今日の一言「フォイがなんか気に入った」
15分で書く。何を書くかは、まだ決めていない。
ただ、仕事以外有意義な何かをしているかというと、よく分からない。年齢的に、嫁探しをした方がよいのだろうかという気もしなくもない。まったくやる気が出ない。
先日、VBAで、CreateObject関数を使った実行時バインディングと、遅延バインディングの違いについて、ようやく「理解」した。この、「知っている」状態と、「理解した」という状態の違いが、僕は結構大きいと思っている。なんとなく、「日本語の意味は分かるのだけれども、理解していないなぁ」という事象が世の中には多いと思う。僕はそういうのが気持ち悪いから、できるだけ理解したいと思う、ただ、すべてそれをするのは非常に難しい。
相対性理論も、イベントホライズンも、「超なんとなく」知っているけれども、「理解した」気分にはなれない。ただ、光速度が不変なんだな、ということと、時空は歪む(時間すらも相対的である)ということと、エネルギーとは質量と速度で表せるものなのだな、ということは「知っている」。
光速で動くと、時間の進みが遅くなるというのも、不思議なことだなぁと思う。長さも縮むようだ。これはもっとよく分かっていない。
ただ、政治の世界でも教育の世界でも、極端はよくない、という歴史だと思う。
そういった界隈がどうこう、はあまり興味はないが、ただ、物事の理解について、「知識」は必要になるとは思う。
いくら、「考える力」が大事だとはいえ、それを考えるための知識は必要だろう。
そういう意味で、学びを放棄したときに、人の成長も止まるといってよいだろう。
だがすぐさま書いておかなければいけないのは、「成長」が必要なのか、という点である。いや必要だろう。いくら肉体労働だけしていればよいとしても、その体は鍛えられて強くなっていったほうが「効率的」になるだろうし、例を挙げるのに暇はないだろう。
効率化、ということについては、どんな界隈でも、そう――例えば子育てといった、効率とは無縁なところでさえも、「不要だ」という論調にはなりにくい気がする。表立って効率的に子供を育てよう、という人はいないかもしれない。しかし、より効率的に優秀な子供が育てられるメソッド(方法)があれば、そっちに飛びつくことだろう。我が子のため、に。
サピエンス全史をもう一度読み返すかな。
農耕を発明した人類は、果たして幸せになったのか。
コンピュータを発明した人類は、果たして幸せになったのか。
いや、僕自身は、インターネットは、素晴らしい発明だと思うけれどもね。だってそうでもないと、こんな風に、「よくわからないうっくつしたぐちともなきごとともいえる」ことを徒然に書くことすらできなかったろうし。
まえがき
「ふぉい」とは何なのか。実は知らない。元ネタがあるのかも知らない。ハリーポッターのマルフォイ氏のことだろうか。分からない。だが、森羅万象すべてのことを知ることが、必ずしも重要ではないだろう。15分で書く。何を書くかは、まだ決めていない。
内容
毎日書く、という目標が、今年の目標だった気がする。「今年の目標」という概念が、すっかり頭から消えている。取り急ぎ、ビジネススキルというか、自己啓発的な目標は新たに立てていて、4月から3か月以内に達成する予定である。その準備は少しずつ進めているので、「何もしていない」というわけではない。ただ、仕事以外有意義な何かをしているかというと、よく分からない。年齢的に、嫁探しをした方がよいのだろうかという気もしなくもない。まったくやる気が出ない。
先日、VBAで、CreateObject関数を使った実行時バインディングと、遅延バインディングの違いについて、ようやく「理解」した。この、「知っている」状態と、「理解した」という状態の違いが、僕は結構大きいと思っている。なんとなく、「日本語の意味は分かるのだけれども、理解していないなぁ」という事象が世の中には多いと思う。僕はそういうのが気持ち悪いから、できるだけ理解したいと思う、ただ、すべてそれをするのは非常に難しい。
相対性理論も、イベントホライズンも、「超なんとなく」知っているけれども、「理解した」気分にはなれない。ただ、光速度が不変なんだな、ということと、時空は歪む(時間すらも相対的である)ということと、エネルギーとは質量と速度で表せるものなのだな、ということは「知っている」。
光速で動くと、時間の進みが遅くなるというのも、不思議なことだなぁと思う。長さも縮むようだ。これはもっとよく分かっていない。
知識の多寡
つめこみ教育の弊害、ということが、叫ばれるようになって、ゆとり教育が叫ばれて、やっぱりゆとり教育の弊害と叫ばれて、今に至る、という状況だと思っている。何年何月からどうこう、という年号は全然覚えていない。ただ、政治の世界でも教育の世界でも、極端はよくない、という歴史だと思う。
そういった界隈がどうこう、はあまり興味はないが、ただ、物事の理解について、「知識」は必要になるとは思う。
いくら、「考える力」が大事だとはいえ、それを考えるための知識は必要だろう。
そういう意味で、学びを放棄したときに、人の成長も止まるといってよいだろう。
だがすぐさま書いておかなければいけないのは、「成長」が必要なのか、という点である。いや必要だろう。いくら肉体労働だけしていればよいとしても、その体は鍛えられて強くなっていったほうが「効率的」になるだろうし、例を挙げるのに暇はないだろう。
効率性について
だが、「効率的」が必ず必要なのか。効率化、ということについては、どんな界隈でも、そう――例えば子育てといった、効率とは無縁なところでさえも、「不要だ」という論調にはなりにくい気がする。表立って効率的に子供を育てよう、という人はいないかもしれない。しかし、より効率的に優秀な子供が育てられるメソッド(方法)があれば、そっちに飛びつくことだろう。我が子のため、に。
サピエンス全史をもう一度読み返すかな。
農耕を発明した人類は、果たして幸せになったのか。
コンピュータを発明した人類は、果たして幸せになったのか。
いや、僕自身は、インターネットは、素晴らしい発明だと思うけれどもね。だってそうでもないと、こんな風に、「よくわからないうっくつしたぐちともなきごとともいえる」ことを徒然に書くことすらできなかったろうし。
あとがき
(かっこ書きである。15分制限のところを、20分ぐらい書いてしまった。そのためかっこ書きはなし)PR
ねんのため。まぁ、たぶん、書き間違えだと思ってます。