今日の一言「フラットな状態とは」
思うに、おそらく、「フラット」という状態が、もはや幻想なのではないかと思った。
つまり、僕が「落ち着いた状態」と望む状態というのは、現実的には存在しないものなのではないか、ということだ。
よくよく思い出してみると、学生時代は、ほぼ毎日のように新しいことに出会っていた。
そもそも学校の授業、という意味であれば、単元は毎日進む。かつ、家での勉強というのも前提とされていた。予習復習大事、よく聞いた言葉だろう。
そう思えば、勉強は「きりがない」ことの筆頭選手だったはずだ。
何せ、たとえクラスで一番点数が良いとしても、学年ではまだまだかもしれないし、他の学校も含めるとまだまだ、まだまだかもしれないし、全国と比べたらエトセトラ、である。
世の中、そもそも、「ゴール」というものがなかったのだ。
にも関わらず、人生のゴールというものを定めようという僕のこのブログの目的は(そうだったのか)、あまりにもナンセンスではなかろうか。
日々の生活の中で、少しずつ成長と貢献をしていく、漸近的なモデルの提唱を、どこかで書いた気がする。
しかし、例えば創作活動においたとしても、僕は、絵が描きたい。もっといえば、オープンワールドゲームのような、3Dモデリングとかしたい。もっと世界を創造したい。
が、それは間違いなく、アウトソーシング(外部委託)したほうがよいだろう。
(いや、言い切らないほうがいいかもしれない、ただ、ここで言いたいこととしては適切)
土台になる知識・技術は必要だが、人はみな、得意なことを伸ばすべきである。
であるからにして、人は協力したほうが、すばらしい作品を生み出せるのだ。
ということから考えると、やはり、「ゴール」というのは明確に定めるべきだと思われる。
「何を伸ばすべきか」を見据えなければ、自分に足りないこともわからず、アウトソーシングもできないからだ。
だが、それを定めること自体が難しいことは往々にしてある。
ゴールが決まっていれば、次は、それを実現する手段を選定する。
手段が分かれば実行する。
ゴール(目的)→手段選定→実行
この流れで我々の活動は決まる。家族内行為でも、創作活動でも、仕事でも、何でもそうだ。
(例)
部屋を綺麗な状態に保つ(目的)→掃除機をかける・食器を洗う→実行
だが、ゴール自体がはっきりしないことは多い。
「利益を上げる」
これは、目的といえば目的だが、こっから、手段を選び取るというのは、それ自体が困難だ。
そういったときは、目的自体を、小さな目的に分割していく必要がある(エレファント・テクニックというらしい)。まず、利益とは、どのステークホルダのものなのか定義していった方がいいかもしれない。たいてい「自社」なのだろうが、顧客側の利益を上げるのか。
日本国憲法の第13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。この憲法が保障する生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とされている。
個人として尊重されるのが、基本的人権のうんたらというやつだ。
だが、見方をかえれば、歯車に過ぎない場面は多い。素晴らしいアニメ作品があったとして、しかし、その下支えする人たちは、歯車かもしれない。もちろん、蟲師のDVD特典のメイキングであったように、作画、撮影、音響それぞれの人たちが、それぞれの個性や能力をいかんなく発揮して素晴らしい作品ができあがっている。それでも、あえて厳しい、マイナスな言葉を使うとすれば、「歯車」である。交換可能だ、代替可能な部品だ。
――言い過ぎである、おそらく、「その人」でなければ、素晴らしい作品(-10ポイント)ぐらいになってしまったかもしれない。そのマイナスポイントのせいで、素晴らしいけど、ちょっと惜しいかなという作品になったかもしれない。
だから、「歯車」という言葉は適切ではない。
ゆえに、自分の持ち場を責任もって守る、最大限能力を発揮する、というのも十分有意義である。
いやだからなので、上の小見出しでの主旨は、目的を定めて、手段を選んで、実行するという一連の流れを常に意識する必要はなくて、ただ、「実行する」というだけでもいいはずだ、ということだ。(たぶん、そういった思いで書き始めた気がする)
ただし、そうはいっても、こと、自分の人生、ということにおいては、決して、ただ実行だけではなく、手段を選ぶだけではなく、その目的を、しっかりと見据えたほうがいいのではないか、と、僕はもうかれこれ10年ぐらい思っている気がする。
もしかすると、20年ぐらい思っているのかもしれない。
まえがき
身体的・精神的に落ち着いてきた、と先日書いた気がしたが、また落ち着かなくなった。思うに、おそらく、「フラット」という状態が、もはや幻想なのではないかと思った。
つまり、僕が「落ち着いた状態」と望む状態というのは、現実的には存在しないものなのではないか、ということだ。
よくよく思い出してみると、学生時代は、ほぼ毎日のように新しいことに出会っていた。
そもそも学校の授業、という意味であれば、単元は毎日進む。かつ、家での勉強というのも前提とされていた。予習復習大事、よく聞いた言葉だろう。
そう思えば、勉強は「きりがない」ことの筆頭選手だったはずだ。
何せ、たとえクラスで一番点数が良いとしても、学年ではまだまだかもしれないし、他の学校も含めるとまだまだ、まだまだかもしれないし、全国と比べたらエトセトラ、である。
世の中、そもそも、「ゴール」というものがなかったのだ。
にも関わらず、人生のゴールというものを定めようという僕のこのブログの目的は(そうだったのか)、あまりにもナンセンスではなかろうか。
ゴール
ただし、まぁ20代ぐらいであればいざ知らず、最近ここ数年の感覚として、「完璧なゴール」というものを、本当に想定しているわけではないだろう。日々の生活の中で、少しずつ成長と貢献をしていく、漸近的なモデルの提唱を、どこかで書いた気がする。
しかし、例えば創作活動においたとしても、僕は、絵が描きたい。もっといえば、オープンワールドゲームのような、3Dモデリングとかしたい。もっと世界を創造したい。
が、それは間違いなく、アウトソーシング(外部委託)したほうがよいだろう。
(いや、言い切らないほうがいいかもしれない、ただ、ここで言いたいこととしては適切)
土台になる知識・技術は必要だが、人はみな、得意なことを伸ばすべきである。
であるからにして、人は協力したほうが、すばらしい作品を生み出せるのだ。
ということから考えると、やはり、「ゴール」というのは明確に定めるべきだと思われる。
「何を伸ばすべきか」を見据えなければ、自分に足りないこともわからず、アウトソーシングもできないからだ。
エレファント・テクニック
ゴールは大事だ。だが、それを定めること自体が難しいことは往々にしてある。
ゴールが決まっていれば、次は、それを実現する手段を選定する。
手段が分かれば実行する。
ゴール(目的)→手段選定→実行
この流れで我々の活動は決まる。家族内行為でも、創作活動でも、仕事でも、何でもそうだ。
(例)
部屋を綺麗な状態に保つ(目的)→掃除機をかける・食器を洗う→実行
だが、ゴール自体がはっきりしないことは多い。
「利益を上げる」
これは、目的といえば目的だが、こっから、手段を選び取るというのは、それ自体が困難だ。
そういったときは、目的自体を、小さな目的に分割していく必要がある(エレファント・テクニックというらしい)。まず、利益とは、どのステークホルダのものなのか定義していった方がいいかもしれない。たいてい「自社」なのだろうが、顧客側の利益を上げるのか。
分割自体が目的でもよい
と、いった、全体的な視点というのは大事かもしれないが、そもそも、僕らは歯車でもある。日本国憲法の第13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。この憲法が保障する生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とされている。
個人として尊重されるのが、基本的人権のうんたらというやつだ。
だが、見方をかえれば、歯車に過ぎない場面は多い。素晴らしいアニメ作品があったとして、しかし、その下支えする人たちは、歯車かもしれない。もちろん、蟲師のDVD特典のメイキングであったように、作画、撮影、音響それぞれの人たちが、それぞれの個性や能力をいかんなく発揮して素晴らしい作品ができあがっている。それでも、あえて厳しい、マイナスな言葉を使うとすれば、「歯車」である。交換可能だ、代替可能な部品だ。
――言い過ぎである、おそらく、「その人」でなければ、素晴らしい作品(-10ポイント)ぐらいになってしまったかもしれない。そのマイナスポイントのせいで、素晴らしいけど、ちょっと惜しいかなという作品になったかもしれない。
だから、「歯車」という言葉は適切ではない。
ゆえに、自分の持ち場を責任もって守る、最大限能力を発揮する、というのも十分有意義である。
言いたいことに辿り着かない
時間切れが近づく。いやだからなので、上の小見出しでの主旨は、目的を定めて、手段を選んで、実行するという一連の流れを常に意識する必要はなくて、ただ、「実行する」というだけでもいいはずだ、ということだ。(たぶん、そういった思いで書き始めた気がする)
ただし、そうはいっても、こと、自分の人生、ということにおいては、決して、ただ実行だけではなく、手段を選ぶだけではなく、その目的を、しっかりと見据えたほうがいいのではないか、と、僕はもうかれこれ10年ぐらい思っている気がする。
もしかすると、20年ぐらい思っているのかもしれない。
あとがき
(かっこ書きである。ニュースで、パチンコ店の休業要請云々が昨今流れる。僕は(政治的なことは書かないが)パチンコは賭博だし、賭博は法律でダメってなってたはずだし、全部廃止でよいと思っている。タバコについても同様だ。ただ、これは僕は単なる僕の価値観に過ぎないと思っているし、パチンコが人生の目的という人でも、何ら構わないと思う(そういう人と付き合いたいかというのは別の話)。ただそれは、確か香川県だった気がするが、ゲーム禁止条例とか、そういったバカげた方向に世論が傾くことがないようにしないといけないから、パチンコも仕方がないね、という立場をとらざる得ない、ということである。大事なことは、ゾーニングだと思う。触れなくて済む権利、というのはあると思う。ただし、ゾーニングの土台にあるのは、自分の興味のないことに対する「理解」である。知らない人、知らないことに対する共感や理解の立場というか、スタンスがないと、ゾーニングは心理的な分離となり、敵味方に分かれていき、争い(他の排除)に発展していくだろう。ちなみに、上の禁止条例を「馬鹿げた」と表現したのは言い過ぎなのかもしれない。1日のうち24時間すべてをゲームに当てていては死んでしまうから、ほどほどに、熱中してもいいけれども、分別をもつようにしましょうね、と。特に子供たちは、その分別(どこまでが適切かの判断)が難しいから、親や地域社会が補助してあげましょうね、と、そういった心構えを定める条例なのかもしれない。そういうんならまだいいかもしれないけれども、ただ、そもそも僕らの行動を制限するようなルール(法・条例)なんかを設けることは基本反対である。いやもちろん、海外から帰国者で、検査すら拒否して、結局後からウイルス陽性だったとか馬鹿げた人がいるような国だから、規制というのは必要なのかもしれない。ただ、その規制というのは、生命に危険が及ぶ場合など、物理的――といえばいいかよい表現が浮かばないが、安全が脅かされるような場合のみに限るべきだと僕は思う)PR
今日の一言「人生逆算すると残り40年ぐらい」
しかし、実際、瀕死の状態、コンソールが赤く表示されている状態は、おそらく、まともに動ける状態ではないと思われる。
そうすると、寿命のぎりぎりまで、まともに活動できるとは思わないほうがよいだろう。
ただ、こう、最近、ビールを飲まないと、記事を書けないのは、よくない気がする。
ただ、今日で、ようやく、精神的、体力的には、フラットに戻った。
フラット。平衡点。
まともに、思考ができる。平和。落ち着いている。安心。意識的。
とにかく、色々に意識を向けられる余裕が今はある。といっても、もう、23時なのだが。
明日当たり、
絶罪殺機アンタゴニアス
を読もうか、
魔導戦騎救国のアルザード
を読もうか。
そんな気持ちである。
面白い、気がする。
ただ、全然系統が違うので比較できないが、イド > PET > 虚構推理 > 鬼滅の刃 的な順位ではないかと思う。やっぱり、イドは、最近見た中ではかなり面白い部類だったと思う。
――そう、文脈全く関係ないが、イドのOP、PETのOP、EDはかっこよかった。アマゾンMUSICとかで売ってたら買おうかな。
で、鬼滅の刃だが、十分面白いと思うのだが、ストーリーとして、アマゾンの批判的レビュー氏の言ってることがよく分かるのである。
その一つとしては、鬼滅隊に所属するための最終選別試験についてである。管理体制ががばがば過ぎる……というレビューであったが、僕もそう思う。
もう一つは、これはネタバレだが、1話目のシーンだからまぁ書いてしまうが、主人公は、まだ一般人で、鬼に家族を殺されてしまったのであるが、家族の一人が鬼になってしまって、かけつけた鬼滅隊の男に、妹が殺されそうになるのである。主人公は立ち向かって、戦うのであるが、そのとき、鬼滅隊の男を殺そうとするのである。主人公はとても優しい少年であるという設定であって、その設定とちょっと合っていないように感じられた。
そういった、場面ごとの、分人的な行動様式というのは、昨今珍しくないのかもしれないが、しかし、物語としてであって、しかも序盤であれば、その整合性というか、キャラクターの強調すべき部分は、可能な限り矛盾を抱かせないようなシーンにして頂いたほうがいいなぁと思ったのであった。
まえがき
RPG(ロールプレイングゲーム)のこと、対戦車砲ではない。RPGで、ヒットポイントが減って、0になったら、戦闘不能になったり、死亡する。しかし、実際、瀕死の状態、コンソールが赤く表示されている状態は、おそらく、まともに動ける状態ではないと思われる。
そうすると、寿命のぎりぎりまで、まともに活動できるとは思わないほうがよいだろう。
特に目的はないのである
特に、この記事に、到達点はない。ただ、こう、最近、ビールを飲まないと、記事を書けないのは、よくない気がする。
ただ、今日で、ようやく、精神的、体力的には、フラットに戻った。
フラット。平衡点。
まともに、思考ができる。平和。落ち着いている。安心。意識的。
とにかく、色々に意識を向けられる余裕が今はある。といっても、もう、23時なのだが。
明日当たり、
絶罪殺機アンタゴニアス
を読もうか、
魔導戦騎救国のアルザード
を読もうか。
そんな気持ちである。
鬼滅の刃
俺は、「きめつのやいば」と打って、変換して、『鬼滅の刃』と変換されたことがやや不思議なのだが、鬼滅の刃を数話みた。面白い、気がする。
ただ、全然系統が違うので比較できないが、イド > PET > 虚構推理 > 鬼滅の刃 的な順位ではないかと思う。やっぱり、イドは、最近見た中ではかなり面白い部類だったと思う。
――そう、文脈全く関係ないが、イドのOP、PETのOP、EDはかっこよかった。アマゾンMUSICとかで売ってたら買おうかな。
で、鬼滅の刃だが、十分面白いと思うのだが、ストーリーとして、アマゾンの批判的レビュー氏の言ってることがよく分かるのである。
その一つとしては、鬼滅隊に所属するための最終選別試験についてである。管理体制ががばがば過ぎる……というレビューであったが、僕もそう思う。
もう一つは、これはネタバレだが、1話目のシーンだからまぁ書いてしまうが、主人公は、まだ一般人で、鬼に家族を殺されてしまったのであるが、家族の一人が鬼になってしまって、かけつけた鬼滅隊の男に、妹が殺されそうになるのである。主人公は立ち向かって、戦うのであるが、そのとき、鬼滅隊の男を殺そうとするのである。主人公はとても優しい少年であるという設定であって、その設定とちょっと合っていないように感じられた。
そういった、場面ごとの、分人的な行動様式というのは、昨今珍しくないのかもしれないが、しかし、物語としてであって、しかも序盤であれば、その整合性というか、キャラクターの強調すべき部分は、可能な限り矛盾を抱かせないようなシーンにして頂いたほうがいいなぁと思ったのであった。
あとがき
(かっこ書きである。早いか、あとがきに入るのはあまりにも早すぎるか。しかし、まずは、毎日、ブログを、書く、ということと、筋トレと、そういえば、音読なんて最近全くしていなかったが音読とか、ちゃんとしたい。「元気」になってくると、ちゃんとしたいと思う。しかし、元気じゃなくなるのである。元気じゃないときは、ほんと、なんもできない。かろうじて、筋トレはしていた。しかし、かなりおざなりだった。そう、だから、「元気」なときに何ができるかは、もはやどうでもいいのだ。元気じゃないときに何ができるか。もっといえば、元気じゃなくなることをどう防ぐか。思うに、「読書」ではないかと思う。映画やアニメ――思い出した、ワイルドスピードの最新作も見たんだった――も悪くないが、それらは、どうでもいいテンションの時も見れてしまう。こう、ニュースを流しているレベルで。感情的な起伏も、思考の没入も必要なかったりする。やっぱり、読書は、何か違う、そんな気がする。いや逆なのか、読書は、「ちゃんと」していないとできないから、ある程度準備ができている状況だから、IN/OUTともに刺激が大きくて、それがゆえに「読書が必要だ」と思ってしまうのか。まず状況を分けなければいけない。完全に元気でなくなったときは、たぶん、読書はもうできる余裕はない。せいぜい、それまで積み重ねてきたルーティンを維持することで精いっぱいになるはずだ。だから、そうではない、元気が落ち込んでいくときに、どういう手段がとれるのか、そこをもう少し考えるべきだろう)
今日の一言「ビールが旨い」
・ やられたらやり返してよい。
・ 危険が迫っていたら先に攻撃してもよい。
・ 善行にはお返しをする。
・ 強者は弱者に配慮する。
・ 約束は守る。
・ 嘘はつかない。
やられっぱなしの人は、ガンジー聖者だと思われる前に、まずは変人とみなされるかもしれない。
上の6つの原理が誠実に履行されている人は、魅力的に映るだろう。リーダー像。強かさ(したたかさ)。
近い距離は、三角測量で求められる。
三角測量とは、タンジェント(tan)を使う。高校数学でならう三角比。
ABC点があって、C点と、AB線上で直角に交わる距離を調べたいとする。角CBAと、角CABは、求められる。(いや、でも、レーザー光とかないと、正確には調べられない気がする)
AB線の長さは、調べられるとする。AB線の中間をEとする。
角ACBは、三角形の内角の和が180°だから、角CBAと、角CABを引けば求められる。
すると、
線AE
― = tan(角ACE)
線CE
となる。
求めたいのは、線CEの長さである。そのため、
線CE = 線AE ÷ tan(各ACE)
で求められる、というわけだ。
(おそらく合ってるはず。求めたい点を結ぶ2点の角度を求めることで測量するもの、という説明を読んで考えてみた)
しかし、宇宙の始まりは138億年前(旧来は137億年とされてきたらしい)であるといわれる。
地球が生まれたのは、46億年前だという。
へーすごい。
しかし、それは一体どうして分かるというのだろう。俺はどうにも、暗記が苦手である。何故それが分かるのか、どうやって導くのかが気になってしまう。そんなこと気にしても意味ないのに。
でも気になったから調べら、
とのことであった。光の波長が長いほうにずれる、というキーワードから調べると、「赤方偏移」というキーワードが見つかった、というわけである。
しかしこれは難しかった。
ただおそらく、通常観測される波長と、その距離を測りたい天体から発せられる光の波長を比較し、その波長が赤いほう(赤は波長が長い。電波はもっと長い)にずれているとき、そのずれは、天体が遠ざかっている速度を表すのだそうだ。
その遠ざかっている速度から、距離を割り出すのだそうだ。
速度から距離を割り出せる、というのは何となく納得してもよい。光の波長が赤いほうにズレる場合は、遠ざかっている速度が大きい、ということも納得してもよい。感覚的にそういうものだと納得できる気がする。
ただ、その「ズレ」がどのようにして導かれるのかは分からなかった。
分からなかったが、
リンク先
という記述から、おそらく、その他計測可能な銀河の光の波長(スペクトル)を調べて、基準となるスペクトル置いて、それとのズレを計測しているのだろうと考え、納得することとした。
しかし、果たして、実測ができない距離においても、光のスペクトルは、同様な様相を示すのか。
ニュートン力学は、大きな物質間においては万有を示すが、素粒子レベルになると有効ではない。赤方偏移も、十分な遠方の場合は成り立たない理論かもしれない。
しかし、そういったことを懐疑すると、「目に見えないものはすべて懐疑する必要がある」ということになる。
1、2、3、4……10、11、……1,000,000、1,000,001……
と続く数列があったとして、「いや、確かに100万までは+1の法則であったが、1,000万以上でも成り立つとは限らない」という主張のようなものである。
これはおおよそ、妥当ではないだろう。
では、「どこから」を、「妥当」と見出すのか。
人は、他者のために行動するときに、真の幸せを得ることができる――という定理があったとして、これを証明するにはどうしたらいいのか。
三角形の内角の和は180°と書いたが、重力レンズ効果の上ではこれは成り立たない。
どこまでを妥当とするのか。納得できるのか。
これは人それぞれ、経験や、知識や、価値観や、信念や、年齢や、性別や、その他様々な諸条件によるものだろうと思う。
まえがき
人類普遍の原理は、6つある。・ やられたらやり返してよい。
・ 危険が迫っていたら先に攻撃してもよい。
・ 善行にはお返しをする。
・ 強者は弱者に配慮する。
・ 約束は守る。
・ 嘘はつかない。
やられっぱなしの人は、ガンジー聖者だと思われる前に、まずは変人とみなされるかもしれない。
上の6つの原理が誠実に履行されている人は、魅力的に映るだろう。リーダー像。強かさ(したたかさ)。
三角測量
赤方偏移とは、遠くの――億光年も離れた天体との距離を測るための理論である。近い距離は、三角測量で求められる。
三角測量とは、タンジェント(tan)を使う。高校数学でならう三角比。
ABC点があって、C点と、AB線上で直角に交わる距離を調べたいとする。角CBAと、角CABは、求められる。(いや、でも、レーザー光とかないと、正確には調べられない気がする)
AB線の長さは、調べられるとする。AB線の中間をEとする。
角ACBは、三角形の内角の和が180°だから、角CBAと、角CABを引けば求められる。
すると、
線AE
― = tan(角ACE)
線CE
となる。
求めたいのは、線CEの長さである。そのため、
線CE = 線AE ÷ tan(各ACE)
で求められる、というわけだ。
(おそらく合ってるはず。求めたい点を結ぶ2点の角度を求めることで測量するもの、という説明を読んで考えてみた)
赤方偏移
ただし、数億光年も離れた距離を測ることは、三角測量の方法では不可能である。しかし、宇宙の始まりは138億年前(旧来は137億年とされてきたらしい)であるといわれる。
地球が生まれたのは、46億年前だという。
へーすごい。
しかし、それは一体どうして分かるというのだろう。俺はどうにも、暗記が苦手である。何故それが分かるのか、どうやって導くのかが気になってしまう。そんなこと気にしても意味ないのに。
でも気になったから調べら、
もっと遠い、何十億光年以上離れた天体、例えば遠い銀河までの距離を知るには、その銀河が遠ざかる速度を使います。私達の地球から見ると、宇宙が膨張しているために、遠くにある銀河ほどより速い速度で遠ざかっていることが観測から分かっています。つまり、銀河が遠ざかる速度が分かれば、その速度から距離を推定することができる、というわけです。「遠ざかっている物体から出る光の波長は長い方にずれる」という性質を使って、銀河のスペクトル線の波長のずれを観測することで速度を知ることができます。波長のずれが大きいほど速度が速いことになり、それだけ遠くにあることがわかります。リンク先
とのことであった。光の波長が長いほうにずれる、というキーワードから調べると、「赤方偏移」というキーワードが見つかった、というわけである。
しかしこれは難しかった。
ただおそらく、通常観測される波長と、その距離を測りたい天体から発せられる光の波長を比較し、その波長が赤いほう(赤は波長が長い。電波はもっと長い)にずれているとき、そのずれは、天体が遠ざかっている速度を表すのだそうだ。
その遠ざかっている速度から、距離を割り出すのだそうだ。
速度から距離を割り出せる、というのは何となく納得してもよい。光の波長が赤いほうにズレる場合は、遠ざかっている速度が大きい、ということも納得してもよい。感覚的にそういうものだと納得できる気がする。
ただ、その「ズレ」がどのようにして導かれるのかは分からなかった。
分からなかったが、
アメリカ合衆国の天文学者エドウィン・ハッブルは様々な銀河までの距離とその銀河のスペクトルを調べ、ほとんど全ての銀河のスペクトルに赤方偏移が見られること、赤方偏移の量は遠方の銀河ほど大きいことを経験を生かして発見した(ハッブルの法則)。この事象は、銀河を出た光が地球に届くまでの間に空間自体が伸びて波長が引き伸ばされるためであると解釈でき、宇宙が膨張していることを示すと考えられている。2016年現在、観測されている最も z が大きい(すなわち最も遠方にあると考えられる)天体は z = 11.09 の銀河 GN-z11 である[1][2]。
リンク先
という記述から、おそらく、その他計測可能な銀河の光の波長(スペクトル)を調べて、基準となるスペクトル置いて、それとのズレを計測しているのだろうと考え、納得することとした。
演繹
つまり、赤方偏移による距離の計測は、演繹法である。確かに、計測可能な距離において、赤方偏移の理論は正しいかもしれない。しかし、果たして、実測ができない距離においても、光のスペクトルは、同様な様相を示すのか。
ニュートン力学は、大きな物質間においては万有を示すが、素粒子レベルになると有効ではない。赤方偏移も、十分な遠方の場合は成り立たない理論かもしれない。
しかし、そういったことを懐疑すると、「目に見えないものはすべて懐疑する必要がある」ということになる。
1、2、3、4……10、11、……1,000,000、1,000,001……
と続く数列があったとして、「いや、確かに100万までは+1の法則であったが、1,000万以上でも成り立つとは限らない」という主張のようなものである。
これはおおよそ、妥当ではないだろう。
では、「どこから」を、「妥当」と見出すのか。
人は、他者のために行動するときに、真の幸せを得ることができる――という定理があったとして、これを証明するにはどうしたらいいのか。
三角形の内角の和は180°と書いたが、重力レンズ効果の上ではこれは成り立たない。
どこまでを妥当とするのか。納得できるのか。
これは人それぞれ、経験や、知識や、価値観や、信念や、年齢や、性別や、その他様々な諸条件によるものだろうと思う。
あとがき
(かっこ書きである。仕事がしたくなさ過ぎて、別のことを考えてしまった。そもそも、眠れなくなったので、ふと思ったことをブログに書くこととしたわけである。こうやって、何の役にも立たないことを調べたり考えたりするのは好きである。そんなことするよりかは、もっと有益な人脈作りとか、資産形成について学んだほうがよいような気がするが、そういう実益的なものは、なんかやる気が起きない。――宇宙の真理を探るのも、立派な仕事だと思うけれども、それを専門でやるとなると、きっとやる気が起きないのだろうと思う……。何事も中途半端な人間なのだろう……と落ち込む。資格の勉強の方をしないとな。しかし、2つ3つ受けようと思っていたところだが、昨今のウイルス情勢によって、のきなみ中止となり、モチベーションは中々上がらない)
今日の一言「優秀さとは何か」
問題とは何か。問題と課題の違いは、課題の方が解決しないといけない差し迫ったものである認識である。問題は少し、漠然としたものといえる。
抽象的な言葉回しで、結局何も言っていないのではないか。意識高い系の空虚な人間ではないか。
空虚の反義はおそらく、充実、だろうか。実質だろうか。とにかく、空っぽというのは、よくないことに思われる。
果たしてそうか。
頭を空っぽにしてみる、という行為は、時に推奨される場面はないか。
判断するというのは、いったいどういうことなのか。
何か問題が生じた場面だろう。何も起きていないときに判断は発生しない。
もちろん、「今日はラーメンを食べよう」というのは確かに判断だろうが、明確に「判断する」という言い方をする場合は、何かの問題に対して裁決するような場面だ。ラーメンのケースは、単に「決めた」という言い方をするはずである。
さて、判断の内実は、どのようなことなのか。
もちろん、辞書を引くというのは一つの手段なので、やってみよう。「ある事柄について、考えをまとめて定めること。その断定した内容」と出てきた。
当然間違ってないのであるが、つまりそれはどういうことなのか。
選択する、という言い方は可能だろうか?
定める、というのであるから、複数の選択肢があって、「これである」という決定をすることといえる。
ただ、それだけではなく、その決定に対して、何らかの主観的な意図がある場合に、判断というのではないか。
複数の選択肢がなくても、「よい」―「わるい」、「よい」―「だめ」という決定でもよい。その決定に至るにあたっての条件に、主観的な要素があるのではないか。
これは、昔からよく(私の中で)問題になる、主観と客観ということは存在するのか、という問題。
主観的、というのは、まぁ人間生きていれば主観的だから特段問題にならないとして、「完全なる客観」というのはあるのか。
数学の世界は客観といえる気がする。
2x+1=5
のときのxは、2だ。これは客観な気がする。
「いや、俺のルールの中では、それは3だ」
という人がいたとしても、そうか、君の中ではそうなんだね(=主観)、となる気がする。
物理学の世界も客観といえる気がする。
確かに、1mというのは、北極から赤道までの距離を1万メートルとしたのは主観だとしても、光の速さは約30万km/秒である。これは客観的な気がする。
秒、も、セシウム原子の放射周期の約90億倍――なのだそうだが、まったく分からない(かっこわらい)。1日が24時間で、1時間は60分で、1分は1秒です、という方が分かりやすい。
日常の「秒」と、厳密な秒とは違うのだということだけ覚えておけば取り急ぎよい。
でまぁ、その厳密性の違いはあったとしても、物理学的な事象は、やはり客観的であるといえるだろう。
つまり、客観的な事象というのは、存在する、ということになる。
要は、完全なる客観(数学や物理学その他の自然学)は、コンピュータが計算して答えを出してくれればいいのである。それは「答え」であって、「判断」ではないだろうと思うのだ。
だから、「判断する」といったときには、どこかしらに主観的要素があるのではないか、と思ったわけだ。
ここまで書いて、ようやく何かしらこの記事の主旨が分かった気がする(俺自身も)。
だから、判断において、100%客観的である必要はないのだ。
重要なのは、「最善な説明が可能か」という点だ。言い換えれば、みんなが納得することなのか、という点だ。
判断の誤りとは何か。
納得されない数が多ければ判断の誤りだ。
みんなが納得すれば正しい判断だ、というのは乱暴ではないか。
例えば、緊急事態宣言がとられたとして、その宣言するタイミングについては、政治的判断だろうと思う。
法律上は、その判断は首相(総理大臣)がしたことになる。実際は、取り巻き、幕僚などが意見したことをそのまま信じているだけかもしれない。そのあたりの実際は全くわからないし、わかる必要もない。とにかく、国のトップが決めた、という建前が大事なのである。建前、と書くと悪いニュアンスが込められているようだが、そういうものではなく、統治形態として(かっこよくかくとスキーム)そういうものなのである。
で、まぁ、判断するわけだ。緊急事態宣言を出すための判断材料としては、ウイルスの感染拡大スピードとか、世界の状況、感染後の死亡率、回復者数とその傾向、衛生用品の普及状況、ワクチンの開発状況(開発可能なのか含め)、経済影響、景気状況、在宅ワーク環境の普及状況、緩やかな自粛要請の効果、宣言を出した場合の批判影響、出さなかった場合の批判影響――などなど、様々な条件・状況を考慮するわけだ。
(上に挙げた以外に、判断材料は他に何かあるだろうか。頑張って5分ぐらい考えてみたが、これぐらいしか思いつかなかった)
そういう諸条件をインプットにして、アウトプットする。これが判断であるとすれば、判断とは何と難しいことだろうか。
書いていることとしては、今日はラーメンを食べよう、という判断ではない、より複雑な判断の場合に、「完璧なる判断」は可能か、ということである。
(僕の中の)結論を書いてしまえば、たぶん、無理、である。
無理だから、その判断の正否は、「より多くが納得できる基準」(MCS:more consentive standard)でしか評価できないのではないだろうか。
(なお、MCSは、それっぽく表現しただけで、今回0.5秒の思い付きなので、ぐぐっても出てこない)
A.I.の可能性として、諸条件をすべて入力して、結論をアウトプットしてもらう、というのはSFでありそうだが、そもそも、その諸条件をどのようにして導くか、ということから判断していかなければいけない。
僕は先ほど例として、いくつかの条件を挙げたけれども、おそらくもっとたくさんの条件が考えられるだろう。同時に、この条件は宣言を出す時期を判断するには関係ない、という判断も必要となってくるだろう。
すると、AIのフレーム問題――何を対象とすればよいかが決められず、解決する問題が無限に増えていく――のようになって、答えがいつになっても出ないかもしれない。
まえがき
一つ問題が起きるとまた一つ。問題とは何か。問題と課題の違いは、課題の方が解決しないといけない差し迫ったものである認識である。問題は少し、漠然としたものといえる。
抽象的な言葉回しで、結局何も言っていないのではないか。意識高い系の空虚な人間ではないか。
空虚の反義はおそらく、充実、だろうか。実質だろうか。とにかく、空っぽというのは、よくないことに思われる。
果たしてそうか。
頭を空っぽにしてみる、という行為は、時に推奨される場面はないか。
判断とは何か
空虚な前書きは置いておいて、一つのテーマに絞って書いてみよう。判断するというのは、いったいどういうことなのか。
何か問題が生じた場面だろう。何も起きていないときに判断は発生しない。
もちろん、「今日はラーメンを食べよう」というのは確かに判断だろうが、明確に「判断する」という言い方をする場合は、何かの問題に対して裁決するような場面だ。ラーメンのケースは、単に「決めた」という言い方をするはずである。
さて、判断の内実は、どのようなことなのか。
もちろん、辞書を引くというのは一つの手段なので、やってみよう。「ある事柄について、考えをまとめて定めること。その断定した内容」と出てきた。
当然間違ってないのであるが、つまりそれはどういうことなのか。
選択する、という言い方は可能だろうか?
定める、というのであるから、複数の選択肢があって、「これである」という決定をすることといえる。
ただ、それだけではなく、その決定に対して、何らかの主観的な意図がある場合に、判断というのではないか。
複数の選択肢がなくても、「よい」―「わるい」、「よい」―「だめ」という決定でもよい。その決定に至るにあたっての条件に、主観的な要素があるのではないか。
客観的な判断はあるのでは
なぜ、判断に、主観的な要素を盛り込もうと俺はしているのか。これは、昔からよく(私の中で)問題になる、主観と客観ということは存在するのか、という問題。
主観的、というのは、まぁ人間生きていれば主観的だから特段問題にならないとして、「完全なる客観」というのはあるのか。
数学の世界は客観といえる気がする。
2x+1=5
のときのxは、2だ。これは客観な気がする。
「いや、俺のルールの中では、それは3だ」
という人がいたとしても、そうか、君の中ではそうなんだね(=主観)、となる気がする。
物理学の世界も客観といえる気がする。
確かに、1mというのは、北極から赤道までの距離を1万メートルとしたのは主観だとしても、光の速さは約30万km/秒である。これは客観的な気がする。
秒、も、セシウム原子の放射周期の約90億倍――なのだそうだが、まったく分からない(かっこわらい)。1日が24時間で、1時間は60分で、1分は1秒です、という方が分かりやすい。
日常の「秒」と、厳密な秒とは違うのだということだけ覚えておけば取り急ぎよい。
でまぁ、その厳密性の違いはあったとしても、物理学的な事象は、やはり客観的であるといえるだろう。
つまり、客観的な事象というのは、存在する、ということになる。
人文的な活動における客観とは
だが、僕が今回問題としているのは、そうした自然的な事象においてではなく、「僕らがする判断」である。要は、完全なる客観(数学や物理学その他の自然学)は、コンピュータが計算して答えを出してくれればいいのである。それは「答え」であって、「判断」ではないだろうと思うのだ。
だから、「判断する」といったときには、どこかしらに主観的要素があるのではないか、と思ったわけだ。
ここまで書いて、ようやく何かしらこの記事の主旨が分かった気がする(俺自身も)。
だから、判断において、100%客観的である必要はないのだ。
重要なのは、「最善な説明が可能か」という点だ。言い換えれば、みんなが納得することなのか、という点だ。
判断の誤りとは何か。
納得されない数が多ければ判断の誤りだ。
政治的判断とは
ちょっとわき道にそれて考えてみる。みんなが納得すれば正しい判断だ、というのは乱暴ではないか。
例えば、緊急事態宣言がとられたとして、その宣言するタイミングについては、政治的判断だろうと思う。
法律上は、その判断は首相(総理大臣)がしたことになる。実際は、取り巻き、幕僚などが意見したことをそのまま信じているだけかもしれない。そのあたりの実際は全くわからないし、わかる必要もない。とにかく、国のトップが決めた、という建前が大事なのである。建前、と書くと悪いニュアンスが込められているようだが、そういうものではなく、統治形態として(かっこよくかくとスキーム)そういうものなのである。
で、まぁ、判断するわけだ。緊急事態宣言を出すための判断材料としては、ウイルスの感染拡大スピードとか、世界の状況、感染後の死亡率、回復者数とその傾向、衛生用品の普及状況、ワクチンの開発状況(開発可能なのか含め)、経済影響、景気状況、在宅ワーク環境の普及状況、緩やかな自粛要請の効果、宣言を出した場合の批判影響、出さなかった場合の批判影響――などなど、様々な条件・状況を考慮するわけだ。
(上に挙げた以外に、判断材料は他に何かあるだろうか。頑張って5分ぐらい考えてみたが、これぐらいしか思いつかなかった)
そういう諸条件をインプットにして、アウトプットする。これが判断であるとすれば、判断とは何と難しいことだろうか。
判断の可能性
ちなみに、このブログでは特定の政治のことは書かないと前々から書いているので、改めて書く必要もないがやっぱり書いておけば、今般日本で出された緊急事態宣言のことを書いているのではないし、それに係る判断の良しあしを書きたいのでもない。書いていることとしては、今日はラーメンを食べよう、という判断ではない、より複雑な判断の場合に、「完璧なる判断」は可能か、ということである。
(僕の中の)結論を書いてしまえば、たぶん、無理、である。
無理だから、その判断の正否は、「より多くが納得できる基準」(MCS:more consentive standard)でしか評価できないのではないだろうか。
(なお、MCSは、それっぽく表現しただけで、今回0.5秒の思い付きなので、ぐぐっても出てこない)
A.I.の可能性として、諸条件をすべて入力して、結論をアウトプットしてもらう、というのはSFでありそうだが、そもそも、その諸条件をどのようにして導くか、ということから判断していかなければいけない。
僕は先ほど例として、いくつかの条件を挙げたけれども、おそらくもっとたくさんの条件が考えられるだろう。同時に、この条件は宣言を出す時期を判断するには関係ない、という判断も必要となってくるだろう。
すると、AIのフレーム問題――何を対象とすればよいかが決められず、解決する問題が無限に増えていく――のようになって、答えがいつになっても出ないかもしれない。
あとがき
(かっこ書きである。判断とは何か、というテーマについて、より多くの人が納得できる答えを出すことである、という意見を書いたので、終わりにしよう。仕事だけではなく、友人、恋人、家族との関係でも応用できると思う。その範囲の違いである。国のトップは、その納得させる相手が全国民となる。知事は県民。家長であれば、家族。郊外に家を買うという判断は、その関係者が納得するならば正しい判断となるだろう。「お父さんがいいならいいよ」となって、でも、買った後に生活が非常に悪くなったとして、「もうこんな生活いや!」となって、「いやでもお前も当時はいいっていったじゃないか」といっても後の祭り。とはいえ、後からであったとしても、納得しない関係者が現れたのだから、その判断は失敗だったのだろう。結果次第。でも、そうした危機を乗り越えて、60歳、70歳となったときに、長年住んだ家にも愛着がわいて、「いろいろあったけど、ここが僕らのマイホーム!」という気持ちに皆なるかもしれない。そうしたら、その危機が発生した時点では判断の失敗であり、結果としては成功だったということになるのか。時間という概念も考慮すれば、判断の正誤というのは更に難しくなる。敢えて政治よりのことをかけば、原発の問題とか。難しい問題だよね。敢えて傍観者的な意見を書けば、ないほうがよいと思う。ただ、じゃあ化石燃料に頼った運用を続けていいかというとそれもダメだろう。じゃあ急進的にすぐ廃止したらどうかというと、それで電力が賄えるならいいだろう。みんなが省エネな暮らしになればいい。もっといえば、人間が減ればいいのかもしれない。環境問題も難しいよね。だって地球のことのみを考えれば人類死滅した方がいいんじゃないかって考えもあるだろう。でもそんな必要ないとは思う。だって地球って、人間がいるから地球って呼んでるのであって、いなければただの鉄の塊だろう。人間も、名前がついているから人間なのであって、そうでなければたんぱく質の塊だろう……というのは違うか)
今日の一言「仕事が気になって目が覚めるのだが」
これもまた面白かった。
面白かったがインフレを起こしそうだが、まぁ素直な感想であるし、面白いと感じられるものが多いことは悪いことではないだろう。批判したくなるのが人間の性だと思うけれども、素直に生きられたほうが生きやすいはずである。
人の心には、ヤマとタニがあるのである。
その両面がなければ、人の心は維持できない。
ヤマとは良かった経験。心の原風景。自分が自分として生きるために必要な根本的な記憶。
タニはその逆。最悪な経験。いやだったこと。トラウマ。
ヤマだけあればよさそうだが、そうではないのだと。タニも必要なのだと。
そういった条件設定が面白いと思う。
そういう意味で俺は今ふと思うに、俺のヤマってなんだろなと思った。
まぁその、PETの登場人物たちのヤマというのも、そんなに特異な経験とかそういうものではなかった。家族との絆とか、父親とのやりとりだとか、そういう感じ。
でも、いい歳した大人が、そういった子供のころの体験をずっと心のヤマとして抱いているのだ。
で、そのヤマを壊してしまうのが潰し屋である。ヤマを壊されると、廃人になってしまうのだ。
タニは、いじめられたとか、幼児虐待されたとかそういう感じ。ヤマが潰されるとそういう状態でずっといるんだろうか。死んだほうがましかもしれない。
でまぁその、最後面白かったと僕の印象を決定づけたのが、人物アーク(人物の変化)部分である。
具体的には変化したというよりも、明らかになったという意味なのだろうが、僕が抱いた印象は大きく変化した。
序盤から登場する、悪人めいた嫌な奴が登場するのである。はじめは、噛ませ的にすぐ死ぬ(壊れる)のかと思ったら、そうではなくて、非常に重要なポジションであった。気づかなかった。
2段階の変化があって面白かった。1段階目は、その悪人の原風景が明らかになるシーン。ああ、こういう嫌な奴でも、そういった過去があったのかと、少し印象が変わった。まぁ「だからこそ」逆に性格がひんまがっちまったんだなと。
でも、2段階目で、それだけじゃなかったんだと分かった。それが切なくて、でも、環境や状況から仕方がなくて、「ああ、そうだったのか……」と言葉を失った。
そして唐突にコメント返信にうつる。
「自分の主観世界からの喪失が死である」というのが、意味を取りかねてしまったのですが、かっこ書きの部分は、私もそうだなと思いました。
客観的に、物理的にその人が死んでいるかどうかよりも、主観的(自分と連絡がつくか、思い出せるか)という状態から外れる(喪失する)ということが、自分にとっての「死」であると。
独善のそしりを受けそうですが、その面は強いと思います。物理的にはもうとっくに、何年も前に死んでいた人も、帰りを待っているとか、その人の教えをもとに日々を生きているという状態にあれば、その人は主観的には死んでいない。
まえがき
PETを見始めてしまったと、前回ぐらいで書いた気がする。これもまた面白かった。
面白かったがインフレを起こしそうだが、まぁ素直な感想であるし、面白いと感じられるものが多いことは悪いことではないだろう。批判したくなるのが人間の性だと思うけれども、素直に生きられたほうが生きやすいはずである。
PETについて
正直、本腰入れて真面目に見ようとしたわけではなくて、こうテレビを漫然とみるようなそんなレベルで見たために、内容を深く理解できたわけではない。けれども分かったこともある。人の心には、ヤマとタニがあるのである。
その両面がなければ、人の心は維持できない。
ヤマとは良かった経験。心の原風景。自分が自分として生きるために必要な根本的な記憶。
タニはその逆。最悪な経験。いやだったこと。トラウマ。
ヤマだけあればよさそうだが、そうではないのだと。タニも必要なのだと。
そういった条件設定が面白いと思う。
そういう意味で俺は今ふと思うに、俺のヤマってなんだろなと思った。
まぁその、PETの登場人物たちのヤマというのも、そんなに特異な経験とかそういうものではなかった。家族との絆とか、父親とのやりとりだとか、そういう感じ。
でも、いい歳した大人が、そういった子供のころの体験をずっと心のヤマとして抱いているのだ。
で、そのヤマを壊してしまうのが潰し屋である。ヤマを壊されると、廃人になってしまうのだ。
タニは、いじめられたとか、幼児虐待されたとかそういう感じ。ヤマが潰されるとそういう状態でずっといるんだろうか。死んだほうがましかもしれない。
でまぁその、最後面白かったと僕の印象を決定づけたのが、人物アーク(人物の変化)部分である。
具体的には変化したというよりも、明らかになったという意味なのだろうが、僕が抱いた印象は大きく変化した。
序盤から登場する、悪人めいた嫌な奴が登場するのである。はじめは、噛ませ的にすぐ死ぬ(壊れる)のかと思ったら、そうではなくて、非常に重要なポジションであった。気づかなかった。
2段階の変化があって面白かった。1段階目は、その悪人の原風景が明らかになるシーン。ああ、こういう嫌な奴でも、そういった過去があったのかと、少し印象が変わった。まぁ「だからこそ」逆に性格がひんまがっちまったんだなと。
でも、2段階目で、それだけじゃなかったんだと分かった。それが切なくて、でも、環境や状況から仕方がなくて、「ああ、そうだったのか……」と言葉を失った。
コメント返信
前回の記事そして唐突にコメント返信にうつる。
>アマゾンプライムと死についてアマゾンプライムのおすすめ機能は素晴らしいと思います。dアニメと比較して、ユーザ体験という意味で優れている。つまり、どんどん自分好みの作品が提案されて、ずっとアマゾンプライムにこもることができる。その点dアニメは提案機能が弱いので、ネットで検索してそのうえでdアニメにそのアニメがあるかを検索して、あるなら見るみたいな、非常に効率の悪い視聴体験になってしまっている。そういう意味でアマゾンプライムは素晴らしいと思います。
視聴体験が完全に受動的になっている私にとってはアマプラ氏とは相性がよいということになりますね。ある意味、AIに支配された人間……(かっこ深刻な笑い)。
なんだか最近かは分かりませんが、アマプラさんもdアニメストア氏と連携しているのか、アマプラで開きながらdアニメで課金すると見れますよ……的な作品もちらほら出てきているような。まったく調べてないので憶測ですが、アマプラとdアニメが協賛し、アマプラ(で登録した口座)に支払いすると、そこからdアニメにお金が流れる仕組みができたのかなと思いました。
なんだか最近かは分かりませんが、アマプラさんもdアニメストア氏と連携しているのか、アマプラで開きながらdアニメで課金すると見れますよ……的な作品もちらほら出てきているような。まったく調べてないので憶測ですが、アマプラとdアニメが協賛し、アマプラ(で登録した口座)に支払いすると、そこからdアニメにお金が流れる仕組みができたのかなと思いました。
>dアニメがいいのは、ものすごい勢いで作品が拡充されている(ように見える)ことです。1年前に見たいアニメを何作品かリクエストしたんですが、今見てみるとちゃんと反映されているんですよね。アマゾンプライムは、そもそも作品の選別眼とコスパの両立がやばいので、数は比較するとおそらく少ないんだけど、満足度は高いっていう感じになってますね。
アマプラ氏、作品数が少ないって気はしてませんでした。――というのは多分、上に書いたような協賛体制故かもしれません。
というのは、何か作品を検索すると、アマプラでも出てくることは出てくる。ただ、「この作品はdアニメ for Amazon Primeです」となって、別途課金が必要になる、と。だからアマプラ対象としての作品は少なくても、検索エンジンとしての役割は果たされていると。それゆえの錯覚なのかもしれません。
あと、定期的に扱われる作品が変わるので、アマプラ対象外だったのが見れるようになるという場合もあることも、満足度が高い感じかもしれません。
――というのはともかく、リクエストされたり、主体的な行動素晴らしいなと思いました。
というのは、何か作品を検索すると、アマプラでも出てくることは出てくる。ただ、「この作品はdアニメ for Amazon Primeです」となって、別途課金が必要になる、と。だからアマプラ対象としての作品は少なくても、検索エンジンとしての役割は果たされていると。それゆえの錯覚なのかもしれません。
あと、定期的に扱われる作品が変わるので、アマプラ対象外だったのが見れるようになるという場合もあることも、満足度が高い感じかもしれません。
――というのはともかく、リクエストされたり、主体的な行動素晴らしいなと思いました。
>死後の世界についてですが。理論的には、死というのは喪失であって、死後に存在する自我はないということになると思うんです。ただし、理論っていうのは現時点での想定であって、人間にはその想定外を考えることができて、なおかつ共感できることから、共同幻想としての死後の世界(神様の発生と同じかも)を生み出してしまっているという風に私はとらえています。輪廻転生とか、魂の存在とかも、「現時点」では共同幻想なんだろうなと思うわけです。
先祖を尊重するとか、死者を悼むとか、今を生きる者の規範的な意味は大きいと思いますが、私も同じく共同幻想だと思われます。
神話も、宗教も、――この表現が正しいわけではないでしょうが――物語なのだと思います。
ただ、非常に偉大で重要な物語。
物語によって、人は残虐非道にもなり、聖母のようにもなる。
何を信じるかは大事な問題に思われます。
なので、死後の世界は共同幻想であったとして、そのときになお信じられる何かというのは、どういうものなのだろうかと思いを巡らせざるえません。
神話も、宗教も、――この表現が正しいわけではないでしょうが――物語なのだと思います。
ただ、非常に偉大で重要な物語。
物語によって、人は残虐非道にもなり、聖母のようにもなる。
何を信じるかは大事な問題に思われます。
なので、死後の世界は共同幻想であったとして、そのときになお信じられる何かというのは、どういうものなのだろうかと思いを巡らせざるえません。
>ただ、最近思うのは広義的なんですが、自分と連絡が取れなくなった人間は死んだものとしても問題ないように思うんですよね。主観的には見分けがつかないんです。大学のころ一緒にかかわった人間のうち、連絡が取れない人が、死んでいようが、生きていようが、どちらにしろ、私にとっては存在しないわけで、死んでいると仮定しても何の問題もない。むしろ、自分の主観世界には彼らは失われているわけで、死んでいるとしたほうが自然なのではないか。だから、昔の友人が死にましたと、連絡が来ても、あぁ、彼はとっくに死んでたよなという感覚なんですよね。だから、いまさら悲しいのか?という風に思ってしまう。
分かります。
非常に分かりますが、一般的ではなさそうな考えですね(かっこ笑い)。
ただ、思い出が残っているならば、その相手との記憶が残っているならば、悲しいのだとは思います。ただそれは、現在進行的な悲しみではなくて、その思い出に対する郷愁的なものだと。
ああ、そんなことやあんなこともあったなと、そういった、もう戻れないし二度と経験もできないであろうことに対する記憶。そういったものを郷愁的と僕は表現しますが、その郷愁さはどこか物悲しい。
そして、死によって、「そもそもその相手との記憶に関する経験は二度とできない前提であっても」それに類する経験等の機会が、永遠に失われたということ、その点においても悲しいのだと思います。
ただ、おっしゃるとおり、連絡がつかなくなった人は、その時点ですでに主観的な意味においての死といえるのかもしれません。
ただ(「ただし」が多くて読みづらいですが)、高校や大学時代でサイトで出会った方が、何年か後にまた訪れて、コメントしてくれてとても嬉しかったとか、そういうことも実際に経験して、本当に物理的な死と、「可能性」が残っている状態とは違うんだなという気持ちはあります。
非常に分かりますが、一般的ではなさそうな考えですね(かっこ笑い)。
ただ、思い出が残っているならば、その相手との記憶が残っているならば、悲しいのだとは思います。ただそれは、現在進行的な悲しみではなくて、その思い出に対する郷愁的なものだと。
ああ、そんなことやあんなこともあったなと、そういった、もう戻れないし二度と経験もできないであろうことに対する記憶。そういったものを郷愁的と僕は表現しますが、その郷愁さはどこか物悲しい。
そして、死によって、「そもそもその相手との記憶に関する経験は二度とできない前提であっても」それに類する経験等の機会が、永遠に失われたということ、その点においても悲しいのだと思います。
ただ、おっしゃるとおり、連絡がつかなくなった人は、その時点ですでに主観的な意味においての死といえるのかもしれません。
ただ(「ただし」が多くて読みづらいですが)、高校や大学時代でサイトで出会った方が、何年か後にまた訪れて、コメントしてくれてとても嬉しかったとか、そういうことも実際に経験して、本当に物理的な死と、「可能性」が残っている状態とは違うんだなという気持ちはあります。
>つまり、自分の主観世界からの喪失が死であるとしても特に問題はないし、十分機能する。という意味で、共同幻想としての死後の世界や魂の世界を、肯定することは、むしろ、実態に即しているような、そんな気持ちになったのです。
(共同幻想とはいうけれど、人はあくまでも主観世界を生きているのに過ぎないので、幻想こそが現実であるとしてもよいのではないか、という意味で)。
「自分の主観世界からの喪失が死である」というのが、意味を取りかねてしまったのですが、かっこ書きの部分は、私もそうだなと思いました。
客観的に、物理的にその人が死んでいるかどうかよりも、主観的(自分と連絡がつくか、思い出せるか)という状態から外れる(喪失する)ということが、自分にとっての「死」であると。
独善のそしりを受けそうですが、その面は強いと思います。物理的にはもうとっくに、何年も前に死んでいた人も、帰りを待っているとか、その人の教えをもとに日々を生きているという状態にあれば、その人は主観的には死んでいない。
