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飲み会について
2019/02/17 21:53 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「悪かった」「飲み会は有意義な面もあるが」

前書き

 よう、俺だ。
 とかって書き始めるのが、逆噴射聡一郎氏風なのだと書いたら、フォロワーの方々に総スカン&総フルボッコにあうだろう、怖い。

 きれいな文章を書きたい……そう思う面はある。ただし、文体というのは、自分の書きやすいように書いて、その結果で洗練されていくものなのだということを、最近音読ルーチンに組み入れている『工学的ストーリー創作入門』に書いてあった――のかは正直分からないが、僕はそう読み取った。

 まずもって、わかりやすい文章と、きれいな文章と、ささる文章と、そもそもストーリーとは別だ。

 それはともかく、このブログで追及すべきは、そのどれでもない。
 この俺自身の思考の「再現性」が最も高いものが正解だ。

 要するに、後から読んで、「何故」そう思ったのか、いやそもそも、「何を」思ったのか、それが分かるかどうか、そこに価値が含まれる。

 誤字脱字は無いほうがよかろうが、実は、あってもなくても、伝えたいことの「伝達率」は変わらなかったりする。
 そもそも、対面コミュニケーションでも、音節(しゃべってる音)が何割かは欠落しているという。完璧な言葉を頭にインプットして、それで解釈しているわけではないのだ。音は途切れ途切れなのだが、それを脳内にインプットすることで、脳内で補完しているのである。

 一方、文章はそれは不可能だ。
 文章の間の言外の意味、というのはあろうが、そこを限りなく正確に伝えるのは、それは芸術の域である。

 であるならば、思考や感情を書き残そうと思えば、必ず、「長く」なるのである。

 だから、ある程度の文章量が必要である。そう、「事実」のメモであれば、箇条書きでよいのだが、それを目的とはしていないのだ。

飲み会について

 さて、珍しく、一週間の振り返りを、「悪かった」と書いた。

 これは何故だろうか。

 それは、飲み会が多かったからである。
 何回あったかの具体的な数字は書かないが、僕は、週に2回以上あれば、多かったとこれまでも、これからも書くだろうと思う。

 僕は、飲み会が好きではない。
 勘違いしないように書いておかねばならないが、これは、会社の飲み会が嫌とか、知らない人との飲み会が嫌とか、そういうのではなく、飲み会自体が嫌なのである。
 これは、仲の良い友人等とでもそうである。

 ただ、そうはいっても、嫌でもない場合がある。
 まず、時間が決まっている場合。
 逆に書けば、二次会とか大嫌いである。三次会四次会とか、吐き気を催す(勘違いしないように書くが、お酒の多い少ないではない)。

 まず、そもそも、何故飲み会が好きではないかというと、そもそも、人と話して愚痴を言い合うということに一切メリットを感じないことである。
 これは、別に飲み会じゃなくても同じである。愚痴が好きではない、いやましてや、他者の愚痴とかものすごくどうでもよい。――いやすぐさま書けば、大事にすべき両親兄弟恋人家族等々との関係においては、あってもいいし、むしろ聞いてあげるべき場面もあるだろうが、しかし大多数の場合はどうでもいい。

 ――いやいや、すぐさま書けば、「愚痴」は好きである。いやむしろ、このブログ自体壮大な愚痴といえなくもない。

 だが、「愚痴る」ならば、本気で愚痴って欲しい。
 たかだか、数時間の飲み会で愚痴って、それで翌日すっきりする程度の話の内容なら、ぶっちゃけどうでもいい。(そもそも、それって、一人で話しててもいいんじゃないのか。「俺」である必要はあるのか。愚痴を聞いてくれるAIロボットでも早く開発されればいい(俺はどうでもいいが))。


 あと、長時間他者と一緒にいると、「疲れる」。

 これは、特に、「評価」が関係する相手だと加速的に疲れる。

 だから、どうでもいい相手との飲み会の方が楽である。――しかし同時に、どうでもいい相手だと、そもそもどうでもいいから、その飲み会自体がどうでもいいので、やっぱり総じて飲み会は好きではないのである。

ちょっと役立つかもコーナー

「不立文字」(ふりゅうもんじ)と読む。禅の言葉。達磨大師が残した四聖句の一つ。経典などの文字によらず、坐禅によって真理を直接体験することが重要である、という意味。
――「師よ、この魔導書の意味が分からないのですが……」「不立文字。言葉に捉われるのではなく、心で印を組むのです」とかって使う、たぶん。

「鐘楼」(しょうろう)と読む。寺院にある時を告げる鐘がある建物。

じゃあ行かなきゃいいじゃん

 そんな愚痴をだな、結局自分は思って書いているのであるが、僕の価値観としては、飲み会での愚痴よりも、よほど文字にすることのほうが重要で有意義であると思う。

 そもそも、「大変だ」「不安だ」「心配だ」など、いろいろ言う人に限って、「じゃあ、何が大変か、紙に書いてみましょう」というと、「将来」「恋愛」とか、漠然としたものしか浮かばないだろう。

 漠然としているから逆に「不安」なのだろうが、そんな状況で、他者が手を指し伸ばしてくれることなんて、無い。差し伸ばして、助けられることも、無い。


 だから、「相談」ということの意義が正直よく分からない孤独な人間である。

 いやもちろん、相談することで、「ああ、そういう解決策もあるね」となることはあるだろう。――が、それは勘違いである。そういった方策を出してもらえるという状況自体が、本当に切羽詰まった状況ではないのだ。

 本当にメンタルやられている時に、他者など何の役にも立たない、と思っている(もちろん、いつものごとく、少々過激に書いているだけだ。「何の」とか「絶対」とかっていう修飾は、真理になどなりえない。論理矛盾だ。そういう表現を使って話をする人を、僕は胡散臭いと思う)。



 で、まぁそうね、イライラしていると言葉が過激になってしまうからよくない。
 過激な自分を抑えなきゃいけない、って面もあって、飲み会とかが好きじゃないのかもしれない、じゃあ、全力で自分出していけばいいじゃん、というのは、それこそ絶対にダメである。

 何故かというと、自分はマイノリティだからであって、そもそも、僕が少し楽しいかなと思うのは、今書いてきているような、「そもそも飲み会とかいらなくね?」といった話なのである。そんなこと言われてもみんな困るだろう。だから、表層的に楽しくする必要があるのだ――それが、つまらないのである。

 じゃあ、小見出しの通り、「行かなきゃよくね?」ということだが、しかし、社会人、組織人たるもの、そうはいかない。なにせ、どんな仕事も、人と人とのかかわりあいで成り立っているのだ。

でも良いこともあった

 しかし、結果的に、今回参加した飲み会の中で、僕と同じような意見の人と出会うことができた。

 その人とは意気投合して、いろいろ話したし、楽しかった。
 しかし、その人自身も、自分がマイノリティ側だと思っていたようである。いろいろ、つまらないなと思うことも多いようだ。

 なので、要は、面白い人もいるのである。

 だから、先ほどの、「なんの」とか「ぜったい」とかの修飾はありえない、というように、飲み会全般がつまらないかというと、まぁそういう訳でもないのである。

 それに、何より、こうやってブログを書くネタが――ネタ、というよりも、もうこのムシャクシャした感じ(これを単純に「イライラ」と僕は表現しているが、これは何なんだろうか。よく分からない感覚なのである。いい表現が欲しい。焦燥感というわけでもないが、なんか落ち着かない感じ)が提供されるので、それはそれで良いかなと思っている。

 しかし、もう一歩大きな視点で考えたとき、これっていらない感情のようにも思うわけだ。

 人生、楽しむべきだ。

 これは、中学生ぐらいに到達した哲学だが、まわりまわって、やっぱりこれは正しいと「実感」している。

 その楽しいというのは、もちろん刹那的な快楽を指すわけではないが、間違っていない考え方だと思う。
 それは、くだらない二項対立の、「楽しい方がよいか、苦しい方がよいか」というくだらないレベルにおいて。


 それはそうと、そうした哲学的真理においていえば、その、なんか、煩わしい人間関係って必要なんだろうか。

 いやいやいや、すぐさま、「そうした艱難辛苦含めて人間なんだよ」という言説や思考がふりまかれるわけだが、しかしそれはそれで思考停止ではなかろうか。
 世界平和が大事だとかいっちゃうのであれば、そうした人間関係の軋轢を低減……いやむしろゼロに近づける方法を模索すべきである。

 究極、人と人との関係が完全に希薄になればよい。

 つまり、折衝系の業務とかは、すべて間(あいだ)にロボット(AIでも何でも呼び方は構わないが、とにかく「人」ではないもの)を介在させるとか。

 要は、相手が「人」だから、感情をもつのである。
 ドアに足をぶつけて、痛い思いをして、でも、ドアに何時間も延々と怒り続ける人はいるだろうか。
 一方、同じ痛みでも、人がぶつかってきた場合は、それは、相手を殺したいと思うほどの強い感情が湧き出る場合もある。

 人だからいけないのである。
 モノが相手なら、感情は発生しない(たぶん、ね。検証も何もなく思いつきだから、反例ある研究とかあったら面白いと思う)。
 であれば、感情労働的な部分に、もっとロボット的なサムシングをどんどん導入していったらいいのではないか。介護分野にロボット導入とか、まぁ実現性はともかく、よいことじゃなかろうか。外国人労働者を増やすというのも、暫定的な措置としていいのかもしれないが、根本的な解決じゃないのはすぐわかることである。


(かっこ書きである。愚痴愚痴した記事だから、強制終了。しかし、こういった、「例えば、人間と人間との関係なんて無い方がいいんじゃないか」とかって言って、「いやでもそれは――」とかって話ができると面白いと思う。仕事のあの部署の誰誰がどうこうで――とか、近所の誰それさんのお子さんがどうこうで――とか、過去に付き合った人がこうで――とか、まぁ、一秒で忘れる(かっこわらい)。あと、話題もそうだけれども、「いやでもそれは――」とかいう議論的なのができる場合も、はなっから感情論とか道徳論的に「ありえない」とかそういうスタンスでも面白くない。ストーリーである。「What If?」である。でもまぁ、いきなりそれほど親しくない人が相手で、そんな話ができるなんて、そりゃあありえないわけである。だから、飲み会って場がそもそも、非効率でしかない。まぁ、要は、楽しきゃいいんだけど。あと、そもそも口頭で話したとしても、すぐ忘れちゃうじゃん(それは俺の記憶力が悪いだけだ)。だったら、いい話とかあったら文書に残さないと、もったいないなと逆に思う。――いやまぁ、分かってるよ。こう、会話の中でスパークが起きて、新しいアイディアが沸いてとかいうのはある。でもそれって、そもそも違う分野の人とかと話さないとあんま意味ない。で、相手がかまってちゃんじゃなければ、それ相応の、自分も提供できる話題や知識がなければ意味がなかろう。マーケティングの話をされても、「へー」としかならないかもしれない。しかし、「へー」ってなってる段階では、何ら成長も発展もない。「ああ、その話はここまでは知ってるけど、こういう場合はどうなの?」とか、質問できるレベルじゃないと、会話としての意義は少ない。少ないし、話し手の方も、そうじゃなきゃ話している実感というか、手ごたえがなくてつまらないだろう。ただ独善的に語って満足できるような人は、自分のブログで発信だけしてればいいだろう。え? 俺? 僕は、まぁそうだなぁ……、とにかく、この手のモヤモヤ(むしゃくしゃ)が発生した場合は、書くこと以外に解消方法が、無い。無い、ことはよくわかった。今回、上のようなほぼ「本音」的なことも踏まえて話せた飲み会が一部であった。その飲み会はとても楽しかった。――楽しかったけれども、結局、そういったことを人に話したとしても、僕のイライラ(モヤモヤ)はナウ晴れなかったのである。で一方で、こうやって、ここまで長々と書いてきたおかげで、まぁ取り敢えず風呂にでも入るか~的な穏やかな気持ちになった、わーい)

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