今日の一言「知識ひけらかしたい欲求との闘い」「承認欲求と所属欲求の違いを理解した方が良いね」
いや、漫画も勉強になることはなるのである、という主張なわけではなくて。
老子の言葉ということだけれども、これが実は誤訳で、
天網恢恢疎にして失わず
というのが、正しい訳なのではないかと、そういう記事を読んだ。
⇒法に知性と心が閉じ込められてはならない
その意味するところは、
おぉ、なるほど……、確かに、老子の思想を考えると、そちらの方がしっくりくる気がする。
ここですぐさま書かなければならないのは、その経験が、一般的に、社会に、人に、誰かに役に立つかというと、そんなことはない。結局、同語反復で、自己への無限遡及となって、ぐるぐると螺旋階段を上り下りしているようなものであったに違いない。
唯一、誰かに役立ててもらおうとするならば、「日記を書くのはいいことだよ!」としたり顔ですすめてくる人には用心せよ、ということか。「日記」といっても、これは結構奥深い。書き方も、考え方も色々ある。この記事のように、リアルタイムアウトプット(口語表現)のものもあれば、思考にインターセプトして文語化しつつ書くのもあるし、箇条書きにする場合もある。
書く前に時間や、天気、そのときの気分を書き入れる場合もあれば、「家計簿」の体をとる場合もある。
書く頻度も重要だ。毎日書くのか、文量はどうするのか。自己ルールはどうするか。一週間に一回は必ず書くようにするのか、一年スパンでみるのか。
内容、テーマはどうするか。例えばスポーツ選手がトレーニング記録を日記にしていたりするが、日常のふと思ったことまで書き留めるのかどうか。
媒体も当然重要だ。紙なのか、電子なのか。
そして、誰かに見せるのか、自分だけで、ある意味黒歴史として、墓場までもっていくのか。
こうした色んな諸条件を整理しないまま、取りあえず「日記を始めてみよう!」と思い立って、三日程度で辞めてしまう人がなんと多いことか。しかしこれは当たり前でもある。日記を始めることの目標がぶれているのである。
ただ、思い立つのは悪いことではない。取りあえず初めて見て、しっくりきたら続けるというのもありだ。特に若いうちは。若者はよいのぉ、と懐古するわけではないが、これは、単純に物理時間が多いということに過ぎない。若者だからといって、暇だというわけでは決してない。むしろ、年取った人の方が暇の可能性がある。……とこれは蛇足だった。
これは黒歴史といってよくて、そもそも、「人は」という一般的対象について考えようとしていたところにまずもって中二病である。ただ、そこはすぐさま、「自分」について目が向いていったことである(※1)。まぁそれを、現実における「困難」(※2)が契機であった、と分析したところで、それは、離人症の病因を、副腎皮質の機能障害であると診断するのと同じように表層的である(※3)。
V.E.フランクルさんの「実存的精神療法」においても提唱されていることであるが、ユーモアは、一つ神経症や精神病を和らげる方法であるという。ユーモアというのは、例えば、不眠症で、中々眠れなくて困っている人に対して、「できるだけ長く起きているようにしましょう」というものである。
これは、「自己距離化」ということで、自己に対して、より上位の考え方を与えるものである。
他者がいれば、「客観的」に見てもらえる場合があるけれども、そもそも、他者も知らない部分だってあるわけであり、そういったときは、自分自身で、メタ自分的な、より上位の思考を要求される。
この、自己自身を見つめること、によって、「何故生きるのか」「そもそも僕は何を悩み苦しんでいるのか」ということを明らかにし、解決しようという目的が、日記を書くという一つの目標であったというわけである。
果たしてこれが、本当に役に立ったのかどうか、それは、まだ判断することができない。
※1:どっかの誰かの書いたとか、言ったことによって、人は誰でも「何で俺、生きてんだろ?」みたいに思うことがある、と聞いて、「あーそういうもんなんだ、みんなそうなんだなぁ」と思ったが、実は、この疑問が浮かぶ人とそうでない人ではっきり分かれるらしい。
※2:いじめ、失恋、挫折、などなど。いくら現象的な契機を挙げて、「心理学的に」原因を追求したとしても、実存的問題は解決するとは限らない。もっとも、例えば発達障害などの診断がなされることによって、「安心」して社会生活に適応していく例もあることは知っている。
※3:V.E.フランクル「人間とは何か」P.273において、不安神経症の生理学的基礎として、内分泌系の調節障害があるとされている。右は引用:「離人症状ないし心的筋無気力症候群の背後には副腎皮質機能不全が隠れている」。
天網恢恢疎にして漏らさず
てんもうかいかい、そにしてもらさず。天(神様)は粗いようだけどちゃんと見てて、悪事は見逃さないんだよ!という意味である(注:遠藤意訳)。確か、EDENという漫画のある節話の、サブタイトルになっていた気がする。そのとき、確か高校生ぐらいだったか覚えていないが、「え、これ何て読むん? 意味は?」と思って調べたことがあったような。いや、漫画も勉強になることはなるのである、という主張なわけではなくて。
老子の言葉ということだけれども、これが実は誤訳で、
天網恢恢疎にして失わず
というのが、正しい訳なのではないかと、そういう記事を読んだ。
⇒法に知性と心が閉じ込められてはならない
その意味するところは、
「天の網は広大に拡がっていて、その網目が粗いからこそ、人(の心)を失わない」なのだという。
おぉ、なるほど……、確かに、老子の思想を考えると、そちらの方がしっくりくる気がする。
日記を書くこと
僕は何についても劣等感の塊みたいな奴であるが(――しかし、こういったことを自分で言う奴書く奴は、大抵自分自身でそう思っていないやっかいな類型である。プライドだけ高くて、いざ批判や否定をされると顔を真っ赤にして怒り始める。めんどくせーやっつだ)、考えること、特に自省ということに関しては、経験を積み重ねてきた。ここですぐさま書かなければならないのは、その経験が、一般的に、社会に、人に、誰かに役に立つかというと、そんなことはない。結局、同語反復で、自己への無限遡及となって、ぐるぐると螺旋階段を上り下りしているようなものであったに違いない。
唯一、誰かに役立ててもらおうとするならば、「日記を書くのはいいことだよ!」としたり顔ですすめてくる人には用心せよ、ということか。「日記」といっても、これは結構奥深い。書き方も、考え方も色々ある。この記事のように、リアルタイムアウトプット(口語表現)のものもあれば、思考にインターセプトして文語化しつつ書くのもあるし、箇条書きにする場合もある。
書く前に時間や、天気、そのときの気分を書き入れる場合もあれば、「家計簿」の体をとる場合もある。
書く頻度も重要だ。毎日書くのか、文量はどうするのか。自己ルールはどうするか。一週間に一回は必ず書くようにするのか、一年スパンでみるのか。
内容、テーマはどうするか。例えばスポーツ選手がトレーニング記録を日記にしていたりするが、日常のふと思ったことまで書き留めるのかどうか。
媒体も当然重要だ。紙なのか、電子なのか。
そして、誰かに見せるのか、自分だけで、ある意味黒歴史として、墓場までもっていくのか。
こうした色んな諸条件を整理しないまま、取りあえず「日記を始めてみよう!」と思い立って、三日程度で辞めてしまう人がなんと多いことか。しかしこれは当たり前でもある。日記を始めることの目標がぶれているのである。
ただ、思い立つのは悪いことではない。取りあえず初めて見て、しっくりきたら続けるというのもありだ。特に若いうちは。若者はよいのぉ、と懐古するわけではないが、これは、単純に物理時間が多いということに過ぎない。若者だからといって、暇だというわけでは決してない。むしろ、年取った人の方が暇の可能性がある。……とこれは蛇足だった。
メタ自分を考えること
僕が書き始めた理由は、「問題」解決のためであった。その問題とは、このブログのタイトルにも集約している。実際に書き始めたのは、中学、高校あたりからだったと思うけれども、そもそも「人は何故生きるのか?」という疑念からであった。これは黒歴史といってよくて、そもそも、「人は」という一般的対象について考えようとしていたところにまずもって中二病である。ただ、そこはすぐさま、「自分」について目が向いていったことである(※1)。まぁそれを、現実における「困難」(※2)が契機であった、と分析したところで、それは、離人症の病因を、副腎皮質の機能障害であると診断するのと同じように表層的である(※3)。
V.E.フランクルさんの「実存的精神療法」においても提唱されていることであるが、ユーモアは、一つ神経症や精神病を和らげる方法であるという。ユーモアというのは、例えば、不眠症で、中々眠れなくて困っている人に対して、「できるだけ長く起きているようにしましょう」というものである。
これは、「自己距離化」ということで、自己に対して、より上位の考え方を与えるものである。
まさに症状の距離化と客観化の役割は、自己をいわば不安感と「同列に」あるいはその「「上位に」置くことを患者に可能にすることにある。ユーモア以上に距離をもたらすことに適しているものは他にない。ジョハリの窓、という考え方があって、自分ってのは、他者との関係をして4つの層があるという。自分で知っていて他者も知っている部分、自分で知っていて他者は知らない部分、自分で知らずに他者が知っている部分、自分も他者も知らない部分、と。
――「人間とは何か」P.274
他者がいれば、「客観的」に見てもらえる場合があるけれども、そもそも、他者も知らない部分だってあるわけであり、そういったときは、自分自身で、メタ自分的な、より上位の思考を要求される。
この、自己自身を見つめること、によって、「何故生きるのか」「そもそも僕は何を悩み苦しんでいるのか」ということを明らかにし、解決しようという目的が、日記を書くという一つの目標であったというわけである。
果たしてこれが、本当に役に立ったのかどうか、それは、まだ判断することができない。
※1:どっかの誰かの書いたとか、言ったことによって、人は誰でも「何で俺、生きてんだろ?」みたいに思うことがある、と聞いて、「あーそういうもんなんだ、みんなそうなんだなぁ」と思ったが、実は、この疑問が浮かぶ人とそうでない人ではっきり分かれるらしい。
※2:いじめ、失恋、挫折、などなど。いくら現象的な契機を挙げて、「心理学的に」原因を追求したとしても、実存的問題は解決するとは限らない。もっとも、例えば発達障害などの診断がなされることによって、「安心」して社会生活に適応していく例もあることは知っている。
※3:V.E.フランクル「人間とは何か」P.273において、不安神経症の生理学的基礎として、内分泌系の調節障害があるとされている。右は引用:「離人症状ないし心的筋無気力症候群の背後には副腎皮質機能不全が隠れている」。
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コメント
QUWEさんの、「役に立たないって悪いことじゃないんじゃないの?」というのは、高尚な人格の持ち主だと思わせます。
いや、自己弁護じゃないですが、僕もそう思います。パレートの法則じゃないですが、7割怠けてますっていったって、その怠けた人たちも含めて組織なんだ、と思いますし、犯罪者を片っ端から削除していくことが正しいとも思えない(まぁリア充は爆発しろ!)。
ただまぁ、資本主義だからどうなのかとかは、エリートさんたちに任せますが、どうにも、無駄を省く、効率化を促進するという考え方が、物心ついたここ10年くらいでも、進んでいるかは分かりませんが、変わってはいないように思えます。
そうすると、どうにも生きづらいよなぁということ。とまぁ、そんな、社会や環境に対して云々言って時間を浪費するのは僕は好きではないのですが、どうにも、どうやって折り合いをつけていくかについては、未だ解決できていないというわけです。
心理学的には、所属とか、承認欲求的なものを充たせていないんだろうなぁと思ったりはします。
「誰か俺を認めてくれ! すごいって言ってくれ!」
と思いながら、けれども、昨今のコミュニティでは、出る杭は打たれる、ではありませが、「自分が! 自分が!」という人は逆にはぶかれる。それは同じ理由で、どの人たちも、自らの所属欲求・承認欲求を求めているからです。
んで、余計なこと書けば、そういった欲求不全の人たちを捕まえて、生きがいだー自己実現だーとかいって、ブラック的な働き方を強制させるような知能犯たちもいるのです。
なまじ、使用される本人たちも自己を見失っているので、従わざるをえないんですね。ので、健康な人たちが、「なんで死ぬ前に辞めないんだ、アホか」と思うのは、それは正常なのですが、根本的な問題として、もはやその(ブラックに働く)人は、働き方以前に(自己が)死んでしまっている(もしくは死にかけている)のだと思います。
願わくは、QUWEさんのような人格者が興した会社に就職したいですね(笑)。
と本気で思いながら、僕の悪い思考ですが、同時に、知り合いの会社経営に携わるとまずいことになる、というニュースや記事や言説なども思い出してしまって、何とも僕が行動力が無い原因だなぁと思います。
そもそも、会社とか、職業ってのは、何をしているかにかかわらず、その中でパフォーマンスを発揮しているということが……と、話が関係なくなりすぎているため、強制終了。
いや、自己弁護じゃないですが、僕もそう思います。パレートの法則じゃないですが、7割怠けてますっていったって、その怠けた人たちも含めて組織なんだ、と思いますし、犯罪者を片っ端から削除していくことが正しいとも思えない(まぁリア充は爆発しろ!)。
ただまぁ、資本主義だからどうなのかとかは、エリートさんたちに任せますが、どうにも、無駄を省く、効率化を促進するという考え方が、物心ついたここ10年くらいでも、進んでいるかは分かりませんが、変わってはいないように思えます。
そうすると、どうにも生きづらいよなぁということ。とまぁ、そんな、社会や環境に対して云々言って時間を浪費するのは僕は好きではないのですが、どうにも、どうやって折り合いをつけていくかについては、未だ解決できていないというわけです。
心理学的には、所属とか、承認欲求的なものを充たせていないんだろうなぁと思ったりはします。
「誰か俺を認めてくれ! すごいって言ってくれ!」
と思いながら、けれども、昨今のコミュニティでは、出る杭は打たれる、ではありませが、「自分が! 自分が!」という人は逆にはぶかれる。それは同じ理由で、どの人たちも、自らの所属欲求・承認欲求を求めているからです。
んで、余計なこと書けば、そういった欲求不全の人たちを捕まえて、生きがいだー自己実現だーとかいって、ブラック的な働き方を強制させるような知能犯たちもいるのです。
なまじ、使用される本人たちも自己を見失っているので、従わざるをえないんですね。ので、健康な人たちが、「なんで死ぬ前に辞めないんだ、アホか」と思うのは、それは正常なのですが、根本的な問題として、もはやその(ブラックに働く)人は、働き方以前に(自己が)死んでしまっている(もしくは死にかけている)のだと思います。
願わくは、QUWEさんのような人格者が興した会社に就職したいですね(笑)。
と本気で思いながら、僕の悪い思考ですが、同時に、知り合いの会社経営に携わるとまずいことになる、というニュースや記事や言説なども思い出してしまって、何とも僕が行動力が無い原因だなぁと思います。
そもそも、会社とか、職業ってのは、何をしているかにかかわらず、その中でパフォーマンスを発揮しているということが……と、話が関係なくなりすぎているため、強制終了。
posted by 遠藤at 2017/02/26 08:39 [ コメントを修正する ]
だって、すっげー高度な精神活動だとおもうよ、役に立たないことをするって。人間以外の生物は役に立たないことってしないしね。人間くらいだよ、生きるのに必要ないことをいろいろやっちゃうのって。これって凄いことで、「生きるのに必要ないことを出来るくらい余裕がある」ってことなんだよね。
あとは、生きるのに必要ない役に立たないことに「意味」や「価値」を持たせるのって個人的には凄いと思うんだけどなぁ・・・。精神的に凄く高度な事だと思う。
だから、役に立たないことを悪いって思う必要はないと思うんだ。