今日の一言「ルーティン」「るーてん」
とりあえず、勉強とこのルーチン更新だけはやっとこう。
台風? なんだっけそれ。
ブログへのコメントに今気づく。
要は、プライベート的なことで時間が取られすぎた休日だった。しかし、そのうち、勉強には少し時間をあてられたからよかった。
……書くことがなさすぎる。
大まかに書くとすれば、勉強と寝ていたのと、シロガネ感想を少し進めただけであった。もったいない時間の使い方な気がする。
そして、そんな遅い時間でも、満員とまではいかないが、電車の椅子に座れないぐらいに人がいるのは何故なのか。なんか人が多すぎていらつく。
いや一部路線と、方向だけなんだろうが、それでも、夜はみんな寝たらどうだろうか。
まぁもう、早く帰ろうという意思が薄弱になっていることは否めない気がする。というか、早く帰ろうと朝から「これとこれとこれをこういう順番でこうしてやろう」と決めても、突発的な事象が発生しまくるため、うまくいかないのである。そうして遅くなると、もうイライラはたまっていくのである。であれば、最初から余裕をもって、「今日は初期は21時ぐらいに終わる予定だが、23時ぐらいまでかかる可能性もあるな」と思っていたほうがよいのである。
生きる意味は、無くても、生きられるように人はつくられているのかもしれない。
生きる意味というのは、迫りくる死に対しての答えのようなものであり、死の実感というのは、普段は感じられないようにできているのかもしれない。
ノエイン、3話までみる。面白そうである。全部みたい。しかし、14日までで配信が終わってしまうということだった。まじか。ショック。
そこに、目的があるのか、といえば、「ある」ともいえれば、「ない」ともいえる。メタ、とは、高次の、という意味になるが、次元を変えれば、考えることはいくらでも可能となる。その無限性にストップをかけるのが、目標である。
目的とは、到達したいゴールである。到達するべき場所ともいえる。
本を読むことは、何か技術や知識をつけるためなのか。そういう場合もある。目的が明確だ。しかし、そうでない場合もある。明確な目的がなくても、本を読むことは推奨されるものとされる。
本だといいたいことが分かりにくいので、新聞はどうか。ちなみに僕は新聞を取っていない。不自由したことはない。しかし、新聞を取っていたら、もっとハイパー素晴らしい人間になっていたかもしれない。分からない。
本を読むことだけでは、すごくもなんともない、とも言われる。100冊読もうが、1000冊読もうが、それを行動に結び付けないと、意味がないと言われる。本当にそうか。
本を読むことと、行動とは、結びつかなければいけないのか。
ここで、「いやそうではない」という結論にもっていきたいのではないことに注目。
本を読むこと自体に価値がある、というありふれた(実はありふれていないが)結論にもっていくことに価値はない。
読むこと自体価値があるとして、それが、一切記憶からそぎ落とされてしまったとしたら、それは、意味のある行為だったとは言えない。
意識、前意識、無意識、という区分において、意識にのぼらないからといって、「一切そぎおとされた」とは言えない表現(又は、記憶の3要素である記銘、保持、再生の、「再生が働かない」という表現でもいいが)は可能だ。
それを無視して、いったんは、本を読んだ行為が、完全な無に、なったとしよう。それなら「無価値」だろう。
そうではなくて、「ああ、面白かった」という感想はあったとする。
そうしたときに、「それだけで」終わったとする。今後一生、その知識や技術に関しては、活かすことはなかったとする(思い出しはしても)。
それは、意味があったことになるのか。
なったのかもしれない。
そんなことはどうでもいい。
意味、というのも、相対概念である。
意味の反義は、無意味、だから、意味と無意味は相対だ――ということではなくて、「意味」自体は、それだけで成り立つことはできない、ということである。
法律の第一条には、その法律の目的と、それを実現する手続きと、究極の目的が書かれている。その目的を「意味」と表現するのであれば、意味は絶対的に存立する、かもしれない。――それは、その法律の中において。
だから、意味は、絶対概念でもありえる。
生きる意味、といったときに、「そんなもん、誰もわかりゃしない」とか「人それぞれ見つけ存在する」とか、そういった表現は可能だろうが、その次元(=その人にとっての次元)では、意味は、絶対概念として成りえる。
ところが、人、というのは、単一存在では成り立ちえない不完全な存在であるがゆえに、「意味」はいかなるときも揺らいでしまう。ゆえに、意味とは、相対概念である、と、この記事においては位置付ける。
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前書き
やることがたまりまくって何もしたくなくなる症候群。とりあえず、勉強とこのルーチン更新だけはやっとこう。
本文
小説シロガネの感想をすべく整理しながら読み始める。しかし、時間が細切れになってレビューが中々進まない。台風? なんだっけそれ。
ブログへのコメントに今気づく。
要は、プライベート的なことで時間が取られすぎた休日だった。しかし、そのうち、勉強には少し時間をあてられたからよかった。
……書くことがなさすぎる。
大まかに書くとすれば、勉強と寝ていたのと、シロガネ感想を少し進めただけであった。もったいない時間の使い方な気がする。
内容
なんでこんなことになってしまうのか。平日がいけない気がする。何故毎日帰宅が24時~25時なのか。そして、そんな遅い時間でも、満員とまではいかないが、電車の椅子に座れないぐらいに人がいるのは何故なのか。なんか人が多すぎていらつく。
いや一部路線と、方向だけなんだろうが、それでも、夜はみんな寝たらどうだろうか。
まぁもう、早く帰ろうという意思が薄弱になっていることは否めない気がする。というか、早く帰ろうと朝から「これとこれとこれをこういう順番でこうしてやろう」と決めても、突発的な事象が発生しまくるため、うまくいかないのである。そうして遅くなると、もうイライラはたまっていくのである。であれば、最初から余裕をもって、「今日は初期は21時ぐらいに終わる予定だが、23時ぐらいまでかかる可能性もあるな」と思っていたほうがよいのである。
内容2
生きる意味を考えるブログなので、とりあえず考えようと思う。いろいろ、プライベートでもやらなきゃいけないこと(創作の面も実生活の面も)たまってしまっているが、それらは全部一度忘れて、考えようと思う。生きる意味は、無くても、生きられるように人はつくられているのかもしれない。
生きる意味というのは、迫りくる死に対しての答えのようなものであり、死の実感というのは、普段は感じられないようにできているのかもしれない。
内容3
と、内容2まで書いてから、中断するはめになって、15日になってから続きを書くわけだが。ノエイン、3話までみる。面白そうである。全部みたい。しかし、14日までで配信が終わってしまうということだった。まじか。ショック。
内容4
例えば、本を読むという行為があったとする。そこに、目的があるのか、といえば、「ある」ともいえれば、「ない」ともいえる。メタ、とは、高次の、という意味になるが、次元を変えれば、考えることはいくらでも可能となる。その無限性にストップをかけるのが、目標である。
目的とは、到達したいゴールである。到達するべき場所ともいえる。
本を読むことは、何か技術や知識をつけるためなのか。そういう場合もある。目的が明確だ。しかし、そうでない場合もある。明確な目的がなくても、本を読むことは推奨されるものとされる。
本だといいたいことが分かりにくいので、新聞はどうか。ちなみに僕は新聞を取っていない。不自由したことはない。しかし、新聞を取っていたら、もっとハイパー素晴らしい人間になっていたかもしれない。分からない。
本を読むことだけでは、すごくもなんともない、とも言われる。100冊読もうが、1000冊読もうが、それを行動に結び付けないと、意味がないと言われる。本当にそうか。
本を読むことと、行動とは、結びつかなければいけないのか。
ここで、「いやそうではない」という結論にもっていきたいのではないことに注目。
本を読むこと自体に価値がある、というありふれた(実はありふれていないが)結論にもっていくことに価値はない。
読むこと自体価値があるとして、それが、一切記憶からそぎ落とされてしまったとしたら、それは、意味のある行為だったとは言えない。
意識、前意識、無意識、という区分において、意識にのぼらないからといって、「一切そぎおとされた」とは言えない表現(又は、記憶の3要素である記銘、保持、再生の、「再生が働かない」という表現でもいいが)は可能だ。
それを無視して、いったんは、本を読んだ行為が、完全な無に、なったとしよう。それなら「無価値」だろう。
そうではなくて、「ああ、面白かった」という感想はあったとする。
そうしたときに、「それだけで」終わったとする。今後一生、その知識や技術に関しては、活かすことはなかったとする(思い出しはしても)。
それは、意味があったことになるのか。
なったのかもしれない。
内容4の続き
物事を考えるときに、必ず、相対概念か、絶対概念かを、意識する必要があるということは、以前から書いていたことである。長い短い、を論じても意味がないのだ。いやしかし、「あの子かわいいよね」「いや好みじゃないな」的な、美醜の話題は、「コミュニケーション」としては意味があったりする。そんなことはどうでもいい。
意味、というのも、相対概念である。
意味の反義は、無意味、だから、意味と無意味は相対だ――ということではなくて、「意味」自体は、それだけで成り立つことはできない、ということである。
法律の第一条には、その法律の目的と、それを実現する手続きと、究極の目的が書かれている。その目的を「意味」と表現するのであれば、意味は絶対的に存立する、かもしれない。――それは、その法律の中において。
だから、意味は、絶対概念でもありえる。
生きる意味、といったときに、「そんなもん、誰もわかりゃしない」とか「人それぞれ見つけ存在する」とか、そういった表現は可能だろうが、その次元(=その人にとっての次元)では、意味は、絶対概念として成りえる。
ところが、人、というのは、単一存在では成り立ちえない不完全な存在であるがゆえに、「意味」はいかなるときも揺らいでしまう。ゆえに、意味とは、相対概念である、と、この記事においては位置付ける。