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何のために生きるのか
2016/09/24 21:21 | Comments(0) | 思考及び書くこと
なんだかとても「さみしく」なって、僕と同じようなことを「思う」人はいないものかと、ブログやらサイトやらを巡っていた。

「自殺サークル」という映画邦画から、「GHETTO」というサイトを見つけたり。

何のために生きるのか・・・

何のために生きるのか、人生の意味を探し続けています。最近はやっぱり人生に意味はないのではないか、生きることに意味がないなら早く死んでしまった方が得なのではないかと思ってしまっています・・・
http://ameblo.jp/taitakau-tan/

こちらのブログを見つけたり。
「人工知能」「アカシックレコード」「仏教」「人生の意味」など、キーワードからして面白い。

特に、「妄想」という記事が気に入った。
http://ameblo.jp/taitakau-tan/entry-12118066213.html
人生に希望を持つのは妄想なのだろうか・・・将来に期待を持ちながら人は生きているが、その期待は一体何の意味があるのか?むしろ、困難や失望が待ち受けていることが多いだろうし、何より、期待が成就されても「だから何なんだ?」という虚しさが待ち受けている。

子を持つ親なら、子の為に色々一生懸命になるであろう。自分自身の将来のことよりも、子供の為に献身的に世話し、子供が将来幸せに偉大な人になってくれることに夢を託す。しかし、それも、妄想に過ぎない・・・

子供もいない未婚独身者なら、自分自身のためにあれやこれや日々の暮らしをエンジョイすることだろう。友達付き合いを大事にし、人脈がネズミ算的に倍々に広がることに嬉々とする。まるで、ニューロンのネットワークのように・・・まるで側坐核の報酬系を刺激されて、ドパミンもしくは神経成長因子を分泌させることに没頭するかのごとく。脳に電極を埋め込まれたラットのように。覚醒剤中毒者のように。
なるほどなるほど。

>「とここまで考えておきながら、妄想について完全に勘違いしてたことに気づいた。」

!!
それは、病的な妄想と、正常の妄想があるということだ。病的か正常かの境目は、単純だ。現実生活に害があるかないかだ。

>子供の幸せの為に子育てを頑張ることのどこが有害か?
自分の夢実現の為に人生を前向きに意欲的に頑張ることのどこが有害か?
努力・前向き・意欲的なことはそれ自体は良いことだと思う。有害どころか、これが人生の目的と言ってもいいのかもしれない。

なるほどなるほど。

>「しかし、しかし・・・」
この最後の、「しかし」と続く流れがよい、面白い、ただではすまない。

共感

面白い、非常に良い記事だ。
僕も全面的によく分かる、と思う。その「わかる」の解釈など、捨ておいていい。ただ、間違いなくこの作者と感覚を「共有している」感覚を感じられる。
僕に共感されたところで、嬉しくないだろうが……と、すぐさま思うのが僕だが、そういったことを指摘した記事などもあって、本当に面白いと思った。

面白い、と書くと、上から目線でバカにしてる、と思うのだろうか。しかし、他によい表現が浮かばない、というよりも、むしろそんなことを書いているより、もっと書きたいことがある。

やっぱり、僕が考えている、感じていることなど、大したことではないということである。

この「大したことない」としてしまうと、そのブログの作者さんへの批判にもなってしまうが、そういう意味ではなくて、ジョルジュ・バタイユさんが「この問題に取り組む世界で最初の最後の男のような気持ち」と表現しているようなこと、そんなことは全然ない、ということだ。

やっぱり、僕は、ただの凡人であるということ、そのことが実感できる体験になったことは良いことだ。
そして、「じゃあ、今すぐ思考とか、生きる意味とか、そんなくだらないこと投げ捨てて人生楽しもうZE☆」という方針が、ああ、なんて無謀で、表層的なことなのだろうと思うのだ。

救済

先に上げたブログの作者さんは、見えない何かに苦しんでいる。いやはや、その「苦しみ」が、例えば彼女ができないことだとか、お金が足りないことだとか、身体の不健康のことだとか、原因は全く分からない(そもそも年代が分からない。年上かも、年下かかも)。

きっと、それなりに、生活を、人生を、送れているのだろうと思う。

ただ、断言できるのは、「苦しんでいる」ということだ。
遊びで、あんな表現はつくれないと思う。一つの記事ぐらいなら、僕も頑張れば架空のものとしてつくれるけれども、「量」という数値基準からして、単に冗談で表現を続けることはできない。

そして、それを分かってくれるひとは、周囲にはそれほどいないのではないだろうか。



しかし、僕は「分かってやれる」。その苦しみが何なのかが「分かる」。


そして、次の瞬間気づく。
ああ、僕はなんて無力なんだ、と。

彼(彼女?)を救うすべが、僕にはないのだ。

ただ、寄り添って、頭をなでてやることしかできないだろう。言葉などないのだ。
その透明な枷をはずしてやることはできない。

表現

しかしだ、そうは言っても、やっぱり、「言葉」が必要なんじゃないかと思う。
そもそも、ここまで、カッコつきの「わかる」という表現を繰り返してきたが、そうはいっても、その「分かる」ってのを、どうやって伝えるかという問題が、まず現実として立ちはだかる。

僕が、そのブログの作者さんに、感動した気持ちを伝えたいと思っても、その伝えるすべが見つからない。

コメントを残そうとも思った。

「あなたの記事に感動しました。応援しています。これからも頑張ってください」

え? 生きる意味がないなら死んでしまった方が「得」という思いすらよぎる人が、何を「頑張る」というのだ。
バカげたコメントだ。僕はコメント画面をひっそりとバッテンボタンで閉じる。


一つ、重要なことだと、自分にとって役に立った、有益だと感じたのは、自分のブログが他者からどう見えるかという一面である。
僕の女心のように、秋の天気のようにコロコロ変わる気持ちであったとき、陰鬱な瞬間はその一ワード一ワードに感動を覚えるだろうし、陽気なときは「うじうじ書いてるなんて気持ち悪いな」と思うだろう。

で、僕の場合はその「キモチワルイ」と「カンドウ!」が同居するが、たいていは、そのどちらかに統一された感覚を抱くことだろう、と。


そして、この記事は何となく面白くないだろうと。
ただ、それでも、よい作品を見つけた、ということで、メモ投稿。





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