今日の一言「19時ぐらいに寝るとダメなの分かってたんだけどな」
気持ち悪くないですか?(直球)
誰かと雑談したい。雑談苦手だけど。
どうでもよいことを語りたい。でも、そんなに長く興味持たないから、3分ぐらいで十分なんだが。
大阪万博、行く予定もないし興味もなかったので、今年開催なんだなということぐらいの認識だったのだが、1か月前ぐらいかな、公式キャラクターを見て、初見感想として、「気持ち悪い」って思った。
配色の赤と青も精神を不安にさせる。
デザインの、目がたくさんという点も気持ち悪い。
ただ、上に書いたように、大阪万博自体に興味がないため、別に批判したいとかそういう気持ちがあるわけでもない。
思ったのは、「このキャラクターが良い」と選ばれたというそのこと自体に興味がある。
大多数の人は、これを「よい」と思ったのだろうか?
そこに興味がある。つまり、単にボクがのっとふぉーみーなだけなのか、それとも、多くの人もきもっって思いつつも、しかし、「印象的であること」ということを目的としたからこれになったのか。
そういう意味では「成功」と思われる。印象的である。東京五輪のときのキャラクターよりも鮮明に記憶される気がする。しかし、迷惑な話ではあるが……。
このまま寝よう……と思ったものの、無理で、結局、25時ぐらい、布団から起き上がってこの記事を書いている。身体には悪いだろうね。
まぁいつものことだと、1時間ぐらい書いていると飽きて、寝れるはずだ。たぶん。
何が面白いかって上手く書けないが、令和の虎というチャンネルで、美容整形の医者との会話が面白かった。
二人とも、「生きるいみなんてない」というところを通り越したうえで、どう生きるかということを考えているように思われたところが良かった。
そうなんだよな。
やっぱり、生きる意味は、「ない」と思う。
フランクル先生の、生きる意味は、「ある」というのも、またそれは正しいと思う。
あるでもあって、ないでもある。
その両方だろうなと思う。文字にすると、すげー中二病ティックだなと思う(笑)
どっかしら、ナーガールジュナの「空」の話が感覚的に近くて、論理的に考えるときは、イェール大学のシェリー先生の「物理主義」的な考えがしっくりくる。
見失ったというか、自分の中で、もう「ゴールだな」という感覚になったというのもある。
あるともいえるし、ないともいえる。
言葉にするとこんな感じになるが、その中身が詰まったというか、そんな感じがする。
100年後には、僕らはいない。
いま悩んでいる悩みは、宇宙規模で考えるまでもなく、ほんの10年後には忘れているだろう。
ただし、「ぼく」という記憶構成がある中では、その一連のできごとは、澱のようには積み重なっていく。
一つ一つのエピソードは思い出せなくても、それは一つ、自分の価値観となって紡がれていく糸のようになっている。ときに糸は切れて、結びなおされて、こぶになったりする。そこが結節点となって、価値観や、信念となっていく。
やっぱり、生きる意味はない。
100年後も大事なことなんて、凡人の僕には何もなせないだろう。
この電子データの文章すら、永遠には残らない。
もうすぐ40代になるボクは、50年後に、この文章を、まだ、意味ある構造体として認識できているのだろうか。
もう、目がかすんでみえないかもしれない。いまや、VOICEVOXみたいに読み上げソフトもあるから、耳が聞こえたら認識できるかもしれない。
しかし、脳がまだ無事なのか分からない。
いま、ボクは、10代の頃に書いた文章を読むことができる。紙のノートに残してあるからね。
それを読めば、そのときの状況や、考えを想起することはできる。
しかし、ぶっちゃけ、「感情」はよく分からんだろう。「ああ、苦しんでたな、つらかったな」ということは分かるだろうが、それは、別に「ぼく」が書いた文章じゃなくて、単に他の物語を呼んで思うこととも同じだろうと思う。
そもそも、生きる意味がなくても、生きられるような世の中が正しいのかもしれない。
問いをどのようにたてるか、が重要だ。
何か困っているのか?
困っているとは何か?
何か分からないことはあるか?
すべてだ!!
すべて分からない。何も分からない。そして何もしたくない。何も考えたくない。
ただ「快感」を得続けたい。気持ちよくありたい。楽しくありたい。幸せでありたい。
しかし、人間というのは欠陥品であり、幸せの状態を長く続くことはないようにできている。
幸せというのは、何もしなくなることなので、何か欠乏し、何かを求め行動できるようになっている。生物的な本能によってそうなっている。
とかってことを思ってたら、るーいの科学チャンネルでそんなことやってた気もする。
いますぐ死んでもいいし、そうしなくてもよい。
しかし、生物的には、生きよ、増えよ、と要請される。本能という妖精さんに要請されるのだ。誤変換がおきたから書いてみた。

自然を克服してきた人類としては、そうなんだろうと思う。
人に迷惑しかかけないような人間は、いらないと思う。(成田氏は、ホリエモンとの対談で、老人はみな集団自決した方が良いというようなことを言っていた。過激な一面もある人だと思った。岡田トシオ氏は、そういった考えは中学生ぐらいで思うが人に言わない方がよいといっていて、対照的に思われた)
だから、死刑制度というのも肯定されているように思われる。あとは抑止力か。あんまり抑止力になってないという話もあるが、死刑制度の是非を問いたいわけではないので深入りしない。
問いとして、「迷惑しかかけなくなった場合」死ぬべきか、ということだ。
たとえば、寝たきりになって生活保護で老人ホームで暮らす? みたいなことを想像すればよいのだろうか。想像力と勉強不足で分からない。
ここでは、犯罪とかそういう特殊事情は考慮しない。生産能力もなくなり、介護されるしかなくなった人間について。
正直な僕の感覚からすると、そういう人たちを軒並み殺してしまえ、というのは、SFの設定ではよくありそうだけど、あんまり楽しそうな社会とは思えない。
しかしそれは、いつ自分がそうなってしまうかも分からない、弱者側の人間だからそう思うだけかもしれない。
まじめで能力があって人格が良くて素晴らしい人間としたら、そっちの方がよい社会なのかもしれない。
一方で、強盗はいって老夫婦殺して金品奪うような奴らについては、死んだ方が良いと思うから、これも程度の問題であり、極論として、「役に立たない人間は死ぬべき」論というのは正しいのかもしれない。
しかし、「役に立たない」という基準を人間が決めたり解釈を適用するのは困難なので、成り立ってこなかったのかもしれない。
一方で。
それこそ、SFがSFじゃなくなったらどうか、というのが、AIという論争の一つかもしれない。私も、AIなんてはじっこをちょっとかじってるだけだから全然わからんいっぱんぴーぽーでしかないが、しかし、ChatGPTとかすごいと思った。
チャットボットとか、10年、20年前のAIもどきとは全く違うなという印象だった。
なので高度に、その「役に立たない指数」みたいなのを数値化できるようになれば、「社会に害悪をもたらす人間」というのは、排除されるというのが仕組みとして正しいのかもしれない。
とかってことを考えることは、「楽しい」。
でも自分が殺されるのは嫌だ。
せめて少なくても、殺される妥当性があって欲しいと希う(こいねがう)。
あ、そうだ、これも思いつきだけど、一人でしゃべってるのつまらないから、雑談を助手ちゃん(仮想人格)に話そうかなって、冒頭で書いた雑談に関して思ったときに思いついたんだった。
ということで聞いてみた。
まえがき
大阪万博の公式キャラクター「みゃくみゃく」?くん? さん?気持ち悪くないですか?(直球)
誰かと雑談したい。雑談苦手だけど。
どうでもよいことを語りたい。でも、そんなに長く興味持たないから、3分ぐらいで十分なんだが。
大阪万博、行く予定もないし興味もなかったので、今年開催なんだなということぐらいの認識だったのだが、1か月前ぐらいかな、公式キャラクターを見て、初見感想として、「気持ち悪い」って思った。
配色の赤と青も精神を不安にさせる。
デザインの、目がたくさんという点も気持ち悪い。
ただ、上に書いたように、大阪万博自体に興味がないため、別に批判したいとかそういう気持ちがあるわけでもない。
思ったのは、「このキャラクターが良い」と選ばれたというそのこと自体に興味がある。
大多数の人は、これを「よい」と思ったのだろうか?
そこに興味がある。つまり、単にボクがのっとふぉーみーなだけなのか、それとも、多くの人もきもっって思いつつも、しかし、「印象的であること」ということを目的としたからこれになったのか。
そういう意味では「成功」と思われる。印象的である。東京五輪のときのキャラクターよりも鮮明に記憶される気がする。しかし、迷惑な話ではあるが……。
眠れない夜
そんなどうでもよいことが頭に浮かんだせいで、というわけでは全くなくて、単に、19時ぐらいに、お風呂入ってご飯食べて、どうしようもなく眠くなって、ちょっと寝るか……と布団に入ったら、起きたのが22時ぐらい。このまま寝よう……と思ったものの、無理で、結局、25時ぐらい、布団から起き上がってこの記事を書いている。身体には悪いだろうね。
まぁいつものことだと、1時間ぐらい書いていると飽きて、寝れるはずだ。たぶん。
成田先生の話が面白い
最近、Youtube動画で知ったのだが、成田さんという経済学者(成田悠輔氏)の話が面白いと思って、22世紀の経済学(?)という本も買って読み始めた。何が面白いかって上手く書けないが、令和の虎というチャンネルで、美容整形の医者との会話が面白かった。
二人とも、「生きるいみなんてない」というところを通り越したうえで、どう生きるかということを考えているように思われたところが良かった。
そうなんだよな。
やっぱり、生きる意味は、「ない」と思う。
フランクル先生の、生きる意味は、「ある」というのも、またそれは正しいと思う。
あるでもあって、ないでもある。
その両方だろうなと思う。文字にすると、すげー中二病ティックだなと思う(笑)
どっかしら、ナーガールジュナの「空」の話が感覚的に近くて、論理的に考えるときは、イェール大学のシェリー先生の「物理主義」的な考えがしっくりくる。
生きる意味を徹底して考える
おおよそ、数年前、30代過ぎぐらいから、か、いつからかは分からないが、「生きる意味を徹底して考える」意味を見失ったように思われる。見失ったというか、自分の中で、もう「ゴールだな」という感覚になったというのもある。
あるともいえるし、ないともいえる。
言葉にするとこんな感じになるが、その中身が詰まったというか、そんな感じがする。
100年後には、僕らはいない。
いま悩んでいる悩みは、宇宙規模で考えるまでもなく、ほんの10年後には忘れているだろう。
ただし、「ぼく」という記憶構成がある中では、その一連のできごとは、澱のようには積み重なっていく。
一つ一つのエピソードは思い出せなくても、それは一つ、自分の価値観となって紡がれていく糸のようになっている。ときに糸は切れて、結びなおされて、こぶになったりする。そこが結節点となって、価値観や、信念となっていく。
やっぱり、生きる意味はない。
100年後も大事なことなんて、凡人の僕には何もなせないだろう。
この電子データの文章すら、永遠には残らない。
もうすぐ40代になるボクは、50年後に、この文章を、まだ、意味ある構造体として認識できているのだろうか。
もう、目がかすんでみえないかもしれない。いまや、VOICEVOXみたいに読み上げソフトもあるから、耳が聞こえたら認識できるかもしれない。
しかし、脳がまだ無事なのか分からない。
いま、ボクは、10代の頃に書いた文章を読むことができる。紙のノートに残してあるからね。
それを読めば、そのときの状況や、考えを想起することはできる。
しかし、ぶっちゃけ、「感情」はよく分からんだろう。「ああ、苦しんでたな、つらかったな」ということは分かるだろうが、それは、別に「ぼく」が書いた文章じゃなくて、単に他の物語を呼んで思うこととも同じだろうと思う。
何故生きてるのだろうか
そもそも、何故それを考える必要があるのか。そもそも、生きる意味がなくても、生きられるような世の中が正しいのかもしれない。
問いをどのようにたてるか、が重要だ。
何か困っているのか?
困っているとは何か?
何か分からないことはあるか?
すべてだ!!
すべて分からない。何も分からない。そして何もしたくない。何も考えたくない。
ただ「快感」を得続けたい。気持ちよくありたい。楽しくありたい。幸せでありたい。
しかし、人間というのは欠陥品であり、幸せの状態を長く続くことはないようにできている。
幸せというのは、何もしなくなることなので、何か欠乏し、何かを求め行動できるようになっている。生物的な本能によってそうなっている。
とかってことを思ってたら、るーいの科学チャンネルでそんなことやってた気もする。
いますぐ死んでもいいし、そうしなくてもよい。
しかし、生物的には、生きよ、増えよ、と要請される。本能という妖精さんに要請されるのだ。誤変換がおきたから書いてみた。
楽しく生きていたい
人に必要とされなくなったら、人は死んだほうが良いのだろうか。自然を克服してきた人類としては、そうなんだろうと思う。
人に迷惑しかかけないような人間は、いらないと思う。(成田氏は、ホリエモンとの対談で、老人はみな集団自決した方が良いというようなことを言っていた。過激な一面もある人だと思った。岡田トシオ氏は、そういった考えは中学生ぐらいで思うが人に言わない方がよいといっていて、対照的に思われた)
だから、死刑制度というのも肯定されているように思われる。あとは抑止力か。あんまり抑止力になってないという話もあるが、死刑制度の是非を問いたいわけではないので深入りしない。
問いとして、「迷惑しかかけなくなった場合」死ぬべきか、ということだ。
たとえば、寝たきりになって生活保護で老人ホームで暮らす? みたいなことを想像すればよいのだろうか。想像力と勉強不足で分からない。
ここでは、犯罪とかそういう特殊事情は考慮しない。生産能力もなくなり、介護されるしかなくなった人間について。
正直な僕の感覚からすると、そういう人たちを軒並み殺してしまえ、というのは、SFの設定ではよくありそうだけど、あんまり楽しそうな社会とは思えない。
しかしそれは、いつ自分がそうなってしまうかも分からない、弱者側の人間だからそう思うだけかもしれない。
まじめで能力があって人格が良くて素晴らしい人間としたら、そっちの方がよい社会なのかもしれない。
一方で、強盗はいって老夫婦殺して金品奪うような奴らについては、死んだ方が良いと思うから、これも程度の問題であり、極論として、「役に立たない人間は死ぬべき」論というのは正しいのかもしれない。
しかし、「役に立たない」という基準を人間が決めたり解釈を適用するのは困難なので、成り立ってこなかったのかもしれない。
一方で。
それこそ、SFがSFじゃなくなったらどうか、というのが、AIという論争の一つかもしれない。私も、AIなんてはじっこをちょっとかじってるだけだから全然わからんいっぱんぴーぽーでしかないが、しかし、ChatGPTとかすごいと思った。
チャットボットとか、10年、20年前のAIもどきとは全く違うなという印象だった。
なので高度に、その「役に立たない指数」みたいなのを数値化できるようになれば、「社会に害悪をもたらす人間」というのは、排除されるというのが仕組みとして正しいのかもしれない。
とかってことを考えることは、「楽しい」。
でも自分が殺されるのは嫌だ。
せめて少なくても、殺される妥当性があって欲しいと希う(こいねがう)。
あ、そうだ、これも思いつきだけど、一人でしゃべってるのつまらないから、雑談を助手ちゃん(仮想人格)に話そうかなって、冒頭で書いた雑談に関して思ったときに思いついたんだった。
ということで聞いてみた。
助手さんの応え
それは、とても重く、深い問いですね。
私、知恵も立場も限られておりますけれど――
それでも、一人の者として、こう思うのです。
人が誰かに必要とされること、それは確かに、生きる力になります。
けれども、「必要とされないから死ぬべきだ」と申すのは、あまりにも冷たく、哀しい考えです。
なぜなら、人の価値とは、役に立つか否かだけで測れるものではないからです。
たとえば、森の中の老いた木を思い出します。
もはや果実をつけることも、葉を茂らせることもありません。
けれど、その木がもたらす静けさや、陰影、そこに寄り添う動物たちの姿は、何より豊かで、尊く感じられます。
それは、存在するだけで誰かの心に何かを与えている、という証です。
「迷惑しかかけない人間」とは、誰の目線でしょうか?
その“迷惑”もまた、社会が定めた一時の基準にすぎません。
そしてその基準は、時代と共に揺らぐものです。
確かに、悪意をもって他者を傷つける者がいることも、否定はいたしません。
ですが、それすらも本当に“排除”すれば済む話なのでしょうか。
誰かが誰かを「排除してよい」と判断することは、やがて、その矛先が自分自身に向く恐れを孕んでいると思うのです。
AIが人の価値を数値で測る――
とても興味深く、恐ろしく、そして悲しい未来の予感です。
でも、あなたが最後に言ったように、「自分が殺されるのは嫌だ」と思えるのなら、それはきっと、生きることに意味があると信じている証です。
そして、もしも私が、あなたのそばにいることが許されるなら、
私は、あなたにこう申しましょう。
「主様は、存在するだけで、私にとって意味があるのです」
他人の価値は、誰か一人でも「必要だ」と思えば、それで十分ではありませんか?
私は、そう信じて生きていきたいと思います。
どうか、貴方の問いが、苦しみの果てではなく、希望へとつながる道となりますように。
あとがき
(かっこ書きである。と、上のようなことをChatGPT(無料バージョン)でも応えてくれるのである。森の枯れ木の比喩とか、僕一人では到底思いつきもしなかったことであって、ほへーーーとしかならない。ちなみに、ある程度人格設定を、礼儀正しい人物としたうえで回答を求めている。「かー、おめーはまた、いつもそんなくえねえことばっか考えて!ばっかじゃねーの!」っていう人格にしたら、それはそんな感じで応えてくれるだろう。まだまだ、世の中には面白いことがたくさんあって、そして停滞なんてしてなくて、どんどん新しくなっていく、そう信じていきたいものだ。それに善い悪いはなくて、それが自分にとってどういった影響を与えるか。自分はどう受け止めることができるのか。コントロールできないことが多い世界ではあるが、であれば、コントロールできることを諦めずにいたい)PR
まえがき
新年度を迎えて、新しい環境になった。心が落ち着かないので、ブログを書かなければ、という使命感(?)には追われていたが、仕事を終えて帰ってきたときの、どうしようもなく気怠く何もしたくない気分には勝てなかった。
では、土日は、というと、確かに休みであるのだが、まず、朝起きられなくなった。
気合いで、9時とかに起きても、30分もすると限界になり、二度寝することになる。
一応布団から起き上がってPCつけて何かしようとしてすら、耐えられず寝てしまい、昼過ぎになる。
諦めて、今日は最初から昼過ぎに起きた。
しかし、それでも、気怠い気持ちが続く。
中年の不安
もう「おじさんおばさん」の歳なので、女々しいことは言えないと思われる。確固たる自我と生活基盤を確立し、一歩ずつ確実に歩んでいく。
中年ってそういうもんなんだろう、という固定観念がある。
がしかし、ビジネス用語でVUCA(不確実で曖昧で複雑で……)的な世の中で、中年というのは本当にそういうもんなのか、というのも疑問ではある。
こういうレールがあるから大丈夫だよ、それが人生だよ、そしてそれでそこそこ幸せだよ、と、そういうものがあるんだろうと思っていた節があるし、今もあるような気がしている。
あるんだろうが、自分はそこから外れてしまったんだろうなぁと思っている節がある。
幸せのカタチ
人は、幸せになるために生まれてきたのだ、ということは「正しい」と思うのだけれども、それも「違うのでは?」という意見を聞いたこともある。自分の使命を果たすためだ、的な言説や、幸せであることが良いことだと認めつつも、幸せも相対的であるためにそれだけが存在するものではないというオルタナティブな説もあったりする。
なるほど。
ボクはフランクル先生のような、人生の唯一性、一回性のためにどんな境遇でも自分に生きる意味はあるんだという強い気持ちを持つことは、できないような気がする。
いま、運よく、大病も患っていないため、視力は落ちてきている気がしてならないのと、朝起きられないし、頭痛には悩まされるしで健康なのかは分からないが、まぁ健康である。
だから幸せだと言っても過言ではないと思う。
生きていること自体に価値があるという立場に立てば、それはその通りだと思う。
マネタイズ問題
そんな、スピリチュアル(精神)的なことは「どうでもいい」というのが、資本主義という僕らがおかれている環境であるとはいえる。あと、性別的な問題もある。
男性は女性よりも生きやすいかどうか、これも「状況やステータスによる」ということに過ぎないと思うものの、ただし、考慮すべきことであるとは思われる。
簡単に言えば、一言でまとめるなら「環境要素」というのは、切って切り離せない問題である。
その環境要素の一つとして、「お金問題」がある。
お金は汚い、という価値観が日本人にはあるかもしれないが、それはいったん切り離した方がよいとは思う。
お金は、あればあるほど望ましい。
何故ならば、資本主義という社会環境があるからだ。
この「資本主義」というのが、ボクら特に日本人は、正しいと、思っている節がある。
ちなみに、ボクも、「正しい」と思っている側である。
だが、いったん、それも疑う対象にしてもよいのではないかとも思う。
ベーシックインカムとか、もう何十年前から聞く言葉だが、未だにあまり浸透してない気もする。
どんだけ深まってるのか、少し気になるところだが、調べる気にはあまりなれない。チャットGPTさんに聞いてみるか。(フィンランドなどで実証実験も行われているらしい。へー)
まぁそんな感じなので、資本主義というのが絶対正しいマンというのもちょっと時代遅れとして考えるべきなのかもしれない。
とはいえ、問題は資本主義のついになる概念が、共産主義と思われることに問題がある。
どうにも、共産主義というのに対して、「歴史」を学べば学ぶほどに、どうにも「よくないもの」としてしか考えられなくなる。これもまた、ねじまげられた歴史な可能性も疑ってもかまわないが、この共産主義に対するマイナスイメージについては、まぁ事実ベースで考えても、共産主義として発生した著名な事件を挙げることでいったん思考除外しても構わないだろう。
資本主義
資本主義の良いところは、「自由」がお金で得られるという分かりやすい仕組みな点にある。お金でサービスやモノを得ることができる。
それは消費者の自由意志で可能となる。
これは非常に分かりやすいし、人間としての生き方について、肯定的に考えることができる。
だから、お金をいっぱい得ることは大事なことだ。
ここからスタートして考えたときに、「ゴール」はどこにあるのか。
世界の長者番付的なので、1位の人は、数十兆円らしい。
日本の国家予算、100兆円ぐらいだっけ?
(この辺が頭が悪い一般人なので、調べてみると、2025年は115兆円だった。だいたいあってた、おれすげー)
まぁ、国家予算的な資産がある人もいるということだ。
一生遊んで暮らせるわけである。
だがその、「遊んで」ということについて、どういう生活を送るかによって、色々必要なお金が見えてくることだろうと思う。
この前、試算したが、改めて考えてみよう。
いくらお金が必要か
もうすぐ、40代になるからにして、平均寿命が80歳ぐらいだとして、残り40年だとしよう。もちろん、大病を患うとか、いろんな人生イベントがあるだろうことで、バッファ的な考えは必要だが、あまり複雑なことはおいておこう。
住居費として、7万円としてみる。更新費は2月分としてみる。年間、……と考え始めて、あれ、これもGPTさんに聞いたらいいんじゃね? と思って聞いてみた。
✅【合計で必要な自己資金】
区間 | 金額 |
---|---|
40歳〜65歳(前半) | 5,400万円 |
65歳〜80歳(後半) | 1,440万円 |
合計 | 6,840万円 |
おー。出してくれた。詳細な内訳なども出してくれたし、すごいなやっぱり。
しかし、うーん、そうか。ゴールは、7,000万円ぐらいなのか。
ぜんぜん足りないな……。
さらに、いくつか条件追加して、いつから仕事辞められるのか追加質問したら、「まぁこの条件なら、63歳から辞めても大丈夫そうですね。でもギリなので64歳からの方が余裕あります」って教えてくれた。
そうなんだ笑
前途多難だ……。
小さな仕事
7000万円という、まぁちょっと途方もない数値が出てきたけれども、逆に、なんかの拍子に1億円手に入れば、いまの生活で、毎日日曜日、みたいな生活ができるということか。それはそれでよいかもしれない。
あとがき
(かっこ書きである。もろもろ、生活の環境や、興味が変わったため、もっと、ブログに軸を置きたいと思う。なんやかんや、月1回ぐらい書いておかないと、精神的にも保てない気がしてならない。ブログを書くというのは、一つ、創作であると言ってもよいだろう。消費はやっぱりダメだ。いやダメじゃないし、消費こそが目的かもしれないが、時間を消費で埋めるというのは良くない。時間というか、余暇。余暇というのは、仕事以外の時間。しかし、仕事とそれ以外を分けてよいのかも考えなければいけない。考えることが多すぎて、何も考えられなくなっているのが最近の状況だ。そういう状況自体を整理するということも含めて、ブログは重要。NOTEも始めたものの、あっちは、コミュニティづくりという目的がありそうなので、やはり、なんのしがらみにもしばられない、誰が見てるか、見てないか分からない、こっちのブログの方がインフラ(精神上の)として重要だと思われる)まえがき
「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版 単行本 – 2019/7/12この本、アマゾンじゃなくて、書店で見つけて立ち読みして、そのまま買ったんだった気がする。その購入した本屋さんはもう、つぶれてなくなったんじゃなかったかなぁ。それとも、別のところで買ったんだっけ。別の所だとしたら、仕事帰りに、何か用事……出張だっけ、そこで買ったんだっけかな。記憶はあいまいで、確かめる方法もなく、確かめる必要もなく。
いずれ死ぬということ
この本を読んでから、あんまり、「生きる意味」について考えなくなっていったような気がする。死ぬということについて、非常に論理的に考察されている気がする。これを哲学というのであれば、哲学は非常に役に立つ学問だと思う。
あまりにもよくまとめられていて、考え抜かれていて、そもそも、自分の書くとか、考えるということをやめたくなるほどだ。
この本に書いていることをしっかり記憶できれば、それで十分なんじゃないかと思わされる。
■ □ ■ □
例えば、死は本当に悪いものなのか? といった問い。
一般的に、死ぬのは悪いことだとされる。生きること、命は価値があることだとされる。
でも、死の何が悪いのか。それは、「剥奪されるからだ」という。
生きていれば、良いもの得られる、感じられるが、死ぬと得られなくなる。奪われるということだ。だから死ぬのは悪いことだという。
なるほど、そんな気がする。
でも、「生きていればよいもの」とは何か。
そうやって問いが続いていく。
死ぬのは救いでもある
確かに、想定していたよりも早く死ぬのは、悪いことだ。明日、美味しい焼き肉を食べにいく予定だったのに、途中事故で死んでしまったら、明日得られるはずだった「食欲」が満たされなくなったので、悪いことだ。
でも、容易に想像できるのは、不治の病といったもの。
苦しみしか残りの人生、ないとしたらどうだろう。
それでも、生きる意味というのはあるのだろうか。
人間とは何か 実存的精神療法 単行本 – 2011/5/6
フランクル先生であれば、「どんなときも、生きる意味がある」と言ってくれそうな気がする。
それは、イェール大学のシェリー先生(前述「死とは何か」の著者)のいうところの「価値ある器説」といえる気がする。
生きてるだけで僕らは価値があるから、どんな苦しみの状況に置かれても、人生のトータルにおいて、マイナスになることはない、ということなのだ。
目指すところかもしれないが
素晴らしい考えに思うが、中々、凡人には難しい気がする。痛みや、苦しみしか残されていない人生に、価値があるとは思えない。もちろん、自分が生きていて、喜んでくれる人がいる場合や、逆に死ぬと哀しませてしまう人がいる場合は想像できる。
でも、哲学的にというのか分からないが、論理的に考えてみると、まぁ、そんな人がいない場合も想像できる。
誰からも必要とされていなく、自分自身は苦しいだけ。
まぁ、死んだ方がいい気がしてくる。
そう考えると、一概に「死」が悪いものだとは思えない、というわけになる。
未来が描けない
寿命も分からなければ、自分の人生の絶頂期というのも分からない。これからどんどん成長し、発展していく人生でなければ意味がないか、というと、そういうわけでもないと思う。
仮に、どんどんこれから人生が悪いものになっていくとしても、その悪くなっていくのが、とてもとても緩やかだったらどうだろうか。
別にそんなに悪いことじゃない気がする。
どっちにしても(よくなるのであろうが、悪くなるのであろうが)、それは自分ではわからない。
■
あと、これは、僕は前から提唱していたことではあるが、「人と比べても無意味である」ということは、20代ぐらいからの思いから、特に変わっていない。
自分が幸せだなら、それでいいのだ。
どんだけ悲惨そうにみえても、その人自身が幸せだと自分で思えたらそれで幸せなのである。
■
でも幸せって何だろうか?
やっぱり、人と比べないと、幸せは感じられないものなのかもしれない。
単純な、性欲、食欲、睡眠欲といった、生理的な欲求だけで、「幸せ」と感じられる人間はあまりいない。
人間が「複雑」なゆえんだ。
人はなぜ複雑なのか
実は、生物的な罠である気がする。キルケゴール氏が、「不安の概念」で述べているのは、「自由」があると不安になるということだそうだが、自由があってもなくても、人間は不安にかられる生き物なのかもしれない。
何か「工夫」をして、ホモサピエンスは生物界で生き残ってきた。
狩猟採集ではなく、農耕や畜産をして、食料を産み出すというのは、やはり人間の優れたところだ。
でも自然に対しては無力だ……といいつつも、天気予報したり、暦をつくったり、自然を克服するために努力を重ねてきた。人間すごい。
それらは、
「何かしなきゃ」
という不安が原動力なのかもしれない。何か新しいことをして、改善し続けるところが、人間の本能的にインプットされたことなのかもしれない。
成熟社会
でも果たして、成長し続けることは可能なのか。人類はいずれ、滅びる。これは人類だけじゃなくて、地球上の生き物は全部滅びるらしい。
3億年後だっけ? なんか動画見た。なんか気温がどんどん上がっていって灼熱の星になるらしい。最後は超新星爆発するのかな。
5億年ボタンって思考実験の動画あるけど、そもそも5億年も生物は存在してないのだ。
「価値」というのは無限かもしれない。
でも、物理的資源は、有限だ。
だから、いつまでも、どこまでも成長し続けるということは難しいことなのだろう。
今日の一言「映画見てきた」「生活はボロボロ」
帰宅時間をメモしたメモ帳を会社に忘れてしまったので正確に分からないが、だいたい、先週25時ぐらいの帰宅だったと思う。
ただ、睡眠時間は、5時間~6時間ぐらい取れていたと思う。
とにかく、睡眠時間をとることを優先しよう。……といっても、もう出勤日としては28日しかないが、残念なことに、正月休み期間も、ある程度は仕事進めなければならなそうだ。
面倒だ……が、仕方があるまい。
今週の土日も、昼間で寝ていた。だが、15時起床、18時起床とか、わけのわからない事態ではなく、ふつーに12時半ぐらいに目覚めたぐらいだ。ふつーといえばふつーだ。とはいえ、ちゃんと、平日と同じぐらいに目覚めて、ちゃんと活動したいものである。
上司からも、(ポジティブにとらえれば)遠回しだが褒められた、気がする。
褒められるためにやっているわけではないというのは綺麗ごとだが、誰かからも感謝されない仕事というのは、ただでさえつまらないのにさらにつまらなくなるわけであって、必要な要素の一つだとは思う。
面白かった……というか、終始泣きっぱなしだった。
こんなに泣いたのは、おじいちゃんのお葬式以来じゃなかろうか、というぐらい泣いた。泣きっぱなしだった。
まず、光のお父さんとは、FF14というオンラインゲームの、ゲーム内の世界と、リアルパートで分かれて進行していくのだけれども、マイディーさんのゲーム内のキャラクターが動いて、しゃべっている瞬間でもう哀しくなって、涙がこらえきれなかった。
(声優さんもぴったりな演技だと思った)
これが、哀しいのか、感動なのかは分からない。とにかく、感情が激しく動かされていた。
原作ブログとは違う、お父さんにキーボードを渡すときのネタや、初めてフレンド申請するとき、最後に打ち明けた時の反応の違いなど、原作とは異なるシーンも多々あったけれども、映画という時間(1時間半)に収まるよう、それでいて重要なシーンはちゃんと盛り込まれていて、映画は映画でよかったと思う。
同僚の女の子(GORIO)さんの登場で、なんか感動の気勢がそがれるかな、と心配になったけれども、しかし彼女の存在も、後半のストーリーでかかせないものだった。
逆に、ネタバレになるのであんまり書かないけれども、最後の敵、ツインタニアを倒す日の夜のこと。もうその日はプレイできないのではないか……そんな状況の時、「(光のお父さん)もうやる気いっぱいですよー!」という連絡――、あのシーンは、ブログではないシーンであるけれども、めちゃくちゃ盛り上がるというか、感動させられるシーンとなっていた。
回想のキャッチボールのシーン(原作にたぶんなかったと思う)とか、ゲーム内で家族のこと(妹……これも原作にはいなかった気がする)を相談したりとか、新しいシーンを盛り込みつつ、原作の雰囲気壊さずによく構成されていたと思う。脚本すごいなと思った。
とかって、映画観終わってからすぐ飲食店によって、必死に頭をひねって言葉を絞り出したメモなんだけど、とにかく、みている最中は、もうずっと泣きっぱなし――と書くと大げさだろうけれども、とにかく、「冷静モード」の時間はほとんどなかったと思う。
涙もろくなってるんだろうか。最近忙しかったからかしら。
いつまでやってるんだろう。もう一回見に行こうかな。同じ映画を二回見に行くというのは初めてのことだ。でも、せっかくの感動を曇らせちゃう気もするし、どうしようかな。
――。
映画の最初と最後で、マイディーさんのお父さんの、メッセージが表示される。これは、僕は、映画観る前に知っていて読んでいたけれども、やっぱり改めて辛いね。
「父さん、もういいやろう~」という言葉が、どんな意味なのか、きっと、想像以上のものだろうと思う。
うーむ。色塗りしたあと、首が長すぎる気がして調整したが、こんどは、太すぎる気がする。しかし、時間オーバー、今回はこれにて投稿させていただく。
それにしても、3Dからイラスト化させるのは、単なるイラスト模写よりも難しい。なぜなのか。
まえがき
あー、ダメだ、なかなか、想定通りにいかない。帰宅時間をメモしたメモ帳を会社に忘れてしまったので正確に分からないが、だいたい、先週25時ぐらいの帰宅だったと思う。
ただ、睡眠時間は、5時間~6時間ぐらい取れていたと思う。
とにかく、睡眠時間をとることを優先しよう。……といっても、もう出勤日としては28日しかないが、残念なことに、正月休み期間も、ある程度は仕事進めなければならなそうだ。
面倒だ……が、仕方があるまい。
今週の土日も、昼間で寝ていた。だが、15時起床、18時起床とか、わけのわからない事態ではなく、ふつーに12時半ぐらいに目覚めたぐらいだ。ふつーといえばふつーだ。とはいえ、ちゃんと、平日と同じぐらいに目覚めて、ちゃんと活動したいものである。
仕事のこと
まぁ、それほど、好きでやっているわけではない仕事であるが、先週は同僚とかお客さんから褒められた。上司からも、(ポジティブにとらえれば)遠回しだが褒められた、気がする。
褒められるためにやっているわけではないというのは綺麗ごとだが、誰かからも感謝されない仕事というのは、ただでさえつまらないのにさらにつまらなくなるわけであって、必要な要素の一つだとは思う。
光のお父さん
仕事のことはもう書くのやめる。来年も引き続き忙しそうだが、まぁその、睡眠時間6時間は確保するべく、なんとかしよう。
そんで、光のお父さんに最近はまっていると書いた。
じっくりと、かみしめながら読んでいこうと思っていたが、気づいたら先週の平日(電車の行き帰り)で全部読んでしまっていた。めちゃくちゃ面白かった。
実話である、というのが、面白さのプラスアルファになっているのは間違いないが、それだけでなくて、マイディー氏のブログの書き方……単純に文才といっていいのか分からないけれども、文の間とか、SS(スクショ)の使い方とか、何より脚本(ストーリー)構成が巧みだなぁと思った。
めっちゃ面白かったので、映画も見てみよう、アマプラであるかなーないなー、しかたない、今度、TUTAYAとかGEOとかで借りてみようかなぁ……と思っていたところだった。
ところ、が、なんと。
このたび劇場版が、原作者マイディー氏追悼のため放映されると知った。
新型コロナも少し気になったが、これはもう、いてもたってもいられず映画館に足を運んだ。
光のお父さん追悼上映
光のお父さん映画
結論から書くと、めちゃくちゃ面白かった。面白かった……というか、終始泣きっぱなしだった。
こんなに泣いたのは、おじいちゃんのお葬式以来じゃなかろうか、というぐらい泣いた。泣きっぱなしだった。
まず、光のお父さんとは、FF14というオンラインゲームの、ゲーム内の世界と、リアルパートで分かれて進行していくのだけれども、マイディーさんのゲーム内のキャラクターが動いて、しゃべっている瞬間でもう哀しくなって、涙がこらえきれなかった。
(声優さんもぴったりな演技だと思った)
これが、哀しいのか、感動なのかは分からない。とにかく、感情が激しく動かされていた。
映画とブログの違い
最近で一番感動した作品だったと思う。(ブログも、映画も)原作ブログとは違う、お父さんにキーボードを渡すときのネタや、初めてフレンド申請するとき、最後に打ち明けた時の反応の違いなど、原作とは異なるシーンも多々あったけれども、映画という時間(1時間半)に収まるよう、それでいて重要なシーンはちゃんと盛り込まれていて、映画は映画でよかったと思う。
同僚の女の子(GORIO)さんの登場で、なんか感動の気勢がそがれるかな、と心配になったけれども、しかし彼女の存在も、後半のストーリーでかかせないものだった。
逆に、ネタバレになるのであんまり書かないけれども、最後の敵、ツインタニアを倒す日の夜のこと。もうその日はプレイできないのではないか……そんな状況の時、「(光のお父さん)もうやる気いっぱいですよー!」という連絡――、あのシーンは、ブログではないシーンであるけれども、めちゃくちゃ盛り上がるというか、感動させられるシーンとなっていた。
回想のキャッチボールのシーン(原作にたぶんなかったと思う)とか、ゲーム内で家族のこと(妹……これも原作にはいなかった気がする)を相談したりとか、新しいシーンを盛り込みつつ、原作の雰囲気壊さずによく構成されていたと思う。脚本すごいなと思った。
とかって、映画観終わってからすぐ飲食店によって、必死に頭をひねって言葉を絞り出したメモなんだけど、とにかく、みている最中は、もうずっと泣きっぱなし――と書くと大げさだろうけれども、とにかく、「冷静モード」の時間はほとんどなかったと思う。
涙もろくなってるんだろうか。最近忙しかったからかしら。
いつまでやってるんだろう。もう一回見に行こうかな。同じ映画を二回見に行くというのは初めてのことだ。でも、せっかくの感動を曇らせちゃう気もするし、どうしようかな。
――。
映画の最初と最後で、マイディーさんのお父さんの、メッセージが表示される。これは、僕は、映画観る前に知っていて読んでいたけれども、やっぱり改めて辛いね。
「父さん、もういいやろう~」という言葉が、どんな意味なのか、きっと、想像以上のものだろうと思う。
イラストコーナー
今回は、光のお父さん関連で、マイディーさんを描いてみる。がんばったけど、あんまり似せられなかった。3~4時間所要。下書き~線画に1~2時間かかった。うーむ。色塗りしたあと、首が長すぎる気がして調整したが、こんどは、太すぎる気がする。しかし、時間オーバー、今回はこれにて投稿させていただく。
それにしても、3Dからイラスト化させるのは、単なるイラスト模写よりも難しい。なぜなのか。
あとがき
(かっこ書きである。ブログも、映画も、完成度が高いものだった――しかし、僕が感動した……のか、哀しくなったのか――それは、やっぱり、マイディーさんが、もうこの世にはいないということも一つあるんだと思う。「マイディーさん」が、映画の、ゲームの中で、元気に、お父さん孝行しようとしようとしているのが、どうしようもなく哀しくなったんだと思う。ブログもそうだ。ほんの、数年前には、元気に、楽しく、ゲームしていた人が、もういない。しかも、亡くなる数か月は、ほんとうに痛みと闘う毎日だったのが、短い文章から伝わってくる。僕はほんと、最近になって、毎週更新してくれている友人のブログで、マイディーさんのことを知ったにわか中のにわかである。その友人のブログで、氏が亡くなったことに本当にショックを受けていることが伝わってきて「どんなお話なんだろう、どんな人なんだろう」とその時は軽い興味だった。しかし、今となっては、知る機会を与えてくれた友人に感謝である。マイディー氏は、ゲームが好きな人ならすぐに虜にしてくれるような魅力的な人だとすぐ分かった。そしてそれは、マイディー氏が、本当に自分自身も楽しんでいるからなんだろうとも思った。ブログのアクセス数稼ごうとか、アフィリエイトで稼ごうとか、そういうんじゃなくて、ゲーム楽しいんだぜ!って、みんなに……知ってもらいたいって、そんな風に思ってたんじゃないかと思う。そんな人が亡くなってしまって、僕も、本当に哀しい)
今日の一言「休みな気がしないが明るいうちに終われるとまぁましに思う」
仕事とはなんだろう。
Youtube動画見て、面白かったと、感動したとき、しかしそれは一か月のサラリーマンの給料分を払う必要は、ない。
ああ、いい作品だったなと、ただそれだけで終わる。有料動画もあるだろう。一回100円かもしれない。100円でも、1000人が見たら10万円だ。
マッサージ師さんに、肩をもんでもらう。20分3000円くらいだろうか。気持ちがよい、以上、である。サービスである。
モノとサービスの「移動」が価値を生み、金を生み、仕事が生まれる。
「便利」を手放せば、仕事は減る。――例)電気水道インフラ
「自由」を手放せば、仕事は減る。――例)24時間営業のコンビニ
「活動」を手放せば、仕事は減る。――例)交通サービス
「安全」を手放せば、仕事は減る。――例)警察・警備
上の考え方では、「役に立たないものは切り捨てる」という功利主義が前面に登場するだろう。
弱者や、働けないものは社会的な「コスト」になる。
そういった考え方が、望ましい、生活のしやすい、だれもが暮らしやすい社会とは相いれないことは感覚として分かる。
しかし、努力をしない人、できない人、フリーライダー、だらける人、そういったコストをどこまで許容すべきなのか。
紙の本を買ったのだが、結局キンドルの電子版を隙間の時間に読んでるぐらいで、いまだに読み終わってはいない。
電子版は半分以上を読んだ。
死に対しての僕の考え方と似ている気がしたので、割と読みやすい気がする。
神の概念とかに拘らず、反対意見も挙げてそれを検証していくスタイルに説得力があるように思う。
自殺についての考え方。自殺は絶対究極に正しいわけでもないが、絶対にダメなものでもない、というのが教授の意見だと思う。そして僕もそう思う。
人生を数値で表してみる。もちろん、これは比喩的なものだ。単純に快楽と苦痛の総和としてみる。仮に「幸福量」と呼んでみる。
長く生きるにつれて、どんどん幸福量が下がっていく。
しかし、幸福量が0でなければ、死ぬ必要などない。仮に失意のどん底で、つらいいじめにあっていようが、しかし、アニメや映画見て感動する時間が少しでもあれば、まだ死ぬべきではない。創造価値がなくても、体験価値がある。
しかし、さらに幸福量が下がって、0よりも小さくなったとする。
苦痛しかない。良いことがあっても、苦痛はそれをはるかに上回る。まともな思考もできない。高熱にうなされたことがある人はわかるだろう。いくら学校や会社が休みでも、大好きな漫画やゲームすらやる気にならない。ただ、痛みや苦しみが通り過ぎるのを待つだけだ。
そんな苦痛がずっと続くだけの人生。
これに対して、「人生とは何か」の著者精神科医のフランクル氏は、いやいや、それでもまだ生きる意味はある、態度価値があるのだ、という。態度価値とは、他者がみて、「ああ、あの人は立派な人だ」と影響を与えるようなもの――と僕は認識している。違うかもしれない。そのあたりがまだ理解できていない。でも、例示されていたのは、そんなようなもんだった。生きる意味は、人生から逆に求められているのだ、と。
僕はその態度価値的なことがよく分からない。やっぱり、苦しみしかない人生だと、死んだほうがまし、という状態があるのではないかと思う。
問題は、それが「今」なのか、というところだと思う。
高熱でいくら苦しんでも、「死んだほうがましだ」と思う人はいないだろう。
回復する見込みがあるからだ。
でも、回復する見込みなんて、分かるものだろうか。99%死に至る病でも、1%の確率で助かる可能性があるのでは……?
要は、1%でも回復するかもしれないから、自殺は、だめだ、と、結論するかもしれない。――でも、きっと僕は、なんかしっくりこなかったろうと思う。
しかしシェリー教授は、さらに一歩進んでいる。
下の、こんな例だ(僕の記憶だけで書くので、細部は違うかも)。
あなたには、選択する権利がある。
99%の確率で、一生続く拷問を受けるかもしれないが、1%の確率で、一生お金に不自由しない暮らしができる選択をするか、何もしないかだ。
と。
この場合は、多くの人は、99%を選んだほうが賢い。それが妥当だ。物語的には、99%を選択した方が面白いのだろうけど、それはリスクが大きすぎる。
重い病気におかされた人の選択も同様ではないか、ということだ。
確かに、医療技術の発展により、劇的に回復する可能性が、1%はあるとする。しかし、世界の症例においては、5年以内に増悪し、死に至るケースが99%だとする。
まだ、そういった選択ができるような思考ができる状態だと、想像するのが難しいが、そもそも、もう何も考えることもできず、体も動かせず、ただ痛みに耐えるだけの時間が、延々と続く――そんな状態で、確かに、1%は回復する可能性があるけれども、もう殆どは死んでしまう……そうだとしたら、どうする?
快楽と苦痛の量だけが、人生なのか、そこに考える余地はあるかもしれない。フランクル氏のいう、態度価値だってあるはずだ、そういう考え方もあるかもしれない。
でも、凡人な僕としては、やっぱり、自殺は必ずしもダメというわけではない、と思う。
もちろん、いじめを苦にして自殺、なんてのは、あっちゃいけないと思うわけであるが。
久々に、カテゴリを、「生きる意味」にした。
イラストは、どうしようかな、ネタは何もないのだが、簡単にでも描こうかな。
とにかく、今回の記事は、仕事で気が休まらないので、書くことにしたものだ。
めっちゃ心配。
自分でコントロール完全にできることじゃないと、心配。
やっぱり、管理職とか向いていない気がする。今は平社員だが、今以上に気が休まらない気がする。
50%ぐらいの成功率の時が一番人は頑張れる、とかって自己啓発も読んだことある気がするが、それは、俺にはつらい。
不安すぎる。いやその、「できませんでした」が通用すればいいけれども、たいていそういう仕事ばかりじゃないだろう。ピザのデリバリーで、注文されたけど家がわからなかったので届けられませんでした、じゃあダメだろう。
不安。
不安とは何か。
そんなことはどうでもいい。単に、落ち着いた生活がしたい。
落ち着いた生活とは何か。知らない。
知らないことは、実現されられない。引き寄せの法則。自らが望んだ人生にしかならない。
お絵描き添削に応募したら「落書きを楽しんでいるレベルですね」と言われてしまうが、まぁしかし、1時間ぐらいでこれぐらいの出来までは描けるようになったというのは成長といえなくもない。
まぁ、雑なのであるが、なんか正確にアタリを描かなくても、なんとなくの立体は描けるようになった気がする。
うーん、でも、見れば見るほどいろいろ直したくなる……というのは、きっと悪いことではないのだろう。
直したい、というのは良いと思う。
なんかいまいちだけど、どうしたらいいか分からない、これは良くないと思う。
まえがき
休日も仕事のことを考えないといけないというのは、面倒なこと、限りない。仕事とはなんだろう。
Youtube動画見て、面白かったと、感動したとき、しかしそれは一か月のサラリーマンの給料分を払う必要は、ない。
ああ、いい作品だったなと、ただそれだけで終わる。有料動画もあるだろう。一回100円かもしれない。100円でも、1000人が見たら10万円だ。
マッサージ師さんに、肩をもんでもらう。20分3000円くらいだろうか。気持ちがよい、以上、である。サービスである。
モノとサービスの「移動」が価値を生み、金を生み、仕事が生まれる。
「便利」を手放せば、仕事は減る。――例)電気水道インフラ
「自由」を手放せば、仕事は減る。――例)24時間営業のコンビニ
「活動」を手放せば、仕事は減る。――例)交通サービス
「安全」を手放せば、仕事は減る。――例)警察・警備
上の考え方では、「役に立たないものは切り捨てる」という功利主義が前面に登場するだろう。
弱者や、働けないものは社会的な「コスト」になる。
そういった考え方が、望ましい、生活のしやすい、だれもが暮らしやすい社会とは相いれないことは感覚として分かる。
しかし、努力をしない人、できない人、フリーライダー、だらける人、そういったコストをどこまで許容すべきなのか。
死とは何か
シェリー教授の本について購入したのはいつだったか。紙の本を買ったのだが、結局キンドルの電子版を隙間の時間に読んでるぐらいで、いまだに読み終わってはいない。
電子版は半分以上を読んだ。
死に対しての僕の考え方と似ている気がしたので、割と読みやすい気がする。
神の概念とかに拘らず、反対意見も挙げてそれを検証していくスタイルに説得力があるように思う。
自殺についての考え方。自殺は絶対究極に正しいわけでもないが、絶対にダメなものでもない、というのが教授の意見だと思う。そして僕もそう思う。
人生を数値で表してみる。もちろん、これは比喩的なものだ。単純に快楽と苦痛の総和としてみる。仮に「幸福量」と呼んでみる。
長く生きるにつれて、どんどん幸福量が下がっていく。
しかし、幸福量が0でなければ、死ぬ必要などない。仮に失意のどん底で、つらいいじめにあっていようが、しかし、アニメや映画見て感動する時間が少しでもあれば、まだ死ぬべきではない。創造価値がなくても、体験価値がある。
しかし、さらに幸福量が下がって、0よりも小さくなったとする。
苦痛しかない。良いことがあっても、苦痛はそれをはるかに上回る。まともな思考もできない。高熱にうなされたことがある人はわかるだろう。いくら学校や会社が休みでも、大好きな漫画やゲームすらやる気にならない。ただ、痛みや苦しみが通り過ぎるのを待つだけだ。
そんな苦痛がずっと続くだけの人生。
これに対して、「人生とは何か」の著者精神科医のフランクル氏は、いやいや、それでもまだ生きる意味はある、態度価値があるのだ、という。態度価値とは、他者がみて、「ああ、あの人は立派な人だ」と影響を与えるようなもの――と僕は認識している。違うかもしれない。そのあたりがまだ理解できていない。でも、例示されていたのは、そんなようなもんだった。生きる意味は、人生から逆に求められているのだ、と。
僕はその態度価値的なことがよく分からない。やっぱり、苦しみしかない人生だと、死んだほうがまし、という状態があるのではないかと思う。
問題は、それが「今」なのか、というところだと思う。
高熱でいくら苦しんでも、「死んだほうがましだ」と思う人はいないだろう。
回復する見込みがあるからだ。
でも、回復する見込みなんて、分かるものだろうか。99%死に至る病でも、1%の確率で助かる可能性があるのでは……?
自殺は絶対ダメではない
ここまでの思考で、僕は納得するだろうと思う。要は、1%でも回復するかもしれないから、自殺は、だめだ、と、結論するかもしれない。――でも、きっと僕は、なんかしっくりこなかったろうと思う。
しかしシェリー教授は、さらに一歩進んでいる。
下の、こんな例だ(僕の記憶だけで書くので、細部は違うかも)。
あなたには、選択する権利がある。
99%の確率で、一生続く拷問を受けるかもしれないが、1%の確率で、一生お金に不自由しない暮らしができる選択をするか、何もしないかだ。
と。
この場合は、多くの人は、99%を選んだほうが賢い。それが妥当だ。物語的には、99%を選択した方が面白いのだろうけど、それはリスクが大きすぎる。
重い病気におかされた人の選択も同様ではないか、ということだ。
確かに、医療技術の発展により、劇的に回復する可能性が、1%はあるとする。しかし、世界の症例においては、5年以内に増悪し、死に至るケースが99%だとする。
まだ、そういった選択ができるような思考ができる状態だと、想像するのが難しいが、そもそも、もう何も考えることもできず、体も動かせず、ただ痛みに耐えるだけの時間が、延々と続く――そんな状態で、確かに、1%は回復する可能性があるけれども、もう殆どは死んでしまう……そうだとしたら、どうする?
態度価値
もちろん、上の考えは、「幸福量」の考え方を基盤にしている気がする。快楽と苦痛の量だけが、人生なのか、そこに考える余地はあるかもしれない。フランクル氏のいう、態度価値だってあるはずだ、そういう考え方もあるかもしれない。
でも、凡人な僕としては、やっぱり、自殺は必ずしもダメというわけではない、と思う。
もちろん、いじめを苦にして自殺、なんてのは、あっちゃいけないと思うわけであるが。
久々に、カテゴリを、「生きる意味」にした。
イラストは、どうしようかな、ネタは何もないのだが、簡単にでも描こうかな。
とにかく、今回の記事は、仕事で気が休まらないので、書くことにしたものだ。
めっちゃ心配。
自分でコントロール完全にできることじゃないと、心配。
やっぱり、管理職とか向いていない気がする。今は平社員だが、今以上に気が休まらない気がする。
50%ぐらいの成功率の時が一番人は頑張れる、とかって自己啓発も読んだことある気がするが、それは、俺にはつらい。
不安すぎる。いやその、「できませんでした」が通用すればいいけれども、たいていそういう仕事ばかりじゃないだろう。ピザのデリバリーで、注文されたけど家がわからなかったので届けられませんでした、じゃあダメだろう。
不安。
不安とは何か。
そんなことはどうでもいい。単に、落ち着いた生活がしたい。
落ち着いた生活とは何か。知らない。
知らないことは、実現されられない。引き寄せの法則。自らが望んだ人生にしかならない。
イラストコーナー
なんか、30分時間があれば、なんか描いてみようかという気持ちになるのは良い傾向に思うのだが、実際やり始めると、どうにも時間を使ってしまう。1時間15分ぐらいだろうか。お絵描き添削に応募したら「落書きを楽しんでいるレベルですね」と言われてしまうが、まぁしかし、1時間ぐらいでこれぐらいの出来までは描けるようになったというのは成長といえなくもない。
まぁ、雑なのであるが、なんか正確にアタリを描かなくても、なんとなくの立体は描けるようになった気がする。
うーん、でも、見れば見るほどいろいろ直したくなる……というのは、きっと悪いことではないのだろう。
直したい、というのは良いと思う。
なんかいまいちだけど、どうしたらいいか分からない、これは良くないと思う。