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死とは何か
2019/11/05 20:10 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「ルーチンが厳しい状態」

前書き

 とにかく、土日は寝ていた。夜更かしして翌日が昼間で乃至は夜まで寝ていて、更に夜更かしの悪循環――を避けるため、21時ごろに寝たにも関わらず、起きたのは10時、そして家事とかなんやらをしてまた眠くなって夕方に目覚めて……。

 小学生の日記的に書けばそんな感じの休日であった。

「やる気」というエネルギーは、使ってもなくならない、むしろ増えていく、ということを聞いたことがあるような気もするが、「使う」までに至るためのやる気をどうすればいいのかは要検討に思われる。

本を買う

 コメントも頂いており返信したいが、まずはルーチンを優先しなければいけない。

寝ること>ルーチン>コメント返信

 というわけで、この優先順位にさせて頂きたい。ありがたく読ませて頂いていることをここで書かせて頂く。
 創作はおろか、アニメ見るということさえ優先順位を下げてしまうぐらいである。

 そんな中、偶然、書店に立ち寄り、平積みされていて目についた本が、「DEATH「死」とは何か」という、とある大学教授の書いた本だった。
 3000円ぐらいで、ものすごく重かったが、衝動買いした。

 面白そうである。久々にワクワクしそうである。方向性が「死」であるが。

死について

 キューブラー・ロス氏の、緩和ケア的な、看取り的な死とは一線を画す作品っぽい。まだ立ち読みパラパラぐらいだから、分からないけれども。
 ただ、
「私たちは何者なのか」「体が死滅した後も生き続ける非物質的な魂があるか」「人格の同一性の本質」「死は現に悪いものなのだろうか」「不死は良いものなのだろうか」「やがて死ぬという事実にどのような影響を受けてしかるべきなのか」「死を恐れるべきなのか」「自殺の合理性と道徳性」

 といったキーワードから、面白そうなのは分かるだろう。700ページ以上ある。

 フランクル氏の「人間とは何か」も読みごたえのある本だったが、いまいち「がんばろう!」――という記述があるわけではないが、「気合いだ」というノリの部分があって、読みこなせていない。もう一回読んだら分かるのだろうか。――ただ、創造的価値、体験的価値、実存的価値――だったっけ? その、3つ目の価値というのが今一つ分からずに苦しむ。

インプットとアウトプット

 某尊敬する小説ライター氏は、「歳とってきたらアニメとか小説とか見ても小学生並み感想しか浮かびませんわ」的なことを仰られている。「刺激」。人は、新しいことがなければ低迷する、沈滞化する、的なことを言う人もいる。新しいことばっかりだと疲れる。
 しかし、例えば、大きく言えば、「クレーム」の、その内容がいくら新しかろうが、そこに「刺激」はないのである。「ああ、またきたか」的な。

 刺激とは、そういうものではない。
 本来は、得難く、しかし重要なものなのだ。

 飲み会で初対面の人とある程度打ち解けて話せたとする。
 それは、コミュ障を謳っていたころの自分(今もそうだが)としては、大事件だったろう。しかし、今は、苦労してそれを得ても、別に何とも思わないのである(ああ、前と同じか、的な)。

 本もそうだ。
「じゃあ、お前、今まで読んだ本の内容を分かりやすく語ってみろ」と言われると、口をつぐんでしまうが、しかし、たいていの本を読んでも、「エエッ! そうだったのか!」となるのは少ない。

 ――分かりにくいな。例えば、電子と原子核の話をしよう。原子といったとき、僕らが中学生? 高校生ぐらいで習ったとき、陽子+中性子を原子核といって、その周囲を電子がまわっている、的なモデルを習ったであろう。
 いつぞやか、社会人になってから僕は本を読んでいて、実は、その電子の位置というのは、
「確率の波」であって、正確な位置が決まっているわけではないのだ、ということを知った。衝撃的だった。

 また、何となく、「素粒子」的なことを頭の中でイメージしていたのが、「素粒子」というのだと知った時も驚いた。そして、クォークの種類によって、原子の種類が変わるというのも、僕の頭の中の仮説としてはあったが、「え、マジでそんなん自然なんですか?」と衝撃を受けたものだった。原子というのは、もうそれ以上変化しない単位だと思っていたが、ヘリウム原子が水素原子に変わってしまうこともあるということである。

 最近、陽子と中性子の構成要素は、アップクォークと、ダウンクォークというのがあって、アップクォーク2つでダウンクォーク1つだと陽子になって、ダウンクォーク2つにアップクォーク1つだと中性子なんだという記述を読んだ。へーっと思ったが、そうすると、陽子の種類ってどうやって決まってるんだろう。

あとがき

(かっこ書きである。新しい刺激を得るというのは、簡単ではない。有名人のサークルに出かければよいというものではない。スポーツサークルに行けばよいというものではない。オンライン英会話を始めればよいというわけではない。ライザップを始めればよいというわけではない。一つ、例として書けば、今年に入って、このブログに新しくコメントをくださった方がいらっしゃったが、それは現実の仕事などよりよほど僕にとって大きな出来事だった。この感覚を表現するすべを、僕は今もたないが、偶然的要素が強いと思う。しかし、これは、うさんくさいといわれるマーフィー氏の引き寄せの法則のようになってしまうが、「何らか得たいと思っていること」については、できるだけ「アンテナ」(という言い方は僕は嫌いなのだが)を張るようにしておいたほうが良い。僕の場合、かなり最近おざなりルーチンになっていしまっているが、このブログが「アンテナ」のようなものだ。他者に向けたものでもあり、僕自身に向けたものでもある。「おいお前(自分)、仕事したり寝たりするのは構わんが、ほんとにしなきゃいけないこと、したいと思ってること忘れんじゃねーぞ」と。そんな感じに、大事なのだ)

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