今日の一言「仕事が気になって目が覚めるのだが」
これもまた面白かった。
面白かったがインフレを起こしそうだが、まぁ素直な感想であるし、面白いと感じられるものが多いことは悪いことではないだろう。批判したくなるのが人間の性だと思うけれども、素直に生きられたほうが生きやすいはずである。
人の心には、ヤマとタニがあるのである。
その両面がなければ、人の心は維持できない。
ヤマとは良かった経験。心の原風景。自分が自分として生きるために必要な根本的な記憶。
タニはその逆。最悪な経験。いやだったこと。トラウマ。
ヤマだけあればよさそうだが、そうではないのだと。タニも必要なのだと。
そういった条件設定が面白いと思う。
そういう意味で俺は今ふと思うに、俺のヤマってなんだろなと思った。
まぁその、PETの登場人物たちのヤマというのも、そんなに特異な経験とかそういうものではなかった。家族との絆とか、父親とのやりとりだとか、そういう感じ。
でも、いい歳した大人が、そういった子供のころの体験をずっと心のヤマとして抱いているのだ。
で、そのヤマを壊してしまうのが潰し屋である。ヤマを壊されると、廃人になってしまうのだ。
タニは、いじめられたとか、幼児虐待されたとかそういう感じ。ヤマが潰されるとそういう状態でずっといるんだろうか。死んだほうがましかもしれない。
でまぁその、最後面白かったと僕の印象を決定づけたのが、人物アーク(人物の変化)部分である。
具体的には変化したというよりも、明らかになったという意味なのだろうが、僕が抱いた印象は大きく変化した。
序盤から登場する、悪人めいた嫌な奴が登場するのである。はじめは、噛ませ的にすぐ死ぬ(壊れる)のかと思ったら、そうではなくて、非常に重要なポジションであった。気づかなかった。
2段階の変化があって面白かった。1段階目は、その悪人の原風景が明らかになるシーン。ああ、こういう嫌な奴でも、そういった過去があったのかと、少し印象が変わった。まぁ「だからこそ」逆に性格がひんまがっちまったんだなと。
でも、2段階目で、それだけじゃなかったんだと分かった。それが切なくて、でも、環境や状況から仕方がなくて、「ああ、そうだったのか……」と言葉を失った。
そして唐突にコメント返信にうつる。
「自分の主観世界からの喪失が死である」というのが、意味を取りかねてしまったのですが、かっこ書きの部分は、私もそうだなと思いました。
客観的に、物理的にその人が死んでいるかどうかよりも、主観的(自分と連絡がつくか、思い出せるか)という状態から外れる(喪失する)ということが、自分にとっての「死」であると。
独善のそしりを受けそうですが、その面は強いと思います。物理的にはもうとっくに、何年も前に死んでいた人も、帰りを待っているとか、その人の教えをもとに日々を生きているという状態にあれば、その人は主観的には死んでいない。
まえがき
PETを見始めてしまったと、前回ぐらいで書いた気がする。これもまた面白かった。
面白かったがインフレを起こしそうだが、まぁ素直な感想であるし、面白いと感じられるものが多いことは悪いことではないだろう。批判したくなるのが人間の性だと思うけれども、素直に生きられたほうが生きやすいはずである。
PETについて
正直、本腰入れて真面目に見ようとしたわけではなくて、こうテレビを漫然とみるようなそんなレベルで見たために、内容を深く理解できたわけではない。けれども分かったこともある。人の心には、ヤマとタニがあるのである。
その両面がなければ、人の心は維持できない。
ヤマとは良かった経験。心の原風景。自分が自分として生きるために必要な根本的な記憶。
タニはその逆。最悪な経験。いやだったこと。トラウマ。
ヤマだけあればよさそうだが、そうではないのだと。タニも必要なのだと。
そういった条件設定が面白いと思う。
そういう意味で俺は今ふと思うに、俺のヤマってなんだろなと思った。
まぁその、PETの登場人物たちのヤマというのも、そんなに特異な経験とかそういうものではなかった。家族との絆とか、父親とのやりとりだとか、そういう感じ。
でも、いい歳した大人が、そういった子供のころの体験をずっと心のヤマとして抱いているのだ。
で、そのヤマを壊してしまうのが潰し屋である。ヤマを壊されると、廃人になってしまうのだ。
タニは、いじめられたとか、幼児虐待されたとかそういう感じ。ヤマが潰されるとそういう状態でずっといるんだろうか。死んだほうがましかもしれない。
でまぁその、最後面白かったと僕の印象を決定づけたのが、人物アーク(人物の変化)部分である。
具体的には変化したというよりも、明らかになったという意味なのだろうが、僕が抱いた印象は大きく変化した。
序盤から登場する、悪人めいた嫌な奴が登場するのである。はじめは、噛ませ的にすぐ死ぬ(壊れる)のかと思ったら、そうではなくて、非常に重要なポジションであった。気づかなかった。
2段階の変化があって面白かった。1段階目は、その悪人の原風景が明らかになるシーン。ああ、こういう嫌な奴でも、そういった過去があったのかと、少し印象が変わった。まぁ「だからこそ」逆に性格がひんまがっちまったんだなと。
でも、2段階目で、それだけじゃなかったんだと分かった。それが切なくて、でも、環境や状況から仕方がなくて、「ああ、そうだったのか……」と言葉を失った。
コメント返信
前回の記事そして唐突にコメント返信にうつる。
>アマゾンプライムと死についてアマゾンプライムのおすすめ機能は素晴らしいと思います。dアニメと比較して、ユーザ体験という意味で優れている。つまり、どんどん自分好みの作品が提案されて、ずっとアマゾンプライムにこもることができる。その点dアニメは提案機能が弱いので、ネットで検索してそのうえでdアニメにそのアニメがあるかを検索して、あるなら見るみたいな、非常に効率の悪い視聴体験になってしまっている。そういう意味でアマゾンプライムは素晴らしいと思います。
視聴体験が完全に受動的になっている私にとってはアマプラ氏とは相性がよいということになりますね。ある意味、AIに支配された人間……(かっこ深刻な笑い)。
なんだか最近かは分かりませんが、アマプラさんもdアニメストア氏と連携しているのか、アマプラで開きながらdアニメで課金すると見れますよ……的な作品もちらほら出てきているような。まったく調べてないので憶測ですが、アマプラとdアニメが協賛し、アマプラ(で登録した口座)に支払いすると、そこからdアニメにお金が流れる仕組みができたのかなと思いました。
なんだか最近かは分かりませんが、アマプラさんもdアニメストア氏と連携しているのか、アマプラで開きながらdアニメで課金すると見れますよ……的な作品もちらほら出てきているような。まったく調べてないので憶測ですが、アマプラとdアニメが協賛し、アマプラ(で登録した口座)に支払いすると、そこからdアニメにお金が流れる仕組みができたのかなと思いました。
>dアニメがいいのは、ものすごい勢いで作品が拡充されている(ように見える)ことです。1年前に見たいアニメを何作品かリクエストしたんですが、今見てみるとちゃんと反映されているんですよね。アマゾンプライムは、そもそも作品の選別眼とコスパの両立がやばいので、数は比較するとおそらく少ないんだけど、満足度は高いっていう感じになってますね。
アマプラ氏、作品数が少ないって気はしてませんでした。――というのは多分、上に書いたような協賛体制故かもしれません。
というのは、何か作品を検索すると、アマプラでも出てくることは出てくる。ただ、「この作品はdアニメ for Amazon Primeです」となって、別途課金が必要になる、と。だからアマプラ対象としての作品は少なくても、検索エンジンとしての役割は果たされていると。それゆえの錯覚なのかもしれません。
あと、定期的に扱われる作品が変わるので、アマプラ対象外だったのが見れるようになるという場合もあることも、満足度が高い感じかもしれません。
――というのはともかく、リクエストされたり、主体的な行動素晴らしいなと思いました。
というのは、何か作品を検索すると、アマプラでも出てくることは出てくる。ただ、「この作品はdアニメ for Amazon Primeです」となって、別途課金が必要になる、と。だからアマプラ対象としての作品は少なくても、検索エンジンとしての役割は果たされていると。それゆえの錯覚なのかもしれません。
あと、定期的に扱われる作品が変わるので、アマプラ対象外だったのが見れるようになるという場合もあることも、満足度が高い感じかもしれません。
――というのはともかく、リクエストされたり、主体的な行動素晴らしいなと思いました。
>死後の世界についてですが。理論的には、死というのは喪失であって、死後に存在する自我はないということになると思うんです。ただし、理論っていうのは現時点での想定であって、人間にはその想定外を考えることができて、なおかつ共感できることから、共同幻想としての死後の世界(神様の発生と同じかも)を生み出してしまっているという風に私はとらえています。輪廻転生とか、魂の存在とかも、「現時点」では共同幻想なんだろうなと思うわけです。
先祖を尊重するとか、死者を悼むとか、今を生きる者の規範的な意味は大きいと思いますが、私も同じく共同幻想だと思われます。
神話も、宗教も、――この表現が正しいわけではないでしょうが――物語なのだと思います。
ただ、非常に偉大で重要な物語。
物語によって、人は残虐非道にもなり、聖母のようにもなる。
何を信じるかは大事な問題に思われます。
なので、死後の世界は共同幻想であったとして、そのときになお信じられる何かというのは、どういうものなのだろうかと思いを巡らせざるえません。
神話も、宗教も、――この表現が正しいわけではないでしょうが――物語なのだと思います。
ただ、非常に偉大で重要な物語。
物語によって、人は残虐非道にもなり、聖母のようにもなる。
何を信じるかは大事な問題に思われます。
なので、死後の世界は共同幻想であったとして、そのときになお信じられる何かというのは、どういうものなのだろうかと思いを巡らせざるえません。
>ただ、最近思うのは広義的なんですが、自分と連絡が取れなくなった人間は死んだものとしても問題ないように思うんですよね。主観的には見分けがつかないんです。大学のころ一緒にかかわった人間のうち、連絡が取れない人が、死んでいようが、生きていようが、どちらにしろ、私にとっては存在しないわけで、死んでいると仮定しても何の問題もない。むしろ、自分の主観世界には彼らは失われているわけで、死んでいるとしたほうが自然なのではないか。だから、昔の友人が死にましたと、連絡が来ても、あぁ、彼はとっくに死んでたよなという感覚なんですよね。だから、いまさら悲しいのか?という風に思ってしまう。
分かります。
非常に分かりますが、一般的ではなさそうな考えですね(かっこ笑い)。
ただ、思い出が残っているならば、その相手との記憶が残っているならば、悲しいのだとは思います。ただそれは、現在進行的な悲しみではなくて、その思い出に対する郷愁的なものだと。
ああ、そんなことやあんなこともあったなと、そういった、もう戻れないし二度と経験もできないであろうことに対する記憶。そういったものを郷愁的と僕は表現しますが、その郷愁さはどこか物悲しい。
そして、死によって、「そもそもその相手との記憶に関する経験は二度とできない前提であっても」それに類する経験等の機会が、永遠に失われたということ、その点においても悲しいのだと思います。
ただ、おっしゃるとおり、連絡がつかなくなった人は、その時点ですでに主観的な意味においての死といえるのかもしれません。
ただ(「ただし」が多くて読みづらいですが)、高校や大学時代でサイトで出会った方が、何年か後にまた訪れて、コメントしてくれてとても嬉しかったとか、そういうことも実際に経験して、本当に物理的な死と、「可能性」が残っている状態とは違うんだなという気持ちはあります。
非常に分かりますが、一般的ではなさそうな考えですね(かっこ笑い)。
ただ、思い出が残っているならば、その相手との記憶が残っているならば、悲しいのだとは思います。ただそれは、現在進行的な悲しみではなくて、その思い出に対する郷愁的なものだと。
ああ、そんなことやあんなこともあったなと、そういった、もう戻れないし二度と経験もできないであろうことに対する記憶。そういったものを郷愁的と僕は表現しますが、その郷愁さはどこか物悲しい。
そして、死によって、「そもそもその相手との記憶に関する経験は二度とできない前提であっても」それに類する経験等の機会が、永遠に失われたということ、その点においても悲しいのだと思います。
ただ、おっしゃるとおり、連絡がつかなくなった人は、その時点ですでに主観的な意味においての死といえるのかもしれません。
ただ(「ただし」が多くて読みづらいですが)、高校や大学時代でサイトで出会った方が、何年か後にまた訪れて、コメントしてくれてとても嬉しかったとか、そういうことも実際に経験して、本当に物理的な死と、「可能性」が残っている状態とは違うんだなという気持ちはあります。
>つまり、自分の主観世界からの喪失が死であるとしても特に問題はないし、十分機能する。という意味で、共同幻想としての死後の世界や魂の世界を、肯定することは、むしろ、実態に即しているような、そんな気持ちになったのです。
(共同幻想とはいうけれど、人はあくまでも主観世界を生きているのに過ぎないので、幻想こそが現実であるとしてもよいのではないか、という意味で)。
「自分の主観世界からの喪失が死である」というのが、意味を取りかねてしまったのですが、かっこ書きの部分は、私もそうだなと思いました。
客観的に、物理的にその人が死んでいるかどうかよりも、主観的(自分と連絡がつくか、思い出せるか)という状態から外れる(喪失する)ということが、自分にとっての「死」であると。
独善のそしりを受けそうですが、その面は強いと思います。物理的にはもうとっくに、何年も前に死んでいた人も、帰りを待っているとか、その人の教えをもとに日々を生きているという状態にあれば、その人は主観的には死んでいない。
あとがき
(かっこ書きである。前回の記事コメントにおいて、脳・肉体・精神の死が挙げられた。今回は、主観的な死と客観的な死が挙げられた。こうした交流は非常に意義深いと感慨する。そして最近僕が思うこととしては、こうした意見とかというのは、言語表現上でやり取りをしても、たいていの人とは調整することは不可能である。調整というのは、変化させる、という意味である。神はいないと思う人に神を信じさせるのは困難だし、その逆もまた困難なのだ。変化を生じさせられるのは、「行動」「経験」だけである。――と断定するにはやや語弊はあるが、言い過ぎではない。人は記憶によって生きる、と僕は書いてきた(たぶん、以前から)。しかし、その記憶とは、言葉の積み重ねで出来上がるものではなく、経験が先にそこにあるはずだ。水槽の中の脳の話もあるが、新生児の脳だけを取り出して、身体を与えずに、電気刺激だけで生命維持させたとして、その電気刺激は、それはそれで「経験」だと思うけれども、身体的フィードバックから得た経験とは、似て非なるものだと思うのである。電気刺激のみに特化した思考・意識をもつ存在になるだろうと思う。それを我々と同じく人間とするかは後世の判断だろう)PR
今日の一言「毎日更新は、最近の状況だと難しい」「難しい根拠を述べよ」
ただ、まぁその、心配事はあるにせよ、割と人生楽しい方なのでは、とも思う。そんなに、悪い状況ではない気がする。精神的、体調的にも、そんなに悪くない気がする。しかし、だからこそなのか、余計に、本来すべきことをできていないことへの焦りが生じているのではないかとは思う。
という抽象的なことは置いておいて、アマプラさんで、虚構推理を見ている、ということを先日書いたかどうか忘れてしまったから書く――というか、現状、全部見終わった。面白かった。なんか、エンディングが非常に納得した、という作品は珍しいかもしれない。――というのは、あの、言葉はあまりよくないが、大ぶろしきを全然広げていない、こじんまりとしたテーマだったからか、非常によくまとまった、といえると思った。
イド:インヴェイデッドは、面白かったのだけれども、いかんせんテーマが大きかったので、後半駆け足感と、無理やり感と、不十分感がゼロとはいえなかった。その点、虚構推理は、何故クロウ先輩が、かわいいはずの彼女を邪険にしている(ように見えていたのか)というのが明確に分かって、「ああ、なるほど、そうだったのか」というカタルシスがあった。古事記のイワナガ姫のエピソードにまじらえたやり取りは、こちらも赤面してしまった。
そして、さらにアマプラさんにおすすめされてしまった、「PET」も見始めてしまった。これは、――これはまた、面白いかもしれない。ただ、声優さんの――あえてそういう演技なのか分からないが、微妙なのと、映像的にはふつー感がある。ただ、ストーリーがよい気がする。気になる。
そして、気づくと、コメントをたくさん頂いていた。ありがたい。早速返信に取り掛かったものの、すぐには書けないことが分かったため、ルーティン更新の重要な材料とさせていただく。まずは、srgn氏のものを。
まえがき
あーもー、ダメだな、なんか、生活リズムが狂っている。ただ、まぁその、心配事はあるにせよ、割と人生楽しい方なのでは、とも思う。そんなに、悪い状況ではない気がする。精神的、体調的にも、そんなに悪くない気がする。しかし、だからこそなのか、余計に、本来すべきことをできていないことへの焦りが生じているのではないかとは思う。
という抽象的なことは置いておいて、アマプラさんで、虚構推理を見ている、ということを先日書いたかどうか忘れてしまったから書く――というか、現状、全部見終わった。面白かった。なんか、エンディングが非常に納得した、という作品は珍しいかもしれない。――というのは、あの、言葉はあまりよくないが、大ぶろしきを全然広げていない、こじんまりとしたテーマだったからか、非常によくまとまった、といえると思った。
イド:インヴェイデッドは、面白かったのだけれども、いかんせんテーマが大きかったので、後半駆け足感と、無理やり感と、不十分感がゼロとはいえなかった。その点、虚構推理は、何故クロウ先輩が、かわいいはずの彼女を邪険にしている(ように見えていたのか)というのが明確に分かって、「ああ、なるほど、そうだったのか」というカタルシスがあった。古事記のイワナガ姫のエピソードにまじらえたやり取りは、こちらも赤面してしまった。
そして、さらにアマプラさんにおすすめされてしまった、「PET」も見始めてしまった。これは、――これはまた、面白いかもしれない。ただ、声優さんの――あえてそういう演技なのか分からないが、微妙なのと、映像的にはふつー感がある。ただ、ストーリーがよい気がする。気になる。
コメント返信
前回の記事そして、気づくと、コメントをたくさん頂いていた。ありがたい。早速返信に取り掛かったものの、すぐには書けないことが分かったため、ルーティン更新の重要な材料とさせていただく。まずは、srgn氏のものを。
>死とは
人間の思考や活動が脳内を駆け巡る電気的信号によって成り立っているのだとすれば、死というのは「脳の死」と「肉体の死」と「精神の死」の3つに分けられるように思います。
「脳の死」はいわゆる脳死というヤツで、脳という臓器が何らかの損傷によって活動停止となったもの。脳から指示が出されないため、自発的(ゲーム的な言い方をすればアクティブ的)に行動・活動ができなくなった死のパターンですね。肉体的には脳からの指示がなくとも生命機能を自動的に維持する臓器(ゲーム的な言い方だとパッシブ的なもの)は生きていても(いなくても)、脳が停止している状態。
死とは、というテーマにおいて、「それは3つに分けられると考える」と即答できるのがまずすごい。
僕はよう分からんから、だらだらと長ったらしく書くしかないが、明確に言語表現できるってすごいなぁ……、と思った。
脳死――これは、古代ギリシャ時代においてヴェテルトテネスが哲学的な見地で想定した表現である。と、いうのは全く創造なのだが、脳死という概念自体は医学の発展の賜物に思われる。
確かに、古代ギリシャ時代においても、そういった状態は想定できたであろう。ただ、脳死状態で自分では呼吸も食事もできなくなった人は、戦場で負傷して死んだ人と区別はなかったことと思う。
水槽の脳的な奴ですね。万能ネズミのウフコック氏が出てくるアニメでもそんな存在が登場していた気がします。
これはまだSFチック、思考実験どまりですが、いずれは実現しそうという感じはしますね。ある意味、攻殻機動隊の全身義体も、同じようなものかもしれません。
生まれた時から水槽の脳状態だったのと、ある日突然の事故でそういった状態になったのでは、脳がもっている来歴(記憶)の有無という点で取り扱いが違いそうだなとも思いました。身体がないと、そもそも脳は、来歴(記憶)を生じさせることができないのか、どうか。手や足、というだけでなく、視覚としても、目という機構があるからこそ、脳は意識を生じさせうるものなのか。
僕はよう分からんから、だらだらと長ったらしく書くしかないが、明確に言語表現できるってすごいなぁ……、と思った。
脳死――これは、古代ギリシャ時代においてヴェテルトテネスが哲学的な見地で想定した表現である。と、いうのは全く創造なのだが、脳死という概念自体は医学の発展の賜物に思われる。
確かに、古代ギリシャ時代においても、そういった状態は想定できたであろう。ただ、脳死状態で自分では呼吸も食事もできなくなった人は、戦場で負傷して死んだ人と区別はなかったことと思う。
>「肉体の死」は、脳は生きていても、人間として生命維持できる機能を全て失ってしまった場合。とはいえ、これは脳機能を維持するための臓器が破損してしまったりするので、そのままでは脳死にも繋がります。肉体損傷が激しく、代行臓器や生命維持機械などで脳髄だけだけど生きている、みたいな状態でしょうか。とてもSFチック。もし意識があったらそれを外部に出力できるような装置や環境がないと発狂しそうです。
水槽の脳的な奴ですね。万能ネズミのウフコック氏が出てくるアニメでもそんな存在が登場していた気がします。
これはまだSFチック、思考実験どまりですが、いずれは実現しそうという感じはしますね。ある意味、攻殻機動隊の全身義体も、同じようなものかもしれません。
生まれた時から水槽の脳状態だったのと、ある日突然の事故でそういった状態になったのでは、脳がもっている来歴(記憶)の有無という点で取り扱いが違いそうだなとも思いました。身体がないと、そもそも脳は、来歴(記憶)を生じさせることができないのか、どうか。手や足、というだけでなく、視覚としても、目という機構があるからこそ、脳は意識を生じさせうるものなのか。
「精神の死」はこれまた一風変わって、人格的・精神的に廃人になってしまう場合。脳も、肉体も動いているけれど、いわゆる心が壊れて他者とのコミュニケーションが成立しなくなってしまったり、刺激に対して反応がなくなってしまったりというパターン。生きているけど死んでいる、というイメージ。脳死というほどではなく、脳機能、電気信号は発生していても、思考や人格、自我に関わる部分には何らかの損傷や深刻なダメージが発生していそうです。
脳の死と、身体の死というのは分かりやすいですが、そこに敢えて「精神の死」というのを加えるという発想は面白いなと思いました。
たぶん、私が本記事で触れた、認知症も、精神の死に向かっている状態なのではないかと思いました。すべての認知機能が壊れてしまった状態が、精神的な死といえるのかもしれません。
ということを考えながら、PETという作品を何気なく見始めたから面白いと思ったのか(PETでは、精神異常を起こして再起不能になることを「壊れる」と呼んでいる……)。
たぶん、私が本記事で触れた、認知症も、精神の死に向かっている状態なのではないかと思いました。すべての認知機能が壊れてしまった状態が、精神的な死といえるのかもしれません。
ということを考えながら、PETという作品を何気なく見始めたから面白いと思ったのか(PETでは、精神異常を起こして再起不能になることを「壊れる」と呼んでいる……)。
>いずれにせよ、厳密な死と言えるものは私は脳死だと思っていて、脳内の電気的信号が生物の行動を司っているとするなら、その機能が失われたら何も残らないのだろうと考えています。
死後の世界など存在せず、眠る時のように思考が途切れて、そして本人は途切れたことにも気付かないまま、二度と意識が戻らない。
不可逆性という点があるのであれば、私は脳死と精神的な死は、どちらも「死」なんだろうなと思いました。
>そうなった時、その生物の認識している意識、自我というものはそこで消えてしまうだけなのだろう、というのが私の結論なわけですが、今私が私として生きているように次の誰かとして自我を持って生きたりするのかどうかは(前世の記憶を引き継いだりするのか、自覚ができるのかどうかも含めて)観測できないので分かりません。
そうですね。
死に向かうことは恐怖であったとしても、死の瞬間から先は、完全に自我が消えてしまったとすれば、すべて「分からない」。存在しないということだと思われます。
死に向かうことは恐怖であったとしても、死の瞬間から先は、完全に自我が消えてしまったとすれば、すべて「分からない」。存在しないということだと思われます。
たまにテレビ等で「前世の記憶がある、蘇った」とする人が取り上げられたりしますが、それも「たまたま、無意識のうちにそれを言い当てている(前世の記憶だと思い込んでいるのが偶然全部当たっている)だけ」なのか「世界やその人物など、何らかの要素や要因から前世に当たる人物のことを精確に推測し言い当てている(本人にその自覚があるかどうかは不問)だけ」なのか「実際に自我や魂というものが輪廻転生しているのか」は判断できませんね。
もしテレビのやらせではなく、本人や関係者のトリックでもないということが明確に証明できたとしても、「不思議な現象」であることは間違いないですが、それでもやはり、輪廻転生を信じる強い根拠にはならないだろうなと、私も思います。――ってなんででしょうね。私は昔からだと思うのですが、神秘的なものというのを何一つ信じていなかった気がします。だからこそ(なのかは分かりませんが)、物語に強く惹かれるというのはあります。
いや、小学生くらいは、確かにお化けは怖かったかなぁ。ただ、「偶然」ということの神秘性というのは思います。それを神秘性というのか、分かりませんが、「奇跡」(的な偶然)というものは、起こる可能性があるということで、信じられている気がします。
いや、小学生くらいは、確かにお化けは怖かったかなぁ。ただ、「偶然」ということの神秘性というのは思います。それを神秘性というのか、分かりませんが、「奇跡」(的な偶然)というものは、起こる可能性があるということで、信じられている気がします。
>ただ一つ言えるのは、「そこで途切れて全て消えて終わり」だととても恐ろしい、ということでしょうか。
死後の世界や死にまつわる宗教的なあれこれは一種の現実逃避であり、恐怖を和らげ、思考を逸らし、精神を安定させるためのものなのだろうなと思うわけです。
ジョルジュ・バタイユというイケメンフランス哲学者さんだったと思いますが、人生における行為すべてが死の恐怖に対する気晴らしなんだ、的なことを書かれていて、究極的だなおい、と思った記憶があります。
なので、死後の世界的なあれこれ全般だけが現実逃避ではないんだろうなと思ってます。いやまぁその、現実って何? という定義によるんだと思うのですが。現実的には、人類どころか、生物全体が死へと向かっていくわけであって、それが現実。人は死ぬ、遅いか早いかだけだ……って、これも何かの作品で見て聞いた気がしますが、なんだっけかなぁ。
なので、死後の世界的なあれこれ全般だけが現実逃避ではないんだろうなと思ってます。いやまぁその、現実って何? という定義によるんだと思うのですが。現実的には、人類どころか、生物全体が死へと向かっていくわけであって、それが現実。人は死ぬ、遅いか早いかだけだ……って、これも何かの作品で見て聞いた気がしますが、なんだっけかなぁ。
あとがき
(かっこ書きである。人は死へ向かう存在だ――は、ハイデガー氏だったっけ。記憶混濁。ああ、そうだ、生物すべてはいずれ死ぬ、といわけだけど、癌細胞ってすごいよね。あれ、死なないらしいよ。普通の細胞は、末端にテロメアという構造があって、それが細胞分裂とともにだんだん短くなっていって、最後は分裂できなくなる……死という経過をたどるのだけれども、癌細胞は、テロメアを活性化し続けて、無限増殖するんだって。「無限」という性質が自然界にあるってのがまずすごいよね。永久機関的な。でも、栄養がなければやっぱり癌細胞も死んじゃうんだろうね。そう、だから、癌って、ウイルスとか細菌とか、外部によるものではなくて、自らの細胞が原因なわけだ。だからやっかいな病気である。あと、だんだん関係なくなるけど、アポトーシスというのも不思議だ。細胞の自死。ちなみに、細胞が自発的に死ぬことで、生物の恒常性を保っている、ということは知っているが、アポトーシスでぐぐってみて、書いてあることは全く理解できない(かっこ笑い))
今日の一言「ブログを書こう」
精神的に落ち着いていない。
精神的な疲労。
新型コロナウイルスに感染しているわけではないが、それによってもたらされている環境の変化も関係はしている、と思う。そもそも、4月からの異動による新しい環境に慣れていないというのもある。慣れていない中で、このパンデミックによっての、疲れなのだろう。
生活リズムを取り戻さなければと、昨日もなんとか、24時に布団に入ってみたものの、腹痛で目が覚める。まぁ早起きできてよかったかなと時間を見れば、25時半。1時間程度しか経っていなかった。
そこから、断続的な痛みを撫でながら、再び眠りにつこうとしたが、数時間してまた目が覚めた。
これはもう駄目なパターンと認識し、ブログを書くことに決めた。
そうだった気がする。今年の目標だった気がする。そういう意味では、もう2020年はダメだ。終わってしまった。もう消化試合のようなものだ。来年がんばろう……。
などと、フルマックスで弱音を吐いておく。
まぁ確かに、3月まで終わって、4分の1が終わってしまったわけだが、まだ半分にもいっていない。今年を評価するには早すぎるだろう。
とりあえず、目が痛いけれども、ホットミルクを飲んだら、腹痛は少し和らいだ気がする。
とにかく、最近、何をしていたのか、よく分からない。思い出し作業をしよう。
『虚構推理』を、昨日見た気がする。割と面白かった。アマプラさんに、サイコパスか、イドかを見たことによってお勧めされたので、見てみたら良かった。アマプラさんやるじゃないか、と思った。
なんか、扉絵があまり好みじゃなかったので、敬遠していたが面白いと思う。6話ぐらいまで一気に見てしまった。ただ、たぶん、まだ全部みていないが、イドの方が好みだろうと思う。サイコパス3期と比べるとどうか。うーむ、それよりは面白い気がする。ただ、サイコパスも、面白くないわけではなかった。
虚構推理は、なんかこう、タイトルから受けるイメージと違って、時代は現代で、女の子が物の怪らに攫われて、知恵の神様にされてしまう話。されてしまう――のだけれども、女の子は積極的に、物の怪らのご意見番となって、活躍する。右目と左足を奪われてしまうが、そこに悲壮感はない。
湖の主の大蛇との問答で、殺人事件の真相(かっこつきの真相)を納得させるのが面白かった。
魂の二元論的な。(唐突に話題が変わる)
魂の二元論というか、二元論というのが、身体と、心は別もの、とする考え方である。
魂という存在を規定したほうが、説明が合理的で最善かという問題が重要である。
魂という存在をもとにして「も」、説明できるということであれば、二元論が正しいということにはならない。
一方で、物理主義とか一元論が正しいということでもない。最善な説明か、というだけである。
というのが、科学的――学問的な立場なのだろうと思う。
信じたいから信じる、とか、そのほうが感情的に落ち着くから信じる、というのは、実運用的(実生活的)にはアリだろうけれども、科学的ではない。
その理由は、端的に、未来については予期できないからだ、とした。
(未来の話になったのは、もしかすれば、虚構推理で、桜川家が、「件(くだん)」という物の怪が未来予知の力があるとして利用しようとしたという話がインプットされたからかもしれない)
それはさておき、通常、未来のことはわからない。ただ、「現在」もまた、過去へと常に消失していっている。未来は現在となり、現在は過去へと消えていく。常に。常にだ。今、こうしてタイピングしている今も、未来は現在となり、現在は過去へと流れていっている。
そういう意味で――複数ありえる(想像し得る)未来を選択するという意味で、僕らは未来予知の力を有している。
物語上の未来予知がすごいのは、その予知が「広い範囲で」「先が長い」ことにある。ごく個人的な範囲で、ごく短い期間のことであれば、未来予知は可能だ。僕は、数秒後も、タイピングをしているだろう(かっこわらい)。
自殺が妥当か、という話になるとまた異なる。
病魔に侵され、想像を絶する痛みに苦しんでいるとする。自死を願うのは誤った思考なのか。
もし、回復の見込みがある病気ならば、耐えるべきだ。
だが、現代の医療では回復の見込みがなければ、コールドスリープ技術もなければ、自殺は妥当な選択肢だろうと思う。
しかし、それについて考えるにあたっては、「死」というものが、どういったものかを考えておかなければいけない。
果たして、死によって、その想像を絶する痛みから解放されるのか。
自殺したものは、地獄に堕とされるという考え方もある。その地獄の苦しみは、病魔の苦しみとどちらが「マシ」なのか。
しかし、この思考は無理がある。死後の世界のことは、ゴウタマ・シッダールタ氏すら多くを語らなかったのである(毒矢の比喩)。
死は、無であると考える。
何故なら、僕のこの思考というものも、身体という要素が作り出しているものだからだ。「魂」という存在があって、それが身体に宿ることによって思考――ないしは、アイデンティティ(自我同一性)が生じているものではないと考える。これが正しいかは、分からない。
だから、その思考の原因となっている身体が壊れてしまえば、思考もまた、生じることはできなくなるのだ(と思う)。
ゆえに、僕が昔から恐怖する夢の、心だけは残って、体はとっくに壊れて死んでしまったという、何もできないが、意識だけは残っているというそれはもう恐ろしい夢は、生じない(と信じたい)。
いずれ、科学によって、意識というものが、完全に物理的現象だと証明できる日がくるかもしれない。
しかし、その日が来る前に恐らく僕は死ぬだろうし、その証明を果たして聞いたとしても、きっとそれは、量子力学や飛行機が空を飛ぶ理屈以上に難解だろうから、完全に理解することはできないだろう。
だから、死によってどういったことがもたらされるか、僕は分からないまま、死ぬことになるだろう。わからない――もしくは、納得できないままに。
「〇〇さん」である。
家族からしても、それ以外の人からしても、名前を与えられ、それぞれの来歴がある。
しかし、認知症は、その「〇〇さん」という記憶を蝕む病気である。
その人が、その人であるために必要なものはなにか。
ブランドの時計? 車や家? 名誉や肩書?
違う、記憶である。
私は私である、という認識そのものが、その人であるための基礎的な条件なのだ。
僕は思うに(これまで、明確に書いたことはなかったかもしれないが、似たようなことは書いたような気もするが)、ひどい認知症はまた死であると思う。
記憶とは、記銘、保持、再生という機能に分けられるということで、その3つのいずれかが機能しなくなっただけで、その人の死というわけではないだろうが、その人であるための基礎的な記憶が保持も再生もできなくなったとしたら、それは、身体は生きていても、死なのではないかと思う、ということだ。
だから、植物状態も、死なのだと思う。もっとも、ホラー的な、植物状態は、反応ができないだけで、意識はしっかりしているとか、そんなとき、「もう回復の見込みはありませんね。臓器移植しましょう」となったら、ホラーである、怖いのだけれども。ただ、本当に回復の見込みがないのだとしたら、身体だけあったとしても、僕はそこに価値は見いだせない。
――ただ、親しい人とかだったとき、そう冷静ではいられないかもしれない。
ただそれは、医者はもう回復しないといっても、人工呼吸器でかろうじて呼吸をしているだけだとしても、そこにある身体はまだ無事なのであれば、もしかしたら、また意識を取り戻してくれるのではないか……と、そんな希望によるものだろう。
人は必ずしも合理的に行動はしない。
まえがき
うーむ。よくない。精神的に落ち着いていない。
精神的な疲労。
新型コロナウイルスに感染しているわけではないが、それによってもたらされている環境の変化も関係はしている、と思う。そもそも、4月からの異動による新しい環境に慣れていないというのもある。慣れていない中で、このパンデミックによっての、疲れなのだろう。
生活リズムを取り戻さなければと、昨日もなんとか、24時に布団に入ってみたものの、腹痛で目が覚める。まぁ早起きできてよかったかなと時間を見れば、25時半。1時間程度しか経っていなかった。
そこから、断続的な痛みを撫でながら、再び眠りにつこうとしたが、数時間してまた目が覚めた。
これはもう駄目なパターンと認識し、ブログを書くことに決めた。
決めたとかじゃなくてルーチンではなかったのか
毎日、書くって、決めたんじゃなかったっけ。そうだった気がする。今年の目標だった気がする。そういう意味では、もう2020年はダメだ。終わってしまった。もう消化試合のようなものだ。来年がんばろう……。
などと、フルマックスで弱音を吐いておく。
まぁ確かに、3月まで終わって、4分の1が終わってしまったわけだが、まだ半分にもいっていない。今年を評価するには早すぎるだろう。
とりあえず、目が痛いけれども、ホットミルクを飲んだら、腹痛は少し和らいだ気がする。
とにかく、最近、何をしていたのか、よく分からない。思い出し作業をしよう。
『虚構推理』を、昨日見た気がする。割と面白かった。アマプラさんに、サイコパスか、イドかを見たことによってお勧めされたので、見てみたら良かった。アマプラさんやるじゃないか、と思った。
なんか、扉絵があまり好みじゃなかったので、敬遠していたが面白いと思う。6話ぐらいまで一気に見てしまった。ただ、たぶん、まだ全部みていないが、イドの方が好みだろうと思う。サイコパス3期と比べるとどうか。うーむ、それよりは面白い気がする。ただ、サイコパスも、面白くないわけではなかった。
虚構推理は、なんかこう、タイトルから受けるイメージと違って、時代は現代で、女の子が物の怪らに攫われて、知恵の神様にされてしまう話。されてしまう――のだけれども、女の子は積極的に、物の怪らのご意見番となって、活躍する。右目と左足を奪われてしまうが、そこに悲壮感はない。
湖の主の大蛇との問答で、殺人事件の真相(かっこつきの真相)を納得させるのが面白かった。
最近どうなのよ的な
うーむ。魂の二元論的な。(唐突に話題が変わる)
魂の二元論というか、二元論というのが、身体と、心は別もの、とする考え方である。
魂という存在を規定したほうが、説明が合理的で最善かという問題が重要である。
魂という存在をもとにして「も」、説明できるということであれば、二元論が正しいということにはならない。
一方で、物理主義とか一元論が正しいということでもない。最善な説明か、というだけである。
というのが、科学的――学問的な立場なのだろうと思う。
信じたいから信じる、とか、そのほうが感情的に落ち着くから信じる、というのは、実運用的(実生活的)にはアリだろうけれども、科学的ではない。
自殺は正しい選択なのか
前、どこかの記事で、自殺は論理的に正しくない、と書いた。その理由は、端的に、未来については予期できないからだ、とした。
(未来の話になったのは、もしかすれば、虚構推理で、桜川家が、「件(くだん)」という物の怪が未来予知の力があるとして利用しようとしたという話がインプットされたからかもしれない)
それはさておき、通常、未来のことはわからない。ただ、「現在」もまた、過去へと常に消失していっている。未来は現在となり、現在は過去へと消えていく。常に。常にだ。今、こうしてタイピングしている今も、未来は現在となり、現在は過去へと流れていっている。
そういう意味で――複数ありえる(想像し得る)未来を選択するという意味で、僕らは未来予知の力を有している。
物語上の未来予知がすごいのは、その予知が「広い範囲で」「先が長い」ことにある。ごく個人的な範囲で、ごく短い期間のことであれば、未来予知は可能だ。僕は、数秒後も、タイピングをしているだろう(かっこわらい)。
自殺が妥当か、という話になるとまた異なる。
病魔に侵され、想像を絶する痛みに苦しんでいるとする。自死を願うのは誤った思考なのか。
もし、回復の見込みがある病気ならば、耐えるべきだ。
だが、現代の医療では回復の見込みがなければ、コールドスリープ技術もなければ、自殺は妥当な選択肢だろうと思う。
しかし、それについて考えるにあたっては、「死」というものが、どういったものかを考えておかなければいけない。
果たして、死によって、その想像を絶する痛みから解放されるのか。
自殺したものは、地獄に堕とされるという考え方もある。その地獄の苦しみは、病魔の苦しみとどちらが「マシ」なのか。
しかし、この思考は無理がある。死後の世界のことは、ゴウタマ・シッダールタ氏すら多くを語らなかったのである(毒矢の比喩)。
地獄を後から想定するのはずるい
たいてい僕らは、というか、僕は、死は、いっかんの終わり、だと思っている。(いま、「いっかんの終わり」と書いたが、その「いっかん」が、一貫なのか、一巻なのか、自信をもてなかったのでひらがなにした。たぶん、一貫だろう……たぶん)死は、無であると考える。
何故なら、僕のこの思考というものも、身体という要素が作り出しているものだからだ。「魂」という存在があって、それが身体に宿ることによって思考――ないしは、アイデンティティ(自我同一性)が生じているものではないと考える。これが正しいかは、分からない。
だから、その思考の原因となっている身体が壊れてしまえば、思考もまた、生じることはできなくなるのだ(と思う)。
ゆえに、僕が昔から恐怖する夢の、心だけは残って、体はとっくに壊れて死んでしまったという、何もできないが、意識だけは残っているというそれはもう恐ろしい夢は、生じない(と信じたい)。
いずれ、科学によって、意識というものが、完全に物理的現象だと証明できる日がくるかもしれない。
しかし、その日が来る前に恐らく僕は死ぬだろうし、その証明を果たして聞いたとしても、きっとそれは、量子力学や飛行機が空を飛ぶ理屈以上に難解だろうから、完全に理解することはできないだろう。
だから、死によってどういったことがもたらされるか、僕は分からないまま、死ぬことになるだろう。わからない――もしくは、納得できないままに。
認知症
具体的にどういった時に、というのはおいておいて、介護施設に行って、認知症の方と接する機会をもったことがある人は少なくないはずだ。「〇〇さん」である。
家族からしても、それ以外の人からしても、名前を与えられ、それぞれの来歴がある。
しかし、認知症は、その「〇〇さん」という記憶を蝕む病気である。
その人が、その人であるために必要なものはなにか。
ブランドの時計? 車や家? 名誉や肩書?
違う、記憶である。
私は私である、という認識そのものが、その人であるための基礎的な条件なのだ。
僕は思うに(これまで、明確に書いたことはなかったかもしれないが、似たようなことは書いたような気もするが)、ひどい認知症はまた死であると思う。
記憶とは、記銘、保持、再生という機能に分けられるということで、その3つのいずれかが機能しなくなっただけで、その人の死というわけではないだろうが、その人であるための基礎的な記憶が保持も再生もできなくなったとしたら、それは、身体は生きていても、死なのではないかと思う、ということだ。
だから、植物状態も、死なのだと思う。もっとも、ホラー的な、植物状態は、反応ができないだけで、意識はしっかりしているとか、そんなとき、「もう回復の見込みはありませんね。臓器移植しましょう」となったら、ホラーである、怖いのだけれども。ただ、本当に回復の見込みがないのだとしたら、身体だけあったとしても、僕はそこに価値は見いだせない。
――ただ、親しい人とかだったとき、そう冷静ではいられないかもしれない。
ただそれは、医者はもう回復しないといっても、人工呼吸器でかろうじて呼吸をしているだけだとしても、そこにある身体はまだ無事なのであれば、もしかしたら、また意識を取り戻してくれるのではないか……と、そんな希望によるものだろう。
人は必ずしも合理的に行動はしない。
あとがき
(かっこ書きである。とりあえず、目下の仕事を、片付けよう。心配過ぎて、ゆっくりできない。受験期みたいだな。勉強しなきゃ……でも嫌だ、遊びたい。でも遊んだとしても、十分に楽しめない、そんな感じ)
今日の一言「予約投稿」
珍しいのかわからないけれども、1話40分ぐらいの尺だった。
しかし、飽きさせることなく、それぞれの話はテンポよく進んでいた。最後まで見れた、というだけで、まず面白かった作品なんだなと思う。
気になったのは、イグナトフ監視官の後半の行動。シンドウ監視官と仲たがいするようになっていったけれども、なんか、奥さんが原因なんだけれども、それにしてもなんか自分勝手すぎる印象だった。仕事場にも感情あらわにして、なんだかなぁ、職場の空気悪くする人だなぁと思った。
若干ネタバレだけれども、奥さんは別に死んだわけでもない。ただ、色相が濁って施設送りになってしまったのである。
(スマホ版で反映されるか分からないけれども、一応ネタバレ部分は白色文字にした)
上のことが、どれだけシビュラ世界において重要なのか、このことの実感がいまいち伝わっていなかった、ということが、イグナトフ監視官の怒りの感情への共感が不足し、違和感となってしまったのだろうと思う。
「村八分」
という言葉――これは、前近代の社会ではほとんど死と同義なほど恐ろしいことだったのかもしれないが、現代で聞くと、「仲間外れ」ぐらいの意味に思われる。きっとそういう次元じゃないのだろう。
あと、なんだろう、あんまり感想がない。面白かったと思うのだけれども、それほどではなかったのかもしれない。少なくても言えるのは、イド:インヴェイデッドの方が面白かった。
10話まで最高に盛り上がって、そこから残り3話の展開は早すぎたかなと思う。詰め込まれすぎちゃったのか、自分の理解力のなさなのか。
前にも少し書いたが、黒幕氏の「正義」って何なの、というのが引っ掛かり過ぎて、それが解消されるのを期待したのだけれども、あんまり触れられずに終わった気がした。黒幕氏の目的はなんだったのか。世界を滅ぼしたいというような動機よりかは、自己完結的な欲望に基づく動機に思われた。それならそれでいいんだけど、それを「正義」というのは違和感。いやまぁ、犯罪者の自分勝手な言い分という意味でしかないのなら、別に正義といってもいいんだけど、作品として考えたとき、そこにもう少し意味が欲しかったなと思った。
あと、もう一つ書くとすれば、エンディングに向けて、ストーリー構成でいうところの4部目、プロットポイント2から起承転結の「結」において、たぶん、主人公の活躍が足りなかったように思う。
イドの世界はサカイド氏、現実の世界はモモキ室長氏、ということで、どっちも主人公です、という構成なのかもしれないが、まぁしかし、サカイド氏(ないしは、中の人のナリヒサゴ氏)がやっぱり、メイン主人公な作品だと思う。
エンディングパートとしては、やっぱり、主人公の行動によって物語が完結するという構造じゃなきゃ、大きなカタルシスはない気がする。それが、グッドエンディングでも、バッドエンディングでもしかし。主人公が傍観者であってはならない。――いや今作が傍観者だったというわけでもないが、モモキ氏が身を挺して頑張ったおかげで解決したという側面が強い。ぶっちゃけ、イドの世界での活躍は、もはや、現実世界に影響がなかったのではないか、と思う。――難しい、ネタバレしないように感想を書くのは難しい。
いや、なんか、批判的なことを書いているようだが、正直とても面白かった作品である。最近見た中で間違いなくトップに面白かった。シュタインズゲートのときもあったが、期待しすぎて、見るのを躊躇したほどであった。
しかしその、「面白かった」理由というか、感想を書くというのは難しい。
面白かったんだから、それ以上でも以下でもないのだと開き直りたい。
いや、批判的なことよりも、良かった点のほうがもっともっと、ネタバレしないように書くのは難しいのである。
でも頑張って、その良かった点を書こうとすれば、犯罪者の深層意識にもぐりこんで、現実の犯罪を解決するというその世界観設定自体が面白かったと思う。なんか、夢枕獏氏のサイコダイバーを思い出した。そういえば、魔獣狩りって完結してるのだろうか。図書館で借りて2冊読んで面白かったけれども、2巻目でも完結してなかったような。
けれども、さらによく調べると、小説家になろうで連載されている小説が元らしい。そちらを読んでみようと思った。
面白かった。第一章を一日で読み終わってしまった。
まえがき
サイコパス3期の感想書くよ! と、前回の記事で書いたので、書く。「書いたので書く」って冗長な表現だなと思う。しかし、代替案は難しい。「前回の記事のとおり○を書く」というのも何か表現上おっことしたものがある気がする。たぶん、読み手や、未来の自分でさえも、こうやって敢えて書かなければ気にもしなかったことだろう。サイコパス3期
アマゾンプライムで見れた。珍しいのかわからないけれども、1話40分ぐらいの尺だった。
しかし、飽きさせることなく、それぞれの話はテンポよく進んでいた。最後まで見れた、というだけで、まず面白かった作品なんだなと思う。
気になったのは、イグナトフ監視官の後半の行動。シンドウ監視官と仲たがいするようになっていったけれども、なんか、奥さんが原因なんだけれども、それにしてもなんか自分勝手すぎる印象だった。仕事場にも感情あらわにして、なんだかなぁ、職場の空気悪くする人だなぁと思った。
若干ネタバレだけれども、奥さんは別に死んだわけでもない。ただ、色相が濁って施設送りになってしまったのである。
(スマホ版で反映されるか分からないけれども、一応ネタバレ部分は白色文字にした)
上のことが、どれだけシビュラ世界において重要なのか、このことの実感がいまいち伝わっていなかった、ということが、イグナトフ監視官の怒りの感情への共感が不足し、違和感となってしまったのだろうと思う。
「村八分」
という言葉――これは、前近代の社会ではほとんど死と同義なほど恐ろしいことだったのかもしれないが、現代で聞くと、「仲間外れ」ぐらいの意味に思われる。きっとそういう次元じゃないのだろう。
あと、なんだろう、あんまり感想がない。面白かったと思うのだけれども、それほどではなかったのかもしれない。少なくても言えるのは、イド:インヴェイデッドの方が面白かった。
イドの感想
こちらも、アマプラで見た。10話まで最高に盛り上がって、そこから残り3話の展開は早すぎたかなと思う。詰め込まれすぎちゃったのか、自分の理解力のなさなのか。
前にも少し書いたが、黒幕氏の「正義」って何なの、というのが引っ掛かり過ぎて、それが解消されるのを期待したのだけれども、あんまり触れられずに終わった気がした。黒幕氏の目的はなんだったのか。世界を滅ぼしたいというような動機よりかは、自己完結的な欲望に基づく動機に思われた。それならそれでいいんだけど、それを「正義」というのは違和感。いやまぁ、犯罪者の自分勝手な言い分という意味でしかないのなら、別に正義といってもいいんだけど、作品として考えたとき、そこにもう少し意味が欲しかったなと思った。
あと、もう一つ書くとすれば、エンディングに向けて、ストーリー構成でいうところの4部目、プロットポイント2から起承転結の「結」において、たぶん、主人公の活躍が足りなかったように思う。
イドの世界はサカイド氏、現実の世界はモモキ室長氏、ということで、どっちも主人公です、という構成なのかもしれないが、まぁしかし、サカイド氏(ないしは、中の人のナリヒサゴ氏)がやっぱり、メイン主人公な作品だと思う。
エンディングパートとしては、やっぱり、主人公の行動によって物語が完結するという構造じゃなきゃ、大きなカタルシスはない気がする。それが、グッドエンディングでも、バッドエンディングでもしかし。主人公が傍観者であってはならない。――いや今作が傍観者だったというわけでもないが、モモキ氏が身を挺して頑張ったおかげで解決したという側面が強い。ぶっちゃけ、イドの世界での活躍は、もはや、現実世界に影響がなかったのではないか、と思う。――難しい、ネタバレしないように感想を書くのは難しい。
いや、なんか、批判的なことを書いているようだが、正直とても面白かった作品である。最近見た中で間違いなくトップに面白かった。シュタインズゲートのときもあったが、期待しすぎて、見るのを躊躇したほどであった。
しかしその、「面白かった」理由というか、感想を書くというのは難しい。
面白かったんだから、それ以上でも以下でもないのだと開き直りたい。
いや、批判的なことよりも、良かった点のほうがもっともっと、ネタバレしないように書くのは難しいのである。
でも頑張って、その良かった点を書こうとすれば、犯罪者の深層意識にもぐりこんで、現実の犯罪を解決するというその世界観設定自体が面白かったと思う。なんか、夢枕獏氏のサイコダイバーを思い出した。そういえば、魔獣狩りって完結してるのだろうか。図書館で借りて2冊読んで面白かったけれども、2巻目でも完結してなかったような。
最果てのパラディン
コメント欄でおすすめ頂いたので、調べてみたら、漫画があった。けれども、さらによく調べると、小説家になろうで連載されている小説が元らしい。そちらを読んでみようと思った。
面白かった。第一章を一日で読み終わってしまった。
あとがき
(かっこ書きである。と、書き途中で、第二章も少し読み始めたら、止まらなくなった。まず……時間切れ)
今日の一言「気分が向いたら出かけるか」
昨日は、眠れなかった。一昨日も眠れなかった。眠れないので起きてオンラインゲームやってたが、なんかぐだぐだになった。
オンラインゲームって、遊ぶ相手によるよね。こう、なんというか、めちゃくちゃ上手い人とやるのが面白いかというと、そういうわけでもないと思うんだよな。かといって、めちゃくちゃ下手な人とやると、文字通りグダグダ過ぎて遊びにならない。いや下手でもいいんだけど、まじめにというか、慎重にというか、ルールを守ってというか……最低限はできて欲しいものだ。まぁその、「最低限」って何か、というのはまた大きな問題であって、自分がある程度できるようになったから、最低限といいつつマウンティングしているだけかもしれないし。
いやもちろん、「俺も最初からそれぐらいはできていた」というレベル――これでも表現がよくないか、もうほんと、途中で抜けるとか、ミッションが始まっても動かないとか、そういうマナー的なことなのであるが、そういう遊び方だって認めるべきなのかもしれない。
だが、それと、僕が楽しいかという問題は全く別である。
ゲームが上手くなったって、給料が上がるわけじゃないし、誰かに褒められるわけでもない。
勉強すると、きっとたくさん良いことがあるはずだ。
――そうなのだろうか。それよりも、コミュニケーション能力が高い人のほうが出世する気がする。出世がどうこうというのは割とどうでもいいが、いい感じに仕事ができる気がする。
知識が豊富でも、人当たりが強い人は「使いづらい」って思われそうである。もちろん、ノーベル賞ものの突出した知識のある人たちは別だろうが。
まぁそんな益体もないことを考えても仕方がない。いや考えるというよりも単なる愚痴である。
愚痴るほどの何か状況が生じたわけでもないが、なんとなくそんな風に思う。
まぁその、エクセルの操作とか数式が壊れたのを直してあげたり教えてあげたりするのは楽しいしやりがいがあると思う。ここ数年、いろいろトラブル解決してきたから、そろそろエクセルあたりは中級者を名乗っていい気がしてきた(専門IT企業以外だったらね)。まぁまだまだ学ぶことは多いけれども、学ぶための基礎はできたかなという感じはする。とかってネットで書くと叩かれるの怖いよね。こういうこと書くと、「じゃあ〇〇は知ってる? できる?」とかって難しいこと言ってくる人がいたりする。そりゃあLET関数とか変数定義できる新しい関数とか知らんわ。
このブログの書き方としては、上から下に流れていくだけだ。推敲とか基本していない(すみません)。ゆえに小見出しも先に書いている。内容と一致しない場合がある。
ゲームは気晴らしだ。
という言葉は、よく聞くような気がするけれども、仕事も気晴らしだ、とも聞く気がする。実際に言語化されなくても、仕事はともかく、ゲームに至っては、内心そう思っている人が大半ではないだろうか。
ただ、おそらく、僕は数千時間をゲームしてきた気がする。これは少ない見積もりな気もする。
例えば、土日に8時間やってきたとする。20年ぐらいやってきたとする。
20年のうち、土日はどれぐらいあるか。
365日÷7日(一週間)×8時間=417時間(1年あたり)
417時間×20年=8343時間
となる。
おぉぉぉ。想像を超えた数字だ(かっこわらい)。
だが、まぁ、「数千時間やってきた気がする」というのは、あながち感覚として間違っていなかったということだろう。
8000時間を身体鍛えたり、勉強にあてていたら、もっと違う何かになれていたのだろうか。
逆に、それだけの時間を、メインの仕事をしていたとしても、誰しも(週休二日であれば)できるのである。土日に8時間ということは、4時間ずつぐらい。もっといえば、平日含めて1時間ずつあてても、週に7時間は確保できるわけだ。
という気持ちになってしまい、それ以上何も書けなくなった。
ので、本を読む。二元論。身体と魂。クオリア。
ああ、そうだ、僕はそういえば、「物理主義者」の立場に立っているのであった。忘れていた。
物理主義者とは、つまり、魂は存在せず、僕らの身体的構造によって「意識」ないしは感情が生じている(に過ぎない)とするものだ。
このことが、時折――ないしはいつも、僕を意気消沈させている原因なのかもしれない。――もちろんそれが、驚くべき物理構造であることは間違いないのだけれども。かといって、神や天国があることを望むわけではない。死は死であってよいと思う。何もない――それは本当に何もないこと(決して、僕が時折冷や汗だらだらでみる夢の、死んではいるが意識だけは残ってしまったような恐ろしいものではなくて)であってよい。
そう。こういう、キーワードというか、きっかけを得ると、途端に頭が回りだす。
思い出した、サイコパス3期見終わったこととか(これはこの文脈に一切関係ないが)、「LOVOT」という感情を表現するロボットが販売されていることとか。
これも文脈に関係ないが、コメント欄でおすすめされた内の、「最果てのパラディン」を小説家になろうで読んだこととか。いろいろ思い出す。最近の記憶は、仕事とゲームしかしてない気がしたが、そんなことはなかったのだ。ただ、得体のしれない気落ちによって色々記憶がなくなっていただけだったのだ。
思う人もいるかもしれない。
ただ、僕は思えない。
もう一つ、「分身ロボットカフェ」というのもあるらしい。こちらは、障碍のある方などが、自宅にいながら、ロボットを遠隔操作して、カフェの店員をやるのだ。攻殻機動隊の少佐が義体使って情報収集活動するようなものだ。こちらは、ロボットを操作する先の「人間」が感情があるということができるだろう。
LOVOTはどうか。
自律して、おしゃべりして、泣いたり笑ったりして――それは感情があるといえるのか。
そもそも!
感情が大事なのか。例えばペット――猫さんがニャーとないたとき、すりよってきたとき、僕らは「かわいい」という感情が生じることだろう。だが、猫さんの感情はあるのか。あるのかもしれない。でも、それは適切にはわからない。ニャーと泣いた意味が、分からない。すり寄ってきたのも、「ご主人サマーかまってニャー」なのか、「おいテメー、そこの席は俺ん場所だぞ、どけや」なのか分からない。
それでも、ペットは、良いものだ。その点において、本当に感情があるのかどうか、という点は、さほど重要ではないのかもしれない。そうすると、LAVOTはとても尊い試み実践だといえるだろう。
あの子が笑顔で話してくれたとしても、その「意味」は分からない。
分からないのだ。
それでも、「感情」は大事なものだとされるし、感情は人間には自明にあるものだとされる。たまに無い人のことをサイコパスといったりするが、例外とされる。
「どこに」
感情はあるのか。
ロボットが感情を持てないというのは本当か。
「魂」が宿らないと感情は生じないのか。
魂とは何か。それを綿密に説明できたとしよう。説明できるとすれば、それは「物理現象」なのではないかと僕は思う。
その点でも僕は物理主義を支持したいと思う。支持するというのは、それが「好き」かどうかではなくて、そう思わざるを得ない、という意味である。もっとなにか、「究極の意味」があったほうがいいのに、と思う気もする。
――この記事は何の話だっけ。
死について、と、タイトルにある。
死……。
オンラインゲームプレイで荒らし野郎のせいでミッション失敗した時間は無駄だったわけであるが、じゃあ、このとりとめのない記事を書いている時間は無駄じゃあないのか。
絶対的な死に対して、刻々と死に向かっていく中で、ゲームミッションの失敗と、この記事と、食事等生理的な営みと、仕事と、その他人生において行うこと全般に対して、何をもって有益、何をもって無駄とすればいいのか。
――否。ゲームミッションの失敗は、ゲームにおいてすら無駄だったのだから、完全なる無駄だったのだ!! くそうあの野郎!(笑)
まえがき
また、一週間ぶりになってしまった。昨日は、眠れなかった。一昨日も眠れなかった。眠れないので起きてオンラインゲームやってたが、なんかぐだぐだになった。
オンラインゲームって、遊ぶ相手によるよね。こう、なんというか、めちゃくちゃ上手い人とやるのが面白いかというと、そういうわけでもないと思うんだよな。かといって、めちゃくちゃ下手な人とやると、文字通りグダグダ過ぎて遊びにならない。いや下手でもいいんだけど、まじめにというか、慎重にというか、ルールを守ってというか……最低限はできて欲しいものだ。まぁその、「最低限」って何か、というのはまた大きな問題であって、自分がある程度できるようになったから、最低限といいつつマウンティングしているだけかもしれないし。
いやもちろん、「俺も最初からそれぐらいはできていた」というレベル――これでも表現がよくないか、もうほんと、途中で抜けるとか、ミッションが始まっても動かないとか、そういうマナー的なことなのであるが、そういう遊び方だって認めるべきなのかもしれない。
だが、それと、僕が楽しいかという問題は全く別である。
ゲームは所詮ゲーム
まぁいいや。それより勉強しよう。ゲームが上手くなったって、給料が上がるわけじゃないし、誰かに褒められるわけでもない。
勉強すると、きっとたくさん良いことがあるはずだ。
――そうなのだろうか。それよりも、コミュニケーション能力が高い人のほうが出世する気がする。出世がどうこうというのは割とどうでもいいが、いい感じに仕事ができる気がする。
知識が豊富でも、人当たりが強い人は「使いづらい」って思われそうである。もちろん、ノーベル賞ものの突出した知識のある人たちは別だろうが。
まぁそんな益体もないことを考えても仕方がない。いや考えるというよりも単なる愚痴である。
愚痴るほどの何か状況が生じたわけでもないが、なんとなくそんな風に思う。
まぁその、エクセルの操作とか数式が壊れたのを直してあげたり教えてあげたりするのは楽しいしやりがいがあると思う。ここ数年、いろいろトラブル解決してきたから、そろそろエクセルあたりは中級者を名乗っていい気がしてきた(専門IT企業以外だったらね)。まぁまだまだ学ぶことは多いけれども、学ぶための基礎はできたかなという感じはする。とかってネットで書くと叩かれるの怖いよね。こういうこと書くと、「じゃあ〇〇は知ってる? できる?」とかって難しいこと言ってくる人がいたりする。そりゃあLET関数とか変数定義できる新しい関数とか知らんわ。
ゲームと仕事と人生
やたら壮大な小見出しをつけたけど、思うに、小見出しって本当は、文章書き終わってから、それを要約する(キャッチーな)ものをつけるという順番だと思う。このブログの書き方としては、上から下に流れていくだけだ。推敲とか基本していない(すみません)。ゆえに小見出しも先に書いている。内容と一致しない場合がある。
ゲームは気晴らしだ。
という言葉は、よく聞くような気がするけれども、仕事も気晴らしだ、とも聞く気がする。実際に言語化されなくても、仕事はともかく、ゲームに至っては、内心そう思っている人が大半ではないだろうか。
ただ、おそらく、僕は数千時間をゲームしてきた気がする。これは少ない見積もりな気もする。
例えば、土日に8時間やってきたとする。20年ぐらいやってきたとする。
20年のうち、土日はどれぐらいあるか。
365日÷7日(一週間)×8時間=417時間(1年あたり)
417時間×20年=8343時間
となる。
おぉぉぉ。想像を超えた数字だ(かっこわらい)。
だが、まぁ、「数千時間やってきた気がする」というのは、あながち感覚として間違っていなかったということだろう。
8000時間を身体鍛えたり、勉強にあてていたら、もっと違う何かになれていたのだろうか。
逆に、それだけの時間を、メインの仕事をしていたとしても、誰しも(週休二日であれば)できるのである。土日に8時間ということは、4時間ずつぐらい。もっといえば、平日含めて1時間ずつあてても、週に7時間は確保できるわけだ。
死について
「で?」という気持ちになってしまい、それ以上何も書けなくなった。
ので、本を読む。二元論。身体と魂。クオリア。
ああ、そうだ、僕はそういえば、「物理主義者」の立場に立っているのであった。忘れていた。
物理主義者とは、つまり、魂は存在せず、僕らの身体的構造によって「意識」ないしは感情が生じている(に過ぎない)とするものだ。
このことが、時折――ないしはいつも、僕を意気消沈させている原因なのかもしれない。――もちろんそれが、驚くべき物理構造であることは間違いないのだけれども。かといって、神や天国があることを望むわけではない。死は死であってよいと思う。何もない――それは本当に何もないこと(決して、僕が時折冷や汗だらだらでみる夢の、死んではいるが意識だけは残ってしまったような恐ろしいものではなくて)であってよい。
そう。こういう、キーワードというか、きっかけを得ると、途端に頭が回りだす。
思い出した、サイコパス3期見終わったこととか(これはこの文脈に一切関係ないが)、「LOVOT」という感情を表現するロボットが販売されていることとか。
これも文脈に関係ないが、コメント欄でおすすめされた内の、「最果てのパラディン」を小説家になろうで読んだこととか。いろいろ思い出す。最近の記憶は、仕事とゲームしかしてない気がしたが、そんなことはなかったのだ。ただ、得体のしれない気落ちによって色々記憶がなくなっていただけだったのだ。
ロボットは感情を表現し得るか
そんで、例えば、涙腺機能を付けたロボットが泣いていたとして、僕らは、ロボットが「悲しんでいる」と思うだろうか。思う人もいるかもしれない。
ただ、僕は思えない。
もう一つ、「分身ロボットカフェ」というのもあるらしい。こちらは、障碍のある方などが、自宅にいながら、ロボットを遠隔操作して、カフェの店員をやるのだ。攻殻機動隊の少佐が義体使って情報収集活動するようなものだ。こちらは、ロボットを操作する先の「人間」が感情があるということができるだろう。
LOVOTはどうか。
自律して、おしゃべりして、泣いたり笑ったりして――それは感情があるといえるのか。
そもそも!
感情が大事なのか。例えばペット――猫さんがニャーとないたとき、すりよってきたとき、僕らは「かわいい」という感情が生じることだろう。だが、猫さんの感情はあるのか。あるのかもしれない。でも、それは適切にはわからない。ニャーと泣いた意味が、分からない。すり寄ってきたのも、「ご主人サマーかまってニャー」なのか、「おいテメー、そこの席は俺ん場所だぞ、どけや」なのか分からない。
それでも、ペットは、良いものだ。その点において、本当に感情があるのかどうか、という点は、さほど重要ではないのかもしれない。そうすると、LAVOTはとても尊い試み実践だといえるだろう。
人間の感情だってよくわからない
そうさ、もっと考えてみれば、人間相手だって感情など分からない。あの子が笑顔で話してくれたとしても、その「意味」は分からない。
分からないのだ。
それでも、「感情」は大事なものだとされるし、感情は人間には自明にあるものだとされる。たまに無い人のことをサイコパスといったりするが、例外とされる。
「どこに」
感情はあるのか。
ロボットが感情を持てないというのは本当か。
「魂」が宿らないと感情は生じないのか。
魂とは何か。それを綿密に説明できたとしよう。説明できるとすれば、それは「物理現象」なのではないかと僕は思う。
その点でも僕は物理主義を支持したいと思う。支持するというのは、それが「好き」かどうかではなくて、そう思わざるを得ない、という意味である。もっとなにか、「究極の意味」があったほうがいいのに、と思う気もする。
――この記事は何の話だっけ。
死について、と、タイトルにある。
死……。
オンラインゲームプレイで荒らし野郎のせいでミッション失敗した時間は無駄だったわけであるが、じゃあ、このとりとめのない記事を書いている時間は無駄じゃあないのか。
絶対的な死に対して、刻々と死に向かっていく中で、ゲームミッションの失敗と、この記事と、食事等生理的な営みと、仕事と、その他人生において行うこと全般に対して、何をもって有益、何をもって無駄とすればいいのか。
――否。ゲームミッションの失敗は、ゲームにおいてすら無駄だったのだから、完全なる無駄だったのだ!! くそうあの野郎!(笑)