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創作進捗グラフツールなるもの
2019/09/23 20:12 | Comments(3) | 創作について
今日の一言「推測や抽象的思考力が人間たる証」

前書き

 はは、自分の思考力のなさに呆れるものである。

>グラフが使えなくなったことでもあるし、しばらく、というか9月30日まで、アギュギテムノルマはお休みにする。俺はヘヴンスマイルどもを殺(ト)ることに専念する

 簡単に書けば、ファッキンなガレリアハイパフォーマンスゲーミングPCにはデフォルトでオフィスが入っていないために、自分が作成しとある方へ(というよりも公開しているが)提供した創作進捗グラフツールなるものも使えなくなったのであった。

 当たり前過ぎる!!

仕様検討

 反省した僕は少し仕様検討に入るのであった。

1.PHP(WEBサイト)で実装できないか
→できる。レーダーチャート的なグラフのライブラリは既に使ったことあるし、棒グラフの方が簡単そう

2.でも入力データとかどうするの?
→難題。割とマジでやるなら新規データベースが必要そう。
→いや、クッキー(ブラウザ側に保存する方法)ではどうか。
 →いいかも。取り敢えず一週間分で試作してみるか。

3.文字数の差分はどうやって求めるの?
→前述クッキーで、差分文字数と、前日文字数(トータル)を管理して、当日分の文字数を入力することで求める仕組みはどうか。
 →いいかも。ただ、とりあえず作ってみないと課題のイメージわかない。

4.グラフの保存はどうするの?
→こればっかしはブラウザに表示させて、右クリックで保存してもらうしかないな。

あとがき

(かっこ書きである。おまえ、そんなことしている暇あったらシロガネ感想――まぁ待ちたまえ、上のようなのは割と楽しいのである。日曜大工的な奴だ。DIYだ。こういうのは好きなんだ。そして割と本気でやれば1日ぐらいでできそうな見込みがある。同じ「考える」のでも、ブログ書くのと、感想書くのと、こういう作業的な「考える」とは違うのである。だから、しばし、そうさな……8時間ぐらい使うことをお許し願いたい)

追記

(約7時間後……)
 そして、とりあえずベータ版できた!

(以下アクセスコード)
https://www.fya.jp/~sousakupower/mojigraph.php


1 アクセスする
「作品名」
「昨日までの文字数」
「今日までの文字数」を入力。
ここで入力する文字数は、総トータルの文字数。





2 登録ボタンを押す
登録しましたメッセージが出たら多分成功。
「グラフ表示」ボタンを押す。



3 グラフが表示される
一日分だけだと不格好だけど、ちょっとまって。文字数登録ボタンを押してみる。



4 文字数登録の下の方のデータ修正をする
修正する日付と、文字数を入力。
ここでの文字数は、グラフに表示させたい文字数(差分)。
入力したら「修正」ボタンを押す。


5 グラフが追加される



 以上、こんな感じ。
 え、過去のデータ!!!??

 ……。
 ……。
 ……。

 エクセル買いましょう!!!(遠い目)


(かっこ書きである。ともかく、仕様検討含む目標8時間を達成できて満足。今日分は大丈夫だけれども、しばらく使ってみて大丈夫か確認要だな。問題なさそうだったら、ホムペにも創作支援ってことでリンク掲載紹介しようかなとも思う。いやあしかし、集中したな。コーヒー飲むのとトイレ以外は余計な事せずキーを叩いてたな。――なんか、疲労はあるけれども、仕事よりは間違いなく楽しいな……ああ、明日からまた仕事か……)

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シロガネ⇔ストラグル
2019/07/24 19:40 | Comments(0) | 創作について
今日の一言「レビューのための下書きだ」

前書き

 みなさん、『シロガネ⇔ストラグル』という作品をご存じだろうか。
 オークやらエルフやらの異世界に、これまた全く異なる時空間で存在する異世界の英雄が、なんと3人も召喚される。そして、それぞれの世界における英雄たる力をメタ的に駆使し、エルフの王国を救うためにドッタンギッタンする作品だ。
 ご存じない方は、面白いから、すぐに読んだほうが良い。

 ここから読める


 しかし、手放しでお勧めできるかといったときに、もう少々、改善の余地があるのではないかと思うがゆえにこの記事を書き起こす。
 大作長編なことと、遅読過ぎて、いまだに最後まで読めていないため、ここで書くことが的を射ているかどうか分からない。そもそも、批評などというものに正解などないと思うが、そういう次元に至ることすらできていない(自分の感覚が定まっていない)ので、あくまでも下書きということにしたい。

前提として掴みはバッチリ

 上に書いた、なんともざっくりな説明のとおりであるが、何となく興味がそそられるだろう。
 しかし同時に思うはずだ。
「メタ、というが、複数の世界観を同時に一つの作品で取り扱って、整合性はとれるのか(世界観は崩壊しないか)」
 と。
 それは全く心配ない。
 5話ぐらいまで読めば、その作者の技量がすぐに分かると思う。その圧倒的筆力、表現力によって、これから始まるであろう壮大な物語を感じずにはいられないはずだ。

一話の構成が気になる

 しかし、気になった点がある。
 これは、作品自体というよりも、投稿するという媒体にゆえんする気がするため、書くべきか悩んでいた。

 しかし、悩んでも仕方がないし、そもそも、「激辛批評」という、もうそれは率直な、忌憚ない意見が必要である作品であれば、書くべきだろうと思った。

 前置きが長いが、要は、「一話」の構成についてである。


 そもそも、紙媒体の小説において、「1話」というのはあまり認識されないかもしれない。
 ただ、小説であっても「目次」はあるし、それにサブタイトル(小見出し)がついているケースは多いだろう。

 大体、ネットで投稿されている作品の1話は、諸説あるんだろうが、だいたい3000字ぐらいがちょうどよいとされる(要出典)

 だが、僕はそれほど文字数に拘る必要はないと思う。
 思うが、「1話」は、読者に「クリックさせる」ものであることを意識する必要がある。これは紙媒体と異なる点だと思う。(だから書くべきか悩んだ。悩んだけど、紙でも、「第1章終わり……」ってなったら、じゃあ明日また読もうかな、って思ったりしたりするから、無関係でもない気がする)


 回りくどい。
 要は言いたいのは、1話で、起承転結が完結してあるべきだ、ということだ。

 言うは易し。いや、ここで起承転結という表現が正しいか分からないので、少し説得力をもたせるために書籍(『工学的ストーリー創作入門』)を引用すれば、

 P.266にて、「カット・アンド・スラスト・テクニック」なるものが提示されている。
 ネーミングは正直、読み返すまで忘れていたが、「シーンか章の最終段落か、最後の一行で何か新しいこと、意外で魅力的な何かを提示して驚かせる。それがシーンの結論になるかどうかは場合によるが「どういう意味で、何が起きるか」に的が絞られると読者は続きを読まずにいられない」」とのことである。

 僕が書いている「1話」と、上の話がリンクするかどうかはもう一度よく考えてみる必要があるが、十分に「次に何が起きるか」を呼び起こさせられていない話があると思われる。

 通信装置か。間もなくここに敵Aがやってくる。
 だが、狙いは何だ? 玉座だと? そこに行ってどうするつもりだ?
 まぁ、いずれにせよ。
「……こちらの勝ち、であるな。」
「なに?」(敵B)
「時間をかけすぎである。本当に警戒すべきは小生ではないのだよ。」
 口角を釣り上げ、優美な笑みを見せる主人公C。
《なに……馬鹿な!》
 竜の細工より、敵Aの狼狽が伝わってきた。
「色は一つ。混じるものなし」話の、最後のシーンである。
 このシーンの前に、敵Bなる存在が、これまで優勢であった主人公Cに対して対抗策を講じ、主人公Cは、それに対して有効な手段を見いだせずにいる。要するにピンチに陥ったわけだ。
 それに対して、敵Bへの「こちらの勝ち、であるな」のセリフであって、さらに敵Aの狼狽でシーンが終わる。

 何が起きたのか、読者として気にならないわけはない。

 一方で、物語が進んでいるのか、何か変化があるのか、どういう意味なのかが、よく伝わってこない話もあるため、そのあたりを、他の話にまとめたり、カットしたり、別の個所に移動したり、工夫ができるのではないか、ということである。といったところで時間切れ。

後書き

(かっこ書きである。「もっと面白くなる気がする」と思う。だから、ちゃんと書きたいと思った。しかし、「時間をかければ満足のいくものができる」という思考は、人生という有限をもつ僕らにとって、有害でしかないのではないか。まぁそれはともかく、早く最後まで読めっちゅー話である。――補足、「絢爛道化芝居」まで読む。面白い)

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人類ネットワーク・システム(眠れぬ夜に書くこと)
2019/05/28 19:00 | Comments(5) | 創作について
今日の一言「眠れなかった」「午前二時」

前書き

 午前二時に踏み切りに望遠鏡を担いでいこうかと思った。

 眠れない。
 昼夜逆転か。

 日中帯の生産性が落ちることだろう。まずいな。栄養ドリンクで何とかバランスを取ろうか。

 正義と、死について。

正義について

 人を殺してはいけない、それは何故なのか。
 たくさんの答えがあるだろうが、その一つは、人類という種の存続に適切な行為ではないからだ。
 社会のルールだからだ、といってもいい。
 要するに、人を殺すことが許容される社会は、いつ殺されるか分からないということだ。

「何故だと? 殺し、奪うことが人間の性(さが)だからだ。貴様らこそ何故、人として生まれ、殺さない、奪わない!」

 と悪役なら言うだろう。そういう社会において、「生産」が重要視されないことは明白だろう。

 作っても、育てても、それを奪われる可能性が高いのならば、暴力、武力を蓄える方がよほど得になるだろう。


 そうした社会が、人類の発展に適していないとされているから、人を殺してはいけないのである。――厳密にいえば、人を殺すことにルールがあるのである。


 そのルールの源が、正義といわれる。

死について

 我々は皆死ぬ。

 遅いか、早いかだけだ。

 限りある人生の中で何をなすのか。何もなさないのか。

 望んで生まれたわけではないかもしれない。
 それでも、生得的に、我々は、生きることに執着するようにできている。

死がない世界

 脳の機能をすべてマッピングできて、思考も感情も、記憶も、すべてが電子データとしてストックすることができるようになったら。

 僕らは、死という概念を超越するかもしれない。

 肉体は時間経過とともに衰えていく。
 頭、脳も同じく衰えていく。

 アルツハイマーなど、脳の機能が萎縮すれば、いずれ記憶のアクセスができなくなり、自己は消える。
 自己とは、記憶による、自我同一性によって立ち現れるものだからだ。

 その衰えは、記憶を、電子データとして扱えるようになれば、止めることができる。サンプリング精度によっては、本来保持していた情報の欠落があるかもしれない。
 しかし、有意味性を担保できる程度のサンプリングができれば、十分な意思疎通は可能となるだろう。音、は、周波数で表現されるが、人間の耳がとらえられる低周波・高周波の範囲外は、例え取得しなくても、結局聞こえる音は同一になるのだ。

記憶と思考

 自我同一性は、記憶によるところだ。

 心理学的に、自己啓発的に、スピリチュアル的に、「いやなことは忘れましょう」とか「気にしすぎないようにしましょう」という方針は、正しくあろうとも、しかし、記憶の制御は、精神論でなせるものでもない。

 記憶。
 記憶があるから、僕は、僕として存在を認識できるのだ。

 しかし、その記憶にアクセスする主体は何なのか。

 それが思考――ないしは、感情である。

 記憶をすべて、脳の海馬を含む大脳辺縁系から取り出せたとして、それだけでは、ただのデータに過ぎない。
 思考や、感情といった機能を、どのように移行することができるのか。

 桶の中の脳の思考実験。脳だけを取り出して、身体フィードバックがない状態で、そこに思考は生じるのか。

 自己とは、かくも不思議な現象なのである。

脳機能のすべてを取り出せたとして

 故に、仮定は、思考も感情も記憶も、すべて脳から取り出せるようになったとして、それが、人間が死を超越した瞬間になるだろう。

 データは、不死である。

 ストレージ、データの保存機構が壊れない限り、永遠に残る。
 そして、データの特徴は、バックアップ(データの移行)ができることだ。

 技術的に可能であっても、思考が生じる仮定を保存するのに、現在の技術や物資では到底なしえないほど、カオスなデータ容量が必要であれば、それは不可能ということになる。
 そのため、データ容量は、現実的に扱える容量であると仮定する。

 そうしたとき、同一の思考や記憶をもつ人間を、コピーすることができるということになる。

 もちろん、環境因子によって、同一の筐体と同一の中身(脳データ)をもつ人間であっても、その反応は異なることだろう。
 自然(大地とか森林とかそういう意味の自然ではなく、すべての起きうること。森羅万象)はカオスなのである。自然を保存することはできない。

 コピーが可能であれば、人の多様性は必要だろうか。

 ましてや、人は今、不死となった。

 リスクがあるとすれば、同一の機構をもつ脳データを破壊するマルウェア(コンピュータウイルス)であろう。

ディストピアかユートピアか

 エネルギーの確保が優先される。
 電子データを機能させるには、電力が必要だ。
 太陽光、地熱、風力、原子力、しかしそれらは、すべてオートメーション化されている。
 人間はすべて、巨大な電子演算機の中に入っている。

 クラウド化されネットワークによって繋がったデータベースは、もはやその特定の場所をもたない。必要に応じ、必要な量の思考が巨大なネットワークの中で行きかうのである。

 その人類ネットワーク・システムの外的な、物理的な維持管理は、ロボットたちによって行われる。アーティフィシャル・インテリジェンスによって、新人類の制御もほとんど不要だが、イレギュラーが発生したときのために、新人類の思考によって、外部のインタフェースとして作業を行うことも可能になっている。


 データ人類は、死ぬことがないため、その技術が発達してから、ますます増加していく。
 旧来の土に還る思想をもつものや、既に脳機能に異常をきたしたもの以外は、自らの肉体を捨てて、人類ネットワークシステムの中に入っていった。


 エネルギーは、電力だけである。
 水も、食料も必要ない。
 肉体がないのだから当然である。

 インフラストラクチャーの優先度は、電力の確保が最優先となる。
 だが、既存の交通、商業、工業などの必要性が低下するにつれて、電力の確保はそれほど難しいものでもなかった。

子どもたちは

 少子化によって、既に、旧人類の生産人口は、ロボットを大きく下回っている。

 それでも、子供たちは、肉体を捨てることはできない。
 人類ネットワークシステムに、成長はないのだ。

 子供たちの世話や教育は、すべてロボットたちが行っている。大人たちはみな、人類ネットワークシステムの中に入っているのだ。

 人格の形成が十分になされたとされる20歳程度で、人は人類ネットワークシステムの中に入るようになる。
 これまでは、体が限界になったころ、死の直前に人類ネットワークに入ることが多かった。
 時代が変わることで、肉体が十分に使える状態であったとしても、人類ネットワークに入ることが増える。何せ、もはや、肉体をもつ人類は不要なのだ。むしろ、資源を大量に消費することから、コストパフォーマンスが悪い。

 脳機能マッピングが完全になされた後に、肉体は、目覚めることなく破棄される。

記憶の連続性

 目が覚める。
 そこは、仮想世界が広がる。これまでの、荒廃しだした世界とは異なる、洗練され美しい世界。

 すべては、脳機能に電気信号によって生じさせるバーチャルリアリティであるが、しかし、すでに肉体がない新人類にとっては、その世界こそが真実の世界である。

 肉体は、破棄されなければならない。
 さもなければ、「死」の恐怖に発狂してしまうだろう。

 このネットワークの世界には、死は存在しない。永遠に、自由に、そして幸せに生きることができるのだ。
 死もなければ、老いもない。

 永遠の世界。理想郷。ユートピア。

 新人類は、原人類の数をはるかに超越した。990億人。数年で、1000億を超えるだろう。
 ストレージ容量は大丈夫だろうか。しかし、ここ数十年においては、新人類の増加も格段に緩やかになっている。新人類へ移行する原人類が、もはやほとんど存在しなくなったのである。

 最後の原人類がいなくなったとき、人類という種の進化は完了するのだ。

殺人

 すべてが満ち足りて、すべての娯楽が提供される世界において、犯罪など発生しない。
 スリルを味わいたければ、それを感じられる信号を受け取ればいい。
 脳に与えるダイレクトな信号は、現実感を超越する。たいていは、その制御をおこなわなければいけない。強度を高めすぎると、「自己」「精神」は破損してしまう。

 だが、破損したところで、その多くはバックアップによって保持されている。

 故に、完全な殺人を行うためには、その「自己」に対するすべてのバックアップを破壊するということが必要だ。
 しかし、自己のセキュリティ区画は、分散され、さらに厳重な機密として扱われているため、実効性は限りなく低い。

 人が殺し、殺されるという、原人類の野蛮な習性は完全についえたのだ。ここに正義が完成した。


(かっこ書きである。あー、なんか、眠れずに、布団の中でもぞもぞしながら考えていたら、余計に眠れなかったが、2時間ぐらいしか布団に入っていないが、もういっそのことと思い、書き出した。物資に恵まれていれば、人は争わないのか、といえば、きっとそんなことはない。刺激も必要なのだ。セックスの快感や、生死をやり取りするスリルなど。だが、そのスリルなどの感覚も、すべて脳に対して、肉体の現実感以上に与えることができれば、人は人と争う理由がなくなる。永遠を与えられた人類は、おそらく、退屈しだすだろう。だが、エンターテイメントは、それこそ、永遠の時間と、無限のリソース(過去の知識や技術に、だれでもダイレクトにアクセスできる)によって、いくらでも生み出されるのだ。「死」という概念も超越した今、誰もが生死を分けた戦いを行うこともできる。たとえ、その刺激によってデータが破損したとしても(死)、バックアップによって意識をよみがえらせることができるのだ。それは、眠りについて、夢の中で死んで、そして冷や汗でびっしょりになりながら目が覚めるのと同じだ。データが破損するぎりぎりの状態を、バックアップとして再起動するのだ。――だが、そこに、記憶の連続性はあるといえるのか。いや記憶は連続しているといえるだろう。だが、そこに生じる、自己は、同一なのだろうか。ここまでは創造上の話だが、僕らも、夜に寝て、目が覚めた時、はたして、それは同一の意識なのだろうか。昨日の自分は死に、そして、まったく同じ記憶データにアクセスできる、まったく新しい自分が生じているのではないか。つまり、眠りとは、「自己の死」なのではないか、と。そんなことを考えていると、わくわくもするし、怖くもなる。そんな感じの物語を描きたいのだけど、設定と、ストーリーとはまた全然違うので難しい。まず、新人類にスポットするのか、旧人類にスポットするのか。既存の人類ネットワークシステムを肯定するのか、否定するのか。とりあえず完璧なシステムなのだとしたら、もはや永遠に問題なく存続していくのだろうから、何の物語にもならない。とか思ったら、物語と設定の違いは、「事件性」なのかとも思った)

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ストーリーの6つのコア要素
2019/02/24 21:39 | Comments(0) | 創作について
今日の一言「定期更新だ」「土曜日じゃなかったの?」

前書き

 なんか、いいこと書いてありそうなブログさんを見つけても、それが、「どこが君の意見で、どこが引用なんだい?」というのが、一行目で分からないと、ちょっと残念感が漂う。
 あと、文字が、ブラウザの100%拡大率で、12ポンド? 以上ないと、見づらい。あと、文字の間隔が、せめて、0.5文字分ぐらいは空いていて欲しい。もしくは、適切な段落分けをして欲しい。

 と、他者のブログにケチをつけられるほどのことを書けるわけでもないが、大事なことだと思う。いや、字間が詰まっていても、1画面に収まるぐらいなら「読もう」という気持ちにもなるんだけどね。


 あーその、なんだ、あと、やっぱり、ブログという形態をもつならば、その人はどんな人なのかという前情報(バックストーリー)は欲しい。それは、もちろん、男女という別がどうこうという属性的なことではない。そのブログがもつ「テーマ性」に関連する情報は必要だということだ。
 例えば、「婚活」のブログだとしたときに、それは、男の書き手なのか、女なのかは重要情報だ。一方、アウトドアに関するブログだったら、男女はさほど重要ではない。逆に、「女性がアウトドアを始める際の注意点!」とかって内容なら、書き手がどっちだろうかというのはやや重要性がある――が、さほど重要ではあるまい。女性に対してのエクササイズのコーチが、男性であっても構わないように。


 さて、今回の記事だが、前回の臨時記事を受けて少し何か書こうかと思う。
 前回の記事は、ぼく個人的な「転機」が訪れそうな予感、前触れ的な奴と、体調がすこぶるよくないということであった。

音読目標達成

『工学的ストーリー創作入門』の音読が終わった。約314ページ。
 時間にして、5時間13分47秒。

 後半は、喉を傷めながらでつらかったが、何とか、当初目標の2月中というのは達成だ。ぱちぱち、拍手。

 ちょうど、2月1日の記事から開始したことが分かる。
 なんかいいね、こういう使い方をすると、「ブログを活用している」感があってよい。

 当初は2月末まで、というところだったので、予定より4日ぐらいは早く終わったことになる。
 振り返ると、やはり、前半はハイペースで、後半のモチベーションの下がり具合が厳しかった。平日はやはり10分~1時間使えたらよいほうだった。メインは土日で進めたが、土日が使えない場合もあって、「間に合わんじゃないか」と思ったりもしたが、今週で頑張れた。


 音読は、脳の使用部位も多く活性化しやすく、かつ録音されたものを通勤通学で聞き返すこともでき、かつ目に見える勉強した時間が記録されるという良いことが多い。あと、誰にでも簡単に取り組めるし、難しい問題を考えて結局ノートが白紙とか、暗記した割に次の日にたくさん忘れていてモチベーションが下がったりとかいったこともないので、非常に有効な手段だ。付加要素として、意識すれば発声練習や、プレゼン力向上にもなる。ダイエットにもなるかもしれない。

 デメリットは、家で、一人でいるときしかできないことと、意外に体力と喉を使うことだ。誰にでも簡単にできるが、長時間やるとなると、ある程度慣れが必要だ。初めのうちは5分といわずに、1分でもいいから、毎日実践するようにして、体を慣れさせるといい。

 そして、今回の記事は、一冊読み終えて、どれだけアウトプットできるか試してみようと思う。

6つのコア要素

 まず、ストーリーとは何か。ストーリーと、物語は同義だ。
 物語とは何か。人生もまた、一つの大きな物語といえるけれども、ここでは、フィクションのこと、創作物のことに限定しようか。

 前掲書は、その物語を作るにあたって大切なことが6つある――そういう本である。


 僕のサイトでも、感想や批評をするときに、6つの要素を指標にしている。これは、その作品の要素のバランスを考えるうえで役立つからだ。
 僕のサイトでは、
・ストーリー
・人物描写
・キャラクター
・風景描写
・ウィット
・感動
・リアリティ
 を指標にしている――あれやべぇ、6つじゃなくて7つだった(にがわらい)。

 対して『工学的ストーリー創作入門』においては、
・コンセプト
・人物
・テーマ
・構成
・シーンの展開
・文体
 の6つである。

 言葉が異なっているが、一致している部分もあるので少し整理する。エクセルであれば、表にしたいところだが、文章ですまない。

【本】――【俺】
・コンセプト ――感動・リアリティ
・人物    ――人物描写・キャラクター
・テーマ   ――ウィット
・構成    ――ストーリー・リアリティ
・シーンの展開――ストーリー
・文体    ――人物描写・風景描写

 こんな感じだ。つまり、重複しているが、一応、網羅性はある状態。

 まず、僕が反省すべきは、「ストーリー」という言葉を、僕は、「構成」という意味で使っていたことである。「物語の流れ」という意味で使っていた。
 一方で、前掲書では、ストーリーはあくまで、物語全体を示す用語としてあって、構成は別に「構成」という表現をしている。

 さらに特筆すべきは、「構成」をさらに、「シーンの展開」として階層化している点である。
 いわゆる、「起承転結」というのは、あくまで「構成」レベル――「プロット」「骨格」ともいわれる段階――であり、それはあくまで建造物の「設計図」状態だ。
 その設計図から、実際の建物を資材を用いて建てていくのが、「シーン」であり、「文体」だということだ。

パンツァー(いきなり書く人)はダメ

 終始一貫して述べられているのは、パンツァーという、戦車かと思ったが、「勢いで書いちゃう人」のことをそういうとのことだが、それはよくないということであった。
 しかしすぐさま書いておけば、絶対ダメというわけでもなければ、プロでその方法で書いている人もいるということだ。

 ただ、パンツァーは熟練工の失われし技術のようであり、素人がやろうとしても、まず物語は完成しないのだということだ。理由はいろいろ述べられていて、僕は納得した。

 対して、パンツァーでないやり方とは、6つの要素をしっかりと考えたうえで書き始める方法だということだ。
 その、6つがないままに書き始めてはいけない。そうすると、途中で大幅に書き直す羽目になったり、そもそも完結に至らなくなったりするということだ。界隈でいわれるエターナルってやつになるのだ。

 もう少し具体的に書けば、6つのうち、
・コンセプト
・人物
・テーマ
・構成
 これははっきりさせておいた方がいいということだった。
 僕はさらに、「テーマ」は少し優先度を下げてもいいかなと思った。というのは、「売れる」作品には確かに「テーマ」は必要だろうが、趣味的要素が高い場合――と書くと失言を免れないが、要は「俺が書きたい物語を書きたいのだ」という目的を第一主眼にする場合は、あえてテーマを優先させなくてもいいだろうと思ったからだ。逆にその、「俺が表現したいんだ!」という思いがそのままテーマかもしれない。

 それではさっそく、その要素一つずつについて、書いてあったことと僕が思ったことを書いていきたい……といった時点で、すでに3000字に到達しようとしており、やや疲れてきた。

 まぁそのなんだ、今書いてきたことは、ほぼ一か月前に読んだ冒頭の方の内容で、すでに忘却の彼方かと思っていたが、意外に覚えていることは分かった。これが音読(かつ、リーディング(ウォークマンでの流し聞き))の効果だともいえる。そんな、「覚えるぞっ!!」という意気込みなくて、仕事から帰ってきてイヤイヤ、「あーめんどくせー」と思いながらやっても、半分寝ながら聞いていたとしても、ある程度残るものがあるのである。この、モチベーションに反した効果があるという意味で、音読は中々いい方法なのだ。見て、聞いて、書いて、発声して、と、インプットもアウトプットも総動員することが大事なのだ。――と、本の内容よりも音読の効果をうたっている記事になってしまった。


(かっこ書きである。役に立つかもコーナーはお休みした。ストーリーは、コンセプト、人物、テーマ、構成、シーン展開、文体、の6つの要素で出来上がっている、ということがお役立ちポイントとしておこう。まぁその、アウトラインをきめてから書くということを毛嫌いする人も多いだろう。創作なのに形式ばっていいのか! と。かくいう僕も、このブログを、起承転結しっかり型に当てはめて書きなさい、その方が多くの方に読んでもらえて成功しますよ、と言われたら、「うっせーばーかばーか」と低脳になるだろう。ただ、知識として知っておいて損はないと思ったし、自由に書きつつ、その理想形に近づけていくことを念頭においてもいいかもしれない。何より、編集者的な人たちがどういった基準をもっているのか知ることは、出版を目指すにあたって重要であることは間違いなかろう。編集者という仕事が、いったいどういった評価がなされているか僕は知る由はないが、しかし、「仕事」とするのであれば、必ず「効率」が付きまとう。僕は、「効率を追求する」という言葉に生理的嫌悪があるが、しかし、本当の意味での効率は当然追求すべきだと思う。表面的な知識や技術を継承しただけで現場業務を回して、人員削減しようという方策は、短期的には効率的だろうが、リスクに弱い。それは本当の効率化なのだろうか。効率と「ゆとり」は、両輪として重要だと思う。まぁその、ゆとりと「さぼり」の境界もあいまいだし、難しい。そう、難しいのだ。難しいからこそ、「6つの要素」とか、まずは基準が必要だ。その基準がつまらないものと思うかもしれない。その感覚は重要だ。だが、つまらないから、「なくてもいい」ものではない。つまらないと思ったら、別の軸――仮説を立てなければならない。それは結構労力だ、だが、同時に楽しいことでもある。楽しいと思えない人は、前例の基準を、ひたむきに守ろうとするだろう。それはそれで、ある程度成功する。なにせ、先人が長らく考え作り出した基準なのだから、エッセンスがつまっている。だが、だからといって、無批判に、自己の思考なくその基準を守るだけであれば、いずれ頽廃する。現状維持とは、漸近的な成長のことであるということに気づかなければいけない。――あーなんか、偉そうなこと書いたけど、カッコ書き内だから許されるはずだ(こんきょなし)。でも、なんかまさに今思いついた「現状維持とは漸近的な成長である」って言葉は、なんか自画自賛したい。けど、明日読んだら赤面する気もする。おもしろき、いとおもしろき)


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魔法について
2018/06/25 17:00 | Comments(4) | 創作について
また、文脈無視である。シュタインズゲート・ゼロ、結局全然やれてないしな!

電磁気学について、学びたいと思って、本など読んでいたのも、もう何年も前になってしまった。

つまり、魔法、という言葉を使いたくなかったけれども、ファンタジーを書きたかったのである。
その点、無職転生は、ハーレム要素があるから問題とはいえ、その魔法という論理体系が序盤から整理されているなぁと感じて、読み進めることができた作品であった、、、とか上から目線で書けるだけの創作力もなければ、読解力も、知識もないのだけれども、まぁ好きなように書く。



そもそも、電気、天災の雷でもいいが、これは、存在自体魔法といってよい。

何せ、得たいのしれないものなのだから。

それを、科学という名前がついているが、電磁気学として、系統立てて整理して、その発生の機序を操って、インプットとアウトプットを制御できるようになったとしたら、それは魔術といってよいではないか。

科学者は、とんでもない、というだろう。学問と魔法を一緒にするな! と。
しかし、素人にとって、分子の運動が熱なのだといわれたり、光とは光の粒の波の運動だと言われてもやっぱりピンとこない。

電車が何故動くのか。パソコンで文書を作れるのは何故なのか。
突き詰めればそれなりに答えはわかる。パソコンの文字は、文字コードといわれる体系で決められた数字やアルファベットの組み合わせで表現されており、それらはビットと呼ばれる1か0の信号の集合体である。1か0というのは、電気信号のオンオフにより表現される。だから、その1と0の両方を保持できる量子コンピューターってのはものすごい処理能力をもつ、とか。

とはいえ、パソコンを使うのに、そんな知識は必要ない。
アルファベットと、ローマ字の知識と、キーボードの打ち方、パソコンの電源の位置とアプリケーションの起動が分かってれば、まぁ要はすませられる。



昔、ファンタジー世界の魔法も、同様という設定で考えてみた。要するに、術者としては、細かい魔法の体系などはよくわかっていないけれども、身体や思考をどのようにすれば、どういった結果……すなわち、炎や雷を発生させられるということは、分かっている、ということである。

こういった、設定であれば、まぁ細かい体系や知識は不要である……のだけれども、そうするとやっぱり、表現としてつまらなくなるのである。

ので、これも一年も前になりそうだが、イラストで物理法則を描く本を買って、流し読みしてまぁ面白かったけど、しっかり読めていない。



脈絡なく続ける。
雷って、やっぱり、電流であると考えられる。
雷撃となれば、凄まじい電流を生じさせ、敵を貫く魔法だろう。


そうしたとき、電流とは何かを考える。
電流とは、電子の動きである。
伝導体、電子が流れることができる物体を通じた、電子の移動の量が、電流である。

陰極線の実験とか、中学とかであった気がするが、真空でも、電子が流れる。

その、電子を操るのが、雷魔法の使い手である。

んじゃあ、電子ってなんぞ?

電子って、物体を構成する素粒子である。
有機物の、炭素とか酸素とかにも電子は含まれる。ので、僕らの体にも電子が含まれている。
まぁ、脳の体を動かす信号も電気だというから、電子で体か構成されているというのもそれほど不思議ではないのかもしれない。けれども、僕はまぁまぁ違和感があるけれど。

とはいえ、電子という目に見えない存在も、ありふれている物質なのだ。珍しくはない。

けれども。
だからといって、それらを操るってのは、一体どうしたらいいのか?
それが、電磁気学である、と、僕は勝手に思ってる。


電気、電子を考えるにあたって大事なのは、



という考え方だといわれる。
僕はどうにも、高校物理のときはよくわからなかったけれども、今のところ、向きと、移動スピード(加速度)が決まる場所、という理解である。

その、場、というのが、日常用語でもあるので分かりづらいが、専門用語として考えた方がよいのかもしれない。

とにかく、場という考え方が必要なのは、目に見えない大量の物質を扱うからだ。
電子なんて、さっき書いた通りありふれているから、一個二個と数えていてはきりがない。
その一個よりも、他の強い大きな一個によって、全く別の運動になるかもしれない。

だから、アンペアとかボルトとか、あんまし実感がわかない単位が登場する。これらは、そういうもの、として覚えないと勉強が進まない、でも、あんまし納得したり、イメージできないまま、数式だけ、公式だけ覚える勉強は苦痛である。


話がそれた。
場の、話。

恐らく、雷魔法の術者は、電子の運動を支配する場、を操ることができるのである。

電子は、マイナスの電荷をもち、プラスの方向に流れる。
雷魔法で敵を貫くのであれば、ブラックホールのように、強力なプラスの電荷を空間に生じさせればよい。そのプラスの電荷が生じる場所に、大量の電子が流れ込み、激しい熱運動をともない、敵の身体を構成する電子をも巻き込み、再生不能なほど損傷を与えるのだ!!
科学的には、電位(ボルト)の差を作り出すといえる。電位差魔法だ。


脇道にそれるが、電気が流れるところに磁場が生じる。というの提唱したのがマクスウェルで、電気学と磁気学があわさって、電磁気学といわれている。
ということは、電子の制御に重きをおいて鍛練を積んできた魔術師に対抗して、磁場を生じさせることでレジスト(打ち消す)したりする展開も面白そうだ。



しかしそもそも、術者は、どうやってその場なるものを、制御できるのか。
自分とは離れた空間に適切に作り出せないと、結局自爆しそうである。

空気のように目に見えないもの、といったところで、真空以外であれば、それは、大気が存在し、大気とは気体、ガスの集まりである。
ファンタジーでは、マナとか、魔素とか、超常物質が存在したりする。
そういった物質を媒介に、魔法という現象を生じさせる……といった説明を読んだりする。

しかし、それでは説明になっていない、と、思う。
超常現象を、超常物質の導入で説明しては、それは同語反復、トートロジーではなかろうか。
考えなければならないのは、その術者と、世界法則の関係性である。
何故その術者は、世界に対してアクセスできるのか。干渉できるのか。

通常は、物理的身体によって干渉する。
しかし今は、魔法という、離れた場所においても、直接触れなくても事象を起こす自体を考察せねばならないのだ。



しかし、ここでそもそも、最初の電気や磁気というのは、直接物質同士が触れなくても、発生している事象ではないか。
例えば、磁石同士を近づけると、触れていないのに反発しあったりする。

文脈無視だが、もっといえば、言語。
空気の振動によって、音という現象を生じさせ、他者の感覚器官である耳にはいることにより、新たな思考や行動を引き起こさせる。

そう、言語、言葉というのも、遠隔作用する魔法の一種なのではないだろうか。


……とかとりとめなく書いていたら時間切れ。






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