20代でやっておくこと、30代で考えるべきこと、40代で決めること、50代で考えるべきこと……
それぞれの年齢で、するべきことを示す本は多い。
それぞれ読んでみてわかるのは、その通して根底にあるものである。
結果的に、それらは僕に感動を与えなかった、何故か。現実的なるものの構築を前提にしているからだ。
もうひとつ、年齢は関係ないという説明、いわゆる、何かを始めるには遅い時期はない、というもの、これとの矛盾も気になるところ。
矛盾とか、足りなさ、物足りなさに悶えるのであれば、そういった言せつに惑わされる必要はもうないだろうと思う。
先日の記事は、一週間が始まる今日読んでも、やはりよいと思った。よい、というのは、ポイントが整理されていて分かりやすいということだ。書いていて意識はしていなかったが、たまにこうしたよい記事ができる、と、自画自賛したいわけではない。
ただ、続きを書くべきだが、ちょっとハードルがあがって書けない、ぐらいには思う。
まず、土台の補強を、と思う。
ひとつ、思考それ自体に意味はないということ。
小説家は、その創作を論理的に構築する必要があるかもしれないが、特殊な職業は保留とする。
基本的には、現実的なるものとのフィードバックを必要とする。
思考のためだけの思考は、避けるべきということだ。そうでなければ、面白さすら表現できないだろう。
思考の目的とは、現実と理想自己との一致である。
では、理想自己とは何か。それを知ることも、思考のひとつの目的である。
このとき、理想自己とを、目指す到達点のように考えては、ならない。
何か、到達するべきものではなく、理想自己は、それが表象する、法則、ルールなどを知ることでもある。
理想自己は、固定的なものではない。このことは、一般に、目的とされるものとは異なる。
現実において、目標は、達成する壁のようでもある、乗り越えていくものだ。
で、また時間が経って、飲み会である。
昨日も、自宅でやきとりなどを買って、先日購入したビーフィーター24というジンと、グレープフルーツでオリジナルカクテルを楽しんだ。
氷もスーパーでわざわざ大きめのものを購入した。
たいした手間はないけれども、楽しかった。
今日の飲み会も、何ら気を使わず笑って話した。うん、やっぱり、学生時代の友人はよいものだ。
過去の来歴を知ってるというのは、それだけで価値があるものと思う。
といった表現をすると、俺には友達が一人もいない、と寂しさを嘆く人たちの支持を失うだろう。
お前は、ぐだぐだとネガティブなことを書きつつも、実はもっとじぶんより下の人をみて喜んでいるのだと。
こうなってくると、僕のこの思考というものが、単なる我儘とか、逃げとか、甘えとか、思考としてすら認められなくなるのである。
逆に、こうした事情から、イケメン、リア充的な人も、受け入れられるようになった。
思考は万人にひらかれている。
ヘルマンヘッセのシッダールタは、歩くだけで女の子にきゃーきゃーいわれるイケメンであったが、決してリア充ではなかった。
他の表現をすれば、上をみてもきりがなければ下をみてもきりがない。こうやって帰っているなかも、ベンチに座ったカップルがキスをしている。
他者と比較しても無意味といわれるが、なかなかできないもの。でもそれでも、その無意味性を強く実感するようになってくると、自然に妬みとか嫉妬とか、そういった感情はあまり生じなくなってくる。
果たしてそれがよいことかは、他者に気妙味をもつべき、というのもあるから、難しいところ。それこそ、中庸である。
財布について、ダンヒルとヴィレクストラというブランドのものが、三十代に人気とのこと。
いまの財布も古くなってきたため、買い換えようかと思っている。で、女性との初対面の印象で大事なのは、高そうな長財布と、ゴールドカードだそうな(笑)
そういった、いかにも恋愛至上市場主義的なのに、面倒さとか胡散臭さを思っていたが、これも、次のように解釈すると、自分のなかでも対応が可能。
お金を何に使うか、ということの考えについても含めて、自分自身である、ということだ。
僕が何故ブランドものとか、高級品をばかげていると思っていたかは、これまでの記事を読むとわかる。
つまり、真実性の希求において、ブランドというのは、飾り、虚飾にすぎないのだ。
だから、そういったブランド、嗜好品、高級品よりも、機能性を追求するし……別に安物を求めるというのではなく、機能的に優れていれば、お金を出すのは吝かではない、ブランドは、その価格の価値が、機能以外の部分であるのだと、その認識であったわけだ。
その認識に変化があったわけではない。そうきた、みかけ、にたいしての自分の評価が高まったとしても、なんら嬉しくないと、そう思っていたわけだ。
しかし、こう考えてみてもよい、その、お金のつかいかたを含めて、自分なのだと。
ルックスも、持ち物も、言葉も、声も、行動も自分なのだ、と。
自分、というものに拘りすぎなのかもしれない。
長いものにまかれてもいいじゃないか、と。
カクテル3杯で、予想外によった。やはり、新しい居酒屋で一人飲むのは、その雰囲気が手伝ってよいが早いのかもしれない。
で、2時間くらい仮眠になったら、なかなか寝付けなかった。
これはチャンスと、色々思考にまわそうとした。
しかし、言葉が出てこない、出てきてもすぐ消える。
思ったのは、頭のなかだけで考えていると、同じことの堂々巡りになる。
アウトプットが大事なのだ。
些細なことも、頭によぎったことはメモをする。
メモは、補助記憶装置というよりも、もはや主記憶装置だ。
頭のなかの表現は、レジスタ、高速な記憶装置といえるだろう。でもすぐ消える。
到達点はどこか。
大きな目標達成には、小分けにすることが大事。
身近な目標から達成する必要がある。
まず、このブログの到達点は何か、というより、複数日にまたがってきている、この記事の到達点はどこか。
それぞれの年齢で、するべきことを示す本は多い。
それぞれ読んでみてわかるのは、その通して根底にあるものである。
結果的に、それらは僕に感動を与えなかった、何故か。現実的なるものの構築を前提にしているからだ。
もうひとつ、年齢は関係ないという説明、いわゆる、何かを始めるには遅い時期はない、というもの、これとの矛盾も気になるところ。
矛盾とか、足りなさ、物足りなさに悶えるのであれば、そういった言せつに惑わされる必要はもうないだろうと思う。
思考の無意味性
先日の記事は、一週間が始まる今日読んでも、やはりよいと思った。よい、というのは、ポイントが整理されていて分かりやすいということだ。書いていて意識はしていなかったが、たまにこうしたよい記事ができる、と、自画自賛したいわけではない。
ただ、続きを書くべきだが、ちょっとハードルがあがって書けない、ぐらいには思う。
まず、土台の補強を、と思う。
ひとつ、思考それ自体に意味はないということ。
小説家は、その創作を論理的に構築する必要があるかもしれないが、特殊な職業は保留とする。
基本的には、現実的なるものとのフィードバックを必要とする。
思考のためだけの思考は、避けるべきということだ。そうでなければ、面白さすら表現できないだろう。
理想自己
思考の目的とは、現実と理想自己との一致である。
では、理想自己とは何か。それを知ることも、思考のひとつの目的である。
このとき、理想自己とを、目指す到達点のように考えては、ならない。
何か、到達するべきものではなく、理想自己は、それが表象する、法則、ルールなどを知ることでもある。
理想自己は、固定的なものではない。このことは、一般に、目的とされるものとは異なる。
現実において、目標は、達成する壁のようでもある、乗り越えていくものだ。
飲み会
で、また時間が経って、飲み会である。
昨日も、自宅でやきとりなどを買って、先日購入したビーフィーター24というジンと、グレープフルーツでオリジナルカクテルを楽しんだ。
氷もスーパーでわざわざ大きめのものを購入した。
たいした手間はないけれども、楽しかった。
今日の飲み会も、何ら気を使わず笑って話した。うん、やっぱり、学生時代の友人はよいものだ。
過去の来歴を知ってるというのは、それだけで価値があるものと思う。
といった表現をすると、俺には友達が一人もいない、と寂しさを嘆く人たちの支持を失うだろう。
お前は、ぐだぐだとネガティブなことを書きつつも、実はもっとじぶんより下の人をみて喜んでいるのだと。
こうなってくると、僕のこの思考というものが、単なる我儘とか、逃げとか、甘えとか、思考としてすら認められなくなるのである。
逆に、こうした事情から、イケメン、リア充的な人も、受け入れられるようになった。
思考は万人にひらかれている。
ヘルマンヘッセのシッダールタは、歩くだけで女の子にきゃーきゃーいわれるイケメンであったが、決してリア充ではなかった。
他の表現をすれば、上をみてもきりがなければ下をみてもきりがない。こうやって帰っているなかも、ベンチに座ったカップルがキスをしている。
他者と比較しても無意味といわれるが、なかなかできないもの。でもそれでも、その無意味性を強く実感するようになってくると、自然に妬みとか嫉妬とか、そういった感情はあまり生じなくなってくる。
果たしてそれがよいことかは、他者に気妙味をもつべき、というのもあるから、難しいところ。それこそ、中庸である。
そして次の日
財布について、ダンヒルとヴィレクストラというブランドのものが、三十代に人気とのこと。
いまの財布も古くなってきたため、買い換えようかと思っている。で、女性との初対面の印象で大事なのは、高そうな長財布と、ゴールドカードだそうな(笑)
そういった、いかにも恋愛至上市場主義的なのに、面倒さとか胡散臭さを思っていたが、これも、次のように解釈すると、自分のなかでも対応が可能。
お金を何に使うか、ということの考えについても含めて、自分自身である、ということだ。
僕が何故ブランドものとか、高級品をばかげていると思っていたかは、これまでの記事を読むとわかる。
つまり、真実性の希求において、ブランドというのは、飾り、虚飾にすぎないのだ。
だから、そういったブランド、嗜好品、高級品よりも、機能性を追求するし……別に安物を求めるというのではなく、機能的に優れていれば、お金を出すのは吝かではない、ブランドは、その価格の価値が、機能以外の部分であるのだと、その認識であったわけだ。
その認識に変化があったわけではない。そうきた、みかけ、にたいしての自分の評価が高まったとしても、なんら嬉しくないと、そう思っていたわけだ。
お金の使い方
しかし、こう考えてみてもよい、その、お金のつかいかたを含めて、自分なのだと。
ルックスも、持ち物も、言葉も、声も、行動も自分なのだ、と。
自分、というものに拘りすぎなのかもしれない。
長いものにまかれてもいいじゃないか、と。
さらに翌日
カクテル3杯で、予想外によった。やはり、新しい居酒屋で一人飲むのは、その雰囲気が手伝ってよいが早いのかもしれない。
で、2時間くらい仮眠になったら、なかなか寝付けなかった。
これはチャンスと、色々思考にまわそうとした。
しかし、言葉が出てこない、出てきてもすぐ消える。
思ったのは、頭のなかだけで考えていると、同じことの堂々巡りになる。
アウトプットが大事なのだ。
些細なことも、頭によぎったことはメモをする。
メモは、補助記憶装置というよりも、もはや主記憶装置だ。
頭のなかの表現は、レジスタ、高速な記憶装置といえるだろう。でもすぐ消える。
エレファントテクニック
到達点はどこか。
大きな目標達成には、小分けにすることが大事。
身近な目標から達成する必要がある。
まず、このブログの到達点は何か、というより、複数日にまたがってきている、この記事の到達点はどこか。
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