今日の一言「講義出席1回約3万円」「お金がかかると投資対効果を思ってしまう悪しき心なりけり」
それで、納得できない部分は大いにせよ、中々良い本だというのは変わらなそうなので、ちょっと、理解の助けになるかなぁと、「ロゴセラピー」とか「実存分析」というキーワードでネット検索を試みてみた。
すると、おお、何やら、ロゴセラピー協会なるものがあるではないか。やっぱり、かなりけっこう主流な考え方なんだなぁ。どれどれ。
「ロゴセラピーとは、ヴィクトール・エミール・フランクルの提唱する、『人生の意味を問うのではない。』『人生が自分に何を求めているのかを知る必要がある』『人生に求められる責任を果たせ』という精神療法である」
うーむ……、多分、この紹介文では、僕は一切興味を惹かれなかった。そのA~Cのライセンス認定とかあって、お医者様とか、看護師さんとか、カウンセラーとか、コンサルタントさんとか、そうそうたる職業の人たちが、「ロゴセラピーは素晴らしいです」と意見をしているのだが、多分、最初に僕はこれを見ていたら、よくあるスピリチュアル系なうんたらと同じだと思って、感情的に倦厭していただろう。
だから、「出会い」って重要だと思う。
僕は、「巨匠を老害と呼ぶために」この方のこの記事に最初に出会っていたから、ロゴセラピーというかフランクルさんについて、なんだなんだ、すげー面白そうだぞ! と思った。
(まぁ上の記事の方は批判記事なわけだが。でも、実際に「人間とは何か」を読み進めてみて、上の方の分析というか読解が相当綿密であることが分かった。その上で、「自分はここが問題点、足りない点だと思う」というのは、非常に良い批評文である。見習いたい)
ただ、やっぱり、「とっかかり」というのは大事だと思う。レビューを読んで、面白そうだなと漫画とか映画とか小説とかみることもあるだろう。
特に、難しい内容とかだと、一度大筋をおさえることは重要である。便利なのは、wikiとかだが、それよりも、信頼できる人の書いたレビューの方が、よほど分かりやすかったり、役に立ったりする。
上に挙げた方の他の記事も結構面白くて、機会があれば読んでみたいと思っている。
こんな良質な情報を、インターネットでは取得できて、学ぶこともできる。に対して、対面的なセミナーが、絶対的に必要なんだろうか? と、僕はふと思ってしまう。いやぁ、確かに、そういう場にいけば、出会いなどもあって、人脈も広がって、そうやって人は生活しているのかもしれない。
けれども、今、昨今特に、僕は、休日はゆっくりさせてくれ! と思っている。
まぁ、もともとこの傾向はあったもんだ。ただ、「ダメなこと」ということで、積極的に封じ込めていた感情というか、行動であった。ので、飲み会も、友人からのお誘いも、積極的に参加したりしていた。――今は、積極的に断っている。何をしているかと言えば、本を読んでいる。筋トレストレッチしている。音読をしている。部屋の片づけ、思考の整理をしている。ダメな大人だ!!
平日、特に感じるのだが、仕事が終わって帰るとき、もうほんと、「ああ、誰とももう話さなくていいんだ……」と非常に解放感になる。
家に帰ると、あたたかな家庭が……恋人が……、子どもが、両親兄弟が……、と、一切望んでいない。
兎に角、一人でいられることに「幸せ」を覚える。(ただ、このブログに関係する関係においては、まったく枷になっていない。時おり落ち込むこともあるけれど、むしろそこから得られる刺激は非常に嬉しいものであり、充実したものに思える)
まずもって、このブログが一つの証左である。100%孤独状態を欲するならば、何故書く? 何故コメントに返信をする? 何故サイトを運営する? おかしいだろう、一人ただ、ご飯を食べて、寝て、遊べばいい。ただ、その「遊ぶ」とは何ぞや? ゲーム? なるほど、黒い砂漠というゲームをやっているのか、それは楽しかろう、それは何というジャンルか? MMORPG? なるほど、RPGということは、「人と関わる」ゲームというわけだな。ということは、そもそも、人と関わることを、完全に拒絶しているわけではないのだな?
これは、恋愛シミュレーションゲームに嵌るオタクを想像してもよい。二次元最高! といって、現実の三次元女はクソ、と断罪する気持ちは分からなくもない、というか、それはある面で真理だろう(例えば、顔も収入も性格もよくない男が、美少女を娶ることを欲しても、それは激しい絶望しか生まないだろう)。
ただし、本当に、そこで、「諦める」ことを、「正」としてよいのか?
それについては、十分に検討する必要がある。その上での結論であればよい。ただし、その「美少女ゲーム」において求める審美や耽美といったものを、実現させることを求めないでいてもよいのか、ということである。
ただ、「俺はぶさいくだから彼女も友人もできないんだ」「俺は低収入だから結婚できないんだ」ということを言うときに、その反例もまたいくらでも挙げられる(不細工でも彼女ができる人はいるし、低収入でも結婚している人はいる)し、それにもまして、もう一つ、そういった「諦め」をする人たちが、見落としていることがある。
それは、不細工だとか低収入だとかいう個々の要素について、それが永続的で、絶対的な理由になるということを、何故確信しているのか、ということである。
繰り返しになるが、これは一般論などではない。
「俺は、モテなかったけれど、彼女できたぜ」と友人に言われたとして、彼女が一度もできたことのない人が、「じゃあ自分も!」と思えるかどうか、これはもう、運命的偶発的なものに過ぎない。そのような人たちは、他者の成功が、自分自身の成功に結び付くとは、一切思えないのである。
で、あるにも関わらず、自らの人生を、自分のものとして引き受けるということを、何故可能になるのか?(イケメンを除く)
つらく、苦しい状態であっても、充実した人生を送れるようになることを、何故信じることができるのだろうか?(イケメンを除く)
そういった状態においてもなお、「生きる意味はあるのだ」「人生それ自体が意味を、他ならない貴方に求めているのだ」という言葉を、僕に、どのように届けてくれるのか。フランクルさんには期待しているところである。
(というかそもそもそのセミナー、みんなフランクルの本を少なくても2冊以上は読んだことがある人ばかりらしい! 結局もって、ある程度インプットがないと、他者の言葉など頭に入ってこないのである。だから、自分で勉強できない人が、他者から何か学ぶ、ということをあまり僕は信じていない)
ロゴセラピストなる資格
V.E.フランクルさんの「人間とは何か」を、270ページまで読み進める。ふう。これで、何とか、目標は達成できそうだ。それで、納得できない部分は大いにせよ、中々良い本だというのは変わらなそうなので、ちょっと、理解の助けになるかなぁと、「ロゴセラピー」とか「実存分析」というキーワードでネット検索を試みてみた。
すると、おお、何やら、ロゴセラピー協会なるものがあるではないか。やっぱり、かなりけっこう主流な考え方なんだなぁ。どれどれ。
「ロゴセラピーとは、ヴィクトール・エミール・フランクルの提唱する、『人生の意味を問うのではない。』『人生が自分に何を求めているのかを知る必要がある』『人生に求められる責任を果たせ』という精神療法である」
うーむ……、多分、この紹介文では、僕は一切興味を惹かれなかった。そのA~Cのライセンス認定とかあって、お医者様とか、看護師さんとか、カウンセラーとか、コンサルタントさんとか、そうそうたる職業の人たちが、「ロゴセラピーは素晴らしいです」と意見をしているのだが、多分、最初に僕はこれを見ていたら、よくあるスピリチュアル系なうんたらと同じだと思って、感情的に倦厭していただろう。
だから、「出会い」って重要だと思う。
僕は、「巨匠を老害と呼ぶために」この方のこの記事に最初に出会っていたから、ロゴセラピーというかフランクルさんについて、なんだなんだ、すげー面白そうだぞ! と思った。
(まぁ上の記事の方は批判記事なわけだが。でも、実際に「人間とは何か」を読み進めてみて、上の方の分析というか読解が相当綿密であることが分かった。その上で、「自分はここが問題点、足りない点だと思う」というのは、非常に良い批評文である。見習いたい)
良書の要約はダメである
確か、有名な人が、そんなことを言っていた気がする。ただ、やっぱり、「とっかかり」というのは大事だと思う。レビューを読んで、面白そうだなと漫画とか映画とか小説とかみることもあるだろう。
特に、難しい内容とかだと、一度大筋をおさえることは重要である。便利なのは、wikiとかだが、それよりも、信頼できる人の書いたレビューの方が、よほど分かりやすかったり、役に立ったりする。
上に挙げた方の他の記事も結構面白くて、機会があれば読んでみたいと思っている。
こんな良質な情報を、インターネットでは取得できて、学ぶこともできる。に対して、対面的なセミナーが、絶対的に必要なんだろうか? と、僕はふと思ってしまう。いやぁ、確かに、そういう場にいけば、出会いなどもあって、人脈も広がって、そうやって人は生活しているのかもしれない。
けれども、今、昨今特に、僕は、休日はゆっくりさせてくれ! と思っている。
誰とも話したくない症候群
いやー、ダメな傾向やねんなぁ。まぁ、もともとこの傾向はあったもんだ。ただ、「ダメなこと」ということで、積極的に封じ込めていた感情というか、行動であった。ので、飲み会も、友人からのお誘いも、積極的に参加したりしていた。――今は、積極的に断っている。何をしているかと言えば、本を読んでいる。筋トレストレッチしている。音読をしている。部屋の片づけ、思考の整理をしている。ダメな大人だ!!
平日、特に感じるのだが、仕事が終わって帰るとき、もうほんと、「ああ、誰とももう話さなくていいんだ……」と非常に解放感になる。
家に帰ると、あたたかな家庭が……恋人が……、子どもが、両親兄弟が……、と、一切望んでいない。
兎に角、一人でいられることに「幸せ」を覚える。(ただ、このブログに関係する関係においては、まったく枷になっていない。時おり落ち込むこともあるけれど、むしろそこから得られる刺激は非常に嬉しいものであり、充実したものに思える)
ゲーム的思考
ただし、この、孤独を求める心性を、手放しで肯定しようとは思わない。そう、そもそも僕は限りなく「ポジティブ思考」なのである! いやまぁそれはどうでもいいが、つまり、「100%一人でいること」を求めているわけでは、決してないことを確認しておく必要がある。まずもって、このブログが一つの証左である。100%孤独状態を欲するならば、何故書く? 何故コメントに返信をする? 何故サイトを運営する? おかしいだろう、一人ただ、ご飯を食べて、寝て、遊べばいい。ただ、その「遊ぶ」とは何ぞや? ゲーム? なるほど、黒い砂漠というゲームをやっているのか、それは楽しかろう、それは何というジャンルか? MMORPG? なるほど、RPGということは、「人と関わる」ゲームというわけだな。ということは、そもそも、人と関わることを、完全に拒絶しているわけではないのだな?
これは、恋愛シミュレーションゲームに嵌るオタクを想像してもよい。二次元最高! といって、現実の三次元女はクソ、と断罪する気持ちは分からなくもない、というか、それはある面で真理だろう(例えば、顔も収入も性格もよくない男が、美少女を娶ることを欲しても、それは激しい絶望しか生まないだろう)。
ただし、本当に、そこで、「諦める」ことを、「正」としてよいのか?
それについては、十分に検討する必要がある。その上での結論であればよい。ただし、その「美少女ゲーム」において求める審美や耽美といったものを、実現させることを求めないでいてもよいのか、ということである。
自分自身を引き受けること
これは、「一般論」などではない。単に、「価値観」レベルの話しだ。誰にでも当てはまるものではない。ただ、「俺はぶさいくだから彼女も友人もできないんだ」「俺は低収入だから結婚できないんだ」ということを言うときに、その反例もまたいくらでも挙げられる(不細工でも彼女ができる人はいるし、低収入でも結婚している人はいる)し、それにもまして、もう一つ、そういった「諦め」をする人たちが、見落としていることがある。
それは、不細工だとか低収入だとかいう個々の要素について、それが永続的で、絶対的な理由になるということを、何故確信しているのか、ということである。
繰り返しになるが、これは一般論などではない。
「俺は、モテなかったけれど、彼女できたぜ」と友人に言われたとして、彼女が一度もできたことのない人が、「じゃあ自分も!」と思えるかどうか、これはもう、運命的偶発的なものに過ぎない。そのような人たちは、他者の成功が、自分自身の成功に結び付くとは、一切思えないのである。
で、あるにも関わらず、自らの人生を、自分のものとして引き受けるということを、何故可能になるのか?(イケメンを除く)
つらく、苦しい状態であっても、充実した人生を送れるようになることを、何故信じることができるのだろうか?(イケメンを除く)
そういった状態においてもなお、「生きる意味はあるのだ」「人生それ自体が意味を、他ならない貴方に求めているのだ」という言葉を、僕に、どのように届けてくれるのか。フランクルさんには期待しているところである。
(というかそもそもそのセミナー、みんなフランクルの本を少なくても2冊以上は読んだことがある人ばかりらしい! 結局もって、ある程度インプットがないと、他者の言葉など頭に入ってこないのである。だから、自分で勉強できない人が、他者から何か学ぶ、ということをあまり僕は信じていない)
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