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80年代ローリング族
2012/11/03 10:21 | Comments(0) | 生きる意味
80年代、今から30年前、僕が生まれた時代。
僕の先輩たちは、こんなことをやっていたんだ。

夢を失った時代に若者は~

といったナレーションがあるが、大澤真幸氏の時代区分を持ち出せば、戦後1945年から、70年代までが理想の時代、95年までが虚構の時代、そして今は不可能性の時代ということになる。
1983年はTDL(東京ディズニーランド)の開園。

理想を失い、虚構(夢)に生きた時代。
それでも、若者の一部は、夢なんか見られなかった。むしろ、不可能性の時代にあるような、現実を極限化した現実を、ここでいえば、コーナーに猛スピードで突入するような、危険こそが「現実(リアル)」と感じていたのだろう。


時代区分は、分かりやすい考え方だけれども、アンダーグラウンドな世界や人々を持ち出せば、途端に分かりにくくなる。
しかし、時代に通底する変数Xを考えることは無駄ではないと思う。村八分にされるような人が、今の時代は成功者になったりもするのだ。





PDさんの作品において、実力とは、「才能」「努力」「運」の総合ということだ。
理想の時代、虚構の時代では、「努力」に重きが置かれていた。その努力とは、勉強ができることを指していた。
それも、1970年代後半から、いじめ・校内暴力が起こるようになる。
詰め込み教育の弊害と言われるが、ホントに勉強ができるやつが偉いのかよ、という疑念の顕在化かもしれない。




過去を振り返ることに意味はなくて、年齢を重ねた人がすごいわけでも偉いわけでもない。
人間というのは、個の能力でこそ測られるべきだ。

ここで、何度も述べているが、その測られるべき能力に、固定的な尺度があるわけではない。

その尺度はとても変動的で、もろいものである。

それゆえに発生する「ある能力」……、本田由紀氏の言葉を借りればハイパーメリトクラシーとなるか。




人の顔色をうかがって生きてきた人は、そのことを気づかれると気持ち悪いといわれるが、むしろ必要なのはそういった能力だ。
ポジティブな言葉を欲するなら、「他者の気持ちを忖度できること」が重要ということだ。

高度な能力だ。気にしすぎると、むしろ引きこもりになる。


だから、子どもを育てるなら、そういった能力をはぐくんでやりたい……と同時に、そんな細かいことなど気にせず、本音でぶつかりあって、喧嘩もして、その後仲直りできるような子に育ってほしい、が、個人的な思いは、時代に抗うことはできない。

そういう意味で、親にできることは、「環境」を整えることだけだと思う。

例えば、読書が脳にいい、などと聞くと、「本を読め!」と子供に口うるさくいったりする。にもかかわらず、自分は本を読んだことなどない、そういう親が少なからずいると思う。
本を子どもに読ませたいなら、自分でまず本を重要だと思い、本を読む時間をとることだ。

もっとも、その子の特性によって、外で遊ぶ方が楽しいと感じるかもしれない。
けれども、そういった「欲求」は、ころころ変わるもの、特に幼いうちは自分のやりたいことが何かすら分からないのだから、ある程度の強制は必要だ。

だが、その強制も、言葉にするだけでは意味をなさない。しっかりとしつけをするのならば、自分がまず、家族のルールでも、社会のルールでも、自分のルールでも何でもよいが、「守る」という姿勢や態度をはっきりとみせることだ。




死ぬ瞬間……、原題には、死の過程について、とある。
否認・怒り・抑うつ・受容・虚脱。

最終段階に入ると、むしろ、面会など断る。自分がこの世界から去るということで、この世界のものを捨てていく準備をする段階なのだ。

そいった過程を通らずに、「悟り」の境地にいたるのは、難しい。そういった意味で、病気を、神の試練であるととらえる患者は多い(それこそ30年も40年も前の本だ、今もそうかは分からない)。

簡単に坐禅するといっても、モノにあふれた生活をしていては、とてもじゃないが、無理だと思った。


むしろ本当に悟りが欲しいのか。単に逃避ではないのか。よくよく考えてみるべきだ。

努力とは、継続することである。継続には時間がかかる。時間は限られている。できる努力は限られている。努力に範囲はない。怠けることも、怠ける努力である。努力をした結果は時代によって決まる。

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