今日の一言「他人と比べても意味が無いと思う」
今日は、天気が良いな。寒いけれど。頭が何となく痛い。そんな日もあるさ。
ああ、しかし、何か、やることが終わった。いやまだ沢山、まだまだ色々あるのだけれど、一週間か、二週間前ぐらいにやらなきゃ、やりたい、やろう、と思ったことは、一通り終わった。
しかし、目まぐるしすぎて、フルスロットル過ぎて、終わってみると、本当に終わったのか、何をやれたのか、やったのか、よく分からない。感覚がわかない。
「●●をして、○○の点数をとる」
という目標があって、その通りになったら、それは及第点だろう。しかし、そういった振り返りができたわけでもなく、そもそも「点数」化できるようなものでもない。
だから、記憶の軸として、意味の軸として、こうして、書きとどめなければならないと、そんなことを今思いながら、残り20日ぐらいの今年を振り返って思う。
個人的な生きる意味。
親族や家族といった近しい人たちの中での生きる意味。
人類規模の生きる意味。
生命(宇宙)規模の生きる意味。
生きる意味が分からないと嘆く人は、まず自分がどの次元の問題を抱えているのかを知る必要がある。
といったアプローチも確かに存在するが、そもそも、その1から4つの意味については、相互に関係しあっていることも念頭におくべきである。
と、いいつつも、話しが分かりづらくなってしまうが、個人的な生きる意味をひたすらに追い求めることができる人であれば、その他の問題は大したことではない。家族のため、例えば我が子のためという意味において、必死になれる人はそれでいいし、趣味や仕事を生きがいとして生涯を全うする人だっていいだろう。様々だが、それは、第一類型である。
そのどれの行為に対しても、コミット(自分を委託する、約束する、任せる)できないときに、この中間的な、第二類型としての「生きる意味」が表面化する。
ちなみに、この記事は、コメントを頂こうとか、読了を押してもらおうとか、反応をもらおうとか、いいことを書こうとか、そういった他者性、「わかりやすさ」は完全に無視することを、最初に書いておく。
とにかく、カオス、混沌とした頭の中をそのまま、まずはアウトプットし、今後の自分に後を託そうと思う。
そんなリアルな、命のやりとりにしか、「自己を」「自分を」コミットできない、という人もいる。
戦国時代の武士、戦争に明け暮れる兵士、傭兵、彼らは皆、「愛する祖国、家族を守るため」という美しい理由だけで戦ったのか。そういう人もいただろう。しかし、只人を殺すこと、殺伐として抜き差しならない戦場にこそ生きがいを見出すような人種もいたことだろう。
格闘技のみではない、スポーツが、何故「プロ(=お金をもらう職業)」として成り立っているのか。
そこに、人間の攻撃性が隠れている……というのは暴論だろうが、「戦うこと」(それは命がけでなくても)「競い合うこと」というのが、人間に対して享楽やカタルシスを与えるものなのだということに、反論はあまりないだろう。回りくどい言い方がよくないなら、単純にスポーツは楽しいものなのだ、ということに、批判は少ないように思われてならない。
(蛇足:別に批判がどうあろうが関係なく、ここでは、自分の実感問題こそが重要であることは、常々書いている通りである)
ここで重要になるのは、別に、今、楽しいことが無いとか、鬱々として何もしたくないとか、そういうことではないのだということだ。
(いや、そうはいっても、鬱々とした気分であることは間違いないのだが)
ただ、選択的に、この問題について考えたいと、そういった実感なのである。
いやいや、やめよう、まだ、ちょっと取り繕った言葉を使っているそうじゃないだろう。
最近、だから、こうやって書いている時間を取れなかったせいで、ますます混乱と苛々がましたということだ。
いやいやもちろん、それが単に睡眠時間の短さによるものだという可能性は否定できない。
いやそんなことよりも、実際、その生活を楽しんでいた自分すらいたのではないかという疑問だってある。
よく分からない。
ただ、気付いたら、今、こうしている。
早いものだ。早いなぁ。この「早い」という感覚を「止める」のが、この書くということである。
いや確かに、BARで一人お酒を飲んで、頭の整理をするのだって、かっこいいことかもしれない。が、それは頭のいい人ができることなのだ。俺は無理だ。まず、集中できないし、それよりなによりも、何も残らない。
「考えているようで何も考えていない」のではなく、「考えているけれども、浮かんだときから消えていく」のである。
だから、書かなきゃだめだ。もはや強迫観念になりそうであるが、その通りだ。
前に、書くことは、遊びでも仕事でも、ましてやルーチンでもない、ただそれは独立した行為なのだ、と書いた。
これは中々いい表現だったように思える。
意味を問うとかいって、何もできてないじゃないか。俺はもっといいこと書けるんだ、とでも思ったのだろうか。
高校一年生で自殺した男の子。A4ノート一枚に、遺書が書かれていたという。たったそれだけか。僕もそれぐらいの時期に、日記を書き始めたが、もっとたくさん書いていたと思う。書けばいいってものじゃないけれども、たった一枚程度の紙で、その人の受けたいじめの苦しみとか、そんなの表現しきれるはずはないじゃないか。
もっとたくさん、いろんなことを思ったはずだ。苦しんだはずだ、悩んだはずだ。けれども、死んだらそれまで。いくら専門家が遺書を分析したところで、本当の理由なんて結局分からない。
いや、分かって欲しいなんて気持ちすらなくなっていたことだろうとも思う。ただただ人生が苦しい、痛い、つらいという人に、いったいかけてやる言葉があるのだろうか。
ある無職の人のブログで、昔付き合ってた彼女が結婚してた、みたいな記事があって、それに沢山コメントついてて、「きもい」とか「妄想乙」とか。どうしてそういう感想になるのか。無職で、底辺で、虐げて自分を慰めていたのに、実はその相手は彼女がいてセックス三昧な日々を送っていたことが許せないのか自分は真性童貞だというのに、ということなのか。
よく分からない。いつも僕は思うに、他者と比較したところで、自分の苦しみなんてわかりゃしないというか、意味が無いと思う。何度も書いているのは、そう自分で思いたいだけかもしれない。そう思いたいけど、思えない、みたいな。
でも、確かに、今、とても憂鬱な気分であるとはいえ、高校一年生で自殺するしかなかった男の子の苦しみを思えば、俺、世界で一番幸せなんじゃないかと思うぐらい最高な人生である。ラッキー。
上の感覚。なんと空しいことか。
他者と比較するというのは、上をみても、下をみても、結局はねかえって辛くなるだけなのだ。
徒然赴くままにしていると実感が抜け落ちる
徒然、硯に向かいて指の赴くままに書きたくなったよ。今日は、天気が良いな。寒いけれど。頭が何となく痛い。そんな日もあるさ。
ああ、しかし、何か、やることが終わった。いやまだ沢山、まだまだ色々あるのだけれど、一週間か、二週間前ぐらいにやらなきゃ、やりたい、やろう、と思ったことは、一通り終わった。
しかし、目まぐるしすぎて、フルスロットル過ぎて、終わってみると、本当に終わったのか、何をやれたのか、やったのか、よく分からない。感覚がわかない。
「●●をして、○○の点数をとる」
という目標があって、その通りになったら、それは及第点だろう。しかし、そういった振り返りができたわけでもなく、そもそも「点数」化できるようなものでもない。
だから、記憶の軸として、意味の軸として、こうして、書きとどめなければならないと、そんなことを今思いながら、残り20日ぐらいの今年を振り返って思う。
生きる意味の段階性
生きる意味と単純に言ったところで、それは段階がある。個人的な生きる意味。
親族や家族といった近しい人たちの中での生きる意味。
人類規模の生きる意味。
生命(宇宙)規模の生きる意味。
生きる意味が分からないと嘆く人は、まず自分がどの次元の問題を抱えているのかを知る必要がある。
といったアプローチも確かに存在するが、そもそも、その1から4つの意味については、相互に関係しあっていることも念頭におくべきである。
と、いいつつも、話しが分かりづらくなってしまうが、個人的な生きる意味をひたすらに追い求めることができる人であれば、その他の問題は大したことではない。家族のため、例えば我が子のためという意味において、必死になれる人はそれでいいし、趣味や仕事を生きがいとして生涯を全うする人だっていいだろう。様々だが、それは、第一類型である。
そのどれの行為に対しても、コミット(自分を委託する、約束する、任せる)できないときに、この中間的な、第二類型としての「生きる意味」が表面化する。
ちなみに、この記事は、コメントを頂こうとか、読了を押してもらおうとか、反応をもらおうとか、いいことを書こうとか、そういった他者性、「わかりやすさ」は完全に無視することを、最初に書いておく。
とにかく、カオス、混沌とした頭の中をそのまま、まずはアウトプットし、今後の自分に後を託そうと思う。
漠然とした不安
正直、車やバイクに乗るということは、危険な行為である。しかし、その危険が、命をかけているということ、もっといえば、事故をおこして誰かに怪我を負わせるという人生をかけているということが、何とも楽しいことのように思える。急な車線変更をしてきたトラックに巻き込まれそうになったときの心臓のバクバク感は他に味わえないものである。そんなリアルな、命のやりとりにしか、「自己を」「自分を」コミットできない、という人もいる。
戦国時代の武士、戦争に明け暮れる兵士、傭兵、彼らは皆、「愛する祖国、家族を守るため」という美しい理由だけで戦ったのか。そういう人もいただろう。しかし、只人を殺すこと、殺伐として抜き差しならない戦場にこそ生きがいを見出すような人種もいたことだろう。
格闘技のみではない、スポーツが、何故「プロ(=お金をもらう職業)」として成り立っているのか。
そこに、人間の攻撃性が隠れている……というのは暴論だろうが、「戦うこと」(それは命がけでなくても)「競い合うこと」というのが、人間に対して享楽やカタルシスを与えるものなのだということに、反論はあまりないだろう。回りくどい言い方がよくないなら、単純にスポーツは楽しいものなのだ、ということに、批判は少ないように思われてならない。
(蛇足:別に批判がどうあろうが関係なく、ここでは、自分の実感問題こそが重要であることは、常々書いている通りである)
生きるということはゲームか
いずれやってくる終わりに心を馳せるよりも、今、この場所で、このときの楽しさに身を任せた方が、絶対的に真理のように思われる。ここで重要になるのは、別に、今、楽しいことが無いとか、鬱々として何もしたくないとか、そういうことではないのだということだ。
(いや、そうはいっても、鬱々とした気分であることは間違いないのだが)
ただ、選択的に、この問題について考えたいと、そういった実感なのである。
いやいや、やめよう、まだ、ちょっと取り繕った言葉を使っているそうじゃないだろう。
最近、だから、こうやって書いている時間を取れなかったせいで、ますます混乱と苛々がましたということだ。
いやいやもちろん、それが単に睡眠時間の短さによるものだという可能性は否定できない。
いやそんなことよりも、実際、その生活を楽しんでいた自分すらいたのではないかという疑問だってある。
よく分からない。
ただ、気付いたら、今、こうしている。
早いものだ。早いなぁ。この「早い」という感覚を「止める」のが、この書くということである。
いや確かに、BARで一人お酒を飲んで、頭の整理をするのだって、かっこいいことかもしれない。が、それは頭のいい人ができることなのだ。俺は無理だ。まず、集中できないし、それよりなによりも、何も残らない。
「考えているようで何も考えていない」のではなく、「考えているけれども、浮かんだときから消えていく」のである。
だから、書かなきゃだめだ。もはや強迫観念になりそうであるが、その通りだ。
前に、書くことは、遊びでも仕事でも、ましてやルーチンでもない、ただそれは独立した行為なのだ、と書いた。
これは中々いい表現だったように思える。
この後紡ぐ言葉は何か
日曜日にここまで書いて、はたと、投稿を躊躇ってしまった。意味を問うとかいって、何もできてないじゃないか。俺はもっといいこと書けるんだ、とでも思ったのだろうか。
高校一年生で自殺した男の子。A4ノート一枚に、遺書が書かれていたという。たったそれだけか。僕もそれぐらいの時期に、日記を書き始めたが、もっとたくさん書いていたと思う。書けばいいってものじゃないけれども、たった一枚程度の紙で、その人の受けたいじめの苦しみとか、そんなの表現しきれるはずはないじゃないか。
もっとたくさん、いろんなことを思ったはずだ。苦しんだはずだ、悩んだはずだ。けれども、死んだらそれまで。いくら専門家が遺書を分析したところで、本当の理由なんて結局分からない。
いや、分かって欲しいなんて気持ちすらなくなっていたことだろうとも思う。ただただ人生が苦しい、痛い、つらいという人に、いったいかけてやる言葉があるのだろうか。
ある無職の人のブログで、昔付き合ってた彼女が結婚してた、みたいな記事があって、それに沢山コメントついてて、「きもい」とか「妄想乙」とか。どうしてそういう感想になるのか。無職で、底辺で、虐げて自分を慰めていたのに、実はその相手は彼女がいてセックス三昧な日々を送っていたことが許せないのか自分は真性童貞だというのに、ということなのか。
よく分からない。いつも僕は思うに、他者と比較したところで、自分の苦しみなんてわかりゃしないというか、意味が無いと思う。何度も書いているのは、そう自分で思いたいだけかもしれない。そう思いたいけど、思えない、みたいな。
でも、確かに、今、とても憂鬱な気分であるとはいえ、高校一年生で自殺するしかなかった男の子の苦しみを思えば、俺、世界で一番幸せなんじゃないかと思うぐらい最高な人生である。ラッキー。
上の感覚。なんと空しいことか。
他者と比較するというのは、上をみても、下をみても、結局はねかえって辛くなるだけなのだ。
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