今日の一言「毎日更新は、最近の状況だと難しい」「難しい根拠を述べよ」
ただ、まぁその、心配事はあるにせよ、割と人生楽しい方なのでは、とも思う。そんなに、悪い状況ではない気がする。精神的、体調的にも、そんなに悪くない気がする。しかし、だからこそなのか、余計に、本来すべきことをできていないことへの焦りが生じているのではないかとは思う。
という抽象的なことは置いておいて、アマプラさんで、虚構推理を見ている、ということを先日書いたかどうか忘れてしまったから書く――というか、現状、全部見終わった。面白かった。なんか、エンディングが非常に納得した、という作品は珍しいかもしれない。――というのは、あの、言葉はあまりよくないが、大ぶろしきを全然広げていない、こじんまりとしたテーマだったからか、非常によくまとまった、といえると思った。
イド:インヴェイデッドは、面白かったのだけれども、いかんせんテーマが大きかったので、後半駆け足感と、無理やり感と、不十分感がゼロとはいえなかった。その点、虚構推理は、何故クロウ先輩が、かわいいはずの彼女を邪険にしている(ように見えていたのか)というのが明確に分かって、「ああ、なるほど、そうだったのか」というカタルシスがあった。古事記のイワナガ姫のエピソードにまじらえたやり取りは、こちらも赤面してしまった。
そして、さらにアマプラさんにおすすめされてしまった、「PET」も見始めてしまった。これは、――これはまた、面白いかもしれない。ただ、声優さんの――あえてそういう演技なのか分からないが、微妙なのと、映像的にはふつー感がある。ただ、ストーリーがよい気がする。気になる。
そして、気づくと、コメントをたくさん頂いていた。ありがたい。早速返信に取り掛かったものの、すぐには書けないことが分かったため、ルーティン更新の重要な材料とさせていただく。まずは、srgn氏のものを。
まえがき
あーもー、ダメだな、なんか、生活リズムが狂っている。ただ、まぁその、心配事はあるにせよ、割と人生楽しい方なのでは、とも思う。そんなに、悪い状況ではない気がする。精神的、体調的にも、そんなに悪くない気がする。しかし、だからこそなのか、余計に、本来すべきことをできていないことへの焦りが生じているのではないかとは思う。
という抽象的なことは置いておいて、アマプラさんで、虚構推理を見ている、ということを先日書いたかどうか忘れてしまったから書く――というか、現状、全部見終わった。面白かった。なんか、エンディングが非常に納得した、という作品は珍しいかもしれない。――というのは、あの、言葉はあまりよくないが、大ぶろしきを全然広げていない、こじんまりとしたテーマだったからか、非常によくまとまった、といえると思った。
イド:インヴェイデッドは、面白かったのだけれども、いかんせんテーマが大きかったので、後半駆け足感と、無理やり感と、不十分感がゼロとはいえなかった。その点、虚構推理は、何故クロウ先輩が、かわいいはずの彼女を邪険にしている(ように見えていたのか)というのが明確に分かって、「ああ、なるほど、そうだったのか」というカタルシスがあった。古事記のイワナガ姫のエピソードにまじらえたやり取りは、こちらも赤面してしまった。
そして、さらにアマプラさんにおすすめされてしまった、「PET」も見始めてしまった。これは、――これはまた、面白いかもしれない。ただ、声優さんの――あえてそういう演技なのか分からないが、微妙なのと、映像的にはふつー感がある。ただ、ストーリーがよい気がする。気になる。
コメント返信
前回の記事そして、気づくと、コメントをたくさん頂いていた。ありがたい。早速返信に取り掛かったものの、すぐには書けないことが分かったため、ルーティン更新の重要な材料とさせていただく。まずは、srgn氏のものを。
>死とは
人間の思考や活動が脳内を駆け巡る電気的信号によって成り立っているのだとすれば、死というのは「脳の死」と「肉体の死」と「精神の死」の3つに分けられるように思います。
「脳の死」はいわゆる脳死というヤツで、脳という臓器が何らかの損傷によって活動停止となったもの。脳から指示が出されないため、自発的(ゲーム的な言い方をすればアクティブ的)に行動・活動ができなくなった死のパターンですね。肉体的には脳からの指示がなくとも生命機能を自動的に維持する臓器(ゲーム的な言い方だとパッシブ的なもの)は生きていても(いなくても)、脳が停止している状態。
死とは、というテーマにおいて、「それは3つに分けられると考える」と即答できるのがまずすごい。
僕はよう分からんから、だらだらと長ったらしく書くしかないが、明確に言語表現できるってすごいなぁ……、と思った。
脳死――これは、古代ギリシャ時代においてヴェテルトテネスが哲学的な見地で想定した表現である。と、いうのは全く創造なのだが、脳死という概念自体は医学の発展の賜物に思われる。
確かに、古代ギリシャ時代においても、そういった状態は想定できたであろう。ただ、脳死状態で自分では呼吸も食事もできなくなった人は、戦場で負傷して死んだ人と区別はなかったことと思う。
水槽の脳的な奴ですね。万能ネズミのウフコック氏が出てくるアニメでもそんな存在が登場していた気がします。
これはまだSFチック、思考実験どまりですが、いずれは実現しそうという感じはしますね。ある意味、攻殻機動隊の全身義体も、同じようなものかもしれません。
生まれた時から水槽の脳状態だったのと、ある日突然の事故でそういった状態になったのでは、脳がもっている来歴(記憶)の有無という点で取り扱いが違いそうだなとも思いました。身体がないと、そもそも脳は、来歴(記憶)を生じさせることができないのか、どうか。手や足、というだけでなく、視覚としても、目という機構があるからこそ、脳は意識を生じさせうるものなのか。
僕はよう分からんから、だらだらと長ったらしく書くしかないが、明確に言語表現できるってすごいなぁ……、と思った。
脳死――これは、古代ギリシャ時代においてヴェテルトテネスが哲学的な見地で想定した表現である。と、いうのは全く創造なのだが、脳死という概念自体は医学の発展の賜物に思われる。
確かに、古代ギリシャ時代においても、そういった状態は想定できたであろう。ただ、脳死状態で自分では呼吸も食事もできなくなった人は、戦場で負傷して死んだ人と区別はなかったことと思う。
>「肉体の死」は、脳は生きていても、人間として生命維持できる機能を全て失ってしまった場合。とはいえ、これは脳機能を維持するための臓器が破損してしまったりするので、そのままでは脳死にも繋がります。肉体損傷が激しく、代行臓器や生命維持機械などで脳髄だけだけど生きている、みたいな状態でしょうか。とてもSFチック。もし意識があったらそれを外部に出力できるような装置や環境がないと発狂しそうです。
水槽の脳的な奴ですね。万能ネズミのウフコック氏が出てくるアニメでもそんな存在が登場していた気がします。
これはまだSFチック、思考実験どまりですが、いずれは実現しそうという感じはしますね。ある意味、攻殻機動隊の全身義体も、同じようなものかもしれません。
生まれた時から水槽の脳状態だったのと、ある日突然の事故でそういった状態になったのでは、脳がもっている来歴(記憶)の有無という点で取り扱いが違いそうだなとも思いました。身体がないと、そもそも脳は、来歴(記憶)を生じさせることができないのか、どうか。手や足、というだけでなく、視覚としても、目という機構があるからこそ、脳は意識を生じさせうるものなのか。
「精神の死」はこれまた一風変わって、人格的・精神的に廃人になってしまう場合。脳も、肉体も動いているけれど、いわゆる心が壊れて他者とのコミュニケーションが成立しなくなってしまったり、刺激に対して反応がなくなってしまったりというパターン。生きているけど死んでいる、というイメージ。脳死というほどではなく、脳機能、電気信号は発生していても、思考や人格、自我に関わる部分には何らかの損傷や深刻なダメージが発生していそうです。
脳の死と、身体の死というのは分かりやすいですが、そこに敢えて「精神の死」というのを加えるという発想は面白いなと思いました。
たぶん、私が本記事で触れた、認知症も、精神の死に向かっている状態なのではないかと思いました。すべての認知機能が壊れてしまった状態が、精神的な死といえるのかもしれません。
ということを考えながら、PETという作品を何気なく見始めたから面白いと思ったのか(PETでは、精神異常を起こして再起不能になることを「壊れる」と呼んでいる……)。
たぶん、私が本記事で触れた、認知症も、精神の死に向かっている状態なのではないかと思いました。すべての認知機能が壊れてしまった状態が、精神的な死といえるのかもしれません。
ということを考えながら、PETという作品を何気なく見始めたから面白いと思ったのか(PETでは、精神異常を起こして再起不能になることを「壊れる」と呼んでいる……)。
>いずれにせよ、厳密な死と言えるものは私は脳死だと思っていて、脳内の電気的信号が生物の行動を司っているとするなら、その機能が失われたら何も残らないのだろうと考えています。
死後の世界など存在せず、眠る時のように思考が途切れて、そして本人は途切れたことにも気付かないまま、二度と意識が戻らない。
不可逆性という点があるのであれば、私は脳死と精神的な死は、どちらも「死」なんだろうなと思いました。
>そうなった時、その生物の認識している意識、自我というものはそこで消えてしまうだけなのだろう、というのが私の結論なわけですが、今私が私として生きているように次の誰かとして自我を持って生きたりするのかどうかは(前世の記憶を引き継いだりするのか、自覚ができるのかどうかも含めて)観測できないので分かりません。
そうですね。
死に向かうことは恐怖であったとしても、死の瞬間から先は、完全に自我が消えてしまったとすれば、すべて「分からない」。存在しないということだと思われます。
死に向かうことは恐怖であったとしても、死の瞬間から先は、完全に自我が消えてしまったとすれば、すべて「分からない」。存在しないということだと思われます。
たまにテレビ等で「前世の記憶がある、蘇った」とする人が取り上げられたりしますが、それも「たまたま、無意識のうちにそれを言い当てている(前世の記憶だと思い込んでいるのが偶然全部当たっている)だけ」なのか「世界やその人物など、何らかの要素や要因から前世に当たる人物のことを精確に推測し言い当てている(本人にその自覚があるかどうかは不問)だけ」なのか「実際に自我や魂というものが輪廻転生しているのか」は判断できませんね。
もしテレビのやらせではなく、本人や関係者のトリックでもないということが明確に証明できたとしても、「不思議な現象」であることは間違いないですが、それでもやはり、輪廻転生を信じる強い根拠にはならないだろうなと、私も思います。――ってなんででしょうね。私は昔からだと思うのですが、神秘的なものというのを何一つ信じていなかった気がします。だからこそ(なのかは分かりませんが)、物語に強く惹かれるというのはあります。
いや、小学生くらいは、確かにお化けは怖かったかなぁ。ただ、「偶然」ということの神秘性というのは思います。それを神秘性というのか、分かりませんが、「奇跡」(的な偶然)というものは、起こる可能性があるということで、信じられている気がします。
いや、小学生くらいは、確かにお化けは怖かったかなぁ。ただ、「偶然」ということの神秘性というのは思います。それを神秘性というのか、分かりませんが、「奇跡」(的な偶然)というものは、起こる可能性があるということで、信じられている気がします。
>ただ一つ言えるのは、「そこで途切れて全て消えて終わり」だととても恐ろしい、ということでしょうか。
死後の世界や死にまつわる宗教的なあれこれは一種の現実逃避であり、恐怖を和らげ、思考を逸らし、精神を安定させるためのものなのだろうなと思うわけです。
ジョルジュ・バタイユというイケメンフランス哲学者さんだったと思いますが、人生における行為すべてが死の恐怖に対する気晴らしなんだ、的なことを書かれていて、究極的だなおい、と思った記憶があります。
なので、死後の世界的なあれこれ全般だけが現実逃避ではないんだろうなと思ってます。いやまぁその、現実って何? という定義によるんだと思うのですが。現実的には、人類どころか、生物全体が死へと向かっていくわけであって、それが現実。人は死ぬ、遅いか早いかだけだ……って、これも何かの作品で見て聞いた気がしますが、なんだっけかなぁ。
なので、死後の世界的なあれこれ全般だけが現実逃避ではないんだろうなと思ってます。いやまぁその、現実って何? という定義によるんだと思うのですが。現実的には、人類どころか、生物全体が死へと向かっていくわけであって、それが現実。人は死ぬ、遅いか早いかだけだ……って、これも何かの作品で見て聞いた気がしますが、なんだっけかなぁ。
あとがき
(かっこ書きである。人は死へ向かう存在だ――は、ハイデガー氏だったっけ。記憶混濁。ああ、そうだ、生物すべてはいずれ死ぬ、といわけだけど、癌細胞ってすごいよね。あれ、死なないらしいよ。普通の細胞は、末端にテロメアという構造があって、それが細胞分裂とともにだんだん短くなっていって、最後は分裂できなくなる……死という経過をたどるのだけれども、癌細胞は、テロメアを活性化し続けて、無限増殖するんだって。「無限」という性質が自然界にあるってのがまずすごいよね。永久機関的な。でも、栄養がなければやっぱり癌細胞も死んじゃうんだろうね。そう、だから、癌って、ウイルスとか細菌とか、外部によるものではなくて、自らの細胞が原因なわけだ。だからやっかいな病気である。あと、だんだん関係なくなるけど、アポトーシスというのも不思議だ。細胞の自死。ちなみに、細胞が自発的に死ぬことで、生物の恒常性を保っている、ということは知っているが、アポトーシスでぐぐってみて、書いてあることは全く理解できない(かっこ笑い))PR