今日の一言「未定」
社会悪を多様性はどう考えるべきか
この一連の記事の最後に、いつものごとく、極端な例を考えてみよう。
人を殺すことが、命を奪うまでに残虐な拷問を加え、苦しむ姿を見ることが大好きでやめられない人がいたとする。
排除すべき悪であることは間違いないが、「多様性」の考え方は、これに対してどう回答すべきか。
前提として、ルールも、共通価値も、否定されるものではない、ということだ。
上に書いた通り、ルールも、人の偉大な発明の一つだ。
だから、人に害をなす存在は排除する、というルールはあって然るべきだろう。
しかしそれでは、ルール>共通価値>多様性(個人価値)という図式とならないだろうか、なってしまいがち、であろう。
だから、ルールは可変であるべき、ということについては、共通価値として、「教育」されなければならないと思う。逆に言えば、ルールと教育はセットでもある。だからゆえに、特定の国や価値観を排除する反教育は、全くもって下劣で理に反しているといえる。
教育は、「仕組み」を教えるにとどまるべきであって、思想の埋め込みであってはならないのだ。
いや、過去にそれが共通価値として正しい時代もあったので、過去永劫間違いであるという意味ではない。
ただ、ここまで書いてきた通り、何か一つの目的や価値に全人類を合わせる、というのは、根源的に不可能である、と思われる、ということである。
それが可能であると思う人も多いのだろうが、歴史を学んでもう少し考えて欲しいと思う。歴史が嫌いな人は、身の回りの組織や、集団(家族や、友人たちとのことだっていい。いろんな人がいなかったろうか)のことを考えて、少し敷衍できる能力があれば分かるだろう。
ここで、個人的な価値レベルと、宗教とか、資本主義とかそのレベルの大きな目的や内容であれば、共通性をもたせられると考える人もいるかもしれないが、それが、こののち数万年単位で普遍であると、どこまで信じられるかが問題である。
(かっこ書きである。未定)
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