今日の一言「24時45分ごろ帰宅」
けどルーチン更新はしなきゃなぁ、なんも思いつかないなぁ……なんてマイナス思考まっしぐらな状態でふと見てみると、なんとコメントを頂いていた! これは何と幸いなのだ! というわけで、コメント返信を本題とさせていただく。
ありますねー。プライベートでも(機会は殆どありませんが)あまり親しくない(知らない人)と付き合う場合などでも。もっといえば、お店の人相手とかでもあるかもしれない。
それは、おっしゃる通り、情報共有・情報交換が目的なので、それが達成できていない状況に気後れする、という現象なのだろうと思います。(もしくは、僕の場合は、「よく見られなければ」という強迫観念があることも気まずさの原因かもしれません)
逆に、ある程度関係構築できている相手とかだと、敢えて会話に参加しなくていいかなーなんて思えて楽というのはありますね。楽……なのがいいのか、というのは分かりませんが、少なくてもストレスは少ない状態でいられます。
あ、そうだったのですね。
私は、昔は……というか、今もその傾向があるといえばありますが、完全に分ける派でした。分ける派、というよりも、敢えて「リアルな面」に目を向けようとしていなかったというか。
アニメの声優さんとか、映画の俳優さんとか、全然知らなかった。素人も思わなかった。映画の俳優さんは、その演じるキャラクターそのものであって、俳優という職業のイチ人間であるとは思えなかった。
最近は、同じ作者や監督やらの作品は、どこか類似傾向があって面白い、という観点から興味をもつことはありますが、「だれだれが好き」というよりも、その作品が好き、という感覚が強いかなぁ。
触れていらっしゃるように、調べてみたら、自分は到底好きになれなそうな人だった、というのが判ったりすると、なんだか損した気分……というか、もったいないような気分になってしまうからかもしれません。
ああ、洋楽で気に入った曲があって、歌詞調べてみたら全然好みじゃなかった、とか、そういうケースと似ているかもしれません(笑)。
まえがき
疲れたー、遅い、もうやだー、明日も面倒なことが待っている、ゲームもできないつまんねー、けどルーチン更新はしなきゃなぁ、なんも思いつかないなぁ……なんてマイナス思考まっしぐらな状態でふと見てみると、なんとコメントを頂いていた! これは何と幸いなのだ! というわけで、コメント返信を本題とさせていただく。
雑談的なものについて
>仕事の関係で営業先で話をしている場合は、話題が途切れると気まずい思いをすることありますねー。プライベートでも(機会は殆どありませんが)あまり親しくない(知らない人)と付き合う場合などでも。もっといえば、お店の人相手とかでもあるかもしれない。
それは、おっしゃる通り、情報共有・情報交換が目的なので、それが達成できていない状況に気後れする、という現象なのだろうと思います。(もしくは、僕の場合は、「よく見られなければ」という強迫観念があることも気まずさの原因かもしれません)
逆に、ある程度関係構築できている相手とかだと、敢えて会話に参加しなくていいかなーなんて思えて楽というのはありますね。楽……なのがいいのか、というのは分かりませんが、少なくてもストレスは少ない状態でいられます。
創作者と作品について
>割と良く言われる話でもありますね。あ、そうだったのですね。
私は、昔は……というか、今もその傾向があるといえばありますが、完全に分ける派でした。分ける派、というよりも、敢えて「リアルな面」に目を向けようとしていなかったというか。
アニメの声優さんとか、映画の俳優さんとか、全然知らなかった。素人も思わなかった。映画の俳優さんは、その演じるキャラクターそのものであって、俳優という職業のイチ人間であるとは思えなかった。
最近は、同じ作者や監督やらの作品は、どこか類似傾向があって面白い、という観点から興味をもつことはありますが、「だれだれが好き」というよりも、その作品が好き、という感覚が強いかなぁ。
触れていらっしゃるように、調べてみたら、自分は到底好きになれなそうな人だった、というのが判ったりすると、なんだか損した気分……というか、もったいないような気分になってしまうからかもしれません。
ああ、洋楽で気に入った曲があって、歌詞調べてみたら全然好みじゃなかった、とか、そういうケースと似ているかもしれません(笑)。
>ただ、1つ思うのは、この手の話って逆のパターンをあまり耳にしたことないんですよね。「作品はつまらないけどその作者や周辺には好感が持てる」みたいな。
確かに! まったく聞かないですね。
まぁおっしゃるとおり、面白くない作品の作者を敢えて調べる、ということ自体しないからかもしれません。ある連続した作品(作者)を追っていて、最新作はつまらなかった、というケースがあったとしても、それは既に作者を知っている――面白かった時代があったからその作者を知っている、ということになるでしょうので。
あとは、友人同士で、作品が生じる前にその人となりを知っていて、そのあとにその人の作品を知って(読んで・見て)というケースはあるかもしれません。特殊な場合ですね。
2010年の世界線が収束するタイミングがあるのですか! どんな日なのか、どんな出来事なのか、気になります。
>逆に、今だからこそ得られている大切なものがある場合は、それを得られなくなる可能性も大きいであろう道が選べるかどうか……。
まさに、それが重要ですね。なかったことにしてはいけない――。
確かに! まったく聞かないですね。
まぁおっしゃるとおり、面白くない作品の作者を敢えて調べる、ということ自体しないからかもしれません。ある連続した作品(作者)を追っていて、最新作はつまらなかった、というケースがあったとしても、それは既に作者を知っている――面白かった時代があったからその作者を知っている、ということになるでしょうので。
あとは、友人同士で、作品が生じる前にその人となりを知っていて、そのあとにその人の作品を知って(読んで・見て)というケースはあるかもしれません。特殊な場合ですね。
タイムリープ
>世界線を変えられるとした時、大きな分岐点だと思うタイミング2010年の世界線が収束するタイミングがあるのですか! どんな日なのか、どんな出来事なのか、気になります。
>逆に、今だからこそ得られている大切なものがある場合は、それを得られなくなる可能性も大きいであろう道が選べるかどうか……。
まさに、それが重要ですね。なかったことにしてはいけない――。
あとがき
(かっこ書きである。眠気等により強制終了)PR
今日の一言「19時ぐらい帰宅」
記憶力のなさを言い訳にしても仕方がない。「考える」ということは、結局、知識がなければ行えないのである。
例えば、今日学んだこととして(時間があったので心の余裕もあった)、経済についてだ。
(以下、特に何も参照しないで書くので、誤ったことを書いている可能性は多分にある。単に考えたことの思考メモとして捉えて頂きたい)
物価と金利の関係について考えてみる。
物価が上がって、お金の価値が下がることをインフレーションという。
それは知識だ。
では、物価が上がると、お金の流通はどうなるのか。
物価=ものの値段が高くなるのだから、お金がたくさん必要になる。そういう意味では、お金の価値が上がった、ともいえるのではないか、と僕は思った。
ただし、100円で買えたものが、200円必要になったのだから、お金の価値は下がった、といえるのだ。
一方で、お金のニーズは高まることになる。
お金のニーズが高まるから、金利が上がる。
金利とは、お金を貸した側がプラスして返してもらえる権利である(僕の独自理解。あってるか分からない。ウィキると違うかもしれないが、混乱するから敢えてしない)。
お金の需要が高まった状態であれば、金利が上がっても、それでもお金が必要な人は借りる、という仕組みである。
しかし、それでもどうしようもなく金利が高くなりすぎると、「抑制」する行動をとるしかなくなるから、景気が抑えられるということだ。
GDPとは、国内総生産のことである。何を生産しているかというと、「財」と「サービス」だ。
要するに、僕らの世界には、財(モノ)とサービス(現象)しかないのだ。
その価値の指標に「お金」が使われる。ただし、お金とは、金融といったりして、キャッシュ(現金)には限られない。株式や債券やら保険やらに姿を変えて、現象(存在)しているのだ。
でもって、景気とは、その流通のことである。
言葉を換えれば、「運動量」である。電気でいえば、アンペアだ。いっぱい電子が流れていると、景気が良い状態。あんまり流れていないと、景気が悪い状態、というわけだ。
電気はともかく、「景気」という現象において、その流通(運動量)とは何か。
財・サービスの移動である。
例えば、サービスで思い浮かぶのは、マッサージ施術所に行ったとする。現金で3000円ほど支払う。そして、施術してもらう。現金と、施術(サービス)の移動である。
サービスの移動というのはいまいち自分の中でも消化できないが、AとBとの関係のことともいえる。
それがイメージしづらければ、現金だけでも動いたことになるから、「流通した」ということになる。
マッサージを24時間受けることはあり得ない。だから、流通にも限界がある。
しかし、1980年代からダウ平均株価は上がり続けている。
あと、昭和の時代は、そば一杯15円ぐらいだったようだ。不思議だ。
何が不思議かというと、今、蕎麦屋さんが、いっぱい15円で販売したら、1日もたずに潰れるだろうからだ。
そもそも、原材料仕入れからして無理である。
だから、日本全体の物価が低かったということになる。
ただし、蕎麦の作り方自体と、必要な原材料は、昭和初期と現代で、そこまで大幅に違うだろうか。多分違わない。
作る時間はどうか。多分違わない。
にもかかわらず、物価が上がっても、世界は成り立つようになっているのか。
つまり、景気とは――人の活動とは、――経済とは、運動量なのであって、何かしら動いていないと、崩壊するのである。絶滅するのだ。
絶え間なく動き続けることでのみ、人は社会を維持できるのである。
自給自足以外には、たとえ宗教ですら経済の循環からは逃れられない。托鉢して無償でお経を唱えることはあるかもしれないが、それは宗教という精神的支柱を維持するサービスなのである。
また、全員が金融商品に興味を持って、株式トレーダーになれば、産業が空洞化するのは間違いなかろう。
第一次産業(農業)、第二次産業(工業)がやっぱり大事なのである。とはいえ、それについては、機械化が進み、ロボット化が進み、AI化が進みで、「人」自体は不要になるかもしれない。ただ、当該産業に関わる機械やロボットや、その部品生産や、それらを管理するソフトウェアのプログラマーなどを無碍にはできないだろう。
もしくは、大帝国的に、先進国が後進国を支配する構図というのもあるかもしれない。プランテーション、モノカルチャー。ただ、グローバル社会において、そういうのは古い、ということになるだろう。それについては、悲観的には、人道主義などではなくて、単に需要を増やすという経済的な面に思われるが、異論はたくさんあるかもしれない。僕は歴史学者じゃないから分からない。
要は僕らは、消費し続けることが「正解」なのである。
絶え間なく作り、そして使って、その循環スピードを速く、早く、疾くしていくことが、経済として正解なのだ。
――ということと、「幸福」という概念は同義にはならないと思われる。
しかし、この経済と幸福に関する議論は、往々にしてかみ合わない。電気学と磁気学は交わっても、電力会社と水道会社はまじわらないのだ(意味不明な例)。
まえがき
学ぶことは、たくさんある、と思う。記憶力のなさを言い訳にしても仕方がない。「考える」ということは、結局、知識がなければ行えないのである。
例えば、今日学んだこととして(時間があったので心の余裕もあった)、経済についてだ。
(以下、特に何も参照しないで書くので、誤ったことを書いている可能性は多分にある。単に考えたことの思考メモとして捉えて頂きたい)
物価と金利の関係について考えてみる。
物価が上がって、お金の価値が下がることをインフレーションという。
それは知識だ。
では、物価が上がると、お金の流通はどうなるのか。
物価=ものの値段が高くなるのだから、お金がたくさん必要になる。そういう意味では、お金の価値が上がった、ともいえるのではないか、と僕は思った。
ただし、100円で買えたものが、200円必要になったのだから、お金の価値は下がった、といえるのだ。
一方で、お金のニーズは高まることになる。
お金のニーズが高まるから、金利が上がる。
金利とは、お金を貸した側がプラスして返してもらえる権利である(僕の独自理解。あってるか分からない。ウィキると違うかもしれないが、混乱するから敢えてしない)。
お金の需要が高まった状態であれば、金利が上がっても、それでもお金が必要な人は借りる、という仕組みである。
しかし、それでもどうしようもなく金利が高くなりすぎると、「抑制」する行動をとるしかなくなるから、景気が抑えられるということだ。
景気とは何か
GDPの前年比のことを、「経済成長率」という。GDPとは、国内総生産のことである。何を生産しているかというと、「財」と「サービス」だ。
要するに、僕らの世界には、財(モノ)とサービス(現象)しかないのだ。
その価値の指標に「お金」が使われる。ただし、お金とは、金融といったりして、キャッシュ(現金)には限られない。株式や債券やら保険やらに姿を変えて、現象(存在)しているのだ。
でもって、景気とは、その流通のことである。
言葉を換えれば、「運動量」である。電気でいえば、アンペアだ。いっぱい電子が流れていると、景気が良い状態。あんまり流れていないと、景気が悪い状態、というわけだ。
電気はともかく、「景気」という現象において、その流通(運動量)とは何か。
財・サービスの移動である。
例えば、サービスで思い浮かぶのは、マッサージ施術所に行ったとする。現金で3000円ほど支払う。そして、施術してもらう。現金と、施術(サービス)の移動である。
サービスの移動というのはいまいち自分の中でも消化できないが、AとBとの関係のことともいえる。
それがイメージしづらければ、現金だけでも動いたことになるから、「流通した」ということになる。
時間と景気との関係
時間という概念も、速度次第で歪む。といった相対性理論は置いておいて、1日は24時間である。マッサージを24時間受けることはあり得ない。だから、流通にも限界がある。
しかし、1980年代からダウ平均株価は上がり続けている。
あと、昭和の時代は、そば一杯15円ぐらいだったようだ。不思議だ。
何が不思議かというと、今、蕎麦屋さんが、いっぱい15円で販売したら、1日もたずに潰れるだろうからだ。
そもそも、原材料仕入れからして無理である。
だから、日本全体の物価が低かったということになる。
ただし、蕎麦の作り方自体と、必要な原材料は、昭和初期と現代で、そこまで大幅に違うだろうか。多分違わない。
作る時間はどうか。多分違わない。
にもかかわらず、物価が上がっても、世界は成り立つようになっているのか。
サービスについて
逆に、過去に比べて、家電なり、コンピュータなり、便利になっているはずなのに、何故人は未だに働き続けているのか。つまり、景気とは――人の活動とは、――経済とは、運動量なのであって、何かしら動いていないと、崩壊するのである。絶滅するのだ。
絶え間なく動き続けることでのみ、人は社会を維持できるのである。
自給自足以外には、たとえ宗教ですら経済の循環からは逃れられない。托鉢して無償でお経を唱えることはあるかもしれないが、それは宗教という精神的支柱を維持するサービスなのである。
また、全員が金融商品に興味を持って、株式トレーダーになれば、産業が空洞化するのは間違いなかろう。
第一次産業(農業)、第二次産業(工業)がやっぱり大事なのである。とはいえ、それについては、機械化が進み、ロボット化が進み、AI化が進みで、「人」自体は不要になるかもしれない。ただ、当該産業に関わる機械やロボットや、その部品生産や、それらを管理するソフトウェアのプログラマーなどを無碍にはできないだろう。
もしくは、大帝国的に、先進国が後進国を支配する構図というのもあるかもしれない。プランテーション、モノカルチャー。ただ、グローバル社会において、そういうのは古い、ということになるだろう。それについては、悲観的には、人道主義などではなくて、単に需要を増やすという経済的な面に思われるが、異論はたくさんあるかもしれない。僕は歴史学者じゃないから分からない。
需要と運動量
ということで、最初の話題に戻るが、僕は、経済とは――景気とは、「運動量」だと思う。さっきの植民地時代のような話に絡めれば、植民地の人たちにも、支配する側の国が作った物品などを買ってもらったりした方が、より景気がよくなる――物流が生まれる、ということになる。物流があったほうが、社会は豊かになるということだ。要は僕らは、消費し続けることが「正解」なのである。
絶え間なく作り、そして使って、その循環スピードを速く、早く、疾くしていくことが、経済として正解なのだ。
――ということと、「幸福」という概念は同義にはならないと思われる。
しかし、この経済と幸福に関する議論は、往々にしてかみ合わない。電気学と磁気学は交わっても、電力会社と水道会社はまじわらないのだ(意味不明な例)。
あとがき
(かっこ書きである。今日はここまで。とかってことを考えるためにも、知識が必要である。しかし、昭和25年(1950年)に、そば一杯が15円だったことを覚えても仕方がなかろう。であれば、どういった知識が必要なのか。国民年金の受給できる年齢が65歳で、満額だと年間78万円ぐらいもらえることを覚えておいたほうが役に立つのか。ちなみに、65歳の誕生日の属する月の翌月から受給権が生じて、支給自体は偶数月の15日(2か月おき)にされるようだ。へー。78万円って、月にすると、6万5千円。さすがに、暮らすのは困難そうである。――とかって記憶があっても、意味がない――わけではなかろう。少なくても、未来について、何も分からないわけではなくなる、ということだ。まそもそも、パンデミックやシンギュラリティによって誰も想像だにしないことが起こっているかもしれない。果たして、2回の世界大戦前の人々は、戦争が起きることを予想していたのか。明治維新後の富国強兵や教育や保険・保健に力を入れたのは、国力増強のためなのだろうが、他国を「やっつける」ことが、生き残るために必要だと思われていたからだ。いまや、某国家だろうと、戦争が絶対に必要だ、とは言わない時代になった。ここら辺の話は、『暴力の人類史』あたりをもう一回読んだ方がいいかもしれない。暴力は減ってきているそうだ。その理由は、――なんだっけ、割に合わないから、かな。なんかブログ記事にまとめた気もするが、忘れている。――そう、そういった知識を、ちゃんと記憶しておいた方がいい気がする。ただ、「暴力は減ってきていまーす!」といったことだけ覚えていても、「エビデンスだせ」といわれて終わる。俺は研究者じゃないからそんなもん出せるか! となる。せいぜい出典を挙げるぐらいだ、悔しい、びくんびくん、となる。いやそもそも、誰かと議論をしたいのではない。だからいつも戻りに戻って、結局、大事なのは、このブログのタイトルと思うのである)
今日の一言「23時45分ごろ帰宅」
しかし、原因が、分からない。特定の仕事があって、それがものすごく面倒で、上手くいくかも分からなくて……というケースは往々にしてあるが、今回は、そういうわけではない。特定の何かが原因ではない、気がする。思い出そうとしても、その原因が不明である。
ただ、「上手くいってる感」がないといえばそうだ。
進捗が見えない、気がする。
進捗も何も、「大目標」がいよいよもって見えなくなってきた。
そういう不安もある。
対岸の火事――というのは、他人事のような状況をあらわすのだろうが、そういった、対岸の火事が気になるというのはある。直接わが身に降りかからなくても、いつ火の粉が飛んでくるかわからない、そういう状況は、アンコントローラブルで、より不安要素を高まらせる。
といったように、抽象的に表現することは、僕はできるが、「事実」を積み重ねていくレポートは苦手だ。
かといって、具体的に書くわけにもいかない。
2019年11月22日に頂いたコメントである。
その未来からの情報を知った瞬間に世界線が変わる……とか!
リーディングシュタイナー欲しいな。
逆に思った、今、この瞬間、未来の自分からの声に耳を傾けてはどうか。
いつも、僕は未来に向かって記事を書いているわけだが、逆に、傾聴してはどうか。未来から僕に、何か語り掛けてきているのではないか、今この瞬間にも!
まえがき
なんだか、イライラしているときは、とにかく、何か書きたくなる。一昨日くらいからか、おそらく、仕事が原因なのだろうが、落ち着かず、イライラしている。それは、休日だから払拭されるとか、そういう問題でもなくて、ずっと続くのだ。しかし、原因が、分からない。特定の仕事があって、それがものすごく面倒で、上手くいくかも分からなくて……というケースは往々にしてあるが、今回は、そういうわけではない。特定の何かが原因ではない、気がする。思い出そうとしても、その原因が不明である。
ただ、「上手くいってる感」がないといえばそうだ。
進捗が見えない、気がする。
進捗も何も、「大目標」がいよいよもって見えなくなってきた。
そういう不安もある。
対岸の火事――というのは、他人事のような状況をあらわすのだろうが、そういった、対岸の火事が気になるというのはある。直接わが身に降りかからなくても、いつ火の粉が飛んでくるかわからない、そういう状況は、アンコントローラブルで、より不安要素を高まらせる。
といったように、抽象的に表現することは、僕はできるが、「事実」を積み重ねていくレポートは苦手だ。
かといって、具体的に書くわけにもいかない。
本題(コメ返)について
っだから、なにかこう、現実世界のことを書いてもイライラはきっと収まらないから、もっと大事なことを書こう。コメント返信第二弾。2019年11月22日に頂いたコメントである。
>――そうした話題がものすごくどうでもいい私も良く思いますねこれ。「他人の不幸は蜜の味」とは言いますが、私は興味や関心の無い他人の話題は聞いても特に面白くもなんともないんですよね。ニュースやワイドショーなどで有名人や政治家のプライベートや行動言動にあれこれ言ってる番組は特に鬱陶しく思っています。その手の話の方が視聴者の記憶や印象に残り易いし、興味も引き易かったり、批判したい人たちにとっては粗探しにもなるし、メディアとしては美味しいからしているんでしょうけれど、私はそこに面白味は見い出せませんね。
そうなんですよね。
あーだこーだ喋るのも、悪いとは言いませんが、「何かを決める」「何かをする」「何かを作る」という目的がなくて、単に時間を使いたいだけとか、誰かに押し付けたいだけ、といった目的が透けているとほんと無意味に思います。
いや、そのせーじ、ってのが、「相手に押し付けること」なのかもしれませんが。パワーバランス。調整。妥協。論破。私はなかなか興味が持てないジャンルです。
って、話題がズレてますね。もとの話題って、その、他者との雑談云々についての興味だったと思います。
他者の生活などを気にする余裕がないだけなのかもしれませんが、やっぱり、あんまり興味もてないですね。ただ、話題が何もないと気まずさが発生するケースがあるので、できるだけメモ(その場では取れませんが)を残しておいて、再び相手に会うときは、その前に情報をチェックしたりしています。――あーその、新規の環境における、親しくないけれども頻繁に会わなければならない人用の場合の対処方法です(かっこ笑い)。ほんっとに、無関係の人のほうが楽なのですが、そういう人ばかりではないので。んで、ある程度親しくなってくると、そういう「努力」もやらんくなり、まぁ、関係性の維持ってのがあんまりできなかったりするコミュ障害な私です(かっこ笑い)。
また話がずれましたか。いやまぁ、なので、ワイドショー的なのは全然興味もてないですね。好きなアーティストの方が薬物関係で逮捕されたニュースはショッキングでしたが、ああ、そうなんだーぐらいな感じだったかもしれません。
某氏が、某所で、「俺はたとえ強姦殺人をおかしたクソ野郎の書いた小説だろうと、面白い限りは評価するつもりであるし、そのような自分を恥じる気が一切ない。面白さだけが正義だ。」と仰られていたが、――いやまぁ、完全にその作者自身について気にならないかと言われたら、僕は少し言いよどむ気がするが、その理念自体は甚く共感する。
あーだこーだ喋るのも、悪いとは言いませんが、「何かを決める」「何かをする」「何かを作る」という目的がなくて、単に時間を使いたいだけとか、誰かに押し付けたいだけ、といった目的が透けているとほんと無意味に思います。
いや、そのせーじ、ってのが、「相手に押し付けること」なのかもしれませんが。パワーバランス。調整。妥協。論破。私はなかなか興味が持てないジャンルです。
って、話題がズレてますね。もとの話題って、その、他者との雑談云々についての興味だったと思います。
他者の生活などを気にする余裕がないだけなのかもしれませんが、やっぱり、あんまり興味もてないですね。ただ、話題が何もないと気まずさが発生するケースがあるので、できるだけメモ(その場では取れませんが)を残しておいて、再び相手に会うときは、その前に情報をチェックしたりしています。――あーその、新規の環境における、親しくないけれども頻繁に会わなければならない人用の場合の対処方法です(かっこ笑い)。ほんっとに、無関係の人のほうが楽なのですが、そういう人ばかりではないので。んで、ある程度親しくなってくると、そういう「努力」もやらんくなり、まぁ、関係性の維持ってのがあんまりできなかったりするコミュ障害な私です(かっこ笑い)。
また話がずれましたか。いやまぁ、なので、ワイドショー的なのは全然興味もてないですね。好きなアーティストの方が薬物関係で逮捕されたニュースはショッキングでしたが、ああ、そうなんだーぐらいな感じだったかもしれません。
某氏が、某所で、「俺はたとえ強姦殺人をおかしたクソ野郎の書いた小説だろうと、面白い限りは評価するつもりであるし、そのような自分を恥じる気が一切ない。面白さだけが正義だ。」と仰られていたが、――いやまぁ、完全にその作者自身について気にならないかと言われたら、僕は少し言いよどむ気がするが、その理念自体は甚く共感する。
>イライラ
苛立っている時、睡眠不足や疲労が溜まっているなどで精神が安定していないと些細なことでもイライラしたり鬱陶しく感じたりするんですよね。寝不足で仕事していると、同じ場所にいる他人の雑談が酷く耳障りというかうるさく感じたり鬱陶しく思えたりしますし、そういう時に興味や関心の無い誰かの話題がされていると余計にそういう思いが膨らみます。この場合は、眠気や疲労感などに抗う形で集中したりするために、他に意識を割くだけの余裕や余力がなくなっているんだろうと思います。万全な状態だと興味の無い話をされていても、イライラし難かったりしますし。
なーるーほーどー。
これはもうその通りですね。よし、この記事書き終えたらちゃんと風呂入ってすぐ寝よう。
これはもうその通りですね。よし、この記事書き終えたらちゃんと風呂入ってすぐ寝よう。
>未来の自分からのアドバイス
タイムパラドックス的な思考実験ですね。未来を知って経験した自分が、それらを経験する前の自分に干渉したらどうなるのか。何かしら未来の情報を話してしまった時点で、同じ未来に向かう可能性はなくなるような気もしますね。
その未来からの情報を知った瞬間に世界線が変わる……とか!
リーディングシュタイナー欲しいな。
逆に思った、今、この瞬間、未来の自分からの声に耳を傾けてはどうか。
いつも、僕は未来に向かって記事を書いているわけだが、逆に、傾聴してはどうか。未来から僕に、何か語り掛けてきているのではないか、今この瞬間にも!
あとがき
(かっこ書きである。――などと、電波なことを書いているぐらいに疲れていることが、未来の自分には伝わるだろうか。ちなみに、「電波なこと」というのは、何故電波なのだろうか。ウィキってみると、なんかその、霊的な、とか、狐憑き、的なのの、現代(近代?)版らしい。へー。外的な要因で何か自分の意図と反して操られている、的な意味に思われる。話を戻して、未来の自分、何かいってるか? ――あーうーん? なになに、もっと勉強しておけばよかった? もっと遊んでおけばよかった? うーん、そんなこと言うだろうか? ――未来の自分、って言ったときに思い浮かぶのは、10年後の自分とかだろう。そりゃ浮かぶはずがない。もっと身近な自分から試してはどうだろう。1か月後の自分、ならどうか? たぶん、見た目も、記憶も、そんなに変わっていない気がする。今少し仕事とは別に(半ば趣味的に)勉強していることがあるが、それについては知識取得が進んでいる気がする。それぐらいか)
今日の一言「スマホからなど違う環境でも書けるようになった方がよい」
明日は、せめて、8時ぐらいには目覚めて、何か有意義なことをしたいものだ。
完璧な行動を相手に求めるということを、仕事を教えるということであるならば、それはもうプログラミング、ロボットの方が適しているということになると思います。RPAという、パソコンでのルーティン操作を自動化してくれるソフトウェアも広がりを見せているようです。
判断をする、というのは、確かに人間の最も人間たる能力であるように思えますが、僕はそれには懐疑的な面があります。受動意識仮設とか。無意識が意識に与える影響といったフロイト氏の話ではなくて、物理的接触が多いほうが親密になるとか、そういった人間の機械的(物理的)な面の話に惹かれるものがあります。
かといって僕は、人の情緒的な面を捨てきれない、というか逆に求めている面があります。
要するに、人間という存在については冷酷であると思いながら、人間の理想というものは信じているという、相反する心情というわけです。
仕事の話に戻せば、「考えてやれ」というのは、もう少し分解できる言葉に思えます。
あ、その前に、仕事の場合、「答え」がある場合と、ない場合があり、果たしてその上司同僚たる人が、「考えてやれ」と言って指示したのは、まずどちらかを考える必要があります(――という、考える前に考える必要があることを、実は教えてくれる人は少ない)。
答えがある場合は、その答えにたどり着くための方法を「調べろ」という意味に分解できます。答えがあるのだから、「答え」を考える必要はないのです。答えにたどり着けばいいのです、それが求められていることなのです。でなければ、答えを教えてくれたらいいのに、あえて教えない理由がありません。
答えがない場合――もしくはその指示した人自身が持ち合わせていない場合も往々にしてあります――は、答え自体を作ってほしいということです。もしくは、答えにする(要するにこれが判断するということ)ための材料を集めてほしいということです。
ロボットの話につなげると、答えがあることについては、さっさとプログラミングするかRPAに教え込ませて、自動化したほうが、引継ぎで面倒なことになるとかそういったことも防げて、どんどん人がいらなくなって効率化するでしょう。
まえがき
最近、休日、よく寝てしまう。何時間も。たまに目が覚めてトイレに行ったりするが、戻ってきたらまた寝てしまったりする。目を覚めさせようと、漫画を読んだりする。しばらく読んでいて、そしてまた眠くなって寝たりする。勉強のための本(テキスト・参考書)を読んだりする。眠くなって寝る、そんな繰り返しで、もう日は暮れている、というのが続いている気がする。明日は、せめて、8時ぐらいには目覚めて、何か有意義なことをしたいものだ。
コメント返信
忖度も気遣いも同じようなことで
相手がこう思っているだろうな、という推測の元の行動であり(というか忖度というのはパワーバランスが一方に傾いていて、弱い立場にいる人がすること)、本当かどうかは動いてみないとわからないことでもある。
人の本質・性質の6要素たる、強者は弱者に配慮する、と関連する内容に思いました。そして仕事でも同じ。新しい仕事を始めた時は「~しといて」といわれても、と、わからないことだらけであり間違っていたり、失敗したら困るのであんまり動けない人が多いと思います。(てか、僕もそうです)だから僕は仕事に関して「考えてやれ」というのはある部分では宜しくない言動だと思います。というのも仕事に関する情報が少ない場合であれば考えて行動するための元がないということになりますからね。ただ、ある程度、慣れている人に関しては考えてやって欲しいという希望や期待というものが生まれるということに関しては否定しないですが。だから、本来(希望か期待か)はできる人ができない人に対する理解を示すという行動、思考が必要なのだと思います。それと最後にあとがきに対しての返信ですがある次元においては生きる意味のないことは分かっていると仰っていました。それを見る前は次の結論部分を書き込むことを躊躇っていたのですが書き込んでもいいかなと思えました。次の内容としては「葛藤」についてですかね。
完璧な行動を相手に求めるということを、仕事を教えるということであるならば、それはもうプログラミング、ロボットの方が適しているということになると思います。RPAという、パソコンでのルーティン操作を自動化してくれるソフトウェアも広がりを見せているようです。
判断をする、というのは、確かに人間の最も人間たる能力であるように思えますが、僕はそれには懐疑的な面があります。受動意識仮設とか。無意識が意識に与える影響といったフロイト氏の話ではなくて、物理的接触が多いほうが親密になるとか、そういった人間の機械的(物理的)な面の話に惹かれるものがあります。
かといって僕は、人の情緒的な面を捨てきれない、というか逆に求めている面があります。
要するに、人間という存在については冷酷であると思いながら、人間の理想というものは信じているという、相反する心情というわけです。
仕事の話に戻せば、「考えてやれ」というのは、もう少し分解できる言葉に思えます。
あ、その前に、仕事の場合、「答え」がある場合と、ない場合があり、果たしてその上司同僚たる人が、「考えてやれ」と言って指示したのは、まずどちらかを考える必要があります(――という、考える前に考える必要があることを、実は教えてくれる人は少ない)。
答えがある場合は、その答えにたどり着くための方法を「調べろ」という意味に分解できます。答えがあるのだから、「答え」を考える必要はないのです。答えにたどり着けばいいのです、それが求められていることなのです。でなければ、答えを教えてくれたらいいのに、あえて教えない理由がありません。
答えがない場合――もしくはその指示した人自身が持ち合わせていない場合も往々にしてあります――は、答え自体を作ってほしいということです。もしくは、答えにする(要するにこれが判断するということ)ための材料を集めてほしいということです。
ロボットの話につなげると、答えがあることについては、さっさとプログラミングするかRPAに教え込ませて、自動化したほうが、引継ぎで面倒なことになるとかそういったことも防げて、どんどん人がいらなくなって効率化するでしょう。
あとがき
(かっこ書きである。時間切れのため強制終了。「葛藤」ということについて、次回書きたい)
今日の一言「21時ぐらい帰宅」
早く帰ってきたが、今日は少し遠いところで外食したがゆえに、疲れたというのもある。
本気で眠い。
そうだな、仕事して遅いのと、飲み会で遅いのと、どこか寄り道(買い物)して遅いのとでは、疲れが全然違うな。実は仕事のほうが刺激が少ない(運動量が少ない)から疲れないのかもしれない。
どちらも、景気動向を知るための統計情報だ。
消費者物価指数は、総務省が毎月発表している。
企業物価指数は、日銀が毎月発表している。
毎月、ということで、見てみると、消費者物価指数については、前年同時期に比べて、0.8%増ということだ。
企業物価指数については、前年同時期に比べて、1.7%増ということだ。
ふーーーん!!!(棒読みッ)
あんまり、数字に強くないんだよなぁ、俺。
もう少し、数的に何か、ほら、新聞とか読んで、「ふむふむ、なるほど景気が回復傾向だな」とか言ってみたいじゃん! そういうの、分からないんだなぁ。
例えば、今、記憶している数値としては、生活保護世帯が、200万ぐらい。日本の人口は1億2千万。世界は80億に近づこうとしている。交通事故死者数は一時期3万人ぐらいだったのが、今は1万人を割っているはずだ。自殺者数は、3万人を超えていたのが、最近は2万人代になっている気がする。
→答え合わせ
世界人口:75憶人(大体あってた)
日本人口:1億2千600万
生活保護世帯数:160万(結構ずれてた。多いときは200万ぐらいだったみたい。人は現在200万人ぐらいで近かった)
交通事故死者数:3000人だった。全然違った。最高時期も17千人ぐらいだった。
自殺者数:一時期3万5千人だったのが、今は2万人を切っているぐらい。これは大体あってた。
交通事故死者数が大きくズレていた。へー、3000人ぐらいに減ったんだね。1970年あたりがピークだったとのことだが、50年ぐらいで、これは大きな成果だと思う。
交通環境(道路など)の整備。車の性能アップ。人の意識(マナー)向上。医療技術の進歩。医療提供体制の向上(ドクターヘリとか)。
いろいろな原因があるのだろうが、単純にいいことだと思われる。
それでも、悪い面に目を向ければ、飲酒運転はいまだにする奴らがいるし、池袋の暴走事故とか、痛ましい事故も起きている。よく考えれば、年間3000人だって、月で割ると、250人ぐらいになる。日で割ると、毎日8人ぐらいが、交通事故で死んでいるのだ。24時間で8人である。時間で割ると、さすがに小数点になるが、6時間ごとに1人死んでいるということだ。
6時間で1人死ぬとなると、さすがにまだまだ安全じゃないんだな、という気になってくる。
しかし、どうか。そうすると気になってくるのが、出生数と死亡者数だ。
出生数は86万人、死亡者は137万とのこと。
1日3000人以上死んでいるのである。これは割と昔も「えええ!」と思ったことがあったが、実態なのである。
ということは、交通事故で、毎日10人近く死ぬことがえええ、と思いながら、交通事故で死ぬ人は、全体の死亡者数でみると、事故死者年間がたった1日で達成されてしまうのである。
まえがき
眠いんだな、これが。早く帰ってきたが、今日は少し遠いところで外食したがゆえに、疲れたというのもある。
本気で眠い。
そうだな、仕事して遅いのと、飲み会で遅いのと、どこか寄り道(買い物)して遅いのとでは、疲れが全然違うな。実は仕事のほうが刺激が少ない(運動量が少ない)から疲れないのかもしれない。
本題
書くことがないぞ。消費者物価指数と企業物価指数について書こう。どちらも、景気動向を知るための統計情報だ。
消費者物価指数は、総務省が毎月発表している。
企業物価指数は、日銀が毎月発表している。
毎月、ということで、見てみると、消費者物価指数については、前年同時期に比べて、0.8%増ということだ。
企業物価指数については、前年同時期に比べて、1.7%増ということだ。
ふーーーん!!!(棒読みッ)
あんまり、数字に強くないんだよなぁ、俺。
もう少し、数的に何か、ほら、新聞とか読んで、「ふむふむ、なるほど景気が回復傾向だな」とか言ってみたいじゃん! そういうの、分からないんだなぁ。
例えば、今、記憶している数値としては、生活保護世帯が、200万ぐらい。日本の人口は1億2千万。世界は80億に近づこうとしている。交通事故死者数は一時期3万人ぐらいだったのが、今は1万人を割っているはずだ。自殺者数は、3万人を超えていたのが、最近は2万人代になっている気がする。
→答え合わせ
世界人口:75憶人(大体あってた)
日本人口:1億2千600万
生活保護世帯数:160万(結構ずれてた。多いときは200万ぐらいだったみたい。人は現在200万人ぐらいで近かった)
交通事故死者数:3000人だった。全然違った。最高時期も17千人ぐらいだった。
自殺者数:一時期3万5千人だったのが、今は2万人を切っているぐらい。これは大体あってた。
交通事故死者数が大きくズレていた。へー、3000人ぐらいに減ったんだね。1970年あたりがピークだったとのことだが、50年ぐらいで、これは大きな成果だと思う。
交通環境(道路など)の整備。車の性能アップ。人の意識(マナー)向上。医療技術の進歩。医療提供体制の向上(ドクターヘリとか)。
いろいろな原因があるのだろうが、単純にいいことだと思われる。
それでも、悪い面に目を向ければ、飲酒運転はいまだにする奴らがいるし、池袋の暴走事故とか、痛ましい事故も起きている。よく考えれば、年間3000人だって、月で割ると、250人ぐらいになる。日で割ると、毎日8人ぐらいが、交通事故で死んでいるのだ。24時間で8人である。時間で割ると、さすがに小数点になるが、6時間ごとに1人死んでいるということだ。
6時間で1人死ぬとなると、さすがにまだまだ安全じゃないんだな、という気になってくる。
しかし、どうか。そうすると気になってくるのが、出生数と死亡者数だ。
出生数は86万人、死亡者は137万とのこと。
1日3000人以上死んでいるのである。これは割と昔も「えええ!」と思ったことがあったが、実態なのである。
ということは、交通事故で、毎日10人近く死ぬことがえええ、と思いながら、交通事故で死ぬ人は、全体の死亡者数でみると、事故死者年間がたった1日で達成されてしまうのである。
