忍者ブログ
   
判断とは何か
2020/04/29 08:04 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「優秀さとは何か」

まえがき

 一つ問題が起きるとまた一つ。
 問題とは何か。問題と課題の違いは、課題の方が解決しないといけない差し迫ったものである認識である。問題は少し、漠然としたものといえる。

 抽象的な言葉回しで、結局何も言っていないのではないか。意識高い系の空虚な人間ではないか。
 空虚の反義はおそらく、充実、だろうか。実質だろうか。とにかく、空っぽというのは、よくないことに思われる。
 果たしてそうか。
 頭を空っぽにしてみる、という行為は、時に推奨される場面はないか。

判断とは何か

 空虚な前書きは置いておいて、一つのテーマに絞って書いてみよう。
 判断するというのは、いったいどういうことなのか。

 何か問題が生じた場面だろう。何も起きていないときに判断は発生しない。
 もちろん、「今日はラーメンを食べよう」というのは確かに判断だろうが、明確に「判断する」という言い方をする場合は、何かの問題に対して裁決するような場面だ。ラーメンのケースは、単に「決めた」という言い方をするはずである。

 さて、判断の内実は、どのようなことなのか。
 もちろん、辞書を引くというのは一つの手段なので、やってみよう。「ある事柄について、考えをまとめて定めること。その断定した内容」と出てきた。

 当然間違ってないのであるが、つまりそれはどういうことなのか。

 選択する、という言い方は可能だろうか?

 定める、というのであるから、複数の選択肢があって、「これである」という決定をすることといえる。
 ただ、それだけではなく、その決定に対して、何らかの主観的な意図がある場合に、判断というのではないか。

 複数の選択肢がなくても、「よい」―「わるい」、「よい」―「だめ」という決定でもよい。その決定に至るにあたっての条件に、主観的な要素があるのではないか。

客観的な判断はあるのでは

 なぜ、判断に、主観的な要素を盛り込もうと俺はしているのか。

 これは、昔からよく(私の中で)問題になる、主観と客観ということは存在するのか、という問題。
 主観的、というのは、まぁ人間生きていれば主観的だから特段問題にならないとして、「完全なる客観」というのはあるのか。

 数学の世界は客観といえる気がする。
 2x+1=5
 のときのxは、2だ。これは客観な気がする。

「いや、俺のルールの中では、それは3だ」
 という人がいたとしても、そうか、君の中ではそうなんだね(=主観)、となる気がする。

 物理学の世界も客観といえる気がする。
 確かに、1mというのは、北極から赤道までの距離を1万メートルとしたのは主観だとしても、光の速さは約30万km/秒である。これは客観的な気がする。
 秒、も、セシウム原子の放射周期の約90億倍――なのだそうだが、まったく分からない(かっこわらい)。1日が24時間で、1時間は60分で、1分は1秒です、という方が分かりやすい。
 日常の「秒」と、厳密な秒とは違うのだということだけ覚えておけば取り急ぎよい。

 でまぁ、その厳密性の違いはあったとしても、物理学的な事象は、やはり客観的であるといえるだろう。


 つまり、客観的な事象というのは、存在する、ということになる。

人文的な活動における客観とは

 だが、僕が今回問題としているのは、そうした自然的な事象においてではなく、「僕らがする判断」である。

 要は、完全なる客観(数学や物理学その他の自然学)は、コンピュータが計算して答えを出してくれればいいのである。それは「答え」であって、「判断」ではないだろうと思うのだ。

 だから、「判断する」といったときには、どこかしらに主観的要素があるのではないか、と思ったわけだ。
 ここまで書いて、ようやく何かしらこの記事の主旨が分かった気がする(俺自身も)。


 だから、判断において、100%客観的である必要はないのだ。
 重要なのは、「最善な説明が可能か」という点だ。言い換えれば、みんなが納得することなのか、という点だ。

 判断の誤りとは何か。
 納得されない数が多ければ判断の誤りだ。

政治的判断とは

 ちょっとわき道にそれて考えてみる。
 みんなが納得すれば正しい判断だ、というのは乱暴ではないか。
 例えば、緊急事態宣言がとられたとして、その宣言するタイミングについては、政治的判断だろうと思う。
 法律上は、その判断は首相(総理大臣)がしたことになる。実際は、取り巻き、幕僚などが意見したことをそのまま信じているだけかもしれない。そのあたりの実際は全くわからないし、わかる必要もない。とにかく、国のトップが決めた、という建前が大事なのである。建前、と書くと悪いニュアンスが込められているようだが、そういうものではなく、統治形態として(かっこよくかくとスキーム)そういうものなのである。

 で、まぁ、判断するわけだ。緊急事態宣言を出すための判断材料としては、ウイルスの感染拡大スピードとか、世界の状況、感染後の死亡率、回復者数とその傾向、衛生用品の普及状況、ワクチンの開発状況(開発可能なのか含め)、経済影響、景気状況、在宅ワーク環境の普及状況、緩やかな自粛要請の効果、宣言を出した場合の批判影響、出さなかった場合の批判影響――などなど、様々な条件・状況を考慮するわけだ。
(上に挙げた以外に、判断材料は他に何かあるだろうか。頑張って5分ぐらい考えてみたが、これぐらいしか思いつかなかった)

 そういう諸条件をインプットにして、アウトプットする。これが判断であるとすれば、判断とは何と難しいことだろうか。

判断の可能性

 ちなみに、このブログでは特定の政治のことは書かないと前々から書いているので、改めて書く必要もないがやっぱり書いておけば、今般日本で出された緊急事態宣言のことを書いているのではないし、それに係る判断の良しあしを書きたいのでもない。

 書いていることとしては、今日はラーメンを食べよう、という判断ではない、より複雑な判断の場合に、「完璧なる判断」は可能か、ということである。

 (僕の中の)結論を書いてしまえば、たぶん、無理、である。
 無理だから、その判断の正否は、「より多くが納得できる基準」(MCS:more consentive standard)でしか評価できないのではないだろうか。
(なお、MCSは、それっぽく表現しただけで、今回0.5秒の思い付きなので、ぐぐっても出てこない)


 A.I.の可能性として、諸条件をすべて入力して、結論をアウトプットしてもらう、というのはSFでありそうだが、そもそも、その諸条件をどのようにして導くか、ということから判断していかなければいけない。
 僕は先ほど例として、いくつかの条件を挙げたけれども、おそらくもっとたくさんの条件が考えられるだろう。同時に、この条件は宣言を出す時期を判断するには関係ない、という判断も必要となってくるだろう。
 すると、AIのフレーム問題――何を対象とすればよいかが決められず、解決する問題が無限に増えていく――のようになって、答えがいつになっても出ないかもしれない。

あとがき

(かっこ書きである。判断とは何か、というテーマについて、より多くの人が納得できる答えを出すことである、という意見を書いたので、終わりにしよう。仕事だけではなく、友人、恋人、家族との関係でも応用できると思う。その範囲の違いである。国のトップは、その納得させる相手が全国民となる。知事は県民。家長であれば、家族。郊外に家を買うという判断は、その関係者が納得するならば正しい判断となるだろう。「お父さんがいいならいいよ」となって、でも、買った後に生活が非常に悪くなったとして、「もうこんな生活いや!」となって、「いやでもお前も当時はいいっていったじゃないか」といっても後の祭り。とはいえ、後からであったとしても、納得しない関係者が現れたのだから、その判断は失敗だったのだろう。結果次第。でも、そうした危機を乗り越えて、60歳、70歳となったときに、長年住んだ家にも愛着がわいて、「いろいろあったけど、ここが僕らのマイホーム!」という気持ちに皆なるかもしれない。そうしたら、その危機が発生した時点では判断の失敗であり、結果としては成功だったということになるのか。時間という概念も考慮すれば、判断の正誤というのは更に難しくなる。敢えて政治よりのことをかけば、原発の問題とか。難しい問題だよね。敢えて傍観者的な意見を書けば、ないほうがよいと思う。ただ、じゃあ化石燃料に頼った運用を続けていいかというとそれもダメだろう。じゃあ急進的にすぐ廃止したらどうかというと、それで電力が賄えるならいいだろう。みんなが省エネな暮らしになればいい。もっといえば、人間が減ればいいのかもしれない。環境問題も難しいよね。だって地球のことのみを考えれば人類死滅した方がいいんじゃないかって考えもあるだろう。でもそんな必要ないとは思う。だって地球って、人間がいるから地球って呼んでるのであって、いなければただの鉄の塊だろう。人間も、名前がついているから人間なのであって、そうでなければたんぱく質の塊だろう……というのは違うか)

拍手[1回]

PR

コメント

コメントを投稿する






Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字 (絵文字)



<<赤方偏移(遠くの天体の距離) | HOME | 死について2(コメント返信)>>
忍者ブログ[PR]
アクセスランキング