今日の一言「アニメ、サイコパス面白い」
サイコパスというアニメーション作品の第一期。第二期はいまいちであるという噂を聞くけれども、取りあえず序盤はいい感じだ。マサオカのおやっさんかっこいい。「ネットで検索? 不要だ。人間不平等起源論、俺の頭には入っている」とか、言ってみたい台詞である。
2012年ごろの作品のようだ。攻殻機動隊を手掛けたプロダクションIGが製作に携わっている。Fateに携わった虚淵玄氏も関わっているようである。あまり、声優とか、監督とか、脚本とか、制作会社とか、そういう「中の人」的なのにはあまり興味なかったけれども、いい作品を効率よく求めるなら、やっぱり知名度がある人を追った方がいいのかもしれないなぁと思った。最近、涼宮ハルヒの憂鬱を見返してみたりしてたが、今見ても面白い。京都アニメーションさんの作品も、フルメタルパニックとかもいい仕事だなぁと思ったりする。
ただやっぱり、「誰がつくったか」というよりも、その作品自体がどうであったか、というのが一番重要なことだと僕は思う。あくまで、効率的に良い作品を探すなら、その確率を高めるなら、という話しだろう。
と、まぁ、こんな大した面白くもないことを書いておく必要があるのかと思いつつも、いまいち、何が面白いかということは、今の自分の感覚と、この先の自分の感覚(後から読み返したとき)とで異なっているから、仕方がない、書いておくかと。
本来、被害者である女性だが、レイプされたりひどいことされたせいで、「憎しみ」とかそんな感情が高まってしまったのかもしれない。
それによって、ドミネーター(犯罪係数によって対象を識別し攻撃できる銃)で、エリミネーター(殺害対象)にまで犯罪係数を高めてしまう。
同僚が、レイプ犯のみならず、被害者も手にかけようとした瞬間、主人公は、同僚をとめて、結果的に被害者女性は助かる。
めでたしめでたし。
しかし、その後の展開で僕は驚愕した。
なんと、その被害者女性は、エリミネーターから、制圧対象まで犯罪係数が下がり、挙句の果てに、セラピーによりますます回復傾向になっていっている、というのである!
え、いいことじゃないか、助かって良かったね、というわけだ。何を驚くことがあるだろう?
驚きだよ! 完璧なシステムたるシビュラ(しびら?)システムにおいて、一度は「もう更生の余地ないからさっさとしっかり照準合わせて殺っちゃってー」と判定されたあとに、極度の犯罪現場の緊張状態が回復し、セラピーを受けることによって、回復してしまうということだ。
これは恐ろしいことである。これは、冤罪ではないのだろうか? 恐らく、そうではないのだ。一度犯罪係数が高まって、殺害対象になって、ちょうど執行官(犯罪者を処分する仕事をする人)が目の前にいたら、裁判もなく殺害なのである。
僕は体当たりされてしまった被害者なのであるが、しかし、「危険なことをしようとする人」(この場合、むかつくクソ野郎に消えてもらいたいと本気で思ったこと)と判断されてしまえば、「逮捕される」対象になりえるのである。
このサイコパスの世界は、全員が、感情指数も計測されて、濁っていたら強制的にセラピーを受けさせられる。
精密なことに、いちゃいちゃするカップルをみて、ショッピングモールで苛立ちを高めた孤独な男性も、「ちょっと感情が濁っちゃってますね~。ご同行いただけますか?」と任意同行(いや強制収監)されてしまうのである。
そんな世界が生きづらいのではないか?
という疑問は、さほど重要視されることはない。
このことは、何となく感じてはいたけれども、先般のサピエンス全史なんかを読んでいると、そもそも、農耕を始めた時点で、人類は、「生きづらい」生活を選択していったのだ。
僕たちが効率をもとめ、富を求め、正義をもとめ、幸せを求め……多くのものを求めていけばいくほどに、新たな「生きづらさ」が蔓延していくのだ。
しかし、すぐさま書くべきは、その「生きづらさ」は、大半の人たちは気づきもしない。多くの子どもや子孫に囲まれ、幸せな一生を送るのである。ところが、その「生きづらさ=常識」というものから、零れ落ちてしまう人は必ず存在している。これまでも存在していたし、これからも存在し続ける。
社会性。
人が生きていくうえで必ず身につけなければいけない、他者と協力するという行為および、それに伴う思考や感情。
これは避けることはできない。そしてそのことが、同時に人の生存戦略の一つである「多様性」という概念との軋轢や矛盾をうみ、これまた発生する負の感情の数々。
気に入らない奴は、殺してしまいたい。社会性を維持するためには、足手まといは排除すべきだ。
この感情は、一般的ではあるが、「人類の平等」や「福祉国家」というイデオロギーにおいては、そのまま表現することは許されない。弱者の切り捨て、ということで、批判の対象にされる。
そこで、サイコパスという作品においては、「シビラシステム」という、「完璧な」システムが、その「切り捨ててもいい人たち」を判断してくれるのである。
これは、「神」の代替である。
神が人類を造物し、それゆえに人は全員平等なのだ、という「神話」を、情報社会において人は信じることができなくなった。
その代わりとなったのが、「完璧なシステム」である。
システムは、人でないがゆえに、誤ることがない。絶対にいつも正しい。だから、それに基づく判断は、例え「殺人」だとしても、正しいのである、と。
僕たちは、資本主義法治国家や、IT社会の中で生きているけれども、まぁ結局のところ、それらも、多くの巨大な(噂話で繋がってられる150人程度の集団よりも遥かに大きな)集団を維持するための、共同主観的(共同幻想)な方策なのである。
法律は、絶対正しいものだと思う。それに従わなければ、罰せられる。
しかし、ハンムラビ法典もまた、法の体系である。しかし、前1776年あたりのハンムラビ法典では、人類平等なんてうたわれていない。上層民と、自由民と、奴隷にわけられて、されに男女平等なんかもない。女も子供も、男よりも低い価値しか認められていなかった。
そんな、不平等で野蛮な法であっても、従わなければ罰せられた。どうやって? 武力である。
その構造は、今も変わらない。法律に従わなければ、例えば罰金になったりする。けれども、それも無視し続けたらどうなろうか? 警察が出動し、身柄を拘束され、独房にぶっこまれる。
これは、法的で正当な「正義」なのだけれども、その行為だけを考えてみれば、殴って拉致って閉じ込める、ということである。
つまり、頭のいい法律家たちが支配しているようなイメージがある法律だけれども、その法律を維持するには、権力=武力が必要不可欠なのである。
だから、軍備縮小とか、軍隊は不要だとか、そういう議論を否定するつもりも、政治的な思考をする気もないけれども、まぁ難しいことだろうなと思う。理想的には、世界平和をこよなく希求するけれども、「強制力」がないルールは、そもそもルールとして成り立たない、形骸化すると、僕は思ってしまう。この考えは、もしかすると、感情の濁りや犯罪係数が高いからなのかもしれないけれども。
すごく、自分の、この記事と主旨が関係ないことを書くと、
某国の基地を撤廃しろと主張する人たちがいたとして、その人たちは、戦闘機の爆音や兵士の婦女暴行などで長年苦しんでいることなのだけれども、ルールを破って危険な国に攻め入られたとき、それに対抗する「力」は要しておく必要がある。ということは、付近の住民の「騒音被害」よりも優先される、と考えられることであるので、ただ、基地撤廃を主張するだけでは、結局のところ、多くの人の理解を得ることは不可能になってくる。
しかし、その論理もまた不十分であり、そもそも、他国に攻め入られたときにその基地の某国が、本当に自国を守ってくれるという保障もない。その保障を、お金やルールや何でもいいが、確立していくというのが、本当の外交として重要なことである。
より大きな目的を掲げられたとき、人は、「みんなのためなら仕方がないか」と考え始めることになる。しかし、その大きな目的は、往々にして中身がない場合がある。具体的方策に基づいた方針は強い。しかしその具体的な方策というのは、実は、目先の、小さい些末なことの積み重ねなのである。理想と現実とのギャップ。これを丁寧に埋めていく作業なくして、「調整ごと」を上手くやることはできない。
しかしながら。
ここが重要なことだけれども、いくら「論理的」で「正義」で正しく普遍的であろうとも、それは、「強制力」を伴ったものでなければ、役に立たないことが往々にしてあるし、
逆に、いくら正義や論理がぶっこわれていても、「いいからやれ!!」と無理やり従わされるような場面も、我々生きていく中では当然直面していくことなのである。
買えない理由を明確に伝えて、説得することも大事かもしれないが、そもそも、「ダメなもんはダメ」ということを教えてもいいと思う。
理詰めでしか動けない人間は、時に弱い。がーん!とぶったたいて、ダメなもんはダメ! といって、泣こうが喚こうが、絶対にゆずらない。そんなことも必要だろう。
が、それも、そればっかり続けていると、「なにやっても、いくら正しくてもだめなもんはだめ」という無気力を醸成する場合もある。
いやはや、教育とは難しいものである。まぁ関係ないんだけど。
久々に当たり作品
小見出しがいつも大げさなんだよな。「久々に」とか、別にそんなこと無かろうが。いや、ただ、ある方にはとても申し訳ないのだけれども、最近見たカバネリや東京マグニチュード8.0より面白かった。まだ4話までぐらいしか見れていないけれども。サイコパスというアニメーション作品の第一期。第二期はいまいちであるという噂を聞くけれども、取りあえず序盤はいい感じだ。マサオカのおやっさんかっこいい。「ネットで検索? 不要だ。人間不平等起源論、俺の頭には入っている」とか、言ってみたい台詞である。
2012年ごろの作品のようだ。攻殻機動隊を手掛けたプロダクションIGが製作に携わっている。Fateに携わった虚淵玄氏も関わっているようである。あまり、声優とか、監督とか、脚本とか、制作会社とか、そういう「中の人」的なのにはあまり興味なかったけれども、いい作品を効率よく求めるなら、やっぱり知名度がある人を追った方がいいのかもしれないなぁと思った。最近、涼宮ハルヒの憂鬱を見返してみたりしてたが、今見ても面白い。京都アニメーションさんの作品も、フルメタルパニックとかもいい仕事だなぁと思ったりする。
ただやっぱり、「誰がつくったか」というよりも、その作品自体がどうであったか、というのが一番重要なことだと僕は思う。あくまで、効率的に良い作品を探すなら、その確率を高めるなら、という話しだろう。
と、まぁ、こんな大した面白くもないことを書いておく必要があるのかと思いつつも、いまいち、何が面白いかということは、今の自分の感覚と、この先の自分の感覚(後から読み返したとき)とで異なっているから、仕方がない、書いておくかと。
犯罪係数
最初の事件において、ある被害者の女性が、監禁され暴行、レイプされていたことで、犯罪係数があがってしまった。犯罪係数とは、シヴュラ(しびら?)システムという全人類を管理するネットワークシステムにおいて、その人の感情や思考等を分析し、「犯罪を起こしそうな可能性」を数値化したものである。(←勝手な僕の解釈)本来、被害者である女性だが、レイプされたりひどいことされたせいで、「憎しみ」とかそんな感情が高まってしまったのかもしれない。
それによって、ドミネーター(犯罪係数によって対象を識別し攻撃できる銃)で、エリミネーター(殺害対象)にまで犯罪係数を高めてしまう。
同僚が、レイプ犯のみならず、被害者も手にかけようとした瞬間、主人公は、同僚をとめて、結果的に被害者女性は助かる。
めでたしめでたし。
しかし、その後の展開で僕は驚愕した。
なんと、その被害者女性は、エリミネーターから、制圧対象まで犯罪係数が下がり、挙句の果てに、セラピーによりますます回復傾向になっていっている、というのである!
え、いいことじゃないか、助かって良かったね、というわけだ。何を驚くことがあるだろう?
驚きだよ! 完璧なシステムたるシビュラ(しびら?)システムにおいて、一度は「もう更生の余地ないからさっさとしっかり照準合わせて殺っちゃってー」と判定されたあとに、極度の犯罪現場の緊張状態が回復し、セラピーを受けることによって、回復してしまうということだ。
これは恐ろしいことである。これは、冤罪ではないのだろうか? 恐らく、そうではないのだ。一度犯罪係数が高まって、殺害対象になって、ちょうど執行官(犯罪者を処分する仕事をする人)が目の前にいたら、裁判もなく殺害なのである。
タイミング性
先日、トラブルにより、口論というか、あわや喧嘩のような状態になったとき、僕は暴力を避けて戦略的撤退(といえばかっこいいかもしれないが、ただ危険を感じて逃げただけである)をした際に、おそらく、感情は濁り、犯罪係数は格段にとびはねたことだろう。僕は体当たりされてしまった被害者なのであるが、しかし、「危険なことをしようとする人」(この場合、むかつくクソ野郎に消えてもらいたいと本気で思ったこと)と判断されてしまえば、「逮捕される」対象になりえるのである。
このサイコパスの世界は、全員が、感情指数も計測されて、濁っていたら強制的にセラピーを受けさせられる。
精密なことに、いちゃいちゃするカップルをみて、ショッピングモールで苛立ちを高めた孤独な男性も、「ちょっと感情が濁っちゃってますね~。ご同行いただけますか?」と任意同行(いや強制収監)されてしまうのである。
負の感情はダメなものか?
この作品が何を言いたいものなのか、正直まだ4話くらいしか見てないし、敢えてウィキとか説明をみていないから分からないけれども、自動運転やノンアルコールビールや、カフェインレスコーヒーのように、今後「危険なもの」をどんどん排除していくことが「正義」となれば、そのうち、人間の感情にまで手が及ぶだろうことは、そんなにサイエンスフィクションのようには思えない。そんな世界が生きづらいのではないか?
という疑問は、さほど重要視されることはない。
このことは、何となく感じてはいたけれども、先般のサピエンス全史なんかを読んでいると、そもそも、農耕を始めた時点で、人類は、「生きづらい」生活を選択していったのだ。
僕たちが効率をもとめ、富を求め、正義をもとめ、幸せを求め……多くのものを求めていけばいくほどに、新たな「生きづらさ」が蔓延していくのだ。
しかし、すぐさま書くべきは、その「生きづらさ」は、大半の人たちは気づきもしない。多くの子どもや子孫に囲まれ、幸せな一生を送るのである。ところが、その「生きづらさ=常識」というものから、零れ落ちてしまう人は必ず存在している。これまでも存在していたし、これからも存在し続ける。
社会性。
人が生きていくうえで必ず身につけなければいけない、他者と協力するという行為および、それに伴う思考や感情。
これは避けることはできない。そしてそのことが、同時に人の生存戦略の一つである「多様性」という概念との軋轢や矛盾をうみ、これまた発生する負の感情の数々。
負の感情を発する人を排除すれば事が済むのか
サイコパスという作品は、勝手な妄想で書けば、管理社会というものへの警鐘と思う。気に入らない奴は、殺してしまいたい。社会性を維持するためには、足手まといは排除すべきだ。
この感情は、一般的ではあるが、「人類の平等」や「福祉国家」というイデオロギーにおいては、そのまま表現することは許されない。弱者の切り捨て、ということで、批判の対象にされる。
そこで、サイコパスという作品においては、「シビラシステム」という、「完璧な」システムが、その「切り捨ててもいい人たち」を判断してくれるのである。
これは、「神」の代替である。
神が人類を造物し、それゆえに人は全員平等なのだ、という「神話」を、情報社会において人は信じることができなくなった。
その代わりとなったのが、「完璧なシステム」である。
システムは、人でないがゆえに、誤ることがない。絶対にいつも正しい。だから、それに基づく判断は、例え「殺人」だとしても、正しいのである、と。
法やシステムの普遍性への神話
この記事の最後に、一つ、生きる上で何の役にも立たないが、生きる意味を考える上では無視できないことを、思い出し、忘れないようにするために書いておこう。僕たちは、資本主義法治国家や、IT社会の中で生きているけれども、まぁ結局のところ、それらも、多くの巨大な(噂話で繋がってられる150人程度の集団よりも遥かに大きな)集団を維持するための、共同主観的(共同幻想)な方策なのである。
法律は、絶対正しいものだと思う。それに従わなければ、罰せられる。
しかし、ハンムラビ法典もまた、法の体系である。しかし、前1776年あたりのハンムラビ法典では、人類平等なんてうたわれていない。上層民と、自由民と、奴隷にわけられて、されに男女平等なんかもない。女も子供も、男よりも低い価値しか認められていなかった。
そんな、不平等で野蛮な法であっても、従わなければ罰せられた。どうやって? 武力である。
その構造は、今も変わらない。法律に従わなければ、例えば罰金になったりする。けれども、それも無視し続けたらどうなろうか? 警察が出動し、身柄を拘束され、独房にぶっこまれる。
これは、法的で正当な「正義」なのだけれども、その行為だけを考えてみれば、殴って拉致って閉じ込める、ということである。
つまり、頭のいい法律家たちが支配しているようなイメージがある法律だけれども、その法律を維持するには、権力=武力が必要不可欠なのである。
だから、軍備縮小とか、軍隊は不要だとか、そういう議論を否定するつもりも、政治的な思考をする気もないけれども、まぁ難しいことだろうなと思う。理想的には、世界平和をこよなく希求するけれども、「強制力」がないルールは、そもそもルールとして成り立たない、形骸化すると、僕は思ってしまう。この考えは、もしかすると、感情の濁りや犯罪係数が高いからなのかもしれないけれども。
すごく、自分の、この記事と主旨が関係ないことを書くと、
某国の基地を撤廃しろと主張する人たちがいたとして、その人たちは、戦闘機の爆音や兵士の婦女暴行などで長年苦しんでいることなのだけれども、ルールを破って危険な国に攻め入られたとき、それに対抗する「力」は要しておく必要がある。ということは、付近の住民の「騒音被害」よりも優先される、と考えられることであるので、ただ、基地撤廃を主張するだけでは、結局のところ、多くの人の理解を得ることは不可能になってくる。
しかし、その論理もまた不十分であり、そもそも、他国に攻め入られたときにその基地の某国が、本当に自国を守ってくれるという保障もない。その保障を、お金やルールや何でもいいが、確立していくというのが、本当の外交として重要なことである。
より大きな目的を掲げられたとき、人は、「みんなのためなら仕方がないか」と考え始めることになる。しかし、その大きな目的は、往々にして中身がない場合がある。具体的方策に基づいた方針は強い。しかしその具体的な方策というのは、実は、目先の、小さい些末なことの積み重ねなのである。理想と現実とのギャップ。これを丁寧に埋めていく作業なくして、「調整ごと」を上手くやることはできない。
しかしながら。
ここが重要なことだけれども、いくら「論理的」で「正義」で正しく普遍的であろうとも、それは、「強制力」を伴ったものでなければ、役に立たないことが往々にしてあるし、
逆に、いくら正義や論理がぶっこわれていても、「いいからやれ!!」と無理やり従わされるような場面も、我々生きていく中では当然直面していくことなのである。
蛇足
ある店で、10歳ぐらいの男の子が、父親に、「これ買って」とだだをこねていた。かわいらしいものだ、と最初は思っていたが、売り場を一周して戻ってきても、何十分もまだ「買って」「そんなもの買っても仕方ないだろ」を続けていた。買えない理由を明確に伝えて、説得することも大事かもしれないが、そもそも、「ダメなもんはダメ」ということを教えてもいいと思う。
理詰めでしか動けない人間は、時に弱い。がーん!とぶったたいて、ダメなもんはダメ! といって、泣こうが喚こうが、絶対にゆずらない。そんなことも必要だろう。
が、それも、そればっかり続けていると、「なにやっても、いくら正しくてもだめなもんはだめ」という無気力を醸成する場合もある。
いやはや、教育とは難しいものである。まぁ関係ないんだけど。
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第二期はみなくていいよ
一期で完結してるから