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成長することについて
2018/11/03 12:39 | Comments(0) | 生きる意味
今日の一言「昨日の連載記事の一言とかっこ書きが書けなかった」

閑話休題

 連載の予約投稿中であったが、一つ、書いておこうと思ったので、書く。
 成長するという言葉が嫌いであった。

 10代の頃、「生涯学習」なんて言葉が流行った時期があった。
 変化に富む現代は、常に学び続けていく姿勢が大切だ、と。

 そのころ僕は「勉強」をしていたわけだけれど、どんなに頑張っても(※)学校で一番どころか平均を維持することも大変なくらいであり、しんどいと思っていた。
(※頑張るという言葉も嫌いである。そして、ゲームしたり眠くなったりとだらけてしまうことも含めて、頑張っていた、という意味である。24時間勉強していたわけではない)

 学ぶ、とか、成長するってのは、「しんどい」思いをすることだと思っていた。
 だから、勉強とか、学習とか、成長とか、そういったのが嫌いだった。

成長しない人間などいない

 しかし、今思うに、成長は、時間に対して、不可逆に起こっている。
 身体能力や記憶力(これに関してはやや疑問)は時間経過に対して衰えていくものだろう。それでも、学び続ける姿勢を忘れなければ、人は自動的に成長するものなのだ。

 社会から問われるのは、上司や親やその他周囲から言われるのは、「時間対効果」が意識された「成長」である。

「俺が思うスピードで成長しろ」
 だとか、
「この期間でこのレベルまで到達しろ」
 といった意味合いが込められた上の、勉強なり成長なのである。

 これは、しんどい。

自発的成長

 ゲームが何故面白いか。
 それは、ゴールがあるからだ。勝ち負けや、目的がはっきりしているからだ。

 しかし、それだけではない。

 ゲームは、自発的にやるから面白いのだ。「やりたい」のだ。
(まぁトートロジーだが、やりたいから面白いともいえる)

 ゲームだって、レベルアップや、情報収集、旅や選択、不条理なイベントなどなどあるはずだ。めんどくさい部分もあるだろう。でも、乗り越えたいと思うのだ。


 人生は、どうしてそうではないのか?
 それは、目的や成長といったのが、周囲の評価によるものだからだ。

成長はしたい

 と、思った、と、それだけの記事。
 今日思ったというよりかは、徐々に思考に浸透していった気がしたという意味が近い。

 逆に、停滞するとか、堕落するというのは、何か嫌じゃなかろうか。

 人間なら誰しも、成長したいって思いがあるんじゃなかろうか。
 またいつもの極端な例を出せば、犯罪的な集団においても、もっと金を稼ぎたいとか(誤った)成長欲求があるのではなかろうか(いうまでもなく断罪されるべきだ)。

 その、成長の方向性を調整するってのは、周囲(指導的立場の者たち)も必要だろう。
 しかし、その成長内容や、スピードを、完全に調整するなんてのは不可能なのだ――不可能ではなかろうが、恒久的成長(自発的成長)には繋がらない。

 自発的な成長が不要だった時代もあったと思う。
 人間が、労働力として、いわゆる「作業機械」として必要な面はあったろうし、今もあると思う。そういった部分は、ロボット(A.I.)などに代わられる可能性はあるだろう。この話とセットなのは、ロボットにできない創造性などを養う必要がある、とかいうことだが、そういう曖昧な言葉を聞くと僕はイラっとする。

成長とは状態の変化である

 そりゃあ、隕石が地球に衝突したら、恐竜は滅びる。

 しかし、そんなアルマゲドン的な事態を想定してもしかたがない。シンギュラリティ(技術特異点)が起ころうと、仕方がない。

 俺は、俺、である。

 外部と、個人、という分け方は、ある程度絶対である。(阿頼耶識といった、世界と個人との境界を疑う考え方もあるが、普通の人間感覚においては難しい境地である。人間の細胞は、生きたい・知りたい・仲間になりたいという欲求を原理的にもっている)

 だから、どんなに外部が変化しようとも、自分の変化が突発的に起こるわけではないのだ。(もちろん、男子三日合わざるは刮目してみよ的なのはあるだろうが、何事も例外から考えては話がまとまらないし、進まない)

 世界の変化と、自分の変化が真逆に進む、または自分は停滞しているという状態は、健全ではないと思う。
 しかし、世界の変化に合わせて、自分も大変化してしまったら、もう「自分」という主体である必要などないではないか。

終わり

 といったことを、思った。
 日和見的だと思う。平和ボケだと思う。

 だが、仕方がない。

 自分を捨て去ってまで生きる必要はないのだ。
 それは、不満にすぐに「キレろ」という意味ではない。その抱いた「不満」は大切にすべきだ。
 その不満こそが、世界と自分とのギャップだ。そのギャップが不幸だ。そのギャップを埋めるのが、幸福だ。

 人は誰しも、幸福を目指すべきだ。


(かっこ書きである。と、本文中のことは実際思うのだが、どうしても、ニュースとか、現実対人関係などしていると、苛立ちや不満が溢れてくる。最近の具体的には、パワハラを記念撮影させて悦に至っている社長とか。バスが橋から転落して全員死亡した事故の原因が客と運転手の喧嘩だったとか。くだらない自己を世界に欲求している奴らに本当にイラつく(じゃあニュースなど見なくていいだろうとかそういう意味ではない。別にニュースを見なくても現実周りにそういう奴らは少なくない)。しかし一方で、「人はだれしも幸福を目指すべきだ(キリッ)」とかいえば、そういう「くだらない自己」も容認せざるえなくなるのではないか、という疑念。しかしそれに対しては、「世界の変化と、自分の変化が真逆に進む、または自分は停滞しているという状態は、健全ではない」ということで、いいんじゃないかと思う。異世界転生ものが受け付けない純文志向の方々も、界隈でそれが求められているなら仕方がないのではないか――という話とまた次元が違うことを押さえておく必要がある。これが、最近の連載記事の目的(なんだと思うが)である、「多様性の許容」である。かっこつけた表現はどうでもいいが、要は、いろんな趣味嗜好があっていいじゃないか、ということである。いろんな「好き」があっていいじゃないか、ということである。イメージとしては、インフラ的な人間思考の基盤があって、その上で多種多様・雑多・魑魅魍魎な創造の世界が広がる感じである。大事なところは、その「基盤」部分も、変化はしていくということである。その「基盤」を換言すれば、風土、理性、イデオロギー、宗教、信条、慣習などそういったもの。それらも普遍ではないだろう、ということだ。話が全く違うが、創作のアウトプットができなくて非常に困っているという愚痴記事の下書きが残っているのだが、あまりにひどいので投稿を躊躇う。まぁしかし、ここ最近の連載が終わったら読み返して今後の生活をまた検討したい)

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