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物資不足
2020/02/23 19:38 | Comments(2) | 思考及び書くこと
今日の一言「買い物に出かけて午前中に帰る」

まえがき

 今日の一言が、一言日記的になったな。
 マスク不足が深刻になって久しいが、広島県や富山県や長野県ではどうなのだろうか。
 東京都では、中々厳しい状況である。どこにいっても置いていない状況。

 先日から目も痛いし、体も痛いしで調子が悪かったが、花粉のせいだと思われる。アレルギーの薬を飲んだら、非常に好調になった。

 マスクしていても具合悪くなるから、花粉症対策にマスクが有効なのか疑問である。

 飛沫感染は防げる、のだろうが、であれば、できるだけ人がいないところで過ごしたほうがリスク低減である。
 家から出ない、これに限る。

 家に感染者がいたら、大変。

 ちなみに、「生活関連物資等の買占め及び売惜しみに対する緊急措置に関する法律」なんていう法律があるのだそうだ。昭和48年ということで、1973年……オイルショックのときに作られたものである。トイレットペーパーなくなった時期。

 そういえば、SARSのときもマスク不足ってあったんだろうか。2003年ごろだというが……全然記憶にないな。まだ親元でいたぐらいだから、家計物資管理してなかったからだろう。
 さらにちなみに、SARSもコロナウイルスが原因なのだという。コロナってなんぞ。コロナとは「王冠」の意味を持つラテン語由来らしい。

転売は悪なのか

 感情的には、品切れについては、新型コロナが流行る前から、マスクを日常的に使っていた身として苛立たしいことこの上ない。

 しかし、せっかくなのでこれを話題に落ち着いて、「転売」について考えてみよう。

 商品の価値とは、希少性にある。砂漠の水の論理である。東京都では水道局に毎月お金を払えば飲める。月額1500円ぐらいだと思う(2か月で3000円ぐらいな曖昧な記憶)。
 一か月何リットル使ってるんだろう? 湯舟にためてお風呂に入ると、一回15Lぐらいだろうから、15回湯舟を入れるとして、225Lぐらいは使ってるとする。すると、1Lは10円いかないぐらいである。

 それを基準として考えたとき、砂漠で1Lを1000円で売ったとする。100倍の値段だ。
 これは妥当なのか。

 他の例として、観光地に行ったとする。一般的なスーパーで200円ぐらいで売っているビールが、400円で売っていたとする。2倍だ。これは妥当なのか。


 今回のマスクの場合は、1箱500円(30枚入り)ぐらいなのが、1万円ぐらいで売られていたりする。20倍だ。妥当なのか。

 大正時代、スペイン風邪(インフルエンザのことらしい)が流行したときに登場した日本のマスクは、1つ3000円ぐらいだったようだ。使い捨てだったのかはわからない。空気をろ過する仕組みということで何回かは使えたのかもしれない。
 そうすると、30枚入りだと9万円である。割と、今やってる転売屋さんたちも妥当なのではなかろうか。

お金の価値

 僕が、投資や保険やらをやり始めたのは、特段、大儲けしたいとかお金持ちになりたいといった動機ではない。
 今の社会(経済(財・サービスの流通))からすると、預貯金だけでは資産を守れないからである。
 もちろん、元本保証がない……というのが、他の人たちと日常会話していると出てくる言葉であるが、なんだっけ、先日書いた、50年ぐらい前は、15円で蕎麦1杯食べられたのである。今なら、駅前のかけそば食べても、300円ぐらいはするだろう。20倍である。これを逆に考えると、お金の価値が20分の1になったともいえる。
 1970年に1万円貯金していたとする。蕎麦が666杯食べられた。
 2020年の1万円では、33杯しか食べられないのである。

 中学生ないしは小学生レベルの例えであるが、要するに、お金自体も成長させないと、同じ価値にはならないということである。
 せめて、物価上昇率ぐらいには、預貯金の利子もなって欲しいものである。

物の価値

 で、つまり、なんだ? と問われると、えーっとー、っと、どもってしまうが、転売は、不当だろうが、違法ではない(上の買い占め売り惜しみ法の対象にならない限り)のである。

 今は1万円ぐらいの値段がついているが、10万円、……さすがに100万円になれば、買う人は殆どいないだろう。そのうち、需要があるから増産されていって、値段が拮抗していく。それが経済の仕組みである。アダムスミスさんは神的に調整されると想定されたようだが、人間、悪い奴が多いと考えておいた方がルールとしては上手くいく。

 問題は、情報の均質化ではないかと思う。
 どっから仕入れているのかは分からないが、この店ではこの日当日入荷することを知っていて、開店前から並んでいる人がいる。どうやって知ったのか。僕は分からなかった。
 そういう情報がない人は、アマゾンでめちゃくちゃ高い値段で買ってしまうかもしれない。
 実は、近所のドラッグストアで購入できたかもしれないのに。

 でも、「いま、ここで、すぐに」必要なのであれば、いくらか高い値段でも、購入する必要があるのかもしれない。砂漠の水だ。今飲まなければ干からびて死んでしまうのであれば、マネーに糸目はつけられない。

 そういうのが、確か、カイジの漫画だったと思うが、ペソ? だっけ、独自通貨で労働者を経済させる話。あれ、面白いよね。単位をかえてしまうことで、ものの価値を見えづらくするのである。そう、だから度量衡大事。始皇帝すごい。

 だから、野放しの資本主義って、怖いと思う。
 んでも、それって、努力しない人が貧乏になって、ちゃんと頑張ってる(働いている)人が裕福になるって構図なのであれば、別に悪いことではないのではないか。働かない中高年というのが、問題になっているという。
 ダメな奴はとことんダメになって、裕福な人がちゃんと裕福に暮らすというほうが、競争社会、人類社会として素晴らしいのではないか。格差社会はだめだ、と言われるが、格差は本当にダメなのか?

あとがき

(かっこ書きである。時間がある程度あると、野放図に話が長くなるので、あとがきに無理やりもっていく。格差について、思うことをかけば、――その前にまず、人は隣の芝生を青いと思うというが、この諺の重要なところは、「隣の」という点である。遠くの豪邸は目に入らないのである。格差自体は、仕方がないと思う。というか、資本主義って要はそういうことだと思う。格差という言葉自体は、政治的な意味とか経済学的な意味がもしかしたらあるのかもしれないが、要するに「差異」のことだとすれば、資産の差異はあってしかるべきである。日本国憲法でも、経済的自由は保障されている。問題は、格差が広がることではなくて、その最低ラインの人たちの生活水準がすさまじく大変になることだと思う。みんなある程度裕福で幸せなら、その社会に、めちゃくちゃオイル・キング的な金持ちがいたって、別に構わないのではなかろうか。格差が広がって、生活できなくなるような人が増えることが問題なのだと、僕は思う。だから政治的、社会的ニュースというか議論は、その最低ラインが争われているのか、高水準の話なのか、まずどっちかなのか見極めた方がいいと思う。でもその最低ラインってのが、非常に難しいと思う。考え方としては、自分がその立場になったら、どうか、というのがあると思う。ちなみに思いついた山梨県大月市の生活保護基準(1人)をざっくり計算すると、第一累47663円+第二累90513円=138176円になった。まぁその、暮らせないわけではなさそうだ。家賃含むのか? 追加で調べると、生活扶助に加えて、住宅扶助ということで家の分もプラスされるようだ。するとなると、全然暮らせる気がしてくる。で、あれば、なぜホームレスやネットカフェ難民はたくさんいるのか。経済的困窮で自殺する人は、4000人(平成27年)もいるのか。話がだいぶ脱線しているので強制終了)

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コメント返信白銀さんへ
2020/02/22 01:56 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「24時半ぐらい帰宅」

まえがき

 今日は、パソコン以外のデバイスで更新してみる。
 こう、あれだ、やっぱり、デスクトップPCにかなわないなぁ。使い安さ。

 でも、更新のしやすさ、接触のしやすさ、アプローチのしやすさ、少しこう、状況を変えてみることによる相乗効果的な何かを期待して、やってみる。

 うーむ、しかし、寝そべりながら書けること以外にとくにメリットは見いだせない。


分岐点について

 コメント返信を頂けた。今日も、とくに、書くことがなかったので、大変ありがたかった。いやその、仕事では少々、また、大変だった。まぁ、大したこと、ないんだろうなぁ。でも、わりとスピーディーに、正確に、最善を尽くせたと思う。もう少しちゃんと評価してもらいたいなぁ。

 まぁそれはおいておいて。

 とりあえず、本当は引用をまずしたいのだけれども、マウスがないと、そこら辺非常に大変。
 そうか、パソコン以外のデバイスだと何が一番大きいかと言えば、マウスの有無なのかもしれない。Bluetoothの小型のマウス明日買ってみようかな。

 まぁそれはおいておいて。

「高校の選択」

 波瀾万丈というか、青春というか……なんか陳腐過ぎる言葉しか浮かびませんでしたが、なんだかすごく羨ましい気がしました。いやそのもちろん、こんな紙幅では到底書ききれないアップダウンがあったはずであり、単純に「青春だねぇ」とか言われたら僕は苛立ちを隠せなくなる気がしますが、しかし、なんかこういい表現が眠すぎる頭では浮かばない。

 それはきっと、その悩みなどについて、その悩むこと事態が、未来の自分や大人たちはできないから。しかしこれらは、言われた当人は全く分からないことであって。

 それはそうと、友人や、環境というのは、まったく分からないものですよね。
 ひとつの選択をしたことで、進む道はまったく違って、高校や大学では数年間は同じ環境に身をおくことになる。そこで過ごす人たちは、まったく違う人たちになる。やることも、発生するイベントも違う。

 先生ガチャとか、上司ガチャとか言うかどうかはわかりませんが、まったくくじ運的なものがある。
 もしかすると、そもそも選択肢は2つよりもあったかもしれない。体調を突然崩して、どちらの高校にもいけなくなったかもしれない。それは悔しく悲しいことであるが、浪人生活によって今とはまったく違う何かを得たかもしれない。


あとがき

(かっこ書きである。体力が限界になったため、ここで一旦強制終了……)





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何かを成し遂げる
2020/02/21 01:16 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「22時45分ぐらい帰宅」

まえがき

 何かを成し遂げなければ、俺は思った。
 何にもなれないまま、何も成し遂げられないまま、ただ漫然と生き、死ぬのか、そんなこと、いやだ――と、それほど思えないのが問題である。

 逆に、遊ぶことをする、ということを目標にしてはどうか、と逆転の発想で思った。

 要するに、「勉強しなきゃ」「創作しなきゃ」「運動しなきゃ」といろいろ「しなきゃ」と思いつつ、「疲れたー」ということで、ぼーっとしたり、進撃の巨人の既巻を読んでしまったりして、ああ、何やってんだ、俺、的な自暴自棄になる――というのはやめにして、漫画を読むとか、ゲームするとか、遊ぶこと自体が一日の目標にする、というのはどうか、ということである。

 今日は、ゲームを一時間もやってしまった……ではなくて、ゲームを一時間もやれた、ということで、拍手喝さいするということである。

受験期を思い出すなぁ

 勉強できる人たちは、なんで勉強してたんだろう。果たして、それほど明確な未来の夢があったようには思えない。ただ、いい高校にいくとか、いい大学にいくとか、周りがやってるからとか、そんな些細な(きっと、些細じゃないのだ)理由で、がんばっていた気がする。

 もちろん、頭のデキも違ったかもしれない。時間対記憶力の差はあるかもしれない。
 しかし、人間、それほど能力値に差異はないと思う。

 100を1時間で覚えられたとして、いっぽうで、ある人は10時間かかったとしたら、前者の人は、10倍頭が良いのか。その、100のことよりも、もっと前の来歴によって、その記憶を補助してくれることがあったのではないか、と思う。

 円高になると、金利はどう変わるのか。

 円高になると、輸入品が多く出回るようになる。物価は下がる。物価が下がるということは、お金のニーズ(量)は少なくなる。お金の必要性が少なくなれば、金利は下がる。

 上の説明は、(たぶん)おおよそあっている。それほど実際の経済は単純ではないが、考え方の一つとしては間違ってないだろう。
 まぁ、中身はともかくとして、上の説明を覚えることとしたときに、「円高」「物価」という言葉(定義)自体を知らなければ、もともと知っている人よりも、覚えるために必要な時間は異なるだろう、ということである。

 もちろん、本当に頭のいい人は、文字自体を丸暗記できるのだろう。ただ、一般人はそうではないはずである。

あとがき

(かっこ書きである。ど、どうしよう……全然面白いこと書けない……。割と話題がない。仕事のことぐらいしか書くことがない。それよりかは、面白いことを書いた気がする……うん、じゃあよいことにしようか。ちなみに、仕事は、突発的なクレームにより、1時間弱ぐらい話を聞いた。傾聴という。心を入れて聞くのは、割と体力を使う。ただ、勉強させていただこうという気持ちで聞くとよい。支離滅裂意味不明な会話になってしまうとさすがにどうしようもないが、日本語として成立していれば何とかなる。逆に言えば、「こいつに何言っても駄目だな」「聞く気がないな」という態度が相手に伝わると、余計にキレられる。そりゃ当たり前である。なんで、聞くためにはこっちにも心の余裕が必要だ。んで、まぁまぁの数の対応をしてくると、傾向として、1時間ずっと怒ってる人はまずいない(完全にゼロとは言っていない)。精神異常状態でなければ、言いたいことは、いずれ尽きるのである。そして、そういった怒りをぶつけられる相手は、中々いない。家族ですらいないだろう(まったく笑えるたとえである)。むしろ家族に1時間も起こり続けたら、DVといわれる世の中だ。そういうこともあるのだろう。たいてい、僕が本気モードで聞いて対応するときは、最後は逆に感謝される。ちなみに、質問の体裁を帯びたクレームという変形版もある。そういうのに、まともに(というと言葉はよくないが)単に回答するだけだと、火に油状態になる場合もある。――といったことを学んだ(知識ではなく、経験として)。とりあえず、最終的に納得してもらったら、こっちも対応してよかったなと思える。――とかってだ、そういう対応を見たりしている他者は、僕がコミュ障であることを知らない。人見知りなんです~っというと、「ご謙遜を~」とかではなく、「え、どこが?」ぐらいに言われたりする。まぁそれも、以前コメント頂いたとおり、環境や他者や、自分のふるまいによるものであり、そもそも一面に過ぎないのである)

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コメント返信(白銀さんへ)
2020/02/20 01:21 | Comments(1) | 思考及び書くこと
今日の一言「24時45分ごろ帰宅」

まえがき

 疲れたー、遅い、もうやだー、明日も面倒なことが待っている、ゲームもできないつまんねー、
けどルーチン更新はしなきゃなぁ、なんも思いつかないなぁ……なんてマイナス思考まっしぐらな状態でふと見てみると、なんとコメントを頂いていた! これは何と幸いなのだ! というわけで、コメント返信を本題とさせていただく。

雑談的なものについて

>仕事の関係で営業先で話をしている場合は、話題が途切れると気まずい思いをすること

 ありますねー。プライベートでも(機会は殆どありませんが)あまり親しくない(知らない人)と付き合う場合などでも。もっといえば、お店の人相手とかでもあるかもしれない。

 それは、おっしゃる通り、情報共有・情報交換が目的なので、それが達成できていない状況に気後れする、という現象なのだろうと思います。(もしくは、僕の場合は、「よく見られなければ」という強迫観念があることも気まずさの原因かもしれません)

 逆に、ある程度関係構築できている相手とかだと、敢えて会話に参加しなくていいかなーなんて思えて楽というのはありますね。楽……なのがいいのか、というのは分かりませんが、少なくてもストレスは少ない状態でいられます。

創作者と作品について

>割と良く言われる話でもありますね。

 あ、そうだったのですね。
 私は、昔は……というか、今もその傾向があるといえばありますが、完全に分ける派でした。分ける派、というよりも、敢えて「リアルな面」に目を向けようとしていなかったというか。
 アニメの声優さんとか、映画の俳優さんとか、全然知らなかった。素人も思わなかった。映画の俳優さんは、その演じるキャラクターそのものであって、俳優という職業のイチ人間であるとは思えなかった。

 最近は、同じ作者や監督やらの作品は、どこか類似傾向があって面白い、という観点から興味をもつことはありますが、「だれだれが好き」というよりも、その作品が好き、という感覚が強いかなぁ。
 触れていらっしゃるように、調べてみたら、自分は到底好きになれなそうな人だった、というのが判ったりすると、なんだか損した気分……というか、もったいないような気分になってしまうからかもしれません。

 ああ、洋楽で気に入った曲があって、歌詞調べてみたら全然好みじゃなかった、とか、そういうケースと似ているかもしれません(笑)。


>ただ、1つ思うのは、この手の話って逆のパターンをあまり耳にしたことないんですよね。「作品はつまらないけどその作者や周辺には好感が持てる」みたいな。

 確かに! まったく聞かないですね。
 まぁおっしゃるとおり、面白くない作品の作者を敢えて調べる、ということ自体しないからかもしれません。ある連続した作品(作者)を追っていて、最新作はつまらなかった、というケースがあったとしても、それは既に作者を知っている――面白かった時代があったからその作者を知っている、ということになるでしょうので。

 あとは、友人同士で、作品が生じる前にその人となりを知っていて、そのあとにその人の作品を知って(読んで・見て)というケースはあるかもしれません。特殊な場合ですね。

タイムリープ

>世界線を変えられるとした時、大きな分岐点だと思うタイミング

 2010年の世界線が収束するタイミングがあるのですか! どんな日なのか、どんな出来事なのか、気になります。


>逆に、今だからこそ得られている大切なものがある場合は、それを得られなくなる可能性も大きいであろう道が選べるかどうか……。

 まさに、それが重要ですね。なかったことにしてはいけない――。

あとがき

(かっこ書きである。眠気等により強制終了)


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学ぶことはたくさんある
2020/02/18 22:34 | Comments(0) | 生きる意味
今日の一言「19時ぐらい帰宅」

まえがき

 学ぶことは、たくさんある、と思う。
 記憶力のなさを言い訳にしても仕方がない。「考える」ということは、結局、知識がなければ行えないのである。
 例えば、今日学んだこととして(時間があったので心の余裕もあった)、経済についてだ。

(以下、特に何も参照しないで書くので、誤ったことを書いている可能性は多分にある。単に考えたことの思考メモとして捉えて頂きたい)

 物価と金利の関係について考えてみる。
 物価が上がって、お金の価値が下がることをインフレーションという。

 それは知識だ。
 では、物価が上がると、お金の流通はどうなるのか。

 物価=ものの値段が高くなるのだから、お金がたくさん必要になる。そういう意味では、お金の価値が上がった、ともいえるのではないか、と僕は思った。
 ただし、100円で買えたものが、200円必要になったのだから、お金の価値は下がった、といえるのだ。
 一方で、お金のニーズは高まることになる。

 お金のニーズが高まるから、金利が上がる。

 金利とは、お金を貸した側がプラスして返してもらえる権利である(僕の独自理解。あってるか分からない。ウィキると違うかもしれないが、混乱するから敢えてしない)。
 お金の需要が高まった状態であれば、金利が上がっても、それでもお金が必要な人は借りる、という仕組みである。
 しかし、それでもどうしようもなく金利が高くなりすぎると、「抑制」する行動をとるしかなくなるから、景気が抑えられるということだ。

景気とは何か

 GDPの前年比のことを、「経済成長率」という。
 GDPとは、国内総生産のことである。何を生産しているかというと、「財」と「サービス」だ。

 要するに、僕らの世界には、財(モノ)とサービス(現象)しかないのだ。

 その価値の指標に「お金」が使われる。ただし、お金とは、金融といったりして、キャッシュ(現金)には限られない。株式や債券やら保険やらに姿を変えて、現象(存在)しているのだ。


 でもって、景気とは、その流通のことである。

 言葉を換えれば、「運動量」である。電気でいえば、アンペアだ。いっぱい電子が流れていると、景気が良い状態。あんまり流れていないと、景気が悪い状態、というわけだ。

 電気はともかく、「景気」という現象において、その流通(運動量)とは何か。

 財・サービスの移動である。
 例えば、サービスで思い浮かぶのは、マッサージ施術所に行ったとする。現金で3000円ほど支払う。そして、施術してもらう。現金と、施術(サービス)の移動である。

 サービスの移動というのはいまいち自分の中でも消化できないが、AとBとの関係のことともいえる。
 それがイメージしづらければ、現金だけでも動いたことになるから、「流通した」ということになる。

時間と景気との関係

 時間という概念も、速度次第で歪む。といった相対性理論は置いておいて、1日は24時間である。
 マッサージを24時間受けることはあり得ない。だから、流通にも限界がある。

 しかし、1980年代からダウ平均株価は上がり続けている。

 あと、昭和の時代は、そば一杯15円ぐらいだったようだ。不思議だ。
 何が不思議かというと、今、蕎麦屋さんが、いっぱい15円で販売したら、1日もたずに潰れるだろうからだ。
 そもそも、原材料仕入れからして無理である。

 だから、日本全体の物価が低かったということになる。
 ただし、蕎麦の作り方自体と、必要な原材料は、昭和初期と現代で、そこまで大幅に違うだろうか。多分違わない。
 作る時間はどうか。多分違わない。

 にもかかわらず、物価が上がっても、世界は成り立つようになっているのか。

サービスについて

 逆に、過去に比べて、家電なり、コンピュータなり、便利になっているはずなのに、何故人は未だに働き続けているのか。

 つまり、景気とは――人の活動とは、――経済とは、運動量なのであって、何かしら動いていないと、崩壊するのである。絶滅するのだ。

 絶え間なく動き続けることでのみ、人は社会を維持できるのである。

 自給自足以外には、たとえ宗教ですら経済の循環からは逃れられない。托鉢して無償でお経を唱えることはあるかもしれないが、それは宗教という精神的支柱を維持するサービスなのである。

 また、全員が金融商品に興味を持って、株式トレーダーになれば、産業が空洞化するのは間違いなかろう。
 第一次産業(農業)、第二次産業(工業)がやっぱり大事なのである。とはいえ、それについては、機械化が進み、ロボット化が進み、AI化が進みで、「人」自体は不要になるかもしれない。ただ、当該産業に関わる機械やロボットや、その部品生産や、それらを管理するソフトウェアのプログラマーなどを無碍にはできないだろう。

 もしくは、大帝国的に、先進国が後進国を支配する構図というのもあるかもしれない。プランテーション、モノカルチャー。ただ、グローバル社会において、そういうのは古い、ということになるだろう。それについては、悲観的には、人道主義などではなくて、単に需要を増やすという経済的な面に思われるが、異論はたくさんあるかもしれない。僕は歴史学者じゃないから分からない。

需要と運動量

 ということで、最初の話題に戻るが、僕は、経済とは――景気とは、「運動量」だと思う。さっきの植民地時代のような話に絡めれば、植民地の人たちにも、支配する側の国が作った物品などを買ってもらったりした方が、より景気がよくなる――物流が生まれる、ということになる。物流があったほうが、社会は豊かになるということだ。

 要は僕らは、消費し続けることが「正解」なのである。

 絶え間なく作り、そして使って、その循環スピードを速く、早く、疾くしていくことが、経済として正解なのだ。

 ――ということと、「幸福」という概念は同義にはならないと思われる。
 しかし、この経済と幸福に関する議論は、往々にしてかみ合わない。電気学と磁気学は交わっても、電力会社と水道会社はまじわらないのだ(意味不明な例)。

あとがき

(かっこ書きである。今日はここまで。とかってことを考えるためにも、知識が必要である。しかし、昭和25年(1950年)に、そば一杯が15円だったことを覚えても仕方がなかろう。であれば、どういった知識が必要なのか。国民年金の受給できる年齢が65歳で、満額だと年間78万円ぐらいもらえることを覚えておいたほうが役に立つのか。ちなみに、65歳の誕生日の属する月の翌月から受給権が生じて、支給自体は偶数月の15日(2か月おき)にされるようだ。へー。78万円って、月にすると、6万5千円。さすがに、暮らすのは困難そうである。――とかって記憶があっても、意味がない――わけではなかろう。少なくても、未来について、何も分からないわけではなくなる、ということだ。まそもそも、パンデミックやシンギュラリティによって誰も想像だにしないことが起こっているかもしれない。果たして、2回の世界大戦前の人々は、戦争が起きることを予想していたのか。明治維新後の富国強兵や教育や保険・保健に力を入れたのは、国力増強のためなのだろうが、他国を「やっつける」ことが、生き残るために必要だと思われていたからだ。いまや、某国家だろうと、戦争が絶対に必要だ、とは言わない時代になった。ここら辺の話は、『暴力の人類史』あたりをもう一回読んだ方がいいかもしれない。暴力は減ってきているそうだ。その理由は、――なんだっけ、割に合わないから、かな。なんかブログ記事にまとめた気もするが、忘れている。――そう、そういった知識を、ちゃんと記憶しておいた方がいい気がする。ただ、「暴力は減ってきていまーす!」といったことだけ覚えていても、「エビデンスだせ」といわれて終わる。俺は研究者じゃないからそんなもん出せるか! となる。せいぜい出典を挙げるぐらいだ、悔しい、びくんびくん、となる。いやそもそも、誰かと議論をしたいのではない。だからいつも戻りに戻って、結局、大事なのは、このブログのタイトルと思うのである)

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