今日の一言「いやなことが多い」「からだがだるいことが多い」
いくつか、問題があって気分が滅入ることがあるが、色々書こうとすると更に気持ちが落ち込みそうだから、一つだけに絞ろう。
広く書けば、人間関係についてだ。あと、リアル世界の話だ。創作ではない。
どこどこの誰がどういった物をもって、生活をして、誰と付き合って、何をして、――そうした話題がものすごくどうでもいい。どうでもいいどころか、そういう話が気持ち悪いとすら思う。気持ち悪いという言葉を言い換えれば、要は不快である。
誰が頭がいいとか、やる気があるかとか、すごいとか、どうでもいい。
プライド、というのは、モチベーション維持に大切なのかもしれないが、聞いていて心地よいものではない。
――そういうことを思う人はいるのである。大っぴらに話に上ることは少ないかもしれないが、しかし、高校のときでも嫌というほど感じだ。
一方で、「私バカだから分かんない」というバカ開き直りも不快である。分かろうとしない態度は気持ちが悪い。
その両方を感じることが多く、広い意味での人間関係が面倒くさい。
店や電車の中でギャン泣きする子供のそばであやしもせずにスマホいじる親に遭遇するのも気分がよくない――いや、今、穏やかに書いたけれども、別に親が必死に子供をあやしていようがイライラは変わらない。
ウォークマンというか、イヤホンを忘れることは死活問題である。
音。
音というのは、空気を媒体にする波を耳という器官が受け取って感じるものである。
大きな音というのは、危険を知らせるという意味で、ストレスになるのだろうか。
しかし、猛獣の咆哮は恐怖だが、餌を得るのに咆哮は必要なのか。忍び寄って飛び掛かって食い千切った方が効率的な気がする。――違うか、むしろ猛獣の接近を知らせるために、被捕食者が発するために大きな音が必要だったのか。
まぁ、それが生物学を学んで分かったとしても、対処方法としては、ウォークマンをいついかなるときも忘れないようにするということである。
――話をアルキタバコに戻せば、赤ちゃんの音は、まぁ、赤ちゃんだし仕方がないし、彼・彼女らにとってそれは生存欲求であり必要な仕事であるのだから、仕方がない――と思わざるをえない。僕の身体がイライラを覚えたとしても、理性的に思えば、仕方がないのである。
一方で、アルキタバコはこちら側で防ぐ方法がないし、かつ、原因が、ぜんっぜん仕方がなくないので、イライラするのである。
お店で、喫煙OKなところで、モクモクしていようが、それはまぁ、仕方がない。運が悪かった。そういう可能性がある店を選んで入ったのだから、こちらにも原因がある、避けようもある(そういうところに行かないこと)。
一方で、アルキタバコは――(以下略)。
まぁしかし、この記事も内容としては同じようなものなのであるのであるが、「長い」ということと、「多角的」「多面的」アプローチがあれば、まぁ存在価値はゼロではないと思うのだ。なんとなく読み返せば、今回の記事で掘り下げたかったのは、「他者への興味」問題である。「誰かと何かをする」というのはいいと思うのだが、何か、他者の属性的な話は「どうでもいい感」が強い。興味がない。もてない。でも、仕事進めるにおいて、単純作業や既に決められている業務ならともかく、大抵の面倒くさい仕事は、「調整ごと」が必要である。それがイヤ。まぁそれは仕事のことか。
うーむ。雑談――嫌いとかじゃないのだろうと思う。ただ、仕事という関係のある人との間になると、それだけではないので、面倒くさい。面倒という言葉を単純に使ってしまうけれども、まぁ、100%信頼・信用できない、というのがあると思う。
陰で何言われているか分かったもんじゃないしな。――というのは、僕がこうして「裏」で書いているという意味ではなく、実際にほかの人がほかの人に話して、というのを知っているからである。
うーむ……。なんも解決しないな。
しかし、まぁ、今回の記事のようなことが頭の中に渦巻いているのである。
面倒だろう(かっこわらい)。
気持ちよく過ごすことができない原因だ。
いやまぁ、土日は休みだ。しかし、来週、再来週の、そして、来年のことを考えると(考えなくてもいいじゃないか、というのは当てはまらず、考えておかなければいけないのである。3月になって考えてもそれはもう何も現実的には変わらないのだ)、考えようとして考えることが面倒で、寝る……というパターンか。
まぁ、頭を使うと眠くなるものである。仕方がない。
仕方がない。仕方がない。仕方がない――と、いつまで仕方がないを続けるつもりなのか。
知らん。
10年後、20年後のことなんか分かるか。
過去、10年前の自分の書いた記事を読んでみたとして、将来、予見できていただろうか。一切わからなかった。そして、当時の自分に、僕は何か、今の全能力を使って、アドバイスできるとして、何ができるのか。
シュタインズ・ゲートは、2009年発売なので、名作だから絶対やるべき、と伝えるのはアリかもしれない。しかし、当時の僕がそれを見て、僕が実際にみた2016年? 2017年? ほどの感動を得たのかどうかは分からない。僕は別に、そのこと(出会った時期が遅かったこと)を後悔などしていないし、当時の僕もそうだろう。
で、あれば、何ができるか。社内のキーパーソンを教えるか。その人の好きなこととか、敵対している人物を教えておくか? 無駄だ。そういうことが、僕は当時から面倒くさい。好きじゃない。興味がないのである。
当時の自分へ、彼女に振られて落ち込んでいるだろうが、将来女性とお付き合いして結婚もできるから心配するな、もっと自分に自信をもて、と言ってやることは可能かもしれない。しかし、「自己肯定感」とは、誰か他の人に言われてすぐに向上するものではない。まぁ、今回の思考実験として、「未来の自分」からの言葉なら、ある程度効果は発揮されるかもしれない。
がしかし、そこで自信つけたとして、高嶺の花子さん的なのに果敢にアタックして撃沈を繰り返した場合、逆に自信を失ってしまう未来改変にならないか。
他者から何を言われようが、決めるのは自分だし、未来がどうなるかなど、分かりはしないのである。
いや、アドバイスやコメントやら、他者からの働きかけはとても感謝である。その次元においては。しかし、明確に未来を見通すことなどできないのだから、「影響の一つ」でしかないことは仕方がないのだ。
量子論でも、電子が観測されうる場所は確率なのだそうだ。速さと時間が求められたら位置(距離)がわかる世界ではないのだそうだ。
人間存在も、そういうものなのだろう。ここでいう人間存在とは、思考のこと。精神のこと。
僕が、頭と背中が痛い状況でこの記事を書き始めて、こうした記事が出来上がったことは、誰も知る由はなかったのだ。
前書き
はぁ……。何だか、ため息が出る。いくつか、問題があって気分が滅入ることがあるが、色々書こうとすると更に気持ちが落ち込みそうだから、一つだけに絞ろう。
広く書けば、人間関係についてだ。あと、リアル世界の話だ。創作ではない。
エリート意識もバカ開き直りもうざい
うざい、という言葉は、言い換えれば、面倒だとか不快だというものである。どこどこの誰がどういった物をもって、生活をして、誰と付き合って、何をして、――そうした話題がものすごくどうでもいい。どうでもいいどころか、そういう話が気持ち悪いとすら思う。気持ち悪いという言葉を言い換えれば、要は不快である。
誰が頭がいいとか、やる気があるかとか、すごいとか、どうでもいい。
プライド、というのは、モチベーション維持に大切なのかもしれないが、聞いていて心地よいものではない。
――そういうことを思う人はいるのである。大っぴらに話に上ることは少ないかもしれないが、しかし、高校のときでも嫌というほど感じだ。
一方で、「私バカだから分かんない」というバカ開き直りも不快である。分かろうとしない態度は気持ちが悪い。
その両方を感じることが多く、広い意味での人間関係が面倒くさい。
要するにイライラする
引き続き歩きたばこをしている奴にもよく遭遇するし、気分がよくない。店や電車の中でギャン泣きする子供のそばであやしもせずにスマホいじる親に遭遇するのも気分がよくない――いや、今、穏やかに書いたけれども、別に親が必死に子供をあやしていようがイライラは変わらない。
ウォークマンというか、イヤホンを忘れることは死活問題である。
音。
音というのは、空気を媒体にする波を耳という器官が受け取って感じるものである。
大きな音というのは、危険を知らせるという意味で、ストレスになるのだろうか。
しかし、猛獣の咆哮は恐怖だが、餌を得るのに咆哮は必要なのか。忍び寄って飛び掛かって食い千切った方が効率的な気がする。――違うか、むしろ猛獣の接近を知らせるために、被捕食者が発するために大きな音が必要だったのか。
まぁ、それが生物学を学んで分かったとしても、対処方法としては、ウォークマンをいついかなるときも忘れないようにするということである。
――話をアルキタバコに戻せば、赤ちゃんの音は、まぁ、赤ちゃんだし仕方がないし、彼・彼女らにとってそれは生存欲求であり必要な仕事であるのだから、仕方がない――と思わざるをえない。僕の身体がイライラを覚えたとしても、理性的に思えば、仕方がないのである。
一方で、アルキタバコはこちら側で防ぐ方法がないし、かつ、原因が、ぜんっぜん仕方がなくないので、イライラするのである。
お店で、喫煙OKなところで、モクモクしていようが、それはまぁ、仕方がない。運が悪かった。そういう可能性がある店を選んで入ったのだから、こちらにも原因がある、避けようもある(そういうところに行かないこと)。
一方で、アルキタバコは――(以下略)。
あとがき
(かっこ書きである。土日はとにかく眠い。眠い――というか、やる気が起きない。「やる気」ってなんだ? まぁその、頑張ってやる気を出そうと、「これとこれは、ここまではやろう」というのを朧げに考えて決めていたりするが、冒頭に書いた色々な事情(今回言及はしていないが)によって予定通りに行かなくなったりする。そうすると、またやる気が起きなくてただ惰眠になったりする。なんか、今回の記事だと歩きたばこでイライラしているだけな気がするが、そういうわけでもない。仕事めんどくさいなぁというのもある。仕事とプライベート、の計画の立て方、人間関係――うーむ、上手く書けない。――俺は思う。100字でも50字でも、ちゃんと毎日書き続けているというのはすごいことである。ツイッターやろうかな――いやそれはない。どう考えても面白いことが書けない。「あー今日は出張だから出発時間がやや遅くていいけれども出先で何言われるか分からないし難しいしメンドクサイなぁ」53字。そんなこと毎日呟くアカウントがあったら、俺はタイムラインに出ないように工夫する(かっこわらい))あとがきからの一つ内容
(かっこ書き書いていて、長くなってきたので別小見出しにした)まぁしかし、この記事も内容としては同じようなものなのであるのであるが、「長い」ということと、「多角的」「多面的」アプローチがあれば、まぁ存在価値はゼロではないと思うのだ。なんとなく読み返せば、今回の記事で掘り下げたかったのは、「他者への興味」問題である。「誰かと何かをする」というのはいいと思うのだが、何か、他者の属性的な話は「どうでもいい感」が強い。興味がない。もてない。でも、仕事進めるにおいて、単純作業や既に決められている業務ならともかく、大抵の面倒くさい仕事は、「調整ごと」が必要である。それがイヤ。まぁそれは仕事のことか。
うーむ。雑談――嫌いとかじゃないのだろうと思う。ただ、仕事という関係のある人との間になると、それだけではないので、面倒くさい。面倒という言葉を単純に使ってしまうけれども、まぁ、100%信頼・信用できない、というのがあると思う。
陰で何言われているか分かったもんじゃないしな。――というのは、僕がこうして「裏」で書いているという意味ではなく、実際にほかの人がほかの人に話して、というのを知っているからである。
うーむ……。なんも解決しないな。
しかし、まぁ、今回の記事のようなことが頭の中に渦巻いているのである。
面倒だろう(かっこわらい)。
気持ちよく過ごすことができない原因だ。
いやまぁ、土日は休みだ。しかし、来週、再来週の、そして、来年のことを考えると(考えなくてもいいじゃないか、というのは当てはまらず、考えておかなければいけないのである。3月になって考えてもそれはもう何も現実的には変わらないのだ)、考えようとして考えることが面倒で、寝る……というパターンか。
まぁ、頭を使うと眠くなるものである。仕方がない。
仕方がない。仕方がない。仕方がない――と、いつまで仕方がないを続けるつもりなのか。
知らん。
10年後、20年後のことなんか分かるか。
過去、10年前の自分の書いた記事を読んでみたとして、将来、予見できていただろうか。一切わからなかった。そして、当時の自分に、僕は何か、今の全能力を使って、アドバイスできるとして、何ができるのか。
シュタインズ・ゲートは、2009年発売なので、名作だから絶対やるべき、と伝えるのはアリかもしれない。しかし、当時の僕がそれを見て、僕が実際にみた2016年? 2017年? ほどの感動を得たのかどうかは分からない。僕は別に、そのこと(出会った時期が遅かったこと)を後悔などしていないし、当時の僕もそうだろう。
で、あれば、何ができるか。社内のキーパーソンを教えるか。その人の好きなこととか、敵対している人物を教えておくか? 無駄だ。そういうことが、僕は当時から面倒くさい。好きじゃない。興味がないのである。
当時の自分へ、彼女に振られて落ち込んでいるだろうが、将来女性とお付き合いして結婚もできるから心配するな、もっと自分に自信をもて、と言ってやることは可能かもしれない。しかし、「自己肯定感」とは、誰か他の人に言われてすぐに向上するものではない。まぁ、今回の思考実験として、「未来の自分」からの言葉なら、ある程度効果は発揮されるかもしれない。
がしかし、そこで自信つけたとして、高嶺の花子さん的なのに果敢にアタックして撃沈を繰り返した場合、逆に自信を失ってしまう未来改変にならないか。
他者から何を言われようが、決めるのは自分だし、未来がどうなるかなど、分かりはしないのである。
いや、アドバイスやコメントやら、他者からの働きかけはとても感謝である。その次元においては。しかし、明確に未来を見通すことなどできないのだから、「影響の一つ」でしかないことは仕方がないのだ。
量子論でも、電子が観測されうる場所は確率なのだそうだ。速さと時間が求められたら位置(距離)がわかる世界ではないのだそうだ。
人間存在も、そういうものなのだろう。ここでいう人間存在とは、思考のこと。精神のこと。
僕が、頭と背中が痛い状況でこの記事を書き始めて、こうした記事が出来上がったことは、誰も知る由はなかったのだ。
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私も良く思いますねこれ。
「他人の不幸は蜜の味」とは言いますが、私は興味や関心の無い他人の話題は聞いても特に面白くもなんともないんですよね。
ニュースやワイドショーなどで有名人や政治家のプライベートや行動言動にあれこれ言ってる番組は特に鬱陶しく思っています。その手の話の方が視聴者の記憶や印象に残り易いし、興味も引き易かったり、批判したい人たちにとっては粗探しにもなるし、メディアとしては美味しいからしているんでしょうけれど、私はそこに面白味は見い出せませんね。
>イライラ
苛立っている時、睡眠不足や疲労が溜まっているなどで精神が安定していないと些細なことでもイライラしたり鬱陶しく感じたりするんですよね。
寝不足で仕事していると、同じ場所にいる他人の雑談が酷く耳障りというかうるさく感じたり鬱陶しく思えたりしますし、そういう時に興味や関心の無い誰かの話題がされていると余計にそういう思いが膨らみます。
この場合は、眠気や疲労感などに抗う形で集中したりするために、他に意識を割くだけの余裕や余力がなくなっているんだろうと思います。
万全な状態だと興味の無い話をされていても、イライラし難かったりしますし。
>未来の自分からのアドバイス
タイムパラドックス的な思考実験ですね。
未来を知って経験した自分が、それらを経験する前の自分に干渉したらどうなるのか。
何かしら未来の情報を話してしまった時点で、同じ未来に向かう可能性はなくなるような気もしますね。