今日の一言「21時ぐらい帰宅」
帰ってきて、「オッカムの剃刀」という言葉を調べていた。
ある事柄を示すのに、必要以上の仮定はすべきではない、とのことだ。シンプルがよい、ということか。……なんかもっと含蓄がある言葉な気がするけれども、深い理解ができない。
ああ、そういえば、魔法少女まどか☆マギカの新リリーズ、マギア・レコードをアマプラで3話まで見てみた。気になる……気がする。が、1作目のほうがなんか、その不思議な世界観が面白かったような。なんか、2作目(?)は、ペルソナ4的な、そんなノリを感じる。神社の謎を調べる話とか、そんな感じに思えた。
まえがき
まぁまぁ早く帰ってこられた。が、だからといってフルに開放感、というわけでもない。土日などにやや予定あり。ゆっくり休んだり勉強したりしたいものだが……。帰ってきて、「オッカムの剃刀」という言葉を調べていた。
ある事柄を示すのに、必要以上の仮定はすべきではない、とのことだ。シンプルがよい、ということか。……なんかもっと含蓄がある言葉な気がするけれども、深い理解ができない。
ああ、そういえば、魔法少女まどか☆マギカの新リリーズ、マギア・レコードをアマプラで3話まで見てみた。気になる……気がする。が、1作目のほうがなんか、その不思議な世界観が面白かったような。なんか、2作目(?)は、ペルソナ4的な、そんなノリを感じる。神社の謎を調べる話とか、そんな感じに思えた。
コメント返信
なんと嬉しいことに、さらにコメントを頂いたので、過去(になってしまった)コメントへの返信はお休みし、直近コメントに対して返信させて頂く。修正をお願いできないでしょうか(削除的な意味で)。対応しました!
またかと思ってたんですが、今回は長かったですね。
待ってました。治ってよかったです。
ぼくが死んだらぼくのPCのデータ削除は
削除はしたことにして、転用させて頂いたりして(笑)。
(某個人情報流出事件を揶揄)
(某個人情報流出事件を揶揄)
あとがき
(かっこ書きである。帰宅したときに、帰宅するまでに、ブログのネタ何か考えとくのとか。しかし、帰ってくると、帰宅すると、ものすごい「リセット」感がある。この心境、わかるひと多い気がする。学校から家に帰った際とかも同じだった。そういう意味で、家ってのは、とっても良い環境なんだと思う。フラリーマンなる言葉もあるようだが、家に帰っても気が休まらないという家庭があるようなら、独り身のほうが断然よいのでは、と思う。しかし、子供は宝だ。子供がいないと、社会は回らなくなる。困るのは、みんなだ。――という科学的な理屈はともかくとして、東京の通勤通学時間帯のラッシュを見ていると、もっと人が減っていいんじゃないかという気持ちがどうしても優先させられる。まぁ、もっと、オフィスじゃない働き方が普及したら、別に人が減らなくてもラッシュは緩和できるかもしれない。電車を動かしたり、管理する人たちは、多少人が減っても、仕事量はあまり減らないだろう。ただ、収益は、定期券収入が大半なのだとしたら、あまり変わらないかもしれない。――なんか、機知に富んだことを書きたいが、眠いので以上として風呂に入ろう)PR
今日の一言「22時頃帰宅」
そうして、うまくコミュニケーションが取れなかったことに、さらにイライラするという、「僕あるある」である。
「よい自分」
を演じなければいけないという強迫観念があるから、そもそも、コミュニケーションが好きではない、という自分に対しての分析評価は外れていないと思う。
ただ、アナ雪のようにありのままでいるわけにはいかないのだ。――いや、そもそもそういった表現が無限遡及なのだ。意味があるものではない。いやだって、ありのままでいいなら、「よい自分を演じられなくてイライラしている自分」のだって、ありのままで良いじゃないか、となるのだから。ありのままでいい、というのは、何も表現していないことに他ならない。せいぜい、「その局面では感情に従ったっていいじゃないか」レベルの話だ。
FC2ブログをご使用と思いますが、左下の方の、ツールのところの「データバックアップ」から、全記事の一括バックアップができますよ!(ご存じでしたらすみません)
ただ、全部消えてしまった後に、再度アップロードするか、する気持ちになるか、というのは確かに別ですよね。膨大すぎて自分でも何を書いたか(読めば思い出すものもあるにせよ)管理しきれませんし……。
面白い!! ――ですが確かに、手動感あふれてますね(笑)。
――というよりも、「ログイン」というのが、そもそもPCへのログインのことですかね。なるほどそれであれば納得。PC初期化までする、というのは、ミッションインポッシブル的で面白いですね!
まぁ、死後に傷つけられて困るような大層な名誉などないので、そんな心配は杞憂と思いながら、死後を思えるというのも、やや矛盾ですが生きているからこそですね。
死んだらすべて無になる――という死生観だとしたら、死を恐れることすら不要なはずなのに、死後を憂う。不思議な気がします。
まえがき
上司からの話に対して滅茶苦茶不機嫌というかマイナスの様相で返答をしてしまった。先日も、「そんなことまでさせられたら困ります」的なことを言ってしまった。めちゃくちゃ、イライラしていたのだ。タイミングが悪かったのである。別件仕事で上手くいかないことがあり、イライラしていたのだ。状況がよくなかったのである。そうして、うまくコミュニケーションが取れなかったことに、さらにイライラするという、「僕あるある」である。
「よい自分」
を演じなければいけないという強迫観念があるから、そもそも、コミュニケーションが好きではない、という自分に対しての分析評価は外れていないと思う。
ただ、アナ雪のようにありのままでいるわけにはいかないのだ。――いや、そもそもそういった表現が無限遡及なのだ。意味があるものではない。いやだって、ありのままでいいなら、「よい自分を演じられなくてイライラしている自分」のだって、ありのままで良いじゃないか、となるのだから。ありのままでいい、というのは、何も表現していないことに他ならない。せいぜい、「その局面では感情に従ったっていいじゃないか」レベルの話だ。
コメント返信について
なんと嬉しいことにさらにコメントを頂いたので、過去コメントに対しての返信は、またお休みさせていただき、直近コメントに対して書く。それ以前の記事データはバックアップしていないものも多くあるように思いますし(かと言って全部ログのバックアップを取っていくか、というとそれも面倒)。
それに、ログを取れているからといって、消失した部分の期間にもよるでしょうけど、全部投稿し直す気があるか、というとまた別の話な気もしてきますし。
FC2ブログをご使用と思いますが、左下の方の、ツールのところの「データバックアップ」から、全記事の一括バックアップができますよ!(ご存じでしたらすみません)
ただ、全部消えてしまった後に、再度アップロードするか、する気持ちになるか、というのは確かに別ですよね。膨大すぎて自分でも何を書いたか(読めば思い出すものもあるにせよ)管理しきれませんし……。
だいぶ前だったと思うのですが、「一定期間放置していたら自動的に各所へ自身の死亡(あるいは引退等)を伝えるプログラム(あるいはPCやストレージ内容の初期化)」みたいなものを見かけたことがありました。正常、というか普段の生活が維持できていて、生きて活動している間はその自動プログラムのタイマー設定を適宜引き伸ばして行く、という手動感溢れる手間のかかるものだったので自分でやろうとはあまり思えなかったのですが。
面白い!! ――ですが確かに、手動感あふれてますね(笑)。
他にも、「ログイン画面が遺書や遺族・友人へのメッセージ的なものになっていて、本人しか知らないログイン操作以外の何らかの入力あるいは選択肢を選ぶと遺書やメッセージの続き、死亡連絡をして欲しい各所の情報などを表示しつつPCデータを初期化する」おぉ、そういった仕組みもあるんですね、面白い……と思いつつ、後者の仕組みは具体的イメージがわきませんでした(苦い笑い)。本人が使っていたサービスのログイン画面までは、何らかの方法で周囲の人がたどり着ける前提……ということでしょうかね。
――というよりも、「ログイン」というのが、そもそもPCへのログインのことですかね。なるほどそれであれば納得。PC初期化までする、というのは、ミッションインポッシブル的で面白いですね!
まぁ、死後に傷つけられて困るような大層な名誉などないので、そんな心配は杞憂と思いながら、死後を思えるというのも、やや矛盾ですが生きているからこそですね。
死んだらすべて無になる――という死生観だとしたら、死を恐れることすら不要なはずなのに、死後を憂う。不思議な気がします。
あとがき
(かっこ書きである。「死」という話が出たが、おそらく、仕事なんかしているよりも、もっと、もっといえば、最も重要なんじゃないかと思うぐらい大事な概念に思える。トップダウンで考えろとか、ゴール(目標)から遡って考えろとか一般に言われるが、最大のゴールってのは、「死」だと僕は思っている。これは割と早いころから。中高生ぐらいかなぁ。これは幸せなことである。日々死と隣り合わせの生活の場合は、そんな風に思うことはできないはずだ。死がすぐ目の前にあるのだから、今生きること、生き延びることだけが重要になるはずだ。一方で、安全が担保され、死が遠ざかったとき、人は何を望むのか。もっともっと死を遠ざけたいと願うはずだ。もっと安全に、もっともっと安全に。そうすることで、もはや、一日や二日ぐらいでは、死は誰にでもやってくるものだという自明の理を信じることができないまでになる。さぁどうしよう、それが現代病である。ところで、昨日、リアル知人に知らせる動機がないと書いたが、そういった心情を、分人的だとか、キャラだとか、選択的だとか、そんな風に、心理学や社会学ではいうようだ。そういう分析は、おうおうにして、異質なものに対する興味というか、批判的ニュアンスをもつような気がするのは被害妄想なのかもしれないが、「自分を使い分ける」ということ自体は、特段昔からしても、目新しいことではないように思える。家での顔、仕事の顔、父の顔、(親に対して)子供の顔、など、状況や他者によって、見せる自分というのは変わってくるのである。これは別に、新しいことではない気がする。いえることがあるとすれば、SNS等ネットによって、他者存在のバリエーションが増えて、同世代の中でも見せる自分が異なってくるような、そうした島宇宙化というかガラパゴス化というかは起こっているのだろう。それが即ち人間関係の希薄化に紐づけたいヤカラとか、リアルコミュニケーションが非リアルに勝る論者とか、そういうのは若者言葉で言えば「うざい」と思う。大人言葉で言えば、「面倒くさい」になるだろうか。意識高い系言葉で言えば、「無駄」)
今日の一言「24時ぐらい帰宅」
ご心配おかけしました!
似たようなこともあるんですね~。私は最初、1日ぐらいかな、程度に思っていましたが、3日ぐらい続いて、そして「仮想ストレージの不具合」という情報をみてから、思った以上に深刻かもしれないとようやく思ったぐらいでした。
んで、ストレージということで、「データ大丈夫かな……」と、当初あまり情報もなくて少し不安でしたね。
未然の防止策というのは思いつきませんねぇ。複数SNSとかアカウントをもっていて、両方とも同じぐらい更新しているならともかく、そもそも、読者がどっちかしか知らなければ十分にお知らせできるものでもないですし。
予定が狂ってやきもき……というのはありましたが、まぁ無料でお借りしているからあまり文句はいえないですね(わらい)。ただ今回は、有料サービス利用の方々も同様の事態だった模様なので、無料ユーザはともかく、今後何かしら保障とかあるのか、どうでしょうね。
まえがき
えーあー、その、忍者ブログ復活してから、2回目のルーティン更新になるけれども、書くことが思い浮かばない……というよりも、帰宅してから書くという、その流れが構築できておらず、脳のニューラルネットワークが繋がらないような感覚だ(いみふ)。コメント返信を兼ねる
少しずるい気がするけれども、さっそくコメントいただいたので、過去コメントへの返信はお休みし(……そう、直近のルーチンはコメント返信にあてることとしていたのだ)、直近のコメントに書かせていただく。>忍者ツールズの公式ツイッターで障害発生中との情報を見た後はあまり心配せずに待っていた感じです。>未然に防ぐ方法も思いつかないですし、サービス元が復旧を諦めでもしていない限りは、復旧するのを待つしかありませんし。>定期更新している場合などはそれが滞ってしまったり、予定やモチベーションが狂ってしまったり、見通しが立たなくなってしまう辺りはやきもきするわけですが。
ご心配おかけしました!
似たようなこともあるんですね~。私は最初、1日ぐらいかな、程度に思っていましたが、3日ぐらい続いて、そして「仮想ストレージの不具合」という情報をみてから、思った以上に深刻かもしれないとようやく思ったぐらいでした。
んで、ストレージということで、「データ大丈夫かな……」と、当初あまり情報もなくて少し不安でしたね。
未然の防止策というのは思いつきませんねぇ。複数SNSとかアカウントをもっていて、両方とも同じぐらい更新しているならともかく、そもそも、読者がどっちかしか知らなければ十分にお知らせできるものでもないですし。
予定が狂ってやきもき……というのはありましたが、まぁ無料でお借りしているからあまり文句はいえないですね(わらい)。ただ今回は、有料サービス利用の方々も同様の事態だった模様なので、無料ユーザはともかく、今後何かしら保障とかあるのか、どうでしょうね。
あとがき
(かっこ書きである。眠すぎるので、かっこ書きである。思ったのだけれども、何らかの事故事件に巻き込まれたり身体を壊してしまったりと、外部要因などで、いっきに更新がしばらくできなくなることはあるかもしれない。それは僕だけでなく、誰しもそうだ。そうしたときに、エンディングノートといった試みがあるのかもしれないと、ふと思った。デジタル財産というか。手帳に、知人の連絡先をかいていれば、家族が連絡をとってくれるかもしれない……といったとき、リアル知人と同程度に、このブログ読者氏とか、別管理サイトの利用者さんとかには、何等かお伝えしなきゃいけない気がする。しかし、今のところ、それについては対策の見込みがない(リアル知人になんかそういうのやりたくない、家族も含め……)。なんか、そうだな、「この手紙を読んでるころには、私はもう皆さんの前にはいなくなっているでしょう……」的なそんな何かの方法があるものだろうか。などと益体もないことを考えながら布団に倒れこむ)
今日の一言「忍者ブログ復活」
表示は2日前ぐらいからされるようになっていたが、更新機能はあいもかわらずマヒしており、今日、帰ってきて開いたら、更新できるようになっていた。
ご心配をかけて申し訳ございませんでした。せめて、ブログ表示の際に、忍者ツールズで障害が発生しており表示できません、的なメッセを表示してもらえなかったのか、――おそらくそれどころではなかったのだろうが、それさえあれば読者さんへも心配かけずにすんで、不平不満もそれほど大きくならなかったのではとは思う。
とはいえ、ツイッターでは、「復旧がんばってください」的な、そんなあたたかいコメントもちらほらと見受けられたわけであるが。
無料でお借りしているわけだし、僕も特段文句があるわけではない。
最悪、データが残っていてよかったと思うほどだ。
まえがき
1月25日?ぐらいから、忍者ツールズ全般に、大規模な障害が発生した。表示は2日前ぐらいからされるようになっていたが、更新機能はあいもかわらずマヒしており、今日、帰ってきて開いたら、更新できるようになっていた。
ご心配をかけて申し訳ございませんでした。せめて、ブログ表示の際に、忍者ツールズで障害が発生しており表示できません、的なメッセを表示してもらえなかったのか、――おそらくそれどころではなかったのだろうが、それさえあれば読者さんへも心配かけずにすんで、不平不満もそれほど大きくならなかったのではとは思う。
とはいえ、ツイッターでは、「復旧がんばってください」的な、そんなあたたかいコメントもちらほらと見受けられたわけであるが。
無料でお借りしているわけだし、僕も特段文句があるわけではない。
最悪、データが残っていてよかったと思うほどだ。
ルーチン更新
ただ、ルーチン更新は、途絶えてしまった。まぁ、やむを得ない事情、といえばそのとおりであるが、どうしよう、明日からまた復活しようかな。とりあえず、やらない理由はない、か。あとがき
(かっこ書きである。某氏が自身のブログで、僕のブログが表示されなくなったことについて心配してくださっていた。心配かけて申し訳ないという気持ちとともに、心配してくれてうれしいなぁという複雑な気持ちを抱いたことをメモしておこう。それにしても、ルーチンしているときは、面倒だと思ってしまうこともありながら、いざ書こうと思ってもかけない期間が続くと、「早く書きたい!」という気持ちが生じることが分かった。このあまのじゃく的な心情を、モチベーション維持理論に活用できないものか)
今日の一言「23時14分帰宅」
様々な怠惰な誘惑……さぼりたいという気持ち。
それらをはねのけて、今僕はここにいる。
話題元
まえがき
そろそろ、ルーチン更新が飽きてくるころである。面倒だなぁという気持ちになってくる。今日くらいはいっかな、という気持ちになってくる。明日まとめてやれば、まいっかな、という気持ちになってくる。そもそもこんなこと続けても何にもならないよ、という気持ちになってくる。様々な怠惰な誘惑……さぼりたいという気持ち。
それらをはねのけて、今僕はここにいる。
コメント返信
話題元
>そして温厚か、神経質かそれは目的に対して影響度が低いものに関しては無関係であるから温厚でいられるし影響度が高いものに関しては関心が強い分、その成否に関してイライラするってことなんだと思います。例えばですが朝、仕事に行く前にコンビニによったときにレジがもたついていたり、並んでいるとイライラします。(700円以上買い上げのくじの期間とかは最悪ですね)でも、これはレジに時間がかかっていることに対してイラつくのではなく仕事に遅刻したらどうしようという不安からイライラしているのです。だから夜だとか後ろに何も急ぎの予定がないときにコンビニに列が出来ていても別にイライラしない。携帯でもいじりながらゆったり待ってます。そういう部分を見るとイライラしないというのは技術(とよんでいいかわからないが)であったりする部分もあるのです。朝のコンビニの列がイライラするならば事前に買い物をしておくかもうちょっとだけはやく家を出ればいいという話ですからね。
なるほど。ここでの文脈としては、「温厚」というのが、必ずしも良い意味ではない気もしてきますね。
一面的な性格についての見方を変えてくれる視点だと思います。
性格、というものがあるのではなくて、「目的」が存在していて、その目的に向かう影響度や興味の多寡によって、自己の振る舞いが変わってくる。その一面を切り取ったものを、人は「性格」と呼ぶ、そんな気がしました。
太字下線は僕が行った部分。
前の小見出しにおいて、僕は今日「性格、というものがあるのではなくて、「目的」が存在していて、その目的に向かう影響度や興味の多寡によって、自己の振る舞いが変わってくる。その一面を切り取ったものを、人は「性格」と呼ぶ」と表現したけれども、コメント主さんも同じ意味を表現しているのではないかと思う。コメ主さんの表現の方が分かりやすい気がする。
一面的な性格についての見方を変えてくれる視点だと思います。
性格、というものがあるのではなくて、「目的」が存在していて、その目的に向かう影響度や興味の多寡によって、自己の振る舞いが変わってくる。その一面を切り取ったものを、人は「性格」と呼ぶ、そんな気がしました。
コメント返信2
そして遠藤さんのいう初対面の人には「温厚そう」といわれ家族には「火のような性格だね」といわれるのもどういう場所や場面で会うかどういう繋がりがによって見えてくるものも違ってくると思うんですよ。というのも基本的に人ってなんらかの目的を持って繋がっています。そして、人ってその目的の部分や環境の一側面しか見ることができません。というのも家族であればプライベートの部分しか見ることができないですよね(遠藤さんの「火のような性格だね」といわれたのがどの時期のものかわからないのはありますが、それを学生時代だと想定すると)だって、家族と一緒に学校で勉強をしているわけでもないし逆にいうと親と一緒に仕事をしているわけでもない。家というその環境の一側面でしか、接点がないのです。そして、特に子供の頃はパワーバランスでいうと親側に傾いている。だから子供は親の機嫌を伺ったり、ある程度、歳をとって自分でこうしたいという思いやできる年頃になると反抗期ってのも出てくるんだと思います。そうなったときに「火のような性格だね」という元を辿ればそういわれる状況だったりそういう環境だった何かが出てくるのではないかな?という思っています。
で、話を戻しますが温厚である、神経質であるというよりも元を辿れば何が大事で、何が大事じゃないのかのほうか重要であるといえるしそれはどういう葛藤を抱えているか(いたか)やそのことに対してどういう情報を持っているかで動き方や見え方も変わってくるのだと思います。だから、性格というのはその人にどのような目的がありその目的にたどり着くためにその人の能力や技術であったりどういった方法論をとっているかという部分を簡略化して説明しているもの、と僕は捉えています。
太字下線は僕が行った部分。
前の小見出しにおいて、僕は今日「性格、というものがあるのではなくて、「目的」が存在していて、その目的に向かう影響度や興味の多寡によって、自己の振る舞いが変わってくる。その一面を切り取ったものを、人は「性格」と呼ぶ」と表現したけれども、コメント主さんも同じ意味を表現しているのではないかと思う。コメ主さんの表現の方が分かりやすい気がする。
あとがき
(かっこ書きである。ルーティンなので、今後もコメント返信は続けていくが、しかし、ふと思ったのは、個々のポイントに返信することで、全体が見えなくなってしまってはいないか、ということである。要は、このブログは、「生きる意味を徹底して考える」ものを「目的」としているのであって、それに対しての知見というか考えというか感情というか思考というか技術というか知識というか、そういったサムシングについてが、求められていることなのではないか。そうした内容になっていない記事は、無価値なのではないか、そんな感想を(自分の書いている記事自体に)抱いたのである。整理しよう――というか、僕の現状の考えはどうなのか。生きる意味はあるのか、ないのか。これに対しての答えは、あるともいえるし、ないともいえる、という回答になる。生きる意味は「ない」とすれば、考える必要すらないのであるから、そもそも問いの立て方(生きる意味を徹底して考える)が意味をなさないのではないか(だから、消去法的に「ある」としかいえないのではないかと)、と言われるかもしれないが、「ない」としても、だからといって、考えることそれ自体の否定にはならないと、僕は思うのでその批判は当たらないと考える。ただ、生きる意味は「ない」という結論になったときに、それは即ち速やかな自殺の勧奨となるのだろうから、生きる意味は「ある」と言っておくことが正しいと思われる。もう一つ言えることとしては、生きる意味とは、万人共通普遍に存在するものでは「ない」ということである。生きる意味の次元について、コメ主さんは以前「>1.宇宙と私 2.人類と私 3.社会と私 4.個人と私」と挙げられていた。生きる意味とは、何かとの関係の中で生じるものであるという考えに僕は同意する。そして、自己と世界(環境すべて)の関係性は、流転し、予測のつかないものである。そうしたときに、確固たる自己――ないしは、生きる意味というのは、見出しようが「ない」と、僕は考える。その次元において、僕は、生きる意味は「ない」と回答するだろう。一方で、家族と自分――としたとき、家族にとってみれば、自分がいなくなってしまうと、悲しい思いをするだろう。夫ないしは妻、兄ないしは弟、子供ないしは親……その所属的な役割は、「生きる意味」と呼称するのに、十分ではないだろうか。その意味においては、生きる意味は「ある」と僕は回答するだろう。――しかし、一方で、その所属としての役割が強固だとしても、それでも僕自身の存在が「何か」において必ず必要か、というと、そうではないのである。僕は「世界」の十分条件であって、必要条件ではないのだ(僕は世界の一部であるが、世界であれば僕であるわけではない)。つまり、僕の回答としては、最初に戻るが簡単に言えば、「生きる意味はあるけれども、ない」ということになるのだ。ただ、あるけれどもないとかという、仏教の禅問答や空(くう)のような答えというのは、いささかに座りが悪いので、「徹底して考える」必要があるということになる。ここでふと思うに、キリスト教的な生き方というのは、そうした不安定な要素を、「神が認めてくれる(神がみている)」として信仰することにより、それ以外の(人生)活動を円滑にしてくれるというわけである。つまり、僕の問題意識を換言すれば、「信仰」の対象を探している、といえるかもしれないのである)