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不安を幸福に変えるとは何か
2016/09/23 08:14 | Comments(0) | 思考及び書くこと
僕の試みは、果たして実を結ぶものなのか、分からない。ただの徒労なのか。いや、世界が残酷で、そして美しく、苦しみもありながら多幸感に満たされて心の安らぎを得ていくことが至上命題であることは疑いようがない。

であれば思考に何の意味があるのか。

その問いに、僕は常に答え続けなければいけない。その答えはその時々できっと変わってしまうほどに脆弱に過ぎないが、今回は、その現実と、自分自身とのか距離を縮めるために必要だとしよう。

さて、タイトルに戻り、不安について考える。
バタイユさんは、不安を、前出書のP.89において、至福に変えるという。

不安は、煽りこそできるが、他者の中に生じさせることはできない。
不安が生まれるのはチャンスだ。しかし、意気地のなさにより、不安をごまかそうとすると、より惨めになるだけだが、そのチャンスは失われるのである。

己の不安の深みにいく代わりに、ぺちゃくちゃと不安の囚われを話すことは、品位を失わせ苦しみを少しも和らげないだけである。


不安の深みに行くこと



ところで、本の読み方として、精読はする必要がない、エッセンスだけ読み取ればよい、というものがある。

否定はしないし、基本的にそんな読み方をするが、ただし、それを全面的に受け入れ従う必要もまたない。

いい機会だから、この作品、内的体験は、じっくり読んでみようと思う。

とはいえ、これは三部作の中編なのだという。エロティシズムの方が扇情的に有名という。

しかし、恐らく、今の僕は、いわゆる答えを求めているのではない。冒頭に書いたとおり、答えなど明らかなのである。

意味に到達するのは、決して、答えが重要なのではない。思い返せば、既に答えには、精神充足こそが人間存在の求めるところだと看破したギリシアのエピクロスの言により十代半ばに分かっていた。しかしその答えは、常々、役にたたなかった。いやむしろ、徐々に精神を磨り減らしていったのかもしれない。その所謂快楽主義は、現実の不条理さや思い通りへのならなさ、苦しみに対して赤子のように無力であった。

ここで、同じように、何か分かりやすい答えを求めて失敗するのも一興かもしれないが、短い人生においてその選択をする気持ちには単純になれない。

確かに、答えを求めなく、広大な表現の海原に帆を立て進むのは于遠で果てなきことに思える。

それはどこか、一点に集束するのではなく、むしろ混沌と混迷に進むだけかもしれない。


このことが、不安をはぐらかすことなく、その深みに向かうということと、僕は理解する。


思考とその向かう先



一ページにも満たない部分の解釈だが、こんな読み方とアウトプットをしていたら、いつまで経っても読み終わらないかもしれない。

ただ、重要なのはアウトプットにおもえる。

何となく読み進めることは可能になったけれども、きっと、僕の乏しい記憶力では、次から次へと大切なものがこぼれ落ちていくことだろう。

無気力



問題は、最近訪れる、無気力さんだが、彼女とどう付き合っていくか。
彼女は、常に陰鬱な表情と雰囲気を醸している。目には力がなく焦点が定まらず、長く枝毛が多い黒髪と丸まった背筋。

彼女の存在は、僕に、目肩の重さと鈍重な頭痛を与える。そうすると、体に杭を打ちこまれたかのように、布団から身を起こすことができなくなる。

その身体的な苦痛は、すぐさま思考へも及び、深い闇に落ち込むように何事への価値をも見いだせなくなっていくのだ。



しかし、僕もいけなかった。
彼女に、何の言葉もかけてやれなかった。ただ、自分の身体的な苦痛にもだえるだけで、彼女を理解しようと努めなかった。

今度、彼女がまたやってきたら、声をかけてやろうと思う。

それは、決して、拒絶ではならないだろう。

無気力。
言葉は恐ろしいが、可能性として、それはまた僕には必要なことかもしれないのだ。

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