まえがき
「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版 単行本 – 2019/7/12この本、アマゾンじゃなくて、書店で見つけて立ち読みして、そのまま買ったんだった気がする。その購入した本屋さんはもう、つぶれてなくなったんじゃなかったかなぁ。それとも、別のところで買ったんだっけ。別の所だとしたら、仕事帰りに、何か用事……出張だっけ、そこで買ったんだっけかな。記憶はあいまいで、確かめる方法もなく、確かめる必要もなく。
いずれ死ぬということ
この本を読んでから、あんまり、「生きる意味」について考えなくなっていったような気がする。死ぬということについて、非常に論理的に考察されている気がする。これを哲学というのであれば、哲学は非常に役に立つ学問だと思う。
あまりにもよくまとめられていて、考え抜かれていて、そもそも、自分の書くとか、考えるということをやめたくなるほどだ。
この本に書いていることをしっかり記憶できれば、それで十分なんじゃないかと思わされる。
■ □ ■ □
例えば、死は本当に悪いものなのか? といった問い。
一般的に、死ぬのは悪いことだとされる。生きること、命は価値があることだとされる。
でも、死の何が悪いのか。それは、「剥奪されるからだ」という。
生きていれば、良いもの得られる、感じられるが、死ぬと得られなくなる。奪われるということだ。だから死ぬのは悪いことだという。
なるほど、そんな気がする。
でも、「生きていればよいもの」とは何か。
そうやって問いが続いていく。
死ぬのは救いでもある
確かに、想定していたよりも早く死ぬのは、悪いことだ。明日、美味しい焼き肉を食べにいく予定だったのに、途中事故で死んでしまったら、明日得られるはずだった「食欲」が満たされなくなったので、悪いことだ。
でも、容易に想像できるのは、不治の病といったもの。
苦しみしか残りの人生、ないとしたらどうだろう。
それでも、生きる意味というのはあるのだろうか。
人間とは何か 実存的精神療法 単行本 – 2011/5/6
フランクル先生であれば、「どんなときも、生きる意味がある」と言ってくれそうな気がする。
それは、イェール大学のシェリー先生(前述「死とは何か」の著者)のいうところの「価値ある器説」といえる気がする。
生きてるだけで僕らは価値があるから、どんな苦しみの状況に置かれても、人生のトータルにおいて、マイナスになることはない、ということなのだ。
目指すところかもしれないが
素晴らしい考えに思うが、中々、凡人には難しい気がする。痛みや、苦しみしか残されていない人生に、価値があるとは思えない。もちろん、自分が生きていて、喜んでくれる人がいる場合や、逆に死ぬと哀しませてしまう人がいる場合は想像できる。
でも、哲学的にというのか分からないが、論理的に考えてみると、まぁ、そんな人がいない場合も想像できる。
誰からも必要とされていなく、自分自身は苦しいだけ。
まぁ、死んだ方がいい気がしてくる。
そう考えると、一概に「死」が悪いものだとは思えない、というわけになる。
未来が描けない
寿命も分からなければ、自分の人生の絶頂期というのも分からない。これからどんどん成長し、発展していく人生でなければ意味がないか、というと、そういうわけでもないと思う。
仮に、どんどんこれから人生が悪いものになっていくとしても、その悪くなっていくのが、とてもとても緩やかだったらどうだろうか。
別にそんなに悪いことじゃない気がする。
どっちにしても(よくなるのであろうが、悪くなるのであろうが)、それは自分ではわからない。
■
あと、これは、僕は前から提唱していたことではあるが、「人と比べても無意味である」ということは、20代ぐらいからの思いから、特に変わっていない。
自分が幸せだなら、それでいいのだ。
どんだけ悲惨そうにみえても、その人自身が幸せだと自分で思えたらそれで幸せなのである。
■
でも幸せって何だろうか?
やっぱり、人と比べないと、幸せは感じられないものなのかもしれない。
単純な、性欲、食欲、睡眠欲といった、生理的な欲求だけで、「幸せ」と感じられる人間はあまりいない。
人間が「複雑」なゆえんだ。
人はなぜ複雑なのか
実は、生物的な罠である気がする。キルケゴール氏が、「不安の概念」で述べているのは、「自由」があると不安になるということだそうだが、自由があってもなくても、人間は不安にかられる生き物なのかもしれない。
何か「工夫」をして、ホモサピエンスは生物界で生き残ってきた。
狩猟採集ではなく、農耕や畜産をして、食料を産み出すというのは、やはり人間の優れたところだ。
でも自然に対しては無力だ……といいつつも、天気予報したり、暦をつくったり、自然を克服するために努力を重ねてきた。人間すごい。
それらは、
「何かしなきゃ」
という不安が原動力なのかもしれない。何か新しいことをして、改善し続けるところが、人間の本能的にインプットされたことなのかもしれない。
成熟社会
でも果たして、成長し続けることは可能なのか。人類はいずれ、滅びる。これは人類だけじゃなくて、地球上の生き物は全部滅びるらしい。
3億年後だっけ? なんか動画見た。なんか気温がどんどん上がっていって灼熱の星になるらしい。最後は超新星爆発するのかな。
5億年ボタンって思考実験の動画あるけど、そもそも5億年も生物は存在してないのだ。
「価値」というのは無限かもしれない。
でも、物理的資源は、有限だ。
だから、いつまでも、どこまでも成長し続けるということは難しいことなのだろう。
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今日の一言「映画見てきた」「生活はボロボロ」
帰宅時間をメモしたメモ帳を会社に忘れてしまったので正確に分からないが、だいたい、先週25時ぐらいの帰宅だったと思う。
ただ、睡眠時間は、5時間~6時間ぐらい取れていたと思う。
とにかく、睡眠時間をとることを優先しよう。……といっても、もう出勤日としては28日しかないが、残念なことに、正月休み期間も、ある程度は仕事進めなければならなそうだ。
面倒だ……が、仕方があるまい。
今週の土日も、昼間で寝ていた。だが、15時起床、18時起床とか、わけのわからない事態ではなく、ふつーに12時半ぐらいに目覚めたぐらいだ。ふつーといえばふつーだ。とはいえ、ちゃんと、平日と同じぐらいに目覚めて、ちゃんと活動したいものである。
上司からも、(ポジティブにとらえれば)遠回しだが褒められた、気がする。
褒められるためにやっているわけではないというのは綺麗ごとだが、誰かからも感謝されない仕事というのは、ただでさえつまらないのにさらにつまらなくなるわけであって、必要な要素の一つだとは思う。
面白かった……というか、終始泣きっぱなしだった。
こんなに泣いたのは、おじいちゃんのお葬式以来じゃなかろうか、というぐらい泣いた。泣きっぱなしだった。
まず、光のお父さんとは、FF14というオンラインゲームの、ゲーム内の世界と、リアルパートで分かれて進行していくのだけれども、マイディーさんのゲーム内のキャラクターが動いて、しゃべっている瞬間でもう哀しくなって、涙がこらえきれなかった。
(声優さんもぴったりな演技だと思った)
これが、哀しいのか、感動なのかは分からない。とにかく、感情が激しく動かされていた。
原作ブログとは違う、お父さんにキーボードを渡すときのネタや、初めてフレンド申請するとき、最後に打ち明けた時の反応の違いなど、原作とは異なるシーンも多々あったけれども、映画という時間(1時間半)に収まるよう、それでいて重要なシーンはちゃんと盛り込まれていて、映画は映画でよかったと思う。
同僚の女の子(GORIO)さんの登場で、なんか感動の気勢がそがれるかな、と心配になったけれども、しかし彼女の存在も、後半のストーリーでかかせないものだった。
逆に、ネタバレになるのであんまり書かないけれども、最後の敵、ツインタニアを倒す日の夜のこと。もうその日はプレイできないのではないか……そんな状況の時、「(光のお父さん)もうやる気いっぱいですよー!」という連絡――、あのシーンは、ブログではないシーンであるけれども、めちゃくちゃ盛り上がるというか、感動させられるシーンとなっていた。
回想のキャッチボールのシーン(原作にたぶんなかったと思う)とか、ゲーム内で家族のこと(妹……これも原作にはいなかった気がする)を相談したりとか、新しいシーンを盛り込みつつ、原作の雰囲気壊さずによく構成されていたと思う。脚本すごいなと思った。
とかって、映画観終わってからすぐ飲食店によって、必死に頭をひねって言葉を絞り出したメモなんだけど、とにかく、みている最中は、もうずっと泣きっぱなし――と書くと大げさだろうけれども、とにかく、「冷静モード」の時間はほとんどなかったと思う。
涙もろくなってるんだろうか。最近忙しかったからかしら。
いつまでやってるんだろう。もう一回見に行こうかな。同じ映画を二回見に行くというのは初めてのことだ。でも、せっかくの感動を曇らせちゃう気もするし、どうしようかな。
――。
映画の最初と最後で、マイディーさんのお父さんの、メッセージが表示される。これは、僕は、映画観る前に知っていて読んでいたけれども、やっぱり改めて辛いね。
「父さん、もういいやろう~」という言葉が、どんな意味なのか、きっと、想像以上のものだろうと思う。
うーむ。色塗りしたあと、首が長すぎる気がして調整したが、こんどは、太すぎる気がする。しかし、時間オーバー、今回はこれにて投稿させていただく。
それにしても、3Dからイラスト化させるのは、単なるイラスト模写よりも難しい。なぜなのか。
まえがき
あー、ダメだ、なかなか、想定通りにいかない。帰宅時間をメモしたメモ帳を会社に忘れてしまったので正確に分からないが、だいたい、先週25時ぐらいの帰宅だったと思う。
ただ、睡眠時間は、5時間~6時間ぐらい取れていたと思う。
とにかく、睡眠時間をとることを優先しよう。……といっても、もう出勤日としては28日しかないが、残念なことに、正月休み期間も、ある程度は仕事進めなければならなそうだ。
面倒だ……が、仕方があるまい。
今週の土日も、昼間で寝ていた。だが、15時起床、18時起床とか、わけのわからない事態ではなく、ふつーに12時半ぐらいに目覚めたぐらいだ。ふつーといえばふつーだ。とはいえ、ちゃんと、平日と同じぐらいに目覚めて、ちゃんと活動したいものである。
仕事のこと
まぁ、それほど、好きでやっているわけではない仕事であるが、先週は同僚とかお客さんから褒められた。上司からも、(ポジティブにとらえれば)遠回しだが褒められた、気がする。
褒められるためにやっているわけではないというのは綺麗ごとだが、誰かからも感謝されない仕事というのは、ただでさえつまらないのにさらにつまらなくなるわけであって、必要な要素の一つだとは思う。
光のお父さん
仕事のことはもう書くのやめる。来年も引き続き忙しそうだが、まぁその、睡眠時間6時間は確保するべく、なんとかしよう。
そんで、光のお父さんに最近はまっていると書いた。
じっくりと、かみしめながら読んでいこうと思っていたが、気づいたら先週の平日(電車の行き帰り)で全部読んでしまっていた。めちゃくちゃ面白かった。
実話である、というのが、面白さのプラスアルファになっているのは間違いないが、それだけでなくて、マイディー氏のブログの書き方……単純に文才といっていいのか分からないけれども、文の間とか、SS(スクショ)の使い方とか、何より脚本(ストーリー)構成が巧みだなぁと思った。
めっちゃ面白かったので、映画も見てみよう、アマプラであるかなーないなー、しかたない、今度、TUTAYAとかGEOとかで借りてみようかなぁ……と思っていたところだった。
ところ、が、なんと。
このたび劇場版が、原作者マイディー氏追悼のため放映されると知った。
新型コロナも少し気になったが、これはもう、いてもたってもいられず映画館に足を運んだ。
光のお父さん追悼上映
光のお父さん映画
結論から書くと、めちゃくちゃ面白かった。面白かった……というか、終始泣きっぱなしだった。
こんなに泣いたのは、おじいちゃんのお葬式以来じゃなかろうか、というぐらい泣いた。泣きっぱなしだった。
まず、光のお父さんとは、FF14というオンラインゲームの、ゲーム内の世界と、リアルパートで分かれて進行していくのだけれども、マイディーさんのゲーム内のキャラクターが動いて、しゃべっている瞬間でもう哀しくなって、涙がこらえきれなかった。
(声優さんもぴったりな演技だと思った)
これが、哀しいのか、感動なのかは分からない。とにかく、感情が激しく動かされていた。
映画とブログの違い
最近で一番感動した作品だったと思う。(ブログも、映画も)原作ブログとは違う、お父さんにキーボードを渡すときのネタや、初めてフレンド申請するとき、最後に打ち明けた時の反応の違いなど、原作とは異なるシーンも多々あったけれども、映画という時間(1時間半)に収まるよう、それでいて重要なシーンはちゃんと盛り込まれていて、映画は映画でよかったと思う。
同僚の女の子(GORIO)さんの登場で、なんか感動の気勢がそがれるかな、と心配になったけれども、しかし彼女の存在も、後半のストーリーでかかせないものだった。
逆に、ネタバレになるのであんまり書かないけれども、最後の敵、ツインタニアを倒す日の夜のこと。もうその日はプレイできないのではないか……そんな状況の時、「(光のお父さん)もうやる気いっぱいですよー!」という連絡――、あのシーンは、ブログではないシーンであるけれども、めちゃくちゃ盛り上がるというか、感動させられるシーンとなっていた。
回想のキャッチボールのシーン(原作にたぶんなかったと思う)とか、ゲーム内で家族のこと(妹……これも原作にはいなかった気がする)を相談したりとか、新しいシーンを盛り込みつつ、原作の雰囲気壊さずによく構成されていたと思う。脚本すごいなと思った。
とかって、映画観終わってからすぐ飲食店によって、必死に頭をひねって言葉を絞り出したメモなんだけど、とにかく、みている最中は、もうずっと泣きっぱなし――と書くと大げさだろうけれども、とにかく、「冷静モード」の時間はほとんどなかったと思う。
涙もろくなってるんだろうか。最近忙しかったからかしら。
いつまでやってるんだろう。もう一回見に行こうかな。同じ映画を二回見に行くというのは初めてのことだ。でも、せっかくの感動を曇らせちゃう気もするし、どうしようかな。
――。
映画の最初と最後で、マイディーさんのお父さんの、メッセージが表示される。これは、僕は、映画観る前に知っていて読んでいたけれども、やっぱり改めて辛いね。
「父さん、もういいやろう~」という言葉が、どんな意味なのか、きっと、想像以上のものだろうと思う。
イラストコーナー
今回は、光のお父さん関連で、マイディーさんを描いてみる。がんばったけど、あんまり似せられなかった。3~4時間所要。下書き~線画に1~2時間かかった。うーむ。色塗りしたあと、首が長すぎる気がして調整したが、こんどは、太すぎる気がする。しかし、時間オーバー、今回はこれにて投稿させていただく。
それにしても、3Dからイラスト化させるのは、単なるイラスト模写よりも難しい。なぜなのか。
あとがき
(かっこ書きである。ブログも、映画も、完成度が高いものだった――しかし、僕が感動した……のか、哀しくなったのか――それは、やっぱり、マイディーさんが、もうこの世にはいないということも一つあるんだと思う。「マイディーさん」が、映画の、ゲームの中で、元気に、お父さん孝行しようとしようとしているのが、どうしようもなく哀しくなったんだと思う。ブログもそうだ。ほんの、数年前には、元気に、楽しく、ゲームしていた人が、もういない。しかも、亡くなる数か月は、ほんとうに痛みと闘う毎日だったのが、短い文章から伝わってくる。僕はほんと、最近になって、毎週更新してくれている友人のブログで、マイディーさんのことを知ったにわか中のにわかである。その友人のブログで、氏が亡くなったことに本当にショックを受けていることが伝わってきて「どんなお話なんだろう、どんな人なんだろう」とその時は軽い興味だった。しかし、今となっては、知る機会を与えてくれた友人に感謝である。マイディー氏は、ゲームが好きな人ならすぐに虜にしてくれるような魅力的な人だとすぐ分かった。そしてそれは、マイディー氏が、本当に自分自身も楽しんでいるからなんだろうとも思った。ブログのアクセス数稼ごうとか、アフィリエイトで稼ごうとか、そういうんじゃなくて、ゲーム楽しいんだぜ!って、みんなに……知ってもらいたいって、そんな風に思ってたんじゃないかと思う。そんな人が亡くなってしまって、僕も、本当に哀しい)
今日の一言「休みな気がしないが明るいうちに終われるとまぁましに思う」
仕事とはなんだろう。
Youtube動画見て、面白かったと、感動したとき、しかしそれは一か月のサラリーマンの給料分を払う必要は、ない。
ああ、いい作品だったなと、ただそれだけで終わる。有料動画もあるだろう。一回100円かもしれない。100円でも、1000人が見たら10万円だ。
マッサージ師さんに、肩をもんでもらう。20分3000円くらいだろうか。気持ちがよい、以上、である。サービスである。
モノとサービスの「移動」が価値を生み、金を生み、仕事が生まれる。
「便利」を手放せば、仕事は減る。――例)電気水道インフラ
「自由」を手放せば、仕事は減る。――例)24時間営業のコンビニ
「活動」を手放せば、仕事は減る。――例)交通サービス
「安全」を手放せば、仕事は減る。――例)警察・警備
上の考え方では、「役に立たないものは切り捨てる」という功利主義が前面に登場するだろう。
弱者や、働けないものは社会的な「コスト」になる。
そういった考え方が、望ましい、生活のしやすい、だれもが暮らしやすい社会とは相いれないことは感覚として分かる。
しかし、努力をしない人、できない人、フリーライダー、だらける人、そういったコストをどこまで許容すべきなのか。
紙の本を買ったのだが、結局キンドルの電子版を隙間の時間に読んでるぐらいで、いまだに読み終わってはいない。
電子版は半分以上を読んだ。
死に対しての僕の考え方と似ている気がしたので、割と読みやすい気がする。
神の概念とかに拘らず、反対意見も挙げてそれを検証していくスタイルに説得力があるように思う。
自殺についての考え方。自殺は絶対究極に正しいわけでもないが、絶対にダメなものでもない、というのが教授の意見だと思う。そして僕もそう思う。
人生を数値で表してみる。もちろん、これは比喩的なものだ。単純に快楽と苦痛の総和としてみる。仮に「幸福量」と呼んでみる。
長く生きるにつれて、どんどん幸福量が下がっていく。
しかし、幸福量が0でなければ、死ぬ必要などない。仮に失意のどん底で、つらいいじめにあっていようが、しかし、アニメや映画見て感動する時間が少しでもあれば、まだ死ぬべきではない。創造価値がなくても、体験価値がある。
しかし、さらに幸福量が下がって、0よりも小さくなったとする。
苦痛しかない。良いことがあっても、苦痛はそれをはるかに上回る。まともな思考もできない。高熱にうなされたことがある人はわかるだろう。いくら学校や会社が休みでも、大好きな漫画やゲームすらやる気にならない。ただ、痛みや苦しみが通り過ぎるのを待つだけだ。
そんな苦痛がずっと続くだけの人生。
これに対して、「人生とは何か」の著者精神科医のフランクル氏は、いやいや、それでもまだ生きる意味はある、態度価値があるのだ、という。態度価値とは、他者がみて、「ああ、あの人は立派な人だ」と影響を与えるようなもの――と僕は認識している。違うかもしれない。そのあたりがまだ理解できていない。でも、例示されていたのは、そんなようなもんだった。生きる意味は、人生から逆に求められているのだ、と。
僕はその態度価値的なことがよく分からない。やっぱり、苦しみしかない人生だと、死んだほうがまし、という状態があるのではないかと思う。
問題は、それが「今」なのか、というところだと思う。
高熱でいくら苦しんでも、「死んだほうがましだ」と思う人はいないだろう。
回復する見込みがあるからだ。
でも、回復する見込みなんて、分かるものだろうか。99%死に至る病でも、1%の確率で助かる可能性があるのでは……?
要は、1%でも回復するかもしれないから、自殺は、だめだ、と、結論するかもしれない。――でも、きっと僕は、なんかしっくりこなかったろうと思う。
しかしシェリー教授は、さらに一歩進んでいる。
下の、こんな例だ(僕の記憶だけで書くので、細部は違うかも)。
あなたには、選択する権利がある。
99%の確率で、一生続く拷問を受けるかもしれないが、1%の確率で、一生お金に不自由しない暮らしができる選択をするか、何もしないかだ。
と。
この場合は、多くの人は、99%を選んだほうが賢い。それが妥当だ。物語的には、99%を選択した方が面白いのだろうけど、それはリスクが大きすぎる。
重い病気におかされた人の選択も同様ではないか、ということだ。
確かに、医療技術の発展により、劇的に回復する可能性が、1%はあるとする。しかし、世界の症例においては、5年以内に増悪し、死に至るケースが99%だとする。
まだ、そういった選択ができるような思考ができる状態だと、想像するのが難しいが、そもそも、もう何も考えることもできず、体も動かせず、ただ痛みに耐えるだけの時間が、延々と続く――そんな状態で、確かに、1%は回復する可能性があるけれども、もう殆どは死んでしまう……そうだとしたら、どうする?
快楽と苦痛の量だけが、人生なのか、そこに考える余地はあるかもしれない。フランクル氏のいう、態度価値だってあるはずだ、そういう考え方もあるかもしれない。
でも、凡人な僕としては、やっぱり、自殺は必ずしもダメというわけではない、と思う。
もちろん、いじめを苦にして自殺、なんてのは、あっちゃいけないと思うわけであるが。
久々に、カテゴリを、「生きる意味」にした。
イラストは、どうしようかな、ネタは何もないのだが、簡単にでも描こうかな。
とにかく、今回の記事は、仕事で気が休まらないので、書くことにしたものだ。
めっちゃ心配。
自分でコントロール完全にできることじゃないと、心配。
やっぱり、管理職とか向いていない気がする。今は平社員だが、今以上に気が休まらない気がする。
50%ぐらいの成功率の時が一番人は頑張れる、とかって自己啓発も読んだことある気がするが、それは、俺にはつらい。
不安すぎる。いやその、「できませんでした」が通用すればいいけれども、たいていそういう仕事ばかりじゃないだろう。ピザのデリバリーで、注文されたけど家がわからなかったので届けられませんでした、じゃあダメだろう。
不安。
不安とは何か。
そんなことはどうでもいい。単に、落ち着いた生活がしたい。
落ち着いた生活とは何か。知らない。
知らないことは、実現されられない。引き寄せの法則。自らが望んだ人生にしかならない。
お絵描き添削に応募したら「落書きを楽しんでいるレベルですね」と言われてしまうが、まぁしかし、1時間ぐらいでこれぐらいの出来までは描けるようになったというのは成長といえなくもない。
まぁ、雑なのであるが、なんか正確にアタリを描かなくても、なんとなくの立体は描けるようになった気がする。
うーん、でも、見れば見るほどいろいろ直したくなる……というのは、きっと悪いことではないのだろう。
直したい、というのは良いと思う。
なんかいまいちだけど、どうしたらいいか分からない、これは良くないと思う。
まえがき
休日も仕事のことを考えないといけないというのは、面倒なこと、限りない。仕事とはなんだろう。
Youtube動画見て、面白かったと、感動したとき、しかしそれは一か月のサラリーマンの給料分を払う必要は、ない。
ああ、いい作品だったなと、ただそれだけで終わる。有料動画もあるだろう。一回100円かもしれない。100円でも、1000人が見たら10万円だ。
マッサージ師さんに、肩をもんでもらう。20分3000円くらいだろうか。気持ちがよい、以上、である。サービスである。
モノとサービスの「移動」が価値を生み、金を生み、仕事が生まれる。
「便利」を手放せば、仕事は減る。――例)電気水道インフラ
「自由」を手放せば、仕事は減る。――例)24時間営業のコンビニ
「活動」を手放せば、仕事は減る。――例)交通サービス
「安全」を手放せば、仕事は減る。――例)警察・警備
上の考え方では、「役に立たないものは切り捨てる」という功利主義が前面に登場するだろう。
弱者や、働けないものは社会的な「コスト」になる。
そういった考え方が、望ましい、生活のしやすい、だれもが暮らしやすい社会とは相いれないことは感覚として分かる。
しかし、努力をしない人、できない人、フリーライダー、だらける人、そういったコストをどこまで許容すべきなのか。
死とは何か
シェリー教授の本について購入したのはいつだったか。紙の本を買ったのだが、結局キンドルの電子版を隙間の時間に読んでるぐらいで、いまだに読み終わってはいない。
電子版は半分以上を読んだ。
死に対しての僕の考え方と似ている気がしたので、割と読みやすい気がする。
神の概念とかに拘らず、反対意見も挙げてそれを検証していくスタイルに説得力があるように思う。
自殺についての考え方。自殺は絶対究極に正しいわけでもないが、絶対にダメなものでもない、というのが教授の意見だと思う。そして僕もそう思う。
人生を数値で表してみる。もちろん、これは比喩的なものだ。単純に快楽と苦痛の総和としてみる。仮に「幸福量」と呼んでみる。
長く生きるにつれて、どんどん幸福量が下がっていく。
しかし、幸福量が0でなければ、死ぬ必要などない。仮に失意のどん底で、つらいいじめにあっていようが、しかし、アニメや映画見て感動する時間が少しでもあれば、まだ死ぬべきではない。創造価値がなくても、体験価値がある。
しかし、さらに幸福量が下がって、0よりも小さくなったとする。
苦痛しかない。良いことがあっても、苦痛はそれをはるかに上回る。まともな思考もできない。高熱にうなされたことがある人はわかるだろう。いくら学校や会社が休みでも、大好きな漫画やゲームすらやる気にならない。ただ、痛みや苦しみが通り過ぎるのを待つだけだ。
そんな苦痛がずっと続くだけの人生。
これに対して、「人生とは何か」の著者精神科医のフランクル氏は、いやいや、それでもまだ生きる意味はある、態度価値があるのだ、という。態度価値とは、他者がみて、「ああ、あの人は立派な人だ」と影響を与えるようなもの――と僕は認識している。違うかもしれない。そのあたりがまだ理解できていない。でも、例示されていたのは、そんなようなもんだった。生きる意味は、人生から逆に求められているのだ、と。
僕はその態度価値的なことがよく分からない。やっぱり、苦しみしかない人生だと、死んだほうがまし、という状態があるのではないかと思う。
問題は、それが「今」なのか、というところだと思う。
高熱でいくら苦しんでも、「死んだほうがましだ」と思う人はいないだろう。
回復する見込みがあるからだ。
でも、回復する見込みなんて、分かるものだろうか。99%死に至る病でも、1%の確率で助かる可能性があるのでは……?
自殺は絶対ダメではない
ここまでの思考で、僕は納得するだろうと思う。要は、1%でも回復するかもしれないから、自殺は、だめだ、と、結論するかもしれない。――でも、きっと僕は、なんかしっくりこなかったろうと思う。
しかしシェリー教授は、さらに一歩進んでいる。
下の、こんな例だ(僕の記憶だけで書くので、細部は違うかも)。
あなたには、選択する権利がある。
99%の確率で、一生続く拷問を受けるかもしれないが、1%の確率で、一生お金に不自由しない暮らしができる選択をするか、何もしないかだ。
と。
この場合は、多くの人は、99%を選んだほうが賢い。それが妥当だ。物語的には、99%を選択した方が面白いのだろうけど、それはリスクが大きすぎる。
重い病気におかされた人の選択も同様ではないか、ということだ。
確かに、医療技術の発展により、劇的に回復する可能性が、1%はあるとする。しかし、世界の症例においては、5年以内に増悪し、死に至るケースが99%だとする。
まだ、そういった選択ができるような思考ができる状態だと、想像するのが難しいが、そもそも、もう何も考えることもできず、体も動かせず、ただ痛みに耐えるだけの時間が、延々と続く――そんな状態で、確かに、1%は回復する可能性があるけれども、もう殆どは死んでしまう……そうだとしたら、どうする?
態度価値
もちろん、上の考えは、「幸福量」の考え方を基盤にしている気がする。快楽と苦痛の量だけが、人生なのか、そこに考える余地はあるかもしれない。フランクル氏のいう、態度価値だってあるはずだ、そういう考え方もあるかもしれない。
でも、凡人な僕としては、やっぱり、自殺は必ずしもダメというわけではない、と思う。
もちろん、いじめを苦にして自殺、なんてのは、あっちゃいけないと思うわけであるが。
久々に、カテゴリを、「生きる意味」にした。
イラストは、どうしようかな、ネタは何もないのだが、簡単にでも描こうかな。
とにかく、今回の記事は、仕事で気が休まらないので、書くことにしたものだ。
めっちゃ心配。
自分でコントロール完全にできることじゃないと、心配。
やっぱり、管理職とか向いていない気がする。今は平社員だが、今以上に気が休まらない気がする。
50%ぐらいの成功率の時が一番人は頑張れる、とかって自己啓発も読んだことある気がするが、それは、俺にはつらい。
不安すぎる。いやその、「できませんでした」が通用すればいいけれども、たいていそういう仕事ばかりじゃないだろう。ピザのデリバリーで、注文されたけど家がわからなかったので届けられませんでした、じゃあダメだろう。
不安。
不安とは何か。
そんなことはどうでもいい。単に、落ち着いた生活がしたい。
落ち着いた生活とは何か。知らない。
知らないことは、実現されられない。引き寄せの法則。自らが望んだ人生にしかならない。
イラストコーナー
なんか、30分時間があれば、なんか描いてみようかという気持ちになるのは良い傾向に思うのだが、実際やり始めると、どうにも時間を使ってしまう。1時間15分ぐらいだろうか。お絵描き添削に応募したら「落書きを楽しんでいるレベルですね」と言われてしまうが、まぁしかし、1時間ぐらいでこれぐらいの出来までは描けるようになったというのは成長といえなくもない。
まぁ、雑なのであるが、なんか正確にアタリを描かなくても、なんとなくの立体は描けるようになった気がする。
うーん、でも、見れば見るほどいろいろ直したくなる……というのは、きっと悪いことではないのだろう。
直したい、というのは良いと思う。
なんかいまいちだけど、どうしたらいいか分からない、これは良くないと思う。
あとがき
(かっこ書きである。あああ、気分転換のイラストのはずが、「どうしたらいいか分からないのは良くない」というのはまさに仕事である。なんか今のままではいかんのだが、どう改善したらいいか不明――これはストレスである。あーもうやだなぁ……。あーもう、酒だ、酒をもってこい。もう冷蔵庫にビールがありません! なんだと!! せぷくだ! ふはは、しかしこんなときように、ジンを常備しているのだ。ライムジュースと混ぜる。ジンライムというらしい。そのままだな。――違った。炭酸水を使ってるので、ジンリッキーというらしい。ちなみに、ギムレットは、ジンライムをシェイクしたものだそうだ(細部に違いはあるのだろう)。へー。まぁ、その、いずれ終わりはくる。来年異動になるかもしれないし、会社がなくなるかもしれないし。そうしたら、今のプロジェクトの悩みなんて、全然大したものではないのだ。不安があれば、それを取り除く行動を続けるだけだ。――という考えのもと、休日にも仕事をしているというのもある。結局不安でゆっくり休めないなら、何かしら進めといたほうがましだろう)
今日の一言「19時ぐらい帰宅」
記憶力のなさを言い訳にしても仕方がない。「考える」ということは、結局、知識がなければ行えないのである。
例えば、今日学んだこととして(時間があったので心の余裕もあった)、経済についてだ。
(以下、特に何も参照しないで書くので、誤ったことを書いている可能性は多分にある。単に考えたことの思考メモとして捉えて頂きたい)
物価と金利の関係について考えてみる。
物価が上がって、お金の価値が下がることをインフレーションという。
それは知識だ。
では、物価が上がると、お金の流通はどうなるのか。
物価=ものの値段が高くなるのだから、お金がたくさん必要になる。そういう意味では、お金の価値が上がった、ともいえるのではないか、と僕は思った。
ただし、100円で買えたものが、200円必要になったのだから、お金の価値は下がった、といえるのだ。
一方で、お金のニーズは高まることになる。
お金のニーズが高まるから、金利が上がる。
金利とは、お金を貸した側がプラスして返してもらえる権利である(僕の独自理解。あってるか分からない。ウィキると違うかもしれないが、混乱するから敢えてしない)。
お金の需要が高まった状態であれば、金利が上がっても、それでもお金が必要な人は借りる、という仕組みである。
しかし、それでもどうしようもなく金利が高くなりすぎると、「抑制」する行動をとるしかなくなるから、景気が抑えられるということだ。
GDPとは、国内総生産のことである。何を生産しているかというと、「財」と「サービス」だ。
要するに、僕らの世界には、財(モノ)とサービス(現象)しかないのだ。
その価値の指標に「お金」が使われる。ただし、お金とは、金融といったりして、キャッシュ(現金)には限られない。株式や債券やら保険やらに姿を変えて、現象(存在)しているのだ。
でもって、景気とは、その流通のことである。
言葉を換えれば、「運動量」である。電気でいえば、アンペアだ。いっぱい電子が流れていると、景気が良い状態。あんまり流れていないと、景気が悪い状態、というわけだ。
電気はともかく、「景気」という現象において、その流通(運動量)とは何か。
財・サービスの移動である。
例えば、サービスで思い浮かぶのは、マッサージ施術所に行ったとする。現金で3000円ほど支払う。そして、施術してもらう。現金と、施術(サービス)の移動である。
サービスの移動というのはいまいち自分の中でも消化できないが、AとBとの関係のことともいえる。
それがイメージしづらければ、現金だけでも動いたことになるから、「流通した」ということになる。
マッサージを24時間受けることはあり得ない。だから、流通にも限界がある。
しかし、1980年代からダウ平均株価は上がり続けている。
あと、昭和の時代は、そば一杯15円ぐらいだったようだ。不思議だ。
何が不思議かというと、今、蕎麦屋さんが、いっぱい15円で販売したら、1日もたずに潰れるだろうからだ。
そもそも、原材料仕入れからして無理である。
だから、日本全体の物価が低かったということになる。
ただし、蕎麦の作り方自体と、必要な原材料は、昭和初期と現代で、そこまで大幅に違うだろうか。多分違わない。
作る時間はどうか。多分違わない。
にもかかわらず、物価が上がっても、世界は成り立つようになっているのか。
つまり、景気とは――人の活動とは、――経済とは、運動量なのであって、何かしら動いていないと、崩壊するのである。絶滅するのだ。
絶え間なく動き続けることでのみ、人は社会を維持できるのである。
自給自足以外には、たとえ宗教ですら経済の循環からは逃れられない。托鉢して無償でお経を唱えることはあるかもしれないが、それは宗教という精神的支柱を維持するサービスなのである。
また、全員が金融商品に興味を持って、株式トレーダーになれば、産業が空洞化するのは間違いなかろう。
第一次産業(農業)、第二次産業(工業)がやっぱり大事なのである。とはいえ、それについては、機械化が進み、ロボット化が進み、AI化が進みで、「人」自体は不要になるかもしれない。ただ、当該産業に関わる機械やロボットや、その部品生産や、それらを管理するソフトウェアのプログラマーなどを無碍にはできないだろう。
もしくは、大帝国的に、先進国が後進国を支配する構図というのもあるかもしれない。プランテーション、モノカルチャー。ただ、グローバル社会において、そういうのは古い、ということになるだろう。それについては、悲観的には、人道主義などではなくて、単に需要を増やすという経済的な面に思われるが、異論はたくさんあるかもしれない。僕は歴史学者じゃないから分からない。
要は僕らは、消費し続けることが「正解」なのである。
絶え間なく作り、そして使って、その循環スピードを速く、早く、疾くしていくことが、経済として正解なのだ。
――ということと、「幸福」という概念は同義にはならないと思われる。
しかし、この経済と幸福に関する議論は、往々にしてかみ合わない。電気学と磁気学は交わっても、電力会社と水道会社はまじわらないのだ(意味不明な例)。
まえがき
学ぶことは、たくさんある、と思う。記憶力のなさを言い訳にしても仕方がない。「考える」ということは、結局、知識がなければ行えないのである。
例えば、今日学んだこととして(時間があったので心の余裕もあった)、経済についてだ。
(以下、特に何も参照しないで書くので、誤ったことを書いている可能性は多分にある。単に考えたことの思考メモとして捉えて頂きたい)
物価と金利の関係について考えてみる。
物価が上がって、お金の価値が下がることをインフレーションという。
それは知識だ。
では、物価が上がると、お金の流通はどうなるのか。
物価=ものの値段が高くなるのだから、お金がたくさん必要になる。そういう意味では、お金の価値が上がった、ともいえるのではないか、と僕は思った。
ただし、100円で買えたものが、200円必要になったのだから、お金の価値は下がった、といえるのだ。
一方で、お金のニーズは高まることになる。
お金のニーズが高まるから、金利が上がる。
金利とは、お金を貸した側がプラスして返してもらえる権利である(僕の独自理解。あってるか分からない。ウィキると違うかもしれないが、混乱するから敢えてしない)。
お金の需要が高まった状態であれば、金利が上がっても、それでもお金が必要な人は借りる、という仕組みである。
しかし、それでもどうしようもなく金利が高くなりすぎると、「抑制」する行動をとるしかなくなるから、景気が抑えられるということだ。
景気とは何か
GDPの前年比のことを、「経済成長率」という。GDPとは、国内総生産のことである。何を生産しているかというと、「財」と「サービス」だ。
要するに、僕らの世界には、財(モノ)とサービス(現象)しかないのだ。
その価値の指標に「お金」が使われる。ただし、お金とは、金融といったりして、キャッシュ(現金)には限られない。株式や債券やら保険やらに姿を変えて、現象(存在)しているのだ。
でもって、景気とは、その流通のことである。
言葉を換えれば、「運動量」である。電気でいえば、アンペアだ。いっぱい電子が流れていると、景気が良い状態。あんまり流れていないと、景気が悪い状態、というわけだ。
電気はともかく、「景気」という現象において、その流通(運動量)とは何か。
財・サービスの移動である。
例えば、サービスで思い浮かぶのは、マッサージ施術所に行ったとする。現金で3000円ほど支払う。そして、施術してもらう。現金と、施術(サービス)の移動である。
サービスの移動というのはいまいち自分の中でも消化できないが、AとBとの関係のことともいえる。
それがイメージしづらければ、現金だけでも動いたことになるから、「流通した」ということになる。
時間と景気との関係
時間という概念も、速度次第で歪む。といった相対性理論は置いておいて、1日は24時間である。マッサージを24時間受けることはあり得ない。だから、流通にも限界がある。
しかし、1980年代からダウ平均株価は上がり続けている。
あと、昭和の時代は、そば一杯15円ぐらいだったようだ。不思議だ。
何が不思議かというと、今、蕎麦屋さんが、いっぱい15円で販売したら、1日もたずに潰れるだろうからだ。
そもそも、原材料仕入れからして無理である。
だから、日本全体の物価が低かったということになる。
ただし、蕎麦の作り方自体と、必要な原材料は、昭和初期と現代で、そこまで大幅に違うだろうか。多分違わない。
作る時間はどうか。多分違わない。
にもかかわらず、物価が上がっても、世界は成り立つようになっているのか。
サービスについて
逆に、過去に比べて、家電なり、コンピュータなり、便利になっているはずなのに、何故人は未だに働き続けているのか。つまり、景気とは――人の活動とは、――経済とは、運動量なのであって、何かしら動いていないと、崩壊するのである。絶滅するのだ。
絶え間なく動き続けることでのみ、人は社会を維持できるのである。
自給自足以外には、たとえ宗教ですら経済の循環からは逃れられない。托鉢して無償でお経を唱えることはあるかもしれないが、それは宗教という精神的支柱を維持するサービスなのである。
また、全員が金融商品に興味を持って、株式トレーダーになれば、産業が空洞化するのは間違いなかろう。
第一次産業(農業)、第二次産業(工業)がやっぱり大事なのである。とはいえ、それについては、機械化が進み、ロボット化が進み、AI化が進みで、「人」自体は不要になるかもしれない。ただ、当該産業に関わる機械やロボットや、その部品生産や、それらを管理するソフトウェアのプログラマーなどを無碍にはできないだろう。
もしくは、大帝国的に、先進国が後進国を支配する構図というのもあるかもしれない。プランテーション、モノカルチャー。ただ、グローバル社会において、そういうのは古い、ということになるだろう。それについては、悲観的には、人道主義などではなくて、単に需要を増やすという経済的な面に思われるが、異論はたくさんあるかもしれない。僕は歴史学者じゃないから分からない。
需要と運動量
ということで、最初の話題に戻るが、僕は、経済とは――景気とは、「運動量」だと思う。さっきの植民地時代のような話に絡めれば、植民地の人たちにも、支配する側の国が作った物品などを買ってもらったりした方が、より景気がよくなる――物流が生まれる、ということになる。物流があったほうが、社会は豊かになるということだ。要は僕らは、消費し続けることが「正解」なのである。
絶え間なく作り、そして使って、その循環スピードを速く、早く、疾くしていくことが、経済として正解なのだ。
――ということと、「幸福」という概念は同義にはならないと思われる。
しかし、この経済と幸福に関する議論は、往々にしてかみ合わない。電気学と磁気学は交わっても、電力会社と水道会社はまじわらないのだ(意味不明な例)。
あとがき
(かっこ書きである。今日はここまで。とかってことを考えるためにも、知識が必要である。しかし、昭和25年(1950年)に、そば一杯が15円だったことを覚えても仕方がなかろう。であれば、どういった知識が必要なのか。国民年金の受給できる年齢が65歳で、満額だと年間78万円ぐらいもらえることを覚えておいたほうが役に立つのか。ちなみに、65歳の誕生日の属する月の翌月から受給権が生じて、支給自体は偶数月の15日(2か月おき)にされるようだ。へー。78万円って、月にすると、6万5千円。さすがに、暮らすのは困難そうである。――とかって記憶があっても、意味がない――わけではなかろう。少なくても、未来について、何も分からないわけではなくなる、ということだ。まそもそも、パンデミックやシンギュラリティによって誰も想像だにしないことが起こっているかもしれない。果たして、2回の世界大戦前の人々は、戦争が起きることを予想していたのか。明治維新後の富国強兵や教育や保険・保健に力を入れたのは、国力増強のためなのだろうが、他国を「やっつける」ことが、生き残るために必要だと思われていたからだ。いまや、某国家だろうと、戦争が絶対に必要だ、とは言わない時代になった。ここら辺の話は、『暴力の人類史』あたりをもう一回読んだ方がいいかもしれない。暴力は減ってきているそうだ。その理由は、――なんだっけ、割に合わないから、かな。なんかブログ記事にまとめた気もするが、忘れている。――そう、そういった知識を、ちゃんと記憶しておいた方がいい気がする。ただ、「暴力は減ってきていまーす!」といったことだけ覚えていても、「エビデンスだせ」といわれて終わる。俺は研究者じゃないからそんなもん出せるか! となる。せいぜい出典を挙げるぐらいだ、悔しい、びくんびくん、となる。いやそもそも、誰かと議論をしたいのではない。だからいつも戻りに戻って、結局、大事なのは、このブログのタイトルと思うのである)
今日の一言「今しかできないことが分かれば苦労しない」「素直になるってことかな」
今回は違うので、どういった方向や感覚になるかは少し楽しみである。
さて、本題としては、タイトルのとおり、「今しかできないこと」というのに着目しようというわけであるが、まずはこれについて書こうと思った理由に触れる。
3人のコメントだ。
例によって、IM氏、SG氏、KK氏とさせて頂く。まずはポイントとなるコメントを引用。
●IM氏
仮面。
人は、外界で生きていくうえで、外向きの顔をつくらなければならない。
僕は、この辺が、高校生か、大学時代ぐらいか、よく覚えていないが、そのあたりから特に、ものすごく気持ち悪いと思っていた。
気持ち悪いが、仕方がないものだと思った。
だから僕は、「感情のコントロール」的な表現をよく使っていた(自分用の日記の中で)。
今思えば、「適切なふるまい」というものを、いつも強く意識しようとしていたのだと思う。
適切!
噴き出してしまいそうだ。いやしかし、当時はえらく真面目だったのだ。
いやむしろその傾向は、今もないとは言えないだろう。
が、しかし、これこそがペルソナともいえる。
自分が見せたい自分ともいう。ペルソナを被るのは社会的要請かもしれないが、その被るペルソナを選ぶことはできるんじゃないだろうか。
※ いや、「ペルソナ」といったとき、それはゲームシリーズのことも指す。今回はそちらについて書こうという意味ではない、ということ。これは、文脈上明らかだが、一部の人には伝わらない可能性がある。――というつまらない言及は、実は重要でもある。これは明らかな例であるが、「感情」的なものを書いていくと、途端に膨大な解釈が生まれ、その共感はより困難なものになるからだ。
いやぁしかし、懐かしい思いもある。レポートとか書くとき、至極形式的に書こうとすると「止まる」のだ。ほんとにこれ、説得力あるのか? 論理的な文章になっているのか? ここの表現というか文章は必要なのか? とか、いろいろ浮かぶから。
楽しくない文章たちだ。
もう少し、素直になって書いていくべきだ。
さて、しかし、ペルソナと今しか書けないことは、無関係ではないと思う。思う、がまだ、そこに到達するまでの前提が書ききれていいない。
ええと、まず明らかなのは、「みんな外向きの顔をもって生活している」だろう、ということが、三者のコメントから分かるということである。
(KK氏の引用部分だけでは読み取れないが、方向性的にはそう思われる)
いや確かに、僕は前の記事で「自分以外の人はみな自己を確立してしっかり生きているのだ」(キリッ)的なことを書いて、KK氏から、「そんなことないのでは?」とご指摘いただいたわけであるが、言い訳がましいが、そこまで思ってるわけではないのだ。いやむしろ、IM氏の仰る様に、「相手が幸せがどうかなんて絶対にわからないという命題というか、事実もある」のである。
ただ思うのは、他者存在は、「自分ってこういう人間だ」という認識については、ちゃんとあるのではないかということである。
その「自分ってこういう人間だ」というのは、内面的なものであり、他者に映っている自分、とは違う。ああ、このあたりが話を難しくする。次の小見出しで少し整理しよう。
・僕が思う「自分」(a)
・他者から見える僕(b)
そして、違う観点からも2つある。
・思考内面的な「自分」(c)
・身体物理的な「自分」(d)
階層化して表現すれば、
1 内面的な自分
(1) 僕が思う自分
(2) 他者から見える自分
2 身体的な自分
というようになる。
今後、どっちの「自分」の意味で使っているかは、明確にしていかないと話が分かりづらくなるだろう(自分にとっても)。
理由は、時間は不可逆だからだ。以上。
……もう一つ理由を挙げれば、身体的な自分の規定も無視できないからだ。
身体的、といったときに、すぐさま浮かぶのは「顔」であるが、それだけではない。筋骨隆々具合とか、背の高さとかメタボリックシンドロームなのかとか、皴が多いか、男女どちらかなどなど、身体的属性というのも非常にたくさんある。
そして、そうした身体的属性というのも、時間とともに変化する。
だから、今しかできないことをする……むしろ、するしかないともいえる。
しかしそれは詭弁で、本当に、本当に今しかできないか、というのは、きっと違う。
ロッククライミングをするのは、別に今じゃなくても、70歳になってからでもできるかもしれない。(相応の準備が必要だろうが)
そういう意味で、「今しかできないこと」が何か、というのは難しい。
難しいものの、しかし、僕は、「素直になる」ということで、それに近いことは分かると思っている。
本当にそうだ。僕が苦しいというか、目標というか目的が定まらない理由がコレでもある。
とことん素直になるのだ。
思考的な面における解決策としては、とにかく素直に書いていく、ということであり、それがこのブログの目的でもある。
いやこれ、難しいことなんだよ。
最初に書いたペルソナの話のとおり、仮面はなかなか外せない。その中で、素直になれる場所というのは、中々ないのだ。
一つ笑えない笑い話を書けば、僕は彼女とか元妻(妻! って表現が非常に違和感だ。20代での出来事であったが、妻と書くとなんだかもう長年連れ添って――的な印象がある)にその仮面を外すことをしてしまったことが、上手くいかなかった原因なのではないかと思われる。
要は、確かに、文章としてこのブログを読む分には、それほど影響はないが、身近にこういった「変な」人間がいると、非常に具合が悪い、ということなのだろう。
そういう意味で、シロクマ氏は妻子もいて、社会的にも自身のブログもつながっていて、すごい、というか、羨ましい妬ましい(かっこわらい)。
(ただそれは、精神科医という特殊な状況によるものといえる。氏は自分を「凡庸な人間」と仰られているが、まぁ、本人も恐らく本気でそう思っているわけではなかろうし、周りもそんな風にみていないだろう)
僕は今のところ仕事しているから社会的身分(かっこわらい)的なのはあるのだろうが、同じことを、無職のニートが書いていたらどうだろう。途端に気持ち悪さ度が上がるだろう。ニートをでぃすったのはではない、どちらにせよ、こうした文章は一般的に気持ち悪いということだ)
要は、素直になるのは難しい。(けれども、それを目指すべきだ)
前書き
今回の記事は、割とこう、「〇〇について書こう」ということが明確になっている上で書き始める。逆に、いつもの記事は、なんかよう分からん気持ちのままで書き始めるか、ルーチンだから仕方がないかといった形で書き始めている。そのうち筆が進む場合もあれば、憂鬱のまま終わるときもある。今回は違うので、どういった方向や感覚になるかは少し楽しみである。
さて、本題としては、タイトルのとおり、「今しかできないこと」というのに着目しようというわけであるが、まずはこれについて書こうと思った理由に触れる。
3人のコメントだ。
例によって、IM氏、SG氏、KK氏とさせて頂く。まずはポイントとなるコメントを引用。
●IM氏
周りを見渡すと大体の人が欲しいものがわかっているし、どうしたら幸せになれるかわかっているように「感じる」んだよな。
●SG氏
「ここで自分にしか出来ない何かがあるはず! 発展に貢献できる!」みたいな主張をして就活していくことに割と嫌気がさしていました。
●KK氏
「生きる意味」的なことを考えずとも、確固たる自己をもち、生活できている人のほうが大半な気がすると仰っていましたが僕は本当にそうなのかなと疑問に思っています。
●SG氏
「ここで自分にしか出来ない何かがあるはず! 発展に貢献できる!」みたいな主張をして就活していくことに割と嫌気がさしていました。
●KK氏
「生きる意味」的なことを考えずとも、確固たる自己をもち、生活できている人のほうが大半な気がすると仰っていましたが僕は本当にそうなのかなと疑問に思っています。
ついでに、というと失礼だが、もうひとつシロクマ氏の記事も引用させていただく。
●シロクマ氏
実際には人は変わっていくものだし、人が変わっていくにつれて、書けること・表現できることも変わっていくものだ。変わっていくからこそ、今しか書けないことは貴重で、今書かなければ喪われてしまうものだと心得なければならない。
――シロクマの屑籠●シロクマ氏
実際には人は変わっていくものだし、人が変わっていくにつれて、書けること・表現できることも変わっていくものだ。変わっていくからこそ、今しか書けないことは貴重で、今書かなければ喪われてしまうものだと心得なければならない。
ペルソナ
ペルソナはユングという方が述べた心理学の用語である。アトラス社のゲームシリーズではない(※)。仮面。
人は、外界で生きていくうえで、外向きの顔をつくらなければならない。
僕は、この辺が、高校生か、大学時代ぐらいか、よく覚えていないが、そのあたりから特に、ものすごく気持ち悪いと思っていた。
気持ち悪いが、仕方がないものだと思った。
だから僕は、「感情のコントロール」的な表現をよく使っていた(自分用の日記の中で)。
今思えば、「適切なふるまい」というものを、いつも強く意識しようとしていたのだと思う。
適切!
噴き出してしまいそうだ。いやしかし、当時はえらく真面目だったのだ。
いやむしろその傾向は、今もないとは言えないだろう。
が、しかし、これこそがペルソナともいえる。
自分が見せたい自分ともいう。ペルソナを被るのは社会的要請かもしれないが、その被るペルソナを選ぶことはできるんじゃないだろうか。
※ いや、「ペルソナ」といったとき、それはゲームシリーズのことも指す。今回はそちらについて書こうという意味ではない、ということ。これは、文脈上明らかだが、一部の人には伝わらない可能性がある。――というつまらない言及は、実は重要でもある。これは明らかな例であるが、「感情」的なものを書いていくと、途端に膨大な解釈が生まれ、その共感はより困難なものになるからだ。
自分と他者とのずれ
「今しか書けないことを」という話と、「ペルソナ(役割ベースの顔)」と、一体何が関係あるのか、と思ってしまい、筆が止まる。いやぁしかし、懐かしい思いもある。レポートとか書くとき、至極形式的に書こうとすると「止まる」のだ。ほんとにこれ、説得力あるのか? 論理的な文章になっているのか? ここの表現というか文章は必要なのか? とか、いろいろ浮かぶから。
楽しくない文章たちだ。
もう少し、素直になって書いていくべきだ。
さて、しかし、ペルソナと今しか書けないことは、無関係ではないと思う。思う、がまだ、そこに到達するまでの前提が書ききれていいない。
ええと、まず明らかなのは、「みんな外向きの顔をもって生活している」だろう、ということが、三者のコメントから分かるということである。
(KK氏の引用部分だけでは読み取れないが、方向性的にはそう思われる)
いや確かに、僕は前の記事で「自分以外の人はみな自己を確立してしっかり生きているのだ」(キリッ)的なことを書いて、KK氏から、「そんなことないのでは?」とご指摘いただいたわけであるが、言い訳がましいが、そこまで思ってるわけではないのだ。いやむしろ、IM氏の仰る様に、「相手が幸せがどうかなんて絶対にわからないという命題というか、事実もある」のである。
ただ思うのは、他者存在は、「自分ってこういう人間だ」という認識については、ちゃんとあるのではないかということである。
その「自分ってこういう人間だ」というのは、内面的なものであり、他者に映っている自分、とは違う。ああ、このあたりが話を難しくする。次の小見出しで少し整理しよう。
自分という語を用いるときの注意
一人称における「僕」と、「自分」という語を用いるときに示しているものは、違うと思う。「自分」には、二つの意味がある。・僕が思う「自分」(a)
・他者から見える僕(b)
そして、違う観点からも2つある。
・思考内面的な「自分」(c)
・身体物理的な「自分」(d)
階層化して表現すれば、
1 内面的な自分
(1) 僕が思う自分
(2) 他者から見える自分
2 身体的な自分
というようになる。
今後、どっちの「自分」の意味で使っているかは、明確にしていかないと話が分かりづらくなるだろう(自分にとっても)。
今しかできないことをするべきな理由
話が、まとまらないが、先に結論めいたことを書けば、僕らが使える手段としては、「今しかできないことをする」しかないからだ。理由は、時間は不可逆だからだ。以上。
……もう一つ理由を挙げれば、身体的な自分の規定も無視できないからだ。
身体的、といったときに、すぐさま浮かぶのは「顔」であるが、それだけではない。筋骨隆々具合とか、背の高さとかメタボリックシンドロームなのかとか、皴が多いか、男女どちらかなどなど、身体的属性というのも非常にたくさんある。
そして、そうした身体的属性というのも、時間とともに変化する。
だから、今しかできないことをする……むしろ、するしかないともいえる。
しかしそれは詭弁で、本当に、本当に今しかできないか、というのは、きっと違う。
ロッククライミングをするのは、別に今じゃなくても、70歳になってからでもできるかもしれない。(相応の準備が必要だろうが)
そういう意味で、「今しかできないこと」が何か、というのは難しい。
難しいものの、しかし、僕は、「素直になる」ということで、それに近いことは分かると思っている。
素直になるとは
IM氏の言葉で、「まじで自分の欲しいものって何で、どうしたらよい気分になれるかなんて本当にわからん」というのもあった。本当にそうだ。僕が苦しいというか、目標というか目的が定まらない理由がコレでもある。
とことん素直になるのだ。
思考的な面における解決策としては、とにかく素直に書いていく、ということであり、それがこのブログの目的でもある。
いやこれ、難しいことなんだよ。
最初に書いたペルソナの話のとおり、仮面はなかなか外せない。その中で、素直になれる場所というのは、中々ないのだ。
一つ笑えない笑い話を書けば、僕は彼女とか元妻(妻! って表現が非常に違和感だ。20代での出来事であったが、妻と書くとなんだかもう長年連れ添って――的な印象がある)にその仮面を外すことをしてしまったことが、上手くいかなかった原因なのではないかと思われる。
要は、確かに、文章としてこのブログを読む分には、それほど影響はないが、身近にこういった「変な」人間がいると、非常に具合が悪い、ということなのだろう。
そういう意味で、シロクマ氏は妻子もいて、社会的にも自身のブログもつながっていて、すごい、というか、羨ましい妬ましい(かっこわらい)。
(ただそれは、精神科医という特殊な状況によるものといえる。氏は自分を「凡庸な人間」と仰られているが、まぁ、本人も恐らく本気でそう思っているわけではなかろうし、周りもそんな風にみていないだろう)
僕は今のところ仕事しているから社会的身分(かっこわらい)的なのはあるのだろうが、同じことを、無職のニートが書いていたらどうだろう。途端に気持ち悪さ度が上がるだろう。ニートをでぃすったのはではない、どちらにせよ、こうした文章は一般的に気持ち悪いということだ)
要は、素直になるのは難しい。(けれども、それを目指すべきだ)