今日の一言「仕事が気になって目が覚めるのだが」
これもまた面白かった。
面白かったがインフレを起こしそうだが、まぁ素直な感想であるし、面白いと感じられるものが多いことは悪いことではないだろう。批判したくなるのが人間の性だと思うけれども、素直に生きられたほうが生きやすいはずである。
人の心には、ヤマとタニがあるのである。
その両面がなければ、人の心は維持できない。
ヤマとは良かった経験。心の原風景。自分が自分として生きるために必要な根本的な記憶。
タニはその逆。最悪な経験。いやだったこと。トラウマ。
ヤマだけあればよさそうだが、そうではないのだと。タニも必要なのだと。
そういった条件設定が面白いと思う。
そういう意味で俺は今ふと思うに、俺のヤマってなんだろなと思った。
まぁその、PETの登場人物たちのヤマというのも、そんなに特異な経験とかそういうものではなかった。家族との絆とか、父親とのやりとりだとか、そういう感じ。
でも、いい歳した大人が、そういった子供のころの体験をずっと心のヤマとして抱いているのだ。
で、そのヤマを壊してしまうのが潰し屋である。ヤマを壊されると、廃人になってしまうのだ。
タニは、いじめられたとか、幼児虐待されたとかそういう感じ。ヤマが潰されるとそういう状態でずっといるんだろうか。死んだほうがましかもしれない。
でまぁその、最後面白かったと僕の印象を決定づけたのが、人物アーク(人物の変化)部分である。
具体的には変化したというよりも、明らかになったという意味なのだろうが、僕が抱いた印象は大きく変化した。
序盤から登場する、悪人めいた嫌な奴が登場するのである。はじめは、噛ませ的にすぐ死ぬ(壊れる)のかと思ったら、そうではなくて、非常に重要なポジションであった。気づかなかった。
2段階の変化があって面白かった。1段階目は、その悪人の原風景が明らかになるシーン。ああ、こういう嫌な奴でも、そういった過去があったのかと、少し印象が変わった。まぁ「だからこそ」逆に性格がひんまがっちまったんだなと。
でも、2段階目で、それだけじゃなかったんだと分かった。それが切なくて、でも、環境や状況から仕方がなくて、「ああ、そうだったのか……」と言葉を失った。
そして唐突にコメント返信にうつる。
「自分の主観世界からの喪失が死である」というのが、意味を取りかねてしまったのですが、かっこ書きの部分は、私もそうだなと思いました。
客観的に、物理的にその人が死んでいるかどうかよりも、主観的(自分と連絡がつくか、思い出せるか)という状態から外れる(喪失する)ということが、自分にとっての「死」であると。
独善のそしりを受けそうですが、その面は強いと思います。物理的にはもうとっくに、何年も前に死んでいた人も、帰りを待っているとか、その人の教えをもとに日々を生きているという状態にあれば、その人は主観的には死んでいない。
まえがき
PETを見始めてしまったと、前回ぐらいで書いた気がする。これもまた面白かった。
面白かったがインフレを起こしそうだが、まぁ素直な感想であるし、面白いと感じられるものが多いことは悪いことではないだろう。批判したくなるのが人間の性だと思うけれども、素直に生きられたほうが生きやすいはずである。
PETについて
正直、本腰入れて真面目に見ようとしたわけではなくて、こうテレビを漫然とみるようなそんなレベルで見たために、内容を深く理解できたわけではない。けれども分かったこともある。人の心には、ヤマとタニがあるのである。
その両面がなければ、人の心は維持できない。
ヤマとは良かった経験。心の原風景。自分が自分として生きるために必要な根本的な記憶。
タニはその逆。最悪な経験。いやだったこと。トラウマ。
ヤマだけあればよさそうだが、そうではないのだと。タニも必要なのだと。
そういった条件設定が面白いと思う。
そういう意味で俺は今ふと思うに、俺のヤマってなんだろなと思った。
まぁその、PETの登場人物たちのヤマというのも、そんなに特異な経験とかそういうものではなかった。家族との絆とか、父親とのやりとりだとか、そういう感じ。
でも、いい歳した大人が、そういった子供のころの体験をずっと心のヤマとして抱いているのだ。
で、そのヤマを壊してしまうのが潰し屋である。ヤマを壊されると、廃人になってしまうのだ。
タニは、いじめられたとか、幼児虐待されたとかそういう感じ。ヤマが潰されるとそういう状態でずっといるんだろうか。死んだほうがましかもしれない。
でまぁその、最後面白かったと僕の印象を決定づけたのが、人物アーク(人物の変化)部分である。
具体的には変化したというよりも、明らかになったという意味なのだろうが、僕が抱いた印象は大きく変化した。
序盤から登場する、悪人めいた嫌な奴が登場するのである。はじめは、噛ませ的にすぐ死ぬ(壊れる)のかと思ったら、そうではなくて、非常に重要なポジションであった。気づかなかった。
2段階の変化があって面白かった。1段階目は、その悪人の原風景が明らかになるシーン。ああ、こういう嫌な奴でも、そういった過去があったのかと、少し印象が変わった。まぁ「だからこそ」逆に性格がひんまがっちまったんだなと。
でも、2段階目で、それだけじゃなかったんだと分かった。それが切なくて、でも、環境や状況から仕方がなくて、「ああ、そうだったのか……」と言葉を失った。
コメント返信
前回の記事そして唐突にコメント返信にうつる。
>アマゾンプライムと死についてアマゾンプライムのおすすめ機能は素晴らしいと思います。dアニメと比較して、ユーザ体験という意味で優れている。つまり、どんどん自分好みの作品が提案されて、ずっとアマゾンプライムにこもることができる。その点dアニメは提案機能が弱いので、ネットで検索してそのうえでdアニメにそのアニメがあるかを検索して、あるなら見るみたいな、非常に効率の悪い視聴体験になってしまっている。そういう意味でアマゾンプライムは素晴らしいと思います。
視聴体験が完全に受動的になっている私にとってはアマプラ氏とは相性がよいということになりますね。ある意味、AIに支配された人間……(かっこ深刻な笑い)。
なんだか最近かは分かりませんが、アマプラさんもdアニメストア氏と連携しているのか、アマプラで開きながらdアニメで課金すると見れますよ……的な作品もちらほら出てきているような。まったく調べてないので憶測ですが、アマプラとdアニメが協賛し、アマプラ(で登録した口座)に支払いすると、そこからdアニメにお金が流れる仕組みができたのかなと思いました。
なんだか最近かは分かりませんが、アマプラさんもdアニメストア氏と連携しているのか、アマプラで開きながらdアニメで課金すると見れますよ……的な作品もちらほら出てきているような。まったく調べてないので憶測ですが、アマプラとdアニメが協賛し、アマプラ(で登録した口座)に支払いすると、そこからdアニメにお金が流れる仕組みができたのかなと思いました。
>dアニメがいいのは、ものすごい勢いで作品が拡充されている(ように見える)ことです。1年前に見たいアニメを何作品かリクエストしたんですが、今見てみるとちゃんと反映されているんですよね。アマゾンプライムは、そもそも作品の選別眼とコスパの両立がやばいので、数は比較するとおそらく少ないんだけど、満足度は高いっていう感じになってますね。
アマプラ氏、作品数が少ないって気はしてませんでした。――というのは多分、上に書いたような協賛体制故かもしれません。
というのは、何か作品を検索すると、アマプラでも出てくることは出てくる。ただ、「この作品はdアニメ for Amazon Primeです」となって、別途課金が必要になる、と。だからアマプラ対象としての作品は少なくても、検索エンジンとしての役割は果たされていると。それゆえの錯覚なのかもしれません。
あと、定期的に扱われる作品が変わるので、アマプラ対象外だったのが見れるようになるという場合もあることも、満足度が高い感じかもしれません。
――というのはともかく、リクエストされたり、主体的な行動素晴らしいなと思いました。
というのは、何か作品を検索すると、アマプラでも出てくることは出てくる。ただ、「この作品はdアニメ for Amazon Primeです」となって、別途課金が必要になる、と。だからアマプラ対象としての作品は少なくても、検索エンジンとしての役割は果たされていると。それゆえの錯覚なのかもしれません。
あと、定期的に扱われる作品が変わるので、アマプラ対象外だったのが見れるようになるという場合もあることも、満足度が高い感じかもしれません。
――というのはともかく、リクエストされたり、主体的な行動素晴らしいなと思いました。
>死後の世界についてですが。理論的には、死というのは喪失であって、死後に存在する自我はないということになると思うんです。ただし、理論っていうのは現時点での想定であって、人間にはその想定外を考えることができて、なおかつ共感できることから、共同幻想としての死後の世界(神様の発生と同じかも)を生み出してしまっているという風に私はとらえています。輪廻転生とか、魂の存在とかも、「現時点」では共同幻想なんだろうなと思うわけです。
先祖を尊重するとか、死者を悼むとか、今を生きる者の規範的な意味は大きいと思いますが、私も同じく共同幻想だと思われます。
神話も、宗教も、――この表現が正しいわけではないでしょうが――物語なのだと思います。
ただ、非常に偉大で重要な物語。
物語によって、人は残虐非道にもなり、聖母のようにもなる。
何を信じるかは大事な問題に思われます。
なので、死後の世界は共同幻想であったとして、そのときになお信じられる何かというのは、どういうものなのだろうかと思いを巡らせざるえません。
神話も、宗教も、――この表現が正しいわけではないでしょうが――物語なのだと思います。
ただ、非常に偉大で重要な物語。
物語によって、人は残虐非道にもなり、聖母のようにもなる。
何を信じるかは大事な問題に思われます。
なので、死後の世界は共同幻想であったとして、そのときになお信じられる何かというのは、どういうものなのだろうかと思いを巡らせざるえません。
>ただ、最近思うのは広義的なんですが、自分と連絡が取れなくなった人間は死んだものとしても問題ないように思うんですよね。主観的には見分けがつかないんです。大学のころ一緒にかかわった人間のうち、連絡が取れない人が、死んでいようが、生きていようが、どちらにしろ、私にとっては存在しないわけで、死んでいると仮定しても何の問題もない。むしろ、自分の主観世界には彼らは失われているわけで、死んでいるとしたほうが自然なのではないか。だから、昔の友人が死にましたと、連絡が来ても、あぁ、彼はとっくに死んでたよなという感覚なんですよね。だから、いまさら悲しいのか?という風に思ってしまう。
分かります。
非常に分かりますが、一般的ではなさそうな考えですね(かっこ笑い)。
ただ、思い出が残っているならば、その相手との記憶が残っているならば、悲しいのだとは思います。ただそれは、現在進行的な悲しみではなくて、その思い出に対する郷愁的なものだと。
ああ、そんなことやあんなこともあったなと、そういった、もう戻れないし二度と経験もできないであろうことに対する記憶。そういったものを郷愁的と僕は表現しますが、その郷愁さはどこか物悲しい。
そして、死によって、「そもそもその相手との記憶に関する経験は二度とできない前提であっても」それに類する経験等の機会が、永遠に失われたということ、その点においても悲しいのだと思います。
ただ、おっしゃるとおり、連絡がつかなくなった人は、その時点ですでに主観的な意味においての死といえるのかもしれません。
ただ(「ただし」が多くて読みづらいですが)、高校や大学時代でサイトで出会った方が、何年か後にまた訪れて、コメントしてくれてとても嬉しかったとか、そういうことも実際に経験して、本当に物理的な死と、「可能性」が残っている状態とは違うんだなという気持ちはあります。
非常に分かりますが、一般的ではなさそうな考えですね(かっこ笑い)。
ただ、思い出が残っているならば、その相手との記憶が残っているならば、悲しいのだとは思います。ただそれは、現在進行的な悲しみではなくて、その思い出に対する郷愁的なものだと。
ああ、そんなことやあんなこともあったなと、そういった、もう戻れないし二度と経験もできないであろうことに対する記憶。そういったものを郷愁的と僕は表現しますが、その郷愁さはどこか物悲しい。
そして、死によって、「そもそもその相手との記憶に関する経験は二度とできない前提であっても」それに類する経験等の機会が、永遠に失われたということ、その点においても悲しいのだと思います。
ただ、おっしゃるとおり、連絡がつかなくなった人は、その時点ですでに主観的な意味においての死といえるのかもしれません。
ただ(「ただし」が多くて読みづらいですが)、高校や大学時代でサイトで出会った方が、何年か後にまた訪れて、コメントしてくれてとても嬉しかったとか、そういうことも実際に経験して、本当に物理的な死と、「可能性」が残っている状態とは違うんだなという気持ちはあります。
>つまり、自分の主観世界からの喪失が死であるとしても特に問題はないし、十分機能する。という意味で、共同幻想としての死後の世界や魂の世界を、肯定することは、むしろ、実態に即しているような、そんな気持ちになったのです。
(共同幻想とはいうけれど、人はあくまでも主観世界を生きているのに過ぎないので、幻想こそが現実であるとしてもよいのではないか、という意味で)。
「自分の主観世界からの喪失が死である」というのが、意味を取りかねてしまったのですが、かっこ書きの部分は、私もそうだなと思いました。
客観的に、物理的にその人が死んでいるかどうかよりも、主観的(自分と連絡がつくか、思い出せるか)という状態から外れる(喪失する)ということが、自分にとっての「死」であると。
独善のそしりを受けそうですが、その面は強いと思います。物理的にはもうとっくに、何年も前に死んでいた人も、帰りを待っているとか、その人の教えをもとに日々を生きているという状態にあれば、その人は主観的には死んでいない。
あとがき
(かっこ書きである。前回の記事コメントにおいて、脳・肉体・精神の死が挙げられた。今回は、主観的な死と客観的な死が挙げられた。こうした交流は非常に意義深いと感慨する。そして最近僕が思うこととしては、こうした意見とかというのは、言語表現上でやり取りをしても、たいていの人とは調整することは不可能である。調整というのは、変化させる、という意味である。神はいないと思う人に神を信じさせるのは困難だし、その逆もまた困難なのだ。変化を生じさせられるのは、「行動」「経験」だけである。――と断定するにはやや語弊はあるが、言い過ぎではない。人は記憶によって生きる、と僕は書いてきた(たぶん、以前から)。しかし、その記憶とは、言葉の積み重ねで出来上がるものではなく、経験が先にそこにあるはずだ。水槽の中の脳の話もあるが、新生児の脳だけを取り出して、身体を与えずに、電気刺激だけで生命維持させたとして、その電気刺激は、それはそれで「経験」だと思うけれども、身体的フィードバックから得た経験とは、似て非なるものだと思うのである。電気刺激のみに特化した思考・意識をもつ存在になるだろうと思う。それを我々と同じく人間とするかは後世の判断だろう)PR