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好きな人について(加古歩さんへ返信)
2020/01/18 21:24 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「昨日は、免除だったのか」「帰るなり寝てしまった」

まえがき

 22時ぐらいの帰宅だった気がしたが、疲れが半端ない状態であり、寝てしまっていた。電気もエアコンも付けっぱなしだった。寝るつもりはなかった。
 パソコンの前に座ることができる、というのが更新条件の一つだから、まぁ、免除ということでよいだろうと思う。

返信について続けよう

引用

>で、好きな人となったときに大きく分けると3タイプあるのですね。まず、その一つめから話すとしてそれがどういったものかというと「ドキドキする」といったものですね。そんでね、これに関してなかなか言っていることは正しいなと思える内容が書かれていた本があってその内容とは恋愛というものは自分の穴を埋めることだというものなんですね。
 恋愛とは、自分の穴を埋めること。
 ふーむ、自分の穴とは、何か。なんだか、概念としては分かる気がするが、いざ自分に当てはめようと思うと、よく分からない。
>でね、それだけじゃあ、よくわからないと思うので僕の過去の好きになった人の例を出して説明したいと思います。

 ありがたい。(この、読者への配慮能力の高さがコメ主の頭の良さを感じさせる)
>で、僕は高校生、大学に入りたてくらいのころは可愛い、美人な人が好きでした。というのも僕は当時、顔にコンプレックスがあってイケメンな人を見たりすると「かっこよかったら幸せだったのに」(といった思考停止もあります)と思っていました。

 私は今でも「かっこよかったら人生イージーモードだったのに」といった思考停止は割と生じます(かっこ笑い――の中に真剣な目つき)。
>そしてとあることで僕の顔に対するコンプレックスは消え次に好きになった人は真面目で普通な人でした。―中略―僕はぐちゃぐちゃな生活をしてきて普通、真面目ということに羨ましさを感じていたときだったんですね。
 なるほど……。自分に足りないものを他者に求めるというか、それを羨ましいと感じることは自然に思えます。それが恋愛の一つのきっかけということなのか、という話の流れを予測しつつ次を読んでいきます。
>恋愛とは自分の穴を埋める行為だというのはそのときにコンプレックスに思っていること(コンプレックスというものはある意味、~だったら良かったのに、でも僕は~だ、といった、ある意味、自分の幸、不幸の源泉というかなんというか)を埋める目的があるということなんだと思います。で、あることにコンプレックスがあってそれを思い起こす女性と接するとそのコンプレックスを思い起こしそこを承認されるか、どうか不安でドキドキするってことなのかな?と思っています。

 なる……ほど。まず、そもそもコンプレックスとは、「〇〇だったら良かったのに(でも自分は違う)」と自分が感じること。それについて「〇〇である」人に出会ったとき、自分との差異が認められるか心配になるのが「ドキドキ」であると。
 ここで、疑問というか思ったこととしては、「女性」であるかが関係なく、同性であっても発生する可能性がある理論な気がします。先般他の方からコメント頂いた際の、「嫉妬」に関連するものなのかもしれないと思いました。
>(恋愛のどきどきについては、二つ目の理由が性欲であり、)三つ目はこれは男友達とも被る部分がありますが「信仰」です。まあ、「目的」と言い換えてもいいでしょう。というのも自分にとってこれが正しい、これで良いと思うものが共通しているとき人と人は繋がります。その繋がりの中でできた人間関係というものが友人であると思うんです。

 恋愛の話から「信仰」に繋がる流れにやや頭がおいていかれてしまったものの、当初の話の、「好きな人」ということに戻って思い返すと、確かに関係するのかなと思いました。

>で、友人がどういう関係で変わるのかと書きましたが、それは過去に繋がりのあった人か、現に繋がっている人か、その繋がりの形の違いがあるのだと思います。それと同様に女性に関しても同じ目的を持つ人は協力するために繋がります。ある意味これは一つ目の穴を埋めるというよりは一緒に協力して目的を達成するための仲間といった感じかなーと思います。

 目的、良いと思うことの一致――それが起こる関係が、「好きな人」という関係。価値観の一致という表現も可能でしょうか。
 

コメント全般について

 性欲、というものは、何か特別な、時にイヤらしい感情のように取り扱われるが、喜怒哀楽といった様々な感情の中の一つに思われる。心は、仏教の説一有部という宗派の、心心所相応説では、46個か、75個に分けて考えられるという。その中に性欲が含まれているかは分からないが、人間の心の働きはとにかく複雑怪奇であることは誰しも認めるところであろう。

 そこに、「好き」というラベルを貼るわけであるが、逆に、大きく、できるだけ抽象的に心の分類をするのであれば、「好き」か「嫌い」か、の2分になると思われる。
 脳科学的には、情動をつかさどる扁桃体が、入ってきた情報について、好きか嫌いのラベリングをする。心理学(?)的には、視線のカスケード現象(長く見ていたほうを好きと判断する)が起こる。

あとがき

(かっこ書きである。と、思った。という返信であった。実は、コメントの返信は難しい気がした。しかしこれは、「コメントの返信」が難しいのではない。コミュニケーションそのものの難しさであるといえる。要は情報伝達なのであるが、サバイバル環境下において大切なこととは何か? 敵が来た! 猛獣が近づいてきている! といった情報を伝えることは重要だ。だが、それは、複雑な言語表現を必要としないだろう。僕らが、日常生活でも、仕事でもいいが、伝えるべき情報とは何なのか。知的好奇心を満たしてくれる人が「好き」となるのだろうか。僕らは、何を伝えればいいのか。小説家が伝えるのは、「感動」だ。僕らのこの経済的営みにおいて、本当に必要なことは何なのか。環境保全家は、持続的な地球資源の活用を求めているのか。地球そのものは重要なのか。地球そのものが重要ならば、人間は絶滅した方がいいのか。違う、人の命こそ何よりも尊いのだ、であれば、家畜のように、ディストピア状態(管理された社会)でも構わないのか。違う、自由こそ、人類が血なまぐさい歴史の中で叡智を振り絞って手に入れたスキームだ。自由な活動と、環境保全、弱者の保護、「大人の社会は難しい」と言われる所以は、要するに「複雑」であるからだ。問題は複雑。その複雑な問題をシンプルに説明してくれる人を、「好き」と思うのかもしれない。しかしそれは、「思考する」という人間の大切な営みを鈍化させることになりかねない。最短ルートの生き方は資産を増やすのには適切だろうが、果たしてそれは楽しいのか、感動するのか、僕は少々懐疑する。都心の1億円のタワーマンションに住めたら確かに幸せかもしれない、しかし、郊外の1500万ぐらいの一戸建てでも幸せかもしれない。狭くても通勤時間が短くなれば幸せかもしれない。よく分からないが、「時間」は、人生から減っていっていることだけは事実に思う)

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コメント返信は一時中断して
2020/01/17 00:33 | Comments(1) | 創作について
今日の一言「22時ぐらい帰宅」

まえがき

 早く帰ってきたのに、寝落ちしてしまった。寒くて起床したのが23時半ぐらいで、あわててルーチンをやりだす。ちなみに、昨日は免除規定のため更新はお休みであることを事後説明。

プロットポイントについて

 今日はコメント返信を一時休止とし、別のことを記述する。

話題

前半と後半で物語の役割が違う、その転換点ゆえに他とは違う名称が使われているとすると、プロットポイント1と2も性質が真逆に違うと思うわけですな。1では状況が悪化し、2では改善している。しかし名称は同じ。解せぬ……


 面白いストーリー(物語)とは、4部構成であり、起承転結であり、主人公が孤児、放浪者、戦士、殉教者と変遷していくものである、と言われる。
 その4部構成のうち、それぞれの間に、転換点があり、それを「プロットポイント1」「ミッドポイント」「プロットポイント2」という。
――工学的ストーリー創作入門

起(プロットポイント1)承(ミッドポイント)転(プロットポイント2)結

 これについて、
「PP1と、PP2は全く性質が違うのに、同じ名称なのは何故か?」
 と、
「プロットポイントとミッドポイントと名称を分けているのは何故か?」
 という疑義がある、というわけである。

 何故だろう?? 深く考えると、分からない。鋭い指摘な気がする。


 ただ、上掲書の冒頭あたりで記述あるとおり、これらのテクニックや論は、上掲書が初出というわけでなく、元々ある技術論を小説に特化してまとめられたものだとされる。
 ぐぐってみると、「三幕構成」ということで、プロットポイント(ターニングポイント)については既に用いられている言葉のようである。
――wiki「三幕構成

三幕構成はシド・フィールドによって発明されたものではなく、映画に共通して見られる基礎である

あとがき

(かっこ書きである。――ので、そんなに名称に深い意味はないのでは、という気が個人的には、する。ちなみに、時間が別途あればしっかり考えてみたいが、手放しで僕がオススメする「夜天を引き裂く」であるが、それを初読の際にはPPとか全く知らなかったが、大きく言えばその原則にあてはまる気がするのである。アンゲロスと遭遇して重傷を負うあたりがPP1か、界斑氏とのバトルの後、黒澱さんの悪魔の世代が判明し決戦に向かっていく――ミッドポイントが二つあるパターンかもしれないが、とにかく神がかった飽きさせない構成だった記憶がある)

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加古歩さんへ(好きな人について)
2020/01/15 00:40 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「23:56帰宅」

まえがき

 昨夜……なんだか眠れなくて……というか、眠りたくなくて、気づいたら4時44分だった。朝の。そこから、2時間ぐらい寝て、出社。そして今に至る。
 割と忙しかったので、途中何度か眠りオチしそうだったが、耐えられた。

 意外と大丈夫なもんだな、と率直な感想。まぁ、4時過ぎまで起きていたのは完全に自業自得であるのであるが。

コメント返信(10月30日)

リンク

引用①

それでは好きな人について書いていきますが「好き」って、曖昧で色んな意味や感覚を含んでいますよね。でね、自分を例にして考えていくと僕はね、だいたいの人が好きです。じゃあ、そのだいたいの人が「好き」というのはどういうものか考えていきたいと思います。まず、仕事で会う人から考えていくと僕は、仕事が速い人が好きです。というのも僕は仕事は速く終わらせて帰りたいといった「目的」があります。でね、その目的に合った人はだいたい好きです。そして、そのような人はコミュニケーションをとって、協力するし早く帰ろう、といって仕事をします。ただ、その目的に沿っていない人が嫌いかというとそういうわけでもなく、仕事が遅い人は仕方ないとある意味、諦めている部分もありますが仕事中に冗談をいったり、雑談をしながら作業をして、気を紛らわすといったこともできますし、その部分に関してはある意味、協力できているといってもいいかもしれません。で、僕は基本的に一緒の仕事していなくても他の人でなにか仕事の接点がある人というのはコミュニケーションもとるしできることはする、といったスタンスをとっています。というのもそういう状況をつくっておくと楽に仕事ができるんですよね。


 あー、よく分かる。その、「だいたいの人が好き」という感覚、よく分かる。
 氏が後述されているところだが、「嫌いな人もいない」というのがまさに言い当てていると思う。ので、特に、コメントすることがない。

 人を憎む、というのも、労力が必要なことである。嫌いになるというのも体力を使う。

コメント返信難しい

 よくわかる、といった感想になってしまい、書くことが見当たらない(眠気がだいぶ高まっているというのも原因の一つだが)ので、コメントをさらに引用してみる。

引用②
で、だいたいの人が好きといったのはそういうことでほとんど、嫌いな人はいません。嫌いな人といったら向こうから先に攻撃を仕掛けてきた人でそのスタンスを解かない人くらいですかね。そしてそれ以外の人はというか接点のない人というのは無関心ですね。ただね、そういう感じで仕事中は冗談を言い合ったりたまにはプライベートな話をすることもあるのですがかといって、プライベートで会いたいかというと正直、そうでもないです。(というか、プライベートで話したいことがないから会いたくないといってもいいでしょう)
引用③
そして次にプライベートの友人はどうかというと正直、今の僕はほとんどの誰とも会いたくありません。というのもプライベートの友人というのは「楽しむ」というのが目的であって(そして、いつぞやのコメントで書いたようにお互いの問題の解決に協力できない関係である)今の僕は楽しむことで今の問題が解決するかというとそうでもなくその問題を抱えたままで楽しくできるかというとできません。だから今はプライベートの友人と会いたくありません。誘われたらまあ、行ってもいいかな、くらいです。
 引用②部分、③部分含めて、異論なし。
 プライベートで友人を積極的に誘いたいかというとそういう気持ちになっていないというのが、僕のここ数年の傾向に思われる。

 ということで、「わかるー」的なことしか書けなかった。引き続きコメント返信を進めていきたい。

あとがき

(かっこ書きである。引用するとなんかちゃんと記事書いた感出すのは勘違いである。いやしかしそれでも、特に新たに書きたいことが浮かばなかった。というのは悪い意味では決してなく、あまりにもコメント自体が僕が表現したいことを既になしてしまっていたからである。……あ、やばい、座りながら寝てしまっていた、今日はもうここまでにする)

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嫉妬について(イミフさん(10月30日)へ返信)
2020/01/13 15:43 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「13時半ごろ起床」

まえがき

 今日は、特に予定がない。家の片づけなどを進めよう。その前に、日課更新を行おう。

コーヒーもつけてほしいへ返信

リンク

 アップルパイが美味しい、とのコメントへのコメントを受けてのタイトル。センスがいい。そしてアップルパイが食べたくなる。今日買いに行ってこようかな。まだ売ってるものだといいな。

 さて、引用する。

>ギャップ
人のことを理解することなんて無理なんだから、理解されることもそもそも不可能として割り切ってしまえばいい、と私は思っています
だから、私の場合、人から見た自分の性質と私から見た自分の性質に差異があっても違和感はないですね
つまり、自分にフォーカスを当てます

 人のことを理解するのも、されるのも無理。というのは、私も至極最もだと思います。共感するところです。一方で、「何だか寂しいな」という気持ちも、自分の中にあるような気がしています。若いころは――という表現が適切かはともかく、10代20代ぐらいのときは、それは自分の中で認められない感情だった気がします。

 ジョハリの窓、というのが、心理学なのかな、自己啓発なのかな、分かりませんが、そういう考え方があります。自己を開放、秘密、盲点、未開、に分けて考えるというもの。目指すべきは、すべて開放していけ、という方向性なのだと思います。実際難しいのでしょうが。

 そもそも、閉ざされた部分――自分も他者も知らない部分が人にはある、とすれば、そもそも「理解」というのは永遠に不可能なもののように思われます。にもかかわらず、理解されないことを「寂しい」と思うのは、感情エラーに思うのですよね。

 と、同時に、隠した部分――自分は知っているが他者は知らない部分については、むしろ敢えて隠しているのだから、知ってほしいとは思っていないはず。そこも理解してもらいたいと思うのであれば、言動矛盾に思われます。

 とすれば、問題になるのは、自分は開示しているのに、分かってくれない! という状態でしょうか。ただ、僕においては、特にそういうのはない気がします。むしろ、分かってもらわなくてもいい――というか、「偽りの自己」というと表現がマイナスですが、「外面上の自己」をその通りに理解してもらえていれば全然問題ないですね。
 具体的に書けば、「こういうことが起きた時、こいつはこういう感情を抱くのだ」「――こういう行動をするのだ」といったもの。そうしたセルフマネジメントが成功していたほうが、「感情的な理解」をしてもらうよりも、僕はいいなと思っている。
 ――それがむしろ、「何だか寂しいな」なのかもしれない。そうした必死にマネジメントしていることも含めての理解を、誰かにしてもらいたいのか。そうかもしれない、そうでないかもしれない。

要約できないことについて

>要約できない
要約できないっていうことは、無駄なことではなく、単純にコミュニケーションを取ることが難しいということだと、今何となく思いました
つまり、コミュニケーションを取る必要がないなら無駄ではないということです。自己消化、単為生殖。

 自分の場合、「イライラ対処」カテゴリのときはまさにそれですね。自己消化、単為生殖、――もう一つ足すなら自己満足でしょうか。

 僕は、中学校3年生か高校1年生ぐらいから、日記的(※)なのを始めたのですが、――って文体がまた変わっている。「である」調で統一するのだ。「素」を出してはいけない。敢えて「である」調にしているのだ。
 えっと、日記を書いていた。で、それは、ブログを始める前、もっと細かく書けばMIXIをやる前までは一切公開などしていなかったので、完全なる自己消化だったわけである。
 ただ今は、一応公開しているので、それは、「一般的な他者」に対しても、読んで何となくでも、主旨が分かるようになっていなければならないと思われる。意味が分からなくても、共感ができなくても、「何について考えているのか」ということは分かるようにしなければならないと思っている。

 そこが、単なる自己消化のものと違う、と僕は考えている。それが成功しているか、別。
 とあるブログにおいては、怨嗟を日々書き連ねている。最初はイイネ、と思ったのだが、あまりにも表現が単調すぎて、「同じ話題」(過去に発生したことについてを繰り返し述べる)に終始しているがために、面白くないと思ってしまった。
 いや僕のブログも同じようなものかもしれない。同じようなことを繰り返し書いているだけかもしれない。ただ、「表現」は変わっていると思う。コピペなどしていないので、毎回タッチタイピングしているのだ。そこに何らか意義があると思っている。

 イライラ対処カテゴリにおいても、単に「得体のしれない感情」の可視化というか、表現に終始しているので、「コミュニケーション」は必要としていないと思われる。しかし、それでも、「何についての話なのか」については分かるようになっていなければならないと思う。

 そうしなければ、今後の、未来の自分が読んだ時も当然意味が分からなくなるので、まったく意味不明な文章になってしまうからだ。意味不明な文章は、価値がない。


※ 今日あったことを書くというよりも、思いついたこと、感情的なことを書いていたという意味で、「的」という表現をした。それも含めて日記なのであれば、単に日記。僕は単純な日記と区別するために「ログ」という表現もしていた。特に深い意味はない。中2病的行為であり微笑ましい。

嫉妬について

>嫉妬について
話が変わるんですが、遠藤さんは最近誰かに嫉妬したことってありますか?
最近じゃなくてもいいけど。
 嫉妬。ジェラシー。妬み。法界悋気(自分と関係ない人へのやきもち)――はちょっと違うか。
 
 そうだなぁ……ある意味、全人類に嫉妬している気もする。どうしてみんなそんな楽しく人生謳歌しているんだ!! っと(かっこ笑い)。
 嫉妬って、僕が思うに、「自分の軸」がしっかりしている人じゃないと、抱きようがないものだと思うのですよね……ってまた文体がぶれる。思う。
 自分の軸というのは、こういう考え方が正しい、とか、こういう生き方が望ましい、とか、この道に成熟したい、とか。

 そういう目指すべき姿というのがあって、そして、それを体現している人がいたときに、「ああ、この人はなんてすごいんだ」と嫉妬が生じるのではないかと思います。違うかな、今思いました。というのも、嫉妬ということを考えたことがそもそもありませんでした。

 恋路……という意味では、そうだなぁ、好きになった人と他の人が付き合うことになったとき、「いいなぁ……羨ましいなぁ」と思ったことはあった。それも嫉妬なのか。ただそれは、もう「最近」レベルじゃあない。

 結論から先に書かないとビジネスでは怒られるが、ご質問回答としては、「最近はありません。過去にはあったと思いますが記憶が定かではありません」となりそうだ(面白味が全くねぇえ)。

 所見というか言いたいこととしては、「嫉妬とは、自分が得たいと思う事物を得ている人に対して発生する感情の一つである」というのが僕の中の定義なのだろうということ。それに依れば、僕は最近嫉妬したことはない、となる。何故ならば、「自分が得たいと思う事物」が漠然としていて(生きる意味を得ること……?)嫉妬以前の問題になってしまうからだ、と。

あとがき

(かっこ書きである。なんやかんや、1時間この記事に使った。ジョハリの窓とかうろ覚え部分を検索していた時間もあったけれども、ほぼノンストップで書いていた。推敲は殆どしていない、すんません。そう考えると、まぁその、10月30日にコメント頂いてから、2か月以上経過したわけであるが、すぐに返信ができなかったのも仕方がないと、……自己弁護の感が沸き起こる。物理的な時間はあるはずなのだ。しかし、それでもできないことを、僕は非常にストレスになる。「物理的にできるなら、やれよ、ほらやれよ」と思うのだ(自分に対して自分で)。ただ、体がいうこときかないのである。それを「怠慢」と僕は思うのであって、それがさらにストレスになるのだが……こうやって、数値を見せると(最近の帰宅時間の記録とか)、「まぁ、仕方がないか」と思えなくもない。――人間はアナログな生き物であるが、しかし、数値はやはり大事だなと思う)

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平日頑張ってると休日頑張らない理由がなくなる
2020/01/13 01:02 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「19時半ぐらい帰宅」

まえがき

 昨日(11日)は免除規定のため、更新はお休み。
 そして、今日(12日)は、特に更新する気持ちがあまり起きない、……気づいたら、12時を回っていたけれども、いっつも、帰宅が24時過ぎで、そっから風呂に入ったり云々をしていることを考えると、ブログ更新ができない、書けない理由が全く見当たらないので、書くことにする。
 内容としては、前回の、白銀さんへのコメント返信を続けよう。

コメント返信(10月28日)

リンク

> 責任感がない人もバカだと思う。言動に一貫性がない人もバカだと思う――が、これについては、「分人」的な生き方を「敢えて」選択しているのだとしたら、それはそれで賢いと思う。

 との記事に対してのコメント。(一部抜粋)
>「敢えて」選択しているのだとしたら、それはそれで賢いと思う。
 そして今回ちょっと気になったのがここ。
 「敢えて本心とは違う振る舞いをする」というのが実践できるというのは本当に凄いことだと思うのですよね。
 そうした方が周囲に溶け込める、目的達成の近道や成功率を高める、など理由は様々でしょうけれど、大抵は偽装が本心から離れれば離れるほどストレスは強くなるでしょうし、割り切ったり、理性や感情と切り離したり、というのも「だからストレスはない」なんてことはないと思うんですよね。
 「仕事だから」とか「仕方なく」とかの日常レベルというか、一過性のものならまだしも、人格や生き方レベルで常時「敢えて」を選択するとしたら、その負荷は凄まじいものだと思うのです。その辺りの負荷さえも割り切って抱えられるようなものはある種の才能もありそうだなと。
 なるほど、「敢えて」自分の言動を「本心」と切り離すことができるというのは、実際できる人はそれほどいないのではないか、ということですね。
 そうすると、僕らが対面している人たちは、だれしも裏の顔をもっているなんてことはなく(少なくても、多くはなくて)、自らの本心に関係する方向で行動していると。――というのは、日常レベルではそうではない可能性もあり、「人格や生き方レベル」の問題ですね。
 生き方や人格レベルで「分人」になれるのは、おそらく、サイコパス、ソシオパスと分類される人たちであり、一般的に考える必要はないのかもしれませんね。


 そして一方、たぶん、この元記事(10月の)では、「なんとなく、日常的に、なんか、みんな裏の顔をもって、隙あらば騙そうとしてくるんじゃあないか、という感覚」が僕はもってるなぁ、ということの表現だった気がします。家族や親しい友人等までを疑うわけではないですが、しかしそれでも、なんかそんな感じ。これは何故なのか。もう少し掘り下げて考える必要がある。

コメント返信2(続き)

 これって諦念とかにも通じるのかなと思ったりもするんですが、例えば、遠藤さんであれば「本音は自分にとっての生きる意味を探し続けている(探したい)んだけど、しんどい問題だから考えないようにして敢えてパリピな生き方をしている」みたいなことだったりするのかな、とか。
 「考える」ことからは解放されますし、「一般人に溶け込んで生きる」こともできるわけですが、根底にある本心を人生レベルで偽り続けるのって相当な負荷な気もするのですよね。しかも、それを「敢えて」選択し続ける、というのは並大抵の精神ではできないように思えます。
 ちなみに遠藤さんのリアルとブログ等での表裏がこれに当たるかというと、個人的には外れていて、遠藤さんがブログでもこれまでのような本心をほとんど語らず(本心の片鱗を覗かせても9割以上が気付かないとか)その大部分を自分の内側に留めてほぼ誰にも見せずにいた場合が「敢えて」を選択し続けている判定になるでしょうか。
 とまぁ、そんなわけで少なくとも、「本心には正直に」という思考に至った私には、理解や納得することはできても、共感はし難い生き方ではありますね。

 文体がぶれている。「である」調にするんだった。
 そして、コメント返信の続き。

>遠藤さんがブログでもこれまでのような本心をほとんど語らず(本心の片鱗を覗かせても9割以上が気付かないとか)その大部分を自分の内側に留めてほぼ誰にも見せずにいた場合が「敢えて」を選択し続けている判定

 これは確かに、ご指摘の通り不可能に思える。
 いやむしろ、それが不可能だから、このブログに憤怒怨嗟があふれ出ているのだろう。

あとがき

(かっこ書きである。それで僕は少し思うのであるが、その「本心」に従うという方針は悪くない。というよりも、サイコパスソシオパスでなければ、人格や生き方レベルで「分人」になるのは困難なので、そうせざるをえないと思われる。と、なったとき、――例えば、「コペル君」でおなじみの、最近漫画にもなった「君たちはどう生きるか」という原作は小説の作品があるが、これはまさに「人格の陶冶」がテーマになっている(気がする)。ま、その普遍的に目指すべき人格、というのがあったとしよう。そうしたとき、例えば、例えばなのだが、電車内で赤ん坊がガン泣きしてうるさかったとしよう。母親が必死にあやしても泣き止まない。困り果てた母親は憔悴している。そこへ、座って瞑目していた気難しそうな老人が近づいった。すわトラブルか。いや違った。老人は言ったのだ。「子供は元気が一番、さぁさ、疲れているだろうから、ここに座りなさい」というストーリーが、たぶん、感動的だと思う。だが実際問題、僕はその場にいたら、(実際はしないけれども)うっせーなと舌打ちしつつウォークマンの音量を上げることだろう(かっこ笑い)。だから僕は人格がひんまがった悪い人間なのであるが、まぁ、「我慢をする」。「敢えて」、「本心」である「うっせーな」という行動をとらない。まぁこの例は、非常に卑近で日常的なものであるが、しかし、「人格レベル」の生き方と、日常的な生き方部分は、明確な1と0に分けられるものでもなくて、連続的なのである)

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