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旧約聖書のあらましを読んで思ったこと
2017/04/15 14:54 | Comments(4) | 生きる意味
今日の一言「神と人との契約の物語」「信仰は失われるためにあるのかな」

旧約聖書

 神が光あれ、と仰られ昼と夜ができて、土からアダムを造り、その他動物たちを造った。そしてアダムに協力して地を耕すため、アダムのあばら骨からエヴァを造った。
 エヴァは蛇にそそのかされ、アダムと一緒に知恵の実を食べた。それによって、地は呪われ、女は子を生む苦しみを与えられた。

 エデンは、智天使ケルビムの炎の剣によって閉ざされた。アダムとエヴァは、エデンの東の地で新たな生活を始めた。

 アダムとエヴァはカインとアベルを生んだ。カインはアベルが神に優遇されるのに嫉妬し、アベルを殺す。カインは神の怒りをかうが許される。

 その後何世紀か経って、ノアという人がいた。ノアの住む町の人たちは堕落していた。神は大洪水を起こして世界を滅ぼした。ノアは信心深かったので、家族と番の動物たちと箱舟を作って難を逃れた。


 ――この後も、人は堕落したり、信仰をなくしたりして、神が怒って罰を与えたり滅ぼしたりする。その都度、選ばれた人(預言者)が神の教えをもって人々を導いていく、旧約聖書はそんな物語である。(最終的にイエス・キリストの誕生までが描かれる)

良い生活とは何かが不明

 ユダヤ教とか、キリスト教において、イスラエルの人々が、アダム・エヴァの直系子孫ということであるが、そもそも、6日と1日の天地創造から考えると、僕らみんなアダム・エヴァの子孫だと思う。それが、バベルの塔の時代の神の怒りによって、言語がばらばらになって、各地にわかれていったという。

 さて、

 生めよ、増えよ、満ちよ。

 と神様はいうが、その「そもそもの意味」を語ることは無い。それを考えることはそもそも不遜である。神によってつくられた僕ら。それだけで意味である。僕らの生きること、そのことに懐疑するのは、すなわち信仰の不足、神への反駁に他ならない。

 だから、信仰に生きなさい。祈りなさい。
 信仰をなくした人は、殺しても構わない。大洪水はもうやらないと契約(人と約束)したが、イスラエル人を虐げるエジプトのファラオの幼子は全員殺しちゃうよ。

 イエス・キリストを人としたとき、素晴らしい方だったと思う。多くの人の迷える魂(大衆の悩み苦しみや生き方について)を救ってくださったのだろう。


 その価値について疑いようはないが、しかし、「神」という存在を規定(大前提)にすることで、一つ、重大なことが抜け落ちる原因になっている。
 思考の根源……そして、科学的態度である。

無批判な信仰は破滅をもたらす

 キリスト教にとどまらず、各々の宗教には、「悪」という概念がある。悪魔とか超上存在も描かれる。
 それらは、人の心の闇の具現化である。神様を信じられなくなったとき、その表現が、「悪魔にそそのかされた」ということだ。

 でも、その感情は、逆に言えば、人間の率直な感想なのだ。神様を基礎にした物語は壮大で確かに盤石なものなのであるけれども、智の体系だろうと、眉唾な物語だろうと、科学だろうと何だろうと、すべての「体系」(システム)を単一の個体(人として)理解し、その理解を維持し続けることは身体的・物理的限界により不可能である。

 だから、ときに、理不尽なことがおこると、絶対神に対してだって、疑いの心が発生するのだ。そして時に、誤りを犯す。それを、教会に行って懺悔する。そして、神によって「許される」。


 この人間の心の構造は、まさに、旧約聖書によって描かれる、堕落と信仰と許しの流れを、よく表現していると思う。やっぱすげーぜキリスト教!



 でも、僕は、その、「絶対なるもの」を信じられない。

 それは、運命だったり、お金だったり、友情だったり、愛だったり、科学だったり、神様だったり、資本主義だったり、出世だったり、もろもろ、正しいとか真実だとか言われること全般。


 それらは、すべて、「ある条件」によって成り立つものだという感覚が、僕の実感である。


 その条件が積み重なって、普遍的な「体系」になることがある。それは、巨大なシステムとして、一個の人間としては、到底理解が及ばないことになる場合がある。

 そうしたとき、人は、僕らは、それらを「絶対なるもの」……「神」として呼びたくなる。


 それらは、時に理不尽であったり、妬みの神であったりする。必ずしも、僕らの都合の良いものではない。それでも、神が言うのだから、正しいのだ、許されるのだ、と。

世界平和の実現性

 僕は、世界平和を望む。誰もが争うことなく、協力しあって、お互い切磋琢磨し、許し合って、生んで、増えて、満ちていくのを望む。

 でもそんなこたー無理である。

「無理」

 なのは、人が多様性をもっているからである。価値観が異なるからである。良いと思うこと、悪いと思うことが異なるからである。


 たまたま、その何かが一致して、愛し合って生きていくツガイ、カップルは多いことだろう。
 それでも、そんな幸せな二人の間にあっても、軋轢が生じないことは無い。

 その関係性が、70億人になったとき、統一的な「良いこと」というのが想像し得るだろうか。旧約聖書の、神様でさえも成しえなかったことである。人は、知恵の実を口にしたときから、智慧……価値観と多様性を身に着けてしまったのだ。

 もし、世界平和が実現するとしたら、それは、人が再び、単一体としての存在に統合されるしかなかろう。



 だから。
 悲喜こもごも、妬みや憎しみ、怒りや苦しみ、欠乏や餓えや、哀しみや嘆きがある中で、そんな一瞬の僅かな黄昏時にでも、「しあわせ」という状態が生じることが、貴重で、価値があって、美しいのである。


(ここまでが序文)

僕の価値観をまとめると

 上に書いてきたようなことは、もう何度も繰り返し表現してきた。
 まず、僕は、「絶対」なるものを信じることが難しい。(このことの派生によって、何か押し付けがましい「指導」という名を借りた強制を求める人を苦手とする)

 次に、共通の平和や幸せといったものを信じることが難しい。それが実現した世界は、きっと何もない世界だ。

 だから、いろんな感情や争いがあることが、そもそも、人間の世界だということを、認めなければならない、と。



 上の価値観については、同意してくれる人もいれば、共感してくれる人もいることだろう。
 ただし、このことについて、真剣に問題視している人は、あまり多くないように思える。いわば、上のようなことは、「当たり前」なのであり、さして、各々の人生や生活において、重要な意味をもたないのである。


 むしろ、僕の上のような価値観について、「それは違う、絶対に神は存在する!」として、考えを揺さぶれるような人がいたら、それは貴重に思うけれども、多分、それは不可能に近いだろう。僕はきっと、魔術や魔法や、奇跡を目の当たりにしても、「絶対的存在」を信じることはできないだろう。奇跡を起こせたから神? そんな単純なものじゃあないはずだ。それこそ、神に対しての冒涜だろう。仮に神がいたからといって、神を信じることで、「幸せ」になれると説かれたとして、僕は、その「幸せ」とは何かが分からない。

 生めよ、増えよ、満ちよ。これが幸せなのか? その行為による「快感」は否定するものではない。では、「幸せ」の状態とは、常態として永遠に「快感」を得続けるものだというのか? 快感の権化が幸せなのか? それはそれで、ちょっと気持ち悪い。

無常憑み難し

 なので、「絶対なるものを認めない」(=空(くう)とか無常とか言われたりするもの)を反転して信じる者というのが、一言で僕と言う人間をあらわす表現であると思う。そういう意味では、僕は昔からずっと仏教者なのかもしれない。ただ、高校一年生ぐらいに仏教を教科書で読んだとき共感したのは、単に、「人生とは苦しみである」という一文だけであった。それは単に、その当時に色々と苦しんでいたからであった。

 それって、仏教でもなんでもない。けれども、他の宗教や思想では、何やかんや「幸せ」を求めるのに対して、「人生の本質って苦しみですから」といきなり言い切っちゃうところに感銘をうけたのは確かだ。他の人とは違うことを言ってのける! そこに痺れる、憧れるウ! と、中二的感覚だったのだろう。


 と、まぁ、宗教を信じている、というのは、現代日本人には、「気持ち悪い」と見られるので、公言はしない。ただ、「ポリシー」とか、「座右の銘」的なやつと、僕はなんら変わらないと思う。

 お金がすべてだ!

 というカイジ的なことを信じている人もいるんだろうし、それらと、次元的には同じことだと思う。
 ただ、仏教の無常観というのは、普通の「信じる」ということとは異なることに注意されたし。
 それは、四句否定(テトラレンマ)というカタチで表現される。

四句否定

 大乗仏教の中心思想となる、空(くう)の思想をまとめたナーガールジュナ(龍樹)という2~3世紀に活躍された方の「中論」という書において、以下の節がある。

1.すべてのものは真実である。
2.いかなるものも真実ではない。
3.あるものは真実で、あるものは非実である。
4.いかなるものも真実ではなく、いかなるものも非実ではない。


 矛盾や詭弁に感じることだろう。いや僕もそう思う。そもそも、1.と2.において、成り立ってねーじゃねーか。

 ただこれは、無限遡及的な次元の否定なのだと僕は解釈というか、思っている。

 言い換えれば、最初の方で書いたように、「すべてのものは、ある条件によって成り立っている」という僕の価値観の肯定として思っている、ということだ。

 今この瞬間、僕と言う存在は「ある」。【1.】
 けれども、突き詰めて、僕とは何か、僕の本質は何なのかを考えていけば、そんなものは「ない」と思ってくる。【2.】
 でも、そんな無限遡及(どこまでも自分と言う最小単位を探し求めること)をやめて、もう一度ふとした瞬間に立ち戻れば、「僕」はやっぱり「ある」。【3.】
 と、言うことは、「僕」と言うのは、存在する(ある)ともいえるし、存在しない(ない)ともいえる――逆の言い方をすれば、「あるわけでもなく、ないわけでもない」。【4.】


 だから、いかなるものにも、執着してはならない。その執着こそが「苦しみ」なのだ、というのが仏教の教えである。
 ――だが、このことを勘違いしている人は少なくない。


「だから、執着はよくない、仏教はありがたい」と思う人がいるだろう。そうではない、その、「仏教はすごい」的な感覚にも、執着してはならないのである。


 と、いうことは! じゃあ、僕らの生きているのは、そもそも何なのか。
 むしろ、「実存的空虚感」に苛まれるそのことが、生きることそのものなのではなかろうか。


 そうして今日も、とめどない思考によって自動筆記により記事をつづる。


(コメント頂いて、めっちゃ明るい記事を書こうと思ってたら旧約聖書関連の本を読んじゃってこうなった! どうしてこうなった、どうしてこうなった!!)


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コメント


仏教では執着にとらわれないように諭しているということですね。
あるのでもなく無いのでもなく空であるとのこと。
その点からみると、神がいると盲信するのも、神がいないと結論付けるのも、執着になっていると思います。
この世において人間の認識や知恵には限界があり、真実をわかろうとするのは非常に困難で、ならば、神がいるともいないとも決めつけないことが大事なんじゃないかな・・・
posted by みゅうURLat 2017/04/16 17:27 [ コメントを修正する ]
最近思ったんだけど、自分だったら絶対にしないことをあえてするってことって滅茶苦茶価値があると思う。

・神なんていない
 あえて、神を信仰してみる

・実写化映画なんて絶対みない
 あえて、見に行ってみる

・結婚なんて下らない
 あえて結婚してみる

多分、執着の反対は変化なんだと思う。


posted by QUWEat 2017/04/18 00:20 [ コメントを修正する ]
 みゅうさんコメントありがとうございます。返信が遅くなりすみませんでした。

 仏教に対する私の理解は、みゅうさんにコメント頂いたとおりだと思っています。
 神がいるともいないとも決めつけてはいけない。そして、そういったことを真理として感じてもいけない、と、どこまでもどこまでも否定し続ける。それが、臨済宗では禅問答がその方法であり、曹洞宗では坐禅だったりする。

 しかしそれは、皆が追い求める「幸せ」の概念すら否定してしまう。そもそも、その追い求めることを「苦しみ」として仏教はいうわけですが、しかし、本当にそれでいいのだろうか。
 欲望や欲求にまみれて率直にやりたいように生きて、笑って、泣いて、そして死ぬ。そんな生き様ってのもまた、人間としてのありかたなんだろうと僕は思うのです。

 仏教的な生き方。
 俗物的な(この言葉が正確ではないですが)生き方。

 しかし僕らは、そのどちらかを選び取らなければいけない。そうでなければ、忽ちに訪れる死というエンディングに際して、これまでにない最大の苦しみを得るだろうことは間違いないことでしょう。(もっとも、突然死のように、死を死として認識できない終わりだってあるでしょうが)

 こうした僕の考える行為自体は、もうしばらく続きそうです……。
posted by 遠藤at 2017/04/22 23:35 [ コメントを修正する ]
 QUWEさんコメントありがとうございます。
>執着の反対は変化

 うーむ……。どうしてこう、哲学的というか、深いというか、鋭いというか、短いながらに非常に重要な言葉を発せられるのか。さすがですと舌を巻きました。

 執着の反対は変化、かぁ。

 さすると、「自己」、自分に対しての拘りこそが、変化への怖れになっているわけですね。


 ふーむ。
 しかし、なんだ、具体的方策を考えたとき、はたと、思考が止まってしまう。

 僕自身、拘りが無い自己だったのだなぁと、今思いました。
 結婚してもいいかと思ったし、離婚してもいいかと思ったし、勉強してもいいかと思ったし、遊んでもいいかと思ったし、自分はダメな奴だと思ったし、やればできる奴だと思ったし、生きていてもいいやと思ったし、死んでもいいやと思ったし。

 なんか、「絶対こうあるべき」と思ったことって、今まであったんだろうか? いやあった。そりゃあさすがにあった。けれども、それはどこか、「限定的」「期間的」「制約的」であり、「本心」とか、実感が伴うものではなかった、そんなような気がします。

 ので、むしろ、今僕が、執着から離れるのであれば、何かに思いっきり執着した方がいいのかもしれない、そんな気がします。

 愛はうつろいやすいものだ。→いや違う! 絶対的な愛ってのはある! 愛は永遠だ!

(いやーうそっぽいな)
posted by 遠藤at 2017/04/22 23:44 [ コメントを修正する ]

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