来週は、土日ともプライベートの予定がある。
という、書き方、プライベートってなんだよ、と何だか無性にいらだつ。いやつまり、誰か他者との付き合い的なことをプライベートというのか、「仕事」とそれ以外をプライベートというのか。であれば、結局今日だってプライベートで予定はあった(結局友達との食事会は取りやめたが、頼んだ本を受け取ったりとか)。
つまり、自分は、「自分一人の時間」を、「本当の時間」ととらえ、他者との相互関係、インターアクションが発生する時間を、別なものとととらえているのだろうか。それが、プライベートという言葉への違和感につながっているのか。
そんな細かいことはいい。「どうでもいいことはいい」と書こうと思ったが、上のような感覚をメモしておくことは、重要なことのように思える。「何か違う」という感覚こそが、「自分自身」の要素なのだと思うから。
言葉ってのが、難しいものだ。
言葉ね。言葉、言葉がなければ、記憶も成り立たず、記憶がなければ、人として存在ができない。
いやはや、やっぱり、電車とか、他人の車とか、それとはやっぱり違う。「馬を駆る」「運転する」という感覚は、全く別のものだと思う。この主体性ってのは、やっぱり大事だ。自分は○○ができる、という、この「できる」という感覚を大事にしなければならない。
しかし、ここで補足的に蛇足すれば、自分は、その「できる」が、主体的な感覚として認められず、他者との比較をすることによって、いわゆるオンラインゲーム症候群に陥り、自己喪失するのである。
と、いつもいつも補足しているが、そろそろ、まともな対策考えたらどうなんだ。いやだから、外に出かけて楽しかった、と言っているじゃないか。
しかしこう、少し、回復した。
どこまで保てるかは分からないけれども、最近、やはり、人と関わりすぎた。人中毒だ。なんじゃそりゃ。
とか書くと、「一人の時間ってのは大切なのですよ」とかしたり顔で諭される。いやいやそういう問題じゃない。
睡眠、と、何もしない時間、だ。
もう忙しくなってくると、あれもこれも、それで頑張っているのに、あれが足りないこれが足りない、努力が足りない、真剣さが足りない、ああもう、本当にたくさんたくさん言葉が降ってくる。
それは、他者から本当に言われることもあれば、自分自身の、内なる声の場合もある。
煩わしいものだ。
苛立たしいものだ。
面倒なものだ。
そう、この、面倒、という気持ち。やる気が起きない。
本当は、やりたいことが、こんな僕にも(こんな僕、という表現は、卑下しているようで、尊大である。危険な表現だ)あるはずなんだ。
とかく、もう少し、整理したいんだな。部屋も掃除機をかけられない日が続くと気が滅入るが、それだけじゃなくて、自分の好きなものとか、それは、ゲームの種類や、本、飲み物、食べ物、場所、服装、道具、音楽、……など。
「取りあえずいろんなことをやってみるのがいいよ」
という、どっか、阿頼耶識(あらやしき)に刷り込まれているのかもしれない。
俺の起源は何なんだ。
20代のうちに、どれだけ多くのインプットができたか、で人は決まるという。
はぁ? 勝手に言っとけ。
何ら方策無きインプットなど、何も生み出さない。
というのは、専門性の高度化複雑化である。
「超常的なことの衰退」が時代の象徴なのだとしたら、僕らができるのは、目標設定力と、自己解決力だけなのだとしたら、それは極度な自己満足の世界ということになる。
そうじゃねぇだろ、どっか正しいことってあるだろ。
一方で、生きる目的なんて考えてないで、トートロジー(同語反復)に、生きてるから生きているのだ、と言い切ってやれという。
この辺りの矛盾が問題なのかもしれないな。
大抵は、そのどちらかに自分を委任しているため矛盾に気づかないか、その矛盾を矛盾と感じないことだろう。
いやぁ、しかし、そんなことはさておき、やっぱり、休むことは大事だ。
特に、何で生きてるんだっけ、と、よく分からなくなる頻度が高まっているこの時期には、何もしない時間をできるだけ多くつくる必要がある。
何もしないって、結構難しい。あれやらなきゃ、これやらなきゃ、と、頭にめぐるのを、すっと消して、真っ暗な、もしくは真っ白な心象風景をつくりだし、内なる声に耳を傾ける……ことすらせず、本当に、何もしないのだ。
という、書き方、プライベートってなんだよ、と何だか無性にいらだつ。いやつまり、誰か他者との付き合い的なことをプライベートというのか、「仕事」とそれ以外をプライベートというのか。であれば、結局今日だってプライベートで予定はあった(結局友達との食事会は取りやめたが、頼んだ本を受け取ったりとか)。
つまり、自分は、「自分一人の時間」を、「本当の時間」ととらえ、他者との相互関係、インターアクションが発生する時間を、別なものとととらえているのだろうか。それが、プライベートという言葉への違和感につながっているのか。
そんな細かいことはいい。「どうでもいいことはいい」と書こうと思ったが、上のような感覚をメモしておくことは、重要なことのように思える。「何か違う」という感覚こそが、「自分自身」の要素なのだと思うから。
休むことの重要性
とはいえ、まぁ、今日はあまり活動はしなかった。しばらくぶりに愛馬にまたがったが、やっぱり、楽しかった。楽しいという言葉も貧相だな。「なんだか生きているな」という感覚を味わえた。……大げさか?言葉ってのが、難しいものだ。
言葉ね。言葉、言葉がなければ、記憶も成り立たず、記憶がなければ、人として存在ができない。
いやはや、やっぱり、電車とか、他人の車とか、それとはやっぱり違う。「馬を駆る」「運転する」という感覚は、全く別のものだと思う。この主体性ってのは、やっぱり大事だ。自分は○○ができる、という、この「できる」という感覚を大事にしなければならない。
しかし、ここで補足的に蛇足すれば、自分は、その「できる」が、主体的な感覚として認められず、他者との比較をすることによって、いわゆるオンラインゲーム症候群に陥り、自己喪失するのである。
と、いつもいつも補足しているが、そろそろ、まともな対策考えたらどうなんだ。いやだから、外に出かけて楽しかった、と言っているじゃないか。
しかしこう、少し、回復した。
どこまで保てるかは分からないけれども、最近、やはり、人と関わりすぎた。人中毒だ。なんじゃそりゃ。
とか書くと、「一人の時間ってのは大切なのですよ」とかしたり顔で諭される。いやいやそういう問題じゃない。
睡眠、と、何もしない時間、だ。
もう忙しくなってくると、あれもこれも、それで頑張っているのに、あれが足りないこれが足りない、努力が足りない、真剣さが足りない、ああもう、本当にたくさんたくさん言葉が降ってくる。
それは、他者から本当に言われることもあれば、自分自身の、内なる声の場合もある。
煩わしいものだ。
苛立たしいものだ。
面倒なものだ。
そう、この、面倒、という気持ち。やる気が起きない。
本当は、やりたいことが、こんな僕にも(こんな僕、という表現は、卑下しているようで、尊大である。危険な表現だ)あるはずなんだ。
とかく、もう少し、整理したいんだな。部屋も掃除機をかけられない日が続くと気が滅入るが、それだけじゃなくて、自分の好きなものとか、それは、ゲームの種類や、本、飲み物、食べ物、場所、服装、道具、音楽、……など。
「取りあえずいろんなことをやってみるのがいいよ」
という、どっか、阿頼耶識(あらやしき)に刷り込まれているのかもしれない。
俺の起源は何なんだ。
整理する時代
時代、というか、年代というか。20代のうちに、どれだけ多くのインプットができたか、で人は決まるという。
はぁ? 勝手に言っとけ。
何ら方策無きインプットなど、何も生み出さない。
というのは、専門性の高度化複雑化である。
「超常的なことの衰退」が時代の象徴なのだとしたら、僕らができるのは、目標設定力と、自己解決力だけなのだとしたら、それは極度な自己満足の世界ということになる。
そうじゃねぇだろ、どっか正しいことってあるだろ。
一方で、生きる目的なんて考えてないで、トートロジー(同語反復)に、生きてるから生きているのだ、と言い切ってやれという。
この辺りの矛盾が問題なのかもしれないな。
大抵は、そのどちらかに自分を委任しているため矛盾に気づかないか、その矛盾を矛盾と感じないことだろう。
いやぁ、しかし、そんなことはさておき、やっぱり、休むことは大事だ。
特に、何で生きてるんだっけ、と、よく分からなくなる頻度が高まっているこの時期には、何もしない時間をできるだけ多くつくる必要がある。
何もしないって、結構難しい。あれやらなきゃ、これやらなきゃ、と、頭にめぐるのを、すっと消して、真っ暗な、もしくは真っ白な心象風景をつくりだし、内なる声に耳を傾ける……ことすらせず、本当に、何もしないのだ。
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