今日の一言「東京では雪が降った」
雪国で暮らしていれば、冬に雪が降るというのは何の珍しいことでもないのだろうが、普段降らない、降ったとしても1年に数度といった場所で暮らしていると、珍しさにどこか心躍るものを感じる。
さて、毎日更新するということが最近できなくなっている。拍手コメントもらって嬉しいフォイ!! ――しかし、面白くない記事を毎日書いても仕方がない。何が面白くて、何が面白くないかは、自分でも分からないのであるが、何か、「新しい情報」があるかどうかがポイントだと思う。もう一つは、新しい情報でなくても、それが、過去のどの情報と関連するか、ということが明白である場合は、面白いと思う。
今日は、「イド:インヴェイデッド」というアマゾンプライムで見られる(現在10話)作品について書いていこうと思う。
エゴ、は自我であり、自分で意識的な部分であるが、イド(エス)は、無意識の領域である。リビドー(性的欲求)に突き動かされている部分である。深層心理。
スーパーエゴは、理性であり、親や環境などの教育によって形作られる。イドと、スーパーエゴによって自我(エゴ)はバランスを取っているのである。
インヴェイデッドとは、「侵入した」という英語だと思われる。つまり、イドに侵入する物語だ。
ある若めの男がベッドで目覚めると、身体がバラバラにされていた。
死。終了。
とはならず、バラバラながらも、意識を保っていられることにやがて気づく。
そして、バラバラになった身体をかき集めて、自分がこの世界で何をすべきなのかを思い出す。
そして、徐々に、そのバラバラの世界が何なのか、そもそも何故その世界に自分がいるのかといったことが明かされていく。
最近で一番面白い気がする。――といっても、最近みた作品って何かあったっけ。あったけれども、途中でやめたものが結構多い気がする。久々に、これは最後まで見させて欲しいと強く思う作品だ。
ああ、思い出した、フェイトグランドオーダーのアニメもあった。スマホゲーム派生の作品だ。スマホゲームはやったことがない。ただ、フェイトシリーズは、ステイナイトとゼロを見たことがある。ステイナイトはゲームもやったことがある、という状態の自分としては、「面白くなかった」(3話までしか見ていないが……)。
いや、ゲームは面白いのかもしれない。それに、映像はピカイチにきれいで、よく動いていた。ヒロインの女の子もエロ……いやごほんごほん。
だが、きれいなのと、面白いかは別問題である。めっちゃくちゃ綺麗で美しい文章が奏でられる小説があったとしても、物語として面白くなければ楽しめない。
ああ、あと、マギアレコードも、途中まで見た。これは、まぁ、まぁ面白い、かもしれない。いずれ、最後まで見る気がする。ただ、優先度は低い。暇なとき、気持ちが向いたら見るか、的な。
イド:インヴェイデッドは、もう、最新話配信されたらすぐみたい! といった感じだ。
まぁ、さらに「見たい」「期待」「面白い」が高まった作品は、「もったいな過ぎてみれない」といった状態になることもある。シュタインズゲートがそんな感じだった気がする。
ただ、オムニバス形式で、事件や問題を一つずつ解決していきながら、その裏で発生している大きな問題の核心に迫っていく、という王道といえば王道なストーリーが、明確に表現されていることだろうと思う。
その裏で発生している問題、というのも、割と序盤のうちから分かりやすい伏線がはられる。物語自体は、フロイトの「イド」といった概念を持ち出したり、中々制約が多い機器・装置を使ったりするので、分かりやすいわけではない。オープニングの「バラバラ」のシーンなど、完全にチンプンカンプンだった。あれが続いたら、1話みずにして諦めていたかもしれない。
それでも、物語の方向性は分かりやすく描かれているので、飽きずに続きを期待できるようになっているのだ。
人物も、めちゃくちゃたくさん出てきて、名前を覚えるのが大変――いや、ほとんど覚えられていないぐらいだが、しかし、これは小説と違ってアニメの特権だろうが、名前を憶えられていなくても、なんか雰囲気で行けるようになっている。
まえがき
エアコンを付けていても何となく寒いな、と思っていたら、外では雪が降っていた。雪国で暮らしていれば、冬に雪が降るというのは何の珍しいことでもないのだろうが、普段降らない、降ったとしても1年に数度といった場所で暮らしていると、珍しさにどこか心躍るものを感じる。
さて、毎日更新するということが最近できなくなっている。拍手コメントもらって嬉しいフォイ!! ――しかし、面白くない記事を毎日書いても仕方がない。何が面白くて、何が面白くないかは、自分でも分からないのであるが、何か、「新しい情報」があるかどうかがポイントだと思う。もう一つは、新しい情報でなくても、それが、過去のどの情報と関連するか、ということが明白である場合は、面白いと思う。
今日は、「イド:インヴェイデッド」というアマゾンプライムで見られる(現在10話)作品について書いていこうと思う。
タイトルの意味
イド、とは、フロイトの理論である。イド・エゴ・スーパーエゴに、僕らは無意識下に規定されているのだという。エゴ、は自我であり、自分で意識的な部分であるが、イド(エス)は、無意識の領域である。リビドー(性的欲求)に突き動かされている部分である。深層心理。
スーパーエゴは、理性であり、親や環境などの教育によって形作られる。イドと、スーパーエゴによって自我(エゴ)はバランスを取っているのである。
インヴェイデッドとは、「侵入した」という英語だと思われる。つまり、イドに侵入する物語だ。
オープニング
ちなみに僕は、何の前情報もなく、見始めた。アマプラに記載される「あらすじ」さえもみなかった。ただ見始めた。ある若めの男がベッドで目覚めると、身体がバラバラにされていた。
死。終了。
とはならず、バラバラながらも、意識を保っていられることにやがて気づく。
そして、バラバラになった身体をかき集めて、自分がこの世界で何をすべきなのかを思い出す。
そして、徐々に、そのバラバラの世界が何なのか、そもそも何故その世界に自分がいるのかといったことが明かされていく。
ネタバレを書かないとしたとき
やばい、つい、がんがんネタバレを書きそうになっていた。とりあえず、今、10話まで見ることができるが、全部見た時点の感想として、「面白い」。最近で一番面白い気がする。――といっても、最近みた作品って何かあったっけ。あったけれども、途中でやめたものが結構多い気がする。久々に、これは最後まで見させて欲しいと強く思う作品だ。
ああ、思い出した、フェイトグランドオーダーのアニメもあった。スマホゲーム派生の作品だ。スマホゲームはやったことがない。ただ、フェイトシリーズは、ステイナイトとゼロを見たことがある。ステイナイトはゲームもやったことがある、という状態の自分としては、「面白くなかった」(3話までしか見ていないが……)。
いや、ゲームは面白いのかもしれない。それに、映像はピカイチにきれいで、よく動いていた。ヒロインの女の子もエロ……いやごほんごほん。
だが、きれいなのと、面白いかは別問題である。めっちゃくちゃ綺麗で美しい文章が奏でられる小説があったとしても、物語として面白くなければ楽しめない。
ああ、あと、マギアレコードも、途中まで見た。これは、まぁ、まぁ面白い、かもしれない。いずれ、最後まで見る気がする。ただ、優先度は低い。暇なとき、気持ちが向いたら見るか、的な。
イド:インヴェイデッドは、もう、最新話配信されたらすぐみたい! といった感じだ。
まぁ、さらに「見たい」「期待」「面白い」が高まった作品は、「もったいな過ぎてみれない」といった状態になることもある。シュタインズゲートがそんな感じだった気がする。
何が面白いか
何が面白いか、というのを書くのは難しいことに思われる。ただ、オムニバス形式で、事件や問題を一つずつ解決していきながら、その裏で発生している大きな問題の核心に迫っていく、という王道といえば王道なストーリーが、明確に表現されていることだろうと思う。
その裏で発生している問題、というのも、割と序盤のうちから分かりやすい伏線がはられる。物語自体は、フロイトの「イド」といった概念を持ち出したり、中々制約が多い機器・装置を使ったりするので、分かりやすいわけではない。オープニングの「バラバラ」のシーンなど、完全にチンプンカンプンだった。あれが続いたら、1話みずにして諦めていたかもしれない。
それでも、物語の方向性は分かりやすく描かれているので、飽きずに続きを期待できるようになっているのだ。
人物も、めちゃくちゃたくさん出てきて、名前を覚えるのが大変――いや、ほとんど覚えられていないぐらいだが、しかし、これは小説と違ってアニメの特権だろうが、名前を憶えられていなくても、なんか雰囲気で行けるようになっている。
あとがき
(かっこ書きである。面白さを、全然表現できなかった気がする。ただ、僕自身が面白いと思ったということは伝わる記事になった気はする。何故面白いかは全然分からない気がする(笑)。ただ、最新話だったかな、主人公が、過去の回想(厳密には回想とは違う――これ自体がネタバレになる)をするシーンで、泣きそうになった。いやーなんだろ、「くさい」シーンである。分かりきった、よく使われる構成だし、シーンだし、流れ出し、実際俺の予想した通りに事は進んだわけだけれども、それでも、泣きそう、いや泣いたのかもしれない。感動を作り出すには、「流れ」が必要なのだとあらためて思った。けもフレ2の記事をある方が書かれていたが、ラストのこれまで登場したみんなが集合して敵と戦うという、ある意味王道シーンも、それまでの蓄積がなさすぎて、感動に至れなかったとのことである。物語は、本当に、単発のシーンで成り立っているのではなく、大きな流れなのだということが良く分かる、感じられる。さてこの「イド」のアニメは、何クール(12話なのか、24話なのか)なのだろうか。分からないが、10話で、かなり最高潮の盛り上がりをみせたのではないかと思う。12話で終わりなのだとしたら、こっから一気にクライマックスにもっていくことになるが、果たして)PR
今日の一言「21:00頃帰宅」
日本国憲法は、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の3つの要素を、人類普遍の原理として考えている。
中国で新型コロナ対応が早かったのは、早々にマスク購入などに実名登録が必要など、強力な管理があったからだと言われる。緊急事態においては、衆愚政治よりは専制政治の方がましというのもある。
衆愚政治に陥らないためには何が必要なのか。
批判するのは簡単だが、じゃあ、どうすればよいか、というのは難しい問題であったりする。
それはおいておいて、機械が、司法の分野を補助するというのはアリではないか。A.I.導入。
もちろん、裁判は、明文化された法律――所詮は文書をもとに解釈することになり、森羅万象人間社会の様々な事象について記載されているわけではない。人間の判断がどうしても必要だ、という考えも必要だろう。
ただし、その諸元――様々な事象の要件の入力は人の手でやるとして、その入力結果の判定を、AIに補助させるというのはありではないか。すべての法律、すべての判例、裁判例を入力することだって可能だろう。その莫大なインプットは、いくら東大卒エリートの記憶力をもっても、かなうものではないはずだ。
AIの判定は、ブラックボックスになりがちだというが、その判定プロセスも明らかにするようなことも研究されているという。十分に可能であると思われる。
行政は、どうか。これは、身近な引っ越しなどにかかる手続きなど。そもそも全部オンラインでできるようにできないのだろうか。本人確認が難しそうである。しかし、顔認証という技術もある。人間の目視と、顔認証リーダの認証が、どちらが信用に足るものか。
シンギュラリティとは、技術特異点として、人間より機械の方が頭がよくなってしまうという点のことだけれども、そこまでいかなくても、「人間が、機械の判断のほうが正しいと思うようになる」という現象は先に起こりえると思う。
例えば、電卓で計算したものよりも、エクセルに入力したものの方が確からしかろう。そろばん?? 言うに及ばずである。
単純な計算ならそりゃそうだ。でも、人間と機械は「考える力」が全然違うだろう――という意見はもっともだ。しかし、リーディングスキルが実はAIより劣っている人がいたりするのである。なんかそんな数年前流行った本があったと思う。
ということで、みんな、最終的な判断は、機械(AI)に求めるようになっていった――(仮定)。
衆議院と参議院で、それぞれ数百名の議員がいるし、全国の地方議会でも大勢の議員がいるだろう。そして、あーだこーだ議論を白熱させるのだ。
ただ、今はもう違う。
それぞれの党派、議員たちは、法案をつくる勉強が絶対に必要になる。
コネや根回しなんかよりも、その提出した法案の妥当性を判断するのは、AIなのだ。
よい法案であれば、それが与党のものだろうが野党のものだろうが関係なく通過する。
選挙活動自体のスリム化が図られたのだ。
とはいえ、国民主権という人類普遍の原理が壊れたわけではない。何か問題に直面した時、その問題点を整理するのが議員の仕事だ。議員は、党派という集団ではなく、それぞれの問題――経済や、社会保障、外交、防衛――に特化した集団(専門委員会(仮称))に挙げる。専門委員会が、正規の手続きをもって、AI国会に諮るのである。
そもそも、AIの運用をする機関が必要だ。AIが「正しい」と判定するための情報を、適切に設定させなければいけない。何を正しいとして設定されているかは、広く公表されている(ただし、国家機密レベルの、外交防衛に影響のあるものは除く)。
高度な専門知識を必要とする司法AI、立法AIの運用については、政府公認の民間事業団体が実施する。国家とは機関として異なるが、密接に関係する中央銀行と国との関係のようなものだ。
しかし、一部世界の地域では、AI普及を認めない「原理主義集団」が、局所的に紛争の火種となっていた。
5G、6Gを経て爆速となった通信回線網によって、リモート技術の発展はめまぐるしく、人口減少による国力低下を補ってあまりあるほど、AI・ロボットを含めた生産(人工)人口は、漸増を続けている。
防衛面でもリモート技術は優位に立った。遠隔機動部隊は、ドローンと人型装甲体によって、人的被害を格段に抑えたうえでゲリラを圧倒していった。戦争による被害は、人類史に類を見ないほど減少することができたのだ。
まえがき
完璧な監視社会――ディストピアは、人類にとって不幸なのか。日本国憲法は、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の3つの要素を、人類普遍の原理として考えている。
中国で新型コロナ対応が早かったのは、早々にマスク購入などに実名登録が必要など、強力な管理があったからだと言われる。緊急事態においては、衆愚政治よりは専制政治の方がましというのもある。
衆愚政治に陥らないためには何が必要なのか。
三権分立
国会の運営自体が、果たして適切なのか、ということは、昨今のマスコミ報道などからして、国民としては疑問に思うことがあると思う。しかし、現状としても、割と頑張っているのだと思う。批判するのは簡単だが、じゃあ、どうすればよいか、というのは難しい問題であったりする。
それはおいておいて、機械が、司法の分野を補助するというのはアリではないか。A.I.導入。
もちろん、裁判は、明文化された法律――所詮は文書をもとに解釈することになり、森羅万象人間社会の様々な事象について記載されているわけではない。人間の判断がどうしても必要だ、という考えも必要だろう。
ただし、その諸元――様々な事象の要件の入力は人の手でやるとして、その入力結果の判定を、AIに補助させるというのはありではないか。すべての法律、すべての判例、裁判例を入力することだって可能だろう。その莫大なインプットは、いくら東大卒エリートの記憶力をもっても、かなうものではないはずだ。
AIの判定は、ブラックボックスになりがちだというが、その判定プロセスも明らかにするようなことも研究されているという。十分に可能であると思われる。
行政は、どうか。これは、身近な引っ越しなどにかかる手続きなど。そもそも全部オンラインでできるようにできないのだろうか。本人確認が難しそうである。しかし、顔認証という技術もある。人間の目視と、顔認証リーダの認証が、どちらが信用に足るものか。
アーティフィシャル・インテリジェンスの浸透
そうして、AIは至る所で浸透していくとする。シンギュラリティとは、技術特異点として、人間より機械の方が頭がよくなってしまうという点のことだけれども、そこまでいかなくても、「人間が、機械の判断のほうが正しいと思うようになる」という現象は先に起こりえると思う。
例えば、電卓で計算したものよりも、エクセルに入力したものの方が確からしかろう。そろばん?? 言うに及ばずである。
単純な計算ならそりゃそうだ。でも、人間と機械は「考える力」が全然違うだろう――という意見はもっともだ。しかし、リーディングスキルが実はAIより劣っている人がいたりするのである。なんかそんな数年前流行った本があったと思う。
ということで、みんな、最終的な判断は、機械(AI)に求めるようになっていった――(仮定)。
衆議院と参議院で、それぞれ数百名の議員がいるし、全国の地方議会でも大勢の議員がいるだろう。そして、あーだこーだ議論を白熱させるのだ。
ただ、今はもう違う。
それぞれの党派、議員たちは、法案をつくる勉強が絶対に必要になる。
コネや根回しなんかよりも、その提出した法案の妥当性を判断するのは、AIなのだ。
よい法案であれば、それが与党のものだろうが野党のものだろうが関係なく通過する。
選挙活動自体のスリム化が図られたのだ。
とはいえ、国民主権という人類普遍の原理が壊れたわけではない。何か問題に直面した時、その問題点を整理するのが議員の仕事だ。議員は、党派という集団ではなく、それぞれの問題――経済や、社会保障、外交、防衛――に特化した集団(専門委員会(仮称))に挙げる。専門委員会が、正規の手続きをもって、AI国会に諮るのである。
運用の問題
しかしこれによって、しがらみや利権問題がすべて解決したわけではない。そもそも、AIの運用をする機関が必要だ。AIが「正しい」と判定するための情報を、適切に設定させなければいけない。何を正しいとして設定されているかは、広く公表されている(ただし、国家機密レベルの、外交防衛に影響のあるものは除く)。
高度な専門知識を必要とする司法AI、立法AIの運用については、政府公認の民間事業団体が実施する。国家とは機関として異なるが、密接に関係する中央銀行と国との関係のようなものだ。
世界規模の普及
このAI国家は、社会保障、経済その他あらゆる面で成果を数値として表し、世界規模で広まっていった。しかし、一部世界の地域では、AI普及を認めない「原理主義集団」が、局所的に紛争の火種となっていた。
5G、6Gを経て爆速となった通信回線網によって、リモート技術の発展はめまぐるしく、人口減少による国力低下を補ってあまりあるほど、AI・ロボットを含めた生産(人工)人口は、漸増を続けている。
防衛面でもリモート技術は優位に立った。遠隔機動部隊は、ドローンと人型装甲体によって、人的被害を格段に抑えたうえでゲリラを圧倒していった。戦争による被害は、人類史に類を見ないほど減少することができたのだ。
あとがき
(かっこ書きである。――という御話だったとさ、という記事になった。ただ、まんざらでもなく、割と、設定としては好きだ。こういうお話し書きたい、読みたい。ただ、物語は、ストーリーの構成と、人物がなければならない。コンセプトとしては、「もし、AIが立法司法行政あらゆる面で浸透して人の判断の価値が相対的に低下したら」というものになる。もちろん、ベーシックインカムも普及している。基本、働かなくても、安全安心に生活することは可能である。しかし、高度な技術を維持運用するために、エリートは必要だ。教育を受けさせる義務は国民にあって、その教育において有能さが見いだされたものは、半ば強制的にAI政府の仕事に携わることになる。それは、高度な社会に対する奴隷制の復活ではないか。ある日疑問を抱きそれが膨らんでいった主人公に、ヒューマン型支援インタフェース(ガイノイド)のサリンジャーは、現システムを変革可能とするとある秘密の存在を明かす……)
今日の一言「22:55頃帰宅」
不利な立場での交渉は面倒くさい。
それでいて、それが何かプラスになるというわけではない。プラスというのは、評価という意味において。かといって、評価されたからといって、モチベーションがあがるわけでもない。
モチベーション上がらないなぁ。なんかもっと楽しい仕事があるのだろうか。ある、かもしれない。しかし、もっと大変な仕事もあるだろう。
とかく、人の世は面倒である。
こんなときは、頭を空っぽにしてゲームして、風呂に入って、寝たい。
が、更新はしよう。
何か、ネタはないか。
ええと、株価が大暴落している。含み損が大きくなっている。悲しい。まぁでも、そういうこともあるのが株である。逆に買い時かもしれない。
抵当権について。
抵当権とは、担保のことである。担保というのは、借金の肩代わりになるものである。借金と引き換えにすぐさま引き渡されるものではないが、もしものときは、もっていかれるものである。
正しく書けば、抵当権とは、担保(もしものときの借金の返済に使われるもの)を得る権利のことである。
そして、民法では、土地と建物の関係において、「法定地上権」という考え方がある。
土地に抵当権が設定されていたとしても、土地と建物が同一の所有者であるなどの要件が満たされていれば、認められる権利のことである。
この法定地上権が認められると、土地が借金の担保として競売にかけられたとしても、建物を所有する人はすぐさま立ち退く必要はなくなる、ということだ。
へー。
ということは、借金の肩代わりに土地の抵当権をあげるよ! と言われても、軽々に喜ぶべきではない、ということだ。民法第388条のことだ。民法第388条には法定地上権のほか、その場合の地代は請求できる、とあるが……しかし、そもそも借金のある人に対して有効に請求できるのか、その辺りは不思議。
まえがき
今日は、精神的に忙しくて疲れた。不利な立場での交渉は面倒くさい。
それでいて、それが何かプラスになるというわけではない。プラスというのは、評価という意味において。かといって、評価されたからといって、モチベーションがあがるわけでもない。
愚痴を言っても始まらない
暗澹たる気分である。モチベーション上がらないなぁ。なんかもっと楽しい仕事があるのだろうか。ある、かもしれない。しかし、もっと大変な仕事もあるだろう。
とかく、人の世は面倒である。
こんなときは、頭を空っぽにしてゲームして、風呂に入って、寝たい。
が、更新はしよう。
何か、ネタはないか。
ええと、株価が大暴落している。含み損が大きくなっている。悲しい。まぁでも、そういうこともあるのが株である。逆に買い時かもしれない。
抵当権について
特に、脈絡はないが、何も内容が無いのはつまらないので、一つ、ネタを書く。抵当権について。
抵当権とは、担保のことである。担保というのは、借金の肩代わりになるものである。借金と引き換えにすぐさま引き渡されるものではないが、もしものときは、もっていかれるものである。
正しく書けば、抵当権とは、担保(もしものときの借金の返済に使われるもの)を得る権利のことである。
そして、民法では、土地と建物の関係において、「法定地上権」という考え方がある。
土地に抵当権が設定されていたとしても、土地と建物が同一の所有者であるなどの要件が満たされていれば、認められる権利のことである。
この法定地上権が認められると、土地が借金の担保として競売にかけられたとしても、建物を所有する人はすぐさま立ち退く必要はなくなる、ということだ。
へー。
ということは、借金の肩代わりに土地の抵当権をあげるよ! と言われても、軽々に喜ぶべきではない、ということだ。民法第388条のことだ。民法第388条には法定地上権のほか、その場合の地代は請求できる、とあるが……しかし、そもそも借金のある人に対して有効に請求できるのか、その辺りは不思議。
あとがき
(かっこ書きである。債権と債務という言葉もある。あまり理解していない。いい大人が恥ずかしい。債権は、僕も買っている(という言い方が正しいのかわからん)ので、お金を返してもらえる権利である。債務は、お金を返す義務のことだ。しかし、債務名義というと、債権者の権利を公的機関が証明した書類のことである。――と書くと違和感がない気がするが、なんだか最初は違和感があった。「債権名義」となぜ言わないのか、と思ったような気がする。「債務」の内容が書いてある名義(書類)なのだから、債務名義という、ことだということで、覚えようかと思う。ちなみに、なんだか仕事の愚痴からの流れで書いているから、仕事の内容とか、借金が発生したとか、そういうのは全く関係ない。ただ、借金という意味では、株の含み損は……)
今日の一言「生活リズムがリズムになってない」
しかし、これは本当なのか。どうにも自分の身体としては、よく分からない。それに、何のための「効率」なのか。
そもそも、眠れなくて、深夜2時ぐらいになったとして、それでも、朝7時に起きるのは無理があるのではないか。いやもちろん、平日はそれぐらいなのだが、休日も同様なのか、という点だ。
目覚ましかけないと、15時ぐらいまで普通に寝ている気がする。そこまでいくと、確実に翌日の休日にも影響するのだが。
もう、自己嫌悪というか、モチベーション(これも、何のモチベーションなのか、という点があるが)は最悪である。
であれば、逆に、初めから、15時までに起きる、という、「計画」を立てておけばどうか。
何をばかな!
となりそうだが、しかし、ふと、わけのわからない時間に目が覚めて、いや割とよいのでは、と思った。
要するに、「自己コントロール感」が自己肯定感にとって重要なのである、としたときに、その50%程度の成功率で「可能である」目標を立てることが重要なのだ。
先般少し、頂いたコメント等も含めて書いたことと関係する。
生活保護受給世帯は160万人で、生活保護受給者数は200万人であるという。
この数字が多いか少ないか。
数字だけでは分からないことがある。割合、率である。人口に占める生活保護受給世帯はどう変化しているのだろうか。
中学校だかの教科書に、朝日訴訟という、生活保護について憲法の解釈を争った事件があったと思う。あれの結論としては、「プログラム規定説」として、憲法は理念を(この言い方が正しいか不明だが)示しているのであって、具体的な保護の基準(いくら支給されるべきか)ということまでを規定しているのではない、というものであった。要は、朝日氏は負けた、ということになるのだろうか。
ただ、おそらく、生活保護というものについての国民の意識を大きくしたのがその事件だったと思うし、それによって生活保護基準の見直しが図られて、対象者がぐっと増えたのではないかと思う。そういう世論が形成されたのではないかと、思う。たぶん。
その仮説を証明するには、数字が必要だ。朝日訴訟は、1967年判決だそうだ。
その前後の、生活保護受給者数と、人口に占める割合を見ればよさそうだ。
→ぐぐったら厚労省資料に過去推移が見やすいのがあった(リンクの資料4ページ1)
結論としては、大外れだった。1967年は、昭和42年だが、昭和40年~昭和50年の期間は、保護世帯は急速に減少している。保護率は、1.63から1.21%へ。ちなみにH29時点は、1.69%。
というとなると、生活保護数は、経済状況の方が相関関係が強いのかもしれない。
まえがき
ほんと、休日は、昼起きて深夜に寝るというスタイルになっている気がする。正直、身体に良くない気がする。――が、これも、どうなのか。確かに、小さいころから、生活リズムをちゃんとしなさいと言われてきた。書籍などでも、朝起きる時間は変えないほうが効率的、というのがあったと思う。しかし、これは本当なのか。どうにも自分の身体としては、よく分からない。それに、何のための「効率」なのか。
そもそも、眠れなくて、深夜2時ぐらいになったとして、それでも、朝7時に起きるのは無理があるのではないか。いやもちろん、平日はそれぐらいなのだが、休日も同様なのか、という点だ。
目覚ましかけないと、15時ぐらいまで普通に寝ている気がする。そこまでいくと、確実に翌日の休日にも影響するのだが。
もう、自己嫌悪というか、モチベーション(これも、何のモチベーションなのか、という点があるが)は最悪である。
であれば、逆に、初めから、15時までに起きる、という、「計画」を立てておけばどうか。
何をばかな!
となりそうだが、しかし、ふと、わけのわからない時間に目が覚めて、いや割とよいのでは、と思った。
要するに、「自己コントロール感」が自己肯定感にとって重要なのである、としたときに、その50%程度の成功率で「可能である」目標を立てることが重要なのだ。
貧困について
脈絡がないといえば、ない。先般少し、頂いたコメント等も含めて書いたことと関係する。
生活保護受給世帯は160万人で、生活保護受給者数は200万人であるという。
この数字が多いか少ないか。
数字だけでは分からないことがある。割合、率である。人口に占める生活保護受給世帯はどう変化しているのだろうか。
中学校だかの教科書に、朝日訴訟という、生活保護について憲法の解釈を争った事件があったと思う。あれの結論としては、「プログラム規定説」として、憲法は理念を(この言い方が正しいか不明だが)示しているのであって、具体的な保護の基準(いくら支給されるべきか)ということまでを規定しているのではない、というものであった。要は、朝日氏は負けた、ということになるのだろうか。
ただ、おそらく、生活保護というものについての国民の意識を大きくしたのがその事件だったと思うし、それによって生活保護基準の見直しが図られて、対象者がぐっと増えたのではないかと思う。そういう世論が形成されたのではないかと、思う。たぶん。
その仮説を証明するには、数字が必要だ。朝日訴訟は、1967年判決だそうだ。
その前後の、生活保護受給者数と、人口に占める割合を見ればよさそうだ。
→ぐぐったら厚労省資料に過去推移が見やすいのがあった(リンクの資料4ページ1)
結論としては、大外れだった。1967年は、昭和42年だが、昭和40年~昭和50年の期間は、保護世帯は急速に減少している。保護率は、1.63から1.21%へ。ちなみにH29時点は、1.69%。
というとなると、生活保護数は、経済状況の方が相関関係が強いのかもしれない。
あとがき
(かっこ書きである。で? と言われても困る。ただ、なんとなく、人生の選択肢として、自殺よりは、生活保護の方が先の選択肢であった方がいいと思ったのである。自殺者は、先日調べたところだと、2万人を切っている。ちなみに、若い人のほうが死にがちだった気がする(違ったか。「若い」の定義によりそうだ)。理想の社会の在り方はなんだろうか。自殺者はゼロの方がいい気がする(これすらも違うかもしれない)。生活保護もゼロの方がよい気がする(違うかもしれない)。――というよりも、先日コメントも頂いたが、一時的に生活保護になっても、再チャレンジしていけるような社会が良い社会なのかもしれない。――ということ自体に興味があるわけではないのだが……。何を言いたいのか、書きたいのか、俺は何を感じているのか。なんかちょっと、今回の記事も(僕の感覚と)ズレている気がするのだけれども、とにかく、数字がある程度記憶の中に入っていないと、考えることもできない、かもしれない。――でもそうか? 社会情勢を正しく理解できたとして、それと、自分の生き方とは直結するのか? そう、なんというか、もっと切り込んだことを考えたいのである。そもそも、生活保護は、税金で成り立っているということからすれば、生活保護者は、みんなで支えているということである。これは、保険のようなリスクに対する保障と同じように考えてよいのか。僕らが突然どうしようもなくて、働けなくなって、生活保護を受給するしかなくなることもあり得る。そういう、リスクへの備えということでよいのか。そもそも、利益中心で考える必要がある資本主義社会とは、一線を画す考え方ではなかろうか。税金が高い、高いと、一般の方々もよく声にすると思う。消費税増税――たかだか2%程度(という書き方をすると攻撃的だが)でワーワー声が上がる。一方で、社会保障は手厚くしろという。富豪や政治家や公務員の給料を下げて「弱者」へ配分しろ、ということなのであろうが、果たして正しい考え方なのか(正しい「配分」というのが、恐らく見出すことは不可能だろうという点からしても)。いろいろな観点をぐちゃっと書いたが、一般的な感覚の一つとして、「生活保護は甘え」とかって意識もあるだろう。パチンコに行くほどの余裕あるんじゃないか、派遣社員で頑張ってる俺より裕福じゃないかとか、そういうのもあるだろう。ただ、それは程度の問題として、僕が考えたい部分じゃない気がする。そもそも、何が正しいのか。生活保護を全部廃止して、非正規雇用の給料を上げた方が経済が活発化するのではないか、とかっていうと、きっと非人道として社会的に抹殺されるだろう。しかし、不思議だ、抹殺された先には、生活保護があるのである。じゃあ、死ななくていいのか、とか、わけが分からない。ただ、分からないが、完全な推測だが、「国」とか、生活保護課の人でもいいが、予算としては、減らしたほうが良いって思うのではないか。――いや、この辺りはもっとかっこ書きじゃなくてちゃんと書いたほうがよいな。ただ、組織的な目標と、人としての考えってのがある、と思う、ということである。うーむ、全然書ききれない感覚。だが時間切れだ。意外と、書くことはあるんだよな、ただ、こう、「のる」ことが、最近できない。まずは、着手することが大事なんだよな)
今日の一言「徒然に書きたい」
休日の過ごし方が非常に重要だと思われる。
金曜日は、普段より長めでも、翌日があるからと、溜まった仕事を片付ける傾向が最近ある。そのせいで、遅くなり……昨日は確か、25時帰宅だったような気がする。そうすると、起きる時間は遅くなる。起きようとは思うのだ。ちゃんと、起きようとする、しかし、一度は目が覚めても、頭がぼーっとするせいか、また布団にもぐりこむということがよくある。
これを、どう改善すればよいのか。分からない。仕事を、減らせばよい気がする。
しかし、自分の裁量で減らすのは難しい面もある。先日も、突発的な問い合わせによって予定がクルクルした。狂った。
……といった、事実といえば事実なのだけれども、具体的ではない記述は、面白くない。かといって、内容を書いても……会社のレポートには起こったことは記録しているわけであるが故に、下手に内容を書くわけにもいかないし。
光の速さについてだ。
もちろん、特に脈絡はない。いつものことだ。ふと思い立ったのだ。
光の速さは、299,792,458m/sである。約30万キロ毎秒といわれる。
地球を1秒で7周半するといわれる。
(ふと思ったのだが、光って、重力の影響も受けるんだな――というのは、地球は球体である。光はたぶん直進性がある。にもかかわらず、7周半できるのであれば、重力の影響を受けているんだな、と思ったわけだ。――しかし、これは誤解かもしれない。そもそも、7周半というのは、地球の直系が「12,742km」であることの比喩なのかもしれない。――と思って調べたら、やっぱり比喩だそうだ。俺の推測は当たっていた! なんか嬉しい(小さな幸せ))
昔は、光は、一瞬で到達するものだと考えられていたそうである。確かに、僕もそう思っていたと思う。
そもそも、「光」といったものを、物理で測れる量だとは思っていなかったというのはある。光は光なのだと。電気が光るのは、そういう事象なのだと。
しかし、ガリレオさんは違った。光はおそらく有限の速さをもつものだと考えた。ガリレオ氏はそれを証明することはできなかったが、17世紀にレーマー氏が、木星とその衛星のイオの観測から、光の速さを約20万km/sと求めた。30万にちかい。400年ぐらい前なのだから、すごい。
証明の仕方は、YOUTUBEでぐぐるとたくさん出てくる。僕が初めに見たのは、この動画だった。分かりやすかった。ので、あえて僕が文字で説明する意味は全くないのだが、自分の理解のために書かせていただく。
イオを〇とする。
地球 ―― 木星 〇
↓
地球 ―― 〇 木星
上のような感じで、イオが木星の周りをぐるぐるしている。そのグルグルの周期は観測できていた。ガリレオ氏が天体望遠鏡を発明したからだそうだ。
地球の位置から、木星の裏にイオがいったときは、地球からイオを観測することはできない。
それを、「食」という。日食ってのは、月で太陽が隠されることだから、イオ食っていうのだろうか。
その、イオ食の期間は22日だという。
光の速さが無限であれば、地球が、どの位置にいても、イオ食の期間は同じはずである。
太陽 地球 ―― 木星 〇
地球 太陽 ―― 木星 〇
ところが、その期間にはズレがあった。そのずれは●日間だった。(具体的な数字は忘れてしまった)
そのズレというのは、太陽と地球の距離の関係が原因ではないかと考えられた。太陽と地球の距離は分かっていたそうだ。(それはそれで、どうやって計測したのだろうか)
速さ = 距離 ÷ 時間
である。今与えられたのは、ズレの●日間(時間)と、距離である。
それによって、
(地球と太陽の距離)×2 ÷ (イオ食の最大日数 - 最小日数(ズレ))
として、光の速さを求めたのである。おぉ、賢い……。
ちなみに、月食についての、国立天文台の動画が意外に美しくて焦った。月食って、地球の影で隠れる現象なんだなぁ。
まえがき
毎年、そんな気がする。1月に当年の目標を立て、1月2月は卒なくこなし、3月ぐらいで全然目標から外れていく……と、そんな気がする。休日の過ごし方が非常に重要だと思われる。
金曜日は、普段より長めでも、翌日があるからと、溜まった仕事を片付ける傾向が最近ある。そのせいで、遅くなり……昨日は確か、25時帰宅だったような気がする。そうすると、起きる時間は遅くなる。起きようとは思うのだ。ちゃんと、起きようとする、しかし、一度は目が覚めても、頭がぼーっとするせいか、また布団にもぐりこむということがよくある。
これを、どう改善すればよいのか。分からない。仕事を、減らせばよい気がする。
しかし、自分の裁量で減らすのは難しい面もある。先日も、突発的な問い合わせによって予定がクルクルした。狂った。
……といった、事実といえば事実なのだけれども、具体的ではない記述は、面白くない。かといって、内容を書いても……会社のレポートには起こったことは記録しているわけであるが故に、下手に内容を書くわけにもいかないし。
閑話休題
そんなことを言っていてもはじまらない。他者を悪く言うことは、あまり好きではない。ただ、どうしていいか分からないことがよくある。それはともかく。光の速さについてだ。
もちろん、特に脈絡はない。いつものことだ。ふと思い立ったのだ。
光の速さは、299,792,458m/sである。約30万キロ毎秒といわれる。
地球を1秒で7周半するといわれる。
(ふと思ったのだが、光って、重力の影響も受けるんだな――というのは、地球は球体である。光はたぶん直進性がある。にもかかわらず、7周半できるのであれば、重力の影響を受けているんだな、と思ったわけだ。――しかし、これは誤解かもしれない。そもそも、7周半というのは、地球の直系が「12,742km」であることの比喩なのかもしれない。――と思って調べたら、やっぱり比喩だそうだ。俺の推測は当たっていた! なんか嬉しい(小さな幸せ))
昔は、光は、一瞬で到達するものだと考えられていたそうである。確かに、僕もそう思っていたと思う。
そもそも、「光」といったものを、物理で測れる量だとは思っていなかったというのはある。光は光なのだと。電気が光るのは、そういう事象なのだと。
しかし、ガリレオさんは違った。光はおそらく有限の速さをもつものだと考えた。ガリレオ氏はそれを証明することはできなかったが、17世紀にレーマー氏が、木星とその衛星のイオの観測から、光の速さを約20万km/sと求めた。30万にちかい。400年ぐらい前なのだから、すごい。
証明の仕方は、YOUTUBEでぐぐるとたくさん出てくる。僕が初めに見たのは、この動画だった。分かりやすかった。ので、あえて僕が文字で説明する意味は全くないのだが、自分の理解のために書かせていただく。
イオを〇とする。
地球 ―― 木星 〇
↓
地球 ―― 〇 木星
上のような感じで、イオが木星の周りをぐるぐるしている。そのグルグルの周期は観測できていた。ガリレオ氏が天体望遠鏡を発明したからだそうだ。
地球の位置から、木星の裏にイオがいったときは、地球からイオを観測することはできない。
それを、「食」という。日食ってのは、月で太陽が隠されることだから、イオ食っていうのだろうか。
その、イオ食の期間は22日だという。
光の速さが無限であれば、地球が、どの位置にいても、イオ食の期間は同じはずである。
太陽 地球 ―― 木星 〇
地球 太陽 ―― 木星 〇
ところが、その期間にはズレがあった。そのずれは●日間だった。(具体的な数字は忘れてしまった)
そのズレというのは、太陽と地球の距離の関係が原因ではないかと考えられた。太陽と地球の距離は分かっていたそうだ。(それはそれで、どうやって計測したのだろうか)
速さ = 距離 ÷ 時間
である。今与えられたのは、ズレの●日間(時間)と、距離である。
それによって、
(地球と太陽の距離)×2 ÷ (イオ食の最大日数 - 最小日数(ズレ))
として、光の速さを求めたのである。おぉ、賢い……。
ちなみに、月食についての、国立天文台の動画が意外に美しくて焦った。月食って、地球の影で隠れる現象なんだなぁ。