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人類普遍の六原則
2019/09/09 20:24 | Comments(6) | 思考及び書くこと
今日の一言「書こうか」

前書き

 人類普遍の六原則について教えてもらったのは、8月11日のことだったのか。

https://mikuriyan.hateblo.jp/entry/ted-on-morality
https://mikuriyan.hateblo.jp/entry/ted-on-morality-2
http://unfixation.gjpw.net/mean/停滞ができないということ


 僕は頭が良くないので、記憶力もよくないので、繰り返し復習し、覚えようという意欲をもつことで、ようやく、覚えることができる。

 さぁ、実際、何も参照せずに、(セオドア・カジンスキーの言った人類普遍の六原則を)以下に書き出してみよう。

・他者を傷つけてはならない
・未然に傷つけられることを防ぐため又は既に傷つけられた報復のため他者を傷つけることは許される
・他者の善行には返礼しなければならない
・強者は弱者に配慮しなければならない
・嘘をついてはならない
・自分のした約束は守らなければならない


 ――自分の言葉での書き出しのため、完全一致はしないだろう。だが、だいたい合っているのではなかろうか。
 僕は、新しい概念については、こうやって、「とりあえず記憶して」「繰り返しインプット・アウトプットし」「自分の言葉でアウトプットする」ことで、徐々に浸透させることができる。

 頭の良い人は、一瞬でできて、それを忘れないでいられるのだろう。すごい。羨ましい。
 繰り返しになるが、このブログは、凡人による、凡人のための考えるブログである。ヱリイト氏たちを相手にしているわけではないのだ。

法律や道徳とは違う

 さて、今回の記事は、上の六原則が、ようやく中期記憶的になってきたので、少しそれについて思ったことを書こうと思う。
 まずもって、「これほんと普遍なのか」と思う。
 性善説、性悪説ってある。ぶっちゃけ、どっちが正しいとか証明は難しいから、とりあえず法治が望ましいよね、という「正義」(ルール)になっているのだと思う。

 ただ、性善・性悪とか、そもそも「善悪」というのは、「相対概念」であって、いかようにも解釈可能に思える一方で、六原則は、解釈の限界性についても述べている点が面白いなと思う。

 いくら、2番目の報復の原理的なのを拡大解釈しても、苛々してもうどうしようもなかったから、無抵抗の子供を虐げた、とかいうのは、どんな人類社会においても、「OK!」というのは無理がある気がする。


 そう考えると、あながち、六原則は、当たっているのではないかと思った。最初は、爆弾テロリストが考えた思想ということで、少々身構えたが、前掲リンクの紹介を読んでいると、そんなに突飛な思想ではない気がしてきた。

それにしても捻じ曲がった世界よ

 では仮に、人類は、上のような六原則的な性質をもっているとする。
 そうしたとき、やけに例外的な事象に遭遇するな、と思う。

 と、思いながら、しかし、確かに、そうした原則に従って、みな生きている気もする。
 それに懐疑的な思いを抱くのは、どこか、人間としての性質を失ってしまっている気もしてくる。そういう意味で、僕は凡人ではないのだろう。
(凡人未満のダメ人間なのか、凡人というカテゴリにすら含まれない外れ者なのかもわからんが)



 ――とまぁ、その、自分と世界との距離感に違和感がある人、周囲となじめず孤立する人……そうした人が、「自分」の世界における位置付けに疑問をもち、それが「生きる意味」という問いになっていくものだとしたとき、そういう人が、世界を変えようと思うと、何か大きな事件を起こすのだろうと、ふと思った。

 世界の革命家たちも、動機として、そういったものをもっていた人もいたかもしれない。

 しかし、今、現代社会としては、「革命」を起こすだけの大義はないのである。

 意味を失った高層ビルが立ち並んだとしても、だからといって、それを爆弾で破壊するだけの大義はないのである。そこには、あまりにも自分勝手な動機しか存在しない。

 しかし、だからといって、その動機自体が、悪いものとは思えない。
 実質、確かに、現代社会には、精神科医フランクル氏がいった、実存的空虚感が漂っているように思われるのである。

別に漂っていなくても構わない

 実存的空虚感とか、精神科医のうんたらとか、別にどうでもいい。
 世界がどうであろうが、それが問題なのではない。生きる意味の次元は、過去記事でも取り急ぎ大きく3つあると述べたわけだが、大事なのは、「自分」においてのものである。

 その自分を中心に置いた上での思考のことを、「実存」というのであって、それが虚ろである、という意味で、フランクルさんの言っている「実存的空虚感」という言葉が、僕的にはぴったりだなぁと思うわけであって、実際問題、フランクル氏の著書を読んだことはあるけれども、難しい本だし、しっかり理解できたかは分からない。

 分からないけれども、しかし、「取り急ぎ生きていくには困らないが、何かこう湧き上がるようなエネルギーがないよな」といった感覚については、割と緊急性があって、割と重要なんだろうと思うわけである。


 別にそんな熱量いらなくね?
 満足して生きる必要なんてないんじゃないの。
 どうせ皆いずれ死ぬんだから精いっぱいやったら。


 とかっていうアドバイスは、的を射ているのであろうが、しかし、根本がズレているのである。正解なんだけど、不正解なのだ。

早く死んでしまった方がいい

 極論だ、論理矛盾だ、意味不明だ、と言われるだろうが、僕は、上のような方針は、イコール、「早く死んだ方がましだ」ということと同義であると捉えている。いや違うんだろうが、しかし、そう思えてしまってならないのだ。

 ただ快楽を貪るだけ貪るために、苦労して頑張って生きる。マッチポンプ……というのが何だか僕はイメージできないが、要は、自分で問題を作って、自分で問題を解決して、の繰り返しのようである。

 いやいや、偉大なるニーチェ氏は、永劫回帰、とかいっていたっけ?
 特に意味はないけれど繰り返されるメリーゴーランド。


 それだけで十分価値があるぜ! ……という掛け声が、僕は冷めて虚しく聞こえる。


 誰かのために、輸血とか、骨髄バンクとかすれば救われるのか。
 アニメのエンジェルビーツでそんな似たようなシーンがあったけれど、うーん、そんなもんなのか。

暗黒に奔ろうとしているので思い出せ

 あのー、この記事は、あれだ、ふつーの人の、日常的なヤツだ。
 きっとこの感覚も、なかなか誰にも伝わらないだろうが、よく芸能人とか、女子高生的なのがインスタグラムに「渋谷のカフェで〇〇!」的な奴である(いみふ!)。

 ――だから、別に、その、哲学的なことを書こうとか思ってるわけではないのである。
 人類普遍な、何か、誰かを救おうとか、そういうわけでもないのだ。

 最大限頑張って、考えて、「楽しく」あろうとして、これなのである。
 もっといえば!

 もっといえばだな。「楽しいこと」しているのである。

 俺は、面白い作品に触れていることを除いて、仕事していることなんかより、よっぽど――今回の記事の筆の進みは遅いけれども、それでも――この記事書いているほうが楽しい。


 価値あることしたなぁ……よかったなぁと、そう思うぐらいである。

 ついでに、もう一つ、フランクル氏関連で思い出しとけ。人生の3つの意味。

『人間とは何か』のP.111からふれられている「三つの価値カテゴリー」。
 創造価値、体験価値、そして態度価値。

 病気になって、体の自由が奪われてもなお、最後の態度価値は奪われない。人は生きるに値するのだと、強いメッセージ。

あとがき

(かっこ書きである。3つの価値カテゴリー。3つめ、「態度価値」だったのか。忘れていたなぁ。偉ぶるつもりなど一切ないし、謙遜でもなく、ほんとに、上の本全部読んだんだけど、理解できていない部分である。いや、概念的には何となく分かる。だが、「よく分からない」。ぜひ、決して安くない本だが、図書館とかで見かけて読む機会があったら、P.111からの部分だけでもいいから読んで、何かこの凡人に教えてほしい。創造価値、体験価値は、読めばわかると思う。態度価値ってのが、ああ、人間にはあるんだろうなぁ、ってのも、なんとなく感じられるだろうと思う。だが……しかし、それは、本当に、もう極限に陥らなければ分からないものなのだろうか。もしそうだとしたら、僕がこうして書いてきたすべてのことは結局、その「極限なる状態」によって結論付けられるだけのものであって、無意味だったのか。そう考えることの恐ろしさもある。そういう意味で、僕は、以前これもコメントで指摘されたのだが、「答え」を見つけたくないとすら思っているのかもしれない。でも、そんな状態が、いつまで続くのか。40歳、50歳になっても、まだ、「意味」を探し続けているのか。――と書くと、諸先輩方のディスになりそうだが、そういう意味でもない。40歳、50歳というのは比喩であって、要は、死ぬ間際まで考え続ける、求め続ける、そして、「不満足」な状態が続くのだろうか、ということである。であるならば、早めに死んだ方がましではないだろうか、と思う。その、「不満足」な状態が、それはそれで「楽しい」ならいいだろう。だが、そんなことあるんだろうか。俺は思うに、ますます、歳をとるにつれて、「選択肢」が減っていき、「無意味性」が強固になっていく気がする。この焦り、この不安は、なかなか表現できないと思う。――態度価値だが、ふと思うに、要は、先日の胃カメラで「この苦しさが続くなら死んだ方がまし……」という状態でいてなお、誰か他者のことを思いやって、誰かを助けようとするような態度――そうした態度をとれることが、「価値」なのだろうと思う。そういう意味で、僕は、フランクル氏の言いたいことを、何となく理解していると思う。だが、「理解」が、救いや満足になるわけではないのだ。真面目に考えれば考えるほど、他者のアドバイスを聞こうとすればするほど、このあたりの思考をすれば苦しみが増す。だが、マゾヒストでは決してないが、この苦しみは、「わりといい」と思う。少なくても、仕事をしているよりは有意義だ――というのは言い過ぎか。だが、「誰のためになっているかさっぱり分からない仕事」よりかは、少なくても、自分のためにはなっているから、言い切って構わないと、僕は思う)

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理想と現実、自己と来歴
2019/09/06 06:47 | Comments(5) | 思考及び書くこと
今日の一言「15分制限」「コメント頂いたことを考える」

前書き

 眠い、が、仕事で気になるやつ、やっつけておかねばいけないやつなどが気になって昨日も25時ぐらいの就寝だったが6時前ぐらいに目が覚める。

 だが、仕事なんてもんを気にしている場合ではなく、小説の感想を書くこと、生きる意味を徹底して考えることの方が重要なのは言うまでもないのだ。しかし、眠い、だるい。

理想に生きるか現実に死ぬか

 得たものもある。良いこともある。そこそこ幸せ。

 そうやって生きていくことが重要なのは間違いないだろう。しかし、それだけに生きられるかどうかは、別の話。人は、食べるためだけに生きているのではない、と言われる所以。

「お前は、たくさんのものを手放せないでいる。執着していることで苦しんでいるのだ」

 といったコメントを頂いた(と解釈する)。

 その鋭い指摘の中の「もの」には、人、モノ、コト、すべて含まれるだろう。
 その中には、きっと、「過去」もあるだろう。

 過去――つまり、自分の来歴。そして、これ(来歴)への解釈、というのが、生きる意味というのの、また違った表現であると思う。



 といったときに、その来歴(いわゆる、自分がどんな経験をし、感じ、どんな風に育ってきたか)を脇に置いて、「新しい自分」を見つけて満足していく、というのが、――言葉にするのは簡単ながら、とても難しいのは見えてくる。

新しい自分

 その難しさとは何か。
 自分というのが、自我同一性、アイデンティティ、自己、と表現していったときに、要するに「記憶」であるともいえる。

 自分という認識が、自分をつくっているのだといえる。トートロジー。我思う故に我あり。

 前の小見出し内での表現を用いれば、「来歴」。

 その来歴が「よくないもの」だったとき、それを「忘れる」ことができれば、まぁまぁ、「新しい自分」として、「そこそこの幸せ」を感じながら生きていくことはできるかもしれない。



 空虚な表現だ。こういうのを机上の空論という。

 僕は無理だと思う。無理だと諦めることは良くないが、「矛盾」があると思う。
 自分があるから、楽しんだり、苦しんだりするのだ。

 その自分=「来歴」であるとしたら、過去の自分の経験やその解釈について忘れたとき、なかったことにしたとき、手放したとき、そこに、自分はあるのか。いやないだろう。

生きる意味は変化し続ける

 だからどうした、だからどうする、というのは、この記事では、15分程度では、到底書ききれない。
 ただ、生きる意味を考えるにあたって、「感覚を起点にすべきだ」といった(と解釈した)コメントにおいて、大事なことだなと思った、「自分」ということについて今回の記事にしておいた。

 知ったかぶりをしてキルケゴール氏を引用すれば、「自己とは総合だ、関係だ」ということになるだろうが、僕の考えで行けば、「自己とは記憶だ、来歴だ」となる。

メモ:記憶に関しては、「記銘・保持・再生」という仕組みで捉えられて、リボーの法則というのがあって、「新しいことから忘れていく」「知的なことより感覚的、または体得的なことの方が忘れにくい」といったものがある。


 と、なれば(自己が記憶であり、来歴であったとするならば)。
 生きる意味というのは、不断に変わっていくものであるのだろうと、そう思った、というメモまでで、この記事は時間切れになる。

あとがき

(かっこ書きである。理想に死ぬか、現実に生きるか、ということを考えたいが、時間が足りない。俺は思うに、「理想」が、そもそもボロボロになっている気がする。ってか。将来の夢、って、言葉、昔、聞いたことあるだろう。大人諸君は、聞かないだろう。子供に関係する人は、問うかもしれない。将来? 大人と言われる歳になっても、全然イメージできないのに、子供は分かるというのだろうか。不思議な仕組みである。将来=仕事、というのであれば、正直、何の夢も俺はなかった(いやもちろん、暫定的に定めて進学していったわけだが)。「働く」ということに、特に何の感慨も見いだせなかった。労働は国民の義務なのであって、それと、将来の「夢」とは、まったく違うのではなかろうか。お医者さんになって人の命を救いたい、弁護士になって弱者を守りたい、プロ野球選手になって夢を与えたい……。なんだろうな。要するに、生きる意味を考えると、僕が表現するときに、「人生って、何が楽しいのだろうな?」という問いな気もする。そういう感覚的なサムシング。そうしたとき、「いや、(生きる意味を)考える必要は特にないのではないか」という問いは、感覚的な本質に届かない解決方法にならざるをえないのである。いや、だから、人生を、「人生」と大きな枠組みでとらえる必要なんてなくて、狩猟採集生活のように、「蓄え」という概念は特になくて、日々日常の中で充足していくというのが、本来人間としてあるべき姿なのかもしれない。暦をつかって、予測して、農業やってる場合じゃないのである。もっと即物的に、毎日毎日、一日、一時間、一分単位に、ただ生きていくことが大事なのだ。――んなわけあるか。んなわけ、あるかどうか、分からないかもしれない。ただ、それはそれで難しいだろう。いやだって、「記憶」はあるのだ)

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朝30分で書く
2019/09/03 06:50 | Comments(3) | 思考及び書くこと
今日の一言「目が覚めた」

前書き

 夢、をみていた。家族の夢。エレクトーンの音で目が覚める。僕は昼寝でもしていたのか。母の奏でる演奏だった。幼いころ教えてもらった曲だった。目が覚めた僕は、「昔教えてくれたね、覚えているよ」と母に伝える。母は、少し照れながら、「もう忘れて全然弾けないよ」と言いながら、日常の家事へと戻っていった。

目覚める

 そして本当に目覚める。しかし、布団から出るだけのやる気がない。面倒だ。今日も仕事か。

 わりと愚痴みたいな記事を多く書いてしまったが故、心配してくださった方もいる。
 申し訳ない。まぁきっと大丈夫。何が。いやきっと何かが。これで残業代も出なかったら間違いなく要検討になるが、その辺は今のところ大丈夫だろう。まぁそういう問題でもないのだが。


 頭の中でループしたから、眠いけれども、時間が15分程度しか取れなかろうが、書くことにした。
 とか前提を書いていたら、もう残り10分ぐらいだ。どこまで書けるのか。

身の振り方

 別に出世したいとかはないのである。
 それは、きっと、酸っぱい葡萄の防衛機制ではなく、思ったことがないから、そうなんだと思う。
 出世……って何か。立身出世とか言われるが、「権力を得たい」という欲求だろうか。他者に命令して、思うが儘に操る的な。
 実態はともかく、法社会なのであれば、それは不可能である。

 灰色な薄暗い欲求を満たすことなど、ふつうはできない。

 そも。そもそも、僕は、他人を支配したいという欲求は特にない。「構わないで欲しい」と思うことはよくあれども。


「よく切れるナイフでよい」と、フルメタのマデューカス中佐は言った。
 が、それに近いとはいえ、使われる道具であることは、良し、とは思えない。

 道具。

人は自分の人生を生きているか

 生きる意味を考えること、それが必要かどうか、意味があるかどうか、それは分からない。某SRGN氏は、「意味は後天的に付与されるものである」と仰っておられた。

 そうだろうと思う。
 意味は、自ら、引き受けていくものであろう。

 そうしたとき、否が応なく、周囲から要求される意味について問わざる得ない。


 しかし、だ。
 宇宙規模において、一個人の価値は「ない」。

 地球規模において、同じく「ない」。

 人類規模において、「ない」。

 社会規模において、……このあたりから、影響を与えられる人はいるかもしれない。だが稀だ。稀だし、更に、著名人や、政治家諸氏、お金持ち氏などなど、影響をもつ人たちをいろいろ列挙できるかもしれないが、それでも、「多少」レベルだ。稀で、多少だ。(多少って意味なんだっけ? とりあえず「ちょっと」という意味で使ってみた)


 じゃあ、家族規模においてはどうか。そりゃあ、意味が「ある」ってことになる。
 旦那さんや奥さん、お父さんやお母さんってのは、それだけで、その役割は代替不可能である。

 そして、失われた時の甚大さは、関係者(ここでは「家族構成員」)にとっては、筆舌尽くせぬ。

しかし

 自分一人の人生に、価値はあるのだろうか。
 ……という問いは、あまり重要ではない。「価値」とは、自分から世界への方向と、世界から自分への方向とがある。としたときの、「世界」が、前述の「宇宙」だったら、両方とも「ない」。

 家族からの意味、価値だったらあるかもしれない。


 しかし、昨今、家族をつくるというのは、「自由」になった。
 恋愛も自由、結婚も自由。
 となったとき……時間切れ。

あとがき

(かっこ書きである。尻切れ過ぎる。15分ではこの程度しか書けない。しかし、要するに、時間が、精神的時間も、物理的時間もないのである。いつまで続くか。取り敢えず、分からない)

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タイトル思いつかない(疲れた)
2019/09/01 22:03 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「疲れた」

前書き

 ずっと寝ていた休日。
 やる気が起きない、まぁ、起きられないことによって、悪循環になるのだが。
 だが、この漫画(リンク)のように、「無駄かどうかは俺が決める!」といってやりたい。

 いやぁ、無駄も何も、ずっと寝てたから何もないわけだが……。

 まぁ、体を休めた、ということで、よしとしよう。土日は、イベント(友人その他知人からのお誘い)があったが、疲れすぎて無理ですと断ったのだから、目的を達した。

近況

 先々週は、23時帰宅だったと、書いた。それに対して、心配してくださったコメントを頂いた。
 しかし、今週は、24時を過ぎての帰宅だった。

 平日何もできなすぎる。

 まぁ確かに、22時帰宅の際も、寝るまでに少ししか時間はないから、アマゾンプライムで、適当な作品をあまり真剣ではなくみてボーっと過ごすぐらいだったろう。
 そういった時間がなくなっただけと考えれば、まぁ大丈夫かもしれない。

 いやそんなわけはない。ぼーっと過ごす時間もあったほうがいいだろう。

 ……なんか、今も、頭が働いていない。
 ああ、こういうときは、風呂にでも入るべきパターンだな。OK、それは行こう。
 だが、やる気のなさ的に、朝も、11時には一度目が覚めたのだったが、やる気が起きな過ぎて布団から起き上がれなかった。
 そうすると、変な夢をみたりして、過去の嫌だったころの夢だったりして、さらに士気は下がるという悪循環。


 体は休まったかもしれないが、精神的には休めてない気がする。



(かっこ書きである。風呂にはいったものの、頭痛は治らず、今日はここで一度投稿し、取り急ぎルーチンはやったと、そういうことにしておく)

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胃カメラ経口体験記
2019/09/01 17:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「胃カメラ苦しい」

前書き

 先日、胃カメラを口からやってきた。(全身麻酔なし)
 結果は、問題なし、とのことだった。

 たまに胃のあたりが、きりきりするような、締め付けられるような痛みに悩まされることがある。
 ゆえに、胃カメラもやってみたのであるが。

 これが、大変苦しかった。

終わった後も痛かった

 胃カメラの体験自体は、次の小見出しで書くとして、これは直接的に関係ないのだろうが、胃カメラ後も、お腹が痛くて、待合いイスでずっと耐えていた。

 胃カメラ後は、一時間は、飲食ができないということだ。
 前日夜からは一切食事はダメなため、お腹が空いて、痛いきもする。食べると治るようなきもする、が、それもできず、とにかく耐える。

 1時間後ぐらいに、カフェに入って少し食べると、徐々に痛みが治まってきた。
 ストレス性の痛みだったのか。

 そもそも、胃カメラ後に、「きれいな胃なので現状は問題ないですね」と言われていて、それでも痛くなるというのは、人間の身体の不可思議。

胃カメラ中

 終わった後に痛くなるというのは予想外だった。
 が、まぁその、予想通り、胃カメラ中が、苦しかった。単純に苦しかった。

 出産の痛みに比べたら大したことないのだろうが、ふつうに苦しい。

 般若心経でも頭で唱えて耐えようかとも思っていたが、そういうもんじゃない。


 痛い、というわけじゃない、と思う。麻酔は、口に、苦いキシロカインスプレーをしてもらう。まぁ、全然耐えられんものじゃない。これから行われることを思えば大したことじゃない。

 問題は、異物が、喉から、食道を通って胃に挿入されることだ。

 入る瞬間は、いつ入ったのか分からないぐらいだが、その後すぐに、強烈な嘔吐感がくる。強烈だ。おええええ、という奴だ。
 先生や看護氏さんが、ここ苦しいとこですからね、と声をかけてくれる。

 確かに、数秒耐えると、少し嘔吐感が収まる。


 しかし、異物感は当然残っている。

 涙が出始める。
 涙だ。大の男が……というほど逞しくはないが、インフルエンザになってものすごく苦しくても、泣きはしないだろう。
 そういう苦しさとはまた全く異なるつらさなのだ。


 半分までは終わりましたよ、というのを聞く。
 まだ半分なのか、と、途方にくれる。

 野戦病院では、重体、重傷の兵士が、もう殺してくれとの叫びが響きわたるとのことだが、ほんとなんだろう。その100分の1ぐらいの気持ちは分かる。

 胃カメラやる前は、万が一何かのショックで死んでしまったら、色々やり残したこともあるし、やだなぁ、とか、のんきに考えていたが、「いやもう、そんなのどうでもいい!」っといった感じになる。

 この苦しみがもしずっと続くなら、もうほんと、殺して欲しいと思うだろう。


 最初の方と、あと二回くらい、ここ、苦しいとこですからね、という箇所があり、それ以外は、とにかく呼吸を意識することで耐えた。
 胃カメラ中ということを意識しないほうがよさそうだ。
 あと、マウスピースを最初にはめられるが、思いっきり噛みしめてやってもよい気がする。

半分を過ぎた後はやや楽

 しかし、半分ですよ、のあとは、やや早い気がした。戻りながら食道を通って終わりだった。

 最初の方がだいぶ苦しかったので、「またくるか」と身構えたが、抜かれた瞬間も、よく分からなかった。一瞬だった。

 そのあとは、唾液とか、もろもろ、麻酔で飲み込むことができなくなってるので、全部だだもれになる。ティッシュが(箱ごと)渡されるので、自分で拭っていく。


 結論は、最初に書いた通り、所見無しだった。
 が、二、三年に一度は、胃カメラは受けた方がよいとのことだ。

 毎年やるのは、負担だな……。

あとがき

(かっこ書きである。苦しかった。しかし、終わってみると、なんか変な達成感もある。やられてるときは、あれほど苦しかったのに、終わってみると、またやってみたほうがいいのかな、と思ったりする。現金なものである。「意味」大事だと思う。唐突だが、要は、「時限的な苦しみにはある程度耐えられる」ということだ。ちなみに、全身麻酔によって、ほぼ眠った状態で苦痛なく検査もできるそうだ。が、追加の費用もかかるのと、時間がよりかかるということだが、心配なのはやはり麻酔の副作用だろうか。医学的に大丈夫なんだろうが、一時的に、人工的に身体の機能を低下させるということなのだから、それはそれで負担だと思われる。一方で、「苦しい」ことによってストレスがかかる負担もあると思われる。どっちがいいのか、よく分からない)

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