(ナーガールジュナの中論の解説を読んだ感想から)
例えば、「起承転結」という、文章を書く上で、他者に伝わりやすいとされている概念の解説を試みてみよう。【起】
起承転結とは、まず、
・問題提起
・問題提起を受けた説明
・見方を変えた説明、例示など
・まとめ、結論
という流れで文章を書くことである。【承】
初めてこの概念を聞いた人に分かりやすく伝えるには、まずは、「起」と、「結」だけを覚えておくように、と伝えてもよいかもしれない。伝えたいことを初めに簡潔に挙げて、それのまとめをする、というやり方。これはそれほど意識しなくても、普通行っている話し方や書き方だと思われる。
ビジネスの世界などでは、結論を先に話して、後から理由を述べる(三つくらい)ということも言われるが、実はそもそも、いきなり「結論」なんて言っても、上司どころか誰にも言いたいことは伝わらないのである。というのは、「結論」といいつつも、必ず、何の話かという小さなごくわずかな、「起」が組み込まれているからだ。【転】
故に、起承転結という話し方や文章の書き方について、いきなり実践するということでなくても、まずは、起として問題提起を行って、次に結としてまとめる、ということを意識することが、新しい概念としてインプットする際には有効になるだろう。
それが慣れてきたときに、より面白く、印象的な話や文章にするために、起承転結の、承や、転といった方法を学んでいけばよいのだと、私は思う。【結】
ただ、新しい概念を覚えようとしたときに、一気に全部完璧に覚えようとするのではなく、まずは、大きなところ、簡単なところ、本質的なところに絞って、それを実践して使っているうちに、自分の記憶や価値観や信念といった部分まで浸透していく、身についていくと、そういうことが言いたかったということが、何となく伝わるはずだ(え、そんなことどこに書いてあったかって?!)。
別に、起承転結の説明がしたかったわけではない。ただ、僕が上に書いた説明というのは、多分、明日になると、また違ったものになっていると思う。恐らく、表現も全然別なものだろう。起承までは、かろうじて似ているかもしれないが、転結の部分は、全く異なっているかもしれない。
けれども、僕は恐らく、この先も、何度でも、起承転結という「概念」の説明を、行うことができる。
これが、概念としてのインプットが成された状態である。つまり、表現や言葉が異なっても、論理的な、流れに沿った説明(アウトプット)が可能な状態、それが概念としてのインプットなのだ。
「違和感ありますな~」とどこか、前の記事で書いたことがあったけれども、でも、今思ったのは、仏教は、ある種「諦めの思想」であるともいえるから、「諦」という漢字が「真理」を意味するというのも、何だかそう考えると深イイ話な気がする。
で、今回のインプットとして、本来的に書こうとしたことにようやくたどり着いたが、この世俗諦という概念と、勝義諦という概念のインプットを試みようというものであった。
昨日、空の論理、を読んでいて、登場した概念である。
簡単に今時点でインプットできたことを書けば、世俗諦とは、言葉で説明できる、概念化可能な世界のことであり、勝義諦は、言葉で説明できず、概念化もできない世界(涅槃とか悟り)のこと。
こういった対比にしてしまうと、単純に、「ああ、じゃあ、真理的な、勝義諦を目指していきましょうって話しなんだね、はいはい」となってしまいがちであるが、ポイントはそこにはない。
どっちも大事だよ、ということを、1世紀~2世紀ぐらいに活躍されたナーガールジュナさんが言うのである。
いやむしろ、
・概念的認識によらなければ、究極的な真実(空性)は認識できない
という意味でもちいているのだ、という解説をされている方もいらっしゃる。
これから先は、その概念化できないこと、言葉にできないこと、というのが、どういったものなのか、もう少し深いインプットをしていきたいと思う。(ああ、どうしても、こういったことを求め始めると、いわゆる怪しげな宗教にはまっていくのではないか、という疑念が発生する。ただ、僕がキリスト教をどうしても深く調べようと思えない理由が、その「絶対的帰依」によるものだという点において、無批判な信仰という状態には、恐らくなれないと思う。一方で、宗教にはまる人とは、ある程度知識があってしかし主体性を見いだせない人だ、という分析などもあり、ありゃーやばいんちゃうか、と思ったりもするが、「他者」から学ぶ、ということを行わない(行えない)故に、その安全性は確保されていると思われる。これが、まさしく孤独、という感覚なのであり、同時に、他者への懐疑という哀しき性質なのであるけれども……おっとと、短く書こうという気持ちを排すると、瞬く間に無駄な文量が増えていく)
概念化できないことって、思考からの逃げ、にも思えてしまうけれども、ただ、人は言葉によってしか考えることができない、という意味において、その言葉を排した世界というのを想定するということは、同時に可能になるのである。
ここに、7万年前の認知革命で生じた虚構の言語、の物凄い可能性が秘められているのだな、と実感レベルで思わざるをえない。
いやぁ、だってですね、虚構、として、神話とか、創造上の物語を語れるってだけで、人間(サピエンス)が用いる言語のすごさは分かるけれども、更には、「言外のこと」まで想像できてしまうのだから、やっぱり、(虚構の)言葉の力ってすごいよね。
起承転結
知識や記憶には、名称的なものと、概念的なものとがある。例えば、「起承転結」という、文章を書く上で、他者に伝わりやすいとされている概念の解説を試みてみよう。【起】
起承転結とは、まず、
・問題提起
・問題提起を受けた説明
・見方を変えた説明、例示など
・まとめ、結論
という流れで文章を書くことである。【承】
初めてこの概念を聞いた人に分かりやすく伝えるには、まずは、「起」と、「結」だけを覚えておくように、と伝えてもよいかもしれない。伝えたいことを初めに簡潔に挙げて、それのまとめをする、というやり方。これはそれほど意識しなくても、普通行っている話し方や書き方だと思われる。
ビジネスの世界などでは、結論を先に話して、後から理由を述べる(三つくらい)ということも言われるが、実はそもそも、いきなり「結論」なんて言っても、上司どころか誰にも言いたいことは伝わらないのである。というのは、「結論」といいつつも、必ず、何の話かという小さなごくわずかな、「起」が組み込まれているからだ。【転】
故に、起承転結という話し方や文章の書き方について、いきなり実践するということでなくても、まずは、起として問題提起を行って、次に結としてまとめる、ということを意識することが、新しい概念としてインプットする際には有効になるだろう。
それが慣れてきたときに、より面白く、印象的な話や文章にするために、起承転結の、承や、転といった方法を学んでいけばよいのだと、私は思う。【結】
概念のインプット
上の、起承転結の説明において、僕が言いたかったことは、何となく伝わると思う。表現的に回りくどかったり、その説明必要か? という部分もあるだろうし、論文的にはたくさん添削がされそうである。ただ、新しい概念を覚えようとしたときに、一気に全部完璧に覚えようとするのではなく、まずは、大きなところ、簡単なところ、本質的なところに絞って、それを実践して使っているうちに、自分の記憶や価値観や信念といった部分まで浸透していく、身についていくと、そういうことが言いたかったということが、何となく伝わるはずだ(え、そんなことどこに書いてあったかって?!)。
別に、起承転結の説明がしたかったわけではない。ただ、僕が上に書いた説明というのは、多分、明日になると、また違ったものになっていると思う。恐らく、表現も全然別なものだろう。起承までは、かろうじて似ているかもしれないが、転結の部分は、全く異なっているかもしれない。
けれども、僕は恐らく、この先も、何度でも、起承転結という「概念」の説明を、行うことができる。
これが、概念としてのインプットが成された状態である。つまり、表現や言葉が異なっても、論理的な、流れに沿った説明(アウトプット)が可能な状態、それが概念としてのインプットなのだ。
世俗諦と勝義諦
書こうと思ったことと、全く関係ないことなのだけれど、この「諦」という漢字、「あきらめる」と読めるけれど、仏教的には、「真理」を意味する言葉でもある。「違和感ありますな~」とどこか、前の記事で書いたことがあったけれども、でも、今思ったのは、仏教は、ある種「諦めの思想」であるともいえるから、「諦」という漢字が「真理」を意味するというのも、何だかそう考えると深イイ話な気がする。
で、今回のインプットとして、本来的に書こうとしたことにようやくたどり着いたが、この世俗諦という概念と、勝義諦という概念のインプットを試みようというものであった。
昨日、空の論理、を読んでいて、登場した概念である。
簡単に今時点でインプットできたことを書けば、世俗諦とは、言葉で説明できる、概念化可能な世界のことであり、勝義諦は、言葉で説明できず、概念化もできない世界(涅槃とか悟り)のこと。
こういった対比にしてしまうと、単純に、「ああ、じゃあ、真理的な、勝義諦を目指していきましょうって話しなんだね、はいはい」となってしまいがちであるが、ポイントはそこにはない。
どっちも大事だよ、ということを、1世紀~2世紀ぐらいに活躍されたナーガールジュナさんが言うのである。
いやむしろ、
・概念的認識によらなければ、究極的な真実(空性)は認識できない
という意味でもちいているのだ、という解説をされている方もいらっしゃる。
補足、否蛇足
短く書こうという実践でもあるので、取りあえずこの記事はここまで。これから先は、その概念化できないこと、言葉にできないこと、というのが、どういったものなのか、もう少し深いインプットをしていきたいと思う。(ああ、どうしても、こういったことを求め始めると、いわゆる怪しげな宗教にはまっていくのではないか、という疑念が発生する。ただ、僕がキリスト教をどうしても深く調べようと思えない理由が、その「絶対的帰依」によるものだという点において、無批判な信仰という状態には、恐らくなれないと思う。一方で、宗教にはまる人とは、ある程度知識があってしかし主体性を見いだせない人だ、という分析などもあり、ありゃーやばいんちゃうか、と思ったりもするが、「他者」から学ぶ、ということを行わない(行えない)故に、その安全性は確保されていると思われる。これが、まさしく孤独、という感覚なのであり、同時に、他者への懐疑という哀しき性質なのであるけれども……おっとと、短く書こうという気持ちを排すると、瞬く間に無駄な文量が増えていく)
概念化できないことって、思考からの逃げ、にも思えてしまうけれども、ただ、人は言葉によってしか考えることができない、という意味において、その言葉を排した世界というのを想定するということは、同時に可能になるのである。
ここに、7万年前の認知革命で生じた虚構の言語、の物凄い可能性が秘められているのだな、と実感レベルで思わざるをえない。
いやぁ、だってですね、虚構、として、神話とか、創造上の物語を語れるってだけで、人間(サピエンス)が用いる言語のすごさは分かるけれども、更には、「言外のこと」まで想像できてしまうのだから、やっぱり、(虚構の)言葉の力ってすごいよね。
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