たくさんの人に囲まれて
家族連れ、カップル、子どもたち、中学生、老夫婦、休日の楽しそうなひととき。
なにかを、共有すること、他者の人生を背負うこと、それがコミュニケーションであって、他者に思い通りに意思を伝えるというのは、コミュニケーションの表層なのかもしれない。
もっとも、仕事におけるコミュニケーションは、後者が正しい。あとは、できるだけ、気持ちよくなってもらうだけだ。
誰かに相談されたことはあるか
色々情報検索していて、ぐさっと、はっとなったのは、他者から相談された経験が少ないということだ。
仕事は当然別として、プライベートにおいて、なにか重大な人生のイベントについて、どうしたらよいか、尋ねられたという経験はないかもしれない。
いやいや、小さなことでも、何かあるかと考えても、でてこない。
そういう意味では、僕はとても寂しい人間なのかもしれない。
そして確かに、あまりそういったことを望んだこともなかった。心から欲したことでなければ、現象化することはあまりないのだ。
頼りかた
なるほど、そう考えると、そもそも、他者を頼る、ということが、僕はほとんどない。
これが所謂様々なことの原因かもしれない。
自慢どころか、逆に卑下的だが大抵のことは自分の力でやってきた、と書くと、学校の先生や親、親戚、友人、その他多くの人たちの力がなければ今の自分はいません、と書くことはできても、本当に解決されるべき問題に対して、他者は本当に無力だった。
え、じゃあ、思考における尊敬すべきあの人や、離婚して落ち込んでるときにメッセージをくれた人たちは、どうなのか。
いま唯一の深層欲求に従ってこうして言葉をつくりあげることができているのも、間違いなくその方々のおかげである。感謝、とかくと言葉が軽いぐらい、重要な影響をもたらしてくれた。
いますぐ書くことをやめるべきか
ポイントは、理解不可能性。
書くのをやめたところで、思考はとまらないし、むしろ頭のなかでカオスとして渦巻くことを考えれば、その100%の表現など不可能でありながら、整理され片付けられ、新たに何か構築する際のピースとなる。
ポイントは、他者との付き合いにおいて、今回のテーマの、頼るということを、意識的に取り入れた方がよいかどうか。
何で頼れないかというと、頼ると頼られるから、頼られたときに自分が力になれないと、申し訳なくて自分を責めるからだと思われる。
相手の人生を背負うことが怖いのだ。
自分ひとりであれば、最悪のことは死ねばよいだけである。
ところが、他者に対して、取り返しのつかないことをしてしまったら、自分が死んでも取り返しがつかないとしたら。
やっぱり、他者を頼ることは怖いことだ。
極端に考えすぎである
きっと、頼り頼られ、というのは、そんな考えることではなく、きっと、自然にやるものなのだろう。
僕も、最近までそんなこと考えてもいなかったから、きっと、自然に頼らないようにしてきたのだろう。
ただ、やっぱり、不思議なことは、子どもの頃からよくきくこととして、早く大人になりなさいとか、分別をつけなさいとか、自立しなさい、社会人になって一人前だとか。
独立した個として、生きていくことが奨励されている。
他人へ任せてもいいとか、仕事の管理職向けの本を読んで、なるほどなーっと思ったぐらいである。
もっとあげれば、お兄ちゃんだからしっかりしなさいとか、一人前とか、何か一人で成し遂げることではなかったのか。
このブログ自体が頼り
やっぱり、このテーマ、誰かを頼った方がいい、というのは、思慮に値しない。
まず、確認として、例えば存在価値とか、そういったことを話すことは、まずもって必要なくて、むしろ他者を不愉快にさせる可能性がある危険なことだ。
そんな危険なことを、こうして書ける場所があることが、まず、間違いなく、頼りきっている。
そして、僕の表現力と理解可能性による二重の意味において、物理世界に対して頼ることはできない。
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