんかして、気づいたら17時だった(寝ていた)。
しかし、突発的に時間ができると、まず、何からすればいいのか分からない。
SF小説の火星の人を買ってみた。まだ読んでいない。じゃあ読んでみようか、ということになるが、なんか、他にしなければいけないことはたくさんある気がする。それが何かは分からない。
短時間でも、少しずつでも、書いていったほうがいい。
そうしないと、何を書けばいいのか分からなくなるのだ。
書くことに対しての、意識の低さ。言葉の低さ。
何を言いたいのかが分からないと、他者はストレスになる。
無駄は、いらない。
いや、そんなことはない、無駄も必要だ……という、言った言わない的なやり取りに意味はない。
あえて、ひらがなで、「おもんぱかった」と書かれたから、誤字だと思った人が「誤字プギャー」したら、逆に言葉の知らなさをプギャーされたということである。
無知を恥じることはないと僕は思う。
知らないことを「知らない」といえるほうが勇気がいることだ。
同時に、「バカ開き直り」はよくない。「知らないこと」を恥ずかしいと思えるからこそ、勇気がある行為なのだ。知らないことを前提に「しらねーし」というのは何ら勇気のある行動ではない。
その僕の考えというか前提をもとにして、上のニュースに対して思うことは、誤字プギャーが認識誤りでプギャーすることは、必要であると思うということである。
一見、知らないことに対してのプギャーは、――ぷぎゃーとは、バカにする、ということを指す――プギャーをプギャーすることと構造的に同じであり、どちらも許されない、と思える。何故ならば、間違ったことを必要以上に責めるということは、生きづらい世界を意味するからだ。間違いは誰にでもある。間違わないようにすることが大事だ、という前提があるべきだ。
その前提に照らせば、プギャーをプギャーすることも同様に許されないことだと思われる。
違う、と思う。
プギャーする、要するに人を馬鹿にすることを前提に考えている人を蔑むということは、必要だと思うからである。
何故そう言い切ったほうがいいかというと、「人を馬鹿にする人を馬鹿にすることも許されない」になれば、無限遡及(トートロジー)になるからだ。YES、もNOもなくなるからだ。そこに思考は生じない。
Aという命題がある。ただし、こういう場合は例外だ。
というロジックじゃないと、人は理解ができない。
理解したような気持になることはできるだろう。しかし、突き詰めると、0か1かに分けられなければ、「理解」(ものごとを適切に分けられる状態)にはならないであろう。
一方、次元を変える、というのは必要だ。
上の、バカにする人を馬鹿にする、ことは認められるとして、そもそも「馬鹿にする(プギャー)」自体が正しいかというと、そうではないと思う。
バカとは付き合うな、という自己啓発本も話題になっているようだ。
ここで、次元を変えるなら、その「バカ」というのをどういった人を対象にするか、ということになるが、そもそもの命題、「バカとは付き合うな」については賛同するかどうか。そこから入っていかないと、議論にも思考にもなりゃしないのである。
ところで、この文脈において重要性はないが、僕がバカだと思う人は、知識がない人ではない。「正義」が分からない人がバカだと思う。抽象的に書きすぎたから何も言ってないのと同義だろう。ただ、具体的に書けば、「歩きたばこする人」となり、これはこれで極端過ぎる。
責任感がない人もバカだと思う。言動に一貫性がない人もバカだと思う――が、これについては、「分人」的な生き方を「敢えて」選択しているのだとしたら、それはそれで賢いと思う。
といった、自分の意見というか価値観があったうえで、「人を馬鹿にすること」自体は、結局、無意味――というか、生産的ではないと思う。
馬鹿にしたところで、得られるものは、自分の溜飲が下がるかもしれない程度のことだからだ。
そこで、初対面の人ともあったが、その人から、温厚そうだね、怒ったりしなそうだけど、不満とか愚痴とかどうしてるんですか、みたいなことを言われた。
まず、僕のブログを万が一みてしまってから僕にあった人は全くそういった感想を抱くことはなかろうが、たいてい、初対面の人に与える印象はソレである。何十年か生きていると、ジョハリの窓の、他者から見える自分というのも分かってくる。
一方で、長らく僕と付き合っている人――もしくはブログを見ている人は、決して僕が温厚なんかじゃないことは分かってくる。そしてどうやらそのギャップが「気持ち悪い」という感じを抱かせるようである。――これも理由は簡単で、「表裏がある」ことを、人は警戒するからである。
僕の中では「一貫性がある」と思っているわけだが、それはどうやら他者にはそのようには感じさせないようだ、ということはよく分かってきた。これは「成長」というか、「知識」レベルなのか分からないが、まぁ昔(3~10年前)はよく分かってなかった。
ちなみに、上の不満をどうしてるかといえば、ブログに書き散らしているわけである(かっこ笑い)。
――しかし、どちらかというと、「現実の不満」というのは、次元的な興味ではないのである。残業が多いとか、仕事が舞い込んでくるとか、「いやもうちょっとこうしてもらったらいいのに……」的なのは、僕の興味の埒外である。それらは、「所詮」解決可能な問題である。
どう生きるのか。または、どう死ぬのか。
これが問題なのだ。(換言して、「生きる意味を徹底して考える」ということである)
ここまでで、約1時間である。文量は少ないが、気持ちをのせるのに時間がかかった。コーヒーと、アップルパイが旨かったおかげである。ありがたい。
僕はふと、今だからかわからないが思ったのだが、結婚とか子供とか、数年前――いや2年前ぐらい?――は重要だと思っていた気がするが、やはり順序が違いそうだ。
それは、「逃げ」の思考というよりは、そもそも、浮遊状態では、何をやってもうまくいかない気がする、という点でもある。他者は決して、「踏み台」なんかではない。
(かっこ書きである。ってな中二病だか高二病だか大二病だか分からないことを書かないと、平日等でとちくるった精神が「まとも」に戻らないのである)
前書き
とある友人の、コメントだったか、何かで、「君は色んなものを抱え込み過ぎている」というのがあったと思う。僕の反射的思考においては、「いや何にも集中も執着もできていない」というものであったが、極端に考えれば、自分の考えにも理はありつつ、やはり、僕はたくさん抱え込んでいるのかもしれない。
さて、時間がない。
やらなければいけないことが多い、というよりも、そもそも、物理的にも時間がない。帰宅が24時~25時、26時になる生活が続いている、気がする。ここ1か月ぐらいはそうな気がする。徐々に増えている気がする。2か月前ぐらいは、21時~23時とか言ってたような。
とにかく、平日は時間がない。では休日はどうか。
ちょくちょく、予定が入っている。いやじゃあ具体的にどれぐらいかというと、土日が10回分あったら、半分ぐらいしか固定された予定はない気がする。――むしろ、台風とかその他(自分の体調とか気分)によって、予定を断る場面もあった気がする。
それでも、なお、時間が全然ない、感覚に陥っている。
今日も、予定がない休日だったはずが、10時ぐらいに目が覚めて、――なんかして、気づいたら17時だった(寝ていた)。
疲れている
前書き、は、先週に少しだけ書いたものだった。しかし力尽きて書けなかった。今日、日曜日は、時間がある。久々に、朝も起きることができた。しかし、突発的に時間ができると、まず、何からすればいいのか分からない。
SF小説の火星の人を買ってみた。まだ読んでいない。じゃあ読んでみようか、ということになるが、なんか、他にしなければいけないことはたくさんある気がする。それが何かは分からない。
短時間でも、少しずつでも、書いていったほうがいい。
そうしないと、何を書けばいいのか分からなくなるのだ。
書くことに対しての、意識の低さ。言葉の低さ。
要約はできない
要するに……が、大切な世の中である。何を言いたいのかが分からないと、他者はストレスになる。
無駄は、いらない。
いや、そんなことはない、無駄も必要だ……という、言った言わない的なやり取りに意味はない。
慮る
「慮った」という言葉が誤用だとして、ツイッターで話題になったらしい。あえて、ひらがなで、「おもんぱかった」と書かれたから、誤字だと思った人が「誤字プギャー」したら、逆に言葉の知らなさをプギャーされたということである。
無知を恥じることはないと僕は思う。
知らないことを「知らない」といえるほうが勇気がいることだ。
同時に、「バカ開き直り」はよくない。「知らないこと」を恥ずかしいと思えるからこそ、勇気がある行為なのだ。知らないことを前提に「しらねーし」というのは何ら勇気のある行動ではない。
その僕の考えというか前提をもとにして、上のニュースに対して思うことは、誤字プギャーが認識誤りでプギャーすることは、必要であると思うということである。
一見、知らないことに対してのプギャーは、――ぷぎゃーとは、バカにする、ということを指す――プギャーをプギャーすることと構造的に同じであり、どちらも許されない、と思える。何故ならば、間違ったことを必要以上に責めるということは、生きづらい世界を意味するからだ。間違いは誰にでもある。間違わないようにすることが大事だ、という前提があるべきだ。
その前提に照らせば、プギャーをプギャーすることも同様に許されないことだと思われる。
違う、と思う。
プギャーする、要するに人を馬鹿にすることを前提に考えている人を蔑むということは、必要だと思うからである。
反省すること
上の話題は、僕にとって些末であり、1行ぐらいでメモできたらそれぐらいで良かった。しかし、割と長くなった。要約力が足りない。もう一度試みてみると、「人を馬鹿にすることは許されない。しかし、人を馬鹿にする人を馬鹿にすることは許される」ということになろうか。何故そう言い切ったほうがいいかというと、「人を馬鹿にする人を馬鹿にすることも許されない」になれば、無限遡及(トートロジー)になるからだ。YES、もNOもなくなるからだ。そこに思考は生じない。
Aという命題がある。ただし、こういう場合は例外だ。
というロジックじゃないと、人は理解ができない。
理解したような気持になることはできるだろう。しかし、突き詰めると、0か1かに分けられなければ、「理解」(ものごとを適切に分けられる状態)にはならないであろう。
一方、次元を変える、というのは必要だ。
上の、バカにする人を馬鹿にする、ことは認められるとして、そもそも「馬鹿にする(プギャー)」自体が正しいかというと、そうではないと思う。
バカとは付き合うな、という自己啓発本も話題になっているようだ。
ここで、次元を変えるなら、その「バカ」というのをどういった人を対象にするか、ということになるが、そもそもの命題、「バカとは付き合うな」については賛同するかどうか。そこから入っていかないと、議論にも思考にもなりゃしないのである。
ところで、この文脈において重要性はないが、僕がバカだと思う人は、知識がない人ではない。「正義」が分からない人がバカだと思う。抽象的に書きすぎたから何も言ってないのと同義だろう。ただ、具体的に書けば、「歩きたばこする人」となり、これはこれで極端過ぎる。
責任感がない人もバカだと思う。言動に一貫性がない人もバカだと思う――が、これについては、「分人」的な生き方を「敢えて」選択しているのだとしたら、それはそれで賢いと思う。
といった、自分の意見というか価値観があったうえで、「人を馬鹿にすること」自体は、結局、無意味――というか、生産的ではないと思う。
馬鹿にしたところで、得られるものは、自分の溜飲が下がるかもしれない程度のことだからだ。
温厚さ
忙しいと言いながら、先週は飲み会に行った。そこで、初対面の人ともあったが、その人から、温厚そうだね、怒ったりしなそうだけど、不満とか愚痴とかどうしてるんですか、みたいなことを言われた。
まず、僕のブログを万が一みてしまってから僕にあった人は全くそういった感想を抱くことはなかろうが、たいてい、初対面の人に与える印象はソレである。何十年か生きていると、ジョハリの窓の、他者から見える自分というのも分かってくる。
一方で、長らく僕と付き合っている人――もしくはブログを見ている人は、決して僕が温厚なんかじゃないことは分かってくる。そしてどうやらそのギャップが「気持ち悪い」という感じを抱かせるようである。――これも理由は簡単で、「表裏がある」ことを、人は警戒するからである。
僕の中では「一貫性がある」と思っているわけだが、それはどうやら他者にはそのようには感じさせないようだ、ということはよく分かってきた。これは「成長」というか、「知識」レベルなのか分からないが、まぁ昔(3~10年前)はよく分かってなかった。
ちなみに、上の不満をどうしてるかといえば、ブログに書き散らしているわけである(かっこ笑い)。
――しかし、どちらかというと、「現実の不満」というのは、次元的な興味ではないのである。残業が多いとか、仕事が舞い込んでくるとか、「いやもうちょっとこうしてもらったらいいのに……」的なのは、僕の興味の埒外である。それらは、「所詮」解決可能な問題である。
僕の次元
僕が問題なのは、「地に足がついていない」からである。浮いているのだ。浮遊少女だ。少女ではない。どう生きるのか。または、どう死ぬのか。
これが問題なのだ。(換言して、「生きる意味を徹底して考える」ということである)
ここまでで、約1時間である。文量は少ないが、気持ちをのせるのに時間がかかった。コーヒーと、アップルパイが旨かったおかげである。ありがたい。
僕はふと、今だからかわからないが思ったのだが、結婚とか子供とか、数年前――いや2年前ぐらい?――は重要だと思っていた気がするが、やはり順序が違いそうだ。
それは、「逃げ」の思考というよりは、そもそも、浮遊状態では、何をやってもうまくいかない気がする、という点でもある。他者は決して、「踏み台」なんかではない。
(かっこ書きである。ってな中二病だか高二病だか大二病だか分からないことを書かないと、平日等でとちくるった精神が「まとも」に戻らないのである)
今日の一言「ルーティン」「るーてん」
とりあえず、勉強とこのルーチン更新だけはやっとこう。
台風? なんだっけそれ。
ブログへのコメントに今気づく。
要は、プライベート的なことで時間が取られすぎた休日だった。しかし、そのうち、勉強には少し時間をあてられたからよかった。
……書くことがなさすぎる。
大まかに書くとすれば、勉強と寝ていたのと、シロガネ感想を少し進めただけであった。もったいない時間の使い方な気がする。
そして、そんな遅い時間でも、満員とまではいかないが、電車の椅子に座れないぐらいに人がいるのは何故なのか。なんか人が多すぎていらつく。
いや一部路線と、方向だけなんだろうが、それでも、夜はみんな寝たらどうだろうか。
まぁもう、早く帰ろうという意思が薄弱になっていることは否めない気がする。というか、早く帰ろうと朝から「これとこれとこれをこういう順番でこうしてやろう」と決めても、突発的な事象が発生しまくるため、うまくいかないのである。そうして遅くなると、もうイライラはたまっていくのである。であれば、最初から余裕をもって、「今日は初期は21時ぐらいに終わる予定だが、23時ぐらいまでかかる可能性もあるな」と思っていたほうがよいのである。
生きる意味は、無くても、生きられるように人はつくられているのかもしれない。
生きる意味というのは、迫りくる死に対しての答えのようなものであり、死の実感というのは、普段は感じられないようにできているのかもしれない。
ノエイン、3話までみる。面白そうである。全部みたい。しかし、14日までで配信が終わってしまうということだった。まじか。ショック。
そこに、目的があるのか、といえば、「ある」ともいえれば、「ない」ともいえる。メタ、とは、高次の、という意味になるが、次元を変えれば、考えることはいくらでも可能となる。その無限性にストップをかけるのが、目標である。
目的とは、到達したいゴールである。到達するべき場所ともいえる。
本を読むことは、何か技術や知識をつけるためなのか。そういう場合もある。目的が明確だ。しかし、そうでない場合もある。明確な目的がなくても、本を読むことは推奨されるものとされる。
本だといいたいことが分かりにくいので、新聞はどうか。ちなみに僕は新聞を取っていない。不自由したことはない。しかし、新聞を取っていたら、もっとハイパー素晴らしい人間になっていたかもしれない。分からない。
本を読むことだけでは、すごくもなんともない、とも言われる。100冊読もうが、1000冊読もうが、それを行動に結び付けないと、意味がないと言われる。本当にそうか。
本を読むことと、行動とは、結びつかなければいけないのか。
ここで、「いやそうではない」という結論にもっていきたいのではないことに注目。
本を読むこと自体に価値がある、というありふれた(実はありふれていないが)結論にもっていくことに価値はない。
読むこと自体価値があるとして、それが、一切記憶からそぎ落とされてしまったとしたら、それは、意味のある行為だったとは言えない。
意識、前意識、無意識、という区分において、意識にのぼらないからといって、「一切そぎおとされた」とは言えない表現(又は、記憶の3要素である記銘、保持、再生の、「再生が働かない」という表現でもいいが)は可能だ。
それを無視して、いったんは、本を読んだ行為が、完全な無に、なったとしよう。それなら「無価値」だろう。
そうではなくて、「ああ、面白かった」という感想はあったとする。
そうしたときに、「それだけで」終わったとする。今後一生、その知識や技術に関しては、活かすことはなかったとする(思い出しはしても)。
それは、意味があったことになるのか。
なったのかもしれない。
そんなことはどうでもいい。
意味、というのも、相対概念である。
意味の反義は、無意味、だから、意味と無意味は相対だ――ということではなくて、「意味」自体は、それだけで成り立つことはできない、ということである。
法律の第一条には、その法律の目的と、それを実現する手続きと、究極の目的が書かれている。その目的を「意味」と表現するのであれば、意味は絶対的に存立する、かもしれない。――それは、その法律の中において。
だから、意味は、絶対概念でもありえる。
生きる意味、といったときに、「そんなもん、誰もわかりゃしない」とか「人それぞれ見つけ存在する」とか、そういった表現は可能だろうが、その次元(=その人にとっての次元)では、意味は、絶対概念として成りえる。
ところが、人、というのは、単一存在では成り立ちえない不完全な存在であるがゆえに、「意味」はいかなるときも揺らいでしまう。ゆえに、意味とは、相対概念である、と、この記事においては位置付ける。
前書き
やることがたまりまくって何もしたくなくなる症候群。とりあえず、勉強とこのルーチン更新だけはやっとこう。
本文
小説シロガネの感想をすべく整理しながら読み始める。しかし、時間が細切れになってレビューが中々進まない。台風? なんだっけそれ。
ブログへのコメントに今気づく。
要は、プライベート的なことで時間が取られすぎた休日だった。しかし、そのうち、勉強には少し時間をあてられたからよかった。
……書くことがなさすぎる。
大まかに書くとすれば、勉強と寝ていたのと、シロガネ感想を少し進めただけであった。もったいない時間の使い方な気がする。
内容
なんでこんなことになってしまうのか。平日がいけない気がする。何故毎日帰宅が24時~25時なのか。そして、そんな遅い時間でも、満員とまではいかないが、電車の椅子に座れないぐらいに人がいるのは何故なのか。なんか人が多すぎていらつく。
いや一部路線と、方向だけなんだろうが、それでも、夜はみんな寝たらどうだろうか。
まぁもう、早く帰ろうという意思が薄弱になっていることは否めない気がする。というか、早く帰ろうと朝から「これとこれとこれをこういう順番でこうしてやろう」と決めても、突発的な事象が発生しまくるため、うまくいかないのである。そうして遅くなると、もうイライラはたまっていくのである。であれば、最初から余裕をもって、「今日は初期は21時ぐらいに終わる予定だが、23時ぐらいまでかかる可能性もあるな」と思っていたほうがよいのである。
内容2
生きる意味を考えるブログなので、とりあえず考えようと思う。いろいろ、プライベートでもやらなきゃいけないこと(創作の面も実生活の面も)たまってしまっているが、それらは全部一度忘れて、考えようと思う。生きる意味は、無くても、生きられるように人はつくられているのかもしれない。
生きる意味というのは、迫りくる死に対しての答えのようなものであり、死の実感というのは、普段は感じられないようにできているのかもしれない。
内容3
と、内容2まで書いてから、中断するはめになって、15日になってから続きを書くわけだが。ノエイン、3話までみる。面白そうである。全部みたい。しかし、14日までで配信が終わってしまうということだった。まじか。ショック。
内容4
例えば、本を読むという行為があったとする。そこに、目的があるのか、といえば、「ある」ともいえれば、「ない」ともいえる。メタ、とは、高次の、という意味になるが、次元を変えれば、考えることはいくらでも可能となる。その無限性にストップをかけるのが、目標である。
目的とは、到達したいゴールである。到達するべき場所ともいえる。
本を読むことは、何か技術や知識をつけるためなのか。そういう場合もある。目的が明確だ。しかし、そうでない場合もある。明確な目的がなくても、本を読むことは推奨されるものとされる。
本だといいたいことが分かりにくいので、新聞はどうか。ちなみに僕は新聞を取っていない。不自由したことはない。しかし、新聞を取っていたら、もっとハイパー素晴らしい人間になっていたかもしれない。分からない。
本を読むことだけでは、すごくもなんともない、とも言われる。100冊読もうが、1000冊読もうが、それを行動に結び付けないと、意味がないと言われる。本当にそうか。
本を読むことと、行動とは、結びつかなければいけないのか。
ここで、「いやそうではない」という結論にもっていきたいのではないことに注目。
本を読むこと自体に価値がある、というありふれた(実はありふれていないが)結論にもっていくことに価値はない。
読むこと自体価値があるとして、それが、一切記憶からそぎ落とされてしまったとしたら、それは、意味のある行為だったとは言えない。
意識、前意識、無意識、という区分において、意識にのぼらないからといって、「一切そぎおとされた」とは言えない表現(又は、記憶の3要素である記銘、保持、再生の、「再生が働かない」という表現でもいいが)は可能だ。
それを無視して、いったんは、本を読んだ行為が、完全な無に、なったとしよう。それなら「無価値」だろう。
そうではなくて、「ああ、面白かった」という感想はあったとする。
そうしたときに、「それだけで」終わったとする。今後一生、その知識や技術に関しては、活かすことはなかったとする(思い出しはしても)。
それは、意味があったことになるのか。
なったのかもしれない。
内容4の続き
物事を考えるときに、必ず、相対概念か、絶対概念かを、意識する必要があるということは、以前から書いていたことである。長い短い、を論じても意味がないのだ。いやしかし、「あの子かわいいよね」「いや好みじゃないな」的な、美醜の話題は、「コミュニケーション」としては意味があったりする。そんなことはどうでもいい。
意味、というのも、相対概念である。
意味の反義は、無意味、だから、意味と無意味は相対だ――ということではなくて、「意味」自体は、それだけで成り立つことはできない、ということである。
法律の第一条には、その法律の目的と、それを実現する手続きと、究極の目的が書かれている。その目的を「意味」と表現するのであれば、意味は絶対的に存立する、かもしれない。――それは、その法律の中において。
だから、意味は、絶対概念でもありえる。
生きる意味、といったときに、「そんなもん、誰もわかりゃしない」とか「人それぞれ見つけ存在する」とか、そういった表現は可能だろうが、その次元(=その人にとっての次元)では、意味は、絶対概念として成りえる。
ところが、人、というのは、単一存在では成り立ちえない不完全な存在であるがゆえに、「意味」はいかなるときも揺らいでしまう。ゆえに、意味とは、相対概念である、と、この記事においては位置付ける。
