思考は、理想自己との一致のために行う作業である。
理想自己とは、その瞬間、そうとしかありえない、言葉、行動、状況、反応のことである。
生きる意味とは、その理想自己と現実が一致したときに、分かるものである。
この三点目が、今回掘り下げて書くべきことだろう。
自分のなかでは、違和感がある、それは何故か。
理想自己と生きる意味との関係性である。
自分がこうあるべきで実際そうであり、それ以外を実感レベルで考えられない状態、真実そのものが、理想自己である。
そのため、理想自己は、到達する目標ですらないことを先日書いた。
そこまではいい。
次に、その理想自己に到達するための思考とは何か、ということと、そもそも、生きる意味をみつけることとこ関係性がわからない、ということだ。
理想自己は、目的でも目標でもないと書いた。
すると、その理想自己となるための、その状況に至ること、そのことが、そのまま矛盾となるのだ。
つまり、理想自己とは、理想的な概念ではあるものの、目の前にぶらさげられたニンジンのようなものなのではないか。
この表現は難しい、ただ、ここでは仮に、理想自己には、なる、ものであると表現する。
現実と自己との擦り合わせである。
こう書くと、現実にただ追従し流されるだけ、長いものにまかれるだけ、とも感じられる。そうではない、それでは、自己など存在しない。
すぐさま、自己は不要ではないか、との議題があげられるものの、これは棄却する。
自己は、捨て去ることができないものである。特に私はそうである。その理由は、経験によるもののため、根拠は薄い。
とにかく、10歳ぐらいから、友達と、小学校の休み時間にトランプしたり遊んだこと、母親がつくってくれたドーナッツの美味しさなど……自己が生じ始めた時期に、人間関係で嫌な思いをし、死んでしまいたいと思ったことがある。
その感覚は当然、いま呼び起こすことはできないものの、その後、紙のノートに日記ともいえない、いわゆる思考そのものの過程、これをログ、の僕は勝手に読んでいるが、そのログを書き続けていったことに繋がるのだと思っている。
それらは、懐古主義であり、トラウマが現在に影響していても、単に甘えに過ぎない、ぐらいに思っていたが、そこから辿らなければ、やはり自己を知ることはできない。
知る必要があるのか、という疑念、これらは、とことん排除していく必要がある。とにかく、自己は、過去からいままで、結局消えることはなかったし、それが現実と共鳴することもなかったのだ。
この疑問、なんで仕事してるかわかんない、ぐらいに言っていた友人に、思いきって聞いてみた。
オブラートに、生きてる意味わかんねーってなったことある、っとか、笑顔で。
え、それはないよ、と即答だった。おぉ、やっぱり、そういうもんか。
なんやかんや、みんな、自己と現実が一致しているのである。解離性障害みたいになんてならないのだ、……ほんとか?
みな、人生とは、なんらか、不満を感じながら生きていくものだ、とか、よく聞くはなしだが、その不満とは、所詮、自己を脅かすレベルのものではないというのか。
そしたら、自分は何故こんなにも、こんがらがってしまったのか。
過去の自己を無視して、更地に新しい建物をたてようとした、が、結局土台がしっかりしないから、崩落した。
いまは、特に、立ち止まって考えるべきだ。
薫習、といって、日々の修行をこなしていると、身に付けるものにお香の匂いがしみつくのだという。
正しいことを繰り返し行うことが、重要だといわれる。
正しいかは分からないが、僕はずっと、考えること、書くことはずっと続けてきた。
ある意味習慣なのだから、簡単にやめることもできないだろう。なら、これを利用するっきゃない。
いま、真面目に答えを出そうと考えてたら、様々な過去がフラッシュバックして、危うく発狂、とかくと、オーバーな気がするが、具合悪くなりかけた。
書くことは、やっぱり、楽しんでてきとーに書いてるぐらいがいいのか、でも、それだと、他者に感動を与えるようなことはできない。
うーん……なんやかんや、一時間たったのか。
どんだけ時間を使えば、前に進めるのか、いや、そもそも、いま僕は、前ってどっちかが分からなくなっている。
なんで人はみな、楽しそうに生きている?
なぜ人はみな、苦しみを乗り越えて笑ってられる?
なぜ、避けられない死の恐怖を感じない?
そして、なぜ僕はこんなふうに考えざるえない?
なぜ僕は、自己を、どこか遠くにあるものだと感じる?
なぜだ?
なぜ?
頭が真っ白になる、というより、様々な絵の具でぐちゃまぜになって、結果真っ黒になつていくような、そんな感覚に、もう常に書いていないと自分が保てない。
いやはや、まいっちまうね、こりゃ、
そうやってすぐ、悲劇の主人公気分か、きめぇ、早くしんじまえよ。
とかも声が聞こえるし、うるさいうるさい、黙ってろ。
そしたらこのタイミングで、お久しぶりです!メアド変えたから登録よろしくねってメールが。
差出人不明、間違いなく迷惑メール、でも、弱っちまってると、返信してしまいそうだ、わらい。
ああ、ほんとに具合が悪い、今日はここまで。
カテゴリ、思考にしたけど、日常に変えよう。
失敗した。
理想自己とは、その瞬間、そうとしかありえない、言葉、行動、状況、反応のことである。
生きる意味とは、その理想自己と現実が一致したときに、分かるものである。
この三点目が、今回掘り下げて書くべきことだろう。
自分のなかでは、違和感がある、それは何故か。
理想自己と生きる意味との関係性である。
自分がこうあるべきで実際そうであり、それ以外を実感レベルで考えられない状態、真実そのものが、理想自己である。
そのため、理想自己は、到達する目標ですらないことを先日書いた。
そこまではいい。
次に、その理想自己に到達するための思考とは何か、ということと、そもそも、生きる意味をみつけることとこ関係性がわからない、ということだ。
理想自己への到達の矛盾
理想自己は、目的でも目標でもないと書いた。
すると、その理想自己となるための、その状況に至ること、そのことが、そのまま矛盾となるのだ。
つまり、理想自己とは、理想的な概念ではあるものの、目の前にぶらさげられたニンジンのようなものなのではないか。
この表現は難しい、ただ、ここでは仮に、理想自己には、なる、ものであると表現する。
現実と自己との擦り合わせである。
こう書くと、現実にただ追従し流されるだけ、長いものにまかれるだけ、とも感じられる。そうではない、それでは、自己など存在しない。
すぐさま、自己は不要ではないか、との議題があげられるものの、これは棄却する。
自己は、捨て去ることができないものである。特に私はそうである。その理由は、経験によるもののため、根拠は薄い。
とにかく、10歳ぐらいから、友達と、小学校の休み時間にトランプしたり遊んだこと、母親がつくってくれたドーナッツの美味しさなど……自己が生じ始めた時期に、人間関係で嫌な思いをし、死んでしまいたいと思ったことがある。
その感覚は当然、いま呼び起こすことはできないものの、その後、紙のノートに日記ともいえない、いわゆる思考そのものの過程、これをログ、の僕は勝手に読んでいるが、そのログを書き続けていったことに繋がるのだと思っている。
それらは、懐古主義であり、トラウマが現在に影響していても、単に甘えに過ぎない、ぐらいに思っていたが、そこから辿らなければ、やはり自己を知ることはできない。
知る必要があるのか、という疑念、これらは、とことん排除していく必要がある。とにかく、自己は、過去からいままで、結局消えることはなかったし、それが現実と共鳴することもなかったのだ。
死にたいって思ったことある?
この疑問、なんで仕事してるかわかんない、ぐらいに言っていた友人に、思いきって聞いてみた。
オブラートに、生きてる意味わかんねーってなったことある、っとか、笑顔で。
え、それはないよ、と即答だった。おぉ、やっぱり、そういうもんか。
なんやかんや、みんな、自己と現実が一致しているのである。解離性障害みたいになんてならないのだ、……ほんとか?
みな、人生とは、なんらか、不満を感じながら生きていくものだ、とか、よく聞くはなしだが、その不満とは、所詮、自己を脅かすレベルのものではないというのか。
そしたら、自分は何故こんなにも、こんがらがってしまったのか。
過去の自己を無視して、更地に新しい建物をたてようとした、が、結局土台がしっかりしないから、崩落した。
いまは、特に、立ち止まって考えるべきだ。
ルーチン作業
薫習、といって、日々の修行をこなしていると、身に付けるものにお香の匂いがしみつくのだという。
正しいことを繰り返し行うことが、重要だといわれる。
正しいかは分からないが、僕はずっと、考えること、書くことはずっと続けてきた。
ある意味習慣なのだから、簡単にやめることもできないだろう。なら、これを利用するっきゃない。
思考パニック
いま、真面目に答えを出そうと考えてたら、様々な過去がフラッシュバックして、危うく発狂、とかくと、オーバーな気がするが、具合悪くなりかけた。
書くことは、やっぱり、楽しんでてきとーに書いてるぐらいがいいのか、でも、それだと、他者に感動を与えるようなことはできない。
うーん……なんやかんや、一時間たったのか。
どんだけ時間を使えば、前に進めるのか、いや、そもそも、いま僕は、前ってどっちかが分からなくなっている。
なんで人はみな、楽しそうに生きている?
なぜ人はみな、苦しみを乗り越えて笑ってられる?
なぜ、避けられない死の恐怖を感じない?
そして、なぜ僕はこんなふうに考えざるえない?
なぜ僕は、自己を、どこか遠くにあるものだと感じる?
なぜだ?
なぜ?
頭が真っ白になる、というより、様々な絵の具でぐちゃまぜになって、結果真っ黒になつていくような、そんな感覚に、もう常に書いていないと自分が保てない。
いやはや、まいっちまうね、こりゃ、
そうやってすぐ、悲劇の主人公気分か、きめぇ、早くしんじまえよ。
とかも声が聞こえるし、うるさいうるさい、黙ってろ。
そしたらこのタイミングで、お久しぶりです!メアド変えたから登録よろしくねってメールが。
差出人不明、間違いなく迷惑メール、でも、弱っちまってると、返信してしまいそうだ、わらい。
ああ、ほんとに具合が悪い、今日はここまで。
カテゴリ、思考にしたけど、日常に変えよう。
失敗した。
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