体調が悪いのはおいておいても、精神的にささくれだっている。
仕事が原因、としておこう。たぶんそれ以外にもありそうだが。
とりまず、攻殻機動隊ARISEの二巻三巻をみたこと、ガンダム劇場版二巻哀戦士をみたこと、一人小旅行は一日ほぼ費やしたが楽しかったこと、メモ。
いつも、冗長なほど、言葉が出てくるのに、何も浮かばない。ただ、腹痛とか、目の重さとか、身体のだるさとか、頬骨の痛みとか、そんなつらさが続く。
思うに、Facebookとかで、こんなことばかり書いていたら、間違いなく知り合いはますます知り合いと化して、友人は知り合いと化していくであろう。
にもかかわらず、何故、書くのか。
有用な情報以外は淘汰されるという、Google先生の世界への反逆だ。
なんでも効率化させて、役に立つことの純度を高めて、くだらないこと、不必要なものはどんどん切り捨てていく。
ああ、じゃあ、これまでの世界がそうではなかったか?
たぶん、もっとひどかった。
奇形児とか障害者の共生とか、重要なことだろうが、指が六つ生えていたら山に捨ててしまうということなんて、珍しくなかったろう。
高齢化問題も、姥捨て山が解決してくれていた時代もあるのではないか。
そうしていけば、現代の、日本の、僕たちの生きる時代に問題を帰することはできないのではないか。
そんなことは誰もが分かっているだろう。問題はそこにない。時代論が正しいか正しくないか、現代先進国日本が美しいか幸せかという問題も些末に過ぎない。
いま、まさに、ここに、この瞬間に感じ、生きている自分、それだけが唯一の問題なのだ。
しかし、こんな陳腐な表現では、なんら、生きる意味を徹底して、など考えられていない。
この瞬間の自分というものを大切にしようとしたとき、その自分とは、そして、大切にするとは何か。
とうて、問うて、問いの中に、その答えはあるのか。
あってもなくてもいい。とにかく、真剣に生きてみろってんだ。
そして笑えることに、またしても、真剣、とか、抽象的な言葉に陥るのである。
こうして、思考もどきをやっていると、これは、最近の問題のようにとらえられる。
しかしそれは誤りである。
初恋のひとと相思相愛になれなかった十代前半から、おそらく13歳ぐらいから連綿と続く問題だ。
このブログの始まりは、2008年ぐらいだが、その時期は、反転して目的創成を成し遂げた時期である。
読んでいけば、それなりにポジティブで、それなりに不満や不幸を内包しているが、方向性はプラスである。
客観的な状況を、一次関数の上向き方向とし、その瞬間瞬間の自己イメージを切り取ったとき、その矢印の向きがプラス方向かマイナス方向かは、一概にいえない。
たとえ、客観的な状況が、マイナス方向であっても、自己イメージがプラスであれば、自己肯定感をえられ、幸せな人生を送れるだろう。
客観的な状況が例えプラスでも、例えば、学校の成績が向上していても、親から何故100点をとれないんだと言われ続ければ、自己イメージはプラスにはならない。
なんだ簡単だ、じゃあ、自己イメージを向上させればいいじゃない。自分のできることを増やして、周囲に認めてもらって、楽しんでもらって、感謝されて、ああ、生まれてきてよかったなって、感じればいいじゃないか。
最近、ある女性と会話して、どう考えても不幸が続いてつらい思いをしているのに、いずれ起業してでっかいこと成し遂げるんだと、自信たっぷりに話しをしていたのを聞いた。
まじか、すげーぜ、かっこいい。そんな生き方もあるんだなって、感動した。
まあ、初対面の俺に、どこまで本気で語っていたのか、いまにしておもえばわならない。
むしろ、そんな強がりをみぬいて、分かってるよ、よく頑張ったな、もう、無理しなくていいんだぜ……、というと、あなただけよ分かってくれたの! 嬉しい! 抱いて!と、なるかもしれない、かっこわらい。
腹痛に悶えてしばらくしてから書き始めると、ふと思った。
こんなこと書いてなんになるんだと、思いつつ、この場所には、もう自分についてで、書き漏らしたことは無いようにする、それが徹底してという表現だと思い、であれば、書こう。
インターネットを始めとした、二次的なコミュニケーションと、物理現実の対面コミュニケーションとを敢えてわけたとき、
僕自信に対して決定的な影響を与えたのは、すべて二次的なコミュニケーションにおいてかもしれない。
親、教師、友人恋人、様々な人との交流は人格形成に間違いなく大きな影響を与えたろう。
しかしながら、人に対しての考え方や見方が変わったり、これまで言えなかったことを言えたり、自分が思いはしてもうまく表現できなかったことを見抜き伝えてくれたり、
それら、内面に大きな影響を与えてくれたのは、思えば、二次元の人だった。
もう、二ヶ月も前になるが、離婚したあと初めて会った友人と、一緒に温泉に行ってはなしをした。
大学時代ばかやって遊んだことの郷愁から、女性に関しての感じかたや考え方や。
話したことはほとんど覚えていないが、あの、共有した時間はかけがえのないものだ。
歳を取って記憶が衰えても、魂魄に突き刺さる経験だった。
だが、こうやって、このブログのように、ほとんど思考を介さずに、思いのまま、適当に書ける場所が今年の危機において生き残ったのは、二人のコメント、メールだった。
文字量は、既に二人あわせてもこの記事よりも少ない。
しかし、本当に、人に対しての不信と諦めを確定させようとした瞬間に、ああ、それでも、こんな俺にも関心をもってくれる人がいるのだと、うまい表現はできないのだが、とにかく、本当に嬉しかった。
不細工な俺がありえないが、道行く女子高生に、あ、なんかあの人かっこいいね! と言われるよりも、段違いに次元が違うほど、二人の言葉は僕に充足を与えた。
といった、こうした表現は、いつも、往々にして、あとから読むと面白くないが、まとめて他にも影響を与えてくれた人を書いておこう。
まだ、パソコンが普及し出してそれほどたっていないとき、チャットができるメッセンジャーなるアプリケーションがあった。
そこで出会った一人、彼とは、それこそ毎日のように話をして、ゲームしたり遊んだ。もちろん、リアルではみたこともない人だ。
ただ、その人には、何故か、なんでも話すことができた、チャットだが。
逆にそれゆえに、お互いの意見がぶつかりあうこともあった。
僕は、丁寧に話し合えば必ず同じ感覚や見解になるとその当時は信じて感じていたが、どこまでも話し合っても、決してわかり会えない部分はあると、何度も喧嘩してはくっついて、喧嘩してはくっついてを繰り返すうちにわかった。
次に、このブログの記事が残っている時期の一時の期間出会った人は、ソーシャルネットワークサービスで、僕が、こんな風なくだらない記事を、誰に読ませるでもなく書いていたら、突然現れて、毎日、毎日、コメントをくれるようになった。
その人のいうことは難しくて、もちまえの頑固な性格や疑い深いところで、真剣に向き合わなかった部分もあった。そのうち、その人とは絶縁状態になってしまった。
そう、この、くっついて離れて、という点が、やはり、二次元とリアルの違いだろう。
例えば大学の友人や会社の同僚は、好きだろうが嫌いだろうが、逃げ出すことはできない。
その点、二次元は、電話帳の連絡先を消すよりもっともっと簡単に、会わないことが選択できる。
この点をもって、多くの大人は、リアルな体験が何よりも大事だ。パソコンで引きこもってるなら、外に出ろ、という。
否定はしない。
ただ、事実、として、僕は、僕に強い影響を与えたのは、その批判対象の二次元だった、とただメモをする。
そんなこと言ってるから、離婚されて不幸のどん底に陥ってんだろ、ぷぎゃあ~、という批判はもっともであり、まぁ普通そう思うよな、と思う。
ただ、先にあげた、SNSで出会った方、適当にSさんとすれば、彼の、インプットとアウトプット思考派とか、二重思考とか、神視点とか、人真似と神真似とか、曖昧記憶のまま思い起こすと、今も役に立つ生き方や考え方を、言葉というより、その態度や量で示してくれた。
茫然自失のさいにコメントとメールくれた二人の方は、最高のタイミングで最高の言葉をくれた。
それでもって、ハッピーエンドで終わればいいが。
この、終わりなき物語、いな、いずれは避けられない終わりがもたらせられるこの、人生という物語は、今後どのような結末を迎えるのか。
人は、自分の未来を知ると、生きられなくなるという。ある未来を見透せる魔女が言った。人はみな、自分の未来を占ってほしいと詰めかけるが、いざ未来を知ると、知らなければよかったと後悔するのだと。
人生に前向きな人は、発生する事象のコントロール性が高い。お金はひとつ、自由のための手段だから、多くの人はお金をほっする。
この、誰もが認める事実を知ったうえで、敢えて僕は書いておく。
未来を知って後悔するのは現時点性が幸福である場合だ、と。
先ほど、といっても、この記事は、三日前から書き初めて、隙間時間に書き足しているが、先ほど触れた、自己イメージがプラス向きの場合は、未来を知る必要はない。その未来が例えよいものであっても、間違いなく、もっとその先は死でしかないのだ。
そうはいっても、しかし、現時点性が不幸な人は、未来があろうがなかろうが、もはや泥沼である。
逆に、未来を知った方が、まだ希望があるのでは、と思うのだ。
僕は、よくわからない、この先、どうなるか。
でも、やはり、いつもの、退屈な思考に落ち着くのだけれども、もはや、与えられた価値観など、その真実性がいかに科学的で権威的で高級で価値があるものであろうとも、そんなことはどうでもよく、ただひとつ重要なのは、実感として、その答えが、価値が、自分にとって本当に大切に思えるか。
いやむしろ、価値自体を、自ら創りだすことが、何よりも重要なのだと。
そして、最近の記事の復習をすると、その、価値を創造するには、今は、物語が重要ではないかと、そう思うのだ。
仕事が原因、としておこう。たぶんそれ以外にもありそうだが。
とりまず、攻殻機動隊ARISEの二巻三巻をみたこと、ガンダム劇場版二巻哀戦士をみたこと、一人小旅行は一日ほぼ費やしたが楽しかったこと、メモ。
いつも、冗長なほど、言葉が出てくるのに、何も浮かばない。ただ、腹痛とか、目の重さとか、身体のだるさとか、頬骨の痛みとか、そんなつらさが続く。
思うに、Facebookとかで、こんなことばかり書いていたら、間違いなく知り合いはますます知り合いと化して、友人は知り合いと化していくであろう。
にもかかわらず、何故、書くのか。
有用な情報以外は淘汰されるという、Google先生の世界への反逆だ。
なんでも効率化させて、役に立つことの純度を高めて、くだらないこと、不必要なものはどんどん切り捨てていく。
ああ、じゃあ、これまでの世界がそうではなかったか?
たぶん、もっとひどかった。
奇形児とか障害者の共生とか、重要なことだろうが、指が六つ生えていたら山に捨ててしまうということなんて、珍しくなかったろう。
高齢化問題も、姥捨て山が解決してくれていた時代もあるのではないか。
そうしていけば、現代の、日本の、僕たちの生きる時代に問題を帰することはできないのではないか。
しかし、しかし、
そんなことは誰もが分かっているだろう。問題はそこにない。時代論が正しいか正しくないか、現代先進国日本が美しいか幸せかという問題も些末に過ぎない。
いま、まさに、ここに、この瞬間に感じ、生きている自分、それだけが唯一の問題なのだ。
しかし、こんな陳腐な表現では、なんら、生きる意味を徹底して、など考えられていない。
この瞬間の自分というものを大切にしようとしたとき、その自分とは、そして、大切にするとは何か。
とうて、問うて、問いの中に、その答えはあるのか。
あってもなくてもいい。とにかく、真剣に生きてみろってんだ。
そして笑えることに、またしても、真剣、とか、抽象的な言葉に陥るのである。
この問題は一日にして発生するのではなく
こうして、思考もどきをやっていると、これは、最近の問題のようにとらえられる。
しかしそれは誤りである。
初恋のひとと相思相愛になれなかった十代前半から、おそらく13歳ぐらいから連綿と続く問題だ。
このブログの始まりは、2008年ぐらいだが、その時期は、反転して目的創成を成し遂げた時期である。
読んでいけば、それなりにポジティブで、それなりに不満や不幸を内包しているが、方向性はプラスである。
客観的な状況を、一次関数の上向き方向とし、その瞬間瞬間の自己イメージを切り取ったとき、その矢印の向きがプラス方向かマイナス方向かは、一概にいえない。
たとえ、客観的な状況が、マイナス方向であっても、自己イメージがプラスであれば、自己肯定感をえられ、幸せな人生を送れるだろう。
客観的な状況が例えプラスでも、例えば、学校の成績が向上していても、親から何故100点をとれないんだと言われ続ければ、自己イメージはプラスにはならない。
自己イメージ
なんだ簡単だ、じゃあ、自己イメージを向上させればいいじゃない。自分のできることを増やして、周囲に認めてもらって、楽しんでもらって、感謝されて、ああ、生まれてきてよかったなって、感じればいいじゃないか。
最近、ある女性と会話して、どう考えても不幸が続いてつらい思いをしているのに、いずれ起業してでっかいこと成し遂げるんだと、自信たっぷりに話しをしていたのを聞いた。
まじか、すげーぜ、かっこいい。そんな生き方もあるんだなって、感動した。
まあ、初対面の俺に、どこまで本気で語っていたのか、いまにしておもえばわならない。
むしろ、そんな強がりをみぬいて、分かってるよ、よく頑張ったな、もう、無理しなくていいんだぜ……、というと、あなただけよ分かってくれたの! 嬉しい! 抱いて!と、なるかもしれない、かっこわらい。
仮想現実
腹痛に悶えてしばらくしてから書き始めると、ふと思った。
こんなこと書いてなんになるんだと、思いつつ、この場所には、もう自分についてで、書き漏らしたことは無いようにする、それが徹底してという表現だと思い、であれば、書こう。
インターネットを始めとした、二次的なコミュニケーションと、物理現実の対面コミュニケーションとを敢えてわけたとき、
僕自信に対して決定的な影響を与えたのは、すべて二次的なコミュニケーションにおいてかもしれない。
親、教師、友人恋人、様々な人との交流は人格形成に間違いなく大きな影響を与えたろう。
しかしながら、人に対しての考え方や見方が変わったり、これまで言えなかったことを言えたり、自分が思いはしてもうまく表現できなかったことを見抜き伝えてくれたり、
それら、内面に大きな影響を与えてくれたのは、思えば、二次元の人だった。
裸の付き合い
もう、二ヶ月も前になるが、離婚したあと初めて会った友人と、一緒に温泉に行ってはなしをした。
大学時代ばかやって遊んだことの郷愁から、女性に関しての感じかたや考え方や。
話したことはほとんど覚えていないが、あの、共有した時間はかけがえのないものだ。
歳を取って記憶が衰えても、魂魄に突き刺さる経験だった。
このブログとして生き残ったわけ
だが、こうやって、このブログのように、ほとんど思考を介さずに、思いのまま、適当に書ける場所が今年の危機において生き残ったのは、二人のコメント、メールだった。
文字量は、既に二人あわせてもこの記事よりも少ない。
しかし、本当に、人に対しての不信と諦めを確定させようとした瞬間に、ああ、それでも、こんな俺にも関心をもってくれる人がいるのだと、うまい表現はできないのだが、とにかく、本当に嬉しかった。
不細工な俺がありえないが、道行く女子高生に、あ、なんかあの人かっこいいね! と言われるよりも、段違いに次元が違うほど、二人の言葉は僕に充足を与えた。
といった、こうした表現は、いつも、往々にして、あとから読むと面白くないが、まとめて他にも影響を与えてくれた人を書いておこう。
チャット
まだ、パソコンが普及し出してそれほどたっていないとき、チャットができるメッセンジャーなるアプリケーションがあった。
そこで出会った一人、彼とは、それこそ毎日のように話をして、ゲームしたり遊んだ。もちろん、リアルではみたこともない人だ。
ただ、その人には、何故か、なんでも話すことができた、チャットだが。
逆にそれゆえに、お互いの意見がぶつかりあうこともあった。
僕は、丁寧に話し合えば必ず同じ感覚や見解になるとその当時は信じて感じていたが、どこまでも話し合っても、決してわかり会えない部分はあると、何度も喧嘩してはくっついて、喧嘩してはくっついてを繰り返すうちにわかった。
SNS
次に、このブログの記事が残っている時期の一時の期間出会った人は、ソーシャルネットワークサービスで、僕が、こんな風なくだらない記事を、誰に読ませるでもなく書いていたら、突然現れて、毎日、毎日、コメントをくれるようになった。
その人のいうことは難しくて、もちまえの頑固な性格や疑い深いところで、真剣に向き合わなかった部分もあった。そのうち、その人とは絶縁状態になってしまった。
そう、この、くっついて離れて、という点が、やはり、二次元とリアルの違いだろう。
例えば大学の友人や会社の同僚は、好きだろうが嫌いだろうが、逃げ出すことはできない。
その点、二次元は、電話帳の連絡先を消すよりもっともっと簡単に、会わないことが選択できる。
この点をもって、多くの大人は、リアルな体験が何よりも大事だ。パソコンで引きこもってるなら、外に出ろ、という。
否定はしない。
ただ、事実、として、僕は、僕に強い影響を与えたのは、その批判対象の二次元だった、とただメモをする。
そんなこと言ってるから、離婚されて不幸のどん底に陥ってんだろ、ぷぎゃあ~、という批判はもっともであり、まぁ普通そう思うよな、と思う。
ただ、先にあげた、SNSで出会った方、適当にSさんとすれば、彼の、インプットとアウトプット思考派とか、二重思考とか、神視点とか、人真似と神真似とか、曖昧記憶のまま思い起こすと、今も役に立つ生き方や考え方を、言葉というより、その態度や量で示してくれた。
茫然自失のさいにコメントとメールくれた二人の方は、最高のタイミングで最高の言葉をくれた。
そしてもっと
それでもって、ハッピーエンドで終わればいいが。
この、終わりなき物語、いな、いずれは避けられない終わりがもたらせられるこの、人生という物語は、今後どのような結末を迎えるのか。
人は、自分の未来を知ると、生きられなくなるという。ある未来を見透せる魔女が言った。人はみな、自分の未来を占ってほしいと詰めかけるが、いざ未来を知ると、知らなければよかったと後悔するのだと。
人生に前向きな人は、発生する事象のコントロール性が高い。お金はひとつ、自由のための手段だから、多くの人はお金をほっする。
この、誰もが認める事実を知ったうえで、敢えて僕は書いておく。
未来を知って後悔するのは現時点性が幸福である場合だ、と。
先ほど、といっても、この記事は、三日前から書き初めて、隙間時間に書き足しているが、先ほど触れた、自己イメージがプラス向きの場合は、未来を知る必要はない。その未来が例えよいものであっても、間違いなく、もっとその先は死でしかないのだ。
そうはいっても、しかし、現時点性が不幸な人は、未来があろうがなかろうが、もはや泥沼である。
逆に、未来を知った方が、まだ希望があるのでは、と思うのだ。
僕は、よくわからない、この先、どうなるか。
でも、やはり、いつもの、退屈な思考に落ち着くのだけれども、もはや、与えられた価値観など、その真実性がいかに科学的で権威的で高級で価値があるものであろうとも、そんなことはどうでもよく、ただひとつ重要なのは、実感として、その答えが、価値が、自分にとって本当に大切に思えるか。
いやむしろ、価値自体を、自ら創りだすことが、何よりも重要なのだと。
そして、最近の記事の復習をすると、その、価値を創造するには、今は、物語が重要ではないかと、そう思うのだ。
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