今日の一言「19時ぐらい帰宅」
記憶力のなさを言い訳にしても仕方がない。「考える」ということは、結局、知識がなければ行えないのである。
例えば、今日学んだこととして(時間があったので心の余裕もあった)、経済についてだ。
(以下、特に何も参照しないで書くので、誤ったことを書いている可能性は多分にある。単に考えたことの思考メモとして捉えて頂きたい)
物価と金利の関係について考えてみる。
物価が上がって、お金の価値が下がることをインフレーションという。
それは知識だ。
では、物価が上がると、お金の流通はどうなるのか。
物価=ものの値段が高くなるのだから、お金がたくさん必要になる。そういう意味では、お金の価値が上がった、ともいえるのではないか、と僕は思った。
ただし、100円で買えたものが、200円必要になったのだから、お金の価値は下がった、といえるのだ。
一方で、お金のニーズは高まることになる。
お金のニーズが高まるから、金利が上がる。
金利とは、お金を貸した側がプラスして返してもらえる権利である(僕の独自理解。あってるか分からない。ウィキると違うかもしれないが、混乱するから敢えてしない)。
お金の需要が高まった状態であれば、金利が上がっても、それでもお金が必要な人は借りる、という仕組みである。
しかし、それでもどうしようもなく金利が高くなりすぎると、「抑制」する行動をとるしかなくなるから、景気が抑えられるということだ。
GDPとは、国内総生産のことである。何を生産しているかというと、「財」と「サービス」だ。
要するに、僕らの世界には、財(モノ)とサービス(現象)しかないのだ。
その価値の指標に「お金」が使われる。ただし、お金とは、金融といったりして、キャッシュ(現金)には限られない。株式や債券やら保険やらに姿を変えて、現象(存在)しているのだ。
でもって、景気とは、その流通のことである。
言葉を換えれば、「運動量」である。電気でいえば、アンペアだ。いっぱい電子が流れていると、景気が良い状態。あんまり流れていないと、景気が悪い状態、というわけだ。
電気はともかく、「景気」という現象において、その流通(運動量)とは何か。
財・サービスの移動である。
例えば、サービスで思い浮かぶのは、マッサージ施術所に行ったとする。現金で3000円ほど支払う。そして、施術してもらう。現金と、施術(サービス)の移動である。
サービスの移動というのはいまいち自分の中でも消化できないが、AとBとの関係のことともいえる。
それがイメージしづらければ、現金だけでも動いたことになるから、「流通した」ということになる。
マッサージを24時間受けることはあり得ない。だから、流通にも限界がある。
しかし、1980年代からダウ平均株価は上がり続けている。
あと、昭和の時代は、そば一杯15円ぐらいだったようだ。不思議だ。
何が不思議かというと、今、蕎麦屋さんが、いっぱい15円で販売したら、1日もたずに潰れるだろうからだ。
そもそも、原材料仕入れからして無理である。
だから、日本全体の物価が低かったということになる。
ただし、蕎麦の作り方自体と、必要な原材料は、昭和初期と現代で、そこまで大幅に違うだろうか。多分違わない。
作る時間はどうか。多分違わない。
にもかかわらず、物価が上がっても、世界は成り立つようになっているのか。
つまり、景気とは――人の活動とは、――経済とは、運動量なのであって、何かしら動いていないと、崩壊するのである。絶滅するのだ。
絶え間なく動き続けることでのみ、人は社会を維持できるのである。
自給自足以外には、たとえ宗教ですら経済の循環からは逃れられない。托鉢して無償でお経を唱えることはあるかもしれないが、それは宗教という精神的支柱を維持するサービスなのである。
また、全員が金融商品に興味を持って、株式トレーダーになれば、産業が空洞化するのは間違いなかろう。
第一次産業(農業)、第二次産業(工業)がやっぱり大事なのである。とはいえ、それについては、機械化が進み、ロボット化が進み、AI化が進みで、「人」自体は不要になるかもしれない。ただ、当該産業に関わる機械やロボットや、その部品生産や、それらを管理するソフトウェアのプログラマーなどを無碍にはできないだろう。
もしくは、大帝国的に、先進国が後進国を支配する構図というのもあるかもしれない。プランテーション、モノカルチャー。ただ、グローバル社会において、そういうのは古い、ということになるだろう。それについては、悲観的には、人道主義などではなくて、単に需要を増やすという経済的な面に思われるが、異論はたくさんあるかもしれない。僕は歴史学者じゃないから分からない。
要は僕らは、消費し続けることが「正解」なのである。
絶え間なく作り、そして使って、その循環スピードを速く、早く、疾くしていくことが、経済として正解なのだ。
――ということと、「幸福」という概念は同義にはならないと思われる。
しかし、この経済と幸福に関する議論は、往々にしてかみ合わない。電気学と磁気学は交わっても、電力会社と水道会社はまじわらないのだ(意味不明な例)。
まえがき
学ぶことは、たくさんある、と思う。記憶力のなさを言い訳にしても仕方がない。「考える」ということは、結局、知識がなければ行えないのである。
例えば、今日学んだこととして(時間があったので心の余裕もあった)、経済についてだ。
(以下、特に何も参照しないで書くので、誤ったことを書いている可能性は多分にある。単に考えたことの思考メモとして捉えて頂きたい)
物価と金利の関係について考えてみる。
物価が上がって、お金の価値が下がることをインフレーションという。
それは知識だ。
では、物価が上がると、お金の流通はどうなるのか。
物価=ものの値段が高くなるのだから、お金がたくさん必要になる。そういう意味では、お金の価値が上がった、ともいえるのではないか、と僕は思った。
ただし、100円で買えたものが、200円必要になったのだから、お金の価値は下がった、といえるのだ。
一方で、お金のニーズは高まることになる。
お金のニーズが高まるから、金利が上がる。
金利とは、お金を貸した側がプラスして返してもらえる権利である(僕の独自理解。あってるか分からない。ウィキると違うかもしれないが、混乱するから敢えてしない)。
お金の需要が高まった状態であれば、金利が上がっても、それでもお金が必要な人は借りる、という仕組みである。
しかし、それでもどうしようもなく金利が高くなりすぎると、「抑制」する行動をとるしかなくなるから、景気が抑えられるということだ。
景気とは何か
GDPの前年比のことを、「経済成長率」という。GDPとは、国内総生産のことである。何を生産しているかというと、「財」と「サービス」だ。
要するに、僕らの世界には、財(モノ)とサービス(現象)しかないのだ。
その価値の指標に「お金」が使われる。ただし、お金とは、金融といったりして、キャッシュ(現金)には限られない。株式や債券やら保険やらに姿を変えて、現象(存在)しているのだ。
でもって、景気とは、その流通のことである。
言葉を換えれば、「運動量」である。電気でいえば、アンペアだ。いっぱい電子が流れていると、景気が良い状態。あんまり流れていないと、景気が悪い状態、というわけだ。
電気はともかく、「景気」という現象において、その流通(運動量)とは何か。
財・サービスの移動である。
例えば、サービスで思い浮かぶのは、マッサージ施術所に行ったとする。現金で3000円ほど支払う。そして、施術してもらう。現金と、施術(サービス)の移動である。
サービスの移動というのはいまいち自分の中でも消化できないが、AとBとの関係のことともいえる。
それがイメージしづらければ、現金だけでも動いたことになるから、「流通した」ということになる。
時間と景気との関係
時間という概念も、速度次第で歪む。といった相対性理論は置いておいて、1日は24時間である。マッサージを24時間受けることはあり得ない。だから、流通にも限界がある。
しかし、1980年代からダウ平均株価は上がり続けている。
あと、昭和の時代は、そば一杯15円ぐらいだったようだ。不思議だ。
何が不思議かというと、今、蕎麦屋さんが、いっぱい15円で販売したら、1日もたずに潰れるだろうからだ。
そもそも、原材料仕入れからして無理である。
だから、日本全体の物価が低かったということになる。
ただし、蕎麦の作り方自体と、必要な原材料は、昭和初期と現代で、そこまで大幅に違うだろうか。多分違わない。
作る時間はどうか。多分違わない。
にもかかわらず、物価が上がっても、世界は成り立つようになっているのか。
サービスについて
逆に、過去に比べて、家電なり、コンピュータなり、便利になっているはずなのに、何故人は未だに働き続けているのか。つまり、景気とは――人の活動とは、――経済とは、運動量なのであって、何かしら動いていないと、崩壊するのである。絶滅するのだ。
絶え間なく動き続けることでのみ、人は社会を維持できるのである。
自給自足以外には、たとえ宗教ですら経済の循環からは逃れられない。托鉢して無償でお経を唱えることはあるかもしれないが、それは宗教という精神的支柱を維持するサービスなのである。
また、全員が金融商品に興味を持って、株式トレーダーになれば、産業が空洞化するのは間違いなかろう。
第一次産業(農業)、第二次産業(工業)がやっぱり大事なのである。とはいえ、それについては、機械化が進み、ロボット化が進み、AI化が進みで、「人」自体は不要になるかもしれない。ただ、当該産業に関わる機械やロボットや、その部品生産や、それらを管理するソフトウェアのプログラマーなどを無碍にはできないだろう。
もしくは、大帝国的に、先進国が後進国を支配する構図というのもあるかもしれない。プランテーション、モノカルチャー。ただ、グローバル社会において、そういうのは古い、ということになるだろう。それについては、悲観的には、人道主義などではなくて、単に需要を増やすという経済的な面に思われるが、異論はたくさんあるかもしれない。僕は歴史学者じゃないから分からない。
需要と運動量
ということで、最初の話題に戻るが、僕は、経済とは――景気とは、「運動量」だと思う。さっきの植民地時代のような話に絡めれば、植民地の人たちにも、支配する側の国が作った物品などを買ってもらったりした方が、より景気がよくなる――物流が生まれる、ということになる。物流があったほうが、社会は豊かになるということだ。要は僕らは、消費し続けることが「正解」なのである。
絶え間なく作り、そして使って、その循環スピードを速く、早く、疾くしていくことが、経済として正解なのだ。
――ということと、「幸福」という概念は同義にはならないと思われる。
しかし、この経済と幸福に関する議論は、往々にしてかみ合わない。電気学と磁気学は交わっても、電力会社と水道会社はまじわらないのだ(意味不明な例)。
あとがき
(かっこ書きである。今日はここまで。とかってことを考えるためにも、知識が必要である。しかし、昭和25年(1950年)に、そば一杯が15円だったことを覚えても仕方がなかろう。であれば、どういった知識が必要なのか。国民年金の受給できる年齢が65歳で、満額だと年間78万円ぐらいもらえることを覚えておいたほうが役に立つのか。ちなみに、65歳の誕生日の属する月の翌月から受給権が生じて、支給自体は偶数月の15日(2か月おき)にされるようだ。へー。78万円って、月にすると、6万5千円。さすがに、暮らすのは困難そうである。――とかって記憶があっても、意味がない――わけではなかろう。少なくても、未来について、何も分からないわけではなくなる、ということだ。まそもそも、パンデミックやシンギュラリティによって誰も想像だにしないことが起こっているかもしれない。果たして、2回の世界大戦前の人々は、戦争が起きることを予想していたのか。明治維新後の富国強兵や教育や保険・保健に力を入れたのは、国力増強のためなのだろうが、他国を「やっつける」ことが、生き残るために必要だと思われていたからだ。いまや、某国家だろうと、戦争が絶対に必要だ、とは言わない時代になった。ここら辺の話は、『暴力の人類史』あたりをもう一回読んだ方がいいかもしれない。暴力は減ってきているそうだ。その理由は、――なんだっけ、割に合わないから、かな。なんかブログ記事にまとめた気もするが、忘れている。――そう、そういった知識を、ちゃんと記憶しておいた方がいい気がする。ただ、「暴力は減ってきていまーす!」といったことだけ覚えていても、「エビデンスだせ」といわれて終わる。俺は研究者じゃないからそんなもん出せるか! となる。せいぜい出典を挙げるぐらいだ、悔しい、びくんびくん、となる。いやそもそも、誰かと議論をしたいのではない。だからいつも戻りに戻って、結局、大事なのは、このブログのタイトルと思うのである)PR