今日の一言「臨時の記事だ」「体調が良くない」
これは、自らの行動で引き寄せるものもあれば、まったく無関係のところから湧いて出てくることもある。
しかし何れにせよ、どちらも、自分の身に起こったことだ。
それに対しての、反応は必ず必要になる。
逃げるか、戦うか、情報収集するか、呆然とするか、行動は複数考えられる。
何もしないということも含めて、行動になる。
さて、自分に起こった転機を、どう対処するか。
ここで、物語であれば、フックとなるようなイベントを提起するのだが、自分については、単に異動になりそうだということでしかない。
拒否する明確な理由もなければ、進んで異動先でやりたいことがあるわけでもない。
そういう意味では、与えられた機会だと考えて、進んで精いっぱいやるのがよいことだろうと思う。
思う、のだが、果たして、僕は、本当にそう思っているのだろうか。
で、まぁ、一応、成功と失敗というくだらない二分で考えれば、今のところそれぞれは動いているのだから、成功と言っていいと思う。しかしすぐさま書けば、まぁまぁ、いろいろ、大変なことも多かった。――多かった、具体的に書けることは、きっと多くない。記録を探せば思い出すかもしれないが、潜在的に刻まれた「多かった」という感覚を立証する程度ではなかろう。
でもまぁ、大変だったのだ。
それで、次も大変だろうと思われる。
いやここで、「大変」という抽象的な言葉は無意味であって、じゃあ、今の所属のままであれば大変じゃないか、といえば、それはそれで大変だろうし、とはいえ、今と比べたら、大変だろうというだけだ。そして、その「だろう」は、分からないから推測に過ぎない。実は大変じゃないかもしれない。今の所属のままのほうが大変かもしれない。分からない。誰も。
先日は、その、イライラ度が高かったから過激な言葉になっていたが、別にそんな、人類の敵だと思うほどに飲み会が嫌ではないのだ。適度に、2か月に一回ぐらいあってもいいと思う(そりゃ少ないよ、と言われるかもしれんが、まぁ僕としてはそれぐらいでいい気がする)。
ただ、要は、誰に相談したところで、結局、矢面に立つのは自分だという意識が強い。
この考え方を、そもそも、心理学とか、メンタリティとか、スピリチュアルとか、行動科学とか、その他いろいろな方法では排除しようとするんだと思う。
「自分」「自分」「自分」
ってこだわることは、百害である。
自分を捨てて、公共の精神を身に着けることが、大人であり、素晴らしい人間であり、それがひいては自分のためでもある――それは分かっている。
分かっているが、凡人として、悟りの境地はまだ遠い。
その前提において、誰かに相談して、そのアドバイスが仮に大正解だったとしても、そのアドバイスを選択し、行動するのは自分だということに変わりはない。
その正解かもしれないアドバイスを得るために、誰かとコミュニケーションをするというのは大事かもしれない。
しかし、それは、時に、選択肢を広げるだけで、余計に惑う可能性があることは忘れてはならない。
他人のせいにする人がいるかもしれない。そういう人は、ある意味幸せである。
自分の責任を放棄して、相手を攻撃することに時間を使うことができるのだ。
僕は、できない。
社会のため、家族のため、子供のため、いろいろ意味はあると思う。
必ずしも、自分の人生は、自分だけのものではないのだ。
でも、自分のものでもあるはずだ。
であれば、何か起こったことを他人のせいにして、自分は悪くないと殻にこもることを僕はよしとしない。
もちろん、その「他人」を叩き潰さなければ自分がつぶされてしまうような状況であれば別だ。それは、責任の放棄などではなく、戦闘である。戦いだ。戦わなくては勝てない。逃げるが勝ちというのもあるが、それは戦略的撤退といって、ある意味での戦いだ。
ただ、そんな戦いが発展する前に対処するのが、本来賢い生き方である。「賢い」ことが、少年漫画的には、「悪い大人」的に描かれる場合もあるが、それはミスリードである。賢いことは正しい。簡単だ、楽しいのと苦しいのはどっちがいい? 楽しいのだ。では、賢いのと愚かなのはどちらがいい? 賢いのだ。以上証明終了、だ。
いや待ってくれ、愚かなこともある意味幸せな場合がある、と?
そう、それは、僕がずっと書き続けていることの一つでもある。「知らなくてもいいことがある」というわけだ。それはそうだ。だが、もうまさに、目の前に迫った転機、機会、事象に対して、さぁもう知らなかったことにはできないのである。
擬宝珠の説明から離れたな。
――と書いてきたことで、大分もう、気持ちとしての整理はついた。
不思議なことで、特に、その異動先のこととか、具体的なサムシングは別に不要なのだ。
要は、その仕事に対して自分がどう立ち向かうかの「姿勢」の問題であり、そこで実際何をするかは、その場で、その時間で対応していくことであるのだ。逆に、今できることは、その「姿勢」の確認程度しかない。
その、予想される仕事の内容に関する関連情報を調べるとか、そこに属していた経験のある人から情報を聞くとか、体調を整えるとか、様々やるべきことはあるが、そうした個々の行動の上に立つものが、「気持ち」だと思う。
心とは、しなやかであったほうが、ストレス耐性が強いとされる。
ストレスフリーな世界が望ましいとされる現代と反するが、しかし、しなやかさという表現においては、「意志」が感じられない。
何かなそうという、強固な意志、決意。動機。
本来、そういったことを、友人や家族、同僚たちと話し合うべきなんだろうか。
しかし、しかし、しかし……。
どうにも苦手だ。何故か。弱みをさらすようなものなのか。信頼していると口では、思考では思っていても、他者という存在を身体が拒否しているのか。過去に諸々あった事柄が、雲のように曖昧模糊としながらも、じわじわと僕の身体にまとわりついているからなのか。
(かっこ書きである。ブログのエディタに、文字数チェッカーがついていたらいいな。もしくは、ワードに貼り付けながら書いたほうがよいか。まぁどちらにせよ、強制的にアプリケーションが落ちて消えてしまうということは何度も経験済みだ。小まめなバックアップが何より大事。ところで、このかっこ書きの手前までで、約3000字である。以前、1000字ぐらいにおさめたらどうか、ということをやっていた気がするが、ちょうどいいのは3000な気がする。口頭(早め)で1分で話せるのが、400字ぐらいということなので、7~8分ぐらいだろう。これを口頭で聞いたらどうか。10分を、一方的に話されたら、たいてい人はうんざりする。会話とは、おそらく、30秒~1分程度の短い内容の応酬なのだと思う。ストップウォッチ片手に今度はかってみようかな(冗談)。一方で、文章で(3000字)書くと、これも推測だが、30分~1時間程度だと思う。ということは、口頭の方が断然情報効率は良いはずなのである。が、僕はそうは思わない。そういう面もあると思うが、文章にするにはするで、「残る」という意味が大きい。それと、口頭で言ったことって、実際問題相手に伝わっていないという可能性が大いにあるだろう。「頭の回転が速い人」とかいう表現があるが、あれは、話題となる事象についての予備知識・本知識があるからである。または類縁する内容について知っているか。もちろんそれらを瞬時にカテゴライズし、発言に結び付ける能力の速さはあるだろう。しかし、どんなに頭の良い人でも、回転が速くても、門外漢の話題にそこまでの能力は発揮できない。――というのはどうでもいいか。何だろうその、新しい環境になることに対しての不安の描写だったわけだが、上手く書ききれたのだろうか、分からない。分からないが、3000字超えたら機械的に投稿しよう。きっと何かは表現できているはずだ)
前書き
転機、というのは、しばしば運命的に降りかかるものである。これは、自らの行動で引き寄せるものもあれば、まったく無関係のところから湧いて出てくることもある。
しかし何れにせよ、どちらも、自分の身に起こったことだ。
それに対しての、反応は必ず必要になる。
逃げるか、戦うか、情報収集するか、呆然とするか、行動は複数考えられる。
何もしないということも含めて、行動になる。
さて、自分に起こった転機を、どう対処するか。
ここで、物語であれば、フックとなるようなイベントを提起するのだが、自分については、単に異動になりそうだということでしかない。
拒否する明確な理由もなければ、進んで異動先でやりたいことがあるわけでもない。
そういう意味では、与えられた機会だと考えて、進んで精いっぱいやるのがよいことだろうと思う。
思う、のだが、果たして、僕は、本当にそう思っているのだろうか。
これまでを振り返って
特に転職したこともないので、キャリアなんて言葉を使うと烏滸がましいが、これまで、新規プロジェクトを任されることが多かった。多かった、と書くとまた抽象的だから、具体的には3回だと思う。3回とはいえ、それぞれ3~4年だと考えると、まぁまぁの頻度だと思う。で、まぁ、一応、成功と失敗というくだらない二分で考えれば、今のところそれぞれは動いているのだから、成功と言っていいと思う。しかしすぐさま書けば、まぁまぁ、いろいろ、大変なことも多かった。――多かった、具体的に書けることは、きっと多くない。記録を探せば思い出すかもしれないが、潜在的に刻まれた「多かった」という感覚を立証する程度ではなかろう。
でもまぁ、大変だったのだ。
それで、次も大変だろうと思われる。
いやここで、「大変」という抽象的な言葉は無意味であって、じゃあ、今の所属のままであれば大変じゃないか、といえば、それはそれで大変だろうし、とはいえ、今と比べたら、大変だろうというだけだ。そして、その「だろう」は、分からないから推測に過ぎない。実は大変じゃないかもしれない。今の所属のままのほうが大変かもしれない。分からない。誰も。
相談することの無意味性
先日の、飲み会の話に関連する。先日は、その、イライラ度が高かったから過激な言葉になっていたが、別にそんな、人類の敵だと思うほどに飲み会が嫌ではないのだ。適度に、2か月に一回ぐらいあってもいいと思う(そりゃ少ないよ、と言われるかもしれんが、まぁ僕としてはそれぐらいでいい気がする)。
ただ、要は、誰に相談したところで、結局、矢面に立つのは自分だという意識が強い。
この考え方を、そもそも、心理学とか、メンタリティとか、スピリチュアルとか、行動科学とか、その他いろいろな方法では排除しようとするんだと思う。
「自分」「自分」「自分」
ってこだわることは、百害である。
自分を捨てて、公共の精神を身に着けることが、大人であり、素晴らしい人間であり、それがひいては自分のためでもある――それは分かっている。
分かっているが、凡人として、悟りの境地はまだ遠い。
その前提において、誰かに相談して、そのアドバイスが仮に大正解だったとしても、そのアドバイスを選択し、行動するのは自分だということに変わりはない。
その正解かもしれないアドバイスを得るために、誰かとコミュニケーションをするというのは大事かもしれない。
しかし、それは、時に、選択肢を広げるだけで、余計に惑う可能性があることは忘れてはならない。
他人のせいにする人がいるかもしれない。そういう人は、ある意味幸せである。
自分の責任を放棄して、相手を攻撃することに時間を使うことができるのだ。
僕は、できない。
自分の人生は自分のものだ
ちょっと違う、という人もいるかもしれない。社会のため、家族のため、子供のため、いろいろ意味はあると思う。
必ずしも、自分の人生は、自分だけのものではないのだ。
でも、自分のものでもあるはずだ。
であれば、何か起こったことを他人のせいにして、自分は悪くないと殻にこもることを僕はよしとしない。
もちろん、その「他人」を叩き潰さなければ自分がつぶされてしまうような状況であれば別だ。それは、責任の放棄などではなく、戦闘である。戦いだ。戦わなくては勝てない。逃げるが勝ちというのもあるが、それは戦略的撤退といって、ある意味での戦いだ。
ただ、そんな戦いが発展する前に対処するのが、本来賢い生き方である。「賢い」ことが、少年漫画的には、「悪い大人」的に描かれる場合もあるが、それはミスリードである。賢いことは正しい。簡単だ、楽しいのと苦しいのはどっちがいい? 楽しいのだ。では、賢いのと愚かなのはどちらがいい? 賢いのだ。以上証明終了、だ。
いや待ってくれ、愚かなこともある意味幸せな場合がある、と?
そう、それは、僕がずっと書き続けていることの一つでもある。「知らなくてもいいことがある」というわけだ。それはそうだ。だが、もうまさに、目の前に迫った転機、機会、事象に対して、さぁもう知らなかったことにはできないのである。
ちょっと役に立つかもコーナー
「擬宝珠」(ぎぼし)と読む。橋や寺社の柱の上に取り付けられた、先が尖った円形の装飾。木の腐食を防ぐ役割もあるらしい。金属のケースが多い。如意宝珠を模して(擬して)作られたという。如意宝珠とは、仏教における霊験を表す珠で、意のままに願いを叶える宝という意味があるという。それ自体が信仰の対象となる。仏像が手にもっていたりする、雫みたいなやつ。Fateの聖杯みたいなやつ(というのは僕の勝手な付け加え)。擬宝珠の説明から離れたな。
今後について
というわけで、この記事は、今後の自分の方策についての、感情的基盤を確立する意味になる。――と書いてきたことで、大分もう、気持ちとしての整理はついた。
不思議なことで、特に、その異動先のこととか、具体的なサムシングは別に不要なのだ。
要は、その仕事に対して自分がどう立ち向かうかの「姿勢」の問題であり、そこで実際何をするかは、その場で、その時間で対応していくことであるのだ。逆に、今できることは、その「姿勢」の確認程度しかない。
その、予想される仕事の内容に関する関連情報を調べるとか、そこに属していた経験のある人から情報を聞くとか、体調を整えるとか、様々やるべきことはあるが、そうした個々の行動の上に立つものが、「気持ち」だと思う。
心とは、しなやかであったほうが、ストレス耐性が強いとされる。
ストレスフリーな世界が望ましいとされる現代と反するが、しかし、しなやかさという表現においては、「意志」が感じられない。
何かなそうという、強固な意志、決意。動機。
本来、そういったことを、友人や家族、同僚たちと話し合うべきなんだろうか。
しかし、しかし、しかし……。
どうにも苦手だ。何故か。弱みをさらすようなものなのか。信頼していると口では、思考では思っていても、他者という存在を身体が拒否しているのか。過去に諸々あった事柄が、雲のように曖昧模糊としながらも、じわじわと僕の身体にまとわりついているからなのか。
(かっこ書きである。ブログのエディタに、文字数チェッカーがついていたらいいな。もしくは、ワードに貼り付けながら書いたほうがよいか。まぁどちらにせよ、強制的にアプリケーションが落ちて消えてしまうということは何度も経験済みだ。小まめなバックアップが何より大事。ところで、このかっこ書きの手前までで、約3000字である。以前、1000字ぐらいにおさめたらどうか、ということをやっていた気がするが、ちょうどいいのは3000な気がする。口頭(早め)で1分で話せるのが、400字ぐらいということなので、7~8分ぐらいだろう。これを口頭で聞いたらどうか。10分を、一方的に話されたら、たいてい人はうんざりする。会話とは、おそらく、30秒~1分程度の短い内容の応酬なのだと思う。ストップウォッチ片手に今度はかってみようかな(冗談)。一方で、文章で(3000字)書くと、これも推測だが、30分~1時間程度だと思う。ということは、口頭の方が断然情報効率は良いはずなのである。が、僕はそうは思わない。そういう面もあると思うが、文章にするにはするで、「残る」という意味が大きい。それと、口頭で言ったことって、実際問題相手に伝わっていないという可能性が大いにあるだろう。「頭の回転が速い人」とかいう表現があるが、あれは、話題となる事象についての予備知識・本知識があるからである。または類縁する内容について知っているか。もちろんそれらを瞬時にカテゴライズし、発言に結び付ける能力の速さはあるだろう。しかし、どんなに頭の良い人でも、回転が速くても、門外漢の話題にそこまでの能力は発揮できない。――というのはどうでもいいか。何だろうその、新しい環境になることに対しての不安の描写だったわけだが、上手く書ききれたのだろうか、分からない。分からないが、3000字超えたら機械的に投稿しよう。きっと何かは表現できているはずだ)
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