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心配事があるとゆっくり休めない
2020/04/20 05:39 | Comments(2) | 思考及び書くこと
今日の一言「ブログを書こう」

まえがき

 うーむ。よくない。
 精神的に落ち着いていない。
 精神的な疲労。
 
 新型コロナウイルスに感染しているわけではないが、それによってもたらされている環境の変化も関係はしている、と思う。そもそも、4月からの異動による新しい環境に慣れていないというのもある。慣れていない中で、このパンデミックによっての、疲れなのだろう。

 生活リズムを取り戻さなければと、昨日もなんとか、24時に布団に入ってみたものの、腹痛で目が覚める。まぁ早起きできてよかったかなと時間を見れば、25時半。1時間程度しか経っていなかった。
 そこから、断続的な痛みを撫でながら、再び眠りにつこうとしたが、数時間してまた目が覚めた。

 これはもう駄目なパターンと認識し、ブログを書くことに決めた。


決めたとかじゃなくてルーチンではなかったのか

 毎日、書くって、決めたんじゃなかったっけ。

 そうだった気がする。今年の目標だった気がする。そういう意味では、もう2020年はダメだ。終わってしまった。もう消化試合のようなものだ。来年がんばろう……。

 などと、フルマックスで弱音を吐いておく。

 まぁ確かに、3月まで終わって、4分の1が終わってしまったわけだが、まだ半分にもいっていない。今年を評価するには早すぎるだろう。

 とりあえず、目が痛いけれども、ホットミルクを飲んだら、腹痛は少し和らいだ気がする。



 とにかく、最近、何をしていたのか、よく分からない。思い出し作業をしよう。


『虚構推理』を、昨日見た気がする。割と面白かった。アマプラさんに、サイコパスか、イドかを見たことによってお勧めされたので、見てみたら良かった。アマプラさんやるじゃないか、と思った。
 なんか、扉絵があまり好みじゃなかったので、敬遠していたが面白いと思う。6話ぐらいまで一気に見てしまった。ただ、たぶん、まだ全部みていないが、イドの方が好みだろうと思う。サイコパス3期と比べるとどうか。うーむ、それよりは面白い気がする。ただ、サイコパスも、面白くないわけではなかった。

 虚構推理は、なんかこう、タイトルから受けるイメージと違って、時代は現代で、女の子が物の怪らに攫われて、知恵の神様にされてしまう話。されてしまう――のだけれども、女の子は積極的に、物の怪らのご意見番となって、活躍する。右目と左足を奪われてしまうが、そこに悲壮感はない。
 湖の主の大蛇との問答で、殺人事件の真相(かっこつきの真相)を納得させるのが面白かった。

最近どうなのよ的な

 うーむ。
 魂の二元論的な。(唐突に話題が変わる)

 魂の二元論というか、二元論というのが、身体と、心は別もの、とする考え方である。
 魂という存在を規定したほうが、説明が合理的で最善かという問題が重要である。

 魂という存在をもとにして「も」、説明できるということであれば、二元論が正しいということにはならない。
 一方で、物理主義とか一元論が正しいということでもない。最善な説明か、というだけである。
 というのが、科学的――学問的な立場なのだろうと思う。

 信じたいから信じる、とか、そのほうが感情的に落ち着くから信じる、というのは、実運用的(実生活的)にはアリだろうけれども、科学的ではない。

自殺は正しい選択なのか

 前、どこかの記事で、自殺は論理的に正しくない、と書いた。
 その理由は、端的に、未来については予期できないからだ、とした。

(未来の話になったのは、もしかすれば、虚構推理で、桜川家が、「件(くだん)」という物の怪が未来予知の力があるとして利用しようとしたという話がインプットされたからかもしれない)

 それはさておき、通常、未来のことはわからない。ただ、「現在」もまた、過去へと常に消失していっている。未来は現在となり、現在は過去へと消えていく。常に。常にだ。今、こうしてタイピングしている今も、未来は現在となり、現在は過去へと流れていっている。

 そういう意味で――複数ありえる(想像し得る)未来を選択するという意味で、僕らは未来予知の力を有している。
 物語上の未来予知がすごいのは、その予知が「広い範囲で」「先が長い」ことにある。ごく個人的な範囲で、ごく短い期間のことであれば、未来予知は可能だ。僕は、数秒後も、タイピングをしているだろう(かっこわらい)。


 自殺が妥当か、という話になるとまた異なる。

 病魔に侵され、想像を絶する痛みに苦しんでいるとする。自死を願うのは誤った思考なのか。
 もし、回復の見込みがある病気ならば、耐えるべきだ。
 だが、現代の医療では回復の見込みがなければ、コールドスリープ技術もなければ、自殺は妥当な選択肢だろうと思う。

 しかし、それについて考えるにあたっては、「死」というものが、どういったものかを考えておかなければいけない。
 果たして、死によって、その想像を絶する痛みから解放されるのか。
 自殺したものは、地獄に堕とされるという考え方もある。その地獄の苦しみは、病魔の苦しみとどちらが「マシ」なのか。

 しかし、この思考は無理がある。死後の世界のことは、ゴウタマ・シッダールタ氏すら多くを語らなかったのである(毒矢の比喩)。

地獄を後から想定するのはずるい

 たいてい僕らは、というか、僕は、死は、いっかんの終わり、だと思っている。(いま、「いっかんの終わり」と書いたが、その「いっかん」が、一貫なのか、一巻なのか、自信をもてなかったのでひらがなにした。たぶん、一貫だろう……たぶん)

 
 死は、無であると考える。

 何故なら、僕のこの思考というものも、身体という要素が作り出しているものだからだ。「魂」という存在があって、それが身体に宿ることによって思考――ないしは、アイデンティティ(自我同一性)が生じているものではないと考える。これが正しいかは、分からない。

 だから、その思考の原因となっている身体が壊れてしまえば、思考もまた、生じることはできなくなるのだ(と思う)。

 ゆえに、僕が昔から恐怖する夢の、心だけは残って、体はとっくに壊れて死んでしまったという、何もできないが、意識だけは残っているというそれはもう恐ろしい夢は、生じない(と信じたい)。



 いずれ、科学によって、意識というものが、完全に物理的現象だと証明できる日がくるかもしれない。
 しかし、その日が来る前に恐らく僕は死ぬだろうし、その証明を果たして聞いたとしても、きっとそれは、量子力学や飛行機が空を飛ぶ理屈以上に難解だろうから、完全に理解することはできないだろう。

 だから、死によってどういったことがもたらされるか、僕は分からないまま、死ぬことになるだろう。わからない――もしくは、納得できないままに。

認知症

 具体的にどういった時に、というのはおいておいて、介護施設に行って、認知症の方と接する機会をもったことがある人は少なくないはずだ。

「〇〇さん」である。
 家族からしても、それ以外の人からしても、名前を与えられ、それぞれの来歴がある。

 しかし、認知症は、その「〇〇さん」という記憶を蝕む病気である。
 その人が、その人であるために必要なものはなにか。

 ブランドの時計? 車や家? 名誉や肩書?

 違う、記憶である。
 私は私である、という認識そのものが、その人であるための基礎的な条件なのだ。

 僕は思うに(これまで、明確に書いたことはなかったかもしれないが、似たようなことは書いたような気もするが)、ひどい認知症はまた死であると思う。

 記憶とは、記銘、保持、再生という機能に分けられるということで、その3つのいずれかが機能しなくなっただけで、その人の死というわけではないだろうが、その人であるための基礎的な記憶が保持も再生もできなくなったとしたら、それは、身体は生きていても、死なのではないかと思う、ということだ。

 だから、植物状態も、死なのだと思う。もっとも、ホラー的な、植物状態は、反応ができないだけで、意識はしっかりしているとか、そんなとき、「もう回復の見込みはありませんね。臓器移植しましょう」となったら、ホラーである、怖いのだけれども。ただ、本当に回復の見込みがないのだとしたら、身体だけあったとしても、僕はそこに価値は見いだせない。

 ――ただ、親しい人とかだったとき、そう冷静ではいられないかもしれない。
 ただそれは、医者はもう回復しないといっても、人工呼吸器でかろうじて呼吸をしているだけだとしても、そこにある身体はまだ無事なのであれば、もしかしたら、また意識を取り戻してくれるのではないか……と、そんな希望によるものだろう。

 人は必ずしも合理的に行動はしない。

あとがき

(かっこ書きである。とりあえず、目下の仕事を、片付けよう。心配過ぎて、ゆっくりできない。受験期みたいだな。勉強しなきゃ……でも嫌だ、遊びたい。でも遊んだとしても、十分に楽しめない、そんな感じ)

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コメント

 人間の思考や活動が脳内を駆け巡る電気的信号によって成り立っているのだとすれば、死というのは「脳の死」と「肉体の死」と「精神の死」の3つに分けられるように思います。
 「脳の死」はいわゆる脳死というヤツで、脳という臓器が何らかの損傷によって活動停止となったもの。脳から指示が出されないため、自発的(ゲーム的な言い方をすればアクティブ的)に行動・活動ができなくなった死のパターンですね。肉体的には脳からの指示がなくとも生命機能を自動的に維持する臓器(ゲーム的な言い方だとパッシブ的なもの)は生きていても(いなくても)、脳が停止している状態。
 「肉体の死」は、脳は生きていても、人間として生命維持できる機能を全て失ってしまった場合。とはいえ、これは脳機能を維持するための臓器が破損してしまったりするので、そのままでは脳死にも繋がります。肉体損傷が激しく、代行臓器や生命維持機械などで脳髄だけだけど生きている、みたいな状態でしょうか。とてもSFチック。もし意識があったらそれを外部に出力できるような装置や環境がないと発狂しそうです。
 「精神の死」はこれまた一風変わって、人格的・精神的に廃人になってしまう場合。脳も、肉体も動いているけれど、いわゆる心が壊れて他者とのコミュニケーションが成立しなくなってしまったり、刺激に対して反応がなくなってしまったりというパターン。生きているけど死んでいる、というイメージ。脳死というほどではなく、脳機能、電気信号は発生していても、思考や人格、自我に関わる部分には何らかの損傷や深刻なダメージが発生していそうです。

 いずれにせよ、厳密な死と言えるものは私は脳死だと思っていて、脳内の電気的信号が生物の行動を司っているとするなら、その機能が失われたら何も残らないのだろうと考えています。
 死後の世界など存在せず、眠る時のように思考が途切れて、そして本人は途切れたことにも気付かないまま、二度と意識が戻らない。
 そうなった時、その生物の認識している意識、自我というものはそこで消えてしまうだけなのだろう、というのが私の結論なわけですが、今私が私として生きているように次の誰かとして自我を持って生きたりするのかどうかは(前世の記憶を引き継いだりするのか、自覚ができるのかどうかも含めて)観測できないので分かりません。
 たまにテレビ等で「前世の記憶がある、蘇った」とする人が取り上げられたりしますが、それも「たまたま、無意識のうちにそれを言い当てている(前世の記憶だと思い込んでいるのが偶然全部当たっている)だけ」なのか「世界やその人物など、何らかの要素や要因から前世に当たる人物のことを精確に推測し言い当てている(本人にその自覚があるかどうかは不問)だけ」なのか「実際に自我や魂というものが輪廻転生しているのか」は判断できませんね。

 ただ一つ言えるのは、「そこで途切れて全て消えて終わり」だととても恐ろしい、ということでしょうか。
 死後の世界や死にまつわる宗教的なあれこれは一種の現実逃避であり、恐怖を和らげ、思考を逸らし、精神を安定させるためのものなのだろうなと思うわけです。
posted by 白銀URLat 2020/04/20 17:56 [ コメントを修正する ]
アマゾンプライムのおすすめ機能は素晴らしいと思います。dアニメと比較して、ユーザ体験という意味で優れている。つまり、どんどん自分好みの作品が提案されて、ずっとアマゾンプライムにこもることができる。その点dアニメは提案機能が弱いので、ネットで検索してそのうえでdアニメにそのアニメがあるかを検索して、あるなら見るみたいな、非常に効率の悪い視聴体験になってしまっている。そういう意味でアマゾンプライムは素晴らしいと思います。

dアニメがいいのは、ものすごい勢いで作品が拡充されている(ように見える)ことです。1年前に見たいアニメを何作品かリクエストしたんですが、今見てみるとちゃんと反映されているんですよね。アマゾンプライムは、そもそも作品の選別眼とコスパの両立がやばいので、数は比較するとおそらく少ないんだけど、満足度は高いっていう感じになってますね。


死については、実際の死はただの現象だと思うんですよね。それを機能の喪失という面から定義すると遠藤さんや白銀殿のようなとらえ方になると思うんです。

死後の世界についてですが。理論的には、死というのは喪失であって、死後に存在する自我はないということになると思うんです。ただし、理論っていうのは現時点での想定であって、人間にはその想定外を考えることができて、なおかつ共感できることから、共同幻想としての死後の世界(神様の発生と同じかも)を生み出してしまっているという風に私はとらえています。輪廻転生とか、魂の存在とかも、「現時点」では共同幻想なんだろうなと思うわけです。


ただ、最近思うのは広義的なんですが、自分と連絡が取れなくなった人間は死んだものとしても問題ないように思うんですよね。

主観的には見分けがつかないんです。大学のころ一緒にかかわった人間のうち、連絡が取れない人が、死んでいようが、生きていようが、どちらにしろ、私にとっては存在しないわけで、死んでいると仮定しても何の問題もない。むしろ、自分の主観世界には彼らは失われているわけで、死んでいるとしたほうが自然なのではないか。

だから、昔の友人が死にましたと、連絡が来ても、あぁ、彼はとっくに死んでたよなという感覚なんですよね。だから、いまさら悲しいのか?という風に思ってしまう。

つまり、自分の主観世界からの喪失が死であるとしても特に問題はないし、十分機能する。という意味で、共同幻想としての死後の世界や魂の世界を、肯定することは、むしろ、実態に即しているような、そんな気持ちになったのです。

(共同幻想とはいうけれど、人はあくまでも主観世界を生きているのに過ぎないので、幻想こそが現実であるとしてもよいのではないか、という意味で)。
posted by いみふat 2020/04/22 20:25 [ コメントを修正する ]

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