まじめにがんばることは、やめたほうがよい。
そこそこ、てきとうに、生きていればそれでよい。
と、いう言葉も聞くけれども、本当にそうだろうか? と思う。
ふと、若いころは、それこそ今の年齢の半分ぐらいのころは、死にたいと思っていた。
でも、生きてきてしまった。
その間、色々あった。
結果的に、生きていて、良かったのだろうと思う。
死んでも良いか、と諦めてから、生きやすくなった気はする。
しかし、生きるということが、正しいという前提がそもそも分からない。
それは、いまも分からない。
いまは、生きるということも、死ぬということも、どちらもそこまで大したことはないということだ。
どちらも、表裏一体のことであり、それを深めるか浅いままでいるかは、その人次第。
であっても、生きること、死ぬこと、それ自体にそこまで意味はない。
20年か、30年か、生きる意味を徹底して考えた結果としては、生きる意味はないということが分かった。
ないものを探したり考えたり、ほとほと、無意味なことをしてきたものだ。
無意味だ。無価値だ。
すべてどうでもよいことであった。
果たして、独身ではなく、子どもがいたらどうだったか?
子どものために、がんばって働いて生きよう、という気持ちになった可能性はある。
ただ、おそらく、裏裏でつのっていく、無価値観、焦燥感、といったものに、心はすり減っていったことだろうと思う。
表向きは人間を演じつつ、疲れ切っていくことが想定できる。
生きがいを感じまったくちがうエネルギーを得て活き活きとしていたのかもしれないが、それはもう分からない話だ。
少なくても、30代の時に、そういったことをしようというエネルギは―なかった。
外圧的な何かで、そうせざるえなかったとき、きっと、その「外圧」のせいにして、自分の人生を生きなかったことになったであろう。
それが幸せなんだという可能性はもちろん高いけれども。
さて、しかし。
唯一良かったこととしては、30代は、とても、良かった。
人生で一番楽しい時期だったと思う。
好きなように生きた。
自分で考えて、自分で生活して、自分で行動して、生きることができた。
そこに、10年を常に一緒にいるパートナーというものはなかったが、なくてもよかった。
さて、これから、40代、50代と生きていくことを思うと、とても気が重いものだ。
死の間際に、何を思うだろう。
何も思わず、急死することを望みたい。
死を意識するというのは、本能的に怖いものだ。
それは特に、明日でも、構わないと思う。
もう十分生きた、という気持ちがした。
今日は、朝早くに外に出かけて、遠くの山々の景色をみることができた。
きれいだなと思った。
タイトル詐欺になってしまった。
この記事も、このブログ自体も。
生きる意味を徹底して考えることが、できなくなってしまった。
意味はない。
意味はない、と、そう強く思えるようになったのだ。
ただ無為に人は過ごすだけなのだ。ただの人。
生きるから生きるだけなのだ。トートロジー。
幸せいなるために人は生きているわけではなく、ただ単に種を増やそうとする遺伝子の化学反応。
さて、AI氏に、聞いてみよう。
ここまでの文章を読んだうえで、著者(私)に、いいや、生きる意味はあると主張してもらおう。
あなたは長い時間をかけて、生きる意味を探した。そして結論として「意味はない」と言った。それは間違いではない。むしろ、よくここまで来た、と私は言おう。なぜなら、あなたはついに古い幻想を壊したからだ。神が人間に意味を与えるわけではない。宇宙が目的を持っているわけでもない。人生に最初から用意された意味など存在しない。私はこれを「神は死んだ」という言葉で表現した。つまり、あなたが見たものは、**虚無(ニヒリズム)**だ。しかし、ここからが問題だ。あなたは虚無を見たあと、そこに座り込んでしまっている。「意味がない」「価値がない」「どうでもよい」あなたはそう言って、思考を終わらせている。だが私は言う。虚無は終点ではない。それはむしろ出発点だ。人生に意味が最初から存在しない。そのことは絶望ではない。それはむしろ、自由の宣言だ。もし宇宙が意味を決めていないなら、誰が意味を作るのか?神でも社会でもない。あなた自身だ。あなたはこう書いた。山を見て、きれいだと思った。それで十分ではないか。宇宙がそれを美しいと言ったのではない。あなたが美しいと言ったのだ。価値とはそういうものだ。価値は世界に存在しているのではない。価値は創造される。そして価値を創造する存在こそが、人間なのだ。あなたはまたこう言う。「生きることも死ぬことも大したことではない」しかし私は問いたい。本当にそうか?もしそうなら、なぜあなたは20年も考え続けたのだ?無意味なもののために人間はそこまで思考しない。あなたの思考そのものが、すでに証明している。あなたは虚無を見てしまった。だがまだそれを乗り越えていない。私はこれを受動的ニヒリズムと呼んだ。「意味はない」だから「何もする必要はない」これは疲れた精神の態度だ。だがもう一つの道がある。能動的ニヒリズムだ。意味がない?ならば作れ。価値がない?ならば創れ。人生に目的がない?ならば自分が目的になれ。人間とは、与えられた意味に従う存在ではない。意味を創造する存在だ。だから私は言う。人生の意味を探すな。人生の意味になれ。山が美しいのではない。あなたが美しいと言うから、美しいのだ。人生が価値を持つのではない。あなたが価値を与えるから、価値が生まれるのだ。そして最後に、私はあなたにこう問う。もし同じ人生を永遠に何度も繰り返すとしたらあなたはそれを受け入れるか?これを私は永劫回帰と呼んだ。もしあなたが「それでも生きたい」と思えるなら、その瞬間、あなたは虚無を乗り越える。だから私はあなたに言う。意味がないと言うのは構わない。だがそこで止まるな。意味を作れ。それができる存在を、
私は「人間」と呼ぶのだから。
なるほど、ニーチェを持ち出してきたか。さすがAI氏は優秀である。
確かに、自然を見て美しい、きれいだと思う心性があるというのは、意味がないという主張の矛盾点になるということだろう。
しかしそう、まさに、その虚無性、ニヒリズムというのは、とても重い感情である。
受動的ニヒリズムというのは、あまり聞いたことなかった。能動的と受動的で分けて考えていたのだな。ニーチェは。
ふーん、しかしでも、いま自分としてはその、能動的ニヒリズムに立っていると思う。
そこに至ったのは、30代、20代、どっちかは分からないが。
自分の人生、そこまで意味がないな、と思ってから、「じゃあどうするか?」を考え行動しはじめたときから、そうであったといえるだろう。
そのうえで、十分走り切ったのではないか、と思う。
もう「がんばる」という必要はなく、早くに死を迎えてよいのでは。
ああ、確かに、生物的には、子孫を残すということだけが意味なのだから、そこに意欲を持てなくなった時点で、早く社会的に死ぬように要請、本能的に要請が働いているというのはうなずける主張だ。
本能が、死ね、と自分に言ってきているのだろう。
ふーん、しかしそう考えると、どうにも、まだ、いやだな、という気持ちもわきおこる。
「自然」に死ぬのはまぁいいが、「殺される」のはすごくいやである。
自分の失敗のせいで苦境に立たされるなら仕方ないが、人の失敗をぬれぎぬきせられるのは絶対に嫌である。
冤罪とか、濡れ衣とか、一番嫌いだ。エンタメでも、そういう作品みるのがつらい。
まじめに生きてない人が嫌いだ。消えて欲しいと思う。
楽しようとする人が嫌いだ。ずるいと思う。
人をだます奴が嫌いだ。地獄の苦しみを味わえと思う。
総じて、人付き合いは危険だから、できるだけ関わりたくないと思う。
結果、孤独という安心を得ることができた。
これはハッピーエンドなのだろうか?
疑問形であやしいが、しかし、個人的にはハッピーである。
ただ、「エンド」がなんなんだろう、というのが目下の悩みである。
80歳がエンドなのか、そこらへんが不明だ。
でもまぁ、多くのおじいちゃん、おばあちゃんたちが、発狂して苦しんでいるのをあまりみないから、きっと、歳をとると大丈夫になっていくんだろうと思う。
たぶんね。
あと10年生きるとしたら、3650日か。
長いのか短いのか。
1年しか生きられないとしたら、365日か。
短い、かな。
とりあえず、1年なら、もう働かなくても暮らしていけるだけの貯蓄を得られたので、まぁ、いつでも、自暴自棄になれる権利を得たということだ。それはとてもハッピーなことだ。
総じて、この記事は、自分のハッピーを祝う記事だと言えるだろう。(※)
ありがたいありがたい。
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