小説投稿サイトへの随筆、整理してそのまま、書く、というのが、やっぱり、自分で納得いかず、論理の構成を見直したり書き足したりしていたら、相当時間を要したのが昨日。
ここに書くのは、ほぼ、ノー思考であるから、とても楽。楽して、読者に役立ててもらおうとか完全に傲慢怠惰だが、あれ、いつの間にかアクセス数が逆転している。
やっぱり、ブログ村に登録した効果か。Google検索で、タイトルいれたらトップ検索にひっかかるようにもなってるし。最初、登録したばかりは、いっさいリンク引っ掛からなかった。お気に入りにいれなきや自分のブログを検索できん、という状態が解消された。
そんな義務感はないが、とにかく、体験したことの言語表現を。
誰それと会って、こういう店いって、ご飯を何々食べて、何時に帰った、とか、それ別にいらん。
小学生の日記、でも、それ、そんなに、否定されることかな。時系列につなげて書くのも、レポートとしてはいいきがするが。
そう、日記、日記の書き方って、小学生でしか習わないな。
日記の書き方、それなら、俺は相当経験ある。
需要はなさそうだけど。
そもそも、読書感想文とか、夏休みの日記とか、子供が大嫌いな宿題だ。
のわりに、SNSでは、いまや小学生でも投稿したりするという。統計とったわけでないから、どうせ大した数じゃないが、結構、書くことを好きなひとは増えてきているのか。
確かに、大学生の一時期、一年生から三年生までは、本当の意味で毎日日記を書いていた。読み返してみると、ひどいものが殆んどだが、今読んでも面白いのもある。
その、面白くないのが、何故面白くないかは、今はよく分かるだろうから、そのポイントをらあきらかにして、いけば、記事にらなるだろう。
事例がなにせ、豊富だろうからな。
で、きょうあったことを、端的に表現、だが。
匿名性の維持となると、単なる日記よりなんインドはあがる。
ただ、初めての高級なお店にいくと、マナーとか様式とか、様々緊張するものだが、だんだん、事前に調べていくと、余裕をもって、楽しめることがわかった。
それでも、楽しみながらも、やっぱり、思考はつきまとうけど、ホントに楽しかった。
いわゆる、知らない人と話をする場なわけだが、気負わず、自然に振る舞えた、これは、他者からみてどうだったか分からないが、少なくても自分にとってはそうだった。
好きでもない人と、てきとーに話あわせて会話して、なんとなく、いつも一緒にいないといけなくて、表面的でつまんない奴等と一緒なんて無駄だよね。
とか、上のは僕の言葉みたいだが、まぁ、前書いたように、僕のフィルタで置き換わってるが、ほとんど相手のひとがはなしたことだ。
そしてその人は、自分の力を信じて、自分の力で仕事して、他人の気持ちなんてほとんど考えないとすら言い切る。
そして、自分のルックスにも、頭の回転にも、自信をもっている。
いろんな人がいるね。
やっぱり、人って面白い。
なんだか、非日常の場所に出向くと、違うことがわかるし、感じられる。
この面白さは、まぁ、生きる意味といっていいんではないか。
甘い考えだ。そんなわけあるか。
この、経験的な方策に限界があるのは重々承知。
その上で、これをどう解釈するか、その点にかかっている。
ただ、思ったのは、生きづらさってのは、やっぱり、誰かしか、それなりに多くの人が感じていて、だがしかし、周囲との関係のなかに昇華や吸収修正などして、上手く調整してるんだな、と。
ここに書くのは、ほぼ、ノー思考であるから、とても楽。楽して、読者に役立ててもらおうとか完全に傲慢怠惰だが、あれ、いつの間にかアクセス数が逆転している。
やっぱり、ブログ村に登録した効果か。Google検索で、タイトルいれたらトップ検索にひっかかるようにもなってるし。最初、登録したばかりは、いっさいリンク引っ掛からなかった。お気に入りにいれなきや自分のブログを検索できん、という状態が解消された。
でかけたら書く
そんな義務感はないが、とにかく、体験したことの言語表現を。
誰それと会って、こういう店いって、ご飯を何々食べて、何時に帰った、とか、それ別にいらん。
小学生の日記、でも、それ、そんなに、否定されることかな。時系列につなげて書くのも、レポートとしてはいいきがするが。
そう、日記、日記の書き方って、小学生でしか習わないな。
日記の書き方、それなら、俺は相当経験ある。
需要はなさそうだけど。
そもそも、読書感想文とか、夏休みの日記とか、子供が大嫌いな宿題だ。
のわりに、SNSでは、いまや小学生でも投稿したりするという。統計とったわけでないから、どうせ大した数じゃないが、結構、書くことを好きなひとは増えてきているのか。
確かに、大学生の一時期、一年生から三年生までは、本当の意味で毎日日記を書いていた。読み返してみると、ひどいものが殆んどだが、今読んでも面白いのもある。
その、面白くないのが、何故面白くないかは、今はよく分かるだろうから、そのポイントをらあきらかにして、いけば、記事にらなるだろう。
事例がなにせ、豊富だろうからな。
日記
で、きょうあったことを、端的に表現、だが。
匿名性の維持となると、単なる日記よりなんインドはあがる。
ただ、初めての高級なお店にいくと、マナーとか様式とか、様々緊張するものだが、だんだん、事前に調べていくと、余裕をもって、楽しめることがわかった。
それでも、楽しみながらも、やっぱり、思考はつきまとうけど、ホントに楽しかった。
いわゆる、知らない人と話をする場なわけだが、気負わず、自然に振る舞えた、これは、他者からみてどうだったか分からないが、少なくても自分にとってはそうだった。
好きでもない人と、てきとーに話あわせて会話して、なんとなく、いつも一緒にいないといけなくて、表面的でつまんない奴等と一緒なんて無駄だよね。
とか、上のは僕の言葉みたいだが、まぁ、前書いたように、僕のフィルタで置き換わってるが、ほとんど相手のひとがはなしたことだ。
そしてその人は、自分の力を信じて、自分の力で仕事して、他人の気持ちなんてほとんど考えないとすら言い切る。
そして、自分のルックスにも、頭の回転にも、自信をもっている。
いろんな人がいるね。
やっぱり、人って面白い。
なんだか、非日常の場所に出向くと、違うことがわかるし、感じられる。
この面白さは、まぁ、生きる意味といっていいんではないか。
甘い考えだ。そんなわけあるか。
この、経験的な方策に限界があるのは重々承知。
その上で、これをどう解釈するか、その点にかかっている。
ただ、思ったのは、生きづらさってのは、やっぱり、誰かしか、それなりに多くの人が感じていて、だがしかし、周囲との関係のなかに昇華や吸収修正などして、上手く調整してるんだな、と。
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すきかってかくのは、スマートホンからもできるが、やはり、整理するのは、パソコンが必要だ。
昨日の記事、何書いたか正直あまり覚えてなかった。ほんと、自動記述だった、って、少し覚えてるのは、いま読み返したからだな。
恥ずかしくて、消そうか、と思ったが、意外に、まぁ面白かった。いや、恥ずかしいんだが、それほど、いままでと比べて変わらない(笑)
といいつつも、やっぱり書いたときの気分は、めちゃくちゃだった。けど、その感覚、あんまり、普段のものと比べて分からない。これ、他者の理解可能性なるものだな、って思う。自分ですらそうなんだ。にもかかわらず、他者にわかってもらおうなんて、傲慢だな。
やっぱり、最近はやりの、話題とかからめて書いた方がいいのかな、と思ったり。
2012 11 15あたりの記事と、最近読んだ進撃の巨人とが親和性あると思った。
ケニーアッカーマンが、しに間際に、みんな、誰しも、何かに酔っぱらってなきゃやってらんねーんだな、って。
それを読んだから書いてたわけではないが、神の概念、である。あの、つまらない、、神っていうと宗教ってすぐ想像するが、資本主義だって科学だって、凡人には神にちかい存在なんだぜ、ってあれだ。
ポイントは、こんなこと、書いていて、実存的にはナンにも役に立たねーってことだ。
言葉が悪いな。なんだか、整理的な投稿も始めたため、反動がきてるのかな。
人は……とか、一般論はおいといて、
彼女童貞前後
就職前後
結婚前後
離婚前後
と、分けられる。そのうちで、共通的に書いていること、考えが変わったこと、経験的に実感にかわったこと、それらを分析するのは面白いことなんだろうか。
たとえ、僕の通低する考え方がわかったとして、それが他者に役に立つか分からない、ってかくと、ハンジゾエさんに、役に立つかはてめえが決めることじゃねぇ、って怒られるかぁ。
まぁいいか、神の概念とか、期待水準願望水準とか、失望と絶望とか、理想自己と現実のギャップとか、反転ポジティブ思考とか、それらのある種の基準、は、まぁ、それほど論理的でも、科学的でも、理屈でも、抽象的ですらない。だから、あえて理論的に書こうとすれば、すぐに言葉は収まるだろう。
それらの定義が、僕の実際の生活において、どのよう作用するのか、っと、現実、リアルタイムの記述の方がいい、かな。
まぁ、そういう整理、一度はやっておくべきか。
と、適当に書き続けて、少し変化があらわれる。
人は、変わる。
一日として同じ日はない。
それなら何故、自分は自分でしかないのか。
記憶が、身体が、現実に自分を規定する。
現実がいやなら、自分を変えろ、というのは、よく言われることだが、ちょっと違うと思う。
体も記憶も、現実ではなかろうか。
そういう意味で、変えられるのは所詮は現実でしかない。
あぁ、これは、禅的なものかもしれない。
自然と自己との一体化、と表現するか。禅は、そもそも言語を否定する場合がらあるから、表現が難しい。ヴィトさんも沈黙、って言ってたりする。
ただ、自分というものも、現実に対するあぷろーち手段、に過ぎないと思う。
現実が変わらずに、自分だけ変わる、なんてあるか?
こうかくの草薙少佐は、現実が嫌なら自分をら変えろ、それが嫌なら口をつぐんで慎ましくしろ、それも嫌なら死ね! って言うんだけど。
追記ってたぶん更新にならないんだろうな。
検索エンジン的に。
2011 5 16の記事
今から、もう五年前か。なんとなく、5年前の、2011年の記事はいまいちだ。恐らく、メインは思索カテゴリではなかったのだろう。
2011 5 30 の記事。受動意識とか、哲学的ゾンビとか、唯心論唯物論。懐かしいな。これらの関係の本とか記事とか、読み漁っていた時代か。
しかしこれら、じぶんの求める解に対する、答え、みたいなものだったな。
新しい発見がある、というよりかは、こういうはずだ、という思いがあって、それを補強する一般材料としての使用。
どこか、ひとと分かり会えないと思っていて、人間嫌いで、そんな理由を、一般性に求めていた時代。承認欲求が強かったのだろう。
2011 1011 書く頻度が低下したことの記述。少し文体がいまとちかい。メンターのあの人についてふれて、インプットとアウトプットについて記述。
2011 1203 ほぼ、いまと同じ感じ。正義とか、信用と信頼の違い、創作について、ユニーク性について。時間目標、自己、責任。
記憶より記録を残せ、いい言葉だな。
ざざっと、流し読みしていて気づくのは、やっぱり抽象的なことしか書いてないのは面白くない。
という言葉はまさに、抽象なのだが。
休日に仕事して、ラーメン食べて帰る、って書けば具体的になるのかというとそうではないし。
とにかく、抽象は面白くなくても、概念、について書いているのは役にはたつかな。
ニーチェの権力への意志は、信仰VS信仰で、政治ゲームで、そのルールを知ろうというのが対応策だという記事とか、分かりやすい。
書いた本人はすっかり忘れてるんだがね。
逆に分かったことは、悩んで、何か目指そうとして、何にも熱中できず、そんな自分にいやけがさして、という。2012年あたりからそうだ。
ってことは、やっぱり、彼女とか結婚とか離婚とか、やっぱり、関係なかったということだ。
やっぱり、根が深いな。
まぁ、ほんとに、それなりに、ほんと、悲しいくらい、少しばかりは楽しく、人混みの中、孤独のなか、嬉しく、心地よく過ごしているその点。
初音ミクの、ちょうど、ああー、なんだか泣けてきた、という曲がながれてきた。毎日ただの繰り返しだと気づいたとか。
この偶然性が、昨日の出会いとか、ほんと人生って面白いな。
やばい、って、他の雅な日本語、ないのかな。
思い付かない。やばい、ってなんだ? 危険だ。焦る、みたいな。なんか違うよな。
やばい、ってなんだ?
この、だらだらとした気持ちよさが続くことそれが、40歳、50歳になって、いざ、死神さんが、はーい寿命ですよ~ってきたとき、え、ちょ、まだ何も答えを、何も成せてないんですけど! まってくれよ、まって、俺はまだ、うあああぁー!
みたいな、かっこわらい。
単に恐怖的なのはそれなんだよな。
日常の楽しさ、嬉しさ、まぁ苦しさ、悲しさ、苛立ち、そんなの含めてもいいが、それらが、結局統一性がない、雑然とした、点に過ぎない。
リオタール氏の、大きな物語の終焉、って言ったとして、それでも、自分が何か、生きた意味ぐらい残したいじゃないか。
生きる意味、という表現を、深くほりさげてこなかった。小学生のとき自殺を考えたときから、何故生きるのか、という問いからして、生きる意味、という表現にしていたが、もしかして、生きがい、という言葉が適切か?
いや、何が違うのか。
ゴーギャンの、我々はどこからきたのか、我々とは何者か、我々はどこへゆくのか。
と、それって何なんだろ。イコール、生きる意味、なのかと思ったが、違うのか?
なんなんだろ。
ほんとに、待ったなしに時間が過ぎる性で、
この、この時間は正しかったのか。
しかし、いまのこの、記事のまとまりがなければ、きっと少なからず、遅かれ早かれ、この渦に巻き込まれていただろう。そのさいに、この積み重ねすらなければ、俺は本当に迷い消えてしまったのではないか。
と、肯定を書きつつ、同時に、この感情、思考は、単に、自分が費やした時間が無駄ではなかったと信じたいだけなのでは、という懐疑も生じている。
うん、この、相対的な思考をまずなおすべきかな
昨日の記事、何書いたか正直あまり覚えてなかった。ほんと、自動記述だった、って、少し覚えてるのは、いま読み返したからだな。
恥ずかしくて、消そうか、と思ったが、意外に、まぁ面白かった。いや、恥ずかしいんだが、それほど、いままでと比べて変わらない(笑)
といいつつも、やっぱり書いたときの気分は、めちゃくちゃだった。けど、その感覚、あんまり、普段のものと比べて分からない。これ、他者の理解可能性なるものだな、って思う。自分ですらそうなんだ。にもかかわらず、他者にわかってもらおうなんて、傲慢だな。
ネタ整理
やっぱり、最近はやりの、話題とかからめて書いた方がいいのかな、と思ったり。
2012 11 15あたりの記事と、最近読んだ進撃の巨人とが親和性あると思った。
ケニーアッカーマンが、しに間際に、みんな、誰しも、何かに酔っぱらってなきゃやってらんねーんだな、って。
それを読んだから書いてたわけではないが、神の概念、である。あの、つまらない、、神っていうと宗教ってすぐ想像するが、資本主義だって科学だって、凡人には神にちかい存在なんだぜ、ってあれだ。
ポイントは、こんなこと、書いていて、実存的にはナンにも役に立たねーってことだ。
言葉が悪いな。なんだか、整理的な投稿も始めたため、反動がきてるのかな。
生活分類
人は……とか、一般論はおいといて、
彼女童貞前後
就職前後
結婚前後
離婚前後
と、分けられる。そのうちで、共通的に書いていること、考えが変わったこと、経験的に実感にかわったこと、それらを分析するのは面白いことなんだろうか。
たとえ、僕の通低する考え方がわかったとして、それが他者に役に立つか分からない、ってかくと、ハンジゾエさんに、役に立つかはてめえが決めることじゃねぇ、って怒られるかぁ。
まぁいいか、神の概念とか、期待水準願望水準とか、失望と絶望とか、理想自己と現実のギャップとか、反転ポジティブ思考とか、それらのある種の基準、は、まぁ、それほど論理的でも、科学的でも、理屈でも、抽象的ですらない。だから、あえて理論的に書こうとすれば、すぐに言葉は収まるだろう。
それらの定義が、僕の実際の生活において、どのよう作用するのか、っと、現実、リアルタイムの記述の方がいい、かな。
まぁ、そういう整理、一度はやっておくべきか。
と、適当に書き続けて、少し変化があらわれる。
人は、変わる。
一日として同じ日はない。
それなら何故、自分は自分でしかないのか。
記憶が、身体が、現実に自分を規定する。
現実がいやなら、自分を変えろ、というのは、よく言われることだが、ちょっと違うと思う。
体も記憶も、現実ではなかろうか。
そういう意味で、変えられるのは所詮は現実でしかない。
あぁ、これは、禅的なものかもしれない。
自然と自己との一体化、と表現するか。禅は、そもそも言語を否定する場合がらあるから、表現が難しい。ヴィトさんも沈黙、って言ってたりする。
ただ、自分というものも、現実に対するあぷろーち手段、に過ぎないと思う。
現実が変わらずに、自分だけ変わる、なんてあるか?
こうかくの草薙少佐は、現実が嫌なら自分をら変えろ、それが嫌なら口をつぐんで慎ましくしろ、それも嫌なら死ね! って言うんだけど。
夜にまた追記
追記ってたぶん更新にならないんだろうな。
検索エンジン的に。
2011 5 16の記事
今から、もう五年前か。なんとなく、5年前の、2011年の記事はいまいちだ。恐らく、メインは思索カテゴリではなかったのだろう。
2011 5 30 の記事。受動意識とか、哲学的ゾンビとか、唯心論唯物論。懐かしいな。これらの関係の本とか記事とか、読み漁っていた時代か。
しかしこれら、じぶんの求める解に対する、答え、みたいなものだったな。
新しい発見がある、というよりかは、こういうはずだ、という思いがあって、それを補強する一般材料としての使用。
どこか、ひとと分かり会えないと思っていて、人間嫌いで、そんな理由を、一般性に求めていた時代。承認欲求が強かったのだろう。
2011 1011 書く頻度が低下したことの記述。少し文体がいまとちかい。メンターのあの人についてふれて、インプットとアウトプットについて記述。
2011 1203 ほぼ、いまと同じ感じ。正義とか、信用と信頼の違い、創作について、ユニーク性について。時間目標、自己、責任。
記憶より記録を残せ、いい言葉だな。
役に立つのか面白いのか
ざざっと、流し読みしていて気づくのは、やっぱり抽象的なことしか書いてないのは面白くない。
という言葉はまさに、抽象なのだが。
休日に仕事して、ラーメン食べて帰る、って書けば具体的になるのかというとそうではないし。
とにかく、抽象は面白くなくても、概念、について書いているのは役にはたつかな。
ニーチェの権力への意志は、信仰VS信仰で、政治ゲームで、そのルールを知ろうというのが対応策だという記事とか、分かりやすい。
書いた本人はすっかり忘れてるんだがね。
迷える子羊
逆に分かったことは、悩んで、何か目指そうとして、何にも熱中できず、そんな自分にいやけがさして、という。2012年あたりからそうだ。
ってことは、やっぱり、彼女とか結婚とか離婚とか、やっぱり、関係なかったということだ。
やっぱり、根が深いな。
まぁ、ほんとに、それなりに、ほんと、悲しいくらい、少しばかりは楽しく、人混みの中、孤独のなか、嬉しく、心地よく過ごしているその点。
初音ミクの、ちょうど、ああー、なんだか泣けてきた、という曲がながれてきた。毎日ただの繰り返しだと気づいたとか。
この偶然性が、昨日の出会いとか、ほんと人生って面白いな。
だからこそやばい
やばい、って、他の雅な日本語、ないのかな。
思い付かない。やばい、ってなんだ? 危険だ。焦る、みたいな。なんか違うよな。
やばい、ってなんだ?
この、だらだらとした気持ちよさが続くことそれが、40歳、50歳になって、いざ、死神さんが、はーい寿命ですよ~ってきたとき、え、ちょ、まだ何も答えを、何も成せてないんですけど! まってくれよ、まって、俺はまだ、うあああぁー!
みたいな、かっこわらい。
単に恐怖的なのはそれなんだよな。
日常の楽しさ、嬉しさ、まぁ苦しさ、悲しさ、苛立ち、そんなの含めてもいいが、それらが、結局統一性がない、雑然とした、点に過ぎない。
リオタール氏の、大きな物語の終焉、って言ったとして、それでも、自分が何か、生きた意味ぐらい残したいじゃないか。
生きる意味ではなく生きがい?
生きる意味、という表現を、深くほりさげてこなかった。小学生のとき自殺を考えたときから、何故生きるのか、という問いからして、生きる意味、という表現にしていたが、もしかして、生きがい、という言葉が適切か?
いや、何が違うのか。
ゴーギャンの、我々はどこからきたのか、我々とは何者か、我々はどこへゆくのか。
と、それって何なんだろ。イコール、生きる意味、なのかと思ったが、違うのか?
なんなんだろ。
ほんとに、待ったなしに時間が過ぎる性で、
この、この時間は正しかったのか。
しかし、いまのこの、記事のまとまりがなければ、きっと少なからず、遅かれ早かれ、この渦に巻き込まれていただろう。そのさいに、この積み重ねすらなければ、俺は本当に迷い消えてしまったのではないか。
と、肯定を書きつつ、同時に、この感情、思考は、単に、自分が費やした時間が無駄ではなかったと信じたいだけなのでは、という懐疑も生じている。
うん、この、相対的な思考をまずなおすべきかな
自分の思った通りに人生は回っていく、この実感を、是非大切にしたい。
今日、バーで一人のんでいたら、かわいい女の子と話しができた、趣味があった。偶然行こうと思った場所で、偶然な出会い。そこで、連絡先を交換するとか、無粋である。
何だかやる気がしないと、仕事を無理矢理終わらせて。
もうひとつ、ある小説投稿サイトに、場にそぐわないエッセイというか、コラムのようなものを投稿した。
この前、ここで書いていたような、小説風にして投稿してみようという試み。それがもう面倒になりすぎて、文体とか補則とかを加えるだけで、ほぼそのまま投稿することとした。
ほとんど、アクセスなどないだろうと思った。でも、30話ぐらいかけば、一人くらいは反応してくれるかと思った。
そしたら、数話だけで、反応があった。アクセス数もこのブログより多い(笑)
この場ほど、自由に書けないから、正直、物理世界における自分の行動と変わらない気もする。
整理して、補足して、という作業は、作業自体は対したことないが、精神的に消費する。
おそらく、はじめて読んでくれるだろう人に対しての言動は、大変。
一方で、とても親しくなると、それはそれで大変。距離感。難しい。
このブログはいい、すごくいい、そう思った。
これは、以前ふれた、居場所、というものだ。
仕事が居場所な人もいる。
恋人が居場所な人もいる。
僕は、なんか、ここが、いい感じだな、って思った。
自分に、自分を、自分で、慰めるというのか。寂しいやつだ。だが、別にもう、他者にかっこつけるのも面倒だ。とかいって、やっぱり、居酒屋とかバーとか、それなりに、財布とか、衣服とか、かっこつけなきゃって思う。ああ、もう、ほんとくだらないが、でも、残念ながら、人は、見かけが、九割だ。
顔、は仕方がない。でもせめて、持ち物、となる。
この考え方により、おっさんはブランドにこだわるのだ、そして女子は、そのブランドで判断するのだ、金を持ってるかどうか。
メモしなきゃ。今日感じたこと、投稿して反応があったことに対しての自分の考え、明日もサービス出勤になることに対すること、など。
でもまぁ、もういっか、とか思ったり。
考えるのが面倒だ。が、僕は、なぜか、書いている。書くことが、なぜか、考えているとか、面倒だとかは、違う次元だ。
楽しい。
やっぱり、現実世界で楽しいことがあっても、それを表現できなきゃ、つまらないのだ。
って書くと、誰も付き合ってくれないんだろうなぁ。
確かに、一緒にいて、バカ笑いして、楽しんで、いざ帰ってみると、冷静に分析されてたら、気分悪いもんだ(笑)
だから、文章は、書けない。書いていることをさとられてはならない。
これがひとつ、生きづらさなのかもしれない。
とはいえ、この、頭に浮かぶ思考ってのが、どうにも止められない。たいてい、同時に、二つのことを考えている。ある、事象について、例えば、成功と失敗とを考える。
あるマイナスなことを思えば、反転したポジティブを想起し、場にそぐう事柄を構成し、つなげる。
こんな現象が続く。
そして、その動きは、はたからみたら分からない。
だからこそ、他者の感覚や、思考が読める。読める、というのは、僕の言語表現の範囲でしかないから、本当にその人が思ったことが、そのまま、わかる、のかは、分からない。
ただ、これをいってしまえば、解釈の可能性にすぎない。
ここは、もはや、他者を理解できるかどうか、この議論を、破綻させる。つまり、思い通りの行動をとらせたり、ちょうどいい情報をえられたりすること、ただ、それだけのことで他者を理解した、となるのである。
以前、ぐちぐち、書き続けたかとだが、すごく頑張って、周りにも認められつつ、結局お前のせいでダメになったと言われたことがある。
俺は思った、のではない、実感した。
ああ、やっぱり、いくら頑張っても、所詮は、結果、であるのだと。
んで、その結果ってのも、それすら、真理的なものではなくて。
ただ、その場にそぐうものか、それだけなのだ。
ということに、気づく、のはもう気づいていたが、実感してしまうと、もう、究極に、ポジティブ思考しか正解ではない、ということになる。
ここに、反転したポジティブ思考が完成する。
原理的に、他者との理解は不可能なので、理解してもらうことは不可能なので、ゆえに、自らは最高に楽しんだ状況でしか、あってはならないのだ、という、本当に絶望的なポジティブである。
はっきり言えば、泣いても笑っても悲しんでも苦しんでも、誰もわかっちゃくれないから、だったら、超楽しい気分でいる方がいいだけ、ということだ。
もっとひどいこと言えば、大切な人がなくなって、哀しむのは、喪失感よりもむしろ、哀しむことが他者を思いやれる暖かい自分が好きになれる楽しい瞬間なのだ。
酷すぎる言葉。友達なくすね、間違いなく。
ほほう。言葉をなかったことにするか。愚かである。
人間嫌い。
これ、どうなのか。ぶっちゃけ、人間一般は、僕は嫌いな気がする。
でもって、それだからこそ、家族とか、友人とか、同僚とか、ほんと大切だなぁ、って思うけど、それを、そもそも気持ち悪いと言われたこともある。人間を嫌いっていう時点で信じられないと。生きてる価値ないと。
えぇ、そこまでいう?
人間なんて、みんな、消えてなくなっちゃえばいいと。
そうは思ってないんだけど。
ただ、まぁ、どっちでもいいかな、とは思っているのかもしれない。
どうなんだろ。
むしゃくしゃしすぎて、バーで飲みすぎたのかもしれない。7000円ちかくかかった。うん、なんか、かかりすぎじゃないか? チャージ料? 料金体型がよくわからん。
まぁまぁ、というか、自分が、自分もよくわからん。
そうなんだ、自分が、なにしたいのか、わからんのだ。
求めるものはなんなのか。
気持ちよいことはなんなのか。
分からない。
そう、そうなんだ、こう、むしゃくしゃしたり、ごちゃごちゃしたり、いらいらしたときの言語表現。
みんな、たいていの人は、冷静なときに筆をとるんだ。
なんか、かっこいいことや、伝えたいこと、価値のあることを作り出そうと、筆をとるのだ。
でもおれは、こう、もう、ほんと、リアルタイムの思考を、言語表現する。
この、言語表現が、はたして、正しいのか、正確に表しているのかもわからない。できるだけ、自動記述を試みる。自動記述、について触れていたのだれだっけ? ヴィトゲンシュタインだったきがする。
そんとき、自慢じゃないが自慢だが、あぁ、僕と同じことするひといるんだな、って、すげーなって上から目線で思ったもんだ。
もう一度、考えてみると、やっぱり、俺は、一人でいること、孤独が本当に好きなんだろうか。
友人たちと楽しくすごした、とかいう記述、実は読者に、うそっぽいとしか感じさせてないのか。
そして俺は、本当にどう思っているのか。
孤独が、好きってのは、なんか、人間失格じゃないだろか?
生きたい知りたい、仲間になりたい。
仲間は、いらないの?
ノーだ。
だって、こうやって、書いている。誰かと繋がっていたいのだ。
でも、こんなぐちゃぐちゃなこと、現実世界で表現なんてできない。そして僕には社会性が備わっている、他者の気持ちを慮れる、空気が読める。
それをやっちゃうことにより、それがうまくいくごとに、自分、自己と、ぐんぐん離れていってるのではないだろうか。
ろぐ、と読んでいる、リアルタイム自動記述。これ、本当に誰にもみせない、紙媒体とか、ローカル保存とかのときもある。そんときのとは、やっぱり、今の、この公開電子媒体のが、書いている内容が、意味あるものになってる気がする。
が、それが逆に、僕の本音、的なものを、例えば整理して投稿した作品とは、決定的にずれていっていないか。
であれば、もう一度、ローカルなログに、たち戻るべきではないか。
それは、たぶんできない。
ネットにより、反応をもらうことの楽しさを、感じてしまったのだ。
これ、炎上したり、ほんと不快なことを言われ続けないと、終わらないかも。
みくしーとかでは、なんかだんだん変になってった。
いまは、なんか、この適度な反応のなさが、ここちいい。
やっぱり、誰かに、理解して欲しいと、おもってるのか。
でも、きっと、あなたの記事とても、わかります。
とコメントされても、なんか、いい返信つけなきゃ、とかくそったれたこと考えそうだ。それよか、役に立ちました、とか、あまりに惨めそうで、自分は少し元気になりました、とかの方が嬉しいかもしれない(笑)
おかしい。おかしいことの原因はよくわかるが、真因果は全然わからないが、いまとっても悩ましい。とっても、楽しく有意義な時間を過ごしたというのに。変なの。
孤独。
孤立は困る、が。
でもさ、孤独が好きなひとの会とか立ち上げても、ナンも面白くなさそうじゃない。
なんか、サンデルさんとか、この残酷な世界で生き残るたったひとつの方法、とか書いた著者とか、ネットで好きなことを共有できるひとと繋がって、それをお金にするしかないんだぜ、という。いわゆる、ローカルこみにてぃを作り、大切にしようという方策。
まぁ、それなら楽しそうだが、じゃあ、俺、何が好きなんだ?
好きなこと、探そう。楽しいこと、探そう。そうじゃなきゃ、もう、、ほんと、ナンも、、やる気が、起きない。半端な気持ちで乗り越えられるほど、仕事も、人生も、甘くない。
ん、でもそれって、今の仕事をやめろ、ってこと?
好きなことを仕事にする?
本当にそれ、凡人にできる? 万人にあてはまる?
そんな一般論はどうでもいいが、俺には、適応することなの??
うーん、誰か、助けて欲しい、と、珍しく他者に助けを求める。明日仕事だけど。
今日、バーで一人のんでいたら、かわいい女の子と話しができた、趣味があった。偶然行こうと思った場所で、偶然な出会い。そこで、連絡先を交換するとか、無粋である。
何だかやる気がしないと、仕事を無理矢理終わらせて。
もうひとつ、ある小説投稿サイトに、場にそぐわないエッセイというか、コラムのようなものを投稿した。
この前、ここで書いていたような、小説風にして投稿してみようという試み。それがもう面倒になりすぎて、文体とか補則とかを加えるだけで、ほぼそのまま投稿することとした。
ほとんど、アクセスなどないだろうと思った。でも、30話ぐらいかけば、一人くらいは反応してくれるかと思った。
そしたら、数話だけで、反応があった。アクセス数もこのブログより多い(笑)
この場ほど、自由に書けないから、正直、物理世界における自分の行動と変わらない気もする。
整理して、補足して、という作業は、作業自体は対したことないが、精神的に消費する。
おそらく、はじめて読んでくれるだろう人に対しての言動は、大変。
一方で、とても親しくなると、それはそれで大変。距離感。難しい。
アットホームな場所
このブログはいい、すごくいい、そう思った。
これは、以前ふれた、居場所、というものだ。
仕事が居場所な人もいる。
恋人が居場所な人もいる。
僕は、なんか、ここが、いい感じだな、って思った。
自分に、自分を、自分で、慰めるというのか。寂しいやつだ。だが、別にもう、他者にかっこつけるのも面倒だ。とかいって、やっぱり、居酒屋とかバーとか、それなりに、財布とか、衣服とか、かっこつけなきゃって思う。ああ、もう、ほんとくだらないが、でも、残念ながら、人は、見かけが、九割だ。
顔、は仕方がない。でもせめて、持ち物、となる。
この考え方により、おっさんはブランドにこだわるのだ、そして女子は、そのブランドで判断するのだ、金を持ってるかどうか。
金と行動と価値観
メモしなきゃ。今日感じたこと、投稿して反応があったことに対しての自分の考え、明日もサービス出勤になることに対すること、など。
でもまぁ、もういっか、とか思ったり。
考えるのが面倒だ。が、僕は、なぜか、書いている。書くことが、なぜか、考えているとか、面倒だとかは、違う次元だ。
楽しい。
やっぱり、現実世界で楽しいことがあっても、それを表現できなきゃ、つまらないのだ。
って書くと、誰も付き合ってくれないんだろうなぁ。
確かに、一緒にいて、バカ笑いして、楽しんで、いざ帰ってみると、冷静に分析されてたら、気分悪いもんだ(笑)
だから、文章は、書けない。書いていることをさとられてはならない。
これがひとつ、生きづらさなのかもしれない。
しかし高速に思考が生ず
とはいえ、この、頭に浮かぶ思考ってのが、どうにも止められない。たいてい、同時に、二つのことを考えている。ある、事象について、例えば、成功と失敗とを考える。
あるマイナスなことを思えば、反転したポジティブを想起し、場にそぐう事柄を構成し、つなげる。
こんな現象が続く。
そして、その動きは、はたからみたら分からない。
だからこそ、他者の感覚や、思考が読める。読める、というのは、僕の言語表現の範囲でしかないから、本当にその人が思ったことが、そのまま、わかる、のかは、分からない。
ただ、これをいってしまえば、解釈の可能性にすぎない。
ここは、もはや、他者を理解できるかどうか、この議論を、破綻させる。つまり、思い通りの行動をとらせたり、ちょうどいい情報をえられたりすること、ただ、それだけのことで他者を理解した、となるのである。
仕事での頑張りと失敗
以前、ぐちぐち、書き続けたかとだが、すごく頑張って、周りにも認められつつ、結局お前のせいでダメになったと言われたことがある。
俺は思った、のではない、実感した。
ああ、やっぱり、いくら頑張っても、所詮は、結果、であるのだと。
んで、その結果ってのも、それすら、真理的なものではなくて。
ただ、その場にそぐうものか、それだけなのだ。
ということに、気づく、のはもう気づいていたが、実感してしまうと、もう、究極に、ポジティブ思考しか正解ではない、ということになる。
ここに、反転したポジティブ思考が完成する。
原理的に、他者との理解は不可能なので、理解してもらうことは不可能なので、ゆえに、自らは最高に楽しんだ状況でしか、あってはならないのだ、という、本当に絶望的なポジティブである。
はっきり言えば、泣いても笑っても悲しんでも苦しんでも、誰もわかっちゃくれないから、だったら、超楽しい気分でいる方がいいだけ、ということだ。
もっとひどいこと言えば、大切な人がなくなって、哀しむのは、喪失感よりもむしろ、哀しむことが他者を思いやれる暖かい自分が好きになれる楽しい瞬間なのだ。
酷すぎる言葉。友達なくすね、間違いなく。
上のことは全部間違いです
ほほう。言葉をなかったことにするか。愚かである。
人間嫌い。
これ、どうなのか。ぶっちゃけ、人間一般は、僕は嫌いな気がする。
でもって、それだからこそ、家族とか、友人とか、同僚とか、ほんと大切だなぁ、って思うけど、それを、そもそも気持ち悪いと言われたこともある。人間を嫌いっていう時点で信じられないと。生きてる価値ないと。
えぇ、そこまでいう?
人間なんて、みんな、消えてなくなっちゃえばいいと。
そうは思ってないんだけど。
ただ、まぁ、どっちでもいいかな、とは思っているのかもしれない。
どうなんだろ。
理解不可能性は自分にも及ぶ
むしゃくしゃしすぎて、バーで飲みすぎたのかもしれない。7000円ちかくかかった。うん、なんか、かかりすぎじゃないか? チャージ料? 料金体型がよくわからん。
まぁまぁ、というか、自分が、自分もよくわからん。
そうなんだ、自分が、なにしたいのか、わからんのだ。
求めるものはなんなのか。
気持ちよいことはなんなのか。
分からない。
そう、そうなんだ、こう、むしゃくしゃしたり、ごちゃごちゃしたり、いらいらしたときの言語表現。
みんな、たいていの人は、冷静なときに筆をとるんだ。
なんか、かっこいいことや、伝えたいこと、価値のあることを作り出そうと、筆をとるのだ。
でもおれは、こう、もう、ほんと、リアルタイムの思考を、言語表現する。
この、言語表現が、はたして、正しいのか、正確に表しているのかもわからない。できるだけ、自動記述を試みる。自動記述、について触れていたのだれだっけ? ヴィトゲンシュタインだったきがする。
そんとき、自慢じゃないが自慢だが、あぁ、僕と同じことするひといるんだな、って、すげーなって上から目線で思ったもんだ。
孤独と社会性
もう一度、考えてみると、やっぱり、俺は、一人でいること、孤独が本当に好きなんだろうか。
友人たちと楽しくすごした、とかいう記述、実は読者に、うそっぽいとしか感じさせてないのか。
そして俺は、本当にどう思っているのか。
孤独が、好きってのは、なんか、人間失格じゃないだろか?
生きたい知りたい、仲間になりたい。
仲間は、いらないの?
ノーだ。
だって、こうやって、書いている。誰かと繋がっていたいのだ。
でも、こんなぐちゃぐちゃなこと、現実世界で表現なんてできない。そして僕には社会性が備わっている、他者の気持ちを慮れる、空気が読める。
それをやっちゃうことにより、それがうまくいくごとに、自分、自己と、ぐんぐん離れていってるのではないだろうか。
くそみたいな記事
ろぐ、と読んでいる、リアルタイム自動記述。これ、本当に誰にもみせない、紙媒体とか、ローカル保存とかのときもある。そんときのとは、やっぱり、今の、この公開電子媒体のが、書いている内容が、意味あるものになってる気がする。
が、それが逆に、僕の本音、的なものを、例えば整理して投稿した作品とは、決定的にずれていっていないか。
であれば、もう一度、ローカルなログに、たち戻るべきではないか。
それは、たぶんできない。
ネットにより、反応をもらうことの楽しさを、感じてしまったのだ。
これ、炎上したり、ほんと不快なことを言われ続けないと、終わらないかも。
みくしーとかでは、なんかだんだん変になってった。
いまは、なんか、この適度な反応のなさが、ここちいい。
やっぱり、誰かに、理解して欲しいと、おもってるのか。
でも、きっと、あなたの記事とても、わかります。
とコメントされても、なんか、いい返信つけなきゃ、とかくそったれたこと考えそうだ。それよか、役に立ちました、とか、あまりに惨めそうで、自分は少し元気になりました、とかの方が嬉しいかもしれない(笑)
おかしい。おかしいことの原因はよくわかるが、真因果は全然わからないが、いまとっても悩ましい。とっても、楽しく有意義な時間を過ごしたというのに。変なの。
孤独。
孤立は困る、が。
でもさ、孤独が好きなひとの会とか立ち上げても、ナンも面白くなさそうじゃない。
なんか、サンデルさんとか、この残酷な世界で生き残るたったひとつの方法、とか書いた著者とか、ネットで好きなことを共有できるひとと繋がって、それをお金にするしかないんだぜ、という。いわゆる、ローカルこみにてぃを作り、大切にしようという方策。
まぁ、それなら楽しそうだが、じゃあ、俺、何が好きなんだ?
好きなこと、探そう。楽しいこと、探そう。そうじゃなきゃ、もう、、ほんと、ナンも、、やる気が、起きない。半端な気持ちで乗り越えられるほど、仕事も、人生も、甘くない。
ん、でもそれって、今の仕事をやめろ、ってこと?
好きなことを仕事にする?
本当にそれ、凡人にできる? 万人にあてはまる?
そんな一般論はどうでもいいが、俺には、適応することなの??
うーん、誰か、助けて欲しい、と、珍しく他者に助けを求める。明日仕事だけど。
またいいな、と思ったブログで紹介されていたのは、山岡鉄舟というひとの、剣、禅、書という考え方。
剣、で思い出したが、シグルイというさくひんも面白そうだ。
そして、バルサミコ酢は果実酢で、ブドウが使われ、バーニャカウダはゆで野菜をディップして食べる料理で、アンチョビソースが使われ、アンチョビは、いわしとニンニクが使われていて、どれもイタリアの材料、料理だ。
と、脈絡はないが、たまに、記憶しようと思ったことを、アウトプットする。それはもう繰り返し。
海馬が記憶の元を作り出し、大脳皮質に記憶させるという。
海馬がメモリ主記憶装置で、大脳皮質が補助記憶装置ハードディスクのようなものか。
その記憶、復習のタイミングは、最初は繰り返しの度数をおおくし、徐々にそう起する頻度を少なくしていくのがよい。というのがエビングハウスの忘却曲線。
この、バーニャカウダってなんだよ、つてのが、数年前に思って調べて、なかなか定着しなかったが、最近思い出してみて、忘れていない。やっと覚えたか、とか思っていて、海外ドラマの、ゲームオブスローンズが、タイトルがなかなかでてこなかった。数分して思い出したが、結局新作は借りられててみれなかったが。
消費、需要をつくりだすのは欲求だが、それを不安という概念によってつくりだそうとするのが資本主義だ、というと言い過ぎかもしれないが、流行に乗り遅れると、ださい、と言われて、人間関係が難しくなる場合がある。
これは、女子高生に多い傾向かもしれない。先日、女性向け雑誌を研究のため、とかいう前置きを書かなければ変態扱いになるから書いているだけだが、例えば、若いうちに課長になったときの本とか、退職したあとに読む本とか、そういうのを読むのと同じレベルである。
三十代になって三十代の本読んだってあんまり意味ないのだ。
それで、その雑誌のアイキャッチは、セックスできれいになる、2016年私たちのセックス、といったものだった。
なるほどねー、こういうのが流行っているのかふむふむ、と真面目に思ったわけではないが、まぁ面白いと思う。
先日の美術の本も面白かったが、何でも様々なジャンルに目を通すのがよい。これはやっぱり、本やさんに行くことのメリットに思う。まぁ、買ってみると多分あまり読まないんだろうが。
さて、今週はどんな一週間になるだろうか。
メモとして、気分は悪くない。仕事は沢山であり、締め切りに終われて、多分また残業も多くなるのではと思う。が、そんなに悲観的ではない。
仕事人たるや、何事も真剣に、せきにんかんをもって、というのはその通りだが、先日書いたように、仕事もまた人生でしかありえないのだから、自分の行動指針上では(いつの間にそんなのできていた? いや、いまである)、すべてにおいて、笑顔で、楽しく、である。
このblogの最初の方の記事にも書いてあった。
なんやかんや、歪、歪んでいながら、昔の記事は、参考になるというか、ああ、なるほどね、って思う。
これが、いわゆる日記の効用なのだろう。ってことも、いつぞやに書いている気がする。全然成長してないなぁ、と、呆れながら、何となく楽しい。
で、こういう心境で書いた記事を、きっと、今日の終わり、疲れてイライラした状態でみると、消したくなるほど恥ずかしく、つまらなく思うのだ。しかしまた、一ヶ月後ぐらいになると、これはまた他人のように思えて、それはそれで楽しかったりするのだ。
だんだん、何となく分かってきた気がする、と一言書いて、これがまたもう、本当に恥ずかしく思ったりするのだ。
思った通り、遅くなった。で、疲れであまり頭がまわらない。
創作のプロットつくろうと朝は思っていたのに、気力がない。
資格の勉強もきづくと一週間もさぼっている。
ここで、この疲れはてた状態で、やるべきことをやる人が、強い、かっこいいんだろう。
きっとイケメンは、この状態でも、女性に優しくできるんだろう、かなりきつい。女性とか云々でなく、もう今はホント誰にも気を使えない、とかくとは、普段、やっぱり、気を使っているのかなぁ。
いやぁ、しかし、今日の朝の記事は、体調も気分もいいぜ、とか書いていながら、そんなに腹立たしくならなかった。
おそらく、いまの自分の感覚が、読み当てられていたからだろうか。
朝の自分がおっしゃるとおり、今はふらふらしている。
その、ふらふらしていることを、何も前提なく書くと、弱音とかダメ人間とか自己管理できてない、とか、そんな言葉がわんさかになるが、朝から予想済みなら、仕方がないねぇ~みたいな感覚になるのだろうか。
自分のことながらよくわからない。
自分がどうあるべきか、よくよく、セルフイメージをつくりだす必要がある。
それを前提にして、やっぱり、いま、これを書いている、お前は、だれだ?
その、ふらふら、疲れて、目をしゅぱしゅぱさせて、必死にこれを書いている、お前は誰だ?
俺は、俺だ、が、なんか、違う気もする。
何が、かはわからない。
が、どこか、この、自分でしかないのだが、鏡をみても、あぁ、これ、自分だなと、大脳皮質から記憶がでてくるのだが、それでも、この、言葉を書いている、かっこ俺、と、疲れた~っと感じている俺、が、一致しているのかよくわからない、感覚だ。
いやいや、そんなはずあるまい。
拳を握ろうと思えば、指は動くし、ウォークマンにスイッチをいれて音楽をながすこともできる。
自分だろ?
それ以外に、なんだ?
それともなにか、本当の自分はもっとどこか、遠い世界で楽しんでいるとでも?
まさか、そんなことは思っていない。
ただ、ちょっとばかし疲れてくると、こんな感じがあらわれてくる。
ちょっと、プラットホームに飛び降りてみようかな、って思っても、身体はとまる。自己保存のプログラムが働いているんだなぁ、よかったよかった……って、とても危険人物である、危ない危ない。
と、想像上は、いかようにでも発生する。
いくらでも、考えることはできる、ってことも当たり前だ。考えるだけなら、あのクソ上司いつか殺してやる、みたいなこともできる。
中学生くらいに、教室にテロリストが乱入して、自分だけかっこよく立ち回り、クラスの美少女を助けて危機を脱出するとか、誰でも考えただろう、え、そんなことない?
とか書いていると、実際自分が思ったことなのか、創造したことなのか、よくわからなくなってくる、という表現は本当に危険人物認定されるな。ただ、表現の自由の規制は、こういう発言すら認められない社会になりかねない、ベーシックインカムみたいな共産的政治でも新自由主義的な経済政策でもどっちでもいいが、政治はとにかく、余計なことしないでほしいものだ。グロテスクであれ、エロであれ、ネガティブであれ、なんでもかんでも、表現の自由の制限には反対だ。
あ、政治的な主張はいっさいしないblogだったのに書いてしまった、が、これ、むしろ政治には難しい、自民でも民主でも革新でも共産でも、政党的に統一は困難だからだ。
まぁそんなことは本気でどうでもいい、と書いたところで、こうして言葉をはっしてしまうと、自分の意図はもはや軽くなって、読み手に都合よく伝わっていくのが言葉。
なんの話だっけ、そう、自分がよくわからないって話だ。
これって都合よいとうひだなってのもすぐ思う。
自分の行為、行動、発言に責任をもちたくないだけではないか、ってことだ。
なんか、断定すると、間違っていたとき、責任とらなきゃになる。
だから、すべての判断を保留にし続けた結果、自分という記憶の統合主体がわからなくなったのではないか。
と、ひとつ、言えるのは、こうして、次々に否定し考えてくだらないと思いながら書き続けるバカ野郎が、俺なのだ、ということぐらいだ。
剣、で思い出したが、シグルイというさくひんも面白そうだ。
そして、バルサミコ酢は果実酢で、ブドウが使われ、バーニャカウダはゆで野菜をディップして食べる料理で、アンチョビソースが使われ、アンチョビは、いわしとニンニクが使われていて、どれもイタリアの材料、料理だ。
と、脈絡はないが、たまに、記憶しようと思ったことを、アウトプットする。それはもう繰り返し。
海馬が記憶の元を作り出し、大脳皮質に記憶させるという。
海馬がメモリ主記憶装置で、大脳皮質が補助記憶装置ハードディスクのようなものか。
その記憶、復習のタイミングは、最初は繰り返しの度数をおおくし、徐々にそう起する頻度を少なくしていくのがよい。というのがエビングハウスの忘却曲線。
この、バーニャカウダってなんだよ、つてのが、数年前に思って調べて、なかなか定着しなかったが、最近思い出してみて、忘れていない。やっと覚えたか、とか思っていて、海外ドラマの、ゲームオブスローンズが、タイトルがなかなかでてこなかった。数分して思い出したが、結局新作は借りられててみれなかったが。
記憶と流行
消費、需要をつくりだすのは欲求だが、それを不安という概念によってつくりだそうとするのが資本主義だ、というと言い過ぎかもしれないが、流行に乗り遅れると、ださい、と言われて、人間関係が難しくなる場合がある。
これは、女子高生に多い傾向かもしれない。先日、女性向け雑誌を研究のため、とかいう前置きを書かなければ変態扱いになるから書いているだけだが、例えば、若いうちに課長になったときの本とか、退職したあとに読む本とか、そういうのを読むのと同じレベルである。
三十代になって三十代の本読んだってあんまり意味ないのだ。
それで、その雑誌のアイキャッチは、セックスできれいになる、2016年私たちのセックス、といったものだった。
なるほどねー、こういうのが流行っているのかふむふむ、と真面目に思ったわけではないが、まぁ面白いと思う。
先日の美術の本も面白かったが、何でも様々なジャンルに目を通すのがよい。これはやっぱり、本やさんに行くことのメリットに思う。まぁ、買ってみると多分あまり読まないんだろうが。
月曜日
さて、今週はどんな一週間になるだろうか。
メモとして、気分は悪くない。仕事は沢山であり、締め切りに終われて、多分また残業も多くなるのではと思う。が、そんなに悲観的ではない。
仕事人たるや、何事も真剣に、せきにんかんをもって、というのはその通りだが、先日書いたように、仕事もまた人生でしかありえないのだから、自分の行動指針上では(いつの間にそんなのできていた? いや、いまである)、すべてにおいて、笑顔で、楽しく、である。
このblogの最初の方の記事にも書いてあった。
なんやかんや、歪、歪んでいながら、昔の記事は、参考になるというか、ああ、なるほどね、って思う。
これが、いわゆる日記の効用なのだろう。ってことも、いつぞやに書いている気がする。全然成長してないなぁ、と、呆れながら、何となく楽しい。
で、こういう心境で書いた記事を、きっと、今日の終わり、疲れてイライラした状態でみると、消したくなるほど恥ずかしく、つまらなく思うのだ。しかしまた、一ヶ月後ぐらいになると、これはまた他人のように思えて、それはそれで楽しかったりするのだ。
だんだん、何となく分かってきた気がする、と一言書いて、これがまたもう、本当に恥ずかしく思ったりするのだ。
そして十数時間後
思った通り、遅くなった。で、疲れであまり頭がまわらない。
創作のプロットつくろうと朝は思っていたのに、気力がない。
資格の勉強もきづくと一週間もさぼっている。
ここで、この疲れはてた状態で、やるべきことをやる人が、強い、かっこいいんだろう。
きっとイケメンは、この状態でも、女性に優しくできるんだろう、かなりきつい。女性とか云々でなく、もう今はホント誰にも気を使えない、とかくとは、普段、やっぱり、気を使っているのかなぁ。
いやぁ、しかし、今日の朝の記事は、体調も気分もいいぜ、とか書いていながら、そんなに腹立たしくならなかった。
おそらく、いまの自分の感覚が、読み当てられていたからだろうか。
朝の自分がおっしゃるとおり、今はふらふらしている。
その、ふらふらしていることを、何も前提なく書くと、弱音とかダメ人間とか自己管理できてない、とか、そんな言葉がわんさかになるが、朝から予想済みなら、仕方がないねぇ~みたいな感覚になるのだろうか。
自分のことながらよくわからない。
自分のこと
自分がどうあるべきか、よくよく、セルフイメージをつくりだす必要がある。
それを前提にして、やっぱり、いま、これを書いている、お前は、だれだ?
その、ふらふら、疲れて、目をしゅぱしゅぱさせて、必死にこれを書いている、お前は誰だ?
俺は、俺だ、が、なんか、違う気もする。
何が、かはわからない。
が、どこか、この、自分でしかないのだが、鏡をみても、あぁ、これ、自分だなと、大脳皮質から記憶がでてくるのだが、それでも、この、言葉を書いている、かっこ俺、と、疲れた~っと感じている俺、が、一致しているのかよくわからない、感覚だ。
いやいや、そんなはずあるまい。
拳を握ろうと思えば、指は動くし、ウォークマンにスイッチをいれて音楽をながすこともできる。
自分だろ?
それ以外に、なんだ?
それともなにか、本当の自分はもっとどこか、遠い世界で楽しんでいるとでも?
まさか、そんなことは思っていない。
ただ、ちょっとばかし疲れてくると、こんな感じがあらわれてくる。
ちょっと、プラットホームに飛び降りてみようかな、って思っても、身体はとまる。自己保存のプログラムが働いているんだなぁ、よかったよかった……って、とても危険人物である、危ない危ない。
と、想像上は、いかようにでも発生する。
いくらでも、考えることはできる、ってことも当たり前だ。考えるだけなら、あのクソ上司いつか殺してやる、みたいなこともできる。
中学生くらいに、教室にテロリストが乱入して、自分だけかっこよく立ち回り、クラスの美少女を助けて危機を脱出するとか、誰でも考えただろう、え、そんなことない?
とか書いていると、実際自分が思ったことなのか、創造したことなのか、よくわからなくなってくる、という表現は本当に危険人物認定されるな。ただ、表現の自由の規制は、こういう発言すら認められない社会になりかねない、ベーシックインカムみたいな共産的政治でも新自由主義的な経済政策でもどっちでもいいが、政治はとにかく、余計なことしないでほしいものだ。グロテスクであれ、エロであれ、ネガティブであれ、なんでもかんでも、表現の自由の制限には反対だ。
あ、政治的な主張はいっさいしないblogだったのに書いてしまった、が、これ、むしろ政治には難しい、自民でも民主でも革新でも共産でも、政党的に統一は困難だからだ。
まぁそんなことは本気でどうでもいい、と書いたところで、こうして言葉をはっしてしまうと、自分の意図はもはや軽くなって、読み手に都合よく伝わっていくのが言葉。
君は誰?
なんの話だっけ、そう、自分がよくわからないって話だ。
これって都合よいとうひだなってのもすぐ思う。
自分の行為、行動、発言に責任をもちたくないだけではないか、ってことだ。
なんか、断定すると、間違っていたとき、責任とらなきゃになる。
だから、すべての判断を保留にし続けた結果、自分という記憶の統合主体がわからなくなったのではないか。
と、ひとつ、言えるのは、こうして、次々に否定し考えてくだらないと思いながら書き続けるバカ野郎が、俺なのだ、ということぐらいだ。
この記事、面白かった。
小説を書くということ
2009年10月の記事。正直、いつものようにタイトルと内容が全然かみ合っていない気もする。
昨日の記事は、……うーん、微妙だ。
何だか、自分で自分に突っ込んでいると、やっぱりカッコ悪いというか、気持ち悪いなぁ、と分かっていてやっているのもどうなのか。
ここでやっぱり、先日の記事で、難しいと感じたわけだけれども、明確に人格の分離ができたら、後から読んだときに面白い可能性が高い気がする。
昼まで寝ていたし、起きていても何をするでもなく。ぼーっとネットサーフィンしたり、昔の動画とかみたり。
今思い出そうとして、一つぐらいしか作品が出てこないから、やっぱり間違いなく自堕落であって、何ら成長につながっていないことは明白だ。
デパートのゲームセンターみたいなところでいたら、小学生ぐらいの女の子の集団に囲まれてくっつかれて、キモーいとか言われる夢をみたぐらい自堕落である(かっこわらい)。
先ほど、攻殻機動隊のGHOSTINTHESHELL
を見た。
この映画、どのタイミングか分からないが、リメイクされていて、初版は、「人形遣い」(コードネーム2501)の義体が女性型なのに対して、リメイク版は男になっている。
裸の女、というのがちょっとまずかったのかな、と思いつつ。まぁ、ラストシーンで「結婚」(融合)するということから考えると、男型の方が視聴者に分かりやすい、という配慮もあったのかもしれない。
なんやかんや、初版の古めかしくも、美しい映像がいいな、と思った。
が、これはこれで、メモだけはしておこうと、もう寝る時間なのだけれども、筆をとる。
やっぱり、好き勝手に、時間を無駄に使うってのも、たまにはよいものだ。
……よいものだ、というよりも、必要な気がした、というのがメモの内容である。
例えば、これは、何ともむなしく哀しいことであるが、友人たちとわいわい楽しく飲み会、とかいうのもあるが、これはこれで、何気に精神力の消費につながっている気がする。
それは決して、しっかりと書いておく必要があるが、友人たちに気を使いすぎているとか、嫌なことを言われたとか、そういうことでは全くない。
家事をしたり、勉強したり、運動(ジョギング・ランニング・散歩)したりと、それはそれで、気分がよくなる。けれども、それらもまた、どこか、精神力を使ってしまっているのではないか。
惰眠、二度寝、と、頭の痛さに朦朧と、布団の中でぐだぐだと、手についた本とか漫画とかをとって、ぼけっと読んだり、いわゆる「無駄」としか言えない時間を過ごすというのは、僕の中の理性くんとしては、「即刻やめろ!」「もったいない!」と叫ぶのであるが、しかし、まぁまぁ、もう12時も過ぎてしまったし、もうちょっとゆっくりしようじゃん? となだめて。
書いていて、ああ、こいつほんとにダメ人間になったんだな、ご愁傷さま、と思うけれども、しかし、それはまた、もしかして、精神力の回復としては意味があるのではないか。
どこかしら、上のような行動について、「反省」を求めている心性があるに違いないという、推測。
だから、本当は、この書き始めたときの「タイトル」の本当の意味を考えれば、こうした「分析」作業こそが、本来不要でしかありえない、ということなのだ。
もう特に書くことはない。何もしていないから、書くべきこともない。
ただ、このメモにおける意味が、どれだけ明日以降になって、自分が理解できるのか、それは少し興味がある、重要なことのように思う。
小説を書くということ
2009年10月の記事。正直、いつものようにタイトルと内容が全然かみ合っていない気もする。
昨日の記事は、……うーん、微妙だ。
何だか、自分で自分に突っ込んでいると、やっぱりカッコ悪いというか、気持ち悪いなぁ、と分かっていてやっているのもどうなのか。
ここでやっぱり、先日の記事で、難しいと感じたわけだけれども、明確に人格の分離ができたら、後から読んだときに面白い可能性が高い気がする。
自堕落な生活
久しぶり、と書くと傲慢だけれども、やっぱり久しぶりな感覚はあるから、久しぶりなのだけれど、今回の休日はとことん自堕落に過ごした。昼まで寝ていたし、起きていても何をするでもなく。ぼーっとネットサーフィンしたり、昔の動画とかみたり。
今思い出そうとして、一つぐらいしか作品が出てこないから、やっぱり間違いなく自堕落であって、何ら成長につながっていないことは明白だ。
デパートのゲームセンターみたいなところでいたら、小学生ぐらいの女の子の集団に囲まれてくっつかれて、キモーいとか言われる夢をみたぐらい自堕落である(かっこわらい)。
先ほど、攻殻機動隊のGHOSTINTHESHELL
を見た。
この映画、どのタイミングか分からないが、リメイクされていて、初版は、「人形遣い」(コードネーム2501)の義体が女性型なのに対して、リメイク版は男になっている。
裸の女、というのがちょっとまずかったのかな、と思いつつ。まぁ、ラストシーンで「結婚」(融合)するということから考えると、男型の方が視聴者に分かりやすい、という配慮もあったのかもしれない。
なんやかんや、初版の古めかしくも、美しい映像がいいな、と思った。
精神力(MP)の回復
と。あんまり頑張っていないときの記事って、きっと面白くないのだろうと、思う。が、これはこれで、メモだけはしておこうと、もう寝る時間なのだけれども、筆をとる。
やっぱり、好き勝手に、時間を無駄に使うってのも、たまにはよいものだ。
……よいものだ、というよりも、必要な気がした、というのがメモの内容である。
例えば、これは、何ともむなしく哀しいことであるが、友人たちとわいわい楽しく飲み会、とかいうのもあるが、これはこれで、何気に精神力の消費につながっている気がする。
それは決して、しっかりと書いておく必要があるが、友人たちに気を使いすぎているとか、嫌なことを言われたとか、そういうことでは全くない。
家事をしたり、勉強したり、運動(ジョギング・ランニング・散歩)したりと、それはそれで、気分がよくなる。けれども、それらもまた、どこか、精神力を使ってしまっているのではないか。
惰眠、二度寝、と、頭の痛さに朦朧と、布団の中でぐだぐだと、手についた本とか漫画とかをとって、ぼけっと読んだり、いわゆる「無駄」としか言えない時間を過ごすというのは、僕の中の理性くんとしては、「即刻やめろ!」「もったいない!」と叫ぶのであるが、しかし、まぁまぁ、もう12時も過ぎてしまったし、もうちょっとゆっくりしようじゃん? となだめて。
書いていて、ああ、こいつほんとにダメ人間になったんだな、ご愁傷さま、と思うけれども、しかし、それはまた、もしかして、精神力の回復としては意味があるのではないか。
このメモが重要な理由
と、上のような分析を必要としたこと、それ自体が、実は、「成長」「意味をもたせる」「解釈可能性」を求める、理性の野郎の所業ではないか、ということを明るみにすることだ。どこかしら、上のような行動について、「反省」を求めている心性があるに違いないという、推測。
だから、本当は、この書き始めたときの「タイトル」の本当の意味を考えれば、こうした「分析」作業こそが、本来不要でしかありえない、ということなのだ。
もう特に書くことはない。何もしていないから、書くべきこともない。
ただ、このメモにおける意味が、どれだけ明日以降になって、自分が理解できるのか、それは少し興味がある、重要なことのように思う。